最終更新日 2025-09-11

東大寺大仏殿炎上(1567)

Perplexity」で事変の概要や画像を参照

永禄十年東大寺大仏殿炎上 ― 戦国史における象徴的事件の深層分析

序章:三国に隠れなき大伽藍、灰燼と化す

聖武天皇の御代、国家鎮護の願いを込めて建立された東大寺と盧舎那仏像(大仏)は、奈良時代以来、日本の仏教文化の中心であり、国家の安寧を祈る精神的支柱として、比類なき権威を保ち続けてきた 1 。その壮大な伽藍は、天平文化の精華であると同時に、歴代の朝廷や為政者にとって、その権威の正統性を担保する上で不可欠な象徴的存在であった。

しかし、その歴史は決して平穏なものではなかった。治承4年(1180年)、源平の争乱の最中、平重衡率いる平氏の軍勢による南都焼討によって、東大寺は創建以来初めての壊滅的な被害を受ける 4 。大仏殿は炎上し、大仏も甚大な損傷を被った。だが、この国家的悲劇は、後白河法皇の院宣と、勧進聖・重源上人の不屈の努力、そして源頼朝をはじめとする武家政権や民衆の広範な協力によって、鎌倉時代に見事な復興を遂げる 6 。この一度目の焼失と再建の物語は、東大寺が持つ「破壊と再生」の歴史的文脈を深く人々の記憶に刻み込んだ。

本報告書が主題とする永禄10年(1567年)10月10日の二度目の炎上は、この鎌倉再建の大仏殿が再び戦火に呑まれた悲劇である。しかし、この事件の本質は、単なる建造物の焼失に留まるものではない。平氏による焼討ちが、旧来の権門(公家・武家政権)と、それに抵抗する宗教勢力(寺社)との間の、いわば秩序内の対立であったのに対し、永禄の炎上は、畿内の覇権を巡って武士勢力同士が相争う、秩序そのものが崩壊した時代の産物であった。聖域であるべき寺社が、軍事拠点として占拠され、攻防の舞台と化した末の悲劇であり、既存のあらゆる権威が武力によって蹂躙される「下剋上」という戦国時代の本質を、これ以上なく鮮烈に象徴する画期的な事件であった。この炎は、一個の建物を焼き尽くしただけでなく、一つの時代の終わりと、混沌の時代の到来を告げる狼煙でもあったのである。

第一章:畿内の覇権を巡る相克 ― 炎上の火種

1-1. 三好政権の落日と権力の分裂

東大寺炎上の直接的な原因は、当時畿内に強大な勢力を誇った三好政権の内部崩壊に遡る。三好長慶という傑出した当主を失った後、三好家は深刻な権力闘争に見舞われた。その中心にいたのが、長慶の重臣として頭角を現し、実質的に政権を切り盛りしていた松永久秀と、三好一族の長老格である三好長逸、三好宗渭、岩成友通ら「三好三人衆」であった 8

両者の対立を決定的にしたのが、永禄8年(1565年)に起きた室町幕府第13代将軍・足利義輝の暗殺事件(永禄の変)である 10 。この事件は、三好義継(長慶の養子)を担いだ三人衆と久秀の嫡男・久通らが二条御所を襲撃したものであり、当初は両者の共同歩調であった 9 。しかし、事件後の主導権争いの中で、両者の亀裂は修復不可能なものとなる。久秀がこの暗殺の黒幕であったとする説が広く知られているが、近年の研究では、久秀自身は現場に不在であったことなどから、その役割については再検討が進められている 11

やがて、三人衆は阿波から足利義栄を新たな将軍候補として擁立し、当主である三好義継を傀儡化しようと図る。これを嫌った義継が三人衆のもとを離れ、松永久秀を頼ってその庇護下に入ったことで、対立は決定的となった 9 。これにより、久秀は「主君・義継を奉じる」という大義名分を得て、三人衆を討伐する名目を手に入れた。畿内の覇権を巡る争いは、ここに全面的な武力抗争へと発展したのである。

1-2. 大和国を巡る攻防と筒井順慶の動向

松永久秀は、大和国(現在の奈良県)に壮麗な多聞山城を築き、これを本拠地としていた。しかし、その支配は盤石ではなく、大和の在地領主である筒井順慶との間で長年にわたり激しい抗争を繰り広げていた。畿内での影響力を拡大したい三好三人衆にとって、久秀の足元を揺さぶることは最重要課題であり、そのために久秀の宿敵である筒井順慶と手を結ぶのは、極めて合理的な戦略であった 13

永禄10年(1567年)4月、三好三人衆は筒井順慶と連合軍を結成し、大和国へ進攻する。その兵力は1万を超えていたと記録されている 14 。彼らは久秀の本拠地である多聞山城を圧迫するため、その目と鼻の先である古都・奈良に陣を敷いた。これにより、戦いの主戦場は必然的に奈良へと移り、東大寺を巻き込む悲劇の舞台が整えられたのである 14

1-3. なぜ東大寺が陣所となったのか

当時の大規模な寺社は、単なる宗教施設ではなかった。高い塀や土塁に囲まれ、多数の僧坊や堂宇が立ち並ぶ広大な境内は、数千から一万を超える兵士を駐屯させ、兵糧や武具を蓄えることが可能な、天然の要塞としての機能を有していた 12 。戦国時代の武将たちが、戦略上の要衝にある寺社を軍事拠点として利用することは、半ば常態化していたのである。

三好三人衆・筒井連合軍が東大寺を陣所として選んだのは、その軍事的価値が極めて高かったからに他ならない。東大寺の境内は、松永久秀の本拠・多聞山城の東側に隣接し、城を見下ろすことができる絶好の位置にあった。連合軍は、大仏殿を本陣とし、二月堂や法花堂(三月堂)、南大門といった主要な堂宇に兵を配置した 15 。これは、久秀に対して最大限の軍事的圧力をかけるための、計算され尽くした戦略であった。

これに対し、松永方も黙ってはいなかった。彼らは東大寺の境内西側に位置する戒壇院や転害門に兵を進め、敵軍と対峙した 14 。こうして、聖武天皇以来の聖域であった東大寺の境内は、両軍の兵士がひしめき合う巨大な軍事対峙の場と化した。この時点で、文化遺産が戦乱の道具と化す悲劇は、すでに避けられない状況にあったと言える。炎上という結末は、この対峙が始まった瞬間に、その蓋然性を大きく高めていたのである。

第二章:古都奈良、軍靴の響き ― 両軍の対峙

永禄10年4月に三好・筒井連合軍が奈良に進駐して以降、同年10月10日の夜戦に至るまでの約半年間、古都は息詰まるような軍事的緊張に包まれた。両軍は東大寺とその周辺に陣を構え、互いに睨み合いを続けた。

当時の兵力について、『多聞院日記』などの同時代史料は断片的ながらもその規模を伝えている 14 。5月の時点で、三好三人衆と筒井順慶の連合軍は1万余り、一説には2万に達したとされ、東大寺の大仏殿、二月堂、法花堂、さらには興福寺の境内まで広範囲に展開していた 14 。一方、多聞山城に籠る松永久秀と三好義継の軍勢は、約5,000から多く見積もっても1万程度であり、兵力において明らかに劣勢であった 14 。松永方は、本拠の多聞山城を固めるとともに、東大寺の戒壇院や転害門に前線部隊を配置し、防御態勢を敷いていた。


表1:東大寺の戦いにおける両軍の兵力と布陣(永禄10年10月時点の推定)

陣営

総兵力(推定)

主要武将

主な陣地

史料根拠

松永・三好連合軍

約10,000

松永久秀、松永久通、三好義継

多聞山城(本拠)、東大寺戒壇院、転害門

14

三好・筒井連合軍

約12,000以上

三好長逸、三好宗渭、岩成友通、筒井順慶、池田勝正、篠原長房

東大寺大仏殿(本陣)、二月堂、法花堂、南大門、興福寺、白毫寺

14


この半年間にわたる膠着状態の中、奈良の街は常に戦火の危険に晒されていた。興福寺の五重塔に登った三人衆方の兵士が、多聞山城に向かって鉄砲を撃ちかけるといった散発的な戦闘が繰り返され、市民の不安は増大していった 17

兵力で劣り、本拠地の目前に大軍を貼り付けられた松永久秀の立場は、時間が経つにつれて苦しくなっていった。援軍の当ても乏しく、このままでは兵糧や士気の面でジリ貧に陥ることは明らかであった 5 。この絶望的な状況を打開するためには、通常の会戦では勝ち目がない。久秀に残された選択肢は、敵の意表を突く乾坤一擲の賭け、すなわち夜間の奇襲攻撃しかなかった。戦国武将としての合理的な判断が、結果として日本文化史上最大級の悲劇を引き起こすことになる。この皮肉な構造こそ、この事件の核心に横たわっている。

第三章:永禄十年十月十日、その夜 ― 大仏殿炎上の詳細な時系列

興福寺の僧侶・英俊が記した同時代の日記『多聞院日記』は、永禄10年10月10日の夜に起きた出来事を、生々しい筆致で記録している 5 。この貴重な史料に基づき、大仏殿が灰燼に帰すまでの数時間を、時系列に沿って詳細に再現する。

午後10時頃(亥の上刻~四ツ時分):夜襲開始

松永久秀は、手勢を率いて本拠地である多聞山城から出撃した。目標は、東大寺に本陣を構える三好三人衆軍の中枢である。夜陰に乗じた松永軍の精鋭部隊は、大仏殿の南に位置する中門堂付近に布陣していた三人衆方の前衛部隊に襲いかかった。ここに、東大寺の戦いの火蓋が切られた 5。

午後11時頃(子之初点):激戦

戦闘は瞬く間に本格化し、大仏殿の周辺で両軍が入り乱れての激しい白兵戦が数度にわたり繰り広げられた 5。不意を突かれた三人衆方は、当初混乱に陥った。十分な迎撃態勢が整わないまま、必死の防戦を試みるも、周到に準備された松永軍の猛攻の前に徐々に劣勢となっていく 16。鬨の声、刀槍の交わる音、そして鉄砲の轟音が、聖なる境内の静寂を破った。

戦闘の最中(時刻不定):悲劇の出火

激しい戦闘の混乱の中、悲劇の火の手が上がる。『多聞院日記』は、その原因を「兵火の余煙ニ穀屋ヨリ法花堂ヘ火付」と記している 13。これは、戦闘に伴う火の粉(松明の火や鉄砲の火花など)が、食堂や厨房にあたる「穀屋」付近の燃えやすいものに引火したことを示唆している。意図的な放火ではなく、戦闘の副産物として発生した失火であった可能性が極めて高い。

深夜(時刻不定):制御不能の延焼

折からの夜風に煽られ、一度上がった火の手は瞬く間に勢いを増した。火はまず、穀屋の隣にあった法花堂(三月堂)へと燃え移る 16。そして、巨大な木造建築物である大仏殿の東と西の回廊が次々と炎に包まれた 5。回廊が燃え盛ることで火勢は手のつけられない規模となり、ついに鎌倉再建の粋を集めた壮大な大仏殿本体へと牙を剥いた。

翌11日 午前2時頃(丑刻):大仏殿、焼失

『多聞院日記』は、その最後の瞬間を「猛火天ニ滿、サナカラ如雷電、一時ニ頓滅了」(猛火が天に満ち、さながら雷が落ちたかのようで、一瞬のうちに消滅した)と、悲痛な言葉で綴っている 13。創建以来、二度にわたって日本の象徴であり続けた巨大な伽藍は、凄まじい轟音とともに焼け落ち、完全に地上から姿を消した。この夜の戦闘と火災によって、三好三人衆方の将兵200名から300名が討ち死にし、あるいは炎の中で命を落としたと伝えられている 15。

この詳細な経過は、炎上が松永久秀による計画的な「焼き討ち」ではなく、夜襲という軍事行動の混乱の中で発生した偶発的な失火が、木造建築の密集地という不運な条件と相まって、破局的な大火災へと発展したプロセスを物語っている。

第四章:劫火が残したもの ― 被害の全貌と文化的損失

永禄10年10月10日の夜の劫火は、東大寺に計り知れない被害をもたらした。その損失は、単に一つの巨大な建造物が失われたというだけでは済まされない、日本文化史における深刻な断絶を意味するものであった。

4-1. 焼失した伽藍と文化財

この火災で失われたのは、戦いの中心となった大仏殿だけではなかった。公式な記録によれば、大仏殿のほか、戒壇堂、浄土堂、唐禅院、四聖坊といった、東大寺の主要な伽藍の多くが焼失の憂き目に遭った 20 。これらの堂宇には、天平創建期から鎌倉復興期にかけて作られた数多の仏像、仏画、経典などの貴重な寺宝が安置されていた。その多くが、この一夜にして永遠に失われたことは想像に難くない。鎌倉時代に再建された壮麗な伽藍群は、わずか数時間で瓦礫と灰の山と化したのである。

4-2. 盧舎那仏像(大仏)の惨状

大仏殿を包んだ猛烈な炎は、その中に鎮座する銅造の盧舎那仏像にも襲いかかった。摂氏1000度を超えるであろう熱によって、大仏は甚大な損傷を受けた。特に銅の厚みが比較的薄かった頭部は完全に溶け落ち、胴体部分も著しく溶解・変形し、もはや創建当初の荘厳な姿を留めない、無残な塊と化してしまった 18 。かろうじて、像の下半分や蓮華座の一部にのみ、天平時代の鋳造技術の面影が残されることとなった 2

また、この戦いの激しさは、境内の他の場所にも物証として刻まれている。奇跡的に焼失を免れた南大門の太い柱には、この時の銃撃戦で撃ち込まれたと伝わる弾痕が今も残り、昭和の解体修理の際には、金剛力士像(吽形)の腕の中から弾丸が発見されている 23 。これらの痕跡は、聖域がいかに凄惨な戦場と化したかを雄弁に物語っている。

4-3. 復興なき120年

治承の兵火の際は、国家的な事業として速やかに復興が開始されたのとは対照的に、永禄の炎上の後、東大寺の再建は長きにわたって放置された。戦乱が続く中、大仏殿を再建するだけの財力と権威を持つ勢力は現れなかった。

炎上後、仏師の山田道安らによって大仏の頭部などが応急的に修復され、仮の覆い屋が建てられはした 20 。しかし、その粗末な仮屋もやがて大風によって倒壊してしまう。その後、日本の象徴であるべき大仏は、実に1世紀以上にわたって、風雨にその身を晒し続けるという、前代未聞の悲劇的な状況に置かれたのである 20 。この「放置された120年」という事実は、炎上そのものと同様に、戦国から近世へと移行する時代の価値観の変化と、奈良という土地の政治的地位の低下を物語る、重い歴史の証言と言えるだろう。

第五章:歴史法廷 ― 誰が大仏殿を焼いたのか

東大寺大仏殿の炎上は、後世、「戦国三大梟雄」の一人に数えられる松永久秀の最大の悪行として、長く語り継がれてきた。しかし、その評価は果たして妥当なものなのか。史料を丹念に読み解くと、そこには単純な悪人像では割り切れない、複雑な歴史の真実が浮かび上がってくる。

5-1. 「松永久秀放火説」の形成と流布

松永久秀が意図的に大仏殿を焼き払ったとする説の最大の根拠は、織田信長の家臣・太田牛一が記した信長の公式伝記ともいえる『信長公記』の記述である。信貴山城で久秀が自刃した際の記述に、「奈良の大仏殿、先年十月十日の夜炎焼。偏に是松永の云為を以て三国隠れなき大伽藍事故なく灰燼となる」(奈良の大仏殿が、先年の10月10日の夜に炎上した。これは全く松永の仕業によって、天下に比類なき大伽藍が理由もなく灰となったものである)と、明確に久秀の責任を断定している 12

この記述は、後の時代に絶大な影響を与えた。特に、江戸時代に成立した逸話集『常山紀談』に記された、信長が徳川家康に久秀を紹介する有名な場面は、そのイメージを決定的なものにした 11 。信長は家康に対し、「この老人は、常人にはできないことを三つも成し遂げた男だ。将軍を弑し、主君を殺し、そして南都の大仏殿を焼いた松永久秀という者だ」と語ったという。この「三大悪事」の逸話は、久秀を極悪非道の梟雄として歴史に刻印する上で、極めて強力な物語として機能した。

5-2. 「偶発的失火説」の根拠

一方で、炎上は意図的な放火ではなく、戦闘の混乱の中で起きた偶発的な失火であったとする説も、事件当時から存在した。その最も重要な根拠が、前章で詳述した興福寺の僧侶・英俊による『多聞院日記』である。事件をリアルタイムで見聞した英俊は、出火原因を「兵火の余煙」としており、計画的な放火とは異なるニュアンスで記録している 13 。一級の同時代史料がこのように記している事実は、極めて重い。

さらに、他の史料も失火説を補強する。『大和記』には、「不慮ニ鐵炮ノ藥ニ火移」(思いがけず鉄砲の火薬に火が移った)と、より具体的な出火原因が記されている 13 。また、三好三人衆側が防御のために大仏殿の回廊などを火薬庫として利用していた可能性も指摘されており、もしこれが事実であれば、激しい夜戦の中で引火するリスクは極めて高かったことになる 24 。これらの史料は、炎上が戦術的な意図を持った放火ではなく、戦場のカオスが生んだ悲劇的な事故であった可能性を強く示唆している。

5-3. 歴史学的評価の変遷

江戸時代を通じて、権威ある『信長公記』の記述や、『常山紀談』の劇的な逸話が広く信じられ、松永久秀は「大仏殿を焼いた大悪人」として歴史に定着した 11 。しかし、近代以降、史料批判に基づいた実証的な歴史研究が進む中で、『多聞院日記』のような同時代史料の価値が再評価されるようになった。その結果、現在では歴史学者の間では、炎上の原因は偶発的な失火であったとする見方が有力となっている 12

結論として、松永久秀に炎上の責任が全くないとは言えない。そもそも、国家鎮護の聖域である東大寺を戦場としたこと自体の責任は免れないからである。しかし、「自らの意思で、意図的に大仏殿を焼き払った」という従来のイメージは、多分に後世の勝者(織田信長)側の視点から作られたプロパガンダの側面が強いと言わざるを得ない。久秀の「梟雄」という歴史的評価は、史実そのものよりも、むしろ「史実がどのように語られてきたか」という、後世の物語の力によって形成された部分が大きいのである。

第六章:絶望からの再起 ― 復興への長き道のり

永禄の兵火によって灰燼に帰した東大寺大仏殿。その再建への道は、想像を絶するほど長く、険しいものであった。戦国の覇者たちは、この国家的象徴の復興に冷淡であり、その再起は江戸時代の泰平を待たねばならなかった。

6-1. 戦国の覇者たちと東大寺

天下統一を目前にした織田信長は、東大寺の再建にはほとんど関心を示さなかった。むしろ彼は、東大寺が持つ伝統的な権威を、自らの新たな権威の踏み台として利用した。その象徴的な出来事が、天正2年(1574年)の「蘭奢待(らんじゃたい)」切り取りである 26 。蘭奢待とは、東大寺正倉院に秘蔵されてきた天下第一の名香木であり、歴代天皇の勅許がなければ開封すら許されない至宝であった 3 。信長は、正親町天皇の勅許を得てこれを切り取らせることで、自らが天皇をも動かす、従来の権威秩序を超越した存在であることを天下に誇示したのである 29

信長の後を継いだ豊臣秀吉もまた、奈良の東大寺を復興させることはなかった。その代わり、彼は自らの権勢を誇示するため、京都の方広寺に奈良の大仏を凌ぐ巨大な大仏(京の大仏)を建立した 31 。これは、宗教的・文化的な中心地を、旧都・奈良から自らが支配する新都・京都へと移そうとする明確な意図の表れであった。これにより、東大寺の復興はさらに遠のくことになった。信長や秀吉といった、旧来の権威を破壊・相対化することで天下を掌握した過渡期の支配者にとって、奈良の大仏の再建は、政治的な優先事項ではなかったのである。

6-2. 公慶上人の登場と江戸幕府の支援

1世紀以上にわたり、大仏が雨ざらしのまま放置されるという惨状に心を痛め、その復興に一身を捧げた人物が現れる。東大寺の僧、公慶上人である 21 。公慶は、広大な寺領を失い、財政的に困窮していた東大寺の復興には、民衆の広範な協力が不可欠であると考えた。

彼は、鎌倉時代の重源上人を範とし、「一紙半銭(いっしはんせん)」を合言葉に、身分の貴賤を問わず、たとえ一枚の紙、半銭のわずかな寄進でも良いからと、広く浄財を募る勧進活動を全国で展開した 6 。その真摯な姿と情熱は多くの人々の心を動かし、小さな寄進が積み重なって、やがて大きな力となっていった。

そして、公慶の熱意はついに、時の為政者を動かすに至る。仏教に深く帰依していた江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉とその生母・桂昌院の知遇を得た公慶は、幕府からの全面的な財政支援を取り付けることに成功したのである 6 。これにより、一介の僧侶の悲願から始まった復興事業は、幕府が主導する国家的なプロジェクトへと昇華した。

6-3. 宝永の再建

民衆の寄進と幕府の支援という両輪を得て、復興事業は大きく前進した。元禄4年(1691年)、ついに大仏の修理が完了し、翌年には盛大な開眼供養会が執り行われた 6 。しかし、公慶の悲願はまだ道半ばであった。彼は休む間もなく、大仏殿本体の再建に着手する。

だが、長年の無理が祟り、公慶はその完成を見ることなく、宝永2年(1705年)、江戸にて58歳の生涯を閉じた 21 。彼の遺志は、弟子たちによって固く引き継がれた。そして、公慶の死から4年後の宝永6年(1709年)、ついに現在我々が目にする大仏殿が落慶したのである 4 。その規模は、財政的な制約から創建時や鎌倉再建時のものよりも間口が縮小されたものであったが 4 、142年の時を経て、大仏は再びその安住の地を取り戻した。この再建は、戦国の動乱が終わり、徳川幕府による安定した社会秩序が確立されたからこそ成し得た、近世という時代の記念碑でもあった。

終章:東大寺大仏殿炎上が物語るもの

永禄10年(1567年)の東大寺大仏殿炎上は、戦国時代という激動の時代を象徴する、極めて多層的な意味を持つ事件であった。本報告書で詳述してきた通り、この悲劇は単なる一武将の暴挙として片付けられるものではなく、当時の政治的・軍事的状況が必然的にもたらした構造的な帰結であった。

畿内の覇権を巡る三好政権の内紛と、大和国における地域紛争が交錯する中で、東大寺は戦略的拠点として軍事利用された。そして、劣勢に立たされた松永久秀が起死回生を狙って敢行した夜襲の最中、偶発的に発生した火災が、制御不能のまま天下の至宝を焼き尽くした。これが、同時代の史料から浮かび上がる事件の真相に近い姿である。

しかし、この事件は後世、『信長公記』などの勝者の記録を通じて、「松永久秀による意図的な焼き討ち」という、より単純で劇的な物語として語り継がれていった。久秀という人物の「梟雄」としてのイメージは、この炎上の物語によって決定的に形成され、歴史的評価がいかに同時代史料の記述だけでなく、後世のナラティブによっても左右されるかという好例を示している。

さらに、炎上後の1世紀以上にわたる放置の時代は、戦国の覇者たちが旧来の宗教的権威をどのように捉えていたかを如実に物語る。信長や秀吉にとって、奈良の東大寺は再建すべき対象ではなく、その権威を利用、あるいは相対化すべき存在であった。大仏殿の再建が、民衆の熱意を起点として、社会が安定した江戸時代に幕府の事業としてようやく達成されたことは、日本の権力構造と社会のあり方が、中世から近世へと大きく転換したことを示している。

二度の焼失と二度の再建。東大寺が歩んできたこの不屈の歴史は、時代の荒波の中で破壊と喪失を繰り返しながらも、その度に人々の祈りと努力によって再生を遂げてきた日本文化そのものの強靭さを象徴しているのかもしれない。永禄の劫火の記憶は、戦乱の悲劇を伝えるとともに、それを乗り越えてきた人々の営みの尊さを、我々に静かに語りかけているのである。

引用文献

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  5. 東大寺大仏殿は、平清盛の命による南都焼討と 松永久秀の東大寺攻めで二度焼けています。 https://mazba.com/51774/
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  17. [合戦解説] 10分でわかる東大寺の戦い 「大仏殿炎上!松永久秀と三好三人衆が激突」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5y8Oh_pTX5M
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  27. 蘭奢待が一宮に ? - 「四季」 折々に思いつくまま! - はてなブログ https://marui-hall.hateblo.jp/entry/2023/08/01/071116
  28. 織田信長 - 蘭奢待 - 梅薫堂 http://www.baikundo.co.jp/tag/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7/
  29. 蘭奢待 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E5%A5%A2%E5%BE%85
  30. 天下人織田信長の蘭奢待・信長の巧みな下賜術 - アロマ空間デザイン グレイシス https://www.jwurgraces.com/contents4aroma/ranjyatai/
  31. 方広寺大仏殿の復元 - 大林組 https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/057_IDEA.pdf
  32. 豊臣秀吉と「都づくり」 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/400.pdf
  33. 公慶上人のお墓 ―― 奈良市の五劫院 - ディズカバー!奈良 奈良まほろばソムリエの会 https://www.stomo.jp/discover_nara/190131.html
  34. 10月5日は[重要文化財]東大寺公慶堂「公慶上人坐像」開扉です - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=x1BBUxzVeeM
  35. 公慶 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%85%B6