最終更新日 2025-09-11

本能寺の変(1582)

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天正十年、夏:本能寺の変 全貌解明レポート

序章:天下統一、最終局面へ

天正10年(1582年)、日本の歴史が大きく動いたその年の春、戦国の覇王・織田信長の権勢はまさに頂点に達していた。同年3月、長年の宿敵であった甲斐の武田氏を滅亡させたことにより、信長の行く手を阻む東国の大勢力は事実上消滅した 1 。この時点で、信長の視線の先には、西国の雄・毛利氏、北陸に最後の抵抗を続ける上杉氏、そして四国に覇を唱えんとする長宗我部氏が残るのみとなっていた。天下統一はもはや時間の問題であると、信長自身も、そして天下の誰もが確信していた状況であった 2

しかし、この武田氏滅亡という一大事業の完了は、単なる領土拡大以上の意味を持っていた。それは、織田政権が絶え間ない「征服」の段階から、安定した「統治」の段階へと移行する、質的転換の始まりを告げるものであった。この変化は、これまで武功によってその地位を築き、評価されてきた家臣団の役割と価値基準に、静かだが根本的な変容を迫るものであった。

その象徴的な出来事が、同年5月に安土城で催された徳川家康の饗応である。信長は、この饗応の接待役を明智光秀に命じ、自らも京に上洛して近衛前久らを招いた茶会を開くなど 1 、文化的・政治的な権威の誇示に注力していた。これは、単なる同盟者への労いを超え、武力によって平定された天下に、新たな秩序と文化の時代が到来したことを内外に示す、壮大な政治的パフォーマンスであった。武辺一辺倒の時代が終わり、これからは文化的な素養や行政能力が武将の価値を左右する。この信長が示す新しい価値観は、旧来の猛将たちには戸惑いを、そして光秀のような知将には新たな活躍の場を約束するかに見えた。だが、この政権の構造的転換期にこそ、本能寺の変という未曾有の内部崩壊の芽は育まれていたのである。

第一章:主君と宿将 ― 織田信長と明智光秀

織田信長 ― 破壊と創造の天下人

織田信長という人物を語る時、その評価は常に両極端に振れる。旧来の権威や慣習を容赦なく破壊する「第六天魔王」としての側面は、比叡山延暦寺の焼き討ち 2 や、裏切った浅井長政の髑髏を杯にして酒を飲んだという逸話 2 に象徴される。その一方で、彼は既成概念に囚われない合理主義者であり、卓越した革新者でもあった。長篠の戦いにおいて、当時まだ補助的な兵器であった鉄砲を3000挺も集め、三段撃ちという新戦術で最強と謳われた武田の騎馬軍団を打ち破ったことは、その軍事的才能を如実に示している 2 。また、楽市楽座の導入による経済の活性化や、身分を問わない人材登用など、彼の政策は常に時代を先取りしていた。

しかし、その統治スタイルの根幹には、絶対的な権力者としての苛烈さがあった。天正8年(1580年)の佐久間信盛・信栄父子の追放劇に見られるように、功績のない者、あるいは信長の期待に応えられない者に対しては、過去の功労を一切顧みない非情な一面を持っていた。近年では、信長が政権の安定期を見据え、柴田勝家のような宿老たちから、森蘭丸に代表される若手の近習へと権力の中枢を移行させ、組織の再編成を図っていたという指摘もある 4 。この世代交代と権力構造の変化は、既存の重臣たちに、自らの将来に対する深刻な不安と危機感を抱かせるに十分であった。信長にとっての合理的な組織改革は、家臣たちにとっては自らの存在価値を揺るがす脅威と映ったのである。

明智光秀 ― 異色のエリート

明智光秀は、織田家臣団の中で異色の経歴を持つエリートであった。その前半生は謎に包まれているが、織田信長に仕える前は、室町幕府最後の将軍・足利義昭に仕えていたことが知られている 5 。この経験は、彼に単なる武将ではない、朝廷や幕府といった伝統的権威の構造を深く理解する、独自の政治的視野を与えた。

信長の家臣となってからの光秀の出世は、まさに破格であった。軍事における才能はもちろんのこと、卓越した行政手腕、朝廷や諸大名との交渉を担う外交能力、さらには連歌や茶の湯といった文化にも精通していた彼は、信長にとって最も信頼のおける部下の一人となった 5 。その信頼の証として、光秀は織田家臣団の中で最も早く一国一城の主となり 5 、本能寺の変の直前には、丹波一国を領する大名となっていた。

彼の地位は、単なる丹波国主に留まらなかった。与力として丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶、摂津の池田恒興、高山右近、中川清秀といった畿内の有力武将たちが彼の指揮下に組み込まれ、その総石高は実に120万石(一説には240万石)にも及んだ 7 。これは事実上、織田軍の「畿内方面軍司令官」とも言うべき立場であり、彼が織田政権の枢要を担う最重要人物の一人であったことを示している。さらに、信長の弟・信行(信勝)の遺児である津田信澄に娘を嫁がせ、織田一門と姻戚関係を結ぶことで、その政治的地位をより強固なものとしていた 7

しかし、この光秀の地位は、彼の類稀なる能力の証明であると同時に、彼の脆弱性の源泉でもあった。柴田勝家のような織田家譜代の猛将や、羽柴秀吉のような純粋な軍功で叩き上げてきた武将とは異なり、光秀の権力基盤は、信長個人の絶大な信頼と、彼が担う畿内という複雑な政治領域の「調整役」としての機能に大きく依存していた。信長の天下統一事業が最終段階に入り、旧来の権威を不要とする絶対的な支配体制へと移行し始めるとき、その「調整役」としての価値は相対的に低下しかねない。信長の方針一つで、その立場は大きく揺らぐ危険性を常に内包していたのである。


【表1】本能寺の変 直前における織田家主要方面軍配置表

方面軍

司令官

担当地域

主要な敵対勢力

備考

北陸方面軍

柴田勝家

越中・越後

上杉景勝

当時、越中魚津城を攻略中であった 8

中国方面軍

羽柴秀吉

播磨・備中

毛利輝元

当時、備中高松城を水攻め中であった 8

関東方面軍

滝川一益

上野

北条氏政

武田氏滅亡後、関東管領として厩橋城に入城 9

畿内方面軍

明智光秀

丹波・近江・山城

(なし)

京都周辺の治安維持と対朝廷・寺社政策を担当 7

四国方面軍

織田信孝、丹羽長秀

(準備中)

長宗我部元親

大坂・堺にて四国征伐の出陣準備中であった 8

東海方面

徳川家康

三河・遠江・駿河

(同盟者)

安土・京・堺を遊覧中であった 10


この配置表が示す事実は、本能寺の変の構造を理解する上で極めて重要である。織田家の主力軍団は、すべて遠方の前線に展開しており、中央である京都は事実上の「権力の空白地帯」となっていた。信長がわずかな手勢で本能寺に滞在していたのも、この主力軍団が各地の敵を抑えているという絶対的な自信の裏返しであった。しかし、光秀はこのシステムの構造的欠陥、すなわち中央の脆弱性を正確に見抜いていた。彼が謀反を決行した際、他の方面軍司令官たちは地理的にあまりにも遠く、かつ、それぞれが強力な敵と対峙しているため、即座に駆けつけることは物理的に不可能であった。光秀の謀反は、この織田軍団の配置が作り出した、一瞬の隙を突いた完璧な奇襲だったのである。

第二章:動機の深層 ― なぜ光秀は謀反に及んだのか

明智光秀がなぜ主君・織田信長を討ったのか。この問いは、日本の歴史における最大の謎として、400年以上もの間、人々を惹きつけてきた。その動機については、怨恨、野望、あるいは背後に潜む黒幕の存在など、様々な説が提唱されてきた。単一の理由で説明することは困難であり、複数の要因が複雑に絡み合った結果として、あの運命の日を迎えたと考えるのが妥当であろう。

怨恨説 ― 屈辱は引き金か

光秀の動機として最も広く知られているのが、信長からの度重なる屈辱に対する「怨恨説」である。その代表的な逸話として、天正10年(1582年)5月の徳川家康饗応役を巡る一件が挙げられる。接待役を命じられた光秀が用意した饗応に対し、信長が「腐っている」と激怒し、光秀を足蹴にして役から解任したというものである 11 。また、武田氏を滅ぼした際の論功行賞の席で、光秀が自身の功を述べたことに信長が激昂し、森蘭丸に命じて鉄扇で光秀を打ち据えさせたという話も伝わっている 12

これらの逸話は、信長の苛烈な性格と、それに耐えかねた光秀という構図を分かりやすく描き出しており、物語としては非常に魅力的である。しかし、注意すべきは、これらのエピソードの多くが、事件から数十年後に書かれた江戸時代の軍記物や逸話集に由来するものであり、太田牛一の『信長公記』のような同時代の信頼性の高い史料には、その裏付けが見当たらない点である 12

したがって、これらの具体的なエピソードをそのまま史実として受け取ることはできない。だが、こうした逸話が数多く生み出された背景には、信長と光秀の間に、周囲が察知するほどの何らかの確執や緊張関係が存在した可能性は否定できない 4 。信長の革新的な価値観と、光秀の伝統を重んじる性格の不一致が、徐々に両者の間に溝を生んでいったのかもしれない 2 。怨恨説は、謀反の根本原因ではないにせよ、光秀の決断を後押しする心理的な引き金の一つとして機能した可能性は考えられる。

野望説 ― 天下への渇望

怨恨説と並んで古くから存在する説が、光秀自身が天下を狙っていたとする「野望説」である。この説の最も強力な根拠は、信長の家臣であった太田牛一が記したとされる『太田牛一雑記』の一節である。そこには、光秀が「御厚恩忘れ、欲に耽りて天下之望を成し」たと、明確に記されている 11 。事件直後の人々が、光秀の動機をそのように認識していたことを示す、重要な記録である。

かつて光秀は、線の細い教養人というイメージで語られることが多かったが、近年の研究ではその人物像は大きく見直されている。彼は織田家臣団の中で最初に一国一城の主となり 5 、困難を極めた丹波平定を成し遂げ、方面軍を率いるまでになった、恐るべき「切れ者」であった 14 。これほどの実力と地位を築いた人物が、信長亡き後の天下に野心を抱いたとしても、何ら不思議ではない。

光秀が単なる衝動で動いたのではなく、信長を討った後の政権構想まで描いていた可能性を示唆する史料も存在する。本能死の変後、光秀が反信長勢力であった雑賀衆の土橋重治に送った書状には、備後の鞆の浦にいた追放将軍・足利義昭を再び京に迎える計画が記されていた 14 。これは、光秀が室町幕府という伝統的な権威を担ぎ出し、自らが「畿内管領」のような立場で実権を握ることで、反信長勢力を結集させ、新たな政権を樹立しようとしていたことを示唆している。彼の謀反は、天下を狙う明確な野心と、それを実現するための具体的な政治構想に基づいた、計画的なクーデターであった可能性が高い。

四国政策説 ― 最新研究が示す動機

近年、数ある動機説の中で最も有力視されているのが、信長の「四国政策」の急な変更が原因であるとする説である 13 。この説は、光秀個人の感情だけでなく、織田政権の外交政策という、より大きな構造の中で謀反の原因を捉えようとするものである。

事の発端は、土佐の長宗我部元親の四国統一事業にあった。当初、信長は、畿内で敵対していた三好氏や石山本願寺を牽制するため、元親が三好氏の領国である阿波へ侵攻することを黙認、事実上支援していた 13 。この織田家と長宗我部家の外交交渉を一手に担っていたのが、明智光秀であった。光秀の重臣である斎藤利三の縁戚が元親に嫁いでいた関係から、光秀はこの重要な交渉の取次役を任されていたのである 13

しかし、天正8年(1580年)に石山本願寺との10年にわたる戦いが終結すると、状況は一変する。元親を利用する必要がなくなった信長は、四国で勢力を拡大し続ける元親を危険視し始め、突如として方針を転換した。信長は光秀を通じ、元親の領地を土佐一国と阿波の南半国に限定するよう、一方的に通告したのである 13

これは、長年かけて元親との信頼関係を築いてきた光秀にとって、まさに梯子を外されるに等しい行為であった。交渉役としての面目は丸潰れとなり、織田家における彼の政治的立場は著しく悪化した。さらに信長は、元親がこの理不尽な要求を拒否すると、三男の織田信孝を総大将とする四国征伐軍の派遣を決定する 13 。この征伐軍の出陣予定日は、天正10年6月3日であった。

このまま四国攻めが実行されれば、光秀と斎藤利三の責任が問われることは必至であり、最悪の場合、佐久間信盛のように追放される可能性すらあった。自らの政治生命、そして明智家の存亡そのものに深刻な危機感を抱いた光秀は、四国征伐軍が出陣する前日、6月2日に、実力行使をもってこの状況を覆すという、最後の手段に打って出た。これが「四国政策説」の骨子である。この説は、光秀の動機を、彼の置かれた具体的で切迫した政治的状況から説明する点で、高い説得力を持っている。

黒幕説 ― 背後に潜む影

本能寺の変の謎をさらに深めているのが、光秀単独の犯行ではなく、背後で糸を引いていた「黒幕」がいたのではないか、とする説である。黒幕の候補としては、信長と対立関係にあった複数の勢力が挙げられている。

まず、信長が進めていた朝廷の権威を軽んじるかのような政策に危機感を抱いた 朝廷黒幕説 16 。次に、信長によって京を追放された将軍・

足利義昭黒幕説 16 。そして、本能寺の変によって結果的に最大の利益を得たことから、

羽柴秀吉黒幕説 も根強く語られている 17 。その他にも、イエズス会や堺の商人、本願寺などが黒幕であったとする説も存在する 16

これらの説は、それぞれの勢力が信長を排除する動機を持っていたという状況証拠に基づいており、歴史のミステリーとして多くの憶測を呼んできた。しかし、いずれの説も、光秀に謀反を命じたことを示す手紙などの直接的かつ決定的な史料が存在しない 16 。そのため、現代の歴史学においては、これらの黒幕説は憶測の域を出ないものとして、ほとんど支持されていないのが実情である。


【表2】明智光秀謀反の動機に関する主要学説比較表

学説

提唱される理由

主な根拠史料・逸話

現在の学術的評価

怨恨説

信長からの度重なる叱責や屈辱的な扱いに対する個人的な恨み。

『川角太閤記』、『明智軍記』など江戸時代の軍記物。家康饗応役解任事件など。

逸話の多くは後世の創作であり、直接的な原因とは考えにくい。ただし、両者の確執を示唆する可能性はある。

野望説

光秀自身が天下人になることを望んだという野心。

『太田牛一雑記』の記述。「天下の望みを成し」。足利義昭を奉じる政権構想。

最も古くからある説。光秀の実力と地位を考えれば十分にあり得る動機として再評価されている。

四国政策説

信長の四国政策の転換により、外交担当者としての面目を潰され、政治的立場が危うくなったため。

『元親記』、近年の『石谷家文書』の発見など。信長と長宗我部元親の関係性の変化。

史料的裏付けが比較的強く、近年の研究で最も有力視されている説。

黒幕説

朝廷、足利義昭、羽柴秀吉などが、光秀を操り信長を討たせたとする説。

状況証拠(事件による受益者、信長との対立関係など)。

直接的な証拠となる史料が皆無であり、学術的には支持されていない。


これらの動機説は、必ずしも互いに排他的なものではない。むしろ、複合的な要因が重なり合って、光秀を謀反へと駆り立てたと考えるべきであろう。例えば、以前から信長のやり方に疑問を抱き、自分ならもっとうまく天下を治められるという「野望」を潜在的に抱いていた光秀が、「怨恨」を募らせていたところに、決定的な引き金として「四国政策」問題が降りかかった、という解釈も可能である。四国問題は、彼の潜在的な野心に火をつけ、個人的な恨みを爆発させ、そして謀反という具体的な行動に踏み切らせるための、最後の一押しとなったのかもしれない。様々な感情と計算が渦巻く中で、光秀は運命の決断を下したのである。

第三章:運命の二日間 ― 本能死の変、リアルタイム再現

天正10年6月1日から2日にかけての約30時間は、日本の歴史の流れを決定的に変えた、極めて濃密な時間であった。ここでは、京都・本能寺、丹波・亀山城、そして二条新御所という三つの舞台で同時並行的に進行した出来事を、可能な限り詳細な時系列に沿って再現する。

6月1日 ― 最後の夜

【京都・本能寺】 信長の動向

その日、本能寺に滞在していた織田信長は、天下人としての権勢を象徴するかのように、穏やかな一日を過ごしていた。近衛前久をはじめとする公家衆を主賓として招き、自慢の茶器を披露する茶会を催した 3 。この時、安土城からわざわざ運ばれてきた名物茶器は38点にも及んだといい 3 、それは彼の武威だけでなく、文化的権威をも天下に示すためのものであった。

しかし、その警備体制は天下人としては驚くほど手薄であった。信長に付き従っていたのは、森成利(蘭丸)をはじめとする小姓衆など、わずか数十名から百数十名程度に過ぎなかった 3 。これは単なる油断ではなく、もはや天下に自分を脅かす敵はいないという絶対的な自信の表れであり、武力に頼らない静謐な時代の到来を告げる、信長なりのパフォーマンスであったとする見方もある 18 。だが、皮肉にもこの「平和の演出」が、彼の命取りとなった。

夜が更けると、妙覚寺に宿をとっていた嫡男の信忠が本能寺を訪れ、父子は水入らずで語らったという 17 。その後、信忠は自らの宿所へ戻り、信長も就寝。これが、父子にとって最後の会話となった。

【丹波・亀山城~京へ】 光秀の動向

一方、その頃、丹波亀山城では、明智光秀が歴史を覆すための軍事行動を開始していた。表向きの目的は、備中高松城で毛利軍と対峙する羽柴秀吉への援軍であった 1 。夕刻、光秀は1万3000の精鋭を率いて亀山城を出陣した 19

軍勢は当初、西国街道を通り、備中へ向かうものと思われていた。しかし、京へと続く老ノ坂を越え、深夜、桂川のほとりに達した時、光秀はついにその真意を明らかにする。ここで発せられたとされる「敵は本能寺にあり」という言葉は、本能寺の変を象徴する名台詞としてあまりにも有名である 20 。しかし、この言葉は頼山陽の『日本外史』など後世の編纂物によって広まったものであり、同時代の史料には見られない 22 。むしろ、光秀軍の一兵卒であった本城惣右衛門の覚書によれば、兵士たちは徳川家康を討つために京へ向かうのだと思い込んでおり、目的が信長であるとは夢にも思っていなかったという 24 。謀反の真意は、斎藤利三や明智秀満といった、ごく一部の腹心にしか明かされていなかった可能性が高い。光秀は、情報が漏れることを最大限に警戒し、周到な計画のもとに軍を進めていたのである。

6月2日未明~早朝 ― 本能寺炎上

午前4時頃 、夜が明けきらぬうちに、明智軍は本能寺を完全に包囲した 3 。そして、鬨の声を合図に、四方の門から一斉に境内へとなだれ込んだ。轟く鉄砲の音と兵士たちの雄叫びは、静寂に包まれていた京の都を震撼させた 17

当初、物音に気づいた信長は、「下の者たちの喧嘩であろう」と意に介さなかったという 17 。しかし、それが謀反であることを知ると、彼は少しも取り乱さなかった。近習の森蘭丸が「明智の軍勢と見受けられます」と報告すると、信長はただ一言、「是非に及ばず(やむを得ない)」と応じたと『信長公記』は伝えている 17 。この一言には、状況を瞬時に理解し、運命を受け入れた天下人の覚悟が凝縮されている。

信長は自ら武器を取って応戦した。はじめは弓を手に、次々と矢を放ち、弦が切れると今度は槍に持ち替えて奮戦した 25 。しかし、多勢に無勢、肘に槍傷を負うと、もはやこれまでと悟り、御殿の奥深くへと退いた 28 。ルイス・フロイスの『日本史』は、信長が背中に矢を受け、薙刀のような武器で戦ったが、腕に銃弾を受けて退いたと、より生々しい戦闘の様子を伝えている 28

最期の時を悟った信長は、傍にいた女房衆を「女たちはもうよい、急いで脱出せよ」と言って逃がした 27 。そして、自らの首を敵に渡すことを最大の屈辱とし、近習に寺へ火を放つよう命じると、炎が燃え盛る御殿の奥で、内側から納戸の戸を固く閉ざし、自刃して果てた 19 。享年49。天下統一を目前に、覇王はその生涯を自らの手で閉じたのである。

6月2日早朝~午前 ― 二条新御所の悲劇

本能寺での異変は、すぐ近くの妙覚寺に宿所を構えていた嫡男・織田信忠の元にも届いた。報せを聞いた信忠は、父を救出すべく、手勢を率いて本能寺へ駆けつけようとした 30 。しかし、そこへ血相を変えた京都所司代・村井貞勝が駆けつけ、本能寺はすでに陥落し、信長が自害したことを伝えた。そして、城としての防御機能に優れた二条新御所へ移り、籠城することを進言した 31

信忠はこの進言を受け入れ、二条新御所へと移る。この御所には、誠仁親王とその子・和仁王(後の後陽成天皇)が滞在していた。信忠は籠城に先立ち、まず親王一家を内裏へと安全に避難させた 30 。自らの命が風前の灯火にある中で、皇室の安全を最優先したこの行動は、彼が信長の後継者たるにふさわしい冷静な判断力と、公に対する強い責任感を備えていたことを示している。

本能寺を制圧した明智軍は、間髪を入れず二条新御所へと殺到し、これを包囲した 21 。信忠と、彼に従う織田家の家臣たちは、圧倒的な兵力差にもかかわらず、果敢に防戦した。しかし、明智軍は隣接する近衛前久邸の屋根に登り、そこから御所内へ鉄砲を撃ちかけるなど、猛攻を加えた 32 。激しい戦闘の末、村井貞勝ら多くの家臣が討死し、信忠もついに自害した 30 。享年26。父の死からわずか数時間後、織田家の有能な後継者もまた、非業の最期を遂げた。信忠の死と共に、二条新御所も炎に包まれ、灰燼に帰したのである 30


【表3】本能寺の変 タイムライン(6月1日~2日)

日時

場所

主要人物

出来事

6月1日 夕刻

丹波・亀山城

明智光秀

1万3000の兵を率い、中国方面への援軍と称して出陣 19

6月1日 夜

京都・本能寺

織田信長、信忠

信忠が本能寺を訪問し、父子で歓談。その後、信忠は宿所の妙覚寺へ戻る 17

6月1日 深夜

桂川

明智光秀

軍勢に京への進軍を命令。謀反の意図を一部の重臣に明かす 20

6月2日 未明 (午前4時頃)

京都・本能寺

明智軍

本能寺を完全に包囲し、攻撃を開始 3

6月2日 早朝

京都・本能寺

織田信長

謀反を悟り、「是非に及ばず」と応じる。自ら弓や槍を手に奮戦するも負傷 17

6月2日 早朝

京都・妙覚寺

織田信忠

異変を察知し、本能寺へ救援に向かおうとする 30

6月2日 早朝

京都・本能寺

織田信長

寺に火を放たせ、御殿の奥で自刃。享年49 19

6月2日 早朝

京都・二条新御所

織田信忠

本能寺の陥落を知り、二条新御所へ移動。誠仁親王らを内裏へ避難させる 31

6月2日 午前 (辰の刻頃)

京都・二条新御所

明智軍

二条新御所を包囲し、総攻撃を開始 21

6月2日 午前

京都・二条新御所

織田信忠

奮戦の末、自刃。享年26。二条新御所も炎上 30


信長と信忠、父子の最期における行動は、単なる敗北者のそれではない。信長は、天下人としての権威の象徴である自らの首を敵に渡すことを最後まで拒絶し、炎の中にその姿を消した。一方の信忠は、次代の天下を担う者として、まず公(皇室)の安全を確保し、その後、武家の棟梁として潔く自らの命を絶った。光秀が信忠をも討ったのは、この冷静沈着で有能な後継者の存在こそが、自らの野望にとって最大の障害になると判断したからに他ならない。二人の死は、織田政権の唐突な終焉を象GSTする、あまりにも劇的な儀式であった。

第四章:激震、列島を走る ― 各地の大名たちの動向

信長・信忠父子の死という衝撃的な報せは、驚くべき速さで日本列島を駆け巡った。この一報をいつ、どのような形で受け、そしてどう行動したか。情報伝達の速度と正確性、そして各地の武将たちが置かれていた地理的・政治的状況が、彼らのその後の運命を大きく分かつことになった。

羽柴秀吉と「中国大返し」

当時、羽柴秀吉は備中高松城にて、毛利輝元率いる毛利軍と対峙していた 33 。信長の死という一報は、6月3日の夜から4日の未明にかけて、秀吉の陣にもたらされた 34 。この絶体絶命の危機を、秀吉は千載一遇の好機へと転換させる。

彼の対応は、驚くほど迅速かつ的確であった。まず、信長の死という情報が毛利方に漏れることを防ぐため、陣の周囲の交通を遮断し、徹底した情報統制を敷いた 35 。そして、それまで難航していた毛利氏との和睦交渉を、信長の死を隠したまま、わずか一日でまとめ上げたのである 36 。高松城主・清水宗治の切腹を見届け、毛利軍の撤退を確認すると、秀吉は全軍に京都への帰還を命じた。

世に言う「中国大返し」の始まりである。6月6日に備中高松の陣を引き払った秀吉軍は、京都山崎に至る約200kmの道のりを、わずか8日間で踏破した 33 。特に、6月7日から8日にかけて、沼城から姫路城までの約70kmを、折からの豪雨と暴風の中、一昼夜で駆け抜けたと記録されており 34 、その行軍速度は驚異的であった。この強行軍を可能にしたのは、単なる兵士たちの奮闘だけではない。秀吉が事前に沿道の諸城主と連携し、兵糧や物資の補給拠点を確保していたこと、そして兵士たちに金銭を気前よく与えることで、その士気を最大限に高めていたことなど、周到な準備と卓越した人心掌握術があったからこそ成し得た偉業であった。


【表4】羽柴秀吉「中国大返し」行程表

日付

出発地

到着地

移動距離 (約)

主な出来事

6月6日

備中高松城

沼城

22 km

毛利軍の撤退を確認し、全軍で帰還を開始 36

6月7日

沼城

姫路城

70 km

豪雨の中、難所の船坂峠を越え、一昼夜で踏破 36

6月8日

姫路城

(滞在)

-

兵の休息と再編成。姫路城の備蓄物資を兵に与える。

6月9日

姫路城

明石

35 km

昼過ぎに明石に到着 36

6月10日

明石

兵庫

18 km

順調に行軍を続ける 36

6月11日

兵庫

尼崎

26 km

摂津に到着。池田恒興らと連絡を取り始める 36

6月12日

尼崎

富田

23 km

池田恒興、中川清秀、高山右近ら摂津衆と合流 34

6月13日

富田

山崎

6 km

明智光秀軍と対峙。山崎の戦いが始まる 36


徳川家康と「神君伊賀越え」

秀吉とは対照的に、本能寺の変は徳川家康を生涯最大の危機に陥れた。信長の勧めで堺を遊覧中であった家康は、京へ戻る道中、河内国の飯盛山付近で信長の死を知る 10 。同行していたのは、本多忠勝や服部半蔵(正成)など、わずか30数名の手勢のみ 38 。京はすでに明智軍の制圧下にあり、信長の同盟者である家康が次の標的となることは火を見るより明らかであった。

絶体絶命の状況下で、家康一行は三河への生還を目指し、決死の逃避行を開始する。彼らが選んだのは、明智方の支配地域を避け、山城国南部から伊賀国を抜け、伊勢湾へと至る、険しい山道を踏破するルートであった 38 。伊賀国は、かつて信長の侵攻に激しく抵抗し、徹底的に弾圧された過去を持つ。そのため、織田の同盟者である家康一行にとって、極めて危険な地域であった。

この危機を救ったのが、徳川家に仕える伊賀者・服部半蔵の存在であった。半蔵は自らの出自を活かし、伊賀・甲賀の地侍たちと交渉。京の豪商・茶屋四郎次郎が提供した資金も功を奏し、彼らを味方につけることに成功した 38 。道案内と護衛を得た家康一行は、山賊や落ち武者狩りが横行する間道を駆け抜けた。そして、伊勢の港町・白子から、商人・角屋七郎次郎が手配した船に乗り込み、三河の大浜へとたどり着いた 10 。この九死に一生を得た経験は、後に「神君伊賀越え」として語り継がれることになる。

動けぬ宿老たち ― 柴田勝家と滝川一益

秀吉が驚異的な速度で京へ向かう一方、織田家の筆頭家老であった柴田勝家と、関東方面を任されていた滝川一益は、動きたくても動けないという苦境に立たされていた。

北陸方面軍を率いる柴田勝家は、越中魚津城にて上杉軍と対峙していた。6月3日にようやく魚津城を陥落させたものの、その直後に本能寺の変の報せが届く 8 。勝家はすぐさま軍の撤退を決断するが、機に乗じた上杉軍の反撃と追撃に晒され、迅速な行動を阻まれた 8 。地理的な遠さに加え、目の前の敵との交戦状態が、彼の足を完全に縛り付けてしまったのである。

関東管領として上野厩橋城にいた滝川一益の運命は、さらに悲惨であった。信長の死を知った相模の北条氏政は、これを好機と見て5万を超える大軍を上野へ侵攻させた 9 。一益は寡兵で迎え撃つも、神流川の戦いで大敗を喫し、命からがら本拠地の伊勢長島城へと敗走せざるを得なかった 9 。これにより、一益は光秀討伐の戦いに参加する機会を完全に失い、その後の織田家の主導権争いから脱落することが決定づけられた。

本能寺の変後の勝敗を分けた要因は、個々の武将の能力差というよりも、むしろ「情報の速度」と「地理的・政治的制約からの自由度」であった。信長が構築した方面軍団システムは、平時においては効率的な征服機構であったが、司令塔という中枢を破壊された途端、各軍団は目の前の敵という「重し」によって身動きが取れなくなるという構造的欠陥を露呈した。その中で、外交手腕によって「毛利」という重しをいち早く取り外し、自由に行動する権利を得た唯一の宿老が羽柴秀吉であった。彼の空前絶後の大返しは、彼の天才性を示すと同時に、彼がいかに幸運であったかをも物語っている。

第五章:天下は誰の手に ― 山崎の戦いと清洲会議

本能寺の変の後、明智光秀が手にした天下は、あまりにも短く、脆いものであった。主君の仇討ちという大義名分を掲げた羽柴秀吉の前に、光秀の野望は潰え去る。そして、信長亡き後の織田家の権力構造は、合戦ではなく「会議」という名の政治闘争によって、大きく再編されていくことになる。

山崎の戦い ― 天王山が雌雄を決す

京を制圧した光秀であったが、その後の情勢は彼の思惑通りには進まなかった。最大の誤算は、与力として味方になることを期待していた細川藤孝と筒井順慶が、どちらも協力を拒んだことであった 43 。特に、親密な関係にあった藤孝の離反は、光秀の求心力を大きく削ぐ結果となった 46 。これにより、光秀が動員できた兵力は1万6000程度に留まった 37

一方、中国大返しを成功させた秀吉の元には、池田恒興ら摂津の諸将が馳せ参じ、その軍勢は約4万にまで膨れ上がっていた 47 。天正10年6月13日、両軍は京の入り口にあたる山崎の地で対峙した。山崎は、天王山と淀川に挟まれた狭隘な地形で、大軍の展開には不向きである。兵力で劣る光秀は、この地形を利用して秀吉の大軍を食い止めようと考え、円明寺川を前面に防衛線を敷いた 37

しかし、戦いの要衝である天王山を、秀吉軍の中川清秀らが先に占拠したことで、戦いの趨勢は大きく秀吉方に傾いた。午後4時頃に始まった戦闘は、当初こそ一進一退の攻防を見せたが、天王山からの攻撃と、池田恒興らの部隊が淀川沿いを迂回して光秀軍の側面を突いたことで、戦況は一変する 37 。兵力差に加え、側面を突かれた光秀軍は完全に浮き足立ち、総崩れとなった。

敗走した光秀は、居城である近江・坂本城を目指した。しかし、その道中、山城国小栗栖の竹林で、褒賞目当ての落ち武者狩りの農民に襲われ、竹槍で致命傷を負い、自害したと伝えられている 49 。本能寺の変からわずか11日後、光秀の天下はあまりにも呆気なく終わりを告げた 19

清洲会議 ― 合議に隠された覇権争い

光秀を討ち、主君の仇を討った最大の功労者として、秀吉の織田家内での発言力は飛躍的に増大した。6月27日、信長亡き後の織田家の体制を決定するため、尾張・清洲城にて重臣たちによる会議が開かれた。世に言う「清洲会議」である。この会議に参加したのは、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の四宿老であった 53

会議の最大の議題は、信長の後継者を誰にするかであった。筆頭家老の柴田勝家は、山崎の戦いにも参加し功績のあった信長の三男・信孝を強く推した 55 。これは、成人した信長の息子を立てるという、常識的かつ正当な主張であった。これに対し、秀吉は誰もが予想しなかった手を打つ。彼が擁立したのは、本能寺で信長と共に亡くなった嫡男・信忠の遺児であり、信長の嫡孫にあたる、わずか3歳の三法師(後の織田秀信)であった 54

「信長様の正統な血筋は、嫡孫である三法師様をおいて他にない」という秀吉の主張は、大義名分において勝家のそれを上回った。丹羽長秀や池田恒興も秀吉の意見に同調し、結果として、三法師が織田家の家督を継ぐことが決定された 53 。しかし、幼い三法師に政務が執れるはずもなく、その後見人として、仇討ちの最大功労者である秀吉が事実上の実権を握ることは、誰の目にも明らかであった。

この会議は、織田家の後継者を決めるという名目の裏で、実質的には秀吉が「信長の仇討ち」という功績を政治的資本へと転換し、旧織田政権を自らの都合の良い形に再編するプロセスであった。三法師の擁立は、血筋の正当性を盾に、勝家が推す信孝という有力な対抗馬を排除し、自らが権力を掌握するための、極めて巧みな政治戦略だったのである。


【表5】清洲会議における織田家遺領再配分表

武将名

会議後の主要所領

推定石高 (増加分)

備考

羽柴秀吉

山城国、河内国、丹波国

約28万石増

畿内の核心部を掌握し、最大の受益者となった 57

柴田勝家

越前国 (旧領安堵)、秀吉の旧領・長浜を割譲

約12万石増

筆頭家老でありながら、北陸に封じ込められる形となった。

丹羽長秀

若狭国 (旧領安堵)、近江国2郡

約15万石増

秀吉に協力し、勢力を拡大した。

池田恒興

摂津国3郡

約15万石増

秀吉に協力し、畿内に大領を得た。

織田信孝

美濃国

(旧領安堵)

後継者候補であったが、領地加増はなかった。

織田信雄

尾張国

(旧領安堵)

後継者候補であったが、領地加増はなかった。

三法師

近江国坂田郡

2万5000石

織田家家督として名目上の領地を与えられた 58


遺領の再配分においても、秀吉の主導権は明らかであった。彼は、山城、河内、丹波といった畿内の経済的・政治的に最も重要な地域を獲得し、その勢力を決定的に拡大した 57 。一方で、勝家は北陸の旧領を安堵されたに過ぎず、その権力基盤は相対的に大きく後退した。この会議で生まれた両者の対立はもはや修復不可能となり、翌年の賤ヶ岳の戦いという、織田家を二分する内戦へと発展していくのである 53

終章:残された謎と歴史的意義

本能寺の変は、日本の歴史における最も劇的な事件の一つであり、その影響は計り知れない。しかし、事件から400年以上が経過した現在でも、なお解明されていない謎が残されている。その最大のものが、織田信長の遺体の行方である。

消えた信長の遺体

明智光秀にとって、信長の首を獲ることは、自らの謀反を正当化し、天下に新たな支配者としての権威を示す上で、絶対に不可欠なことであった。そのため、光秀軍は炎上する本能寺で必死に信長の遺体を探したが、ついに発見することはできなかった 13 。これは、光秀の権威に致命的な傷をつけ、その後の求心力を大きく削ぐ一因となった。

信長の遺体はどこへ消えたのか。これについては、いくつかの説が存在する。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、信長の遺体は完全に燃え尽き、「毛髪一本残さず灰になった」と記している 60 。これが、最も広く知られている説である。

一方で、密かに運び出されたとする説も根強く存在する。その中で最も有力視されているのが、信長と生前親交のあった京都・阿弥陀寺の清玉上人が、変の直後に本能寺に駆けつけ、信長の近習たちが荼毘に付していた遺骨を密かに受け取り、自らの寺に運び込んで埋葬したとする「阿弥陀寺説」である 60 。実際に阿弥陀寺には、信長・信忠父子と家臣たちを祀る墓所が現存しており、この説の信憑性を高めている 62 。しかし、これも決定的な証拠はなく、信長の最期は今なお深い謎に包まれている。

歴史の転換点として

本能寺の変は、単に一人の英雄の死を意味するだけではなかった。それは、日本の歴史の方向性を決定的に変えた、巨大な転換点であった。

織田信長が進めていた天下統一事業は、旧来の権威や秩序を徹底的に破壊し、自らの絶対的な権力の下に日本を再編しようとする、急進的かつ剛直なものであった。もしこの事件がなければ、日本はより早く、より強力な中央集権国家へと変貌を遂げていたかもしれない。

しかし、明智光秀という一人の武将の決断によって、その急進的な流れは断ち切られた 2 。その後の権力闘争を勝ち抜いた羽柴秀吉は、信長とは対照的に、朝廷の権威を利用し、諸大名を巧みに懐柔するという、より柔軟で政治的な手法で天下を統一した。本能寺の変は、信長による武力と恐怖を基盤とした統一事業を頓挫させ、秀吉による交渉と調略を主体とした新たな統一事業へと、歴史の舵を大きく切らせる役割を果たしたのである 19

この事件は、歴史が必ずしも構造的な必然性だけで動くのではなく、時には一人の人間の意志と行動が、時代の大きな流れを覆し、全く新しい未来を創り出すことがあるという、劇的な証明と言えるだろう。もし、あの天正十年の夏がなければ、その後の豊臣政権も、そして260年続く泰平の世を築いた徳川幕府も、全く異なる形で、あるいは存在すらしなかったかもしれない。本能寺の燃え盛る炎は、一つの時代を終わらせると同時に、新しい時代の扉を開いたのである。

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