松前藩成立(1604)
松前慶広は蝦夷地でアイヌとの交易権を確立し、秀吉・家康から公認を得て松前藩を成立。黒印状で交易独占権を得るも、場所請負制でアイヌへの搾取が深化。
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北の関ヶ原:戦国動乱の終焉と松前藩成立の軌跡
序章:慶長九年、江戸城の一室にて
慶長九年(1604)正月二十七日。徳川家康が江戸に幕府を開いて一年にも満たない冬の日、江戸城の一室には緊張と期待が入り混じった空気が流れていた。初代将軍・徳川家康の前に座すは、北の果て「蝦夷地」より参上した松前志摩守慶広(まつまえ しまのかみ よしひろ)。その手には、家康から下賜された一通の黒印状が握られていた。
この文書は、単なる領地安堵状ではなかった。それは、一人の武将が蝦夷の地に渡ってから約150年、その子孫である蠣崎(かきざき)氏が、アイヌとの激しい抗争、主家からの自立、そして豊臣秀吉、徳川家康という二代の天下人との息詰まる交渉の末に勝ち取った、生存戦略の集大成であった。米一粒も獲れぬこの地が、なぜ天下人からこれほど重要な公的な承認を得ることができたのか。この黒印状が持つ真の意味とは何か。
本報告書は、1604年という一点を切り取るのではなく、その答えを戦国時代からの連続性の中に探るものである。松前藩の成立とは、本州の戦国大名たちが繰り広げた生存競争の、北の地における最終幕であり、新たな時代の秩序が辺境の地に及んだ画期的な事変であった。その軌跡を、時系列に沿って詳細に解き明かしていく。
第一章:黎明期 ― 戦国動乱と蝦夷地における蠣崎氏の台頭(1450年代~1580年代)
松前藩の成立を理解するためには、その前身である蠣崎氏が、いかにして蝦夷地という特異な環境で権力基盤を築き上げたのか、その黎明期にまで遡る必要がある。彼らの歴史は、戦国時代の日本本土で繰り広げられた権力闘争の縮図であり、辺境ならではの独自の生存戦略に満ちていた。
1. 祖・武田信広の渡海と出自の謎
蠣崎氏の歴史は、その祖とされる武田信広という一人の武将から始まる。松前藩の公式な記録である『新羅之記録』によれば、信広は名門・若狭武田氏の当主であった信賢の子とされ、宝徳三年(1451年)に若狭から下北半島を経て、康正二年(1456年)頃に蝦夷地へ渡ったとされる 1 。しかし、この出自には作為の可能性が指摘されている。
一方で、対岸の南部氏側の記録では、下北半島の蠣崎城主であった蠣崎蔵人信純(かきざき くろうど のぶずみ)が南部氏に攻められ、蝦夷地へ逃れたという記述が存在する 3 。この信純こそが後の武田信広であるという説が有力視されており、松前側の記録は、南部氏に追われた亡命者という不名誉な出自を隠蔽し、権威ある若狭武田氏に系譜を繋げることで、自らの支配の正統性を高めるための「物語の構築」であった可能性が高い 3 。物理的な武力だけでなく、家系の権威という情報を操作し、自らを権威付ける手法は、出自の低い豊臣秀吉が近衛家の猶子となった例を挙げるまでもなく、戦国時代を生き抜くための常套手段であった。蠣崎氏もまた、その始まりから、本州の戦国大名と同様の思考で行動していたことがうかがえる。
2. コシャマインの戦いと在地領主への道
信広の出自がどうであれ、彼が蝦夷地でその名を上げたのは、長禄元年(1457)に発生したコシャマインの戦いにおいてであった。和人商人による不公正な取引に端を発したこの戦いは、アイヌの首長コシャマインの指導の下、道南各地の和人の館が次々と陥落する、和人社会存亡の危機であった 3 。この未曾有の混乱の中、当時、上ノ国の領主・蠣崎季繁の客将であった武田信広は、その卓越した武勇と戦略でアイヌ軍の撃退に中心的な役割を果たした 1 。
この戦功により、信広は蠣崎季繁の婿となり、津軽の安東氏の被官であった蠣崎家の家督を継承する 2 。混乱は、よそ者であった信広にまたとない機会を与えた。彼の軍事的才能がなければ、道南の和人社会は崩壊していた可能性すらあり、その「救世主」としての役割が、彼を単なる一武将から地域の指導者へと押し上げる決定的な要因となった。この成功体験は、蠣崎氏の支配が、アイヌとの緊張関係を管理・抑制する軍事的能力に立脚していることを、その初期から明確に示している。
3. 安東氏の被官から事実上の独立へ
蠣崎氏を継承した信広とその子孫は、当初、津軽海峡を挟んだ対岸の領主であり、出羽湊(後の秋田)を本拠とする安東氏の代官、あるいは被官という立場であった 2 。しかし、蝦夷地という地理的な隔絶は、安東氏の直接的な支配を困難にした。蠣崎氏は、安東氏の権威を背景としつつも、度重なるアイヌとの戦いを独自に勝ち抜き、在地での実効支配を着々と固めていく。
三代当主・義広の時代、永正十年(1514)には拠点を徳山大舘(後の松前)に移し、1551年にはアイヌの東西の有力首長と和睦(アイヌ商船往還の制)を結ぶなど、安東氏の意向とは別に、独自の外交・軍事行動を展開するようになっていた 4 。これは、主家の権威が及ばない辺境で、在地領主が力を蓄えるという、戦国時代に普遍的に見られた下剋上のプロセスそのものであった。蠣崎氏にとって、中央からの「距離」は、安東氏からの自立を促す地政学的な優位性として機能したのである。
第二章:中央への眼差し ― 豊臣秀吉への臣従と「日本」への編入(1590年~1598年)
16世紀末、日本本土で進行していた天下統一の動きは、遠く蝦夷地の蠣崎氏にも大きな影響を及ぼした。彼らは、旧来の地域秩序に安住することなく、中央政権という新たな権威と直接結びつくことで、自らの地位を盤石なものにしようと動き出す。
1. 天下統一の衝撃と慶広の決断
天正十八年(1590)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、続く奥州仕置によって東北地方の大名を完全にその支配下に置いた 6 。この圧倒的な中央政権の出現は、五代当主・蠣崎慶広にとって、存亡の機であると同時に、またとない飛躍の好機でもあった。旧来の主家であった安東氏も秀吉の支配下に組み込まれる中、もはやその権威に頼る意味は失われた。慶広は、安東氏を飛び越えて天下人・秀吉と直接結びつくことで、名実ともに独立した大名としての地位を確立するという、大胆な政治的決断を下す。その布石として、父・季広の代から、鷹や海産物といった蝦夷地の特産品を秀吉に献上し、恭順の意を示し続けていた 6 。
2. 秀吉への謁見と「蝦夷地の価値」の提示
その戦略が結実するのが、文禄二年(1593)であった。慶広は上洛して秀吉に謁見し、蝦夷地の状況を報告するとともに、アイヌとの交易権の公的な承認を願い出た 6 。この時、彼が献上したラッコの皮などは、単なる貢物ではなかった 7 。それらは、蝦夷地が持つ独自の経済的価値、すなわち本州では得られない希少な物産、特に大陸との交易において極めて高い価値を持つ毛皮類の供給地であることを、秀吉に強く印象付けるための戦略的な「プレゼンテーション」であった。
秀吉は慶広の意図を理解し、彼を志摩守に任じるとともに、蝦夷地に来航する全ての船から船役(通行税)を徴収する権利を認める朱印状を与えた 8 。この朱印状こそ、蠣崎氏の立場を根本的に変える画期的なものであった。それまでの蠣崎氏の支配は、あくまで在地での軍事力と実効支配に基づく私的なものであったが、この朱印状によって、彼らの権力は天下人によって公認された「公的な権利」へと昇華した。これにより、蠣崎氏は旧主家・安東氏の軛から完全に解放され、独立した大名としての地位を確立したのである 2 。同時に、この朱印状は、蠣崎氏の支配下にある和人(渡党)を「日本人」として豊臣政権の秩序に組み込む一方、アイヌを交易の相手方として外部に位置づけるという、後の松前藩体制の原型となる構造を生み出した 8 。
第三章:激動の転換期 ― 関ヶ原と徳川家康への政治的賭金(1598年~1603年)
秀吉から得た朱印状は、蠣崎氏に大きな安定をもたらした。しかし、その秀吉が慶長三年(1598)に死去すると、中央政局は再び流動化する。慶広は、この権力移行期を乗り切るため、再び冷静な情勢分析と迅速な政治的決断を迫られることになった。
1. 秀吉の死と次なる天下人の見極め
秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が急速にその影響力を拡大させていた 6 。秀吉から受けた朱印状は、あくまで豊臣政権下でのみ有効なものであり、政権が交代すればその地位は白紙に戻りかねない。慶広は、辺境の地にあって中央の情報を的確に収集し、次なる覇権者が家康であると判断。多くの豊臣恩顧の大名が去就に迷う中、いち早く家康に接近するという、新たな政治的賭けに出た。
2. 家康への謁見と「松前」への改姓
慶長四年(1599)十一月、慶広は大坂城西の丸で家康に謁見し、蝦夷地の絵図や家譜を提出して恭順の意を明確に示した 11 。この時、彼は姓を「蠣崎」から、本拠地の地名に由来する「松前」へと改めた 12 。
この改姓は、単なる心機一転を意味するものではない。「蠣崎」という姓は、安東氏の被官であった過去を想起させる。アイヌ語の「マトマエ」に由来するとされる新たな姓「松前」を名乗ることは、過去との決別と、家康の下で新たな大名「松前家」として再出発するという強い意志表示であった 14 。蝦夷地の絵図の提出もまた、自らがその地の唯一の実効支配者であり、北の守りを任せられる実力と忠誠心があることを、家康に視覚的にアピールする狙いがあった。
なお、この「松前」という姓が、徳川家康の旧姓「松平」の「松」と、五大老の一人であった前田利家の「前」から取ったという説も存在するが 15 、これは後世の権威付けのために作られた俗説と見られている 16 。改姓は、新時代を見据えた松前慶広自身の主体的な決断であったと解釈するのが妥当であろう。
3. 関ヶ原の不参加という戦略
翌慶長五年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発するが、松前慶広はこれに参陣していない 17 。これは日和見や怠慢ではなかった。彼の役割は、遠く離れた関ヶ原で数百の兵を動かすことではなく、北の辺境を安定させ、不測の事態に備えることであった。事前に恭順の意を明確に示していた慶広の忠誠を家康が疑うことはなく、戦後、慶広は外様大名としての待遇を受けることになった 17 。これは、自らの置かれた地政学的な役割を的確に理解し、分をわきまえた行動をとった、慶広の高度な政治判断の結果であった。
第四章:松前藩の確立 ― 慶長九年(1604)黒印状の時系列と全貌
関ヶ原の戦いを経て、徳川家康による新たな支配体制が確立していく。全国の大名がその領地を安堵される中、松前慶広もまた、自らの地位の再確認と、蝦夷地における権益の公的な保証を求めていた。その結実が、慶長九年(1604)の黒印状であった。
1. 幕府開府から黒印状下賜までの「リアルタイム」
慶長八年(1603)、徳川家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開いた。全国の大名に対する領知安堵のプロセスが本格化する 17 。慶広も江戸に参府し、新たな天下人との関係を確定させるべく交渉を重ねていたと考えられる。そして翌慶長九年(1604)正月二十七日、ついにその努力が報われる。家康は慶広に対し、松前家の蝦夷地における地位を決定づける黒印状を下賜したのである 18 。この黒印状は、秀吉の朱印状の内容を継承しつつも、松前氏の権限をより具体的に規定し、同時にアイヌの立場にも言及するという、徳川幕府の新たな秩序構築の意思を反映したものであった。
2. 黒印状の条文分析
この黒印状は、松前藩の法的・経済的基盤を確立した最重要文書である。その内容は、松前氏に絶大な権益を与える一方で、その権限に明確な限定を加えており、家康の巧みな統治戦略を読み取ることができる。
原文 (抜粋) |
読み下し文 |
口語訳 |
政治的・経済的意味の分析 |
関連資料 |
一 自諸国松前へ出入之者共、志摩守不相断而、夷仁与直ニ商売仕候儀可為曲事事。 |
一、諸国より松前へ出入の者共、志摩守に相断(ことわ)らずして、夷人(いじん)と直(じか)に商売仕(つかまつり)候儀、曲事(くせごと)となさるべき事。 |
諸国から松前に出入りする者が、松前志摩守(慶広)に許可なく、アイヌと直接交易することは、違反行為とする。 |
【アイヌ交易独占権の確立】 秀吉の朱印状が「船役徴収権」に留まっていたのに対し、この条文は明確に「アイヌとの直接交易の禁止」を謳っている。これにより、全ての和人とアイヌとの交易は松前氏を介さねばならなくなり、松前藩の経済的基盤である交易独占権が法的に確立された。 |
17 |
付 夷之儀者 何方へ往行候共 可為夷次第事。 |
付(つけたり)、夷の儀は、何方(いずかた)へ往行(おうこう)候とも、夷の次第たるべき事。 |
補足として、アイヌについては、どこへ行こうとも、アイヌの自由である。 |
【アイヌの自由保障と松前氏の権限の限定】 松前氏に交易独占権を与える一方で、アイヌの行動の自由を保障している。これは、松前氏の支配が蝦夷地全域やアイヌ民族そのものに及ぶ「領地・領民」ではなく、あくまで「和人地の支配とアイヌとの交易権」に限定されることを示唆する。幕府は、アイヌを幕藩体制の直接の枠外に置くことで、無用な紛争の責任を負うことを避けた。 |
11 |
一 対夷仁非分申懸者堅停止事。 |
一、夷人に対し非分申し懸けるは、堅く停止の事。 |
アイヌに対して、理不尽な言いがかりをつけることを固く禁じる。 |
【和人の不法行為の禁止】 交易の独占者である松前氏に対し、その権利を濫用してアイヌを不当に搾取することを戒めている。これは、過去のアイヌの蜂起が和人の不法行為に起因することを幕府が理解しており、交易の安定こそが幕府の利益に繋がると考えていた証左である。 |
11 |
この黒印状は、「松前氏の権限強化」と「アイヌの自由保障」という、一見矛盾する二つの要素を内包している。しかし、これこそが家康の狙いであった。松前氏には交易独占という莫大な経済的利益を与えることで、北の辺境の守りという軍事的・政治的役割を担わせる。一方で、アイヌを松前氏の「領民」とせず、自由な存在と規定することで、幕府はアイヌ社会への直接的な統治責任を回避できる。万が一、松前氏の圧政でアイヌが蜂起しても、それは「松前家の問題」であり、幕府が直接介入する事態にはなりにくい。この黒印状は、最小限のコストで北方の安定を維持しようとする、家康の極めて高度で現実的な統治戦略の産物であり、松前藩は幕府の代理人としてアイヌとの間の「緩衝地帯」を管理する役割を負わされたと言える。
第五章:黒印状が創出した体制 ― 松前藩の特異な構造とアイヌ社会への影響
慶長九年(1604)の黒印状によって法的に確立された松前藩は、他の藩とは全く異なる、極めて特異な構造を持つことになった。その特殊性は、藩の経済基盤から統治システム、そしてアイヌ社会との関係に至るまで、あらゆる側面に及んでいた。
1. 「無高」の藩と「商場知行制」の誕生
蝦夷地は寒冷な気候のため、近世の農業技術では米作が不可能であった。そのため、石高を基準とする幕藩体制の中で、松前藩は石高を持たない「無高」の藩として位置づけられた 1 。藩主は家臣に俸禄として米を支給することができないため、その代わりに、特定の地域(商場(あきないば)・場所(ばしょ))におけるアイヌとの交易権を知行として与えた。これを「商場知行制」という 19 。
この制度の下では、藩主も家臣も、その経済的存立をアイヌとの交易に全面的に依存することになった。家臣の収入は、知行として与えられた「商場」の交易利益に直結しており、藩全体が交易利益の最大化を目指す一種の経済共同体としての性格を帯びていた。藩の拠るべき基盤が土地(米)ではなく、交易権という無形の権利であったことが、松前藩の全ての特異性の根源となった。
2. 「場所請負制」への移行と搾取構造の深化
しかし、武士である家臣たちは必ずしも商売に長けていたわけではない。交易が複雑化し、より多くの資本が必要になると、彼らは自ら交易を行うことをやめ、その権利そのものを本州の商人に委託し、一定の運上金を受け取るという「場所請負制」へと移行していった 21 。
この制度への移行は、アイヌ社会にとって決定的な転換点となった。知行主である武士が介在していた時代には、まだ軍事的な緊張関係や一定の配慮が存在した。しかし、利益の最大化を至上命題とする商人が場所の経営を直接請け負うようになると、アイヌは対等な交易相手ではなく、安価な労働力として収奪の対象へと変質していった 12 。商人はアイヌを使役して昆布やニシンなどの漁業生産に従事させ 24 、交換レートは一方的にアイヌに不利なものに改悪された 12 。場所によっては、アイヌの自由な移動や結婚を禁じ、家族を離散させて強制労働に従事させるなど、極めて過酷な支配が行われるようになった 25 。
慶長九年の黒印状には、和人の不法行為を禁じ、アイヌの自由を保障する条文が含まれていた。しかし、結果として、松前藩の経済基盤を「交易独占」という一点に集約させたことが、利益追求の論理を加速させ、より収奪的な「場所請負制」への移行を促した。幕府が意図した「安定」のための秩序は、結果的に商人資本によるアイヌ社会の経済的従属と解体を促進するシステムとして機能してしまったのである。
3. 交易がもたらした文化と経済
一方で、松前藩が管理する交易は、蝦夷地に独自の富と文化をもたらした。アイヌは、和人との交易で得た鉄製品などを、さらに北方のサハリン(樺太)や大陸のアムール川下流域に住む諸民族との交易(山丹交易)に用いた。これにより、清朝の官服などに用いられた絹織物(蝦夷錦・山丹服)などが蝦夷地にもたらされ、松前藩はそれを本州へ移出することで莫大な利益を上げた 27 。
また、昆布や干し魚などの蝦夷地の産物は、日本海航路(北前船)を通じて大坂や京都へ運ばれ、さらには長崎や琉球を経由して中国へも輸出される、巨大な交易ネットワークの一部を形成した 28 。その中継地となった松前、江差、箱館の「松前三湊」は、「江戸にもない」と言われるほどの繁栄を謳歌したという 30 。松前藩は、単に蝦夷地と本州を繋ぐだけでなく、アイヌを介して北方世界と、北前船を介して西日本、さらには東アジアの交易ネットワークとを結びつける、グローバルな交易の結節点としての役割を担っていたのである。
終章:戦国の終焉と北の「藩」の誕生
慶長九年(1604)の松前藩の成立は、戦国時代を生き抜いた辺境の在地領主・蠣崎氏が、豊臣、徳川という二代の天下人と巧みに渡り合い、自らの存在価値を提示し続けた、百五十年に及ぶ生存戦略の帰結であった。彼らが武器としたのは、強大な軍事力ではなく、蝦夷地という土地が持つ「経済的・地政学的な特殊性」であった。
徳川家康が下賜した黒印状は、この戦国的な生存競争の終結を公式に告げるものであった。そして同時に、松前藩を江戸幕府の統治システム(幕藩体制)の中に、米の石高ではなく交易を基盤とする、極めてユニークな「藩」として位置づけるものであった。それは、北の地における新たな秩序の始まりを意味した。
しかし、その成立の根幹にあったアイヌとの交易独占権は、皮肉にも、後の時代の過酷な経済的収奪と、それに伴うアイヌ社会の急激な変容、そしてシャクシャインの戦いをはじめとする数々の抵抗運動の火種を内包していた。松前藩の成立は、北の地における戦国の終焉であったが、それは決して平和の到来を意味するものではなかった。蝦夷地における生存をかけた闘争は、形を変え、新たな矛盾と対立の時代へと引き継がれていくことになるのである。
引用文献
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- 史料群概要 - 国文学研究資料館 https://archives.nijl.ac.jp/siryo/ac1971204.html
- 【函館市】詳細検索 - ADEAC https://adeac.jp/hakodate-city/detailed-search?mode=text&word=%E8%A0%A3%E5%B4%8E)%E4%BF%A1%E5%BA%83
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- 蠣崎慶広(かきざき よしひろ/松前慶広) 拙者の履歴書 Vol.154~蝦夷の海を渡り世をつなぐ https://note.com/digitaljokers/n/n81a2094d0c8e
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