最終更新日 2025-10-06

桑名宿整備(1601)

桑名宿は、1601年に徳川家康が関ヶ原後の国家戦略として整備。陸海交通の要衝に本多忠勝を配し、「慶長の町割」で城下町・宿場町を建設。軍事、経済、行政を統合し、徳川支配の確立と繁栄の礎を築いた。
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慶長六年の桑名経営:徳川覇権の礎石としての宿場整備と都市改造

序論:関ヶ原の戦い直後における桑名の戦略的価値

慶長6年(1601年)は、日本の歴史における画期的な年である。前年の慶長5年(1600年)9月15日に行われた関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康率いる東軍が勝利を収め、家康は事実上の天下人としての地位を確立した 1 。しかし、この勝利は徳川による盤石な支配体制の即時完成を意味するものではなかった。豊臣秀頼は依然として母・淀殿とともに巨城・大坂城にあり、西国には豊臣恩顧の大名が多数存在していた 3 。徳川の覇権は未だ確立途上にあり、世情は依然として戦国の延長線上にある、極めて流動的かつ緊張をはらんだ状況にあったのである 5

このような過渡期において、伊勢国桑名は、徳川家康の天下統一事業における地政学的な要衝として、比類なき戦略的価値を有していた。桑名は、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が伊勢湾に注ぐ広大な河口デルタ地帯に位置し、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈である東海道が通過するだけでなく、美濃路や伊勢路が交差する陸上交通の結節点であった 7 。同時に、伊勢湾を介した海上交通の拠点でもあり、古くから港町として繁栄していた 4 。この地理的特性は、徳川政権にとって、西国大名を監視・牽制し、有事の際には迅速な軍事行動を展開するための軍事拠点として、また、全国の物流と情報を掌握するための経済・交通拠点として、極めて重要であった。

本報告書は、慶長6年(1601年)に開始された「桑名宿整備」を、単なる交通インフラの整備という一面的な事象としてではなく、戦国から江戸への移行期という特異な時代背景の中で、徳川家康がいかにして軍事的成功を恒久的な政治支配へと転換させようとしたかを示す、多角的かつ総合的な国家プロジェクトとして分析・解明することを目的とする。特に、事変のリアルタイムな時系列を可能な限り再現し、その背後にあった家康の壮大な国家構想と、それを具現化した本多忠勝の卓越した統治手腕を明らかにすることに主眼を置く。

第一章:徳川家康の天下布武と国家構想

1.1. 関ヶ原の戦後処理と徳川による新たな秩序形成

関ヶ原の戦後、徳川家康は迅速かつ断固たる戦後処理に着手した。西軍に与した大名に対し、大規模な改易(領地没収)や減封、転封(領地替え)を断行する一方で、東軍に味方した大名には加増を行った。これにより、江戸を中心として、親藩(徳川一門)や譜代大名(古くからの家臣)を戦略的に配置し、外様大名(関ヶ原以降に従った大名)を江戸から遠い西国や東北に置くという、全国的な大名配置の再編を成し遂げた 6 。これは、徳川家による武力支配を盤石にするための、巧みな地政学的戦略であった。桑名に徳川四天王の一人である本多忠勝を配置したのも、この大戦略の重要な一環であったことは言うまでもない。

さらに家康は、武力による支配と並行して、新たな支配体制の制度的構築にも着手した。朝廷に対しては、その伝統的権威を尊重する姿勢を見せつつも、慶長18年(1613年)の「公家衆法度」や元和元年(1615年)の「禁中並公家諸法度」によってその行動を厳しく制限し、政治的影響力を削いでいった 6 。京都には所司代を設置し、朝廷や西国大名の動向を常に監視する体制を敷いた 9 。これらの政策は、天皇や公家を幕府の統制下に置き、武家政権が日本の最高統治機関であることを明確にするためのものであった。

1.2. 全国支配のインフラストラクチャー:五街道整備と宿駅伝馬制度

新たな国家秩序を全国の隅々にまで浸透させるためには、物理的なインフラストラクチャーの整備が不可欠であった。家康が関ヶ原の勝利の直後から着手したのが、全国的な交通網の整備である。慶長6年(1601年)正月、家康は東海道の各宿場に対し、公用の人馬を常備させる「宿駅伝馬制度」を正式に定めた 2 。これは、江戸の日本橋を起点とする五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)整備の嚆矢であり、幕府の命令や公文書、物資を迅速かつ確実に全国へ輸送するための国家的プロジェクトであった 5

この制度により、各宿駅には公用旅行者のための人馬(伝馬)を常に36匹準備することが義務付けられ、体系的な公的交通・通信網が構築された 11 。これにより、中央(江戸幕府)からの指令が地方へ迅速に伝達され、地方からの情報が中央へ集約されるという、中央集権的な支配体制の物理的基盤が確立された。桑名宿もまた、この慶長6年の制度制定時に、東海道の正式な宿駅として指定されたのである 7

1.3. 桑名宿整備の戦略的位置づけ

桑名宿の整備は、この全国的な交通網整備計画の中でも、特に重要な戦略的位置を占めていた。それは単に旅人の利便性を向上させるためのものではなく、徳川の支配が全国に及ぶことを物理的に示す象徴的事業であった。そして何よりも、依然として脅威であり続ける大坂の豊臣氏をはじめとする西国勢力への睨みを利かせるための、兵站線確保という極めて強い軍事的意図を含んでいた。

慶長6年という年に、東海道宿駅制度の制定、徳川四天王筆頭である本多忠勝の桑名入封、そして桑名における大規模な都市改造計画の開始という三つの事象が、ほぼ同時に、かつ連動して行われた事実は、決して偶然ではない。これらは、関ヶ原における軍事的勝利という一過性の成功を、恒久的かつ安定的な政治支配へと転換させるための、家康による周到に計画された「国家改造プロジェクト」の第一フェーズであったと結論付けられる。すなわち、桑名という一点において、①軍事的拠点化(本多忠勝と桑名城)、②兵站・情報網の確立(宿駅制度)、③経済的掌握(港湾都市の改造)という三位一体の国家戦略が交差し、具現化されたのである。

第二章:徳川四天王・本多忠勝の桑名入封

2.1. なぜ本多忠勝だったのか

徳川家康が、国家の将来を左右する重要拠点・桑名の経営を誰に託したかという事実は、この事業の重要性を物語っている。その人物こそ、徳川四天王の一人に数えられ、生涯57度の合戦に参加しながら一度も傷を負わなかったと伝えられる猛将、本多忠勝であった 14 。忠勝は、長篠の戦いをはじめとする数々の合戦で目覚ましい武功を挙げ、敵である豊臣秀吉からも「東国無双の大将」と称賛されたほどの武勇の士であった 15

しかし、家康が忠勝を選んだ理由は、その武勇だけにあったわけではない。忠勝は、武将としてだけでなく、優れた治世家としての能力も兼ね備えていた。彼はそれ以前に、上総国大多喜(現在の千葉県大多喜町)の城主として城下町の整備に手腕を発揮しており、都市計画や領国経営においても高い実績を持っていたのである 16 。大坂の豊臣氏に対する最前線であり、複雑な利害が絡み合う交通の要衝である桑名を経営するには、軍事的な威圧能力と、都市をゼロから構築し、経済を振興させる高度な行政手腕の両方が不可欠であった。家康は、この困難な任務を遂行できる人物は、最も信頼する腹心であり、武勇と統治能力を併せ持つ忠勝以外にいないと判断したのである。

2.2. 桑名10万石への封入に込められた意図

慶長6年(1601年)、本多忠勝は伊勢桑名に10万石で入封した 7 。この配置には、家康の明確な戦略的意図が込められていた。第一に、そして最も重要なのは、軍事的な意図である。桑名は、大坂城にいる豊臣秀頼に対する東からの包囲網の最前線であり、西国への強力な抑えとなる拠点であった 4 。徳川最強の武将をこの地に置くことで、西国の豊臣恩顧大名に対する無言の圧力とし、その蠢動を封じ込める狙いがあった。

第二に、経済的な意図である。桑名は古くから商業が発達した豊かな港町であり、その経済力は大きな魅力であった 8 。この地の経済を徳川政権の直接的な管理下に置き、その富を新たな支配体制の財政基盤に組み込むことは、幕府の安定にとって不可欠であった。忠勝には、桑名の経済を活性化させつつ、それを徳川の支配下に統合する役割が期待された。

2.3. 忠勝着任直後の桑名:「十楽の津」の遺制

忠勝が新たなる領主として足を踏み入れた桑名は、単なる一地方都市ではなかった。戦国時代の桑名は「十楽の津(じゅうらくのつ)」と呼ばれ、特定の領主による強力な支配を受けず、商人たちが自由な取引を行う自治都市として繁栄していた 8 。当時、多くの都市では「座」と呼ばれる同業者組合が商業を独占し、厳しい制約があったが、桑名ではそのような縛りがなく、誰でも自由に商売ができる「楽市楽座」的な気風に満ちていた 19

この自由な気風は、桑名に独自の活力と富をもたらしたが、徳川家康が目指す中央集権的な幕藩体制とは相容れないものであった。戦国時代の「力の空白」が生んだ自治都市の存在は、全国の土地と人民を幕府の一元的な管理下に置こうとする徳川の支配秩序にとって、克服すべき課題であった。したがって、本多忠勝の桑名入封は、単なる軍事拠点化に留まらず、中世以来の自治的共同体を解体し、徳川の支配秩序を末端まで浸透させるという、社会構造の根本的変革を意図したものであった。忠勝が直面したのは、この旧来の秩序と気風が根付いた都市を、近世的な「城下町」へと再編するという、極めて壮大かつ困難な課題だったのである。

第三章:「慶長の町割」-桑名大変革の時系列分析

本多忠勝による桑名経営の中核をなすのが、後に「慶長の町割(けいちょうのまちわり)」と呼ばれる大規模な都市改造計画である。この事業は、関ヶ原の戦いの翌年という、まさに時代の転換点において、驚くべき速度と計画性をもって断行された。藩政史料などを基に、そのリアルタイムな進行を追う。

表1:慶長6年(1601年)桑名宿整備・関連年表

年月日

出来事

意義・目的

関連資料

慶長5年9月15日

関ヶ原の戦い

徳川家康が事実上の天下人となる。

1

慶長6年正月

東海道宿駅伝馬制度の制定

全国交通網整備の開始。公用交通の円滑化。

10

慶長6年

本多忠勝、伊勢桑名10万石に入封

対大坂の軍事的拠点化、交通の要衝掌握。

4

慶長6年5月末

忠勝、「桑名町割の事」を命じられる

幕府による桑名都市改造計画の正式な発令。

21

慶長6年6月18日

普請開始

桑名城及び城下町建設の着工。

21

慶長6年~

桑名城の築城

揖斐川沿いに4重6階の天守、51の櫓を持つ大規模な城郭を建設。

17

慶長6年~

「慶長の町割」の実行

既存家屋・蔵の破壊、全住民の立ち退き、新街路の建設。

13

慶長10年(1605)

多度大社の社殿再建

忠勝の寄進による。領民の慰撫と支配の正当性確保。

4

慶長15年(1610)頃

桑名城の主要部分が完成

約10年を要して城郭が完成。

8

3.1. 【発令】慶長6年5月末:桑名大変革の号砲

藩政史料である『慶長自記』には、本多忠勝が慶長6年5月の末に「桑名町割の事、被仰付(おおせつけられ)」と記録されている 21 。これは、桑名の都市改造が忠勝個人の発案ではなく、徳川家康、すなわち事実上の幕府からの直接的な命令による国家事業であったことを明確に示している。関ヶ原の戦後処理が一段落し、新たな国家建設へと舵を切った家康の強い意志が、この命令の背景にはあった。

3.2. 【着工】慶長6年6月18日:破壊からの創造

命令からわずか1ヶ月足らずの6月18日、普請は開始された 21 。この驚異的な迅速さは、計画が事前に周到に練られており、忠勝が入封と同時に実行に移せる体制が整っていたことを物語る。そして、その手法は極めて徹底したものであった。『慶長自記』は「町中家蔵こぼち、春日の内に小屋をさし、取はらい」と記す 21 。これは、既存の家や蔵をことごとく「こぼち(破壊し)」、住民を一時的に立ち退かせた上で、都市をゼロベースで再構築するという、大胆不敵なものであった 13 。この徹底的な破壊は、単なる物理的な再開発ではない。それは、中世の自由港「十楽の津」以来の都市構造と、そこに根付いた社会秩序を根底から覆し、徳川の新たな支配秩序を刻み込むための、象徴的な行為でもあった。

3.3. 【設計】近世城下町のグランドデザイン

破壊された土地の上に、忠勝は近世城下町としての新たなグランドデザインを描いた。その設計思想は、多岐にわたる目的を統合した、極めて高度なものであった。

  • 軍事的防御思想 : 城下町の防御力を高めるため、街路は意図的に見通しの悪いクランク状(いわゆる「鉤の手」)に設計された 23 。これにより、万が一敵が侵入しても、その進軍を妨げ、迎撃を容易にする工夫が凝らされていた。
  • 身分制秩序の空間的具現化 : 新たな町は、城郭を中心に、東側に武家屋敷、西側に町人の居住・商業区域である町屋を配置するという、明確なゾーニング(区域分け)が行われた 24 。これは、武士を支配階級とする厳格な身分制社会を、都市空間そのものに反映させるものであり、徳川の支配イデオロギーを可視化する試みであった。
  • 産業振興策としての職能集住 : 城下町の経済的繁栄を促すため、同業の職人や商人を特定の町に集住させる政策が取られた。これにより、鋳物師や鍛冶屋、染物屋などが集まる鍛冶町、鍋屋町、紺屋町、あるいは商業の中心となる油町、魚町、そして宿場機能の中核を担う伝馬町といった、職能別の町が計画的に形成された 25 。これらの町名は、400年以上を経た現代の桑名市にも受け継がれている。

3.4. 【実行】複合的都市開発プロジェクト

「慶長の町割」は、単なる区画整理事業ではなかった。それは、桑名城の築城、そして大規模な治水事業と一体となった、複合的な都市開発プロジェクトであった。

  • 桑名城築城 : 忠勝は入封直後から、揖斐川の河畔に壮大な城郭の建造を開始した 17 。完成した桑名城は、4重6階の天守閣、51基の櫓、46基の多聞(長屋状の防御施設)を備え、三方を川と海に囲まれた堅固な水城であった 17 。その威容は「海道の名城」と称賛された 8 。この大規模な築城普請には、同じく徳川四天王の一人である井伊直政が家臣を派遣して協力したという逸話も残っており、徳川家全体にとっての重要プロジェクトであったことが窺える 17
  • 治水事業 : 桑名は古くから木曽三川の氾濫による水害に悩まされてきた土地であった。忠勝は、当時、市街地に向かって蛇行していた町屋川の流路を南へ大きく付け替えるという、大規模な治水事業を断行した 4 。これにより、洪水のリスクを大幅に軽減すると同時に、その旧河道や新たな流路を城の外堀として利用するという、治水と防衛を巧みに両立させる、極めて合理的かつ効果的な事業を成し遂げたのである 26

3.5. 【完成への道程】継続するまちづくり

「慶長の町割」は、慶長6年という一年だけで完了したわけではない。それは、その後も長年にわたって続けられた、継続的なまちづくりの始まりであった 13 。忠勝は、鉄砲の製造のために鋳物師を招聘するなど、領内の産業育成にも積極的に取り組んだ 4 。また、織田信長の伊勢侵攻によって焼失していた地域の信仰の中心、多度大社の社殿を、莫大な寄進によって慶長10年(1605年)に見事に再建した 4 。これは、領民の心を慰撫し、新たな支配者としての正当性を確立するための、巧みな宗教政策でもあった。これらの多角的かつ統合的なアプローチは、忠勝が単なる武将ではなく、軍事、行政、経済、土木、そして宗教政策までを視野に入れた、卓越した都市プランナーであったことを証明している。

第四章:渡海拠点としての機能強化と「七里の渡し」

桑名宿を他の宿場町と一線を画す存在たらしめていたのが、東海道で唯一の海上ルートであった「七里の渡し」の存在である。この海路の整備と管理体制の確立は、徳川政権による全国交通網支配の鍵を握る、極めて重要な戦略であった。

4.1. 東海道唯一の海路「七里の渡し」

東海道は江戸と京都を結ぶ陸路の大動脈であるが、宮宿(現在の名古屋市熱田区)と桑名宿の間だけは、約七里(約27キロメートル)の伊勢湾を船で渡る必要があった 4 。この「七里の渡し」は、旅人にとって風光明媚な船旅を提供する一方で、天候に左右されやすく、また、徳川政権にとっては陸路と分断された管理の難しい区間でもあった。この海路をいかにして支配下に置くかが、東海道全体の交通網を掌握する上での課題であった。

4.2. 渡船場の整備と海路の統制

本多忠勝が実行した「慶長の町割」と桑名城の築城計画において、この課題に対する明確な回答が示されている。彼は、桑名城の城郭に隣接し、その防御機能の内に抱え込むような形で、七里の渡しの船着場を計画的に整備した 7 。これにより、渡船場は桑名藩の直接的かつ厳重な管理下に置かれることになった。

この配置が持つ意味は大きい。それは単に旅人の安全や利便性を図るというレベルに留まらない。徳川方が、この海路を通過する人、物、情報のすべてを完全に掌握することを意味した。平時においては、参勤交代で往来する大名行列や公用の飛脚、一般の旅人の通行を円滑にし、経済を活性化させる 28 。しかし、ひとたび有事(例えば後に起こる大坂の陣)となれば、この渡船場は強力な軍事施設へと変貌する。西国からの物資や人員の移動を水際で遮断する関所として、あるいは逆に、江戸からの大軍を迅速に海上輸送するための軍港として機能するのである。これは、陸路と海路を桑名城という軍事拠点でシームレスに接続し、一元的に管理する「陸海統合交通ネットワーク」の構築であり、物理的な交通支配を通じて、経済的・軍事的覇権を確立しようとする高度な戦略であった。

4.3. 伊勢国の玄関口としての象徴性

さらに、徳川政権はこの交通支配に象徴的な権威を付与することも忘れなかった。七里の渡しの桑名側船着場には、「伊勢国一の鳥居」が建立された 4 。これは、この地が伊勢神宮へと続く伊勢路の正式な入り口であることを示す、神聖な意味を持つ建造物である。この鳥居は、後世、伊勢神宮の式年遷宮ごとに内宮の宇治橋の鳥居が移築されるという慣わしが定着した。

徳川政権が、その支配の象徴である桑名城の麓に、全国的な宗教的権威の中心である伊勢神宮への玄関口を設けたことは、極めて示唆的である。それは、徳川の世俗的な権力が、伊勢神宮に繋がる神聖な権威をもその内に取り込み、支配の正当性を補強しようとする意図の表れと解釈できる。桑名における渡船場の整備は、単なる港湾事業ではなく、陸と海、そして俗と聖を統合し、徳川の支配を盤石にするための多層的な戦略だったのである。

第五章:桑名宿の成立と機能

慶長6年(1601年)の宿駅制度制定と「慶長の町割」によって、桑名は近世的な宿場町・城下町としての新たな歩みを始めた。その機能は、大名から庶民まで、あらゆる階層の往来を支える、高度なインフラストラクチャーによって成り立っていた。

5.1. 宿場町のインフラ整備

宿場町の最も重要な機能は、旅人に宿泊施設と休息の場を提供することである。慶長6年の制度制定に伴い、桑名宿にもそのための施設が整備されていった。特に重要だったのが、大名や公家、幕府の役人といった高位の身分の者が宿泊するための「本陣」および「脇本陣」であった 28 。これらの施設は、参勤交代が寛永12年(1635年)に制度化されると、その重要性を一層増していく。桑名宿では、大塚家や丹羽家が本陣を、服部家、萬屋、駿河屋、佐渡屋などが脇本陣を経営したと記録されている 28 。一般の旅人は「旅籠」と呼ばれる宿泊施設を利用した。これらの施設の整備は、「慶長の町割」による都市計画と並行して進められ、桑名の宿場町としての骨格を形成していった。

5.2. 伝馬制度の運用

宿場町のもう一つの重要な機能は、公用の通信・輸送を担う伝馬制度の運用である。桑名宿は、幕府の公用書状や荷物を、人馬をリレー方式で次の宿場まで迅速に運ぶという重責を担った 11 。これにより、江戸と京・大坂を結ぶ情報伝達の速度と確実性は、戦国時代とは比較にならないほど飛躍的に向上した。城下町に「伝馬町」という地名が設けられ、現在まで残っていることからも 25 、伝馬役を専門に担う人々が集住する区画が計画的に配置され、彼らが宿場機能の中核を担っていたことがわかる。

5.3. 繁栄の頂点:天保期の記録から見る桑名宿

慶長6年の整備から約240年の時を経た天保14年(1843年)に幕府が作成した『東海道宿村大概帳』は、桑名宿がどれほどの繁栄を遂げたかを客観的な数値で示している。この記録によれば、桑名宿の規模は東海道五十三次の中でも群を抜いていた。

表2:桑名宿の規模(天保14年『東海道宿村大概帳』より)

項目

桑名宿の数値

備考(東海道における位置づけ)

関連資料

本陣

2軒

標準的な規模

8

脇本陣

4軒

小田原宿と並び最多(第1位)

28

旅籠

120軒

第2位の規模

8

人口

8,848人(町方)

大規模な宿場町

8

家数

2,544軒(町方)

大規模な宿場町

8

この表が示す通り、特に脇本陣の数4軒は東海道で最多、旅籠の数120軒も2番目の規模を誇っていた 28 。これは、桑名が単なる通過点ではなく、多くの人々が滞在する目的地であり、陸路と海路が交差する交通のハブとして、比類なき賑わいを見せていたことを物語っている。当時の桑名全体の人口は、武家屋敷に住む人々も含めると約2万2千人に達しており 8 、地方都市としては破格の規模であった。慶長6年(1601年)に徳川家康と本多忠勝が描いた都市計画が、2世紀半の時を経て見事な繁栄として結実したことを、これらのデータは雄弁に物語っているのである。

結論:戦国の終焉を告げる総合的都市プロジェクト

慶長6年(1601年)に開始された桑名宿整備は、東海道の一宿場を設けたという単一のインフラ整備事業として捉えるべきではない。本報告書で詳述した通り、それは関ヶ原の戦いを経てもなお残存する戦国の気風と旧勢力を払拭し、徳川による新たな支配秩序を確立するための、 軍事、政治、経済、社会、そして文化をも統合した、極めて高度な総合的国家プロジェクト であった。

この事業の核心は、徳川家康の壮大な国家構想と、それを桑名という具体的な場所で具現化した本多忠勝の卓越した統治手腕にある。忠勝が断行した「慶長の町割」は、中世の自由港「十楽の津」を物理的にも社会的にも解体し、徳川の支配イデオロギーを体現する近世の城下町・宿場町へと、わずか数年のうちに生まれ変わらせた 8 。城の築城、大規模な治水、産業振興、そして寺社の復興までを連動させたその手法は、戦国時代の場当たり的な領国経営とは一線を画す、長期的視野に立った都市経営のモデルであった。

桑名における一連の事業は、時代の転換点を象徴する出来事であったと言える。そこには、戦国の論理(対豊臣を念頭に置いた軍事拠点の構築と敵対勢力の封じ込め)と、近世の論理(交通網の整備による中央集権化と経済の活性化)が見事に融合している。それは、徳川家康が目指した武力と制度による「泰平の世」の礎石の一つであり、戦国という時代の真の終わりと、260年以上にわたる新たな時代の始まりを告げる、壮大な都市経営の記録なのである。桑名宿整備の成功は、その後の江戸幕府による全国支配のプロトタイプとなり、日本の近世社会のあり方を決定づける上で、重大な意義を持つものであったと結論付けられる。

引用文献

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  6. 徳川家康がしたこと、功績や政策を簡単にわかりやすくしたまとめ - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/ieyasu-achieved
  7. 桑 名 木曽三川の河口に位置し 七里の渡しの船着場がある城下町 桑名のまちあるき http://www2.koutaro.name/machi/kuwana.htm
  8. 桑名市の町並み http://matinami.o.oo7.jp/tyubu-tokai2/kuwana.htm
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  14. 柿安コミュニティパーク(吉之丸コミュニティパーク) | 観光スポット | 観光三重(かんこうみえ) https://www.kankomie.or.jp/spot/8294
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  26. 本多忠勝は武辺だけではない...三重県・桑名市にみる「家康を支えた街づくり」 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10610
  27. 桑名城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/kuwana/kuwana.html
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