本庄宿整備(1602)
本庄宿整備(1602年)は、戦国期の軍事拠点から徳川の経済・行政拠点へ転換。旧権力解体後、中山道最大の宿場町として陸運・水運の結節点となり、北関東経済発展に貢献。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
日本の戦国時代という視点から読み解く「本庄宿整備(1602年)」
序論:戦国から泰平へ ― 境界の町、本庄の再定義
慶長七年(1602年)、武蔵国北辺の地、本庄において行われた宿場の整備は、徳川幕府による全国交通網「五街道」確立の一環として知られる。しかし、この事象を単なる交通インフラの設置として捉えることは、その歴史的本質を見誤ることに繋がる。本報告書は、「日本の戦国時代」という視座からこの「本庄宿整備」を徹底的に再検証し、それが戦国時代の軍事的論理から、徳川の天下泰平を支える経済的・行政的論理への、時代のパラダイムシフトを体現する象徴的な一大事業であったことを論証するものである。
本庄宿の成立は、決して無からの創造ではなかった。そこには、戦国期の在地領主・本庄氏の滅亡、軍事拠点であった本庄城とその城下町の存在、そして徳川政権による周到な国家戦略が深く関わっている。すなわち、本庄宿の整備は、戦国時代との断絶ではなく、むしろ戦国の遺産を巧みに再編し、新たな秩序の下に再定義する連続のプロセスであった 1 。本稿では、1602年前後の本庄の地で繰り広げられたリアルタイムな動態を時系列で描き出すと共に、その背景にある徳川家康の国家構想、実務を担った人々の役割、そして宿場町の構造的特質を多角的に分析し、この歴史的転換点の全貌を明らかにする。
第一部:前史 ― 戦国動乱と本庄城の興亡(1556年~1590年)
本庄宿が「無」から生まれたのではなく、戦国時代の軍事拠点という確固たる「土台」の上に再構築されたことを理解するためには、まずその前史を紐解く必要がある。
1. 武蔵国北辺の要衝、本庄城の築城
本庄の地が歴史の表舞台に大きく登場するのは、戦国時代も後半に差し掛かった弘治二年(1556年)のことである。武蔵七党の一角を占める児玉党の系譜を引く在地領主、本庄宮内少輔実忠によって本庄城が築かれた 1 。この地は、上野国(群馬県)との国境に位置し、利根川水系にも近いことから、古くから鎌倉街道が通る交通の要衝であった 2 。戦国期には、関東における古河公方と関東管領上杉氏の対立の最前線となり、五十子陣(いかっこじん)が置かれるなど、常に軍事的緊張に晒されていた 2 。
本庄実忠が、従来の本拠地であった東本庄館から、より国境に近い台地の東端へ拠点を移して築城した背景には、こうした地政学的な重要性があった 1 。城は北の崖下に小山川を天然の堀とし、東は窪地、西は高台という地形を巧みに利用した平山城であった 1 。石垣ではなく土塁を主とし、天守を持たない館形式の城郭は、戦国期関東における典型的な城の姿を示している 1 。この築城は、在地領主が自らの所領を防衛し、さらには勢力を拡大するために、より戦略的な地点へと拠点を移すという、戦国後期の典型的な動向を如実に物語っている。近年の発掘調査では、築城年代がさらに1世紀ほど遡る15世紀代の遺物も発見されており、この地が本庄氏以前から戦略的に重視されていた可能性も示唆されている 3 。
2. 小田原征伐と本庄氏の滅亡(1590年)
本庄氏は、関東の覇権が上杉氏から後北条氏へと移る中で、巧みに勢力を維持してきた。しかし、天正十八年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉による小田原征伐は、その運命を大きく揺るがす。時の城主・本庄近朝は後北条氏方として小田原城に籠城するも、圧倒的な豊臣軍の前に北条氏は降伏。近朝は開城に際して自害した 1 。本拠地である本庄城も、同年5月27日、前田利家らが率いる北国勢の攻撃を受けて落城し、鎌倉時代からこの地を支配してきた武蔵国の名門・本庄氏は滅亡した 1 。
この本庄氏の滅亡こそ、後の本庄宿整備における極めて重要な前提条件となった。もし本庄氏が在地領主として存続していれば、彼らが持つ土地の所有権や支配構造といった既得権益は、徳川家康が思い描く大規模かつ計画的な街道整備や都市計画の大きな障害となったであろう。しかし、1590年の小田原征伐によって、この地の旧来の権力構造は完全に解体され、いわば「更地化」された。徳川家康が後に関東で自由な国土開発を行えた背景には、豊臣政権下で行われたこの「在地権力の完全な解体」があった。戦国時代の終焉が、近世的な国土開発の出発点となったことを示す典型例が、ここ本庄の地に見られるのである。
3. 徳川家康の関東入府と小笠原氏の統治(1590年~1602年)
小田原征伐後、天正十八年(1590年)8月、徳川家康は豊臣秀吉の命により、北条氏の旧領である関東へ移封される。家康は、広大な関東支配を盤石にするため、主要な戦略拠点に信頼の置ける譜代の家臣を配置した 6 。本庄の地も例外ではなく、同年9月、信濃国松尾城主であった小笠原掃部大夫信嶺が、一万石の領主として本庄城に入封した 1 。
小笠原信嶺は、元は武田信玄に仕えた武将であったが、武田氏滅亡後は織田信長を経て、早くから徳川家康に仕えた譜代格の大名である 8 。上野国との国境という要衝に、こうした信頼厚い家臣を配置した点に、家康の周到な関東経営戦略が窺える。
小笠原氏が入封した当時、本庄城下にはすでに15町50間(約1.7km)の町並みが形成され、38軒の農家が存在していた 1 。信嶺と、その養嗣子となった信之(徳川四天王・酒井忠次の三男)は、この本庄氏が遺した城下町を基盤として統治を開始する 1 。彼らの統治下で、本庄は戦国時代の軍事拠点から、来るべき泰平の世における新たな役割を担うための準備期間に入った。この12年間が、慶長七年(1602年)の宿場町形成に向けた重要な素地を整えることになったのである 11 。
【表1】本庄宿整備に至る主要年表(1556年~1612年)
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物 |
典拠 |
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1556年(弘治2年) |
本庄実忠、本庄城を築城。 |
本庄実忠 |
1 |
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1590年(天正18年) |
豊臣秀吉の小田原征伐。本庄城落城、本庄氏滅亡。 |
豊臣秀吉, 本庄近朝, 前田利家 |
1 |
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1590年(天正18年) |
徳川家康が関東に入府。小笠原信嶺が本庄城主となる(1万石)。 |
徳川家康, 小笠原信嶺 |
1 |
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1598年(慶長3年) |
小笠原信嶺が死去。養嗣子の小笠原信之が家督を継ぐ。 |
小笠原信嶺, 小笠原信之 |
1 |
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1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い。徳川家康が天下の覇権を確立。 |
徳川家康 |
13 |
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1601年(慶長6年) |
徳川幕府、五街道整備に着手。東海道の宿駅制度を開始。 |
徳川家康 |
13 |
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1602年(慶長7年) |
中山道の整備が本格化。本庄宿が計画的に整備される。 |
徳川家康, 小笠原信之, 大久保長安 |
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11 |
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1612年(慶長17年) |
小笠原信之が下総国古河へ加増移封。本庄藩は廃藩となる。 |
小笠原信之 |
1 |
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1612年(慶長17年) |
本庄城が廃城となる。城下町は宿場町として発展を続ける。 |
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1 |
第二部:国家事業としての街道整備 ― 徳川幕府のグランドデザイン(1600年~1602年)
本庄宿の整備は、本庄藩という一地域のローカルな開発事業ではなく、天下統一を成し遂げた徳川政権による、全国規模の国家戦略の一環として推進された。その背景には、戦国の世を終わらせ、恒久的な支配体制を築こうとする徳川家康の壮大なグランドデザインが存在した。
1. 天下統一と五街道構想
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いにおける勝利によって天下の覇権を確立した徳川家康は、武力による支配から、法と制度による恒久的な統治体制へと移行する必要に迫られていた。その根幹をなす事業の一つが、全国交通網の整備であった 13 。翌慶長六年(1601年)、家康は江戸・日本橋を起点とする五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)の整備に着手する 19 。
この壮大なインフラ整備の第一の目的は、軍事的・政治的なものであった。各地の大名に江戸への参勤交代を義務付け、その往来を幕府の管理下に置くことで、大名の統制を強化する 15 。また、公用の書状や物資を迅速かつ確実に輸送する兵站路としての機能も重視された 19 。これは、戦国時代に各大名が自領内で行っていた街道整備を、全国規模で統一的に実施するものであり、徳川の権威が全国津々浦々に及ぶことを示す国家プロジェクトであった 22 。時系列で見ると、まず西国との結びつきが強い東海道の整備が慶長六年に始まり、翌慶長七年(1602年)には、東海道のバイパスであり、東山道諸国を結ぶ中山道の整備が本格化したのである 16 。
2. 伝馬朱印状と宿駅制度の確立
五街道という「線」を機能させるためには、その中継点となる「宿駅(宿場)」の制度化が不可欠であった。幕府は、街道沿いの主要な村落を宿場に指定し、二つの重要な文書を下付した。一つは徳川家康の朱印が押された「伝馬朱印状」、もう一つは具体的な規則を定めた「御伝馬之定」である 23 。これにより、各宿場は幕府の公用旅行者や荷物に対し、定められた数の人足と馬を無償で提供する「伝馬役」を義務付けられた 23 。中山道では、原則として人足50人、馬50疋の常備が求められた 17 。
この「伝馬朱印状」は、単なる行政文書以上の意味を持っていた。戦国時代の武将が個人の武威やカリスマによって人々を支配したのに対し、徳川政権は「法」と「制度」という、より抽象的で普遍的な権威によって全国を統治する時代の到来を告げる象徴であった。馬と馬丁が描かれた朱印 26 は、幕府の権威が全国の隅々にまで及ぶことを視覚的に示威するものであった。幕府発行の手形を持つ公用旅行者は、宿場に置かれたこの朱印状と照合することで、リレー形式で次の宿場まで人馬の提供を受けることができた 28 。この一枚の紙が、宿場に義務と特権を与え、巨大な交通・通信システムを動かす原動力となったのである。これは、人格的な支配から、文書と制度による官僚的な支配への移行を象徴する出来事であった。
なお、伝馬役という重い義務を負う見返りとして、宿場には地子(宅地にかかる税)の免除や、旅籠の経営、一般貨物の輸送による駄賃収入といった経済的特権が独占的に与えられた 23 。これにより、宿場は公的機能を担うと同時に、商業拠点としても発展する基盤を得たのである。
3. 実務を担ったテクノクラート、大久保長安
徳川家康の壮大な国家構想を、現場で具体的な形にするためには、高度な専門知識を持つ実務官僚の存在が不可欠であった。その中心人物が、関東代官頭に任じられた大久保長安である 31 。
長安は、元は甲斐武田氏に仕えた猿楽師の子という異色の経歴を持つ 32 。しかし、武田信玄にその才能を見出され、鉱山開発や税務といった理財の分野で活躍した 32 。武田氏滅亡後、家康に仕官すると、その卓越した経営手腕と開発技術を高く評価され、石見銀山や佐渡金山の奉行を歴任し、江戸幕府初期の財政基盤を築き上げた 31 。
家康の関東入府後は、関東代官頭として、交通網の整備、一里塚の建設、河川の治水、そして町づくり(都市計画)の全てを統括した 31 。特に、彼が手掛けた甲州街道八王子宿の整備では、浅川の氾濫を防ぐための「石見土手」と呼ばれる霞堤を築くなど、治水工事を前提とした極めて合理的かつ計画的な都市計画の手腕を発揮している 35 。本庄宿の整備においても、幕府のグランドデザインを現場で具体化する上で、長安のような専門官僚(テクノクラート)の指導や思想が大きな影響を与えたことは想像に難くない。彼の存在は、武力だけでなく、経済や土木技術といった専門知識が国家経営に不可欠となった新時代の到来を象徴している。
第三部:慶長七年、本庄宿誕生のリアルタイム・ドキュメント
慶長七年(1602年)、徳川幕府の国家戦略は、武蔵国本庄の地で具体的な形を取り始める。ここでは、幕府の指令から現地の開発に至るまで、事態がどのように動いたのかを時系列に沿って再構成する。
1. 幕府の指令、藩主の実行
慶長七年(1602年)初頭、徳川家康の名の下、中山道筋の諸大名および幕府直轄地の代官に対し、宿駅の設置と伝馬制度の施行に関する指令が発せられた。中山道筋の各宿場には、2月24日付で家康の「伝馬朱印状」が下付された記録が残っている 27 。本庄では、この幕府の厳命を、当時の本庄藩主であった小笠原信之が直接受けた。
信之は、徳川四天王の一人、酒井忠次の三男であり、信嶺の養嗣子として小笠原家を継いだ人物である 1 。徳川家にとって極めて縁の深い譜代大名である彼が、幕府の意向を忠実に、そして迅速に実行する役割を担った 12 。宿場の整備は、道中奉行や関東代官頭・大久保長安といった幕府中央のトップダウンによる計画と、在地を直接統治する本庄藩主・小笠原氏の実行力が両輪となって、強力に推進されたのである 11 。
2. 「花ノ木十八軒」の結集と開拓
小笠原信之が宿場建設の実行にあたり、白羽の矢を立てたのが、「花ノ木十八軒」と呼ばれる特異な経歴を持つ集団であった。伝承によれば、彼らは上野国世良田(現・群馬県太田市)を拠点とした新田氏の旧臣の末裔であり、慶長七年(1602年)頃、中山道の整備に伴って本庄の地に移り住み、宿場町の開拓に中心的な役割を果たしたとされる 11 。
この集団には、後に本庄宿の初代名主となる戸谷家、本陣を経営することになる田村家や内田家、そして近代日本を代表する実業家を輩出する諸井家などが含まれていた 39 。彼らは単なる移住者ではなく、宿場の運営を担う宿役人となり、その後何代にもわたって本庄宿の中核を担い続けることになる 11 。
この「花ノ木十八軒」の招聘は、徳川政権による旧勢力の巧みな再編・活用戦略の現れであった。彼らの出身地である世良田は、中世において利根川水運における最大級の河岸(川の港)であり、彼らは水運、すなわち広域物流に関する豊富な知識と経験を持つ専門家集団であったと考えられる 40 。一方、彼らの祖先とされる新田氏は、徳川氏がその祖と仰ぐ世良田氏と同族でありながら、足利氏と対立した、いわば戦国時代の「敗者」の系譜に連なる人々である。
幕府と小笠原氏は、こうした人々に本庄宿の開発という新たな活躍の場を与えることで、彼らが抱きうる不満を解消すると同時に、その専門知識を新時代のインフラ構築に最大限活用した。本庄宿が後に中山道の陸運と利根川の水運を結ぶ結節点として大きく発展することを考えれば 43 、この人選は極めて戦略的であったと言える。これは、戦国時代の武士の論理(忠誠と軍事力)から、近世の経済の論理(専門知識と実行力)へと、人材登用の基準が明確に変化したことを示す好例である。
3. 城下町から宿場町への再構築 ― 新たな町割り(都市計画)
「花ノ木十八軒」を中心とする開発者たちは、新たな宿場町を、既存の本庄城の南側、中山道が貫通するラインに沿って計画的に建設した 14 。当初の町並みは、街道に沿って東から「本町(ほんまち)」「中町(なかちょう)」「上町(かみちょう)」の三町から形成された 38 。
この都市計画は、戦国時代からの明確な転換を意味していた。軍事拠点である城郭を中心に、防御を重視して求心的に形成されるのが「城下町」である。それに対し、本庄宿は交通幹線である街道に沿って、人や物の流動性を最優先して線的に形成された「宿場町」であった。防御機能よりも経済合理性を重視したこの町割りは、まさに「泰平の世」の到来を象徴する都市計画であった。この計画的な町づくりと並行して、生活や農業に不可欠な用水路の整備も進められたと考えられ 45 、都市としての基盤機能が着実に整えられていった。
4. 宿場の基幹施設の設置
町の骨格が定まると、宿場としての公的機能を果たすための基幹施設が設置された。その中核となるのが「問屋場(といやば)」と「本陣(ほんじん)」である。
問屋場は、幕府の指令に基づき、伝馬役の人馬の割り当てや継ぎ立て、公用書状を運ぶ飛脚業務などを管理する、宿場の中枢機関であった 17 。一方、本陣は、参勤交代で往来する大名や、公務で旅行する幕府役人、勅使などが宿泊・休憩するための格式高い施設であり、宿場の「顔」とも言うべき存在であった 22 。本庄宿では、後に「花ノ木十八軒」の系譜を引く田村家と内田家が本陣を経営することになるが 40 、これらの施設の整備も宿場町の建設と同時期、あるいはそれに続く早い段階で進められたと考えられる。これらの施設の設置により、本庄宿は徳川幕府が構築した全国交通網の正式な一翼を担う機能を確立したのである。
第四部:宿場町の構造と発展 ― 関東北端の経済拠点へ
慶長七年(1602年)に行われた計画的な整備は、本庄宿がその後「中山道最大の宿場町」と称されるほどの繁栄を遂げるための強固な礎となった。その発展の要因は、地理的優位性、周辺地域との関係性、そしてそこに生きた人々の活力にあった。
1. 陸運と水運の結節点としての地理的優位性
本庄宿が他の多くの宿場を凌駕する規模にまで発展した最大の要因は、その地理的優位性にあった。本庄宿は、江戸と京を結ぶ中山道という陸上交通の大動脈上に位置すると同時に、宿場の北を流れる利根川の水運と密接に結びついていた 43 。宿場の近くには山王堂河岸などの河岸(港)が存在し、江戸との間で大量の物資を輸送する集積地として機能したのである 11 。
信濃国や上野国といった内陸部で生産された米、大豆、麻、生糸、煙草などの産品は、陸路で本庄に集められ、そこから高瀬舟などの川舟に積み替えられて利根川を下り、江戸へと送られた 50 。逆に、江戸からは塩、海産物、呉服、雑貨などが本庄で陸揚げされ、中山道を通じて内陸の各地へと運ばれた。この陸運と水運が交差する「結節点(ハブ)」としての機能が、本庄に多くの商人を呼び寄せ、商業の集積と人口の増大をもたらした。戦国時代には軍事的な境界線であった国境の町が、泰平の世では経済的な交流拠点へとその役割を大きく変えたのである。
2. 宿場を支えた周辺農村 ― 助郷制度の光と影
宿場町の繁栄は、しかし、その周辺に広がる農村の重い負担の上に成り立っていた側面も忘れてはならない。宿場に常備された人馬だけでは、大名行列の通過時など、公用交通の需要を賄いきれない場合が頻繁にあった。その不足分を補うため、宿場周辺の村々に対し、人馬を提供する義務を課したのが「助郷(すけごう)」制度である 30 。
本庄宿はその規模が大きかったため、助郷を命じられた村々の数も多く、その運営は複雑であった。中でも牧西村の名主であった小川家は、本庄宿の全助郷村を統括する「助郷用元」を世襲し、運営に大きな力を持っていた 49 。しかし、助郷役は農繁期もお構いなしに、不当に安い賃金で課されることが多く、農民の生活を著しく圧迫した 52 。時代が下ると、この過酷な負担をめぐって宿場と助郷村の間で紛争が頻発するようになり、天保七年(1836年)には、道中奉行の命で紛争解決のための誓詞が交わされる事態にまで至っている 38 。宿場町の華やかな賑わいは、助郷村々の犠牲という影の部分によって支えられていたのである。
3. 「泰平の世」の繁栄と文化
1602年の整備を起点として、本庄宿は順調に発展を続けた。当初の三町から、東の台町、西の新田町へと町並みは拡大し 56 、その繁栄の頂点にあった天保十四年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、その規模は他の宿場を圧倒していた。
【表2】天保十四年(1843年)における中山道主要宿場の規模比較
宿場名 |
人口(人) |
家数(軒) |
旅籠数(軒) |
本陣・脇本陣数(軒) |
本庄宿 |
4,554 |
1,212 |
70 |
4 (本陣2, 脇本陣2) |
高崎宿 |
4,213 |
1,061 |
63 |
4 (本陣2, 脇本陣2) |
熊谷宿 |
2,130 |
506 |
32 |
3 (本陣1, 脇本陣2) |
板橋宿 |
2,562 |
565 |
54 |
3 (本陣1, 脇本陣2) |
軽井沢宿 |
988 |
212 |
26 |
3 (本陣1, 脇本陣2) |
出典: 『中山道宿村大概帳』等の記録に基づく 2 。高崎宿以下の数値は比較のための代表値。
この表が示すように、本庄宿は人口・家数において中山道六十九次中、第一位を誇る最大の宿場町へと成長した 2 。経済的な繁栄は、豊かな文化を育む土壌ともなった。戸谷半兵衛(俳号・双烏)に代表される豪商たちは、商売で得た富を元に、俳諧や書画といった文化活動のパトロンとなり、本庄宿は北武蔵における文化的な中心地としても栄えた 60 。また、彼ら豪商が築いた、防火帯の役割も果たす壮麗な蔵造りの家並みは 56 、後に幕府が作成した『中山道分間延絵図』にも活気ある姿で描かれ 38 、その繁栄ぶりを今に伝えている。
結論:本庄宿整備が象徴するもの ― 軍事から経済へのパラダイムシフト
慶長七年(1602年)に行われた本庄宿の整備は、単なる一宿場の成立に留まらない、日本の歴史における大きな転換点を象徴する事象であった。それは、戦国時代を通じて社会の根幹をなしてきた「城」という軍事拠点を中心とする秩序から、近世の天下泰平を支える「街道」という経済・情報網を中心とする新たな秩序への、明確なパラダイムシフトを決定づけた画期的な出来事であった。
本報告書で検証した一連のプロセスは、徳川家康がいかにして戦国の遺産を巧みに再編し、新たな支配体制を構築していったかを凝縮して示している。
- 在地領主・本庄氏の滅亡 は、旧来の権力構造を解体し、新たな都市計画を可能にする「武力による淘汰」の段階であった。
- 徳川家臣・小笠原氏の入封 は、旧領に信頼の置ける家臣を配置し、幕府の支配を浸透させる「新たな支配者の配置」の段階であった。
- 専門家集団「花ノ木十八軒」の招聘 は、旧勢力に新たな役割を与えて体制に取り込み、その専門知識を国家建設に活用する「新時代の担い手の登用」の段階であった。
- 計画的な町割り は、軍事優先から経済・流通優先へと社会の価値観が転換したことを示す「新たな社会秩序の設計」であった。
このように、本庄宿の事例は、日本の近世社会が、約150年にわたる武力闘争の時代を乗り越え、法と制度、そして全国的な流通網によって統治される「泰平の世」へと移行する、その黎明期におけるダイナミズムを鮮やかに物語っている。戦国の城跡の南に伸びる一本の街道は、新たな時代の幕開けを告げる道標だったのである。
引用文献
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- 中世・近世(本庄地域) https://www.city.honjo.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazai/tantoujouhou/rekisi/1375846628272.html
- 本庄城跡 (PDF https://www.city.honjo.lg.jp/material/files/group/28/25honzyouzuoseki.pdf
- 本庄城 五十子陣 小島氏館 四方田氏館 児玉氏館・源義家陣 富田氏館 栗崎館 北堀堀ノ内館 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/saitama/honjousi01.htm
- 本庄城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/837
- 近世(児玉地域) - 本庄市 https://www.city.honjo.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazai/tantoujouhou/rekisi/1375763534101.html
- 市指定文化財(記念物) - 本庄市 https://www.city.honjo.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazai/tantoujouhou/bunkazai/1380503567132.html
- 小笠原氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B0%8F
- 小笠原信嶺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E5%B6%BA
- 徳川四天王の家系図/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/102951/
- 中山道本庄宿 田村本陣 https://www.city.honjo.lg.jp/material/files/group/28/hwmm_brickwarehouse_exh202401pamph.pdf
- 近世後期本庄宿における本陣利用者獲得と休泊由緒 https://www.city.honjo.lg.jp/material/files/group/28/3-3akiyama.pdf
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- 中山道と和宮―本庄宿を中心に― - 桶川市 https://www.city.okegawa.lg.jp/material/files/group/42/R6_tennjikaisetu3.pdf
- discoverjapan-web.com https://discoverjapan-web.com/article/148734#:~:text=%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93%E3%81%AF1601%E5%B9%B4,%E3%81%AE%E6%B5%81%E9%80%9A%E3%81%AB%E3%82%82%E6%B4%BB%E7%94%A8%E3%80%82
- 中山道六十九次 https://www.group-sanwa.co.jp/ootajuku/rekisi/69tugi.html
- 中山道「本庄宿」について - 戸谷八商店 https://www.toyahachi.com/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E9%81%93%E6%9C%80%E5%A4%A7%E3%81%AE%E6%9C%AC%E5%BA%84%E5%AE%BF/
- 本庄城 - 古城の歴史 http://takayama.tonosama.jp/html/honjo.html
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- 「五街道」とは?地域文化を育んだのは、江戸時代から賑わう“道”でした。 | Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/148734
- 江戸街道プロジェクトとは https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/kankou/kankou/edokaidoportal/introduction/index.html
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- E0036055 中山道分間延絵図 熊谷_深谷_本庄_新町_倉賀野 - 東京国立博物館 画像検索 https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0036055