最終更新日 2025-09-29

旧二条御所破却(1573)

織田信長が足利義昭のために築いた旧二条御所は、両者の権力闘争の象徴。1573年、信長は義昭を追放し御所を破却、室町幕府は事実上滅亡し、信長の新時代が到来した。
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旧二条御所破却(1573年)— 織田信長と足利義昭、協力から決裂への全時系列 —

序章:権威の城、その誕生

戦国時代の京都に、わずか4年という短命ながら、時代の転換を象徴する城郭が存在した。通称「旧二条御所」。それは、室町幕府第15代将軍・足利義昭のために、織田信長が築いた壮麗な居城であった。一見、信長の将軍への忠誠と両者の蜜月を物語るかのように見えるこの城は、しかしその誕生の経緯からして、すでに後の決裂を予兆する矛盾を内包していた。本報告書は、この旧二条御所が築かれ、そして破却されるに至る全貌を時系列で詳述し、それが織田信長と足利義昭の権力闘争、ひいては室町幕府という中世的権威の終焉にいかなる意味を持ったのかを徹底的に分析するものである。

1.1. 永禄の変と将軍権威の失墜

旧二条御所の誕生を理解するには、まずその前史である室町幕府の権威失墜に目を向けねばならない。永禄8年(1565年)、室町幕府は未曾有の危機に瀕していた。第13代将軍・足利義輝が、その居館である二条御所(武衛陣)において、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と松永久秀の軍勢に襲撃され、殺害されるという衝撃的な事件、すなわち「永禄の変」が勃発したのである 1 。将軍が京の只中で弑逆されるというこの事態は、すでに形骸化しつつあった幕府の権威に致命的な打撃を与え、天下に大きな動揺をもたらした 1

この時、義輝の弟で奈良・興福寺一乗院の門跡であった覚慶は、兄の横死を知り、自らの身にも危険が迫ることを悟る。幕臣の細川藤孝(幽斎)や和田惟政、三淵藤英らの手引きによって奈良を脱出した覚慶は、還俗して「足利義昭」と名を改め、次期将軍として幕府を再興すべく、流浪の旅を開始した 4

1.2. 麒麟を待つ将軍

将軍家の正統な後継者とはいえ、義昭には自らの力で上洛し、幕府を再興するだけの武力はなかった。彼は近江の六角氏、若狭の武田氏、そして越前の朝倉義景といった有力大名を頼ったが、いずれも彼を奉じて上洛するという大きな賭けに出る決断は下さなかった 7 。特に朝倉義景のもとでは長く滞在したものの、事態は膠着し、義昭は焦燥感を募らせていた。

この状況を打開する鍵となったのが、義昭の側近であった明智光秀の存在である。光秀は、当時、斎藤龍興を破って美濃国を平定し、「天下布武」の印を掲げていた尾張の織田信長に接触した 7 。ここに、将軍という伝統的な「大義名分」を欲する信長と、天下を制するに足る強力な「武力」を求める義昭の利害が完全に一致したのである 7

永禄11年(1568年)9月、信長は義昭を奉じ、破竹の勢いで上洛を開始する。六角氏を瞬く間に駆逐し、畿内を支配していた三好勢力を制圧 11 。同年10月18日、義昭は朝廷から征夷大将軍に任命され、ここに室町幕府第15代将軍が誕生した 12 。信長の圧倒的な軍事力を背景に、室町幕府は一時的にせよ、京における秩序を回復したかに見えた。

1.3. 「武家御城」の築城 — 矛盾に満ちた象徴

義昭の将軍就任後、当初の居所は本圀寺であったが、永禄12年(1569年)1月、信長の不在を狙って三好三人衆が本圀寺を急襲する事件(本圀寺の変)が発生する 4 。明智光秀らの奮戦により撃退したものの、この事件は将軍の居所の脆弱性を露呈させた。これを受け、信長は義昭のために、より堅固な新しい御所の築城を主導することになる 14

築城地に選ばれたのは、かつて管領・斯波氏の邸宅「武衛陣」があり、奇しくも兄・義輝が最期を遂げた因縁の地、勘解由小路室町であった 15 。信長が築いたこの城は、もはや従来の「御所」という概念を遥かに超越していた。約390m四方という広大な敷地に 18 、二重の堀と高くそびえる石垣を巡らせ、櫓を設け、さらには三重の「天主」まで備えていたと記録されている 18 。それは公方の邸宅というよりも、まさに「武家御城」と呼ぶにふさわしい、近世城郭の先駆けともいえる堅固な要塞であった 20

この大工事は、信長自身の陣頭指揮のもと、驚異的な速さで進められた。普請総奉行を信長が務め、大工奉行には村井貞勝や島田秀満が任じられた 22 。畿内近国から動員された人数は8万人に及んだともいわれ、着工からわずか70日ほどで完成に至ったという 22 。この突貫工事は、信長の比類なき動員力と組織力を天下に示す、壮大なデモンストレーションであった。

しかし、その裏では信長の合理主義と旧来の権威に対する挑戦的な姿勢が垣間見える。石垣に用いる石材が不足すると、信長は京都内外の寺社から墓石や石仏を徴発し、無造作に石垣へと転用させたのである 22 。当時、来日していた宣教師ルイス・フロイスは、都の住民が畏敬の念を抱く石仏が首に縄をかけられて工事現場へ運ばれていく光景に、人々が驚嘆と恐怖を覚えたと『日本史』に記している 25 。これは、宗教的な禁忌や伝統を意に介さず、目的のためには手段を選ばない信長の実利主義と、既存の権威を破壊する思想を象徴する行為であった。後年の発掘調査では、実際に石垣から転用された石仏が多数発見されており、フロイスの記録を裏付けている 24

城内は堅固なだけでなく、豪華絢爛であった。御殿は金銀で飾られ、庭には細川京兆家の邸宅から運ばれた名石「藤戸石」などが配された 20 。発掘調査では金箔瓦も出土しており、その壮麗さが窺える 22

一見すると、この旧二条御所の築城は、信長が義昭に忠誠を尽くし、将軍権威の復興に貢献した証左と映る。しかし、その実態は大きく異なる。築城の主導権は完全に信長が掌握し、その驚異的な工期は義昭の威光ではなく信長の動員力を誇示するものであった。石仏の転用という行為は、神仏の権威すら自らの下に置こうとする信長の意志の表れである。信長は義昭に「城」という物理的な器を与えつつも、その中身である「権威」は自らが掌握するという明確な意思表示をしていた。この城は、義昭を守る「砦」であると同時に、信長の監視下に置く「鳥籠」でもあったのだ。すなわち、旧二条御所の誕生そのものが、後の両者の破局を内包した「矛盾の象徴」だったのである。

第一章:蜜月の終焉 — 亀裂の深化

信長によって将軍の座に就けられ、壮麗な居城を与えられた足利義昭。しかし、両者の協力関係、いわゆる蜜月は長くは続かなかった。信長が将軍の権威を利用して天下統一事業を推進する一方で、義昭は自らが主体となって幕府政治を再興しようと試みる。この根本的な目的の相違が、やがて修復不可能な亀裂を生み出していく。

2.1. 権力制限の試み — 掟と異見書

信長は、義昭を単なる飾り物としておくつもりはなかった。永禄12年(1569年)以降、信長は義昭に対し、「殿中御掟」九箇条、さらには追加の五箇条といった掟書を承認させた 7 。これらの掟は、将軍が諸大名へ命令を下す際には信長の副状を必要とすることや、天下の政治は信長に任せることなどを定め、将軍の政治的権限を著しく制限するものであった 31 。義昭は事実上、信長の傀儡となることを強要されたのである。

そして元亀3年(1572年)9月、両者の関係を決定的に悪化させる出来事が起こる。信長が義昭に対し、その行状を厳しく非難する「十七カ条の異見書」を突きつけたのだ 33 。その内容は、宮中への出仕を怠っていること、幕府の財産を私物化していること、特定の家臣を不当に寵愛していることなど、多岐にわたる辛辣なものであった 4 。この異見書は広く世間に流布され、義昭の将軍としての面目を完全に潰すものであり、彼のプライドを深く傷つけた 34 。もはや両者の決別は避けられない状況となった。

2.2. 元亀争乱と信長包囲網の形成

信長の急速な勢力拡大は、畿内近国の諸大名に大きな脅威を与えていた。元亀元年(1570年)、信長が越前の朝倉義景を攻めると、義弟であったはずの北近江の浅井長政が離反。これを機に、三好三人衆、石山本願寺などが次々と反信長の兵を挙げ、「元亀争乱」と呼ばれる全面戦争へと突入した 36

当初、義昭は信長と協調し、三好三人衆との戦いに幕府軍を派遣するなど、協力的な姿勢を見せることもあった 4 。しかし、信長による権力掌握の意図が明らかになるにつれ、義昭は次第に反信長勢力の結集へと動いていく。彼は「将軍」という立場を利用し、全国の有力大名に「御内書」と呼ばれる私的性格の強い命令書を送り、信長討伐の共同戦線を張るよう密かに働きかけた 4 。これが世に言う「信長包囲網」である。

通説では義昭は信長に利用されるだけの無力な存在と見なされがちだが、実際には彼の外交手腕は巧みであった 11 。甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、中国地方の毛利輝元、そして浅井・朝倉、本願寺といった諸勢力が連携し、信長を窮地に陥れた背景には、義昭という将軍権威の中心軸が存在したからに他ならない 39 。彼の行動は、単なる信長への個人的な反発というよりも、武力による新たな秩序を構築しようとする信長の「革新」に対し、将軍を中心とする伝統的な室町幕府の秩序を守ろうとする「保守」の、最後の組織的抵抗であった。

2.3. 武田信玄の西上と義昭の決断

元亀3年(1572年)10月、信長包囲網の最大の柱石であった甲斐の武田信玄が、満を持して西上作戦を開始する。同年12月、三方ヶ原の戦いで信長の盟友である徳川家康の軍を壊滅させ、その勢いは信長の本拠地である美濃・尾張に迫った 32 。信長は生涯最大の危機に直面する。

この報は、京都の義昭を大いに勇気づけた。信玄の上洛が現実のものとなると確信した義昭は、もはや信長に従う必要はないと判断し、ついに公然と反旗を翻す決断を下す 34 。元亀4年(1573年)2月、義昭は旧二条御所において、打倒信長の兵を挙げた。これは、中世的価値観と近世的価値観の衝突が、ついに武力をもって決着をつけられる瞬間であった。

第二章:元亀四年(1573年)、決裂の時系列

元亀4年、西暦1573年は、織田信長と足利義昭の関係が完全な破局を迎え、室町幕府が事実上の終焉を迎える激動の年となった。両者の軍事行動、政治的駆け引き、そして心理状態の変遷を、以下の年表とそれに続く詳細な記述によって、リアルタイムで追体験する。

【付属資料】元亀四年(天正元年)主要事変年表

年月日(元亀四年/天正元年)

場所

主要な出来事(信長側)

主要な出来事(義昭側)

関係史料・特記事項

2月

山城国・二条御所

-

二条御所にて、打倒信長の兵を挙げる。浅井・朝倉軍と連携し、近江へ派兵 34

武田信玄の西上を背景とする。

3月29日

岐阜城→京

義昭挙兵の報を受け、大軍を率いて岐阜を出陣、上洛する 43

二条御所に籠城し、信長軍を迎え撃つ構えを見せる。

信長の電光石火の対応。

4月3日-4日

京・上京

和睦を拒否する義昭への圧力として、上京(二条通以北)を焼き討ちにする 33

籠城を続けるが、信長の強硬策に動揺が広がる。

フロイス『日本史』に惨状の記録あり 44

4月7日

二条御所

正親町天皇の勅命を受け入れ、義昭と和睦する。翌8日、岐阜へ帰還 31

天皇に仲介を依頼し、勅命講和を受け入れる。

信長は義昭に謁見せず帰国。

4.月12日

信濃国・駒場

武田信玄が西上の途上で病死する 33

(この情報を知らず)

義昭の戦略の前提が崩壊。

7月3日

山城国・槇島城

-

和睦を破棄。二条御所を離れ、要害である槇島城にて再挙兵する 46

武田信玄存命と誤信したままの行動 40

7月6日

岐阜→坂本

義昭再挙兵の報を受け、琵琶湖を渡り坂本へ着陣 48

-

7月18日

槇島城

総勢7万の大軍で槇島城を総攻撃。わずか1日で城を炎上させ、陥落させる 4

織田軍の猛攻に恐怖し、嫡男を人質に差し出し降伏する 4

槇島城の戦い。

7月19日

槇島城→河内国

義昭を京から追放する。義昭は河内国へ移る 34

槇島城を退去。落ち武者狩りに遭うなど苦難の末、河内へ。

室町幕府の事実上の滅亡。

7月28日

-

朝廷に働きかけ、元号を「元亀」から「天正」へ改元させる 46

-

信長の新時代到来を宣言する象徴的行為。

3.1. 【二月〜三月】 第一次挙兵:二条御所籠城戦

元亀4年(1573年)2月、武田信玄の西上という最大の好機を捉えた足利義昭は、ついに信長との全面対決に踏み切る。彼は自らの居城である旧二条御所を拠点に、反信長の兵を公然と挙げた 4 。幕府軍を組織し、近江の浅井・朝倉軍と呼応して織田方の拠点を攻撃させるなど、その動きは具体的かつ迅速であった 38

義昭謀反の報は、岐阜の信長のもとへ直ちにもたらされた。信長は3月29日、およそ3万と推定される大軍を率いて岐阜城を出立。驚異的な速度で進軍し、わずか数日で京へ到達した 43 。信長軍は東山の知恩院などに本陣を置き、配下の諸将を京の要所に配置して、二条御所を完全に包囲した 43

しかし、信長は御所への直接攻撃を控えた。将軍の御所を攻めるという行為が、天下に与える悪影響を計算していたからである。代わりに彼が選んだのは、より冷徹で残忍な戦術であった。4月3日夜から4日にかけて、信長は和睦交渉に応じない義昭への最終的な圧力として、京都の市街地、特に経済的にも豊かであった上京(かみぎょう)一帯に火を放ったのである 33 。この焼き討ちは凄惨を極めた。公家の吉田兼見はその日記『兼見卿記』に「二条より上京、一間残らず焼失」と記し 45 、ルイス・フロイスは「恐るべき戦慄的な情景」「最後の審判の日さながらであった」とその惨状を伝えている 44 。これは単なる軍事行動ではない。京都の経済と文化の中心地を破壊し、朝廷や町衆、そして御所内の将兵に恐怖を植え付け、「義昭につくか、信長につくか」という究極の選択を迫る、高度な政治的恫喝であった。

3.2. 【四月】 束の間の和睦 — 帝の権威と水面下の緊張

上京が焦土と化す中、二条御所は完全に孤立し、籠城していた兵士たちの戦意は失われた 43 。進退窮まった義昭は、最後の頼みの綱として朝廷に助けを求めた。これに応じた正親町天皇が仲介に乗り出し、4月7日、勅命による講和が成立した 31 。信長は、天皇の権威を尊重する形でこれを受け入れた。彼は自らの行動を正当化するために、旧来の権威を巧みに利用する術を心得ていたのである。信長は義昭に一度も謁見することなく、翌8日には早々と岐阜へと帰還した 43

しかし、この和睦は水面下で続く緊張を一時的に糊塗したに過ぎなかった。そしてこの頃、義昭の戦略の根幹を揺るがす重大な事件が、彼の知らないところで起きていた。彼が最大の頼みとしていた武田信玄が、西上の途上、信濃国駒場にて4月12日に病没したのである 33 。この情報は武田家によって秘匿され、義昭のもとには届かなかった。彼は信玄が依然として健在であり、再び西上してくると信じ、和睦後も諸大名に御内書を送り続け、再挙兵の機会を虎視眈々と窺っていた 38 。義昭の敗因は、単なる兵力差以上に、この致命的な「情報」の欠如にあった。

3.3. 【七月】 第二次挙兵と追放:槇島城の戦い

束の間の平穏は、わずか3ヶ月で破られた。7月3日、義昭は信玄存命との誤信に基づき、再び信長との和睦を破棄した 46 。しかし、今度の戦場は二条御所ではなかった。籠城戦には不向きと判断したのか、義昭は側近の真木島昭光が城主を務める南山城の要害・槇島城へと移り、そこで挙兵した 38 。槇島城は宇治川と巨椋池に囲まれた天然の要害であり、義昭はここを難攻不落と考えていた 46 。一方、二条御所には兄の三淵藤英らを残し、守備を固めさせた 46

義昭再挙兵の報に、信長の反応は迅速かつ苛烈であった。7月6日には琵琶湖を渡って坂本に着陣 48 。主だった武将を動員した総勢7万ともいわれる大軍を編成し、槇島城へと進軍した 4

7月18日、織田軍による槇島城への総攻撃が開始された。信長は軍を二手に分け、宇治川を巧みに渡河させ、城を完全に包囲した 4 。佐久間信盛や蜂屋頼隆らの部隊が城から打って出てきた足軽を打ち破ると、織田軍は一気呵成に攻め立て、槇島一帯を焼き払った 46 。義昭が頼みとした要害は、信長の圧倒的な大軍の前には全く無力であった。城の外構はたちまち乗り破られ、各所に火が放たれる 46

本城も危うくなるに及び、義昭は信長の軍事力の前に完全に恐怖し、戦意を喪失。嫡男の義尋を人質として差し出すことで、降伏を申し入れた 4 。信長は義昭の命こそ助けたものの、もはや彼を京に置いておくことは許さなかった。翌7月19日、義昭は槇島城を退去させられ、京から追放された 34 。その道中、落ち武者狩りの一揆に所持品を奪われるなど、その権威は地に落ちたという 46

ここに、建武の新政から約240年続いた室町幕府は、その政治的中心地である京都から将軍が追放されたことで、事実上の滅亡を迎えたのである 53

第三章:主を失った城の運命 — 旧二条御所の破却

将軍・足利義昭が京の地を追われた後、彼のために築かれた壮麗な「武家御城」は、主を失い、その運命を築城主である織田信長の手に委ねられることとなった。しかし、その解体・破却は一度に断行されたわけではない。1573年の部分的破却と、1576年の完全解体という二段階のプロセスには、信長の冷徹な政治的計算と、旧時代を清算し新時代を創造しようとする強烈な意志が込められていた。

4.1. 第一段階の破却(元亀四年/天正元年、1573年7月)— 可能性の保留

義昭が槇島城で降伏し、河内国へと追放された直後、信長は主のいなくなった旧二条御所を占拠した 23 。信長がまず命じたのは、御所内の殿舎、すなわち将軍の居住空間や政務空間の破却であった。さらに、この破壊行為に際して、諸人による略奪を禁じなかったと記録されている 23 。これは、義昭の権威の象徴であった物理的な空間を徹底的に破壊し、彼の帰還がもはや許されないという断固たる意志を内外に示すための示威行為であった。

しかしながら、この時点での破却は限定的なものであった。城郭の骨格を成す門、高く積み上げられた石垣、そして二重に巡らされた堀といった防御施設は、破壊されずにそのまま残されたのである 23 。この事実は、信長がこの段階ではまだ、足利将軍家との関係において何らかの政治的選択肢を留保していた可能性を示唆している。例えば、義昭に代わる別の足利一門を新たな傀儡将軍として迎え入れ、この城郭を再び利用する、といったシナリオも彼の計算には含まれていたのかもしれない。城郭という「器」は残し、その中身である義昭の「権威」だけを空にした状態。それが1573年夏の旧二条御所の姿であった。

4.2. 第二段階の破却(天正四年、1576年)— 決別と創造への転用

状況が大きく動いたのは、それから3年後の天正4年(1576年)のことである。京を追われた義昭は、河内、和泉、紀伊と流浪した後、中国地方の太守・毛利輝元の庇護を受け、備後国鞆(現在の広島県福山市)に腰を落ち着けた 51 。義昭はそこで「鞆幕府」とも称される亡命政権を樹立し、将軍としての権威を行使して反信長活動を精力的に継続した 57 。毛利氏という強力な後ろ盾を得たことで、義昭は信長のコントロールが及ばない場所で「将軍」として機能し続ける存在となった。

この事態は、信長にとって「足利将軍」という存在そのものが、もはや利用価値よりも政治的リスクの方が大きいことを意味した。義昭との和解の可能性が完全に潰えたと判断した信長は、ついに旧二条御所の完全な解体を決断する 23 。この決断が下された時期は、信長が近江の地に、自らの新たな権力の象徴となる安土城の築城を開始した時期と軌を一にしている 18

天正4年9月以降、旧二条御所の解体は徹底的に行われた。御所の門や壮麗な建物は取り壊され、その良質な部材は琵琶湖を渡って安土へと運ばれ、安土城の建築資材として再利用されたと伝えられている 22 。かつて将軍の権威の象徴であったものが、信長の新たな権威の礎へと転用されたのである。さらに、堅固な石垣は一般の人々による略奪が許可され、持ち去られた 23 。そして同年12月、信長は上京の人々に命じて二重の堀を埋めさせ、城郭としての痕跡を地上から完全に消し去った 23

この一連の行為は、単なる破壊(ヴァンダリズム)ではなかった。それは、旧時代の権威の象徴を物理的に解体し、その構成要素を吸収して、自らを中心とする新時代の権威を「再構築」するという、極めて象徴的なプロセスであった。旧二条御所の破却は、信長の掲げた「天下布武」が、単なる軍事的な統一事業に留まらず、旧秩序の徹底的な破壊と新秩序の創造を伴う、社会構造そのものの変革であったことを雄弁に物語っている 62

第四章:破却の歴史的意義と後世への影響

旧二条御所の破却と、それに至る足利義昭の追放という一連の事変は、戦国時代の権力構造に決定的かつ不可逆的な変化をもたらした。それは単に一つの城が失われ、一人の将軍が都を去ったという出来事に留まらず、中世という時代の終わりと近世という新たな時代の幕開けを告げる、歴史的な転換点であった。

5.1. 室町幕府の終焉と織田政権の確立

義昭が京都から追放されたことにより、約240年間にわたって日本の武家政権の中枢であり続けた室町幕府は、その政治的機能を完全に停止した。この1573年(元亀4年/天正元年)の出来事をもって、室町幕府は事実上滅亡したと見なされるのが一般的である 33 。もちろん、義昭自身はその後も将軍職を解任されたわけではなく、備後鞆の地から将軍としての権威を行使し続け、天正16年(1588年)に豊臣秀吉のもとでその職を辞するまで、名目上の将軍であり続けた 54 。しかし、政治の中心地である京都に拠点を失った時点で、中央政権としての幕府は終焉を迎えたのである。

将軍という権力の中核を失った京都の統治体制を、信長は速やかに再編した。彼は腹心の吏僚である村井貞勝を「京都所司代」に任じ、京都の治安維持、行政全般、そして朝廷や寺社との交渉といった、これまで幕府が担ってきた役割を統括させた 68 。これは、将軍権力に依存しない、信長直轄の新たな支配システムの始まりであった。

さらに、この体制転換を象徴する出来事が「改元」である。義昭追放直後の7月28日、信長は朝廷に働きかけ、争乱の続いた「元亀」の年号を「天正」へと改めさせた 46 。これは、足利義昭の時代の終わりと、織田信長が主導する新たな時代の始まりを天下に宣言する、極めて政治的な意味合いを持つ行為であった。

5.2. 時代の転換点としての象徴性

旧二条御所の破却は、物理的な破壊以上に、時代の価値観の転換を象徴する出来事であった。足利将軍という血統と伝統に根差した中世的な権威の象徴が、信長自身の圧倒的な武力と統治能力を基盤とする近世的な権力によって解体されたのである 23

この時代の潮流を体現した人物が、義昭の側近中の側近でありながら、最終的に信長に恭順した細川藤孝(幽斎)である 74 。当代随一の教養人でもあった藤孝は、義昭と信長が対立すると、旧主君である義昭を見限り、新たな実力者である信長に従う道を選んだ 6 。この選択は、もはや伝統的な権威だけでは乱世を生き抜けないという、当時の武将たちが直面した冷徹な現実を物語っている。旧来の秩序に見切りをつけ、新たな時代の潮流に乗るという藤孝の決断は、多くの武将の動向を象徴するものであった。

5.3. 史跡としての旧二条御所

壮麗を極めた旧二条御所は地上から姿を消したが、その痕跡は現代の京都にも確かに残されている。

跡地は、現在の京都市上京区、京都御所の西側に位置する平安女学院中学校・高等学校の一帯にあたる 17 。その敷地の一角には、往時を偲ばせる「旧二條城跡」の石碑が静かに建てられている 15

この「幻の城」の実像は、考古学的調査によって少しずつ明らかになってきた。特に1970年代に行われた京都市営地下鉄烏丸線の建設工事に伴う発掘調査では、堀や石垣の遺構が複数個所で発見され、その規模や構造が学術的に裏付けられた 15 。この時に発見された石垣の一部は、京都御苑の下立売御門付近や、徳川家康が築城した現在の二条城内に移設・復元されており、信長が築いた城の石積みを間近に見ることができる 15 。近年でも、周辺のホテル跡地などで発掘調査が継続的に行われており、新たな堀の跡が確認されるなど、旧二条御所の全体像の解明は今なお進められている 80

歴史の教科書では、「1573年に室町幕府は滅亡した」と簡潔に記されることが多い 53 。しかし、その背景には、義昭が将軍職を保持し、鞆で亡命政権を維持し続けたという複雑な事実が存在する 56 。にもかかわらず1573年が「滅亡の年」として歴史に刻まれているのは、旧二条御所が破却され、将軍が政治の中心地である京都から物理的に排除されたという出来事の「象徴性」が極めて大きいからに他ならない。歴史とは単なる事実の記録ではなく、後世の人々が特定の出来事に意味を与え、物語として再構成するプロセスでもある。「旧二条御所破却」は、物理的な建築物の破壊という史実以上に、一つの時代の終わりを告げる「歴史的シンボル」としての役割を担っているのである。

結論:旧二条御所破却が戦国史に刻んだもの

旧二条御所の築城から破却に至る一連の事象は、単なる一城郭の盛衰や、二人の武将の個人的な対立に留まるものではない。それは、約240年間にわたり日本の武家社会を規定してきた室町幕府という中世的権威システムが、織田信長という新たな時代の担い手によって解体され、近世的な中央集権体制へと移行していく画期をなす、日本史上の巨大な転換点であった。

信長が義昭のために築いたこの城は、当初から協力と支配という二重の意味を内包していた。その石垣に転用された無数の石仏は、伝統的権威が踏みつけにされ、実力が全てを支配する新時代の到来を予感させた。そして、義昭追放後に行われた壮麗な殿舎の破却と、その部材が安土城へと転用された事実は、旧秩序の破壊なくして新秩序の創造は成し得ないという、信長の苛烈な思想と国家構想を物語っている。

主を失い、解体され、その痕跡の多くが地中に埋もれたこの「幻の城」は、しかし、その誕生から消滅に至る過程そのものによって、戦国という時代のダイナミズムを最も雄弁に物語る、永遠の史跡として我々の前に存在し続けている。旧二条御所の物語を紐解くことは、すなわち、中世が終わりを告げ、近世が産声を上げた瞬間の、歴史の息遣いに触れることに他ならないのである。

引用文献

  1. 永禄の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%A6%84%E3%81%AE%E5%A4%89
  2. 足利義輝の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/33457/
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  68. 村井貞勝 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/History/HumanMuraiSadakatsu.html
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  71. 「村井貞勝」京都出張所から信長政権を支え続けた事務官僚の生涯とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/729
  72. 信長の天下所司代 : 筆頭吏僚村井貞勝 - 新書マップ https://shinshomap.info/book/9784121020284
  73. なぜ織田信長は足利義昭を推戴して上洛し、室町幕府を再興したのか? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2885
  74. 室町幕府滅亡約1年前の織田信長書状を発見 細川藤孝にすがる信長「あなただけが頼りです」 | 熊本大学 https://www.kumamoto-u.ac.jp/whatsnew/zinbun/20240906
  75. 【記者発表のご案内】 - 熊本大学 https://www.kumamoto-u.ac.jp/daigakujouhou/kouhou/pressrelease/2024-file-1/release240906.pdf
  76. 「細川藤孝(幽斎)」元は幕臣。戦国屈指の文化人ながら先見の明も抜群だった? https://sengoku-his.com/526
  77. 細川幽斎 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/hosokawa-yusai/
  78. 旧二条城の見所と写真・500人城主の評価(京都府京都市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/240/
  79. KA012 旧二条城跡 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ka012.html
  80. 6/20(火)旧二条城跡の発掘調査現場を見学しました - 平安女学院大学 https://www.heian.ac.jp/topics/news-all/15713/
  81. 平安京左京一条三坊六町・旧二条城跡 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/34/34761/64930_1_%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC%E5%B7%A6%E4%BA%AC%E4%B8%80%E6%9D%A1%E4%B8%89%E5%9D%8A%E5%85%AD%E7%94%BA%E3%83%BB%E6%97%A7%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf