最終更新日 2025-09-11

明応の政変(1493)

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明応の政変(1493)―戦国乱世を決定づけたクーデターの全貌―

序章:なぜ「明応の政変」が戦国時代の始点なのか

日本の歴史において、群雄が割拠し、下剋上が常態化した「戦国時代」の始まりは、長らく応仁の乱(1467-1477)に求められてきた。しかし、近年の研究では、その見方が大きく見直されつつある。応仁の乱が室町幕府の権威を揺るがす長期の内乱であり、戦国時代の「序章」であったことは間違いない。だが、幕府の統治構造そのものを根底から覆し、本格的な戦国乱世の「開幕」を告げた画期的な事件は、応仁の乱の終結から16年後、明応二年(1493年)に発生した「明応の政変」であったとする見方が有力となっている 1

応仁の乱は、あくまで将軍家の後継者問題や有力守護大名家の家督争いに端を発した、幕府という枠組みの内部における権力闘争であった。それに対し明応の政変は、管領家の当主という一介の家臣が、現職の将軍を武力によって追放し、自らが選んだ傀儡を将軍に据えるという、前代未聞のクーデターであった 1 。これは、将軍が絶対的な権威であった時代が終わり、有力大名が将軍を「選び、擁立し、追放する」時代へと、日本の権力構造が不可逆的に転換した瞬間を意味する。

本報告書は、この明応の政変の全貌を、その背景、リアルタイムな経過、そして歴史的意義の三つの視点から徹底的に解明する。将軍・足利義稙の失脚と細川政元の政権掌握という事象の背後にあった複雑な人間関係、政治的力学、そして時代の大きなうねりを描き出すことで、なぜこの事件が戦国時代の真の始点と見なされるのかを論証することを目的とする。

第一章:政変前夜―崩壊する室町幕府の権威

第一節:応仁の乱が残した深い傷跡

十一年にも及ぶ応仁の乱が文明九年(1477年)に終結したとき、日本の中心であった京都は焦土と化し、室町幕府の権威は地に堕ちていた 5 。乱は明確な勝者を生まないまま終息し、中央の統制力は著しく低下した。その間隙を縫って、地方の守護大名たちは幕府から半ば自立し、領国経営の強化に乗り出す「戦国大名」への脱皮を始めていた 6

そもそも応仁の乱の一因は、8代将軍・足利義政の後継者問題にあった。長らく男子に恵まれなかった義政は、仏門にあった弟の義視を還俗させて後継者とした。しかしその直後、正室の日野富子が実子・義尚を産んだことで、二人の将軍候補が並び立つ事態となり、これが有力守護大名である細川勝元と山名宗全の対立と結びつき、国家を二分する大乱へと発展したのである 5 。乱の終結後も、このときに生まれた幕府内の深刻な対立構造は、火種として燻り続けていた。

第二節:9代将軍・足利義尚の挑戦と挫折

応仁の乱の最中、文明五年(1473年)にわずか9歳で9代将軍に就任した足利義尚は、若さゆえに実権を握れず、政務は父・義政や母・日野富子によって壟断されていた 7 。成長するにつれ、この「お飾り将軍」という立場に強い不満を抱いた義尚は、失墜した将軍権威の回復を自らの手で成し遂げようと試みる。

その最大の挑戦が、長享元年(1487年)に始まった近江守護・六角高頼の討伐(長享・延徳の乱、通称「鈎の陣」)であった。義尚は自ら大軍を率いて近江へ親征し、将軍の軍事力を天下に示そうとした 5 。しかし、六角氏のゲリラ戦術に苦しみ戦いは長期化。義尚は戦果を挙げられないまま陣中に留まり続け、延徳元年(1489年)3月、失意のうちに25歳の若さで病没してしまう 3 。将軍権威の回復を賭けたこの軍事行動の失敗は、幕府の無力さをさらに露呈させ、権威失墜の流れを決定的なものとした。

第三節:10代将軍・足利義稙の誕生と潜在的対立

義尚の急死により、幕府は再び後継者問題に直面する。候補者は二人。一人は、応仁の乱で西軍の盟主であった足利義視の子・義材(よしき、後の義稙)。もう一人は、関東を治める堀越公方・足利政知の子で、出家していた清晃(せいこう、後の義澄)であった 7

ここで、幕府内の複雑な政治力学が露わになる。前将軍・義政と、管領であり幕府随一の実力者であった細川政元は、清晃(義澄)を推した。しかし、義尚の母として、また義政の正室として長年幕政に君臨してきた日野富子が、自らの甥(富子の妹が義視の妻)にあたる義材を強力に後援した 7 。延徳二年(1490年)に義政が死去すると、富子の意向が決定打となり、義材が10代将軍に就任した。

この義材(義稙)の将軍就任は、応仁の乱の対立構造を再燃させる極めて危険な火種であった。なぜ細川政元は、これほどまでに義稙を忌避したのか。その理由は、親子二代にわたる根深い宿怨にあった。政元の父・細川勝元は、応仁の乱で東軍の総大将として、義稙の父・義視が担がれた西軍と死闘を繰り広げた張本人である 10 。政元にとって、宿敵の息子が将軍となることは、自らの政治的立場を根底から脅かす悪夢に他ならなかった。

さらに、幕府の財政と行政を司る政所執事・伊勢貞宗もまた、義稙の就任に強く反発した。貞宗の父・伊勢貞親は、かつて義視の暗殺を8代将軍・義政に進言して失脚した過去があった(文正の政変) 10 。貞宗が、父の仇敵の子である義稙から報復されることを恐れたのは当然であった。このように、義稙の将軍就任は、細川氏や伊勢氏といった「旧東軍派閥」にとって、自らの政治生命の危機と直結していた。この恐怖と反感が、やがて来るクーデターへと向かう強力な動機となったのである。

第二章:将軍義稙と管領政元―避けられぬ対立の構造

第一節:武断政治による権威回復への道

将軍に就任した足利義稙は、父・義視の死を乗り越え、前代の義尚が目指した路線を継承する。すなわち、軍事行動によって将軍の権威を再確立しようとする武断政治である。まず手始めに、義尚が果たせなかった近江の六角高頼討伐を再開し、これを成功させた 6 。これにより義稙は一定の権威を示すことに成功したが、その強権的な手法は、幕府内での合議を軽んじ、将軍親政を目指す動きと見なされた。これは、管領として幕政を主導してきた細川政元ら、既存の権力層との間に深刻な溝を生む結果となった 4

第二節:河内畠山氏の内紛と将軍の介入

次なる義稙の標的は、応仁の乱以来、泥沼の抗争を続けていた河内国の畠山氏であった。義稙は、自らの将軍就任に功のあった管領・畠山政長を支援するため、その対立相手である畠山基家(義就の子・義豊)の討伐を決定。あろうことか、将軍自らが軍を率いて河内へ出陣するという異例の行動に出た 6

この出兵は、多くの守護大名にとって「畠山家の私闘への将軍の過剰介入」と映った。特に、先の六角討伐で多大な戦費を負担させられた諸将の不満は大きかった 7 。細川政元はこの出兵に公然と反対し、従軍を拒否。将軍と管領の対立は、もはや誰の目にも明らかとなった 13

第三節:水面下の陰謀―クーデターへの序曲

将軍・義稙と、彼を支える畠山政長が、幕府の主力を率いて京都を長期間留守にすること――これは、細川政元にとってまさに千載一遇の好機であった 4 。政元は、この機会を逃さなかった。

彼は水面下で、義稙の独断専行に不満を募らせていた日野富子、そして義稙を危険視する伊勢貞宗と密かに連携を深めていった。さらには播磨守護の赤松政則なども味方に引き入れ、クーデターの準備を着々と進めていたのである 1 。当時の記録『大乗院寺社雑事記』には、政変直前の明応二年二月、政元が「伊勢貞宗以下、大名らとはすでに話がついている」と周囲に豪語していたと記されており、その計画がいかに周到に進められていたかが窺える 10

ここで注目すべきは、かつて義稙を将軍に推した日野富子の変心である。これは単なる気まぐれではない。応仁の乱を通じて、富子は将軍に代わる事実上の最高権力者として君臨していた 7 。彼女にとって将軍とは、自らの権力を保証するための駒に過ぎなかった。当初は甥である義稙を将軍にすることで影響力を保持しようとしたが、義稙は父・義視と共に将軍親政を志向し、富子の意のままにならなかった 9 。富からすれば、コントロール不能な義稙よりも、若年の足利義澄を新たな将軍とし、細川政元と手を組む方が、自らの政治的・経済的権益(彼女は莫大な富を蓄財し、高利貸しとしても活動していた 8 )を守る上で得策だと判断したのである。この変心は、彼女の卓越した政治的嗅覚と、権力維持への執念が生んだ冷徹な政治判断であった。

第三章:明応二年、動乱の刻―政変のリアルタイム・クロノロジー

将軍と管領の対立が頂点に達した明応二年(1493年)、歴史は大きく動いた。ここでは、事変の推移を可能な限り日付と共に追い、そのリアルタイムな展開を再現する。

月日 (1493年)

場所

出来事

主要人物

2月23日頃

京都

細川政元、クーデター計画について「大名らと話がついている」と豪語。

細川政元、伊勢貞宗

3月

河内国

将軍・足利義稙、畠山政長と共に河内へ出陣。畠山基家の高屋城を包囲。

足利義稙、畠山政長

4月22日

京都

細川政元が蜂起。清晃(足利義澄)を新将軍として擁立。義稙派の邸宅を襲撃。

細川政元、足利義澄、日野富子

4月23日

京都

後土御門天皇、将軍の勝手な廃立に激怒し譲位を決意するも、費用の問題で断念。

後土御門天皇

閏4月21日

堺(和泉国)

畠山政長の援軍(紀伊勢)が、細川方の赤松政則軍に敗北。

畠山政長、赤松政則

閏4月25日

正覚寺(河内国)

細川軍が義稙・政長の本陣・正覚寺を総攻撃。政長は自刃。義稙は投降・捕縛される。

足利義稙、畠山政長、細川政元

5月

京都

義稙、京都へ護送され、龍安寺に幽閉される。

足利義稙

6月29日夜

京都

義稙、幽閉先の上原元秀邸から脱出。越中を目指す。

足利義稙、上原元秀

7月

越中国放生津

義稙、越中守護代・神保長誠に迎えられ到着。「越中公方」政権が発足。

足利義稙、神保長誠

第一節:二月~三月 河内への出陣

明応二年三月、将軍・足利義稙は畠山政長と共に河内へ出陣した。畠山基家が籠城する高屋城を包囲し、周辺の支城を次々と陥落させる。戦況は当初、義稙・政長方に有利に進み、勝利は時間の問題かと思われた 16 。しかし、彼らの背後、将軍不在の京都では、細川政元の恐るべき陰謀が最終段階に入っていた。

第二節:四月二十二日 京都の激震

四月二十二日、政元は京都で電撃的にクーデターを決行した。日野富子、伊勢貞宗らと連携し、天龍寺香厳院にいた清晃を還俗させ、11代将軍・足利義澄として一方的に擁立したのである 10 。同時に、政元は軍を動員して義稙派の武将の邸宅や寺院を襲撃し、首都・京都を完全に制圧した 14 。この知らせは、遠く河内の義稙の陣営に届き、未曾有の衝撃と大混乱をもたらした 19

この前代未聞の暴挙に対し、朝廷も無力であった。時の後土御門天皇は、家臣による将軍の勝手な廃立に激怒し、抗議の意を示すために譲位まで決意した 19 。これは、天皇がこのクーデターを全く正当なものと見なしていなかった動かぬ証拠である。しかし、応仁の乱以来の財政難に苦しむ朝廷には、譲位の儀式を執り行う費用すらなかった。皮肉なことに、その費用を捻出するには、クーデターの首謀者である政元に援助を請わねばならないという、絶望的な自己矛盾に陥っていたのである 20 。結局、天皇は怒りを飲み込み、義澄の将軍就任を追認せざるを得なかった。武力が伝統的権威を完全に凌駕した瞬間であり、戦国時代の本質を象徴する出来事であった。

第三節:閏四月 正覚寺の悲劇

京都でのクーデターの報は、河内の将軍軍に致命的な動揺を与えた。「将軍が二人いる」という異常事態に、義稙に従っていた大名たちは次々と戦線を離脱し、京都へ引き返してしまった 7 。将軍・義稙と畠山政長は、わずか2,000の兵と共に、本陣としていた正覚寺(現在の大阪市平野区)に孤立した 7

一方、細川政元は4万ともいわれる大軍を正覚寺へ派遣。追い詰められた政長は、領国である紀伊からの援軍を最後の頼みとしていた。しかし、約1万の紀伊勢は正覚寺へ向かう道中の堺で、政元方に付いた赤松政則の軍に迎撃され、激戦の末に壊滅してしまった 13

閏四月二十五日、援軍到着の望みが絶たれ、兵糧も尽きた正覚寺に対し、細川軍の総攻撃が開始された。もはやこれまでと悟った畠山政長は、嫡子・尚順を辛うじて脱出させた後、潔く自刃して果てた。主君を失った将軍・足利義稙は、細川軍に投降し、その身柄を拘束された 13

第四節:五月~六月 囚われの将軍、そして脱出

捕虜となった義稙は、戦勝者である細川方の兵に護送され、京都へと連れ戻された。当初は龍安寺に、次いでクーデターの実行部隊を率いた政元の家臣・上原元秀の屋敷に幽閉された 12

将軍の座を追われ、囚われの身となった義稙であったが、彼の闘志は消えていなかった。六月二十九日の夜、義稙は側近らの手引きにより、厳重な監視の目をかいくぐって幽閉先からの脱出に成功する。そして、かつての盟友・畠山政長の旧臣たちが勢力を保つ越中を目指し、京の闇へと消えていった 10 。この劇的な脱出劇は、明応の政変がまだ終わっておらず、新たな戦乱の幕開けに過ぎないことを天下に示すものであった。

第四章:二人の将軍―越中公方と細川政権の成立

第一節:放浪の将軍、越中に立つ

京都を脱出した足利義稙は、苦難の末に越中国射水郡放生津(現在の富山県射水市)にたどり着いた。そこで彼は、畠山政長の重臣であった越中守護代・神保長誠らに温かく迎えられ、正光寺を仮の御所とした 10 。これは、後に「越中公方(または放生津幕府)」と呼ばれる亡命政権の始まりである。

義稙は越中から、「自分こそが正統な将軍である」と天下に宣言し、各地の大名に細川政元討伐を命じる御内書(命令書)を発した。これにより、京都の足利義澄と越中の足利義稙という、二人の将軍が同時に並び立つという前代未聞の事態が発生した。室町幕府の公権力は完全に二分され、日本は新たな対立の時代へと突入したのである 12

第二節:「半将軍」細川政元の権力掌握

一方、京都ではクーデターを成功させた細川政元が、新将軍・足利義澄を擁立し、幕政の実権を完全に掌握した。その権勢は絶大で、管領という役職に就かずとも幕府を意のままに動かしたことから、「半将軍」と称された 4

しかし、政元の権力基盤は必ずしも盤石ではなかった。幕府の官僚機構は依然として政所執事の伊勢氏が掌握しており、両者の間には常に政治的な駆け引きと緊張関係が存在した 10 。また、政元自身は修験道に深く傾倒し、女性を近づけないなど奇行が多く、その特異な性格が、彼の統治に不安定な要素をもたらしていた 4

第三節:政変の全国への波及

中央での政変は、直ちに全国各地へ大きな影響を及ぼした。明応の政変は、単なる中央の政権交代劇ではなく、全国の地方勢力に「どちらの将軍につくか」という新たな選択を迫る、戦乱の枠組みそのものを創り変える事件となったのである。

これまでの戦乱は、基本的に京都の幕府という単一の権威を巡る争いであった。しかし、義稙が「越中公方」として健在である限り、地方の守護大名や国人は、京都の細川政権に従うか、越中の義稙を支持してその再上洛に協力するかの二者択一を迫られた。義稙は越中を拠点に、北陸の諸勢力や西国の雄・大内氏などを頼り、反攻の機会を窺った 16 。一方、政元はこれに対抗して各地に討伐軍を派遣した 16 。この「二つの幕府」の対立構造が、その後の「永正の錯乱」や「両細川の乱」といった長期にわたる畿内の戦乱の直接的な原因となり、全国規模で大名間の抗争を激化させる触媒となった。

具体的な波及例として、以下の二点が挙げられる。

  • 山城国一揆の終焉: 応仁の乱後、武士を追放して8年間にわたり自治を行ってきた山城国一揆は、この政変を機に終焉を迎えた。政変後、伊勢氏と細川氏が山城国の支配権を巡って一揆を構成する国人層の切り崩しを図ったため、国人たちが分裂。結果として、一揆は内部から崩壊し、解体に追い込まれた 10
  • 伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆討ち入り: 近年の有力説では、関東における戦国時代の幕開けを告げる伊勢宗瑞の伊豆侵攻も、この政変と連動していたとされる。新将軍・義澄の母と弟を殺害した堀越公方・足利茶々丸を討伐するため、義澄の命を受けた宗瑞が行動を起こしたというもので、中央の政変が関東の情勢をも大きく動かしたことを示している 10

第五章:政変が創り出した「戦国」―歴史的意義と後世への影響

第一節:将軍権威の完全失墜と構造的変化

明応の政変が日本史に与えた最も大きな影響は、将軍の権威を決定的に失墜させたことである。この事件は、将軍がもはや神聖不可侵の存在ではなく、有力守護大名の武力によって意のままに廃立されうる存在であることを、天下に知らしめた 1 。以降、足利将軍は実力者の「傀儡」となり、その権威は名目だけのものへと転落していく 6

これにより、将軍の権威を頂点とする室町幕府の権力構造は事実上崩壊した。将軍の権威に支えられていた守護大名の領国支配体制もまた、その正統性の根拠を失い大きく揺らいだ。この権力の空白状態が、各地で守護代が守護を、国人が領主を倒すといった「下剋上」が本格化する土壌を育んだのである 1

第二節:細川京兆家独裁体制の確立とその限界

政変後、細川政元は将軍を意のままに操ることで、細川京兆家(管領を輩出する細川氏の嫡流)による事実上の独裁体制を築き上げた。しかし、この権力構造は、それ自体に崩壊の種を内包していた。政元は実子がいなかったため、三人の養子(澄之、澄元、高国)を迎えたが、これが彼の死後、深刻な内紛の火種となる 4

永正四年(1507年)、政元が家臣によって暗殺されると(永正の錯乱)、養子たちによる壮絶な家督争いが勃発。この争いは幕府と二人の将軍(義澄流と義稙流)を巻き込み、畿内を二十年以上にわたる泥沼の戦乱に陥れた(両細川の乱) 4 。明応の政変で確立された細川氏の権力は、皮肉にも次なる混乱の元凶となったのである。

第三節:下剋上の連鎖と戦国大名の誕生

明応の政変は、力ある者が上を凌ぐ時代の到来を告げる号砲であった。細川政元が示した「将軍の廃立」という衝撃的な前例は、後の時代の武将たちに大きな影響を与えた。将軍・足利義輝を殺害した三好長慶や、将軍・足利義昭を京都から追放した織田信長の行動の背景には、この政変によって作られた「力こそが正義」という時代の価値観が存在していたと言える 4

中央の混乱は、地方の自立を決定的に加速させた。守護、守護代、国人といった様々な階層の武士たちが、もはや機能しない幕府の権威を無視して、自らの実力で領国支配を確立し、「戦国大名」へと変貌を遂げていく。覇権への意欲と実力さえあれば、身分の上下に関係なく天下を望むことができる時代の幕が、この政変によって完全に開かれたのである 1

終章:明応の政変が日本史に残した刻印

明応の政変は、単なる一回のクーデターではなかった。それは、室町時代から戦国時代への移行を決定づけた、日本史上極めて重要な構造的転換点であった。統治の「理念」や「権威」が、「実力」によって完全に覆された瞬間であり、これ以降、日本の歴史は新たな、そしてより熾烈な競争の時代へと突入していく。

かつて応仁の乱が戦国時代の始まりとされてきた歴史観は、今や相対化されつつある。幕府の統治システムを回復不可能なまでに機能不全に陥らせ、下剋上の時代を不可逆的なものとしたこの明応の政変こそ、実質的な戦国時代の始点と捉えるべきである 1

この政変によって、足利将軍家は二つに分裂し、その権威は地に堕ちた。そして、その権威の廃墟の中から、力のみを信奉する新たな時代の支配者たち、すなわち戦国大名が誕生した。日本の歴史は、この明応二年(1493年)を境に、大きくその舵を切ったのである。

引用文献

  1. 明応の政変 - 歴史まとめ.net https://rekishi-memo.net/muromachijidai/meiounoseihenn.html
  2. 西暦1493年 - 明応の政変 - pahoo https://www.pahoo.org/culture/numbers/year/j1493b-jp.shtm
  3. 「下剋上」「戦国時代」もここから始まった!?乱世の発端になった「明応の政変」とは何か【前編】 https://mag.japaaan.com/archives/191923
  4. 【徹底解説】細川政元とは何者か?戦国時代への扉を開いた「オカルト武将」の奇行と実像 https://sengokubanashi.net/person/hosokawamasamoto/
  5. 明応の政変〜戦国時代の幕開けとなったクーデターをわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/643/
  6. 2人の将軍が誕生し混乱を生んだ「明応の政変」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22942
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  27. 細川政元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%94%BF%E5%85%83
  28. 1分で分かる日本の歴史 室町時代⑦ 「明応の政変」 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=BizExSDCXRg
  29. 室町幕府11代将軍/足利義澄|ホームメイト https://www.meihaku.jp/muromachi-shogun-15th/shogun-ashikagayoshizumi/
  30. 永正の錯乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%8C%AF%E4%B9%B1