最終更新日 2025-09-15

松永久秀自爆(1577)

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松永久秀、信貴山城に散る ― 天正五年、梟雄最後の反逆、その史実と伝説

序論:梟雄、最後の反逆 ― 史実と伝説の狭間で

松永久秀という武将は、日本の戦国時代を象徴する人物の一人である。彼は主君である三好長慶のもとで頭角を現し、やがて主家を凌駕する権勢を握った下剋上の体現者であり、革新的な城郭建築家でもあった 1 。また、冷酷非情な策略家として数々の悪名を馳せる一方、当代一流の文化人、特に茶の湯の世界では深くその名を刻んだ人物でもあった 3 。この多面的で複雑な人物像こそが、彼の壮絶な最期を一層劇的なものとして後世に伝えている。

本報告書は、「松永久秀自爆(1577):大和国:多聞山城:追い詰められ城とともに爆死する」という一般的な認識について、その真偽を徹底的に検証し、歴史的事実を時系列に沿って再構築することを目的とする。この広く知られたイメージは、彼の反骨精神の本質を捉えてはいるものの、史実においては場所(多聞山城ではなく信貴山城)や死に様(「爆死」は後世の伝説)に関して重大な誤りを含んでいる 6

天正5年(1577年)の松永久秀の反逆は、単なる絶望からの自暴自棄な行動ではなかった。それは、織田信長が直面していた政治的・軍事的危機、すなわち「第三次信長包囲網」という国際情勢を冷静に分析した上での、計算された政治的・軍事的賭けであった。本報告では、この大博打に至る戦略的思考から、その破綻と悲劇的な結末までの一部始終を詳細に解剖する。さらに、彼の記憶を決定づけた「爆死」という伝説が、いかにして生まれ、定着していったのか、その形成過程にも光を当てるものである。

第一章:謀反に至る道程 ― 天正五年、松永久秀を取り巻く情勢

松永久秀の最後の反逆は、衝動的な行動ではなく、天下の情勢と個人的な境遇という二つの要因が複雑に絡み合った末の決断であった。彼が見出した千載一遇の好機と、耐え難い屈辱が、この老獪な梟雄を最後の戦いへと駆り立てたのである。

第一節:揺らぐ信長包囲網と久秀の勝算

天正5年(1577年)、天下統一への道を突き進む織田信長の権勢は盤石に見えたが、その実、四方に強大な敵を抱え、その戦線は極度に伸長していた。この状況こそが、久秀に「勝機あり」と判断させた最大の要因であった。

当時、追放された将軍・足利義昭は備後の鞆に「鞆幕府」を構え、反信長の旗頭として全国の大名に檄を飛ばしていた 8 。この呼びかけに応じ、第三次信長包囲網が形成される。北陸からは「軍神」上杉謙信が越中を平定して加賀へと南進し、西からは中国地方の覇者・毛利輝元が、石山本願寺を海上から支援しつつ、播磨へと勢力を伸ばしていた 8 。そして、信長の足元である摂津では、石山本願寺が10年近くに及ぶ頑強な抵抗を続けていた 11

久秀が謀反に踏み切る直接的な引き金となったのは、上杉謙信の動向であった。天正5年8月17日に久秀が反旗を翻した直後の9月、謙信は手取川の戦いで柴田勝家率いる織田の北陸方面軍を壊滅させる 6 。久秀の計算では、謙信がこの勢いに乗じて京へ上洛すれば、信長は北と畿内の二正面作戦を強いられ、織田軍は崩壊するというものであった 6 。久秀の反乱は、この大戦略に連動し、信長の支配体制の心臓部である畿内に楔を打ち込むことを目的とした、極めて戦略的な行動だったのである。それは自決を前提とした玉砕ではなく、反信長連合軍の一翼を担い、勝利を目指すための、周到に計画された賭けであった 6

第二節:大和国の支配権を巡る宿痾 ― 筒井順慶との対立

久秀の謀反を理解する上で、天下の情勢というマクロな視点と同時に、大和一国を巡るミクロな対立、すなわち宿敵・筒井順慶との長年にわたる確執を見過ごすことはできない。信長包囲網がもたらした戦略的好機が反乱の「可能性」を与えたとすれば、大和国における耐え難い屈辱は、それを実行に移す「動機」そのものであった。

松永久秀と、大和の国人領主を束ねる筒井順慶との抗争は、10年以上にわたって繰り広げられた血で血を洗うものであった 14 。久秀は当初、信長に臣従することで大和国の支配権を安堵されていた 6 。しかし、元亀4年(1573年)に将軍・義昭に同調して一度目の反逆を起こしたことで、信長の信頼を失う 6 。この時は許されたものの、久秀の立場は著しく弱体化した。

そして天正4年(1576年)、信長は久秀にとって最大の屈辱となる決定を下す。長年の宿敵であった筒井順慶を大和国守護に任命したのである 7 。これにより、誇り高き久秀は、自らが長年支配してきた大和国において、仇敵の指揮下に入るという耐え難い状況に追い込まれた。さらに追い打ちをかけるように、久秀がその建築美と権威を天下に誇示した居城・多聞山城は信長に没収され、破却が命じられた 20 。しかも、その破却作業の責任者には、久秀自身の息子・久通と、宿敵・筒井順慶が任命されるという、残忍なまでの仕打ちであった 17

自らの栄光の象徴であった城が、宿敵の手によって破壊されていくのを目の当たりにすることは、久秀のプライドを根底から打ち砕いたに違いない。この個人的な怨恨と、信長包囲網という政治的好機が結びついた時、松永久秀の最後の反逆は、もはや避けられないものとなったのである。

第二章:信貴山城の攻防 ― リアルタイム・クロノロジー

久秀の謀反は、当初の計算とは裏腹に、織田信長の迅速かつ圧倒的な軍事力の前に、わずか2ヶ月足らずで潰えることとなる。以下に、反乱決行から落城に至るまでの日々を、時系列に沿って詳述する。

表1:信貴山城の戦いにおける主要人物

勢力

役職

人物名

備考

松永方

総大将

松永久秀

謀反の首謀者。当時68歳。

副将

松永久通

久秀の嫡男。当時35歳。

家臣

森好久

籠城戦の最終局面で裏切る。元は筒井家臣。

織田方

総司令官

織田信長

安土城から全軍を指揮。

現場総大将

織田信忠

信長の嫡男。討伐軍の総指揮を執る。

先鋒大将

筒井順慶

大和国守護。久秀の宿敵。

主要武将

明智光秀

討伐軍の主力。

羽柴秀吉

討伐軍の主力。

佐久間信盛

討伐軍の主力。

細川藤孝

討伐軍の主力。

この織田軍の編成は、二つの重要な点を示唆している。第一に、信長が投入した武将たちの顔ぶれである。信忠を総大将に、明智、羽柴、佐久間といった方面軍司令官クラスを惜しげもなく投入したことは、信長がこの反乱をいかに深刻な脅威と捉えていたかを物語っている 6 。第二に、先鋒に筒井順慶を起用した点である。これは単なる軍事配置ではなく、大和国の新たな支配者である順慶に、旧支配者である久秀を討たせるという、極めて政治的かつ心理的な意図を持った采配であった 7

天正5年8月17日:謀反決行と信貴山城への籠城

この日、松永久秀・久通親子は、石山本願寺包囲の拠点であった天王寺砦に火を放ち、突如として戦線を離脱。故郷である大和国へと兵を返した 7 。彼らが目指したのは、かつての居城・多聞山城ではなく、大和と河内の国境に聳える山城・信貴山城であった 6 。信貴山城は、久秀自身が大規模な改修を施した難攻不落の要塞であり、籠城戦には最適の地であった 3 。籠城した兵力は、騎馬300、総勢8,000余りとされる 6

報を受けた信長は、久秀の老功を惜しんだのか、まずは堺の代官である松井友閑を派遣し、謀反の真意を問い、和解の道を探らせた。しかし、久秀は使者に会うことすら拒絶し、徹底抗戦の意思を明確にした 6

9月~10月1日:織田軍の出陣と前哨戦「片岡城の戦い」

交渉決裂を受け、信長は討伐軍の派遣を決定。9月下旬、筒井順慶、明智光秀、細川藤孝らを先遣隊として出陣させ、法隆寺に布陣させた 7

10月1日、織田軍の攻撃が開始される。最初の標的は、信貴山城の重要な支城である片岡城であった。織田軍約5,000に対し、松永方の守備兵は約1,000。海老名勝正、森秀光といった久秀の家臣たちが奮戦するも、衆寡敵せず、激戦の末に片岡城は落城した。この戦いで松永方は150名以上が討ち死にし、信貴山城は裸同然となった 6

10月3日~9日:包囲網の完成と非情の決断

10月3日、信長のもとに戦況を決定づける報告がもたらされる。手取川で織田軍を破った上杉謙信が、それ以上の南進を停止し、越後へ引き返す気配を見せているという知らせであった 6 。久秀が頼みとしていた謙信の上洛は、ここに潰えた。

北陸の脅威が去ったと判断した信長は、即座に加賀方面に展開していた主力を動員。嫡男・信忠を総大将とし、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽長秀ら軍団の主力を信貴山城へと差し向けた。これにより、信貴山城を包囲する織田軍の総兵力は、4万という圧倒的な数に膨れ上がった 7

10月5日、城が完全に包囲されると、信長は非情な決断を下す。人質として京にいた久秀の孫二人(当時12歳と13歳)を市中引き回しの上、六条河原で公開処刑に処したのである 7 。これは、もはや交渉の余地はなく、慈悲も与えないという信長の冷徹な意思表示であった。

絶望的な状況にもかかわらず、松永軍の士気は衰えなかった。同5日、飯田基次が率いる決死隊が城から討って出て、織田軍に数百人の死傷者を出すなど、必死の抵抗を続けた 7 。戦いは一進一退の攻防となり、持久戦の様相を呈し始めた。

10月10日:裏切り、落城、そして最期

信貴山城に最期の時をもたらしたのは、内部からの裏切りであった。松永家臣の森好久が、織田方に寝返ったのである。彼はもともと筒井順慶の家臣であり、順慶と密かに通じていた 7 。本願寺への援軍要請を名目に城を出た好久は、筒井順慶のもとに駆け込み、城内の手薄な箇所などの内部情報を密告。順慶から与えられた鉄砲衆200名を率いて、「援軍」と偽って城内に帰還していた 7

10月10日早朝、織田軍による総攻撃が開始される。筒井順慶の部隊が先陣を切って城内に突入しようとする中、城の三の丸付近から突如火の手が上がった 7 。森好久とその部隊が内部から放火し、守備隊を混乱に陥れたのである 7

内と外からの攻撃に、城の防衛線は一気に崩壊。炎が城全体を包む中、松永久秀(当時68歳)と嫡男・久通(当時35歳)は、安土城天主のモデルになったとも言われる四層の天守へと退き、もはやこれまでと覚悟を決め、自害して果てた 7

奇しくも、久秀が命を絶った10月10日は、かつて彼が東大寺大仏殿を焼き払ったとされる永禄10年(1567年)10月10日と全く同じ日であった。当時の人々はこれを仏罰だと噂し、梟雄の悪逆に満ちた生涯の因果応報であると語り合ったという 17

表2:信貴山城の戦い 詳細年表(天正5年8月17日~10月10日)

年月日(天正5年)

出来事

主要人物

備考

8月17日

松永久秀・久通親子、天王寺砦を焼き払い、大和国信貴山城に籠城。謀反が公になる。

松永久秀, 松永久通

第三次信長包囲網に呼応した戦略的行動。

9月下旬

織田信長、筒井順慶・明智光秀・細川藤孝らを先鋒として派遣。

織田信長, 筒井順慶, 明智光秀

討伐軍の第一陣が到着。

10月1日

織田軍、信貴山城の支城・片岡城を攻撃し、陥落させる。

筒井順慶, 海老名勝正

信貴山城の包囲網が狭まる。

10月3日

上杉謙信の南進停止の報が信長に届く。信長、加賀方面軍の主力を信貴山城へ派遣決定。

織田信長, 上杉謙信

戦略的転換点。久秀の敗北が事実上確定する。

10月5日

織田信忠を総大将とする4万の軍勢が信貴山城を完全包囲。信長、人質の孫二人を六条河原で処刑。

織田信忠, 松永久秀

信長の非情な決断。松永軍は必死の抵抗を見せる。

10月10日

織田軍が総攻撃を開始。森好久の裏切りにより城内から出火。信貴山城落城。松永久秀・久通親子が天守にて自害。

織田信忠, 筒井順慶, 松永久秀, 森好久

謀反は鎮圧され、松永氏は滅亡。

第三章:梟雄の最期 ― 「自爆」伝説の虚実

松永久秀の死は、単なる一武将の敗北に留まらず、数々の dramatic な逸話を生み出した。特に、名物茶器「平蜘蛛」を巡る物語と、火薬を用いた「爆死」の伝説は、彼の人物像を象徴するものとして広く知られている。しかし、これらの逸話はどこまでが史実なのであろうか。

第一節:名器「平蜘蛛」の行方

「古天明平蜘蛛」と称される茶釜は、戦国時代において比類なき価値を持つ名物(めいぶつ)であった 4 。当時の織田信長は、茶の湯を政治利用する「御茶湯御政道」を展開しており、功績のあった家臣に領地ではなく名物茶器を与えることで、自らの権威を高めていた 25 。この体制において、平蜘蛛のような最高級の名物を所有することは、武将にとって最高のステータスであった。

複数の記録によれば、信長は落城に際し、「平蜘蛛を差し出せば命だけは助ける」という降伏勧告を久秀に送ったとされる 28 。これは、一個の茶器が一人の大名の命に匹敵するほどの価値を持っていたことを示している。

これに対する久秀の返答と行動は、彼の最後の抵抗の核心をなす。「平蜘蛛の釜と我らの首は、信長にお目にかけようとは思わぬ」と言い放ち、天守で平蜘蛛を粉々に打ち砕いたと伝えられる 10 。これは、単なる武将としての降伏拒否ではない。信長が築き上げた「茶の湯による価値体系」そのものに対する、当代一流の文化人・松永久秀による最後の、そして最大の文化的挑戦であった。彼は武力で敗れることは受け入れても、自らの美意識の象徴である平蜘蛛を敵の手に渡すことを拒み、その価値体系ごと破壊することを選んだのである。

ただし、この逸話の信憑性については、近年の研究で異論も提示されている。久秀の死後、平蜘蛛は破損した状態で回収され、修復された後に茶会で使用されたという説も存在する 32 。もしこれが事実であれば、久秀の最期の行動は、完全な破壊ではなく、敵に完全な形で渡すことを拒む象徴的な「毀損」行為であった可能性も考えられ、歴史の解釈に一層の深みを与える。

第二節:「爆死」説の検証 ― 一次史料と後世の創作

松永久秀の最期として最も有名な「爆死」説。しかし、この劇的な逸話は、同時代の一次史料には一切見られない、後世に創られた伝説である可能性が極めて高い。

一次史料の記述

当時の状況を記した最も信頼性の高い史料は、久秀の死を冷静に記録している。

  • 『多聞院日記』 :奈良・興福寺の僧、英俊が記した日記。信貴山城落城の翌日の条に、「今日安土ヘ首四ツ上了(本日、安土へ首が四つ送られた)」と明確に記されている 7 。久秀・久通親子を含む主だった者たちの首が、検分のため信長のもとへ送られたことを示している。
  • 『兼見卿記』 :京の公家、吉田兼見の日記。落城当日の記述に、「父切腹自火、悉相果云々(父(久秀)は切腹し、自ら火を放ち、ことごとく果てたという)」とある 7

これらの記述から、久秀の死因が切腹と、燃え盛る天守の中での焼死であったことはほぼ間違いない。

「四つの首」が示す決定的事実

特に『多聞院日記』の「首四ツ」という記述は、爆死説を根本から覆す決定的な証拠である。火薬で自爆した人間の遺体が、首を回収できるほど原型を留めていることは物理的にあり得ない。同時代の僧侶が記したこの簡潔な一文は、後世に膨らんだいかなる dramatic な物語よりも重い、歴史の真実を物語っている。

伝説の形成過程

では、「爆死」の伝説はどのようにして生まれたのか。その源流は、江戸時代初期の軍記物に遡ることができる。

  1. 萌芽(江戸初期) :『川角太閤記』には、久秀が「鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ」と、鉄砲の火薬で自らの首を焼いて砕かせたと記されている 7 。これは死因ではなく、信長に首を渡すまいとする死後の冒涜行為として描かれており、これが火薬と結びつく最初の記述と考えられる。
  2. イメージの定着(江戸中期) :湯浅常山の『常山紀談』などで、将軍殺しや東大寺焼き討ちといった「三悪事」が喧伝され、久秀の「大悪人」「梟雄」というイメージが確立された 34 。このような人物像は、常軌を逸した派手な最期を期待させる下地となった。
  3. 伝説の完成(近代以降) :城の炎上、平蜘蛛の破壊、そして火薬による首の損壊という要素が、時代を経るにつれて混同・融合し、やがて「平蜘蛛に火薬を詰めて城ごと爆死した」という、今日の我々が知る dramatic な伝説へと昇華されていった。歴史研究家の天野忠幸氏が指摘するように、この「爆死」という明確な表現は、第二次世界大戦後に広まった比較的新しい俗説である 7

第四章:文化的側面と歴史的評価

松永久秀の生涯は、武将としての側面だけでなく、文化人としての側面を抜きにしては語れない。彼の最後の反逆と死は、戦国時代の政治と文化がいかに密接に結びついていたかを示す象徴的な出来事であった。

第一節:茶人としての松永久秀

松永久秀は、武野紹鴎に師事した当代一流の茶人であった 24 。彼の茶会は『天王寺屋会記』などの記録にも残されており、堺の豪商や他の武将たちと深い文化的交流を持っていたことが窺える 5 。彼は単なる茶の湯の愛好家ではなく、名物茶器を多数所持し、その価値を理解し、自らの権威の演出に巧みに利用する、文化のプロデューサーでもあった。

興味深いことに、織田信長が茶の湯を政治の道具として用いる手法は、久秀のような先行者から学んだ可能性が高いと指摘されている 27 。信長は、久秀がかつて「つくも茄子」を献上して恭順の意を示したように、茶器を服従と忠誠の証として利用した。皮肉なことに、久秀は自らがその発展に寄与したかもしれない「茶の湯による支配」というシステムによって、最期には追い詰められることになったのである。

その意味で、平蜘蛛の茶釜を渡さずに破壊した行為は、単なる武人の意地ではなく、一人の偉大な茶人、コレクターとしての最後の美学の表明であったと解釈できる 40 。彼は、自らの死という舞台を自ら演出し、最大のライバルに最高の文化的トロフィーを渡すことを拒んだのである。

第二節:事変後の影響と歴史的評価

松永久秀の死は、畿内の政治情勢に決定的な影響を与えた。

第一に、大和国の平定である。久秀という最大の抵抗勢力が消滅したことにより、筒井順慶は織田政権下で大和一国の支配を盤石なものとした 14 。これにより、信長は畿内における支配体制を一層安定させることができた。

第二に、信長包囲網の瓦解である。久秀の反乱がかくも迅速かつ徹底的に鎮圧されたことは、他の反信長勢力に対する強烈な見せしめとなった。この直後、頼みの綱であった上杉謙信が翌年に急死したこともあり、第三次信長包囲網は事実上崩壊する 9 。これにより、信長は後顧の憂いなく、中国地方の毛利氏との決戦へと戦力を集中させることが可能となった。

松永久秀は、後世「梟雄(きょうゆう)」と評される。主君殺し、将軍殺し、東大寺焼き討ちという三大悪事をなしたと非難される一方で、その卓越した能力と革新性は、敵であった信長すら一目置き、島左近のような後の武将からも「果断な武将はもはやいない」と嘆かれるほどであった 34 。彼は、裏切りと創造、破壊と洗練という、戦国時代の持つ二面性を一身に体現した人物であったと言えよう。

結論:歴史の記憶と物語の創造

本報告書を通じて明らかになったように、天正5年(1577年)の松永久秀の最期に関する歴史的現実は、以下の通りである。

  1. 彼の反逆は、第三次信長包囲網という情勢を好機と見た、計算に基づく戦略的賭けであった。
  2. しかし、頼みとした上杉謙信の南進が頓挫したことで前提が崩れ、織田信長の迅速かつ圧倒的な軍事力の前に、信貴山城での籠城戦はわずか2ヶ月で破綻した。
  3. 彼の最期は、城内に火を放った上での切腹による自害であり、回収された首が信長のもとに届けられている。名物「平蜘蛛」を破壊したとされるが、その程度については議論の余地がある。
  4. 広く知られる「爆死」伝説は、同時代の一次史料には見られない後世の創作であり、彼の特異なキャラクター像と劇的な逸話が融合して生まれた物語である。

なぜ、事実ではない「爆死」の伝説がこれほどまでに人々の心を捉え、長く語り継がれてきたのだろうか。それは、その伝説が、史実以上に松永久秀という人間の本質を捉えているからかもしれない。彼の生涯は、旧来の権威を破壊し、常に予測不能な行動で時代を震撼させた、まさに「爆発的」なものであった。その破天荒な生涯の締めくくりとして、城ごと自らを爆散させるという最期は、事実を超えた「物語としての真実」を感じさせる。

松永久秀の最後の日は、歴史の記憶がいかにして形成されるかを示す好例である。そこでは、史料に残された客観的な事実が、時に人々が求めるより魅力的で、よりその人物らしい物語によって上書きされていく。本報告が、この戦国を代表する梟雄の、史実としての姿と、伝説として語られる姿の両方を、より深く理解するための一助となれば幸いである。

引用文献

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