明石浦港整備(1605)
明石浦港の本格整備は慶長十年ではなく、元和三年(1617年)明石藩成立後、小笠原忠真により開始。城・町・港一体の国家プロジェクトとして、瀬戸内海の要衝たる明石の礎を築いた。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
明石浦港整備の真相:慶長十年(1605年)の虚実と元和年間(1617年〜)における大変革の全貌
序論:慶長十年(1605年)、明石浦の情勢
日本の歴史、特に戦国時代から江戸時代初期にかけての転換期において、特定の年号を冠した事変は、その時代の政治・経済・軍事の力学を解き明かす鍵となる。ご提示された「明石浦港整備(1605年)」という事象は、まさにそのような探求の出発点となるものである。しかし、歴史の深層を探るには、まずその事象が置かれた時代の文脈を正確に把握することが不可欠である。慶長十年(1605年)という時点において、明石浦、そしてそれを含む播磨国がどのような状況にあったのかを解明することから、本報告は始まる。
関ヶ原の戦い後の播磨国と池田輝政の支配
慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが徳川家康率いる東軍の勝利に終わると、日本の権力構造は劇的に再編された。この戦いにおける功績により、家康の次女・督姫を正室とする池田輝政は、播磨一国52万石という破格の領地を与えられ、姫路城に入城した 1 。これにより、播磨国は輝政を藩祖とする姫路藩の広大な領国となり、彼はその絶大な権勢から「西国将軍」あるいは「姫路宰相百万石」と称されるほどの存在となった 2 。
輝政の播磨経営における最優先課題は、その権威の象徴であり、西国支配の拠点となる姫路城の大改築であった。慶長六年(1601年)から実に8年から9年の歳月と莫大な財力を投じ、今日我々が目にする壮麗な白亜の連立式天守閣群を完成させた 2 。この巨大プロジェクトは、輝政の治世におけるエネルギーの大部分が注がれた国家的な事業であり、彼の戦略的関心が姫路に集中していたことを物語っている。この時期、明石は独立した藩ではなく、広大な姫路藩の支配領域に含まれる一地域に過ぎなかった。
慶長十年(1605年)時点での明石浦
慶長十年(1605年)当時、明石浦がどのような役割を担っていたかを考える上で、戦国時代からの歴史を遡る必要がある。明石は、キリシタン大名として知られる高山右近が一時的に6万石で領し、船上城(ふなげじょう)を拠点としていた記録が残る 5 。しかし、輝政の時代には、徳川幕府による「一国一城令」の布告(元和元年、1615年)に先んじる形で、地方の支城の重要性は相対的に低下していた。
この時期の明石浦は、主に地元の漁業の拠点として、また、風光明媚な明石海峡を航行する比較的小規模な船舶が風や潮を待つための避難港(風待ち港)としての機能を果たしていたと推察される。しかし、全国的な物流を担う大規模な商業港としての役割を担っていたことを示す具体的な記録は乏しい。輝政の統治下において、播磨国の経済と物流の中心は、あくまで姫路の城下町とその外港に置かれていたのである。
「1605年整備」説の検証と池田輝政の港湾政策
池田輝政の港湾政策を検証すると、その戦略的重点がどこにあったかは明白である。輝政は、姫路城下の外港として古くから栄えた飾磨津(しかまつ、現在の姫路港飾磨区)を重視し、集中的な投資を行った。慶長六年(1601年)には、飾磨津に入江を整備し、船舶の管理や徴税を行う船役所を設置するなど、その機能を大幅に強化している 3 。これは、姫路城という政治・軍事拠点と、飾磨津という経済・物流拠点を直結させ、藩の富を最大化しようとする明確な意図の表れであった。
収集された各種資料を精査する限り、慶長十年(1605年)に池田輝政が明石浦において大規模な港湾整備事業を行ったという直接的な証拠は見出すことができない。この事実から導き出される結論は、輝政の戦略的焦点が姫路と飾磨津に絞られていたということである。明石は、西国街道と明石海峡が交差する地理的要衝ではあったものの、輝政の治世下では大規模な投資対象とはなり得なかった。
したがって、ご提示の「1605年の整備」という情報が指し示すものは、二つの可能性が考えられる。一つは、飾磨津における政策に比べればはるかに小規模な、例えば既存の船着場の補修や、航路の安全を確保するための浚渫(しゅんせつ)作業といった、日常的な維持管理活動を指している可能性。もう一つは、後述する元和三年(1617年)以降、小笠原忠真によって行われた歴史的な大事業と、時期が混同されて伝わった可能性である。いずれにせよ、慶長十年(1605年)という年が、明石の歴史における一大画期ではなかったことは明らかである。真の転換点は、その12年後に訪れることになる。
第一章:画期としての元和三年(1617年)―明石藩の誕生
慶長年間の播磨国において、明石は姫路の影に隠れた一地方に過ぎなかった。しかし、歴史の歯車は、大坂の陣を契機として大きく動き出す。明石が突如として歴史の表舞台に躍り出た背景には、徳川幕府による新たな国家秩序構築という、壮大な構想が存在した。元和三年(1617年)の明石藩の誕生は、単なる地方行政区画の変更ではなく、日本の地政学的な勢力図を塗り替える、計算され尽くした一手だったのである。
大坂の陣後の徳川幕府の西国支配戦略
慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川家による天下統一が完成した。しかし、幕府にとって西日本、特に豊臣恩顧の大名が多く残る西国は、依然として潜在的な脅威をはらむ地域であった。大坂城を幕府の西の拠点として再建すると同時に、西国大名を監視し、その力を牽制するための新たな戦略的拠点を効果的に配置することが、盤石な支配体制を築く上での喫緊の課題となった。
この国家戦略の一環として、幕府は西国大名の大規模な配置転換(転封)や領地の再編を断行する。その目的は、巨大な力を持つ外様大名を細分化し、その間に徳川家に絶対の忠誠を誓う譜代大名や、血縁の近い親藩大名を「楔(くさび)」として打ち込むことにあった。これにより、西国街道や瀬戸内海といった戦略的な交通路を幕府の管理下に置き、有事の際には西国大名の連携を分断し、東進を阻止する防衛ラインを構築しようとしたのである。
池田家の転封と播磨国の分割
この徳川幕府のグランドデザインの中で、巨大な姫路藩の存在は再検討の対象となった。池田家は徳川家の姻戚ではあるものの、その52万石という石高は西国において突出しており、一人の大名に西国の玄関口を委ね続けることは、幕府にとって潜在的なリスクと見なされた。
その結果、元和三年(1617年)、池田輝政の孫にあたる姫路藩主・池田光政は、因幡・伯耆(現在の鳥取県)へと転封されることとなった 2 。これにより、かつて池田輝政が支配した播磨一国は解体・分割され、その一部に新たに明石藩が立藩されることになったのである 7 。これは、単一の大大名による支配を解き、播磨国を複数の藩に分割することで、幕府の直接的なコントロールを強化する狙いがあった。そして、この新たな藩屏として白羽の矢が立てられたのが、明石の地であった。
初代藩主・小笠原忠真の入封
新たに立藩された明石藩10万石の初代藩主として、信濃国松本藩から入封したのが、小笠原忠真(ただざね、当初は忠政)である 7 。彼の出自は、この人事が持つ極めて重要な意味を物語っている。忠真の父方の曾祖父は徳川家康、母方の曾祖父は織田信長であり、まさに徳川・織田という二大巨頭の血を受け継ぐ「戦国のサラブレッド」であった 11 。
忠真は、慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣において、父・秀政と兄・忠脩(ただなが)を同時に失うという悲劇に見舞われながらも、若くして小笠原家の家督を継いだ人物である 10 。幕府が、このような血縁的に最も近く、忠誠心において疑いのない人物を、新たに創設した戦略的要衝・明石に配置したことの意味は大きい。これは、明石藩に与えられた任務が、単なる一地方の統治に留まらず、西国大名の監視と瀬戸内海の制圧という、国家の安全保障に直結するものであったことを示している。明石藩の立藩と小笠原忠真の入封は、偶然の産物ではなく、大坂の陣後の新たな地政学的秩序を構築しようとする徳川幕府の、明確な意志の表れだったのである。明石は、陸路たる西国街道と、海路たる瀬戸内海が最も接近する明石海峡を同時に扼する「鍵」としての役割を、この瞬間から担うことになった。
第二章:明石大改造プロジェクトの始動―城・町・港の一体的整備
元和三年(1617年)に初代藩主として小笠原忠真が入封したことで、明石は歴史的な転換期を迎えた。彼の使命は、単に一藩を治めることではなかった。徳川幕府の西国支配戦略の要として、この地に新たな軍事・経済拠点をゼロから築き上げること、それこそが忠真に課せられた壮大なプロジェクトであった。この「明石大改造プロジェクト」は、城の建設、城下町の設計、そして港湾の整備という三つの要素が、不可分の一体として計画・実行された点に、その本質的な特徴がある。
国家プロジェクトとしての明石城築城
プロジェクトの中核をなしたのは、言うまでもなく明石城の築城である。元和四年(1618年)、二代将軍・徳川秀忠は、忠真に対して正式に明石城の築城を命じた 11 。この命令が、単なる藩主への指示と一線を画すのは、その事業形態であった。幕府は築城費用として銀千貫(現代の貨幣価値で約31億円に相当)という巨額の資金を支出し、さらに普請奉行を派遣して工事を直接監督した 11 。これは、明石城の築城が小笠原藩単独の事業ではなく、幕府の威信をかけた国家プロジェクトであったことを明確に示している。
築城にあたっては、忠真の義父であり、当代随一の築城家でもあった姫路城主・本多忠政が後見役・指導役として深く関与した 11 。立地の選定から縄張り(設計)に至るまで、彼の豊富な知識と経験が注ぎ込まれた。明石城は、西国の防衛拠点として、篠山城(1609年築城)や尼崎城(1617年築城)と類似の、方形平面を基本とする最新の城郭構成を持つよう設計された 14 。こうして、徳川幕府の総力を結集した一大プロジェクトとして、明石城の建設は始動したのである。
剣豪・宮本武蔵による「町割り」
城の建設と並行して進められたのが、城下町の設計、いわゆる「町割り」である。この重要な任務に、剣豪として天下にその名を轟かせていた宮本武蔵が関与したと、多くの記録が伝えている 5 。武蔵は当時、本多忠政の嫡男・忠刻(千姫の夫)の客分であった縁から、小笠原家の客将として明石に招かれた 16 。
武蔵が担当した町割りは、単なる区画整理ではなかった。それは、城を中心に、武家地、商人地、職人地、そして港湾地区を機能的に配置する、戦略性に富んだ都市計画であった。彼の設計思想は、城下町全体の経済的発展と、有事の際の防衛機能を両立させることにあった。例えば、城に近い一等地には、藩の経済を支える魚市場(後の「魚の棚」)を置き、その周辺に商人や職人を集住させることで、経済活動の効率化を図った 17 。この計画的な都市設計は、明石が近世城郭都市として発展していくための強固な基盤となった。
地区区分 |
主な町名 16 |
想定される機能 |
配置の意図 |
東部 |
鍛冶屋町、細工町 |
武具・生活用品の生産 |
城の防衛と城下町の需要に応える職人集住地区。 |
中央部 |
東魚町、西魚町、信濃町 |
商業・港湾機能の中心 |
城に最も近く、港からの物資を扱う商業の核。特に魚町は藩の重要産品を扱う一等地。 |
西部 |
樽屋町、材木町 |
海運業・造船業 |
港に隣接し、回船業者や船大工など、海に関わる産業を集積させ、港湾機能を支える。 |
明石浦港整備の戦略的位置づけ
この大改造プロジェクトにおいて、明石浦港の整備は、城や町と並ぶ極めて重要な要素として位置づけられていた。港は、単独のインフラとしてではなく、城と城下町を支え、それらと有機的に連携する不可分の一体として計画された。
その戦略的役割は多岐にわたる。第一に、明石城の防衛線を海上へと拡張する役割。城は陸路と海路を監視し、港は有事の際に藩の水軍が出撃する拠点となる。第二に、城下町の経済基盤を確立する役割。港は、明石海峡の豊かな漁業資源を城下町へ供給し、「魚の棚」に代表される商業の繁栄を支える。また、全国からの物資を受け入れ、明石の産品を送り出す物流の玄関口となる。第三に、藩の兵站線を確保する役割。築城に必要な膨大な資材の搬入から、藩の運営に必要な物資の調達まで、港は藩の生命線を担う。
このように、城が政治・軍事の頭脳であり、城下町が経済活動の心臓であるとすれば、港はそれらに栄養を送り込み、外部世界と繋ぐ大動脈であった。この城・町・港の三位一体の総合的な都市開発構想こそが、近世明石の礎を築いた小笠原忠真のプロジェクトの核心であり、その先見性を示すものであった。
第三章:明石浦港整備の時系列詳解(元和四年~)
小笠原忠真による明石大改造プロジェクトは、周到な計画のもと、迅速かつ体系的に実行された。特に港の整備は、築城の進捗と密接に連動しながら、その役割を段階的に発展させていった。ここでは、元和四年(1618年)の計画策定から、港湾機能が確立されるまでのプロセスを、時系列に沿って詳細に追う。
元和四年(1618年):計画策定
全ての始まりは、徳川秀忠による築城命令であった。この年の2月、正式な命令を受けた小笠原忠真は、義父の本多忠政と共に、築城地の選定に着手した 12 。候補地として塩屋、和坂、そして人丸山の三カ所が検討された結果、最終的に人丸山が選ばれた 12 。この決定は、明石の将来を決定づける極めて重要なものであった。人丸山は、西に明石川、北に伊川が流れ、南側は明石海峡に面した断崖という、三方を天然の要害に囲まれた地形であった 14 。さらに、眼下には西国街道と瀬戸内海の最狭部である明石海峡を一望でき、水陸両方の交通を監視・規制するにはまさに絶好の立地であった 14 。
この築城地の決定と同時に、宮本武蔵らによって城の麓に広がる城下町の基本設計(町割図の作成)が進められた 12 。そして、この都市計画の中で、城下町の南端に位置し、経済と物流の生命線となる港の整備計画も具体化されていった。港は、城と町に直結する形で、その機能を最大限に発揮できるよう設計されたのである。
元和五年(1619年):工事本格化
年が明けた元和五年(1619年)の正月、幕府主導による明石城の普請(土木工事)が本格的に開始された 11 。石垣、土塁、堀といった城の基礎構造が、驚異的なスピードで築かれていった。この大規模工事を支えたのが、他ならぬ明石浦港であった。
この段階における港の最大の役割は、 築城資材の搬入拠点 となることであった。城の石垣には、神戸の石ヶ谷や淡路、六甲山、小豆島などから切り出された膨大な量の花崗岩が使用された 19 。これらの重量物を陸路で運ぶのは非効率であり、船による海上輸送が不可欠であった。そのため、港にはまず、これらの資材を安全かつ効率的に荷揚げするための仮設あるいは恒久的な船着場や桟橋が整備されたと考えられる。また、幕府の「一国一城令」によって廃城となった三木城、船上城、さらには伏見城の石材までもが再利用のために運び込まれており、港はまさに築城プロジェクトの玄関口としてフル稼働していた 19 。
この年の9月からは、工事の主体が幕府の普請から明石藩による作事(建築工事)へと移行し、櫓や御殿、城門などが建設された。そして年末には本丸御殿が完成し、忠真はそれまでの拠点であった船上城から新城へと移った 12 。
元和六年(1620年)以降:港湾機能の拡充
翌元和六年(1620年)4月には、本丸の四隅に4つの三重櫓が完成し、明石城はその威容をほぼ現した 12 。城の主要部が完成したことで、港の役割も新たな段階へと移行する。資材搬入という一時的な役割から、明石藩の恒久的な
商業港・軍港 としての機能拡充が本格化したのである。
この時期以降、波浪から港内を守るための波止(防波堤)の建設や、より大型の廻船が安全に接岸できる本格的な船着場の整備が進められたと考えられる。しかし、明石港には地理的な宿命ともいえる課題があった。それは、西からの潮流によって運ばれる砂が港内に堆積し、水深が浅くなってしまうことであった 21 。この問題を放置すれば、港の機能は麻痺してしまう。そのため、定期的な航路の浚渫(砂をさらう作業)が不可欠であり、これは港が存続する限り続く、恒久的な事業となった。
藩による港湾管理体制の構築
小笠原藩の行政手腕が際立つのは、この港湾の維持管理という課題に対し、極めて先進的で持続可能なシステムを構築した点にある。
- 帆別役所(ほべつやくしょ) : 明石藩は、港の浚渫費用を藩の財政から一方的に支出し続けるのではなく、港を利用する者から応分の負担を求める「受益者負担」の原則に基づいた制度を導入した。それが「帆別役所」である。この役所は、明石港に入港する船が持つ帆の数(帆一反あたり)に応じて「帆別金」と呼ばれる一種の入港税を徴収し、その収入を浚渫費用に充当した 21 。このような制度は、当時の日本において大坂の川口、筑前の遠賀(福岡県)と明石の三カ所にしか存在しなかったとされ、その先進性が窺える 21 。これにより、藩の財政を過度に圧迫することなく、港の機能を恒久的に維持する仕組みが確立された。
- 船番所(ふなばんしょ) : 港の秩序と安全を維持するため、「船番所」も設置された。船番所は、奉行の管理下に置かれ、港に出入りする船舶とその積荷を厳しく検査した 21 。他国へ荷物を送る際には「浦証文」という許可証を発行し、入港時には品物と数量を改め、不正があれば厳罰に処した。特に、難破を装って積荷を横領するような行為に対しては、船頭を獄門(斬首の上、晒し首)にするという極めて厳しい罰則が定められており、海上交通の公正性と安全性を断固として守るという藩の強い意志が示されている 21 。
物理的な港湾インフラの建設と、それを恒久的に維持・管理するための財政・行政システムを同時に設計したこと。これこそが、明石港がその後長きにわたって瀬戸内海の要衝として機能し続けることができた最大の要因であった。それは、単なる土木事業に留まらない、近世における優れた社会インフラ経営の好例といえるだろう。
第四章:新生・明石浦がもたらした経済的・戦略的影響
小笠原忠真によって計画的に整備された新生・明石浦は、単なる船着場から、政治・経済・軍事の各側面にわたって多大な影響を及ぼす、地域の中心的結節点へと変貌を遂げた。城、城下町、そして港が三位一体となって機能することで、明石藩の繁栄の礎が築かれ、瀬戸内海におけるその戦略的価値は飛躍的に高まったのである。
瀬戸内海水運の要衝として
整備された港は、まず瀬戸内海航路における重要な拠点としての地位を確立した。その立地は、西国大名が江戸へ向かう参勤交代のルート上にもあり、海上交通を利用する大名にとって便利な寄港地となった。例えば、阿波(徳島)藩主の蜂須賀家が参勤交代の際に明石に上陸し、藩が設けた御茶屋で休息したという記録が残っている 21 。これは、明石港が単なる通過点ではなく、大名行列を迎え入れるだけの設備と格式を備えた港であったことを示している。
さらに、江戸時代を通じて日本の物流を支える大動脈となった西廻り航路や、日本海と大坂を結び「動く総合商社」とまで呼ばれた北前船などの大型廻船が寄港する重要な中継地となった 22 。これらの船は、蝦夷地(北海道)の海産物や北陸の米などを大坂へ運び、帰りには畿内の酒、醤油、木綿、雑貨などを積んで北国へ向かった 23 。明石港は、これらの廻船が風や潮を待ったり、水や食料を補給したりする上で欠かせない港となり、全国各地の物資と情報がここに集積し、またここから発信される文化・経済交流のハブとして機能した。
城下町の繁栄と「魚の棚」
港の整備がもたらした最も直接的かつ永続的な恩恵は、城下町の経済的繁栄であった。特に、目の前に広がる明石海峡という日本有数の豊かな漁場から水揚げされる、新鮮な魚介類の存在は決定的であった。
宮本武蔵の町割りによって城に近い一等地に設けられた「東魚町」「西魚町」、すなわち「魚の棚(うおんたな)」は、この豊富な水産資源を背景に、活気あふれる市場として大いに繁栄した 15 。港で水揚げされたばかりの鯛や蛸などの魚介類が、大きな板の棚にずらりと並べられ、威勢の良い声が飛び交う光景は、明石の象徴となった 17 。元文年間(1736年~41年)には、鮮魚を扱う店が56軒、干物を扱う店が50軒もあったと記録されており、その規模の大きさが窺える 17 。また、単に鮮魚を売るだけでなく、蒲鉾やちくわといった練り製品の加工も盛んに行われ、明石の食文化の基盤を形成していった 17 。港と市場が直結したこのシステムは、明石の町に富をもたらし、その名は全国に知られることとなった。
明石藩の財政基盤と特産品
港は、明石藩の財政にとっても重要な収入源となった。前述の「帆別役所」が徴収する帆別金は、港の維持管理費を賄うだけでなく、藩の貴重な財源の一部となった 21 。また、港は藩の年貢米やその他の藩の専売品を、最大の消費地である大坂の市場へ効率的に輸送するための拠点として不可欠であった 21 。
さらに、港を介した人や物の交流は、新たな産業や特産品を生み出す土壌ともなった。そのユニークな例が、模造珊瑚である「明石玉」である 21 。ある人物が、土産にもらった生卵が冬の寒さで白身だけ固まるのを見て着想を得たと伝えられるこの工芸品は、安価な装飾品として全国的な人気を博した。これは、港がもたらす多様な情報や技術が、地域に根付いた新たな価値創造へと繋がったことを示す好例である。
軍事港としての側面
経済的な側面に加え、明石港が担った軍事・戦略的な役割も忘れてはならない。明石藩の支配領域は、播磨国内だけでなく、対岸の淡路島の一部にも及んでいた。そのため、明石港は淡路との間の定期的な連絡を確保し、統治を維持するための拠点として不可欠の存在であった 21 。
そして何よりも、明石港と背後の明石城は、徳川幕府が築いた西国監視網の最前線であった。明石海峡という瀬戸内海のボトルネックを通過する全ての船舶は、明石城から監視されることになる。不審な動きがあれば、港から藩の水軍が直ちに出動できる体制が整えられていた。これにより、西国大名の不穏な動きを牽制し、幕府の支配体制を海上から支えるという、立藩当初からの国家的使命を果たし続けたのである。経済的繁栄と軍事的緊張が同居するこの港は、まさに近世明石の顔そのものであった。
結論:近世明石の礎を築いた港湾整備
本報告書は、「明石浦港整備(1605年)」という事象を起点とし、その歴史的背景と実態、そして後世への影響を徹底的に調査・分析した。その過程で明らかになったのは、当初の問いが示唆する年号と、歴史の真の転換点との間には、重要なずれが存在するということであった。明石の運命を決定づけたのは、慶長十年(1605年)の小規模な動きではなく、その後に訪れた元和年間の一大変革であった。
歴史的視点の修正
調査の結果、慶長十年(1605年)当時、播磨国を支配していた池田輝政の戦略的焦点は、あくまで姫路城とその外港・飾磨津にあり、明石浦で大規模な整備が行われたという確たる証拠は見出されなかった。したがって、真に近世都市・明石の礎を築き、その港を瀬戸内海有数の拠点へと押し上げた画期は、元和三年(1617年)の明石藩立藩と、それに続く初代藩主・小笠原忠真による一連の大規模開発事業であったと結論づけられる。この歴史的視点の修正こそが、明石の発展を正しく理解するための第一歩である。
小笠原忠真の事業が持つ歴史的意義
小笠原忠真が主導したプロジェクトは、単なる港湾の改修や拡張に留まるものではなかった。それは、大坂の陣後の徳川幕府による国家戦略に基づき、城郭(軍事・政治拠点)、城下町(経済・生活空間)、そして港湾(物流・交流拠点)を、一つの有機的なシステムとして三位一体で開発する、近世城郭都市建設の典型にして、極めて優れた事例であった。
この壮大な事業には、当代一流の知見と技術が結集された。本多忠政の築城術、剣豪・宮本武蔵の都市計画、そして全国でも数例しかない「帆別役所」という先進的な港湾管理システムの導入など、当時としては革新的な手法が随所に用いられた。この総合的かつ計画的なアプローチによって築かれた強固な基盤があったからこそ、明石藩はその後約250年にわたり、政治、経済、文化の各面で安定した発展を遂げることができたのである。
持続可能な都市モデルとしての価値
明石の事例が今日我々に示すのは、地政学的な要請(西国監視)、地域の経済的ポテンシャル(豊かな漁業資源)、そして環境的課題への対策(砂の堆積と浚渫)を統合した、極めて計画性の高い都市開発の姿である。小笠原忠真と彼を支えた人々の構想は、400年の時を超えて、現代の明石市の都市構造や、「魚の棚」に代表される豊かな食文化の中に、今なお色濃く生き続けている。明石浦港の整備は、過去の一度の土木事業ではなく、現在に至るまで明石という都市のアイデンティティを形成し続ける、生きた遺産なのである。
引用文献
- 姫路藩(1/2)池田輝政や酒井家など名門が治める - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/han/417/
- 池田家ゆかりの地 - 姫路・岡山・鳥取城下町物語推進協議会 https://www.city.tottori.lg.jp/hottriangle/ikedake.html
- 池田輝政(イケダテルマサ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%94%BF-30292
- 池田輝政 兵庫の武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/kansai-warlords/kansai-terumasa/
- 明石城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/akashijo/
- 郷土の偉人 戦国大名 高山右近 | 豊能町公式ホームページ https://www.town.toyono.osaka.jp/kankou-bunka-sports/kankou/takayama-ukon/page003025.html
- 明石藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E8%97%A9
- 明石藩 西国諸国への抑えとして造られた https://www.tabi-samurai-japan.com/story/han/979/
- 【明石藩歴代藩主表】 - ADEAC https://adeac.jp/akashi-lib/text-list/d100150/ht000220
- 歴代藩主|明石城 https://www.akashijo.jp/hanshu/index.html
- 明石城 | 明石公園【公式】 https://hyogo-akashipark.jp/aboucastle/
- 歴史 - 明石城 https://www.akashijo.jp/history/index.html
- 第1章 はじめに - 兵庫県 https://web.pref.hyogo.lg.jp/ks24/documents/1-3.pdf
- 第4章 史跡明石城跡の価値と構成要素 - 兵庫県 https://web.pref.hyogo.lg.jp/ks24/documents/02_sankou3_4-12_aks01.pdf
- トリビア - 明石城 https://www.akashijo.jp/trivia/index.html
- 宮本武蔵と明石 http://umion.la.coocan.jp/musasi/musasi.htm
- 魚の棚について https://www.uonotana.or.jp/rekishi
- 『宮本武蔵は名君小笠原忠真の「隠密」だった』 | アトリエCINQplus https://at-cinq.com/plus/post-4864/
- 明石城の石垣 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/76/memo/3941.html
- 明石城跡 - 明石市 https://www.city.akashi.lg.jp/bunka/b_shinkou_ka/akashijyouato.html
- 明石港の「みなと文化」 https://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/report/064.pdf
- 北前船 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%89%8D%E8%88%B9
- 大阪と北海道を結んだ経済動脈 - 北前船寄港地・船主集落 https://www.kitamae-bune.com/about/main/
- 魚の棚広報誌 うおんたな3号 https://www.uonotana.or.jp/%E9%AD%9A%E3%81%AE%E6%A3%9A%E5%BA%83%E5%A0%B1%E8%AA%8C-%E3%81%86%E3%81%8A%E3%82%93%E3%81%9F%E3%81%AA3%E5%8F%B7.html
- 魚の棚商店街(うおんたな) - 観光 - テレビ明石 https://akashi.tv/detail/33/index.html