最終更新日 2025-10-03

日本橋魚市開設(1603)

慶長8年、家康は江戸に日本橋魚市を開設。戦国期の経験から食料安定供給を重視し、摂津佃村漁民との戦略的関係を基盤とした。この特権的市場は江戸の発展と食文化を育んだ。
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日本橋魚市開設(1603年)の深層 ―戦国期の遺制から江戸の台所へ―

序章:慶長八年、日本橋の黎明

慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた。長きにわたる戦国の世が終わりを告げ、新たな時代の胎動が日本全土を包み込んでいたこの年、武蔵国豊島郡江戸の一角では、壮大な都市建設が急ピッチで進められていた。その中心に据えられたのが、新たに架橋されたばかりの「日本橋」である。この木造の橋は、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道という五つの主要街道の起点と定められ、物理的にも象徴的にも、日本の新たな中心となる運命を背負っていた 1

この日本橋の北詰、本小田原町・本船町の一画に、やがて「江戸の台所」と称され、三百年にわたり巨大都市の食を支え続けることになる魚市場が産声を上げた。一般に「日本橋魚市開設」として知られるこの出来事は、単なる一商業施設の誕生として片付けられるべき事象ではない。それは、数十年にわたる戦乱の時代が終わり、新たな秩序と巨大都市が形成されていく過程で、最も重要な国家的課題の一つであった「食料の安定供給」に対する、徳川家康の壮大な回答であった。そして、その起源を深く掘り下げるとき、我々は戦国時代の過酷な経験の中で結ばれた、極めて強固な信頼と実利の絆に行き着くのである。

日本橋魚市の開設は、平和な時代の経済活動の始まりであると同時に、戦国時代の論功行賞と戦略的人材配置の最終形態でもあった。その設計思想には、戦国期の実利と信頼に基づく同盟関係という論理が色濃く反映されている。この地に市場を形成し、その運営を特定の漁民集団に独占的に委ねたという事実は、彼らが単なる商人ではなく、家康が最も信頼した戦略的パートナーであったことを物語っている。本報告書は、「戦国時代」という視座からこの歴史的出来事を再検証し、その背景にあった政治的、軍事的、そして社会経済的な力学を解き明かすことを目的とする。

第一章:戦国の海と漁民 ―「食」を支える者たちのもう一つの顔

日本橋魚市の起源を理解するためには、まず、その主役となる「漁民」が、戦国時代においていかなる存在であったかを正確に把握する必要がある。現代的な「漁師」のイメージとは異なり、彼らは当時の海上における重要な戦略的アクターであった。

戦国時代の海上勢力の実態

我々が慣れ親しんでいる「水軍」という言葉は、実は江戸時代以降に定着した呼称であり、戦国時代当時には使われていなかった 3 。当時の文献では、彼らは「海賊(かいぞく)」や「舟手衆(ふなてしゅう)」と呼ばれていた。この「海賊」という言葉も、現代の我々が想起するような、無差別に略奪を行う無法者(パイレーツ)とはその実態を大きく異にする 4

瀬戸内海などで活動した村上海賊に代表されるように、彼らは特定の海域を「領地」として支配し、そこを航行する船から警固料(通行料)を徴収する代わりに、水先案内や他の海賊からの保護を提供することで、航海の安全を保障していた 4 。彼らは海の地理や潮流を熟知した航海のプロフェッショナルであり、その活動は当時の海上交通と物流の秩序を維持する上で不可欠な役割を担っていたのである。

各大名は、この海賊衆の持つ海上機動力と専門知識を極めて重視した。有事の際には、彼らを被官(家臣)として組織し、兵糧や武器の輸送を担う兵站部隊、あるいは海上での戦闘を専門とする部隊として動員した 7 。漁民たちが日常的に使用する船団、彼らが持つ高度な航海術、そして地理的知識は、そのまま軍事力に転用可能な第一級の戦略的資源だったのである 8

漁民と大名の相互依存関係

平時において、漁民は領主である大名に地域の特産である魚介類を献上する義務を負っていた。その見返りとして、大名は彼らに特定の漁場を独占的に利用する権利、すなわち「漁業権」を保障した。この関係は、有事の際には軍役へと転化する、相互に依存し合ったものであった。

特に、畿内に近く、古くから海上交通の要衝であった摂津国(現在の大阪府北中部と兵庫県南東部)は、漁業が盛んな地域であった 9 。この地の漁民たちは、先進的な漁法と高度な組織力を有し、地域の権力構造において決して無視できない存在感を放っていた。戦国時代において「漁業権」とは、単なる経済的な権利ではなく、大名が特定の海上勢力に与える「軍事的パートナーシップの証」であった。漁民という存在を理解することは、戦国時代の兵站と情報戦を解明する鍵となるのである。家康が後に摂津佃村の漁民に与えた「全国どこでも漁をしてよい」という破格の特権 10 は、まさにこの文脈の中で解釈されるべき、戦国時代ならではの軍事的な意味合いを帯びた恩賞であった。

第二章:徳川家康と摂津佃村漁民 ―運命的邂逅の諸説と戦略的関係の構築

日本橋魚市の創設者となる摂津国西成郡佃村の漁民たちと、徳川家康との間には、戦国の動乱の中で育まれた極めて特別な関係が存在した。その出会いについては、伝説的なものから、より史実性の高いものまで、複数の説が伝えられている。

邂逅の伝説:本能寺の変と「神君伊賀越え」

最も広く知られているのが、天正10年(1582年)6月の本能寺の変に端を発する逸話である。織田信長の招きで堺に滞在していた家康は、信長横死の報に接し、明智光秀軍の追討を避けるべく、僅かな供回りと共に本拠地である三河国岡崎を目指す決死の逃避行、いわゆる「神君伊賀越え」を敢行した 13

その道中、摂津国の神崎川(淀川の分流)で大水のために立ち往生した際、一行の窮地を救ったのが、佃村の庄屋であった森孫右衛門(もりまごえもん)とその配下の漁民たちであったとされる 12 。彼らは自らの漁船で家康一行を対岸へと渡し、さらに、悪天候時の備蓄食としていた小魚の塩煮(後の佃煮の原型)を提供して、その後の長い旅路を支えたという 10 。この時の恩義を家康は生涯忘れず、これが両者の固い絆の原点になったと語り継がれている。

ただし、この劇的な救出劇は、江戸時代を通じて家康が神格化されていく過程で形成された側面も強く、確たる一次史料に乏しいことから、今日では伝説の域を出ないものと評価されている 19

史実性の高い接触と戦略的関係の深化

より史実性の高い説として、家康が上洛の折に多田神社へ参拝する際、神崎川の渡しを佃村の漁民が務めたことが、両者の関係の始まりであったとする記録がある 10 。この接触をきっかけに、彼らは家康の食膳に魚を納める「御菜肴役(おさいさかなやく)」としての役割を担うようになった 11

しかし、彼らの関係は単なる御用達にとどまらなかった。佃村の漁民たちは、家康のために海上での「隠密」、すなわち諜報活動まで行っていたのである 10 。この事実は、両者の関係が極めて高度な政治的・軍事的なものであったことを示唆している。

その背景には、佃村が置かれた地政学的な特異性がある。佃村周辺は、かつて織田信長と激しく対立した石山本願寺の門徒が多く、豊臣氏の支配が絶対的であった大坂の膝元に位置していた 22 。その中にあって、佃・大和田村の漁民は一貫して徳川方として活動した、極めて稀有な存在であった 11 。豊臣政権下にあって、家康にとって敵地の中枢に信頼できる情報網と海上機動力を持つ協力者がいることの戦略的価値は、計り知れないものがあった。

慶長19年(1614年)から20年(1615年)にかけての徳川・豊臣間の最終決戦である大坂冬の陣・夏の陣において、彼らの戦略的重要性は頂点に達する。佃村漁民は、大坂湾一帯の海上偵察や敵方情報の提供、さらには家康の本陣である茶臼山へ詰めて食料供給と警護を担うなど、徳川方の勝利に決定的な貢献を果たした 10

家康が彼らに与えた破格の待遇は、この「敵地における生命線」としての役割に対する正当な報酬であったと理解できる。「伊賀越え」の伝説は、この深く実利的な戦略的パートナーシップを、後世の人々が理解しやすい「恩返し」という人間的な物語として象徴的に表現したものである可能性が高い。


表1:家康と佃村漁民の最初の接触に関する諸説の比較

項目

「神君伊賀越え」救出説

神崎川渡船協力説

時期

天正10年(1582年)

天正年間(1573年~1592年)のいずれか

概要

本能寺の変後、伊賀越えの途上の家康を、森孫右衛門らが神崎川で舟と食料を提供し救出 12

家康が上洛の際に多田神社へ参拝する途上、神崎川の渡しを佃村漁民が務めたことが協力関係の始まり 10

根拠

主に後世に編纂された記録や地域の伝承に基づく。

『西成郡史全』などの地方史料に記述が見られる 10

歴史的評価

確たる一次史料に乏しく、家康の神格化に伴い形成された伝説としての性格が強いと評価されている 19

より現実的で史実性の高い接触の始まりと見なされている。御菜肴役や隠密活動への発展とも整合性が高い。


第三章:天正十八年(1590年)江戸入府 ―新都市建設と食糧問題の勃興

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が終結し、戦国時代は事実上の終焉を迎えた。この戦後処理において、徳川家康は長年本拠地としてきた三河・遠江・駿河などを召し上げられる代わりに、北条氏の旧領であった関東への移封を命じられる。同年8月1日、家康は江戸城に入府し、新たな領国経営を開始した。

江戸入府と都市計画の始動

当時の江戸は、現在の皇居東御苑あたりに太田道灌が築いた城が立つものの、その東側、日比谷や銀座、日本橋にかけては「日比谷入江」と呼ばれる広大な干潟や湿地帯が広がる、一寒村に過ぎなかった 24 。家康はこの未開の地に、将来の日本の中心となるべき巨大都市を建設するという壮大なビジョンを抱いていた。

直ちに、江戸城の堀の浚渫土や、神田台地を切り崩して得た土砂を用いて、大規模な埋め立て工事(天下普請)が開始される 24 。道三堀や日本橋川などの水路が整備され、町割りが進められていった。これは、単なる城下町の建設ではなく、水運を駆使した物流ネットワークと、それを支える商業機能、そして膨大な人口を収容する居住区を一体的に設計する、国家的な都市計画であった。

食料供給という巨大な壁

この壮大な都市建設に伴い、全国から大名、旗本、御家人といった武士階級、そして彼らに仕える人々、さらには町づくりを担う職人、商人、土木作業に従事する人足などが爆発的に流入し、江戸の人口は急激に増加し始めた 25 。しかし、この巨大化する胃袋を満たすべき食料供給システムは、全く追いついていなかった。

特に深刻だったのが、鮮度が命である魚介類の供給問題である。当時の江戸周辺の漁業は、一本釣りといった旧来的な漁法が主流であり、組織的な大量供給には全く不向きな状態であった 24 。増え続ける需要に対して、供給体制は絶望的に脆弱だったのである。食料、とりわけタンパク源の不足は、都市の治安維持や住民の健康に直結する、為政者にとって最優先で解決すべき国家的課題であった。

佃村漁民の招聘という解決策

この巨大な壁を打ち破るため、家康が白羽の矢を立てたのが、かつてより深い関係を築いてきた摂津佃村の漁民たちであった。家康は、庄屋の森孫右衛門と30名余りの熟練漁師たちを、彼らの家族と共に江戸へ呼び寄せたのである 16

彼らが招聘された理由は、単に旧知の間柄であったからではない。佃村の漁民たちは、網漁をはじめとする当時最先端の漁業技術と、組織的な漁労ノウハウを持つ専門家集団であった 16 。家康は、彼らを江戸の漁業改革の中核に据え、関東全体の漁業を発展させる起爆剤とすることを意図していた。

彼らの江戸移住の時期については、家康の江戸入府とほぼ同時期の天正18年(1590年)とする説 10 から、関ヶ原の戦いを経て幕府開設が現実味を帯びてきた慶長6年(1601年)頃とする説 21 、あるいは幕府開設後の慶長8年(1603年)以降に老中を通じて正式に招聘されたとする説 10 まで、複数の記録が存在し、段階的に移住が進んだ可能性も考えられる。

いずれにせよ、家康にとって佃村漁民の招聘は、過去の功労に報いる「論功行賞」であると同時に、新首都・江戸の持続可能性を担保するための「先進技術と専門家集団の戦略的導入」であった。これは、現代におけるハイテク企業の誘致や技術移転にも通じる、極めて合理的かつ近代的な都市経営戦略であったと言える。魚市の開設は、この壮大な都市計画の一部として、必然的に位置づけられていたのである。


表2:日本橋魚市開設に至る関連事象の時系列表

年代(西暦)

元号

主な出来事

関連する動向

1582年

天正10年

本能寺の変、神君伊賀越え

家康と佃村漁民の邂逅伝説が生まれる 13

1590年

天正18年

徳川家康、関東へ移封され江戸城に入府

大規模な江戸の都市開発が開始。人口増加と食糧問題が顕在化 24 。佃村漁民の移住が始まる(諸説あり) 29

1600年

慶長5年

関ヶ原の戦い

徳川氏による全国支配が事実上確立。

1603年

慶長8年

徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開府。日本橋が架橋される 2

佃村漁民が正式に「御菜肴役」に任命され、日本橋での残魚販売許可を得る。 日本橋魚市が開設される 21

1613年

慶長18年

幕府老中が森孫右衛門一族に漁業許可を与える 10

特権が文書で追認され、制度として確立していく。

1614-15年

慶長19-20年

大坂冬の陣・夏の陣

佃村漁民が海上隠密として徳川方に貢献 10

1645年頃

正保2年頃

幕府が佃村漁民に鉄砲洲の干潟を与え、埋め立てを許可。故郷にちなみ「佃島」と命名 12

漁民たちの江戸における生活基盤が完全に確立される。


第四章:慶長八年(1603年)日本橋魚市開設 ―誕生の瞬間と初期形態

江戸の都市計画と食料供給体制の構築が着々と進む中、慶長8年(1603年)は決定的な転換点となった。この年、徳川家康は征夷大将軍に就任し、名実ともに関東の地方政権から日本の統治機関へと昇格した「江戸幕府」を開府した。この政治体制の確立と連動して、江戸の食を支える中核インフラ、日本橋魚市がその歴史的な一歩を踏み出した。

開設の直接的経緯

幕府開府を機に、摂津佃村から移住してきた森孫右衛門ら漁民集団は、正式に江戸城の食膳を司る魚介類献上の役目、すなわち「御菜肴役」に任命された 10 。これは、彼らが徳川将軍家の食を直接担うという、極めて名誉ある地位を公的に認められたことを意味する。

この役目を果たす中で、彼らは幕府への献上分を確保した後の「残りの魚」を、一般の江戸市民向けに販売する許可を得た 26 。販売場所に指定されたのが、江戸の新たな中心として整備された日本橋の北詰、本小田原町から本船町にかけての一帯であった 30 。これが、日本橋魚市の直接的な起源である。この「幕府御用」という絶対的な権威と、「残魚販売」という商業的な実利が結びついた独自の形態こそが、その後の市場の爆発的な発展を支える原動力となった。

開設当初の市場の姿

開設当初の魚市は、まだ組織化された卸売市場というよりは、漁民たちが自ら江戸前の海で獲ってきた魚を舟から降ろし、河岸に並べて直接販売する、素朴で活気に満ちた直売所の様相を呈していたと推測される 35 。日本橋川には、獲れたての魚を積んだ小舟がひしめき合い、買い付けに来た江戸市中の人々で賑わったであろう。

この市場の成立は、江戸における魚介類流通の仕組みを根底から変革した。それまでは、散発的・個人的に行われていた魚の売買が、日本橋という一つの拠点に集約され、安定した供給システムが構築される第一歩となったのである。

「御用」という名の特権的構造

日本橋魚市の初期形態を理解する上で決定的に重要なのが、その特権的な構造である。当時、幕府は江戸城や武家屋敷で消費する膨大な魚介類を確保するため、江戸橋に「御納屋(おなや)」と呼ばれる魚納屋役所を設置していた 35 。この役所は、市中に流通する魚を、市価の10分の1程度という極めて安価な公定価格で、半ば強制的に買い上げる権限を持っていた 36 。一般の漁師や商人にとって、これは収奪に近い厳しい制度であり、中には魚を隠して買い上げを逃れようとする者も現れるほどであった 35

一方で、森孫右衛門ら佃村の漁民たちは、この厳しい買い上げシステムの外に置かれた、特別な「御用商人」であった。彼らの幕府への「献上」は義務であったが、それは同時に、他の商人たちが強いられる収奪から完全に保護されるという絶大な特権でもあった 37 。彼らは、献上後の残魚を、統制を受けない自由な市場価格で販売することができたのである。

この構造分析から導き出されるのは、日本橋魚市が現代的な意味での「自由市場」として生まれたのではなく、戦国時代的な「特権」によって堅固に守られた、極めて閉鎖的で独占的な経済圏として始まったという事実である。しかし、逆説的ながら、この「不平等」な構造こそが、結果的に市場の急速な発展と、江戸全体の魚介類流通の安定化を強力に促進した。佃村漁民にとって、この特権は江戸で漁業を営むための他に代えがたいインセンティブとなり、彼らの持つ先進技術と組織力が江戸の地に根付くことを確実にした。幕府は、特定の集団に「不平等な特権」を与えることで、結果として「市場全体の活性化」という公共の利益を達成するという、高度な統治術を実践したのである。

第五章:魚河岸の発展と江戸の変容 ―経済・物流・食文化の中心へ

慶長8年(1603年)に産声を上げた日本橋魚市は、幕府の強力な庇護と、爆発的に増加する江戸の人口という巨大な需要を背景に、驚異的な速度で発展を遂げていく。それは単なる魚市場の成長にとどまらず、江戸の経済、物流、そして世界にも類を見ない独自の食文化そのものを創造する巨大なエンジンとなった。

市場システムの進化と経済中心地の形成

当初は漁民による直売が中心であった市場は、やがて漁獲と販売を専門的に分業する「魚問屋(うおどんや)」が成立する段階へと移行する 35 。さらに、事業規模の拡大に伴い、問屋と小売商人との間を取り持つ「仲卸(なかおろし)」、当時は「請下(うけした)」と呼ばれた業態が登場し、市場機能はより高度化・効率化していった 35

17世紀末から18世紀初頭にかけての元禄時代(1688年~1704年)には、町人文化が爛熟期を迎え、魚河岸は「朝千両の商い」と称されるほどの隆盛を極めた 35 。これは、一朝のうちに千両(現代の価値で約1億円)もの大金が動く巨大市場であったことを意味し、昼の芝居小屋、夜の吉原遊廓と並び称される江戸随一の繁華街となった 32 。江戸湾近郊のみならず、東海道筋や房総、さらには全国各地から多種多様な海産物が集まる巨大な集散地へと変貌を遂げ、名実ともに関東・東北地方の漁業と水産物流通を牽引する中核拠点となったのである 39

江戸の食文化の創造

日本橋魚市がもたらした豊富で安価な魚介類の安定供給は、江戸独自の食文化を開花させる決定的な土壌となった。市場は単に江戸の腹を満たしただけでなく、江戸の文化そのものを豊かにし、江戸っ子のアイデンティティを形成する上で不可欠な役割を果たした。

「江戸前」概念の誕生

市場に集まる魚介類の中で、特に珍重されたのが「江戸前」と呼ばれるものであった。当初、この言葉は文字通り江戸城の前の海、すなわち品川洲崎から深川洲崎を結んだ内側の海域で獲れた魚介を指した 43 。この海域は、多くの河川から栄養分が流れ込むことでプランクトンが豊富に発生し、魚介類が美味しく育つ絶好の漁場であった 43 。ここで獲れるシラウオ、シバエビ、ハマグリ、アナゴ、コハダといった新鮮で良質な地元の魚は、遠方から運ばれてくる「旅モノ」とは明確に区別され、一種のブランドとして江戸市民の誇りとなった 43

寿司の革新:「握り寿司」の登場

日本の寿司の歴史は、魚の長期保存を目的とした発酵食品「なれずし」に始まる 45 。しかし、江戸時代に入り酢が普及すると、発酵させずに酢飯と具材を合わせる「早ずし」が主流となった 47 。そして、江戸の食文化史における最大のイノベーションが、文政年間(1818年~1830年頃)に起こる。華屋与兵衛といった寿司職人たちが、屋台で手早く提供できる「握り寿司」を考案したのである 49 。これは、性急で多忙な江戸の職人たちの気質に合致し、江戸前の新鮮なネタを手軽に味わえる「ファストフード」として爆発的な人気を博した 47

天ぷらの普及

天ぷらもまた、日本橋魚市が育てた江戸名物である。当初は、火事を恐れて屋内での調理が制限され、屋外の屋台での営業が中心であった 49 。江戸前の新鮮な魚介を、魚の臭みを消す効果のある胡麻油でからりと揚げるスタイルが確立し、串に刺して天つゆと大根おろしで食べる手軽な一品として、庶民の間に広く普及した 49

市場のその後:日本橋から築地、そして豊洲へ

三百余年にわたり、日本橋の地で江戸・東京の食文化を支え続けた魚河岸であったが、その歴史は、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災によって大きな転機を迎える。市場は壊滅的な被害を受け、その機能を停止した 32

これを機に、東京市は近代的な都市インフラとしての中央卸売市場の建設計画を本格化させ、海軍から用地を借り受けた築地の地に、新たな市場を建設することを決定した 58 。移転に際しては、日本橋を離れることに反対する人々の激しい抵抗もあったが 34 、昭和10年(1935年)、ついに「東京市中央卸売市場築地本場」として正式に開場した 57 。そして、施設の老朽化などを理由に、平成30年(2018年)10月、その歴史と機能は、より近代的な設備を備えた豊洲市場へと引き継がれ、現在に至っている 57

結論:戦国の論理から泰平の象徴へ

慶長8年(1603年)の日本橋魚市開設は、単なる市場の誕生という一事象に留まらず、日本の歴史における大きな転換点を象徴する出来事であった。その根底には、徳川家康が戦国時代という過酷な生存競争の中から体得した、極めて現実的かつ合理的な統治の論理が存在した。

家康は、新首都・江戸の建設という国家事業において、食料の安定供給がその成否を分ける生命線であることを深く認識していた。この国家的課題を解決するために彼が選択したのは、戦乱の世に恩義を受け、その忠誠心と能力を熟知していた摂津佃村の漁民という専門家集団を、戦略的に活用することであった。森孫右衛門らへの漁業特権の付与や市場開設の許可といった破格の待遇は、過去の功績に報いる「論功行賞」であると同時に、江戸という未曾有の巨大都市を支える食料インフラを構築するための、極めて効果的な「先行投資」であった。

戦国の軍事・政治的論理から生まれたこの特権的な市場は、しかし、時代の移り変わりとともにその性格を大きく変容させていく。やがてそれは、泰平の世の経済と文化を力強く牽引する巨大なエンジンへと成長し、「江戸前」に代表される豊かな食文化を育む母胎となった。日本橋の河岸で交わされる威勢のいい声や喧騒は、戦乱の記憶をその起源に内包しながらも、江戸という新しい時代の旺盛な生命力そのものを象徴していたのである。

日本橋魚市の歴史は、戦の道具(人、技術、組織)が、いかにして平和を構築するための礎となりうるかを示す、壮大な歴史的実例と言えるだろう。それは、戦国から江戸へという時代の連続性と断絶を、見事に体現した生きた証なのである。

引用文献

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  2. 江戸から明治にかけての首都の風景の変化 ①「日本橋」 - 海の見える杜美術館 https://www.umam.jp/blog/?p=9873
  3. 日本一の海事産業のルーツは日本最大の海賊。潮流激しい瀬戸内を支配していた謎多き村上海賊の歴史に古舘が迫る。 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=RYYyyHMWaAg
  4. (様式2) ストーリー 瀬戸内海航路を掌握した「村上海賊」 1586 年 - 今治市 https://www.city.imabari.ehime.jp/museum/suigun/event/2016/607-3.pdf
  5. 【日本遺産ポータルサイト】“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story036/
  6. 潮の流れを味方にした村上海賊! - 放送内容|所さんの目がテン!|日本テレビ https://www.ntv.co.jp/megaten/oa/20180617.html
  7. 朝鮮役における水軍編成について https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/8169/files/jouflh_20th_267.pdf
  8. 熊野水軍について | 三段壁洞窟【公式】 https://sandanbeki.com/suigun/index3.php
  9. 摂津国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5%E5%9B%BD
  10. どうする家康と佃煮 大阪・田蓑神社と東京・佃住吉神社の歴史を探る Part 1|吉野啓史 - note https://note.com/yoyoyonozoo/n/nb4b18fd244ac
  11. 佃島の歴史1〜家康と佃村〜 | 一般社団法人 和のたしな美塾 https://wanotashinami.org/blog/tsukudajima-2/
  12. 時は今!「本能寺の変」と「つくだに」誕生の甘くて辛い関係を知る時が来た! - オマツリジャパン https://omatsurijapan.com/blog/honnouji-tsukudani/
  13. 住吉神社~佃島の徳川家康ゆかりの社~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/edo/sumiyosi-jinjya.html
  14. 「日本橋 魚市場」②佃島 | 粋なカエサル https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/5021016/
  15. 佃島・・・家康が大阪の漁師を呼んで開拓させた昔ながらの漁師町 https://shimataka2023.hateblo.jp/entry/2023/02/02/125020
  16. 江戸散策 第37回 クリナップ https://cleanup.jp/life/edo/37.shtml
  17. 起源と由来-現代に復活した江戸前佃煮 | 大正2年創業 東京・日本橋 遠忠食品株式会社 https://enchu-food.com/tsukudani/
  18. 佃煮と「本能寺の変」の意外な関係とは? - ニッポン放送 NEWS ONLINE https://news.1242.com/article/178690
  19. 徳川家康と佃の深〜い絆 - 佃エリア特集 | 住まうTOKYO|ダイワハウスの分譲マンション https://www.daiwahouse.co.jp/mansion/sumau/tokyo/city-tsukuda/history_1.html
  20. 徳川家康と佃の深〜い絆 | 佃について、あ~だこ~だ言ってみよう会議 | どうして佃 | 住まうTOKYO | ダイワハウスの分譲マンション https://www.daiwahouse.co.jp/mansion/sumau/tokyo/archives/tsukuda_history_bonds/index.html
  21. 日本の魚市場のルーツは日本橋だった…日本橋魚河岸の祖・森孫右衛門と徳川家康の知られざる絆の物語 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2771
  22. 織田信長と戦った摂津市域の農民 https://www.city.settsu.osaka.jp/material/files/group/43/p14-15.pdf
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  25. 江戸散策 第69回 クリナップ https://cleanup.jp/life/edo/69.shtml
  26. 江戸と日本橋川 - 日本銀行金融研究所 https://www.imes.boj.or.jp/cm/exhibition/2022/mizube_mod/mizube_zuroku_04-19.pdf
  27. 大正12年9月1日に発生した関東大震災を機に移転が決まった「日本橋魚市場」。魚市場に鮮魚を運搬していたのは押送船!? - CANPANブログ https://blog.canpan.info/funenokagakukan/archive/363
  28. 徳川家康公が遺した・・・(上) - 財務省 https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/202311/202311e.html
  29. 『日本橋魚市塲沿革紀要』を原典で読む Part 3: 徳川家康と森孫右 ... https://note.com/terumapy/n/ne1af1fe5c86d
  30. 日本橋魚市 | 堀口茉純のやっぱり江戸が好き! - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/articles/edolove/002.html
  31. 森孫右衛門(もり まごえもん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%A3%AE%E5%AD%AB%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80-1115912
  32. 江戸の食文化を支えた日本橋の「魚河岸」ってどんなところだったの? - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/207850
  33. 平成26年12月 日本橋今昔物語 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=rpvfC59eLwk
  34. 「日本橋 魚市場」①築地80年日本橋300年 - 粋なカエサル https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/5013723/
  35. 江戸の食文化を支えた日本橋魚河岸の誕生。 - 豊海おさかなミュージアム https://museum.suisan-shinkou.or.jp/guide/uogashi-style/2097/
  36. 魚河岸の流儀。 - 豊海おさかなミュージアム https://museum.suisan-shinkou.or.jp/guide/uogashi-style/
  37. お殿様の“孤独のグルメ”/徳川将軍の食卓を考える④|いくは - note https://note.com/ikuha_shot/n/n052e68294177
  38. 浮世絵江戸の暮らし|日本橋を渡る大名行列、魚河岸から魚を運ぶ棒手振【歌川広重『東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景』保永堂版】 | 歴史文化探訪ラボ https://rekilabo.com/ukiyoe_nihonbashi/
  39. 魚市場 | 日本大百科全書 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/contents/nipponica/sample_koumoku.html?entryid=2567
  40. 『日本橋魚市塲沿革紀要』を原典で読む Part 1: 彰仁親王の和歌 - note https://note.com/terumapy/n/na7fb7ce058e6
  41. 水戸領の魚が江戸日本橋へ - 日立市の歴史点描 http://saki-archives.com/2024/kawarago_fish_matsudo.html
  42. 『日本橋雪晴』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第80回 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu004080/
  43. 「江戸前の魚」って何ですか?その変遷と今 - 料理王国 https://cuisine-kingdom.com/edomae-fish
  44. これからどこまでを「江戸前」と呼ぼうか|fish_edo - note https://note.com/terumapy/n/n77148bf9af5a
  45. 知られざる寿司の歴史—江戸から現代まで受け継がれる技|SUSHI JAPAN - note https://note.com/sushijpn/n/n8fc554b3674a
  46. 江戸前寿司とは?江戸前寿司の成り立ちや特徴を解説 - 寿司ウォーカー https://sushiwalker.com/feature/85740/
  47. 起源は東南アジアの山岳民族? 職人が教える「江戸前寿司の歴史」 - PHPオンライン https://shuchi.php.co.jp/article/11078
  48. 江戸前寿司の世界 | umito.® - マルハニチロ https://umito.maruha-nichiro.co.jp/article143/
  49. 東京湾が生んだ江戸前料理 - 豊海おさかなミュージアム https://museum.suisan-shinkou.or.jp/guide/tokyo-bay-revenge/74/
  50. 「江戸前寿司」のいろは——伝承から攻略法まで 銀座名店「鮨青木」店主が伝授 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/views/b01706/
  51. 東京の寿司文化を紐解く 江戸前寿司の歴史と進化 | コラム - 虎ノ門 鮨玄 https://toranomonsushigen.com/column/detail/20250207100610/
  52. 天ぷらと江戸前の魚 | 最新情報 - 歌舞伎座 https://www.kabuki-za.co.jp/news/readings/edogourmet06
  53. いつだって「庶民の味」 江戸で花開いた天ぷらのアツアツ今昔物語【連載】アタマで食べる東京フード(12) https://urbanlife.tokyo/post/49592/
  54. 天ぷら文化 - 銀座天國 https://www.tenkuni.com/column01/
  55. 江戸の食文化を生み出した江戸前の海と黒潮の食サイクル https://www.ruralnet.or.jp/syokunou/200309/09_edomae.html
  56. 江戸の繁栄を象徴する―魚河岸 | 東京 日本橋 | 日本文化の今と昔を体験できるまち https://nihombashi-tokyo.com/jp/history/245.html
  57. 世界一の魚市場は、今日も営業中 知られざる豊洲の1日 - Google Arts & Culture https://artsandculture.google.com/story/dgXB6UeJrTRGJA?hl=ja
  58. 【レガシー・カンパニー4/巻末特集】築地から豊洲へ。受け継がれる歴史、育まれるブランド | 出版社のダイヤモンド社が主催する - ダイヤモンド経営者倶楽部 https://www.dfc.ne.jp/regacy_tsukiji/
  59. 市場の歴史 | ザ・豊洲市場【公式】 https://www.toyosu-market.or.jp/history/