最終更新日 2025-09-20

有馬晴信改易(1612)

慶長十七年、キリシタン大名有馬晴信は改易。旧領回復の執念から岡本大八に欺かれ、長崎奉行暗殺計画の嫌疑で失脚。信仰を貫き殉死。この事件は全国禁教令と島原の乱の遠因となった。
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慶長十七年の激震:キリシタン大名・有馬晴信、改易の真相 ― 旧領回復の執念が招いた悲劇と日本史の転換点

序章:栄光と執念 ― あるキリシタン大名の肖像

戦国時代の終焉と江戸幕府による新たな秩序形成が進む慶長年間、一人のキリシタン大名の運命が、日本の歴史を大きく転換させる引き金となった。その男の名は有馬晴信。肥前国日野江(現在の長崎県南島原市)を本拠とする4万石の大名である。天正遣欧少年使節の派遣を主導した敬虔なキリシタンとして、また南蛮貿易を駆使して富を築いた辣腕の領主として知られる彼の名は、栄光と共に語られるべきものであった。しかし、慶長17年(1612年)、彼は突如として所領を没収され(改易)、死を賜る。その背景には、彼の心の奥底で燃え続けた一つの強烈な「執念」と、幕府創成期の複雑な政治力学が渦巻いていた。本報告書は、有馬晴信の改易という事変を時系列に沿って詳細に解き明かし、その真相と、それが後の日本史に与えた深刻な影響を徹底的に分析するものである。

肥前日野江の領主、有馬晴信

有馬氏は、肥前国高来郡を本拠とした国人領主の家系であり、晴信の祖父・晴純の代には島原半島一帯を支配下に置き、南蛮貿易を通じて早くから海外との接点を持ち、経済的基盤を築いていた 1 。しかし、晴信が家督を継承した頃、有馬家の勢威には陰りが見えていた。北の龍造寺氏、東の大友氏といった強大な戦国大名の圧迫を受け、その支配領域は次第に縮小していく 1 。とりわけ、1563年の丹坂峠の戦いで龍造寺家に大敗を喫し、肥前国の藤津・杵島・彼杵(そのき)の三郡を失ったことは、有馬家にとって代々忘れ得ぬ痛手となった 1

この劣勢を挽回すべく晴信が活路を見出したのが、キリスト教と、それに付随する南蛮貿易であった。彼はポルトガルとの貿易を維持・拡大するため、その条件であったキリスト教の布教を領内で公認。そして天正8年(1580年)、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父から自ら洗礼を受け、「ドン・プロタジオ」という洗礼名を持つ熱心なキリシタン大名となった 3 。イエズス会からの軍事的・経済的支援は、宿敵・龍造寺氏の脅威を退ける上で極めて実利的な意味を持っていたのである 5

晴信の信仰は篤く、天正10年(1582年)には大友宗麟らと共に天正遣欧少年使節をローマへ派遣し 5 、豊臣秀吉による天正15年(1587年)の伴天連追放令発令後も、領内で宣教師を匿い、数万人の信者を保護し続けた 3 。しかしその信仰は、時に過激な側面を露わにする。領内の神社仏閣を徹底的に破壊し、その資材を流用して教会やキリスト教の教育施設(セミナリヨ)を建設するなど、急進的な行動も辞さなかった 3 。これは単なる狂信とは言い切れない。むしろ、領内に根を張る旧来の寺社勢力という権威を解体し、キリスト教を基盤とした新たな支配イデオロギーを確立することで、領国の一元的支配を強化しようとする、極めて政治的な意図があったと考えられる。

心の奥底に燃える「旧領回復」への執念

晴信は、豊臣政権下の九州征伐や朝鮮出兵、そして関ヶ原の戦いにおいても、時勢を巧みに読み、常に勝者側につくことで家名を保った。特に関ヶ原では東軍に与し、小西行長の宇土城攻めに参加するなどの功を挙げ、徳川政権下で肥前日野江4万石の所領を安堵される 1 。しかし、彼は現状に決して満足していなかった。彼の行動原理の根底には、かつて龍造寺氏に奪われた旧領三郡の回復という、世代を超えた悲願、強烈な「執念」が存在したのである 1

晴信の生涯は、「信仰」と「執念」という二つの強力な動機が複雑に絡み合った二重螺旋構造をなしていた。キリスト教信仰は、彼の精神的な支柱であると同時に、イエズス会との連携を可能にし、南蛮貿易による富をもたらすための現実的な手段であった。そして、その信仰によって得られた政治力と経済力は、すべて「旧領回復」という一点の執念を達成するために注ぎ込まれていく。この二つの要素が互いを強化し合い、彼の運命を栄光の頂点へと押し上げ、そして悲劇的な破滅へと導くことになる。


表1:岡本大八事件 主要関係者一覧

氏名

役職・立場

本事件における動機

他の関係者との関係

有馬 晴信

肥前日野江藩 4万石の大名。キリシタン大名(ドン・プロタジオ)。

旧領(藤津・杵島・彼杵三郡)の回復。マードレ・デ・デウス号撃沈の武功に対する恩賞獲得。

岡本大八に贈賄。長谷川藤広とは犬猿の仲。家康には忠誠を尽くしていた。

岡本 大八

徳川家康の側近・本多正純の与力(家臣)。キリシタン(パウロ)。

金銭欲。晴信から多額の賄賂を詐取すること。発覚後の自己保身。

主君は本多正純。晴信を騙し、長谷川藤広暗殺計画をでっち上げる。

徳川 家康

江戸幕府 大御所。駿府にて実権を掌握。

幕府権威の確立。キリシタン勢力への警戒。南蛮貿易の利権掌握。

晴信の武功を認める一方、キリシタン大名として警戒。事件を厳正に裁く。

本多 正純

徳川家康の側近。幕政の中枢を担う実力者。

自身の家臣が起こした不祥事の処理。幕府の安定維持。

岡本大八の主君。晴信からの直訴を受け、事件の調査を開始する。

長谷川 藤広

長崎奉行。幕府の対外貿易政策を担う重臣。

幕府による貿易利権の独占。ポルトガル(イエズス会)勢力の抑制。

有馬晴信とは貿易利権を巡り「不倶戴天の敵」 8 とされる対立関係にあった。


第一章:マカオの凶報、長崎の烽火 ― マードレ・デ・デウス号事件(慶長14年~15年)

有馬晴信の運命を大きく揺るがす事件の序曲は、遠く南シナ海の港町マカオで奏でられた。それは当初、海外で頻発する日本人と現地人との些細な衝突の一つに過ぎなかったが、晴信の激情と幕府の思惑が交錯する中で、長崎港を炎に包む国際紛争へと発展していく。

慶長14年(1609年):マカオでの騒擾事件

慶長14年(1609年)、有馬晴信がチャンパ(現在のベトナム中部)へ向けて派遣した朱印船が、寄港先のポルトガル領マカオで事件を起こした。晴信配下の水夫たちが、ポルトガル船マードレ・デ・デウス号(正式名称:ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号)の船員と商品の取引を巡って争いとなり、大規模な騒乱へと発展したのである 10 。この事態を鎮圧するため、マカオの総司令官(カピタン・モール)であったアンドレ・ペソアは兵を動員。その結果、有馬側の水夫に約60名もの死者が出るという悲劇的な結末を迎えた 10

慶長15年(1610年):復讐の許可と幕府の思惑

翌慶長15年(1610年)、マードレ・デ・デウス号は通商のため長崎に入港。船を率いるペソアは、長崎奉行の長谷川藤広に事件の調書を提出し、駿府の大御所・徳川家康に直接陳弁する意向を示した 11 。しかし、藤広はポルトガルとの交易が途絶することを危惧し、事件の真相を伏せたまま穏便に済ませようと画策。この対応がペソアの不満を買い、両者の関係は険悪化する 11

一方、マカオでの事件の報を受けた晴信は、家臣を多数殺害されたことに激怒し、ペソアへの報復の機会を窺っていた。この状況を好機と見たのが長谷川藤広であった。藤広は、幕府の貿易利権を管理する立場から、特定の宗派(ドミニコ会)と結びつき、生糸貿易の幕府による独占(糸割符制度)を強化しようとしていた。対して、イエズス会と深い繋がりを持ち、独自の貿易ルートで利益を上げていた晴信にとって、藤広の動きは自身の経済基盤を脅かすものであり、両者は「不倶戴天の敵」と呼べるほどの深刻な対立関係にあった 8 。藤広は、この好敵手である晴信を焚きつけ、家康にペソアと船の捕縛を正式に願い出させたのである 11

晴信はこれに乗り、さらに家康が当時強く求めていた香木・伽羅(きゃら)の入手を名目として、朱印船の派遣許可も同時に請願した 11 。駿府の家康は、この請願を許可する。その背景には、単に家臣の忠義に応えるという以上の、冷徹な国際政治の計算があった。当時、オランダやスペインとの新たな交易ルートが確立しつつあり、ポルトガルが日本の貿易に占める地位は相対的に低下していた。家康は、晴信という一外様大名を「代理人」として利用することで、ポルトガルに強硬な姿勢を示し、その影響力を削ぐと共に、他の欧州諸国との交渉を有利に進める狙いがあった。晴信の報復は、家康の新たな対欧州外交戦略の尖兵として利用された形となったのである。家康は報復実行の監視役として、側近・本多正純の家臣である岡本大八を長崎へ派遣した 11

長崎港の死闘:四日四晩の攻防と黒船の爆沈

家康から駿府への召喚命令を受けたペソアは、それを身の危険を察知する罠だと判断し、命令を無視して長崎からの出港を強行しようとした 11 。慶長14年12月12日(西暦1610年1月)、晴信は幕府の許可という大義名分を手に、手勢の軍船を率いて長崎港内に停泊するマードレ・デ・デウス号を包囲し、攻撃を開始した 10

戦闘は四日四晩に及ぶ死闘となった。晴信の巧みな指揮の下、日本側の小船は夜襲を繰り返し、巨大な黒船を追い詰めていく。追い詰められた司令官ペソアは、降伏を潔しとせず、船の火薬庫に自ら火を放った。轟音と共にマードレ・デ・デウス号は大爆発を起こし、ペソアは船と運命を共にした 8

この長崎港での劇的な勝利は、有馬晴信の武将としてのキャリアの頂点であった。幕府の命を受け、長年の貿易相手であったポルトガルの巨大商船を撃沈するという前代未聞の武功を立てた彼は、これで長年の悲願であった旧領三郡の回復が恩賞として与えられることを確信したに違いない 14 。しかし、この栄光の瞬間こそが、彼の運命を破滅へと導く罠の入り口でもあった。

第二章:甘言の罠 ― 岡本大八の暗躍(慶長15年~16年)

マードレ・デ・デウス号撃沈の功により、有馬晴信は得意の絶頂にあった。幕府からの莫大な恩賞を期待し、長年の悲願である旧領回復が現実のものとなる日を心待ちにしていた。その焦燥と期待が入り混じった心の隙に、一人の男が巧みに忍び寄る。本多正純の家臣、岡本大八。彼の仕掛けた甘言の罠が、晴信を奈落の底へと突き落とすことになる。

武功の恩賞を待つ晴信の焦燥と期待

晴信にとって、マードレ・デ・デウス号の撃沈は単なる復讐の完遂ではなかった。それは、徳川幕府に対して自らの武威と忠誠心を示し、それに見合う正当な報酬、すなわちかつて失った肥前三郡を取り戻すための絶好の機会であった 1 。彼は駿府の家康のもとへ勝利を報告し、恩賞の沙汰を待った。しかし、幕府からの正式な通達は一向に届かなかった。日が経つにつれ、晴信の期待は次第に焦りへと変わっていった。

岡本大八という男

この晴信の心理を的確に見抜いたのが、事件の監視役として長崎に派遣されていた岡本大八であった。彼は、大御所・家康の側近中の側近であり、幕政に絶大な影響力を持つ本多正純の与力(配下の武士)という立場にあった 14 。主君の威光は、彼の言葉に絶大な重みを与えた。さらに、大八自身も「パウロ」という洗礼名を持つキリシタンであり、晴信にとっては同じ信仰を持つ同胞でもあった 12

この「本多正純の家臣」と「キリシタン」という二つの顔が、大八の詐欺行為を成功させる上で決定的な役割を果たした。当時、幕府の意思決定は家康や秀忠、そして本多正純のようなごく一部の側近に集中しており、地方の大名が中央の正確な情報を得る手段は限られていた。晴信にとって、幕府の中枢にいる正純の意向は、家康の意向そのものに等しい。その代理人を名乗る大八の言葉を疑うことは極めて困難であった。加えて、同じ信仰を持つ者同士の連帯感が、晴信の警戒心を鈍らせた可能性は高い。皮肉にも、信仰が世俗的な詐欺の潤滑油として機能してしまったのである。

仕組まれた贈収賄と偽の朱印状

大八は、恩賞を待ちわびる晴信に接近し、巧妙な嘘を囁いた。「此度の貴殿の大功に対し、大御所様は旧領三郡を恩賞として与える内意がおありだ。それがしが主君・本多正純様へ然るべく取り計らうゆえ、そのための運動資金を用意されよ」 11

旧領回復という執念に取り憑かれていた晴信は、この甘言に飛びついた。彼は大八の要求に応じ、総額6000両とも、白銀600枚ともいわれる莫大な金品を賄賂として渡した 7 。しかし、いくら待っても幕府からの正式な下知はない。不安を募らせる晴信をさらに欺くため、大八は前代未聞の大胆な犯罪に手を染める。幕府の公式文書である朱印状を偽造し、「旧領三郡を与える」という内容の偽の証文を晴信に渡して安心させたのである 11

この一連の詐欺は、単なる大八個人の悪徳によるものだけではない。それは、江戸幕府初期の権力構造の歪みと、中央と地方の情報伝達の不透明さが生んだ構造的な事件であった。大名が将軍や大御所に直接意見を具申する機会は限られ、側近やその家臣といった中間層が情報を媒介する余地が大きかった。大八は、その構造的な脆弱性を突き、晴信の最大の弱点である「執念」を食い物にしたのであった。

第三章:駿府での対決 ― 正義から陰謀へ(慶長17年1月~3月)

偽の朱印状を手にしながらも、一向に実行されない旧領回復。有馬晴信の疑念は、ついに確信へと変わった。慶長17年(1612年)の春、彼は真相を確かめるべく駿府へ赴き、自ら引き金を引く形で、事件を最終局面へと導く。当初は詐欺事件の被害者として正義を訴えるはずだったこの対決は、岡本大八の窮鼠の一手により、晴信自身が国家への謀反人として断罪されるという、驚くべき逆転劇へと変貌する。

疑惑の発覚と晴信の直訴

慶長17年、業を煮やした晴信は、これ以上待つことはできないと判断し、駿府にいる本多正純に直接接触を図った。彼は正純に対し、「岡本大八殿より旧領返還の朱印状を頂戴しておりますが、いつ頃これが実施されるのでしょうか」という趣旨の書状を送ったのである 14 。この一通の書状が、全てを白日の下に晒した。正純にとって、それは寝耳に水の話であった。家臣である大八が、主君の名を騙り、あろうことか幕府の朱印状まで偽造していたという事実が、ここに発覚した 11

駿府での直接対決と晴信の優位

事態を重く見た大御所・家康は、駿府町奉行の彦坂光正に徹底的な調査を命じ、直ちに岡本大八を捕縛させた 11 。そして、駿府城内(一説には当時、勘定吟味役であった大久保長安の屋敷)にて、晴信と大八の直接対決による審問が行われた 7

最初の審問では、完全に晴信が優位に立っていた。彼は、大八との間で交わされた贈収賄の証拠となる書状を複数提出。動かぬ証拠を突きつけられた大八は、何一つ有効な弁明をすることができず、事実を白状した 7 。この時点で、事件は「幕府の権威を悪用した詐欺事件」として、大八の断罪と晴信への謝罪、そして何らかの補償という形で決着するかに見えた。罪を認めた大八は、一旦投獄された 7

窮鼠の一手 ― 「長谷川藤広暗殺計画」の暴露

しかし、獄中の大八は、自らが助かるための最後の、そして最も毒のある一手を用意していた。慶長17年3月18日、彼は獄中から幕府に対し、衝撃的な告発を行う。「有馬晴信は、長崎奉行である長谷川藤広様の暗殺を計画しておりました」と 7

この告発は、事件の性質を根底から覆すものであった。単なる贈収賄という刑事事件が、幕府の要人暗殺計画という、国家への反逆行為、すなわち政治事件へと一変したのである。家康や幕府中枢にとって、家臣の汚職よりも、大名による幕臣への敵対行動の方がはるかに重大な問題であった。幕府はこの告発を重視し、大八を再び獄から出して、晴信との再度の対決審問を設定した 7

形勢逆転と晴信の失脚

二度目の対決で、形勢は完全に逆転した。大八は、晴信が藤広に対して抱いていた激しい敵意を背景に、暗殺計画の筋書きを詳細かつ具体的に述べ立てた 7 。晴信と藤広の犬猿の仲は、幕府内でも周知の事実であった 8 。特に、マードレ・デ・デウス号事件の際、藤広が晴信の戦いぶりを「てぬるい」と評したことに激昂した晴信が、周囲に「次は藤広を沈めてやる」と公言していたという事実が、決定的な状況証拠となった 11

晴信に具体的な暗殺計画があったかどうかは定かではない。しかし、藤広への害意を公言していたという自らの不用意な言動が、大八の告発に強力な信憑性を与えてしまった。彼は、この致命的な点について有効な弁明をすることができず、審問の場で沈黙せざるを得なかった 7 。この沈黙は、罪を認めたものと見なされた。

詐欺事件の被害者であったはずの有馬晴信は、一瞬にして幕府への謀反を企てた大罪人へと転落した。事件の審理の焦点は、大八の犯罪から晴信の謀反へと巧みにすり替えられ、幕府は晴信を断罪するための完璧な大義名分を手に入れたのである。

第四章:非情の裁断 ― 大名の没落(慶長17年3月~5月)

駿府での劇的な形勢逆転の後、事態は驚くべき速さで終局へと向かう。徳川幕府が下した裁断は、事件の真相究明というよりも、新たな時代の秩序を天下に示すための冷徹な政治的パフォーマンスであった。一連の処分は、幕府の権威を偽る者、そして幕府の体制に異を唱える可能性のある勢力に対し、一切の容赦をしないという家康の断固たる意志を表明するものだった。

慶長17年3月21日:岡本大八の処刑

まず断罪されたのは、事件の発端を作った岡本大八であった。朱印状偽造、および大名を欺いた詐欺の罪により、彼は駿府市中を引き回された上、安倍川の河原で火刑に処された 11 。火刑は、反逆者や放火犯などに適用される極刑であり、彼の罪がいかに幕府の根幹を揺るがすものと見なされたかを示している。これは、幕府の権威を悪用する者への見せしめとして、絶大な効果を発揮した。

慶長17年3月22日:有馬晴信、改易

大八の処刑のわずか翌日、有馬晴信に対する裁きが下された。罪状は、旧領回復を不正に画策したこと、そして長崎奉行・長谷川藤広の殺害を企てたこと。これにより、肥前日野江4万石の所領は全て没収(改易)され、大名としての地位を完全に剥奪された 11 。彼の身柄は、甲斐国都留郡(現在の山梨県都留市周辺)へと配流(流罪)となることが決定した 4 。一連の裁断は、幕府の役人に敵意を向けた大名が、たとえ過去にどれほどの功績があろうとも、容赦なく潰されるという先例を全国の大名に強く印象付けた。

慶長17年5月7日:配所での最期

甲斐の配所で蟄居する晴信に、幕府からの最後の命令が届く。それは自害、すなわち武士としての名誉ある死とされる切腹を命じるものであった 4 。しかし、晴信はここで武士としての作法よりも、生涯を捧げた信仰を選んだ。キリスト教の教義では、いかなる理由があろうとも自害は神に対する大罪とされ、固く禁じられている。彼は、この教えに従い、切腹を断固として拒否した 7

そして慶長17年5月7日、晴信は妻たちが見守る中、静かに家臣の梶左衛門に介錯を命じ、自らの首を打たせた 6 。享年46。彼の最期は、生涯を貫いた「武士としての立場」と「キリシタンとしての信仰」との間の葛藤に対する、最終的な答えであった。幕府が命じた武士としての死ではなく、信仰を守るための死を選ぶことで、彼の死は単なる処刑ではなく、殉教に近い意味合いを帯びることになった。彼の首が落ちた瞬間、戦国時代的な価値観を持つ一人のキリシタン大名は、歴史の舞台から完全に姿を消したのである。

終章:残された波紋 ― 禁教、転封、そして乱の胎動へ

有馬晴信の死は、単に一個人の悲劇、一大大名家の没落に留まらなかった。この事件を契機として、徳川幕府はそれまでの方針を大きく転換し、日本の社会と国際関係を根底から変容させる政策へと舵を切る。晴信の改易が残した波紋は、全国的なキリスト教の禁止、有馬家の故地からの追放、そして25年後に日本を震撼させる史上最大の一揆の遠因となって、長く歴史に影響を及ぼし続けた。

有馬家の存続と転封

晴信は非業の死を遂げたが、有馬家そのものは奇跡的に断絶を免れた。嫡男の直純は、父とは疎遠であったことに加え、彼の妻が家康の曾孫にあたる国姫(家康の養女)であったという事実が決定的な要因となり、連座を免れて家督相続を許された 3 。外様大名が幕法違反で改易された場合、その家が存続を許されるのは極めて例外的な措置であり、徳川家との姻戚関係がいかに重要であったかを物語っている 23

しかし、幕府の配慮はそこまでであった。慶長19年(1614年)、直純は先祖代々の地である肥前日野江から、遠く日向国延岡(現在の宮崎県延岡市)へ5万3千石での転封(国替え)を命じられる 3 。これは単なる懲罰ではない。有馬氏が長年にわたりキリスト教を庇護してきた島原半島から、旧領主の影響力を物理的に完全に引き剥がすという、高度な政治判断であった。キリシタンであった直純が旧領で弾圧を行うことには限界があり、また旧領主への思慕がキリシタンの結束を強める危険性もあった。幕府は、直純を縁もゆかりもない土地へ移し、キリシタンと何ら関係のない新しい領主を送り込むことで、地域の社会構造を根本から作り変え、幕府の政策を徹底させようとしたのである。

幕府の決断 ― 全国禁教令へ

岡本大八事件は、徳川家康にキリスト教が幕府の支配体制と相容れない危険な思想であるとの確信を抱かせ、弾圧を正当化する絶好の口実を与えた 27 。事件の当事者である晴信と大八が、共にキリシタンであったという事実は、幕府のプロパガンダとして最大限に利用された。

岡本大八が処刑された慶長17年3月21日、まさにその同日、幕府はまず天領(直轄地)に対して公式に禁教令を発布した 11 。翌慶長18年(1613年)には禁教令を全国に拡大。さらに金地院崇伝に「伴天連追放之文」を起草させ、二代将軍・徳川秀忠の名で公布した 11 。これにより、キリスト教の信仰は明確に違法とされ、宣教師は国外追放、日本人信者には棄教が強要される時代が到来する。高山右近らキリシタン大名や宣教師はマニラやマカオへ追放され 11 、幕臣であった原主水や大奥のジュリアおたあといった信者も摘発・処分された 30 。有馬晴信の没落は、戦国時代から続いたキリスト教布教の時代の終わりと、厳しい弾圧の時代の始まりを告げる号砲となったのである。

肥前日野江のその後と「島原の乱」への道

有馬氏が去った後の島原半島は、一時天領となった後、大和国から松倉重政が入封した 11 。一方、延岡への転封に際し、多くの有馬家家臣は直純に従わず、故郷である島原の地に残り、武士の身分を捨てて帰農した 31 。彼らは地域の指導者的な立場となり、旧領主への思慕とキリスト教信仰を胸に秘めて生活を続けた 32

新領主となった松倉重政と、その子・勝家は、島原城の築城などに伴う過酷な年貢の取り立てや、キリシタンに対する残虐を極めた弾圧を行い、領民を極度に苦しめた 11 。晴信の死から25年後の寛永14年(1637年)、松倉氏の圧政と、長年にわたる信仰への弾圧に耐えかねた領民は、かつての有馬家臣たちを中核としてついに蜂起する。これが、天草のキリシタン勢力と合流し、日本史上最大級の一揆へと発展した「島原の乱」である 32

有馬晴信の改易は、戦国的な自由の終焉と、管理・統制を基本とする江戸幕府の「近世」的秩序の確立を象徴する、歴史の分水嶺であった。大名が独自の判断で海外勢力と結びつく時代は終わり、幕府が貿易と宗教を完全に管理する体制が始まった。そして、その過程で故郷を追われた人々の記憶と信仰が、四半世紀の時を経て、日本を揺るがす大乱の火種となったのである。一人の大名の執念から始まった事件は、かくして日本の歴史を決定的に変える、長く巨大な波紋を残した。


巻末付録:有馬晴信改易に至る詳細年表

年月(和暦)

年月(西暦)

出来事

慶長14年

1609年

有馬晴信の朱印船がマカオで騒擾事件を起こし、多数の死者を出す 10

慶長14年12月12日

1610年1月6日

有馬晴信、徳川家康の許可を得て、長崎港でポルトガル船マードレ・デ・デウス号への攻撃を開始 11

慶長14年12月15日

1610年1月9日

四日四晩の攻防の末、マードレ・デ・デウス号は爆沈。司令官アンドレ・ペソアは自決 8

慶長15年~16年

1610年~1611年

晴信、恩賞として旧領回復を期待。岡本大八がこれに付け込み、運動資金名目で多額の賄賂を詐取。偽の朱印状を渡す 11

慶長17年 春

1612年

晴信、本多正純に直接問いただしたことで、大八の詐欺が発覚 14

慶長17年 2月

1612年

幕府、岡本大八を捕縛。駿府で晴信との対決審問が始まる 11

慶長17年 3月18日

1612年4月18日

獄中の大八、「晴信による長崎奉行・長谷川藤広暗殺計画」を告発し、形勢が逆転する 7

慶長17年 3月21日

1612年4月21日

岡本大八、朱印状偽造の罪で駿府・安倍川河原にて火刑に処される 14

同日、幕府は天領(江戸、京都、駿府など)に対し、公式にキリスト教禁教令を発布 11

慶長17年 3月22日

1612年4月22日

有馬晴信、奉行暗殺計画の罪で改易(所領没収)。甲斐国へ配流となる 7

慶長17年 5月7日

1612年6月5日

晴信、配所にて幕府の自害命令を拒否。キリシタンの教えを守り、家臣に首を打たせて死去。享年46 7

慶長18年

1613年

幕府、禁教令を全国に拡大。「伴天連追放之文」を公布 19

慶長19年

1614年

晴信の子・有馬直純、肥前日野江から日向延岡へ転封。高山右近らキリシタンが国外追放される 11

寛永14年10月25日

1637年12月11日

旧有馬領の島原で、松倉氏の圧政とキリシタン弾圧に耐えかねた領民が蜂起。「島原の乱」が勃発する 33

引用文献

  1. 岡本大八事件で切腹した有馬晴信の「執念」 | 歴史人 https://www.rekishijin.com/46053
  2. 松尾先生の島原街道アゲイン「第7回 口之津~南有馬」 - もっぱらしまばらWEBマガジン http://www.moppara-web.jp/?p=6400
  3. 「有馬晴信」日野江藩初代藩主。キリシタン大名にして南蛮貿易の専門家! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/538
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