最終更新日 2025-09-30

松本城下拡張(1598)

慶長3年、石川康長は父数正の遺志を継ぎ、松本城下を拡張。対徳川の最前線基地として、三重の水堀と天守を備えた堅固な城郭を築く。武家屋敷と町割りを整備し、近世都市の骨格を完成させた。
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天下一統の縮図:石川氏による松本城下の拡張と近世都市への転生(1590-1613)

序章:拡張前夜の松本 ― 深志城から松本城へ

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一が成り、戦国の長き乱世は終焉を迎えようとしていた。この巨大な政治的変動は、日本各地の都市の運命を劇的に変えた。その中でも、信濃国の中央に位置する松本は、新たな時代の要請に応えるべく、未曾有の変貌を遂げることになる。後に「松本城下拡張」として知られるこの一大事業は、単なる一地方都市の再開発ではない。それは、天下統一という巨大な歯車の中で、政治、軍事、経済の論理が交錯し、近世という新しい時代の都市像を具現化しようとする壮大な試みであった。本報告書は、特に1598年という年を一つの画期と捉え、その前後の動的なプロセスを時系列に沿って詳述することで、石川氏による松本城下拡張の全貌を明らかにするものである。

戦国期信濃における深志城の戦略的価値

石川氏による拡張事業を理解するためには、まずその舞台となった松本の地が、戦国時代を通じていかに重要な戦略拠点であったかを確認せねばならない。古くから信濃国の府中が置かれ、畿内と東国を結ぶ交通の要衝であったこの地は、政治・経済の中心地としての潜在能力を秘めていた 1

松本城の前身である深志城の創始は、信濃守護であった小笠原氏が、当初の拠点であった井川館から防衛上の理由で東方の山麓、林地区へと本拠を移したことに始まる 3 。深志城は、その山城である林城の前面を守るための支城、すなわち平地に築かれた「平城」として構築されたのである 2

しかし、この地の戦略的価値を飛躍的に高めたのは、甲斐の武田信玄であった。天文19年(1550年)、信玄は小笠原長時を駆逐して深志城を奪取すると、ここを信濃支配の最重要拠点と位置づけた 2 。山城を破棄し、交通の便に優れた平城である深志城を拠点とした信玄の選択は、支配領域の拡大に伴い、軍事拠点に統治・経済の機能が求められるようになった時代の変化を象徴している。以後30年以上にわたり、深志城は武田氏の信濃経営、そして越後の上杉氏と対峙する上での前線基地として機能し、この間に大規模な改修が施されたと考えられている 2

小笠原貞慶の帰還と「松本」の誕生

天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、信濃の政治情勢は再び流動化する。本能寺の変後の混乱の中、かつて信玄に追われた小笠原長時の嫡子・貞慶が、徳川家康の後ろ盾を得て旧領回復を果たし、深志城を奪還した 6

この時、貞慶は城の名を「深志城」から「松本城」へと改めた 3 。これは単なる名称の変更ではない。武田氏による支配の記憶を払拭し、小笠原氏による新たな時代の統治開始を内外に宣言する、極めて政治的な行為であった。

貞慶は、松本を拠点とすると、早速、近世的な城下町の建設に着手する。天正13年(1585年)から15年にかけて行われた彼の「町割り」は、後の石川氏による拡張の基礎を築く上で決定的に重要であった。彼は、城の東側にあった市辻や泥町といった既存の町屋を、女鳥羽川の南、後の善光寺街道沿いとなる場所へ計画的に移転させ、商業の中心地となる「親町三町」(本町・中町・東町)の原型を確定させた 10 。さらに、城郭の防御線を画定する三の曲輪の縄張りを行い、堀を掘削して土塁を築き、5箇所に大木戸(城門)を設けるなど、近世城郭としての骨格形成に着手したのである 3

松本の都市計画は、決して石川氏によるゼロからの創造ではなかった。むしろ、その基盤は前領主である小笠原貞慶によって既に敷かれており、石川氏の事業は、この青写真を継承し、豊臣政権の壮大な構想の下で飛躍的に発展させたものと捉えるべきである。

1590年、天下統一後の政治地図

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を屈服させ、名実ともに天下統一を成し遂げた 12 。これにより、日本の政治地図は根本的に塗り替えられる。秀吉は、最大の同盟者であり、同時に最大の潜在的脅威でもあった徳川家康を、東海地方から関東へ移封した 3 。これは、家康に旧北条氏の広大な領地を与えるという恩賞の形をとりながら、その本拠を畿内から遠ざけ、かつ統治の困難な旧敵地に封じ込めることで、その力を削ごうとする秀吉の深謀遠慮の表れであった。

この地政学的な大変動は、松本の運命を決定づけた。家康の関東移封に伴い、その支配下にあった小笠原氏(貞慶の子・秀政)もまた、主君に従い下総国古河へと移封される 3 。これにより、信濃の中心・松本は、新たな支配者を待つ政治的空白地帯となった。そしてこの空白を埋めるべく秀吉が送り込んだ人物こそ、戦国史上、最も数奇な運命を辿った武将の一人、石川数正であった。家康の関東移封は、松本城下拡張の直接的な引き金となった地政学的激変であり、松本は、畿内の豊臣政権と関東の徳川政権が睨み合う、新たな時代の最前線へとその姿を変えることになるのである。

第一章:石川数正の入封と「徳川への楔」としての松本

小笠原氏が去った松本に、豊臣秀吉の命を受けて入封した石川数正。彼の着任は、松本の都市計画に新たな、そして決定的な方向性を与えた。それは、単なる地方都市の整備ではなく、天下人・秀吉の対徳川戦略の一環として、松本を巨大な軍事要塞へと変貌させるという壮大なプロジェクトの始まりであった。

徳川家からの出奔という謎:石川数正とは何者か

石川数正の経歴は、異彩を放っている。彼は元々、徳川家康が今川氏の人質であった幼少期から仕える譜代の重臣であり、家康独立後は岡崎城代として西三河の旗頭を務めるなど、酒井忠次と並び徳川家中最高の地位にあった 3 。まさに家康の片腕とも言うべき存在であった。

ところが天正13年(1585年)、数正は突如として一族郎党を引き連れ、当時家康と対立していた豊臣秀吉のもとへ出奔するという不可解な行動に出る 3 。この事件は徳川家中に激震を走らせた。なぜなら、数正は徳川の軍事機密、組織、戦略のすべてを知り尽くした人物であり、その情報がライバルである秀吉に渡ることは、徳川家にとって致命的な打撃を意味したからである 12 。事実、家康は数正の出奔直後、徳川軍の軍制を武田流に大幅に改変せざるを得なくなった 12

出奔の理由は諸説あり、戦国史上の大きな謎とされている。秀吉の巧みな調略に屈したという「引き抜き説」、小牧・長久手の戦い以降、家中で対秀吉強硬派(本多忠勝、榊原康政ら)との対立を深め孤立したとする「内部不和説」 12 、あるいは、強硬論に傾く家康を諌め、徳川家を破滅から救うためにあえて汚名を被ったという「自己犠牲説」 12 まで、様々な憶測が飛び交っている。いずれにせよ、この経歴が、彼に松本城主という特異な役割を与えることになる。

秀吉の戦略的配置:なぜ数正が松本に封じられたのか

天正18年(1590年)、天下統一を成し遂げた秀吉は、数正を和泉国から信濃国松本へ、8万石(一説には10万石 12 )の領主として移封した 3 。この配置には、秀吉の極めて明確な戦略的意図が込められていた。

その狙いとは、徳川のすべてを知る数正を、関東に移った家康の喉元に突きつけられた「楔」として機能させることにあった 13 。中山道と北国西街道(善光寺街道)が交差する信濃の中心・松本は、関東の江戸と畿内を結ぶ最短ルート上に位置する。この地を、元徳川の重臣である数正に押さえさせることで、家康の動向を常に監視し、有事の際にはその動きを牽制・封殺することが可能となる。松本城は、もはや単なる信濃の拠点ではなく、江戸の家康を包囲する豊臣政権の対関東戦略における最重要拠点と位置づけられたのである 13

この配置は、数正自身の立場とも密接に関わっていた。徳川家を裏切った彼は、豊臣家臣団の中では新参者であり、その忠誠心と能力を常に証明し続けなければならないという強いプレッシャーに晒されていた。秀吉から与えられた「対徳川の最前線基地を構築せよ」という使命は、彼にとって自らの存在価値を示す絶好の機会であった。数正個人の野心と、秀吉の国家戦略。この二つのベクトルが完全に一致した時、松本城下拡張という壮大なプロジェクトが始動したのである。それは、単なる地方開発ではなく、中央政権の強固な意志が直接的に反映された、国家事業としての性格を色濃く帯びていた。

着任直後の統治とグランドデザインの策定(1590-1592年)

松本に入封した数正は、来るべき大普請に備え、周到な準備を進めた。まず着手したのは、領内の安定化と人心の掌握である。秀吉政権の基本方針に則り、領内の石高を正確に把握し、後の賦役の基準とするための太閤検地や、農民の武装を解除し兵農分離を徹底させるための刀狩りを実施したと推測される 23

同時に、在地勢力との融和も図った。地域の信仰の中心である寺社に対し、その所領を保証する「制札」を掲げたのである 15 。これは、新たな支配者としての権威を示すと同時に、領民の精神的な拠り所を保護する姿勢を見せることで、無用な反発を避け、統治を円滑に進めるための巧みな人心掌握術であった。これらの政策は、巨大プロジェクトを遂行する上で不可欠な、領内の社会基盤を固めるための地ならしであったと言える。

そして数正は、松本に在城したわずか3年の間に、松本城と城下町の未来像を描くグランドデザインを策定し、その起工に踏み切った 13 。江戸時代の記録である『信府統記』には、「数正は二の曲輪に慰み所をつくり城普請を催す」と記されている 3 。これは、彼が城郭全体の基本設計、すなわち「縄張り」を主導したことを示唆している。その計画は、小笠原貞慶の町割りを継承しつつも、「対徳川」という新たな軍事的要請に基づき、天守を中核に据え、三重の堀で城下全体を囲む、より大規模で堅固な要塞都市へと発展させるものであった。父・数正が描いたこの壮大な青写真は、彼の死後、嫡男・康長の手によって、凄まじい速度で現実のものとなっていくのである。

第二章:普請の槌音 ― 城郭と城下町のリアルタイム構築(1592-1598年)

石川数正が描いた壮大な都市改造計画は、彼の急逝によって頓挫することなく、むしろその勢いを増して嫡男・康長へと引き継がれた。文禄元年から慶長3年(1592-1598年)にかけての数年間、松本の地は昼夜を分かたず普請の槌音が響き渡る、巨大な建設現場と化した。この章では、城郭と城下町が形成されていくプロセスを、あたかもその場に立ち会っているかのような時系列で追跡する。

父の急逝と事業継承(文禄元年/1592年)

文禄元年(1592年)、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、石川数正もまた、大名として兵を率いて肥前名護屋(佐賀県唐津市)へと出陣した 20 。しかし、彼はその地で病に倒れ、同年、客死する 3 。松本入封からわずか2年後のことであった。

父の死という予期せぬ事態に直面しながらも、家督を継いだ嫡男・石川康長(官位は玄蕃頭)は、微塵の動揺も見せず、父が遺した事業を継承した 3 。いや、継承するだけではなかった。彼は、父の計画を、より峻烈かつ強引な手法で、急ピッチで推し進めていくことになる 3 。その背景には、父の死によって豊臣政権内での立場が不安定になることを恐れ、一刻も早く目に見える形で成果を上げねばならないという、二代目としての焦りがあったのかもしれない。

【時系列記述】 1592年〜1598年に至る普請のプロセス

Phase 1: 惣構えの確定と基盤工事(1592年頃〜)

康長がまず取り組んだのは、城と城下町を一体的に防御する「惣構え」の完成であった。その根幹をなすのが、城下全体を三重に囲む水堀の最も外側に位置する「総堀」の開削である。

『信府統記』が「総堀を浚い幅を広くし、岸を高くして」と記すように、康長は小笠原氏時代に掘られた堀を遥かに凌駕する規模で拡張・深化させた 3 。掘削によって生じた膨大な量の土砂は、堀の内側に高く積み上げられ、堅固な土塁を形成した。この土木工事により、松本城は本丸・二の丸・三の丸が三重の水堀で守られる、難攻不落の水の要塞としての輪郭を現し始めた 3

この大規模な水堀の構築を可能にしたのは、松本の地理的条件であった。女鳥羽川と薄川が形成した複合扇状地の扇端に位置するこの地は、地下水位が極めて高く、豊富な湧水に恵まれていた 11 。康長はこの自然の利を最大限に活用し、壮大な防御システムを構築したのである。

Phase 2: 天守の建造(文禄2-3年/1593-1594年)

惣構えの工事と並行して、あるいはそれに続いて、プロジェクトの中核である天守の建設が始まった。松本市の公式見解では、天守の築造年代は文禄2年から3年(1593-1594年)とされており、康長の事業継承後、間もなく着工されたことがわかる 3

しかし、天守の建設は困難を極めた。前述の通り、この地は軟弱な湿地帯であり、1,000トンにも及ぶ巨大な天守の重量を支えるには、特殊な基礎工事が必要不可欠であった 22 。ここで投入されたのが、当時の最先端土木技術である。まず、天守台の石垣内部に16本の巨大な栂(つが)の丸太を地中深くまで打ち込み、土台を支える杭とした(土台支持柱) 8 。さらに、石垣の基礎部分には、松の丸太を筏のようにびっしりと敷き詰める「筏地形(いかだじぎょう)」という工法が用いられた 22 。これにより、天守の荷重は分散され、地盤沈下を防ぐことができたのである。

堅固な基礎の上に、大天守、乾小天守、そして両者を結ぶ渡櫓が、連結複合式の壮麗な天守群として一体的に組み上げられていった 8 。外観は五重、しかし内部は六階建てという複雑な構造は、外敵を欺き、内部の空間効率を高めるための工夫であり、戦時の司令塔としての機能性を追求した望楼型天守の特徴である 8 。壁面は、上部を白漆喰で塗り固め、風雨に晒される下部は黒漆塗りの下見板で覆われた 2 。この黒と白の鮮やかな対比は、見る者を圧倒する威容を誇ると同時に、豊臣恩顧の大名が築いた城郭に共通する、武骨で実戦的な気風を漂わせていた 28

その設計思想は、徹底した実戦本位であった。天守全体には115箇所もの矢狭間・鉄砲狭間が穿たれ、あらゆる角度からの攻撃を可能にした 2 。内堀の幅は約60メートルに設定され、これは当時の火縄銃の最大有効射程距離を意識したものであった 28 。壁の厚さも、厚い部分では28cmにも及び、銃弾が容易に貫通しないよう設計されていた 28 。松本城天守は、まさに来るべき徳川との決戦を想定した、戦うための戦闘機械だったのである。

Phase 3: 城門と石垣の整備(文禄4年/1595年頃〜)

天守の威容が姿を現すと、次いで城郭全体の防御力を完成させるための門と石垣の普請が本格化した。天守台や本丸、二の丸の主要な虎口(出入り口)には、巨大な自然石を巧みに組み上げた「野面積み」を基本としながら、隅角部には強度を高めるための「算木積み」を用いた堅固な石垣が築かれていった 6

この大規模な普請は、領民に多大な負担を強いるものであった。『信府統記』には、康長の普請が「山林の木や竹を伐採し、民家を取り壊しても償いもなく、強引な施策の連続であった」と記されており、その過酷さが窺える 35 。この時代の矛盾と民衆の苦難を象徴するのが、太鼓門の巨石「玄蕃石」にまつわる伝説である。

重さ約22.5トンにも及ぶこの巨石を運搬する際、あまりの重労働に人夫の一人が不満を漏らした。それを耳にした康長は、自らその人夫を斬り捨てると、その首を槍の先に掲げ、「ものども、さあ引け」と大音声で号令をかけ、作業を続行させたと伝えられる 24 。この「玄蕃石伝説」は、康長の峻烈な性格を示す逸話であると同時に、松本城という壮麗な建築物の背後に、名もなき民衆の血と汗と涙があったことを生々しく物語っている。

こうした犠牲の上に、本丸の正門である「黒門」、二の丸への入り口である「太鼓門」などが、敵の侵入を複雑な経路で阻む「枡形」を伴う堅固な櫓門として次々と完成していった 3

Phase 4: 武家屋敷と町割の拡大(慶長期/1596年頃〜)

城郭本体の工事と並行して、家臣団を居住させるための武家屋敷(士屋敷)の建設と、城下町の拡張が進められた。三の丸の内側には上級・中級武士の屋敷が、そして城郭の外側、特に北部には徒士(かち)や足軽といった下級武士の居住区が、計画的に配置されていった 3

1598年(慶長3年)時点での到達点

慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を閉じた。この報は、松本で巨大プロジェクトを指揮していた石川康長にとっても、大きな衝撃であったに違いない。彼の権力の最大の源泉であり、この事業の推進力でもあった庇護者を失ったからである。

この時点での松本城下は、どのような姿をしていたのだろうか。

天守をはじめとする城郭の主要構造物は、ほぼ完成の域に達していた。漆黒の天守が天を突き、三重の水堀と堅固な城門がその足元を固め、その威容は東国に鳴り響いていたはずである。

城下町もまた、小笠原氏の計画を基盤に、善光寺街道沿いの商業地区の骨格が定まり、武士たちの移住も着実に進んでいた。しかし、『信府統記』が示唆するように、町割りはなされたものの、まだ家々はまばらな状態であったと推測される 10 。都市という「器(ハードウェア)」はほぼ完成したが、そこに人々の活気ある営みという「魂(ソフトウェア)」が満たされるには、まだ少しの時間が必要な段階であった。秀吉の死は、この巨大プロジェクトが、豊臣政権という強力な中央権力の後ろ盾を失い、新たな時代の荒波に自力で立ち向かわねばならない時代の到来を告げるものであった。

第三章:完成されし都市の解剖 ― 1598年時点の松本城下

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死によって一つの時代が終わりを告げたこの年、松本城下は石川氏による拡張事業を経て、近世都市としての骨格をほぼ完成させていた。その姿は、戦国の緊張感を色濃く残す軍事要塞であると同時に、新たな時代の経済活動を支えるための合理的な機能性を備えた、複合的な都市であった。本章では、1598年という断面で、この完成しつつあった都市の構造を機能的に解剖し、そこに込められた都市計画思想を解き明かす。

軍事都市としての構造分析

松本城下の設計思想の根幹には、対徳川という明確な軍事的要請があった。そのため、都市の隅々に至るまで、徹底した防御思想が貫かれている。

  • 三重の堀による縦深防御: 城郭は、内側から「内堀」「外堀」「総堀」という三重の水堀によって厳重に守られていた 21 。これは、本丸、二の丸、三の丸を段階的に防御する「梯郭式」と、城郭全体を囲む「輪郭式」を組み合わせた複合的な縄張りであり、平城の防御上の弱点を補うためのものであった 27 。敵は、この水の障壁を幾重にも突破しなければならず、その過程で消耗を強いられる。特に内堀の幅が、当時の主力兵器であった火縄銃の有効射程距離(約50-60m)を考慮して設計されていた点は、この城が極めて実践的な戦闘を想定していたことを物語っている 28
  • 虎口の巧妙な仕掛け: 城への出入り口である虎口(こぐち)には、敵の突進を阻むための巧妙な仕掛けが施されていた。城の正面玄関にあたる大手門には、四角い空間で敵を囲い込み、三方から攻撃を加えるための「枡形」が設けられた 21 。また、その他の門には、門の外側に半円形の土塁を築き、敵を側面から迎撃するための「馬出(うまだし)」が配置されていた 21 。これらの馬出の形状は、武田信玄が用いた戦術の系譜を引くとされ、戦国時代に培われた築城技術が継承されていることを示している 21
  • 城下町全体の要塞化: 防御思想は城郭内だけに留まらなかった。城下の町人地に張り巡らされた道は、意図的に見通しの悪い丁字路や、直角に折れ曲がる「鉤の手(かぎのて)」で構成されていた 43 。これは、万が一城下に敵軍が侵入した場合でも、その迅速な進軍を妨害し、市街戦を有利に展開するための工夫である。城下町そのものが、城郭の外郭をなす巨大な防御施設として設計されていたのである。

経済都市としての機能分析

松本城下は、堅固な軍事要塞であると同時に、信濃国における経済の中心地としての役割を担うべく、計画的にデザインされていた。

  • 明確なゾーニング(町割り): 都市計画の最も顕著な特徴は、女鳥羽川を自然の境界線として、武士の居住・統治エリアと、町人の経済活動エリアを明確に分離したことである 10 。川の北側には城郭と武家屋敷が広がり、南側には商業地区が展開された。このゾーニングにより、軍事・政治機能と経済機能がそれぞれ独立して効率的に機能することが可能となった。
  • 善光寺街道という経済の大動脈: 町人地の中心を南北に貫いていたのが、善光寺(長野市)へと至る主要街道「善光寺街道」であった。石川氏は、この街道沿いに商業の中心地となる「親町三町」(本町、中町、東町)を配置した 7 。本町には各種問屋が軒を連ね、物資の集散地として機能した 44 。この親町から枝分かれするように「枝町十町」、さらに細い「二十四小路」が網の目のように広がり、職人や小売商人が住む機能的な商業区画を形成した 1 。この階層的な都市構造は、物流と経済活動を円滑化するための合理的な設計であった。

【表1:松本城下・町割り構成表(石川氏時代)】

親町

枝町

主な小路

推定される機能・特徴

本町

伊勢町、博労町

神明小路、鍛冶小路、鍋屋小路

善光寺街道沿いの中心商業地。各種問屋が集積。伊勢町は西の出入口、博労町は馬市が開かれた 44

中町

飯田町、小池町、宮村町

源智小路、一ツ橋小路

親町に次ぐ商業地。飯田町や小池町には、新領主に従ってきた職人や奉公人が居住した 1

東町

和泉町、安原町、横田町

山家小路、塩屋小路、紺屋町

城の東側に位置する商業・職人町。和泉町は清水が湧き出たことに由来するなど、古い歴史を持つ町も含まれる 1

  • 都市インフラの整備: 都市機能を支えるインフラも計画的に整備された。特に重要なのが水利システムである。豊富な湧水と地下水脈を利用し、城下の辻々には共同井戸が掘られ、住民の生活用水や防火用水を確保した 30 。中には「玄智の井戸」のように名水として知られ、歴代城主によって手厚く保護された井戸も存在した 1 。また、善光寺街道を基軸として、西は飛騨へ向かう野麦街道、北は日本海へ抜ける糸魚川街道などが接続され、松本は信濃における交通・物流のハブとしての地位を確立した 7

統治の象徴としての仕掛け

石川氏の都市計画には、物理的な防御や経済合理性だけでなく、領民を統治するための象徴的な仕掛けも組み込まれていた。

  • 寺社地の戦略的配置: 城下町の最も外側、東から南にかけての防衛上の弱点となりうるエリアには、計画的に寺社が集められた 10 。これは、有事の際には寺社の広大な敷地や堅牢な塀を防御拠点として利用することを想定した、近世城下町に共通する定石である。
  • 十王堂による領域支配の可視化: 石川康長は、城下町の東西南北の主要な出入り口四箇所に「十王堂」を建立した 47 。十王とは、死者の生前の罪を裁くという仏教信仰における冥界の十人の王である。この宗教施設を町の境界に置くことは、単なる道標やランドマーク以上の意味を持っていた。それは、城下という領主の支配が及ぶ聖域と、その外側の世界とを画する「結界」の役割を果たした。また、町の出入り口という物理的な境界に、人々の道徳観や死生観に深く関わる審判者を配置することで、城下に入る者に対して一種の心理的な圧力を与え、秩序維持に貢献したと考えられる。十王堂は、領主の権力が俗世だけでなく、人々の精神世界にまで及ぶことを視覚的に示す、高度な統治の象徴操作であった。

このように1598年時点の松本城下は、「防御」と「経済」という二つの要請を、女鳥羽川を境に空間的に分離しつつ、惣構えという一つの巨大な要塞として統合した、先進的な都市モデルであった。その設計には、戦国の実戦経験と、来るべき近世社会を見据えた合理主義が、巧みに融合されていたのである。

第四章:同時代の都市計画との比較と歴史的意義

石川氏による松本城下拡張は、単独の事象としてではなく、安土桃山時代という変革期に日本各地で展開された、他の先進的な都市計画と比較検討することで、その独自性と歴史的意義がより一層明確になる。ここでは、同じく豊臣政権下で大規模な都市改造を行った蒲生氏郷の会津若松、そして後の天下普請による徳川家康の江戸開発と比較し、松本が歴史上どのような位置を占めるのかを考察する。

蒲生氏郷の会津若松経営との比較

石川数正・康長とほぼ同時期に、東北の要衝・会津で壮大な城下町建設を指揮したのが、智勇兼備の名将として知られる蒲生氏郷である。両者の都市計画には、豊臣政権下の大名という共通の立場から、多くの類似点が見られる。

  • 共通点:豊臣流都市計画の展開
    蒲生氏郷もまた、秀吉の命により会津黒川城に入城し、城を七層の天守を持つ「鶴ヶ城」へと大改築すると同時に、城下町の全面的な再編を行った 53。その手法は松本と酷似している。城の内外を堀で区切り、内側を武家地(郭内)、外側を町人地や寺社地(郭外)とする明確なゾーニング 56、敵の侵攻を遅らせるための鉤の手の導入 55 などは、当時の最先端の都市計画思想を共有していた証左である。さらに氏郷は、故郷の近江や旧領地の伊勢から商人や職人を積極的に招聘し、楽市楽座の導入や、会津塗や酒造りといった地場産業の育成に力を注いだ 54。これもまた、軍事拠点に強力な経済基盤を付与しようとする、豊臣政権下の都市開発に共通する特徴であった。
  • 相違点:武断の松本、文治の会津
    一方で、両者には明確な相違点も存在する。石川康長の松本経営が、「玄蕃石伝説」に象徴されるように、軍事目的を達成するための苛烈で武断的な側面を強く感じさせるのに対し、氏郷の会津経営には、より文化的で洗練された側面が見られる。氏郷は、豊臣秀吉によって自害に追い込まれた茶人・千利休の子、少庵を会津に匿い、茶の湯文化を保護したことでも知られる 58。この違いは、両者が置かれた地政学的な状況の差を反映している可能性がある。松本が「対徳川」という極めて具体的な軍事的緊張下に置かれていたのに対し、会津は東北の広大な領国を経営し、伊達政宗を牽制するという、より複合的で長期的な統治を求められていた。このため、氏郷は武力だけでなく、文化や経済の力をも駆使した総合的な都市経営を目指したのではないだろうか。

松本と会津若松の城下町計画は、豊臣政権による「大名の戦略的再配置と拠点都市化」政策の双璧であった。それは、秀吉の天下統一後の国家安全保障構想の一環として、国内の潜在的な脅威である徳川家康(東)と伊達政宗(北)を封じ込めるための、対をなす戦略的プロジェクトだったのである。

徳川家康の江戸開発(天下普請)との比較

石川氏による松本城下拡張から約10年後、関ヶ原の戦いを経て天下人となった徳川家康は、江戸で空前の規模の都市開発を開始する。これは「天下普請」と呼ばれ、松本の事業とは目的、規模、手法において大きく異なっていた。

  • 目的と規模の違い:地方拠点と新首都
    家康の江戸開発は、1603年(慶長8年)の幕府開設後、全国の諸大名を動員して行われた国家プロジェクトであった 61。その目的は、江戸を日本の新たな政治・経済の中心、すなわち首都として建設することにあった。神田山を切り崩した土で日比谷の入り江を埋め立て、広大な市街地を造成するなど、地形そのものを大胆に作り変えるそのスケールは、一地方の拠点都市である松本とは比較にならない 64。
  • 政治的意図と手法:大名統制の手段として
    江戸の天下普請は、都市建設という目的と同時に、全国の諸大名、特に豊臣恩顧の西国大名に普請を命じることで、その財力と軍事力を削ぎ、徳川への絶対的な服従を強いるという、極めて高度な政治的意図を持っていた 64。一方、松本の拡張は豊臣政権の戦略に沿ったものではあったが、普請の実行主体はあくまで石川氏という単独の大名であり、秀吉が直接全国の大名に賦役を課したものではなかった。この点において、石川氏の事業は、後の江戸幕府によるシステマティックな大名統制策の、いわば先駆的・小規模版であったと見なすこともできる。

【表2:戦国末期 主要城下町計画 比較表】

比較項目

松本(石川氏)

会津若松(蒲生氏郷)

江戸初期(徳川家康)

城主

石川数正・康長

蒲生氏郷

徳川家康・秀忠

政治的背景/目的

対徳川の軍事拠点化

対伊達の牽制、東北支配の拠点化

幕府の新首都建設、全国支配の拠点化

規模/石高

8〜10万石

91万石

天下(幕府直轄)

都市計画の特徴

三重の水堀、徹底した防御思想、善光寺街道中心の商業地

武家・町人地の分離、産業育成(漆器・酒造)、文化的側面の重視

大規模な埋立・掘削、五街道の起点整備、全国の物流網の中心

担い手/普請方式

石川氏による単独普請

蒲生氏による単独普請

全国の諸大名を動員する「天下普請」

松本城下拡張が持つ歴史的意義

これらの比較を通じて、石川氏による松本城下拡張の歴史的意義が浮かび上がってくる。

第一に、それは戦国時代の軍事要塞としての機能と、近世の政治経済の中心地としての機能を、極めて高いレベルで両立させた、 過渡期の城下町モデルの完成形の一つ であること。

第二に、秀吉が特定の意図を持った大名を戦略的要地に配置し、大規模な城郭都市を建設させることで地方を支配・統制するという、 豊臣政権の統治システムを具体的に示す好例 であること。

そして第三に、山城が主流であった戦国期から、政治・経済の中心地として平城へと移行する大きな流れの中で、「惣構え」という徹底した防御思想を、水利に恵まれた平地で最大限に活用して実現した、 先進的な築城・都市計画事例 であること。

石川氏が築いた松本は、単なる地方都市ではなく、戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムが凝縮された、まさに「天下一統の縮図」とも言うべき歴史的遺産なのである。

終章:石川氏の功罪と残された遺産

壮大な城郭と城下町を築き上げ、松本の近世都市としての礎を確立した石川氏。しかし、彼らがその地で統治者として君臨した期間は、驚くほど短かった。プロジェクトの完成とほぼ同時に、彼らは歴史の舞台から姿を消す。本章では、石川氏が迎えた皮肉な結末と、彼らが遺したものが後世に与えた永続的な影響を考察し、本報告の締めくくりとしたい。

拡張事業の完成と石川氏の改易(1613年)

慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、石川康長は父・数正とは異なり、東軍(徳川方)に与した。この選択により、彼は戦後も所領を安堵され、松本城主の地位を保った 3 。これにより、かつて「対徳川の楔」として築かれた松本城は、その本来の戦略的役割を終え、徳川の治世下における信濃統治の拠点へとその性格を変えた。

しかし、安堵も束の間、康長の運命は暗転する。慶長18年(1613年)、幕府の金銀山を管理していた重臣・大久保長安の死後、その不正蓄財が発覚した一大疑獄事件「大久保長安事件」に連座したとして、康長は突如改易を命じられ、所領を没収されたのである 3 。あれほどの大事業を成し遂げながら、その完成からわずか十数年で、石川氏は松本の地を追われ、御家は断絶という悲劇的な結末を迎えた。

この改易の背景には、単なる事件への連座以上の、高度な政治的判断があったと考えられる。天下人となった徳川家康にとって、かつて自らを裏切った数正とその子・康長が、豊臣秀吉の命で築いた壮大な城は、目障りな存在であったに違いない。それは、豊臣政権の記憶と、自らの苦い過去を想起させる記念碑でもあった。大久保長安事件を口実とした康長の改易は、徳川の世が盤石になったことを天下に示し、豊臣色の払拭と、かつての裏切りに対する冷徹な政治的清算という、二重の意味を持つ処断であったと解釈できる。

後継領主たちによる整備の継続と完成

石川氏が去った後、松本には小笠原氏が再び入封し、その後も戸田氏、松平氏、水野氏など、譜代の有力大名が城主として統治を続けた 3 。彼らは、石川氏が築いた壮大な都市基盤を継承し、さらに発展させていった。

特に象徴的なのが、徳川家康の孫にあたる松平直政の時代(1633-1638年)に、天守に増築された「月見櫓」と「辰巳附櫓」である 8 。戦いの備えがほとんどない、三方が開放された優雅な月見櫓は、城がもはや「戦うため」の施設ではなく、統治の権威を「見せるため」、そして城主が「暮らすため」の施設へと、その性格を完全に変えたことを物語っている 8

城下町もまた、歴代藩主のもとで整備が続けられ、18世紀前半の水野氏の時代に、その最終的な姿が完成したとされている 1 。しかし、その都市構造の根幹、すなわち三重の堀に守られた城郭、善光寺街道沿いの商業地、鉤の手に折れ曲がる道筋といった骨格は、すべて石川氏の時代に確立されたものであった。

現代に続く松本の都市構造の原点

明治維新という近代化の波は、全国の城郭に厳しい運命をもたらした。松本城も例外ではなく、城郭の多くは払い下げられ、門や櫓は破壊され、壮麗な水堀も次々と埋め立てられていった 3 。しかし、天守が解体の危機に瀕した際、市川量造や小林有也といった地元の名士たちが中心となり、市民的な保存運動が展開された 4 。彼らの情熱と努力によって、漆黒の天守は奇跡的にその姿を留め、今日、国宝として我々の前に聳え立っている。

現代の松本市街を歩けば、石川氏の遺産が今なお生き続けていることを実感できる。一方通行が多く、複雑に入り組んだ鉤の手の道筋は、かつての城下町の防御思想の名残である 43 。本町、中町、東町を中心とした賑わいは、石川氏が配置した商業区画の発展形であり、市内に点在する清らかな湧水は、400年以上前に整備された水利文化の継承である 30 。近年の都市計画においても、南・西外堀の復元事業が進められるなど、石川氏が描いた歴史的景観を保全し、未来へ活用しようとする試みが続けられている 70

石川氏による「松本城下拡張」は、単なる過去の土木事業ではない。それは、400年以上にわたって松本の都市アイデンティティを規定し続ける、生きた遺産なのである。

松本城が今日までその姿を留めているのは、二つの時代を超えた力の結晶と言えるだろう。一つは、石川氏が「対徳川」という極限の軍事的要請から生み出した、「過剰なまでの堅牢性」を持つ物理的な構造である。そしてもう一つが、近代の市民たちが、その軍事的な価値を失った建造物に「文化遺産としての新たな価値」を見出し、守り抜いた精神的な力である。戦国末期の「軍事資本」が、近代市民の「文化資本」へと転換されたことで、松本城は生き永らえた。石川数正・康長父子の功罪相半ばする巨大な遺産は、後世の人々によって再評価され、新たな意味を与えられて初めて、今日我々が誇るべき「国宝」となったのである。

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