早雲寺殿廿一箇条(1523)
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『早雲寺殿廿一箇条』の総合的考察:戦国黎明期における後北条氏の国家経営と組織論
序論:『早雲寺殿廿一箇条』への視座 ― 法か、道徳か、それとも組織論か
戦国時代の関東に百年にわたり君臨した後北条氏。その礎を築いたとされる『早雲寺殿廿一箇条』は、しばしば1523年に制定された「分国法」として言及される 1 。しかし、この理解は、後北条氏という新興勢力がいかにして関東の覇者へと成り上がったのか、その本質的な戦略を見過ごす危険性をはらんでいる。本報告書は、この通説的な見解を出発点としつつも、そこに留まることなく、より深く、多角的な視点から『早雲寺殿廿一箇条』の実像に迫ることを目的とする。
本文書は、単一の年における静的な「事変」として捉えるべきではない。むしろ、初代・伊勢宗瑞(北条早雲)の死後、二代目・氏綱がその権力基盤を固め、関東へと本格的に進出していく過程で生み出された、百年の治世の礎を築く「起点」として理解する必要がある 2 。
この視座に立つとき、いくつかの根源的な問いが浮かび上がる。果たしてこの文書は、本当に北条早雲本人の手によるものなのか。その成立は1523年と断定できるのか。そして最も重要な点として、これは法的な強制力を持つ「分国法」なのか、それとも家臣団の精神を律するための道徳的な「家訓」なのか 4 。これらの学術的論点を一つひとつ丁寧に解き明かしながら、『早雲寺殿廿一箇条』が持つ、時代を超えた組織経営の原理を探求していく。
本報告書は、まず第一章で、利用者様の要望である「リアルタイムな状態」を詳述すべく、1523年前後の関東の政治・軍事情勢を時系列で描き出す。次に第二章では、著者や成立年代に関する学術的議論を整理し、本文書が「分国法」ではなく「家訓」であるという性質を明確に規定する。第三章では、二十一箇条の全条文をテーマ別に徹底解剖し、そこに込められた戦国武士の生存戦略を明らかにする。そして第四章では、この家訓に示された精神が、いかにして後北条氏の具体的な統治政策へと結実し、百年の繁栄を支えるに至ったかを論証する。この分析を通じて、『早雲寺殿廿一箇条』を、戦国という混沌の時代における、極めて高度な国家形成の設計図として再評価することを試みる。
第一章:激動の関東と北条氏綱の挑戦 ― 1523年前後の政治・軍事状況
『早雲寺殿廿一箇条』が歴史の表舞台に現れる背景を理解するためには、1523年という時点を静的な「制定年」としてではなく、激しく流動する歴史プロセスの一断面として捉える必要がある。この時期の後北条氏は、創業者の死と二代目への継承という内部的転換期にありながら、関東の旧権力との全面対決という外部的危機に直面していた。
権力の継承と初代の死(1518年~1519年)
後北条氏の祖である伊勢宗瑞(後の北条早雲)は、永正15年(1518年)、家督を嫡子である氏綱に譲った 7 。そして翌永正16年(1519年)にその生涯を閉じる。これにより、後北条家は、圧倒的なカリスマと実績を持つ創業者から、二代目の指導者へと移行する極めて重要な局面を迎えた。宗瑞は一代で伊豆・相模を平定した傑物であり、その存在は家臣団を結束させる求心力そのものであった 1 。氏綱にとっての最大の課題は、父の威光に頼ることなく、自らの力でこの新興勢力を一つの強固な組織としてまとめ上げ、さらなる発展へと導くことであった。創業者の死は、組織のアイデンティティと結束力が試される最初の試練であった。
早雲寺の創建と父権の継承(1521年)
氏綱は、父の死から2年後の大永元年(1521年)、その菩提を弔うために箱根湯本に早雲寺を創建した 9 。これは単なる追善供養に留まる行為ではない。父・宗瑞に「早雲寺殿」という法号を贈り、その菩提寺を建立することは、自らがその正統な後継者であることを内外に宣言する、高度に政治的な意味合いを持つ行為であった。後に『早雲寺殿廿一箇条』という名称が生まれる土壌は、この時に形成されたのである。氏綱は、父の権威を巧みに利用し、それを自らの権力基盤へと転換させることで、指導者としての正統性を確立しようとした。
決戦前夜の関東情勢(1523年)
本報告書の焦点である大永3年(1523年)、氏綱は姓を伊勢から「北条」へと改めたとされる 8 。これは、鎌倉幕府の執権であった北条氏の名跡を継ぐことで、関東における支配の正当性を主張しようとする野心的な試みであった。この時点で、後北条氏は相模・伊豆の地盤を固めていたものの、その前途は決して平坦ではなかった。
当時の関東は、古河公方と堀越公方の分裂、そしてそれを補佐する関東管領・山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立が長引き、混沌とした状況にあった。後北条氏の台頭は、これらの旧権力にとって直接的な脅威であり、特に武蔵国(現在の東京都・埼玉県)の支配を巡っては、扇谷上杉氏との軍事的緊張が極度に高まっていた 11 。
1523年は、まさにこの決戦前夜ともいえる、息詰まるような緊張感に満ちた時期であった。翌大永4年(1524年)、氏綱は江戸城を攻略し、扇谷上杉朝興を川越城へと敗走させるという大勝利を収める 8 。この勝利は、後北条氏が関東における一大勢力としての地位を確立する上で決定的な一歩となった。1523年という年は、この大攻勢を目前に控え、氏綱が軍事力のみならず、組織の内部結束を極限まで高めようとしていた時期と重なるのである。
内政基盤の整備
氏綱は、軍事的な緊張が高まる一方で、領国経営の安定化にも着手していた。特に重要なのが、この頃から使用が始まったとされる「虎の印判状」である 13 。これは、朱印を用いることで文書の正統性を示し、家臣による恣意的な徴税や命令を無効化する画期的なシステムであった。これにより、領民の負担を明確化し、その搾取を防ぐことで、民生の安定と国力の向上を図った 13 。
このような内外の状況を鑑みると、1523年前後という時期は、後北条氏が軍事的拡大(対上杉氏)と内政整備(領国経営)という二つの課題を同時に遂行しなければならない、極めて重要な局面であったことがわかる。この内外からの強い圧力が、家臣団の精神的な結束と、統一された行動規範の確立を急務とした直接的な原因であった。来るべき決戦を前に、寄せ集まりの家臣団を一つの強固な戦闘集団へと変えるためには、法や命令だけでは不十分であった。創業者・早雲の権威を借り、具体的で実践的な行動規範を示すことで、組織の「文化」と「規律」を短期間で醸成する必要があったのである。
したがって、『早雲寺殿廿一箇条』の成立、あるいはこの時期における流布は、単なる法令制定という「事変」ではなく、北条氏綱が描く関東制覇戦略の一環として、極めて計画的に実行された 組織開発(人材育成)プログラムの始動 と位置づけることができる。それは、来るべき戦いに向けた「精神的武装」の号令であった。
第二章:『早雲寺殿廿一箇条』の正体 ― 成立と性質をめぐる学術的検証
『早雲寺殿廿一箇条』は、しばしば「北条早雲が定めた分国法」と説明されるが、学術的な検証を経ると、その著者、成立年代、そして法的な性質について、より慎重な検討が必要となる。この章では、これらの論点を整理し、本文書の正確な位置づけを明らかにする。
著者と成立年代の再検討
まず、著者については、北条早雲本人が直接書き記したという確たる証拠は存在しない 4 。むしろ、江戸時代初期に成立した軍記物である『北条五代記』には、「早雲寺殿、二十一ケ條と號し、侍一生涯身の行の敎を」と記されており、早雲が日頃から家臣に語っていた教えを、後の人々がまとめたものであると示唆されている 6 。この見解は、現代の多くの研究者によって支持されている 14 。
成立年代についても、「1523年」という特定の年を断定する史料は乏しい。しかし、その名称自体が重要な手がかりとなる。「早雲寺殿」とは、初代・宗瑞の法号であり、彼の菩提寺である早雲寺に由来する 9 。この早雲寺が二代目・氏綱によって創建されたのが大永元年(1521年)であることを考え合わせると、この名称を持つ文書が宗瑞の死後、すなわち氏綱の治世に成立した可能性は極めて高い 10 。したがって、1523年という年は、厳密な「制定年」というよりも、氏綱が父の権威を背景に家臣団の統制を強化し始めた治世初期に、この家訓が重視され、広く流布し始めた時期として捉えるのが最も妥当であろう。
性質の規定:「分国法」と「家訓」の峻別
次に、本文書の法的な性質について考察する。戦国時代の「分国法」とは、大名が自らの領国を統治するために定めた、公的な性格を持つ法典である 16 。その内容は多岐にわたるが、主に以下のような特徴を持つ。
- 裁判規範の明示: 喧嘩両成敗のように、紛争解決の基準を定め、大名権力の下に裁判を一元化する 18 。
- 所領・財産規定: 土地の売買や相続に関するルールを定める。
- 刑罰規定: 犯罪に対する具体的な罰則(縁座法などを含む)を設ける 16 。
- 統治機構: 家臣の義務や年貢の徴収方法などを規定する。
これらの分国法の目的は、家臣や領民の私的な争いを禁じ、恣意的な判断による不公正な裁きを排除することで、大名の権威のもとに安定した領国秩序を構築することにあった 16 。
一方で、『早雲寺殿廿一箇条』の内容を精査すると、その性格は分国法とは大きく異なることがわかる。その条文は、第一条の「神仏を信ずること」に始まり、早寝早起き、質素倹約、主君への奉公の心得、友人選び、火の用心といった、個人の倫理観や日常生活における心構えが中心となっている 6 。そこには、喧嘩両成敗のような裁判規範や、具体的な刑罰規定は一切含まれていない。
この比較から、 『早雲寺殿廿一箇条』は、法的な強制力や罰則を伴う「分国法」ではなく、後北条家の家臣たる者が守るべき内面的な規範や行動指針を示した「家訓(家法)」である と明確に結論づけることができる。ただし、後北条氏の統治理念の根幹をなす精神的支柱であり、その後のより具体的な法制度(いわゆる「国法」)が整備される上での基礎となったという意味合いから、「分国法の祖形」と評価されることもある 9 。
では、なぜ氏綱は、まず強制力のある「法」ではなく、道徳的な「家訓」を重視したのか。その背景には、後北条氏が伝統的な権威を持たない新興勢力であったという事実がある。足利氏や伝統的な守護大名のような「家柄」による権威を持たない後北条氏の家臣団は、古くからの譜代の家臣だけでなく、旧敵からの降将や新たに召し抱えられた者など、多様な出自の人間で構成される雑多な集団であった。このような集団を、上からの法で縛り付けるだけでは、表面的な服従しか得ることはできない。
そこで氏綱は、家臣団から深く尊敬される創業者・早雲の言葉として、誰もが普遍的に正しいと納得できる道徳(勤勉、正直、倹約、忠誠)を説くという手法を選んだ。これにより、「我々は皆、偉大な早雲公の教えを守る一つの家族・共同体なのだ」という共通のアイデンティティと連帯感を、家臣一人ひとりの内面に植え付けようとしたのである。これは、現代の企業経営において、厳格な就業規則(法)を制定する前に、まず組織の理念や価値観、すなわち「ミッション・ビジョン・バリュー」(企業文化)を確立し、浸透させるアプローチに酷似している。氏綱は、武力や法制度といった「ハードパワー」だけでなく、価値観の共有という「ソフトパワー」を巧みに駆使して国家建設を進めた、極めて先進的な経営感覚を持つ指導者であったと評価できよう。
第三章:二十一箇条の徹底解剖 ― 戦国武士の日常と精神
『早雲寺殿廿一箇条』は、その簡潔な文体の中に、戦国乱世を生き抜くための極めて実践的な知恵と、後北条氏が家臣に求めた具体的な人間像を凝縮している。本章では、まず全条文の概要を一覧で示し、その後、内容をテーマ別に分類して深く掘り下げ、そこに込められた意味を解き明かす。
表1:『早雲寺殿廿一箇条』全条文一覧
条文番号 |
原文(読み下し) |
現代語訳の要旨 |
主旨キーワード |
第一条 |
佛神事を信ず可き事 |
仏様や神様を信じ、敬うこと。 |
神仏崇拝 |
第二条 |
朝早く起き可き事 |
朝は早く起きること。遅くまで寝ていると主君の信頼を失う。 |
早起き |
第三条 |
夕早く寝ぬ可き事 |
夜は早く寝ること。夜更かしは無駄が多く、危険でもある。 |
早寝 |
第四条 |
手水の事 |
何事も慎み深く行うこと。無駄遣いや無遠慮な態度は見苦しい。 |
慎み・節水 |
第五条 |
拝の事 |
常に素直で正直な心を持つこと。それが真の礼拝である。 |
正直・誠実 |
第六条 |
刀・衣裳の事 |
刀や衣服は分相応に質素であるべきこと。見栄を張らない。 |
質素倹約 |
第七条 |
結髪の事 |
常に身だしなみを整えておくこと。油断した姿は不作法である。 |
身だしなみ |
第八条 |
出仕の事 |
出仕した際は、まず状況を把握してから主君の前に出ること。 |
出仕の心得 |
第九条 |
上意を承る時の事 |
主君の命令は謹んで受け、報告はありのままに行うこと。 |
拝命・報告 |
第十条 |
雑談虚笑を為す可からざる事 |
主君の前で無駄話や大笑いをしないこと。 |
私語厳禁 |
第十一条 |
諸事、人に任す可き事 |
多くの人と交わり、問題を避け、物事を人に任せる術を学ぶこと。 |
処世術 |
第十二条 |
読書の事 |
書物を読み、文字を学ぶこと。学問は常に必要である。 |
読書・学問 |
第十三条 |
宿老祗候の時の礼義の事 |
重臣がいる場では、礼儀をわきまえ、謙虚に振る舞うこと。 |
礼儀作法 |
第十四条 |
虚言を申す可からざる事 |
決して嘘をついてはならない。正直であることが肝要である。 |
虚言の禁止 |
第十五条 |
歌道を学ぶ可き事 |
和歌の道を学ぶこと。教養として身につけるべきである。 |
歌道 |
第十六条 |
乗馬の事 |
勤務の合間にも乗馬の稽古を怠らないこと。 |
乗馬訓練 |
第十七条 |
朋友を選ぶ可き事 |
良い友人を選ぶこと。悪友は遠ざけるべきである。 |
友人選び |
第十八条 |
四壁・垣牆を修理す可き事 |
自宅の壁や垣根は常に修理し、きちんと管理すること。 |
家屋管理 |
第十九条 |
門の事 |
門は人の出入りがある時以外は閉めておき、防犯に努めること。 |
戸締り・防犯 |
第二十条 |
火の事、用心す可き事 |
火の用心を徹底すること。自ら確認し、家人に指示すること。 |
火の用心 |
第二十一条 |
文武弓馬の道の事 |
文武両道を常に心がけること。これは武士の常道である。 |
文武両道 |
(出典: 4 に基づき作成)
テーマ別分析
1. 武士としての基本姿勢(自己規律)
第二条(早起き)、第三条(早寝)、第四条(慎み)、第六条(質素倹約)、第七条(身だしなみ)などは、武士としての基本的な生活態度を規定している 4 。これらは単なる生活習慣の推奨ではない。例えば、第二条・第三条では「遅く起きると、家来も気が緩んで用事が果たせなくなり、主君の信頼を失う」「無駄な夜更かしで薪を無駄にし、寝しなに夜盗の被害にあえば世間の評判を落とす」と、極めて具体的な理由が述べられている 4 。これは、武士の日常の隅々までが、主君への奉公や家の安泰と直結しているという強烈な意識の表れである。いつ敵襲があるか分からない戦国時代において、早寝早起きは即応体制を維持するための基本であった。
また、第六条の質素倹約は、華美に流れて没落していった旧来の権力者たちへの反面教師であり、実力でのし上がってきた新興大名としてのアイデンティティを示すものであった。見栄や体裁よりも実利を重んじるという、後北条氏の基本的な価値観がここに表明されている。
2. 主君への奉公(組織人としての心得)
第八条(出仕の心得)、第九条(上意の受け方)、第十条(雑談虚笑の禁止)、第十四条(虚言の禁止)などは、組織の一員としての振る舞いを細かく規定している 4 。特に注目すべきは第八条の「出勤した時は、いきなり主君の前に顔を出さないほうがよい。まず次の間にひかえ、同僚の様子をみて状況をつかんでから御前に参上しなさい」という教えである 4 。これは単なるマナーではなく、場の空気を読み、的確な状況判断を下すという高度な政治的感覚を家臣に求めている。
第十四条の「上下万人に対して、ほんの少しでも嘘をついてはならない」という戒めは、組織運営の根幹に関わる極めて重要な規範である 4 。報告・連絡・相談の正確性が担保されなければ、主君は正しい意思決定を下すことができない。嘘が蔓延する組織は、内部から崩壊する。この条文は、後北条氏が信頼と情報共有を基盤とした強固な組織を目指していたことを示している。
3. 自己研鑽と人間関係(能力開発とリスク管理)
第十二条(読書)、第十五条(歌道)、第十六条(乗馬)、そして第二十一条(文武両道)は、武士としての継続的な能力開発を奨励している 4 。一方で、第十七条(朋友選び)では、「悪友として除くべきは、碁・将棋・笛・尺八の遊び友達だ」と断じている点が極めて特徴的である 4 。これは、武芸や学問といった実利に直接結びつかない遊興に時間を費やすことを厳しく戒める、後北条氏の徹底した功利主義・現実主義の表れと言える。人間関係すらも、自己の成長と家の安泰に資するか否かという厳しい基準で判断させる。これは、友人付き合いが原因で家が傾くこともあり得た戦国時代における、一種のリスク管理であった。
4. 家政と危機管理(一家の主としての責務)
第十八条(家屋の修繕)、第十九条(門の管理)、第二十条(火の用心)は、武士を単なる戦闘員としてではなく、自身の家と家人を管理する「経営者」として捉えている 4 。特に第二十条の火の用心に関する記述は示唆に富む。「多くの者を召し使っているとしても、全てを人にさせようと思わず、まず自分が行って状況を把握し、その上で後には人に任せてもよいものだと心得るのがよい」 4 。これは、現代のマネジメント論における「現場主義」や「権限委譲」の考え方に通じる。家の管理も、領国の経営も、その基本原理は同じであるという思想が見て取れる。城下町が木造家屋で密集していた当時、一軒の火事が城全体の危機に直結しかねなかった。日常の危機管理能力が、そのまま武士としての総合的な能力評価に繋がっていたのである。
これらの条文全体を貫く根底的な思想は、「 油断の排除 」と「 実利の追求 」である。身だしなみの乱れ、寝坊、無駄話、悪友との交際、火の不始末。これら全てが、家の存続を脅かす致命的なリスクとなりうる「油断」として捉えられている。戦国時代とは、いつどこで命を落とし、家が滅亡するかわからない極限状態であった。日常生活の些細な規律を守ることが、そのまま自らの家と命を守るサバイバル戦略に直結していたのである。『早雲寺殿廿一箇条』は、武士道を抽象的な精神論や美学として語るのではなく、家を存続させるための極めてプラグマティックな**「リスクマネジメント・マニュアル」**として機能していた。後北条氏の強さの源泉は、このような徹底した現実主義にあったことを、これらの条文は雄弁に物語っている。
第四章:精神から統治へ ― 後北条氏百年支配の礎
『早雲寺殿廿一箇条』に示された精神は、単なる道徳的なお説教に終わらなかった。それは後北条氏の家臣団に共通の価値観を植え付け、その価値観が具体的な統治政策へと結実することで、約百年にわたる関東支配の強固な礎となった。この章では、家訓という「理念」が、いかにして優れた「統治システム」へと展開されていったのかを論証する。
理念から政策への展開
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「正直・公正」の実践 ― 虎の印判状と信頼の行政
第十四条で説かれた「虚言を申す可からざる事(嘘をついてはならない)」という教えは、個人の倫理を超え、為政者としての公正さの基盤となった 4。二代目・氏綱が導入した「虎の印判状」は、まさにこの精神の具現化であった 13。朱印なき命令書を無効とすることで、家臣が勝手に税を取り立てたり、領民に不当な労役を課したりすることを防いだ。これにより、領民は後北条氏の統治に信頼を寄せ、安心して生産活動に励むことができた。正直で公正な行政が、領国の安定と発展の根幹をなしたのである。 -
「倹約・民本」の実践 ― 税制改革と民生の安定
第六条の「分をわきまえて質素であれ」という精神は、家臣個人の倹約に留まらず、民衆への過度な収奪を戒める思想へと繋がった 4。三代目・氏康の時代には、この理念がさらに発展し、画期的な税制改革として結実する。氏康は、他国では五公五民やそれ以上の税率が当たり前であった時代に、原則として「四公六民」という比較的低い税率を適用したとされる 24。これは、領民の生活を安定させることが、結果として国の富を増大させるという、長期的な視点に立った善政であった。家訓に示された倹約の精神が、民を慈しむ民本思想へと昇華し、具体的な政策として実行されたのである。 -
「実利・効率」の実践 ― 検地と官僚制度
二十一箇条全体に流れる実利主義と効率性の追求は、後北条氏の先進的な行政システムに色濃く反映されている。初代・早雲の時代から検地(土地調査)が行われていた記録があり、これは戦国大名の中でも極めて早い事例である 25。氏康の時代には、この流れがさらに推し進められ、『小田原衆所領役帳』と呼ばれる詳細な家臣団の台帳が作成された 24。これにより、各家臣が動員すべき兵力や負担が明確化され、極めて効率的な軍事・行政運営が可能となった。また、公文書に手書きの花押ではなく虎の印判を用いたことも、煩雑な手続きを簡略化し、行政の効率を高めるための合理的な工夫であった 26。 -
「規律・清潔」の実践 ― 城下町・小田原の繁栄
日常の規律や家の管理を重んじる教えは、そのまま都市経営にも応用された。氏康が治めた本拠地・小田原は、全国から職人や文化人が集まる東国最大の都市へと発展したが、その繁栄は経済力だけによるものではなかった 24。天文20年(1551年)に小田原を訪れた京の僧・東嶺智旺は、その整然とした街並みを「町の小路数万間、地に一塵無し」と記録している 26。家訓によって培われた規律正しさと清潔を尊ぶ精神が、家臣から領民に至るまで社会全体に浸透し、よく統治された美しい城下町を生み出した証左と言えよう。
このように、『早雲寺殿廿一箇条』によって家臣団に植え付けられた「人づくり」の理念が、優れた「仕組みづくり」である統治政策を可能にした。正直で勤勉な官僚がいたからこそ、公正な税制や効率的な行政システムが円滑に機能した。そして、優れた仕組みが、家臣や領民の規律をさらに強化するという好循環が生まれたのである。家訓が行動規範を植え付け、その規範に則った家臣が公正な行政を行い、領民の信頼を得て国が富み、その国力でさらなる発展を遂げる。この連鎖こそが、後北条氏の百年支配を支えた原動力であった。
後北条氏の成功は、単なる軍事力の結果ではない。『早雲寺殿廿一箇条』という 組織文化の設計図 に基づき、人材育成と制度設計を両輪で進めた、極めて高度な**国家経営(ステート・ビルディング)**の成功例であった。この家訓は、その壮大な経営計画の核となる理念そのものであった。
結論:戦国における秩序形成のモデルとしての『早雲寺殿廿一箇条』
本報告書を通じて行ってきた多角的な分析の結果、『早雲寺殿廿一箇条』は、1523年という特定の年に制定された単一の「分国法」ではなく、初代・北条早雲の死後、二代目・氏綱の治世初期に関東制覇という壮大な目標に向けて、家臣団の精神的支柱として確立された「家訓」であったと結論づけることができる。その成立は、創業者亡き後の組織の結束を図り、目前に迫った旧権力との決戦に備えるという、極めて戦略的な意図に基づいていた。
本文書は、法による上からの強制に先立ち、共通の価値観によって組織を内側から固めるという、後北条氏の巧みな統治戦略を象徴するものである。その内容は、下剋上という混沌の時代を生き抜くための徹底した現実主義とリスク管理思想に貫かれている。早寝早起きから友人選び、火の用心に至るまで、日常生活のあらゆる側面を規律の対象とすることで、「油断」という最大の敵を排除し、家と組織の存続を確かなものにしようとした。この意味において、本文書は単なる道徳訓を超えた、**「戦国的組織論」**としての普遍的な価値を持つ。
そして、この家訓によって培われた実直で規律正しい家風は、理念に留まることなく、虎の印判状による公正な行政、四公六民に代表される民本的な税制、そして検地に基づく効率的な国家運営といった具体的な統治政策へと結実した。理念としての「人づくり」が、優れた「仕組みづくり」を可能にし、その好循環が後北条氏百年の繁栄の礎を築いたのである。
戦国時代とは、旧来の秩序が崩壊し、新たな秩序が模索された時代であった。『早雲寺殿廿一箇条』は、武力のみに頼るのではなく、組織文化の醸成というソフトパワーを駆使して新たな秩序を創造しようとした、後北条氏の先進的な試みの記録である。そこで示された武士としての心構えや実利を重んじる精神は、後の江戸時代における武家諸法度や武士道の形成にも、間接的な影響を与えた可能性があり、戦国時代の秩序形成の一つの優れたモデルとして、今後も研究されるべき価値を持つと言えよう 4 。
引用文献
- 5分でわかる!戦国大名(東北・関東) https://www.try-it.jp/chapters-12583/lessons-12747/
- 【第二項 後北条氏の抬頭】 - ADEAC https://adeac.jp/chiba-city/text-list/d100010/ht003030
- 北条五代外伝pdf - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/285069/1-20160921171525.pdf
- 早雲寺殿二十一箇条 - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/p09809.html
- #33 - 神奈川県立の図書館 https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/uploads/2020/12/033souunjidono21kajou.pdf
- 早雲寺殿廿一箇条 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E9%9B%B2%E5%AF%BA%E6%AE%BF%E5%BB%BF%E4%B8%80%E7%AE%87%E6%9D%A1
- 甲状腺外科草子 73 - 伊勢新九郎の廿一箇条:北条早雲 https://www.tsuchiya-hp.jp/pdf/tty-geka-soushi-73.pdf
- 大まかな歴史の流れ 4 中世 3伊勢宗瑞・氏綱~武蔵制覇 | 東大和の歴史 https://higashiyamato.net/higashiyamatonorekishi/1231
- 北条早雲 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%97%A9%E9%9B%B2
- 祿壽應穩 PDF形式 - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/115286/1-20191125152111.pdf
- 「北条氏康」関東支配を巡り、上杉氏と対立し続けた後北条氏3代目の生涯とは https://sengoku-his.com/368
- 東日本の戦国時代 https://umenoyaissei.com/higashinihonnosengokujidai.pdf
- 北条氏綱 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/hojo-ujitsuna/
- キャリア・クラッシス④ 北条早雲|つのだこうじ - note https://note.com/pf_cody/n/n51736e31c783
- 北条早雲の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7468/
- 戦国大名の 「法度」 と分国法 : 中国の法典と比 較して - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/223195683.pdf
- 【戦国時代の豆知識】分国法ってなに? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=vfUfZfXvdZ8
- 戦国時代における「分国法」とは?登場した時代背景や存在意義について徹底解説! https://sengoku-his.com/1093
- 分国法 https://hiroseki.sakura.ne.jp/bunkoku.html
- 自由気ままな家臣たちに悩んでます。 戦国大名の気苦労がにじみ出ている分国法「結城氏新法度」 https://mag.japaaan.com/archives/137820
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- 氏康の領国経営 - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/007/
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