有馬晴信洗礼(1579)
1579年、有馬晴信は龍造寺隆信の脅威に対抗するため、イエズス会巡察師ヴァリニャーノの支援を受けキリスト教に改宗。南蛮貿易の利益と軍事力を得て、沖田畷の戦いで勝利し、家門存続の道を拓いた。
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天正七年の決断:有馬晴信の洗礼、その戦略的実像と肥前国の力学
序章:肥前の小龍、存亡の淵に立つ
戦国時代の九州は、三大勢力が互いに鎬を削る、熾烈な闘争の舞台であった。東には豊後を本拠とし、六ヶ国太守として北九州に覇を唱える大友氏。南には薩摩から日向、大隅を席巻し、破竹の勢いで北上する島津氏。そして西、肥前の地から下剋上によって成り上がり、九州北部を震撼させる龍造寺氏。世に言う「九州三強」の時代である 1 。これら巨大な権力ブロックの狭間で、有馬氏のような中小の国衆は、常に巨大な圧力に晒され、その存亡は風前の灯火であった。
「肥前の熊」龍造寺隆信の脅威
有馬晴信(ありま はるのぶ)にとって、最大の脅威は、隣国肥前の支配者、龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)であった。隆信は、かつての主家であった少弐氏を滅ぼし、一代で肥前を統一した梟雄である 3 。その剛腕かつ冷酷な采配から「肥前の熊」と畏怖され、その勢力は筑後、肥後、豊前にまで及び、一時は大友、島津と九州を三分するほどの威勢を誇った 1 。
この隆信による有馬氏への軍事的圧迫は、執拗を極めた。天正6年(1578年)、龍造寺軍は有馬氏の重要拠点である松岡城を攻撃、これを陥落させる 4 。この敗北により、有馬氏は龍造寺氏への従属を余儀なくされ、その領土は島原半島南部の高来郡(たかきぐん)一帯にまで押し込められてしまった 4 。
さらに深刻だったのは、外部からの圧力だけではなかった。龍造寺の圧倒的な武威を前に、有馬一族内部からも動揺が広がり、晴信の祖父・晴純(はるずみ)をはじめ、伯父や叔父たちまでもが龍造寺側に与し、当主である晴信に対して反旗を翻すという、内部崩壊の危機に直面していたのである 6 。永禄7年(1564年)に祖父が父を追放し、元亀2年(1571年)に兄・義純(よしずみ)が嗣子なく死去したことで、わずか4歳で家督を継いだ若き晴信にとって、この状況はまさに絶望的であった 4 。彼が継承したのは、かつて祖父・晴純の代に南蛮貿易の利益で栄華を極めた領国ではなく、内外からの圧力によって崩壊寸前の小勢力に過ぎなかった 5 。
この圧倒的な国力差は、以下の比較表からも明らかである。
項目 |
龍造寺氏(天正六年頃) |
有馬氏(天正六年頃) |
支配領域 |
肥前、筑後、肥後、豊前、筑前の一部(五州二島) |
肥前国高来郡の一部(島原半島南部) |
推定石高 |
約70万石以上 |
約4万石 |
動員可能兵力 |
25,000~30,000 |
3,000~5,000 |
主要な城 |
佐嘉城、勢福寺城、村中城 |
日野江城、原城 |
主な従属勢力 |
後藤氏、松浦氏、千葉氏、神代氏など肥前のほぼ全域 |
(龍造寺氏に従属) |
この数値は、晴信の決断が単なる選択肢の一つではなく、他に道のない、追い詰められた末の起死回生の一手であったことを物語っている。伝統的な武家社会の枠組みの中では、もはや龍造寺氏に対抗する術は残されていなかった。身内すら信用できない状況下で、晴信は既存の利害関係から完全に独立した、全く新しい力の源泉を求める以外に、家門を存続させる道はなかったのである。
第一章:南蛮という名の光芒 ― 貿易と布教の二重奏
窮地に陥った有馬晴信が活路を見出したのが、「南蛮」からもたらされる富と、それに付随する新たな価値観、すなわちキリスト教であった。それは、単なる精神的な救いを求めるものではなく、極めて現実的な戦略的価値を秘めたものであった。
南蛮貿易がもたらす富と軍事力
16世紀半ばの日本の戦乱において、戦いの様相を一変させたのが鉄砲の伝来である。しかし、鉄砲を効果的に運用するために不可欠な火薬の原料である硝石や、弾丸となる鉛は、当時の日本ではほとんど産出されなかった 9 。したがって、これらの戦略物資を安定的に確保することは、戦国大名の死活問題であり、その供給ルートを独占していたのが、ポルトガル商人たちが主導する南蛮貿易であった 9 。
有馬氏は、その地理的利点を活かし、晴信の祖父・晴純の代からポルトガル船を領内に誘致し、南蛮貿易に深く関与していた 5 。有馬の領地は決して肥沃ではなかったが、貿易によってもたらされる莫大な利益は、その経済的弱点を補って余りあるものであり、一時はその富を背景に大量の鉄砲を配備し、肥前国で優位に立つことさえあった 5 。晴信にとって、この南蛮貿易こそが、龍造寺氏の圧倒的な物量に対抗しうる唯一の切り札だったのである。
叔父・大村純忠という先例
晴信の決断に大きな影響を与えたであろう人物が、彼の叔父にあたる大村純忠(おおむら すみただ)である。純忠は、南蛮貿易の利益を確保するために、永禄5年(1562年)に横瀬浦(よこせうら)を開港し、翌年には自ら洗礼を受けて日本初のキリシタン大名となった 11 。彼は貿易利権と引き換えにキリスト教の布教を全面的に許可し、後には長崎を開港、さらには長崎と茂木(もぎ)の地をイエズス会に寄進するという、徹底した関係構築を行った 12 。
一方で、純忠の政策は過激な側面も持っていた。天正2年(1574年)、彼は宣教師の要請を受け、領内の神社仏閣を徹底的に破壊し、領民に改宗を強要した 14 。この様子を、宣教師ルイス・フロイスは「今まで日本にいた間、最も大いなる楽しみを味わった」と、その書簡に好意的に記している 14 。純忠の行動は、晴信にとって、キリスト教を受け入れることが何を意味するのか、その成功とリスクの両面を示す、極めて重要な先例であった。
イエズス会が握る経済的生命線
当時の南蛮貿易は、単なる商人間の自由な取引ではなかった。その背後には、カトリック教会の修道会であるイエズス会が存在し、事実上、貿易の主導権を掌握していた 18 。ポルトガル国王から東アジアにおける布教の独占権を与えられていたイエズス会は、布教の許可や宣教師の保護を、ポルトガル船(ナウ船)の寄港地を決定する上での重要な条件としていたのである 19 。
これは、戦国大名にとって、イエズス会との関係を構築することが、すなわち経済的・軍事的生命線を維持するために不可欠であったことを意味する。単に港を提供するだけでは、より良い条件を提示する他の大名に貿易船を奪われる危険が常にあった。大名自らがキリスト教徒になることは、イエズス会に対して「我々はあなた方の事業(布教)における最重要パートナーである」という最も強力なメッセージとなり、貿易ルートを自領に恒久的に固定化するための、究極の担保となり得たのである。晴信の思考は、叔父・純忠の先例を分析し、その戦略の核心を理解した上で、より強固で直接的な関係をイエズス会本体と結ぶことに向かっていった。それは、単にポルトガルという「国」と付き合うのではなく、貿易、布教、軍事支援を一体として運営する、当時としては類を見ない国際的組織「イエズス会」というグローバルネットワークに、自らを接続する試みであった。
第二章:黒船来航 ― 巡察師ヴァリニャーノ、口之津へ
有馬晴信の運命を決定づける出来事は、天正七年(1579年)に訪れた。一隻の黒船が、彼の領地である島原半島南端の港、口之津(くちのつ)に入港したのである。この船に乗っていた人物こそ、イエズス会東インド管区巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。
天正七年(1579年):巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日
ヴァリニャーノは、単なる一介の宣教師ではなかった。彼は、インドのゴアに拠点を置き、マカオから日本に至るまでのイエズス会の全活動を監督・指導する最高位の聖職者「巡察師」であった 21 。イタリア貴族出身の法学博士という経歴を持つ彼は、極めて優れた組織改革者であり、戦略家でもあった。彼の来日の目的は、それまでの日本の布教方針を抜本的に見直し、日本の文化や習慣に適応した布教活動を推進するとともに、日本人聖職者を育成するための教育機関を設立し、日本におけるキリスト教の強固な基盤を確立することにあった 22 。
口之津への入港と両者の邂逅
ヴァリニャーノが、数ある九州の港の中から有馬氏の領する口之津を選んで上陸したことは、決して偶然ではなかった 24 。この時点でイエズス会は、龍造寺氏の圧迫に苦しむ有馬領を、新たな布教の拠点候補として強く意識していたのである。
一方の晴信は、この時まさに龍造寺氏からの圧力が最高潮に達しており、一族の存亡を賭けて、藁にもすがる思いでイエズス会に支援を要請する状況にあった 24 。当初、彼はキリスト教そのものには強い関心を示していなかったが、背に腹は代えられなかった 24 。若き領主と、老練な聖職者。両者の邂逅は、肥前の歴史を大きく動かすことになる。
水面下の交渉 ― 政治的取引としての改宗
ヴァリニャーノと晴信の会見は、宗教的な対話というよりも、存亡を賭けた領主と、アジア戦略の拠点を求める組織の長との間で行われた、極めて高度な「地政学的交渉」であった。ヴァリニャーノは晴信の窮状を正確に把握し、これを布教拡大の絶好の機会と捉えた。
その交渉の実態を如実に物語る記録が残されている。ヴァリニャーノは、自らの権限でポルトガル商船に働きかけ、龍造寺軍に包囲され窮地に陥っていた晴信のもとへ、食糧と銃砲を届けさせたのである 26 。これは、信仰の教えを説く以前に、具体的かつ即物的な軍事・経済支援が先行したことを示す動かぬ証拠である。この「恩を着せられた」晴信は、もはや後戻りのできない状況に追い込まれた 26 。見返りとして、彼は領内でのキリスト教の全面的な保護を約束し、そして最終的には、自らが洗礼を受けるという最大の譲歩へと導かれていったのである。ヴァリニャーノは、最も追い詰められ、最もイエズス会の支援を必要としている晴信に的を絞り、先に具体的な「利益」を供与することで相手に断れない「貸し」を作り、交渉を完全に支配した。それは、信仰の奇跡ではなく、冷徹な戦略の勝利であった。
この一連の出来事の複雑な背景を理解するために、以下の時系列年表が助けとなるだろう。
西暦(和暦) |
有馬氏の動向 |
龍造寺氏の動向 |
イエズス会・南蛮船の動向 |
周辺勢力(大村・島津等)の動向 |
1571(元亀2) |
兄・義純の死により、晴信が家督を相続。 |
肥前国内での勢力を拡大。 |
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1574(天正2) |
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大村純忠が領内の寺社仏閣を破壊。 |
1578(天正6) |
松岡城を攻略され、龍造寺氏に従属。 |
肥前国をほぼ統一。 |
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1579(天正7) |
龍造寺氏の圧迫が最高潮に達する。 |
有馬領への圧力を強化。 |
巡察師ヴァリニャーノが口之津に来航。晴信に軍事物資を支援。 |
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1580(天正8) |
ヴァリニャーノより洗礼を受ける(ドン・プロタジオ)。 日本初のセミナリヨを有馬に設立。 |
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有馬領を布教の重要拠点と位置づける。 |
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1582(天正10) |
大友・大村氏と共に天正遣欧少年使節を派遣。 |
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島津氏が九州南部をほぼ統一。 |
1584(天正12) |
島津氏と結び、龍造寺氏から離反。沖田畷の戦いで勝利。 |
隆信が沖田畷の戦いで討死。 |
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島津氏が有馬氏を支援し、龍造寺氏と対決。 |
第三章:ドン・プロタジオの誕生 ― 洗礼の儀とその意味
ヴァリニャーノとの会見と、それに続くイエズス会からの支援は、有馬晴信をキリスト教への帰依へと導いた。それは、肥前の小大名が、国際的なキリスト教世界の庇護下にある「キリシタン大名」として生まれ変わる瞬間であった。
年代の精査:天正七年(1579年)か、八年(1580年)か
有馬晴信の洗礼は、一般に「1579年」とされることがあるが、より詳細な史料を検討すると、その時期には若干のずれが見られる。イエズス会の巡察師ヴァリニャーノが口之津に来航したのが天正七年(1579年)であることは複数の記録で一致している 24 。しかし、晴信自身が洗礼を受けたのは、その翌年の**天正八年(1580年)**であったとする史料が多数を占める 4 。
この約1年間のタイムラグは、重要な意味を持つ。これは、晴信の決断がその場の勢いで行われたものではなく、一定の熟慮期間、あるいはイエズス会側が彼の覚悟と領内の状況を見極めるための観察期間があったことを示唆している。この間に、キリスト教の教義に関する教育が行われるとともに、洗礼がもたらす政治的・軍事的な利益とリスクについて、両者の間で綿密な調整が行われたと考えるのが妥当であろう。
洗礼の儀式の再現
天正八年(1580年)、有馬氏の領内、おそらくは口之津に建てられた教会で、洗礼の儀式は執り行われた。儀式を司ったのは、他ならぬ巡察師ヴァリニャーノその人であった 27 。
荘厳な雰囲気の中、ラテン語の祈りが捧げられ、若き大名の額には聖油が塗られ、聖水が注がれたであろう。彼は日本の神仏との決別を誓い、唯一神への忠誠を宣言した。それは、一人の武将の個人的な回心という内面的な出来事であると同時に、彼の支配下にある全ての家臣と領民、そして敵対する龍造寺氏や周辺の諸大名に向けた、極めて強力な政治的メッセージを発信する儀式でもあった。
「ドン・プロタジオ」という洗礼名
この儀式を経て、有馬晴信は「ドン・プロタジオ(Dom Protásio)」という洗礼名を授かった 5 。
「ドン」は、ポルトガル語やスペイン語において貴人、特に領主階級の男性に用いられる敬称である。イエズス会が晴信にこの敬称を付与したことは、彼を単なる改宗者としてではなく、対等なパートナーシップを結ぶべき領主として公式に認めたことを意味する。
一方、「プロタジオ」は、1世紀のローマ皇帝ネロの時代にミラノで殉教したとされる初期キリスト教の聖人、ゲルウァシウスとプロタシウスに由来する。彼らは信仰を守るために権力と戦い、命を捧げた殉教者として知られる。この名が晴信に与えられた背景には、龍造寺という巨大な権力に立ち向かい、信仰のために戦う覚悟を促すという、ヴァリニャーノの明確な意図があった可能性が考えられる。
晴信の洗礼は、単なる宗教上の儀式に留まるものではなかった。それは、三つの側面を持つ、高度に計算された戦略的パフォーマンスであった。第一に、 対イエズス会 に対しては、軍事支援への見返りとして「我々はあなた方の最も忠実なパートナーである」という約束を履行するものであった。第二に、 対龍造寺氏 に対しては、「我々の背後には、海の向こうの南蛮勢力という強力な後ろ盾が存在する」という明確な牽制となった。そして第三に、 対家臣団 に対しては、度重なる敗戦と一族の裏切りで失墜した求心力を回復し、「我々には旧来の枠組みを超えた新たな力の源泉がある」と宣言するものであった。
さらに深い次元で見るならば、これは晴信自身のアイデンティティの劇的な再構築であった。肥前の一国衆に過ぎなかった「有馬晴信」は、この洗礼を通じて、国際的なカトリック世界のネットワークに連なるキリシタン大名「ドン・プロタジオ」へと生まれ変わった。それは、龍造寺隆信という国内の巨大な権威に対抗するため、より普遍的でグローバルな権威、すなわちローマ・カトリック教会に自らを接続する行為であった。このアイデンティティの変革こそが、後の大胆な政策を可能にした精神的基盤となったのである。
第四章:十字架の下の新秩序 ― キリシタン大名としての政策
ドン・プロタジオとして生まれ変わった有馬晴信は、矢継ぎ早にキリスト教を基盤とした新たな領国経営に着手した。彼の政策は、単なる熱心な信仰の表れに留まらず、イエズス会との関係を盤石にし、龍造寺氏に対抗するための国力増強を図るという、明確な戦略的意図に基づいていた。
教育革命:日本初のセミナリヨ設立(1580年)
洗礼を受けたのと同年、天正八年(1580年)、晴信はヴァリニャーノの発案を全面的に受け入れ、その援助のもと、日本で初めてとなるキリスト教の初等・中等教育機関「セミナリヨ」を自らの本拠地である日野江城下に設立した 30 。
このセミナリヨは、単なる神学校ではなかった。外国人宣教師が教鞭をとり、ラテン語、ポルトガル語といった語学のほか、宗教学、天文学、地理学、西洋音楽など、当時のヨーロッパ・ルネサンス期の最先端の学問が組織的に教えられていた 33 。これは、日本の教育史において画期的な出来事であり、有馬の地が西洋文明の知識が集積する、知的な中心地となったことを意味する。この政策は、ヴァリニャーノが求めた「日本における布教の強固な基盤」作りに対する、晴信からの最も明確な回答であった。
世界への眼差し:天正遣欧少年使節派遣(1582年)
セミナリヨ設立からわずか2年後の天正十年(1582年)、晴信はさらに大きなプロジェクトに参画する。叔父の大村純忠、そして豊後の大友宗麟と共に、ローマ教皇のもとへ少年使節を派遣する「天正遣欧少年使節」である 5 。
この使節団の正使の一人に選ばれた千々石ミゲル(ちぢわ みげる)は、晴信の従兄弟であり、有馬セミナリヨの第一期生であった 28 。この事実は、晴信がこの壮大な計画において、単なる名義貸しではなく、中心的な役割を担っていたことを示している。セミナリヨの設立や遣欧使節の派遣は、単にイエズス会への協力に留まるものではない。これらは、イエズス会との関係を不可逆的なものとし、自領を日本のキリスト教世界における「文化的・政治的中心地」として確立するための、極めて戦略的な「文化投資」であった。これにより、有馬領は単なる一貿易港から、他の大名にはない独自の付加価値を持つ特別な場所へと昇華したのである。
過激なる信仰の証:神社仏閣の破壊
一方で、晴信の政策には過激な側面もあった。彼は叔父・大村純忠の先例に倣い、領内に古くから存在した神社や仏閣を破壊し、その資材を教会やセミナリヨといったキリスト教関連施設の建設に転用したのである 5 。
この行為は、熱心な信仰の表れと見ることもできるが、その背後には戦国大名としての冷徹な計算があった。当時の寺社勢力は、広大な荘園を有する領主であり、地域社会に強い経済的・政治的影響力を持つ、大名にとっては統治の障害となりうる存在であった。これらの旧来の宗教勢力の権威と資産を破壊し、キリスト教会(そしてそれを庇護する晴信自身)に権力を一元化することは、領国支配を強化し、国力を結集して龍造寺氏に対抗するための、ラディカルな富国強兵策と直結していた。信仰は、その過激な国内改革を正当化し、推進するための強力なイデオロギーとして機能したのである。
終章:沖田畷への道程 ― 洗礼が拓いた未来
有馬晴信が天正八年(1580年)に下した洗礼という決断は、単なる宗教上の転向ではなかった。それは、滅亡寸前の小大名が、国際情勢を的確に読み解き、異質な文化・宗教・技術を戦略的に取り込むことで自らを再武装し、巨大な敵に立ち向かうための、壮大な逆転劇の序章であった。
戦略的転換点の到来
洗礼とそれに続く一連のキリシタン政策により、有馬氏の軍事・経済基盤は著しく強化された。イエズス会との強固なパイプは、南蛮貿易ルートの安定確保を意味し、それは龍造寺氏が決して持ち得なかった最新兵器の継続的な入手を可能にした 20 。特に、ポルトガル船がもたらす大砲の存在は、従来の日本の合戦の常識を覆すほどの破壊力を持っていた。
これにより、有馬氏はもはや龍造寺氏に対して、ただ一方的に圧迫されるだけの従属勢力ではなくなった。対等な交渉、あるいは対決を選択できるだけの戦略的自由度を獲得したのである。ドン・プロタジオの誕生は、九州の勢力図における力学の均衡を、静かに、しかし確実に変化させ始めていた。
龍造寺氏からの離反と沖田畷の戦い(1584年)
天正十二年(1584年)3月、晴信はついに決起の時を迎える。九州南部から北上してきた島津氏と密かに連携し、長年の屈辱を強いてきた龍造寺氏からの離反を宣言したのである 4 。
激怒した龍造寺隆信は、2万5千とも5万ともいわれる大軍を自ら率い、島原半島に侵攻した 36 。対する有馬・島津連合軍は、わずか8千。兵力差は歴然であった。決戦の地となったのは、島原城の北に広がる沖田畷(おきたなわて)と呼ばれる湿地帯であった 4 。
この戦いにおいて、洗礼がもたらした力が遺憾なく発揮される。有馬軍は、海上から船を出し、南蛮貿易を通じて入手した大砲で龍造寺軍の側面を砲撃し、大混乱に陥れた 5 。湿地と隘路に進軍を阻まれた龍造寺の大軍は身動きが取れなくなり、そこへ島津の精鋭が突撃を敢行した 39 。混乱の中、総大将の龍造寺隆信は島津方の武将・川上忠堅(かわかみ ただかた)によって討ち取られ、九州三強の一角は、この日あっけなく崩壊した 39 。
結論:洗礼という名の戦略投資
有馬晴信の洗礼は、個人的な信仰の問題に矮小化して語ることはできない。それは、滅亡の淵に立たされた弱小大名が、自らの置かれた地政学的状況を冷静に分析し、国という枠組みを超えたグローバルなネットワーク(イエズス会)と結びつき、そこから得られる最新の軍事技術、経済力、そして文化資本を戦略的に活用することで、国内の巨大な敵を打ち破った、戦国時代における最も劇的な逆転劇の一つであった。
1579年のヴァリニャーノとの邂逅と、翌1580年の洗礼は、単一の「事変」ではなく、1578年の屈辱的な従属から1584年の栄光の勝利へと至る、一連の歴史的プロセスにおける最も重要な「転換点」であった。それは、守勢一方であった有馬氏が攻勢に転じるためのエネルギーを充填する行為であり、キリスト教と南蛮貿易は、そのエネルギーの源泉そのものであった。この決断がなければ、有馬氏が沖田畷で勝利の美酒に酔うことはなく、その名は歴史の闇に消えていた可能性が高い。有馬晴信の洗礼は、信仰の名の下に行われた、最も成功した「戦略的投資」だったのである。
引用文献
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- 「有馬晴信」日野江藩初代藩主。キリシタン大名にして南蛮貿易の専門家! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/538
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- 【フォト巡礼】「妙宣寺の丹投石」 - 長崎県 https://www.pref.nagasaki.jp/object/kenkaranooshirase/oshirase/444213.html
- 【フォト巡礼】「幸天大明神の額」 - 長崎県 https://www.pref.nagasaki.jp/object/kenkaranooshirase/oshirase/443878.html
- 「長崎新聞」に住職の寄稿文が掲載されました。|要法山 常在寺 - 日蓮宗 https://temple.nichiren.or.jp/7041028-kjyouzaiji/2014/12/id920/
- 戦国期日本の貿易担当者 ‑ 禅僧からイエズス会士へ‑ https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/record/2676/files/Crossroads_2_9.pdf
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- 【新説】沖田畷の戦い 絶体絶命に陥った時、戦闘民族・島津軍は微笑む - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=KcY7E2FEQ_0&pp=ygUNI-eUsumZvei7jemRkQ%3D%3D
- 龍造寺隆信~討ち死に後、その首はなぜ受け取りを拒否されたのか - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5278
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