最終更新日 2025-09-25

松江城築城(1607)

慶長十二年、堀尾吉晴・忠氏父子は関ヶ原の功で出雲・隠岐を領し、月山富田城から松江へ移る。水の都に松江城を築城し、戦国の記憶と泰平の世の要請を融合。城下町も整備し、藩の礎を築いた。
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松江城築城(1607年)に関する総合報告書:戦国から泰平の世へ、水の都の誕生

序章:天下泰平の黎明と出雲国の新時代

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、日本の権力構造を決定的に塗り替え、戦国乱世は終焉を迎えつつあった。豊臣政権は事実上瓦解し、徳川家康を頂点とする新たな支配体制、すなわち江戸幕府の時代が幕を開けた。この歴史的な転換期において、城郭の持つ戦略的意味合いもまた、大きな変容を遂げることとなる。戦乱の時代における城が純粋な軍事拠点であったのに対し、近世における城は、藩の政治と経済を司る「首都」としての機能を強く求められるようになった 。慶長12年(1607年)に開始された松江城築城は、まさにこの過渡期を象徴する事業であり、その設計思想には「戦うための城」という戦国の記憶と、「治めるための城」という新たな時代の要請が色濃く反映されている。

築城主である堀尾氏は、豊臣秀吉の子飼いの大名でありながら、関ヶ原では東軍(徳川方)に与するという絶妙な政治判断を下した 。その功績により出雲・隠岐両国二十四万石という広大な領地を得たが、外様大名である彼らにとって、新たな領地における支配基盤の確立と、徳川幕府への忠誠と能力の証明は喫緊の課題であった。したがって、松江城の築城は単なる居城の建設に留まらず、堀尾氏の威信を内外に示し、新たな松江藩の統治体制を盤石にするための国家的な一大プロジェクトであったと位置づけられる。

この築城が開始された慶長12年(1607年)という時期は、徳川幕府の支配体制が確立しつつも、豊臣家が大坂に依然として健在であるという、政治的に極めて繊細な局面にあった。このような状況下で、これほど大規模かつ実戦的な城郭の建設が許可された背景には、堀尾氏個人の意図を超えた、より大きな戦略的判断が存在した可能性が考えられる。すなわち、表向きは領国経営の拠点としつつも、万が一の有事、特に将来起こりうる豊臣家との最終決戦においては、西国における徳川方の重要拠点として機能させるという二重の戦略的意図があったと推察される。松江城は堀尾氏の城であると同時に、徳川の西国戦略の一翼を担う城としての側面も持ち合わせていたのである。

第一章:松江藩の誕生 ― 堀尾氏、出雲へ入る

堀尾吉晴・忠氏父子の出自と経歴

松江開府の祖、堀尾吉晴は天文12年(1543年)、尾張国(現在の愛知県)に生まれた 。織田信長、そして豊臣秀吉に仕え、長篠の戦いや備中高松城攻め、山崎の戦いなど数々の合戦で武功を重ね、近江佐和山城主、遠江浜松城主十二万石の大名へと昇進した歴戦の武将である 。秀吉の死後は徳川家康に接近し、豊臣政権内部の調停役を務めるなど、巧みな政治感覚も持ち合わせていた 。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に与した。吉晴自身は戦の直前に負傷したため本戦には参加できなかったが、家督を継いでいた息子の忠氏が父に代わって出陣し、前哨戦である岐阜城攻めなどで武功を挙げた 。この功績が徳川家康に認められ、戦後、堀尾忠氏は出雲・隠岐両国合わせて二十四万石(二十三万五千石との説もある)の領主として加増転封された 。同年11月、堀尾吉晴・忠氏父子は、かつて山陰の覇者・尼子氏の拠点であった月山富田城(現在の安来市)に入城し、ここに松江藩の歴史が始まった 。

初代藩主・堀尾忠氏の藩政と早世

出雲国に入封後、新領地の統治基盤を固める作業は、実質的に藩主である忠氏が主導した。慶長6年(1601年)には、早速家臣団への知行地の配分(知行割)や、領内の寺社への所領寄進を行い、新たな支配体制の構築に着手した 。翌慶長7年(1602年)からは、藩の財政基盤を確立するため、領内全域の検地(太閤検地と同様の石高調査)を開始する 。この検地は、前領主であった毛利氏が定めた「一反=360歩」という基準を「一反=300歩」に改めるという、実質的な増税を伴う厳しいものであったと伝わっている 。

この堀尾忠氏による厳格な検地は、単なる税収増を目的としたものではなく、旧領主である毛利氏の支配体制を解体し、堀尾氏による新たな支配秩序を領内に浸透させるという、より高度な政治的意図を含んでいたと考えられる。土地の面積基準そのものを変更することは、土地と結びついた旧来の権益や在地勢力との関係性を一度リセットする効果を持つ。これは、新領主が自らの権威の下で領国を再編成するための常套手段であり、忠氏が若年ながらも有能な統治者であったことを示唆している。

しかし、新城建設の許可を幕府から得て、藩の将来像を描き始めた矢先の慶長9年(1604年)、忠氏は城地調査の途上で病に倒れ、父・吉晴に先立って28歳の若さで急逝してしまう 。

祖父・吉晴による後見と藩体制の再構築

藩主・忠氏の突然の死により、家督はわずか6歳の嫡男・忠晴が継ぐことになった。この非常事態を受け、すでに隠居の身であった祖父・吉晴が後見人として再び藩政の表舞台に立ち、実権を握ることになる 。この予期せぬ当主交代は、藩政、特に始動したばかりの新城建設計画に一時的な停滞をもたらしたことは想像に難くない。老将・吉晴は、亡き息子の遺志と幼い孫の将来を一身に背負い、この国家的な大事業を自らの手で完成させるという重責を担うことになったのである。

第二章:新時代のグランドデザイン ― なぜ月山富田城を去ったのか

中世山城・月山富田城の限界

堀尾氏が当初の居城とした月山富田城は、かつて尼子氏が本拠とし、毛利元就の大軍をも一度は退けた天下の要害として知られていた。しかし、その強固な防御力は、急峻な山という地理的条件に大きく依存しており、戦乱が収まりつつある平時の統治と経済発展には多くの課題を抱えていた。山城は、麓に広大で計画的な城下町を形成することが構造的に困難であり、特に舟運を利用した大規模な物資輸送には致命的な弱点があった 。天下泰平の世を見据えた時、純粋な軍事拠点としての価値よりも、藩の政治経済の中心地としての機能性が優先されるのは、時代の必然であった。

新城地・亀田山の選定

堀尾父子が新たな拠点として選んだのは、宍道湖と中海という二つの湖を繋ぐ大橋川の北岸に位置する亀田山(当時の地名は末次)であった 。この地は、両湖の水運を完全に掌握できる交通の要衝であり、広大な平地に計画的な城下町を建設するのに最適な場所であった。城地の選定にあたっては、父・吉晴と息子・忠氏の間で候補地を巡る意見の対立があったと伝えられている 。しかし最終的には、水運の利便性と都市開発の将来性という経済的合理性から、この亀田山が選定された。

この居城移転は、単なる拠点の移動ではなく、統治思想そのものの転換を象徴する行為であった。山そのものを要塞とする月山富田城が「点」としての防御拠点であるのに対し、城を中心に計画的な都市空間が広がる松江城は「面」としての領域支配を体現している。この選択は、堀尾氏が戦国的な価値観から脱却し、近世大名としての新たな統治モデルをこの出雲の地に構築しようとした強い意志の表れに他ならない。

縄張りと設計者・小瀬甫庵

松江城の縄張り(基本設計)は、儒学者、医者、そして軍学者としても高名であった小瀬甫庵(おぜ ほあん)が行ったとされている 。甫庵は堀尾吉晴に仕えた当代一流の知識人であり、その設計は、城郭と城下町を不可分の一体として捉え、高度な防御機能と合理的な都市機能を両立させる、極めて先進的なものであった 。城だけでなく、それを取り巻く都市全体を一つのシステムとしてデザインする思想は、まさに近世城郭の理想形を追求するものであった。

第三章:国家事業としての築城 ― 慶長十二年から十六年、その軌跡

堀尾忠氏の死から3年の準備期間を経て、出雲国の新たな未来を切り拓く一大プロジェクトが、ついにその幕を開けた。以下の年表は、松江城とその城下町が誕生するまでの5年間の軌跡を、当時のリアルタイムな状況として再構成したものである。

西暦 (和暦)

幕府・国内の主要動向

堀尾家の動向

松江城本体の工事進捗

城下町の整備状況

1607年 (慶長12)

徳川家康、駿府城へ移る(大御所政治の開始)

堀尾吉晴が後見人として藩政を掌握

【普請始め】 築城工事開始。本丸・二之丸の地ならし、整地作業 。

城下町の地割り(区画整理)、道路・堀川の掘削開始 。

1608年 (慶長13)

駿府城の普請が本格化

藩内の統治体制を再編

【石垣普請】 本丸・天守台の石垣工事が本格化。穴太衆を招聘 。天守台が完成 。

武家屋敷の建設が進み、家臣の移住が始まる。

1609年 (慶長14)

幕府、篠山城・亀山城の天下普請を命じる。

築城事業に藩の総力を結集

【天守建造開始】 天守台上に天守の建設が始まる。

大手口の枡形、大手前の堀と石垣の工事が進む。

1610年 (慶長15)

幕府、名古屋城の天下普請を命じる。

堀尾吉晴と忠晴、松江城へ移る 。

【主要部の竣工】 天守および三之丸御殿が年末までにほぼ完成 。

主要な塁濠が完成。城下の骨格がほぼ出来上がる。

1611年 (慶長16)

-

1月:天守完成の祈祷。 6月:堀尾吉晴、69歳で死去 。

【完成】 正月吉日に天守が公式に完成 。

富田からの家臣・町人の移住が完了し、松江開府。

慶長12年(1607年) - 普請始め

築城初年度は、全体の地割り(区画整理)と、本丸・二之丸の地ならしといった基礎工事に費やされた 。同時に、城下町の骨格となる道路網の整備や、後に「水の都」の象徴となる堀川の掘削も開始された 。このことから、築城が開始された当初から、城と町が一体の壮大な都市計画の下で建設されたことがわかる。

慶長13年(1608年) - 石垣普請の本格化

2年目に入ると、城の威容と防御力の中核をなす石垣工事が本格化する。この石垣普請は、5年間の全工期のうち3年間を費やしたとされる最重要工程であった 。

  • 専門家集団の招聘 : この難工事を指揮するため、近江国から石垣築成の専門技術者集団である「穴太衆(あのうしゅう)」が招かれた 。彼らの下で、自然石を巧みに組み合わせる「野面積み」や、石の接合部を加工して密着度を高める「打込み接ぎ」といった高度な技術が駆使された。
  • 石材の調達と輸送 : 石材の多くは、松江市東部の大海崎地区などから産出される安山岩(通称・大海崎石)が用いられた 。大橋川に面したこの地域は、切り出した石材を船で工事現場まで効率的に輸送するのに極めて有利な立地であった 。
  • 石垣の刻印 : 石垣の表面には、様々な記号が刻まれた「刻印石」が1,100個以上確認されている 。これらは、石垣普請を担当した複数の工人集団が、自分たちの作業範囲や実績を示すために付けた印と考えられており、当時の工事管理の一端をうかがわせる貴重な史料である 。特に、城の正面にあたる大手筋から二之丸へ至る重要な石垣には、堀尾氏の家紋である「分銅紋」が大きく刻まれており、城主の権威を強く誇示する意図があったと見られる 。

この過酷な工事の士気を維持するために、堀尾吉晴の妻・大方様が「石垣を一つ積んだ者には餅を一つ与える」という、現代で言う出来高払いの報酬制度を導入したという逸話が残っている 。これは単なる美談ではなく、労働者の意欲を最大限に引き出し、5年という短期間での完成に繋がった現実的な労務管理の好例と言える。

慶長14年(1609年)~15年(1610年) - 天守の建造

2年目の工事で完成した堅固な天守台の上に、いよいよ城の象徴である天守の建設が開始された 。天守の部材には、月山富田城から運ばれた古材も再利用されたとみられ、堀尾氏の家紋と富田城の「富」の字が刻まれた柱がその証拠とされている 。慶長15年末までには、天守および藩主の居館となる三之丸の御殿がほぼ竣工した 。

慶長16年(1611年) - 完成と開府

年が明けた慶長16年の正月吉日、天守の完成を祝い、その永続を祈願する儀式が執り行われ、その際に奉納された「慶長十六年」の銘を持つ2枚の「祈祷札」が天守内に納められた。この札が平成24年(2012年)に再発見されたことが、天守の正確な完成時期を確定する決定的証拠となった 。

この年、城下の整備も完了し、月山富田城からの家臣団や町人の移住が完了。名実ともに出雲国の新たな中心地「松江」が誕生した。そして同年6月17日、この大事業の完成を見届けたかのように、松江開府の祖・堀尾吉晴は69歳でその生涯を閉じた 。

第四章:戦国の記憶を宿す要塞 ― 国宝・松江城天守の構造と防御機構

松江城天守は、平和な時代の到来を告げる一方で、戦国乱世の記憶を色濃く留めた、極めて実戦的な要塞として設計された。その構造には、当時の最先端技術と、限られた条件下での創意工夫が見事に融合している。

天守の構造と外観

松江城天守は、外観が四重、内部が五階、そして地下一階を持つ「望楼型天守」に分類される 。白漆喰の優美な壁を持つ姫路城などとは対照的に、壁面の大部分が黒い下見板張りで覆われているのが大きな特徴である 。この黒く武骨な外観は、実戦を第一に考えた質実剛健な気風を象徴している。一方で、屋根には千鳥が羽を広げたように見える優美な「入母屋破風」が効果的に配置されており、そこから「千鳥城」の別名が生まれた 。

国宝指定の決め手となった独自技術

平成27年(2015年)に松江城天守が国宝に指定された際、その歴史的価値を裏付けたのが、独自の建築技術であった 。

  • 通し柱 : 天守の構造的安定性を飛躍的に高めるため、一階から二階、三階から四階をそれぞれ一本の長い柱で貫く「通し柱」の技法が多用されている 。これは、巨大な木造建築を地震などの揺れに強く、堅牢に組み上げるための先進的な工夫であった。
  • 包板(つつみいた) : 天守を支える全308本の柱のうち130本には、柱の側面に厚い板を複数枚貼り付け、鎹(かすがい)や鉄の輪で強固に固定する「包板」という補強が施されている 。これは、必ずしも良質で長大な木材が十分に確保できなかったという現実的な制約の中で、既存の材を最大限に活用し、強度を高めるための独創的な工夫であった。

これらの技術は、理想的な堅牢性を追求する先進性と、限られた資材という現実的な制約の中で最高の性能を引き出すための合理的な解決策が共存していたことを示している。幕府の全面支援による「天下普請」の城とは異なる、一外様大名による築城のリアルな姿を物語る貴重な証拠である。

「戦う城」としての防御機構

松江城天守は、あらゆる方向からの攻撃を想定した、鉄壁の防御システムを備えている。

  • 入口の防御 : 天守への入口は、直接天守に入るのではなく、まず「附櫓(つけやぐら)」と呼ばれる付属の櫓を通らなければならない。内部は「枡形(ますがた)」というクランク状の狭い空間になっており、敵兵の突進力を削ぎ、三方の壁に設けられた狭間から集中攻撃を加えるための巧妙な構造となっている 。
  • 壁面の備え : 天守の壁面には、石垣を登ってくる敵を真上から石や熱湯で攻撃するための「石落とし」や、鉄砲や弓矢を射撃するための「狭間(さま)」が多数設けられている 。特に4階には94箇所もの狭間が集中しており、高い戦闘能力を誇る 。
  • 籠城戦への備え : 天守の地下一階には、兵糧を備蓄する塩蔵と共に、長期の籠城戦を想定した井戸が掘られている。天守閣の内部に井戸を持つ城は全国でも名古屋城など数例しかなく、松江城が徹底した実戦本位の思想で設計されたことを象徴している 。

第五章:水の都の誕生 ― 城下町建設というもう一つの戦い

松江城築城は、城郭本体の建設に留まらず、その周辺に新たな都市を創造するという、もう一つの壮大な事業でもあった。それは、自然の地形を巧みに利用し、改造する大規模な「国土開発」であった。

堀川の多面的機能

松江の城下町を最も特徴づけているのは、城を取り囲み、町中を縦横に巡る堀川の存在である。この堀川は、単一の目的で作られたものではなく、複数の機能を併せ持つ高度な社会インフラであった 。

  1. 防御機能 : 城を幾重にも囲む外堀として、敵の侵入を阻む第一の防御ラインを形成した。
  2. 舟運機能 : 宍道湖と中海を結ぶ水上交通網として、年貢米や各種物資を城下へ運び込む経済の大動脈となった。
  3. 治水機能 : 築城前の末次が低湿地帯であったため、堀川は余分な水を排出し、洪水を防ぐための巨大な排水路としての役割も果たした。

堀の掘削で出た膨大な量の土砂は、城内の土塁や武家屋敷地の造成(盛土)に再利用されており 、極めて合理的かつ無駄のない土木計画であったことがわかる。低湿地という不利な条件を、堀川というインフラを整備することで、逆に「水の都」という独自の強みに転換させたのである。

計画的な都市ゾーニングと軍事的意図

城下町は、大橋川を境として南北で大きくその性格が異なり、厳格なゾーニング(区画分け)が行われていた 。

  • 川北地区 : 城郭を中心に、その直近を重臣や上級武士の屋敷地(武家地)が固め、さらにその外側を職人や商人の住む町人地が取り囲むという、典型的な城下町の構造をしていた。
  • 川南地区 : 堀はないものの、町人地と、防衛拠点としての役割を担う21もの寺院が計画的に配置され(寺町)、さらにその南には下級武士の屋敷地が広がっていた。

また、町全体の設計には明確な軍事的意図が見られる。城下へ至る道は、敵が直進しにくいように意図的に見通しの悪い「鉤型(かぎなり)」に曲げられていた 。さらに、城下町の東端や、最も侵攻が予想された南方の寺町エリアなど、戦略的に重要な地点には、有力家臣の屋敷や寺院が防衛拠点として配置されており、町全体が一種の要塞として機能するよう設計されていたのである 。

終章:堀尾氏の夢の跡 ― 受け継がれる城と町の遺産

堀尾氏三代の終焉

松江城を完成させ、水の都の礎を築いた堀尾氏の治世は、しかし長くは続かなかった。初代藩主と目される忠氏の早世、二代目・忠晴を後見した吉晴の死、そして三代目となった忠晴に跡を継ぐ男子がなく、寛永10年(1633年)、堀尾家は嗣子断絶により改易となる 。三代、わずか33年間の統治であった。

京極氏、そして松平氏の時代へ

堀尾氏の後、若狭国小浜から京極忠高が入封するが、わずか3年後の寛永14年(1637年)に嗣子なく死去し、京極家も一代で松江を去る 。その翌年の寛永15年(1638年)、徳川家康の孫にあたる松平直政が、信濃国松本から十八万六千石で入封する。以後、明治維新に至るまでの234年間、松平氏十代が松江藩を治め、この地は山陰地方における政治・経済・文化の中心地として栄えた 。

戦火を免れた幸運と現代的価値

堀尾氏によって戦国の気風を色濃く残して築かれた松江城であったが、一度も実戦を経験することなく、平和な時代の藩政の中心としてその役割を果たし続けた。明治維新後の廃城令により全国の城郭が次々と取り壊される中、松江城天守だけは旧藩士や地元有志の熱心な保存活動によって解体を免れ、山陰地方唯一の現存天守として今日にその姿を伝えている 。

統治者が代わっても、堀尾氏と小瀬甫庵が描いた城と町の基本構造が大きく変更されることはなかった。この事実は、当初の都市計画がいかに優れ、完成度の高いものであったかを物語っている。それは、一代の権力者の記念碑ではなく、二百数十年におよぶ藩経営を支えうる、持続可能な社会基盤であったことの証明に他ならない。その比類なき歴史的価値が再評価され、平成27年(2015年)、松江城天守は名実ともに日本の至宝として、国宝に指定されたのである 。

引用文献

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  43. https.www.shiseki-chikei.com/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E4%B8%89%E7%99%BE%E8%97%A9-%E5%9F%8E-%E9%99%A3%E5%B1%8B/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%9C%B0%E6%96%B9%E3%81%AE%E8%AB%B8%E8%97%A9/%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E8%97%A9-%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C/
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