桑名湊整備(1601)
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慶長六年の桑名大変革:本多忠勝による湊・城・町の統合的再設計
序論:慶長六年の桑名、変革前夜
慶長六年(1601年)、伊勢国桑名で断行された一連の都市改造事業は、単なる港湾整備という言葉では到底捉えきれない、壮大な構想に基づいた近世都市創生の物語です。この事業を深く理解するためには、まず、変革前夜の桑名がどのような土地であったかを知る必要があります。そこには、徳川家康と本多忠勝が着目せざるを得なかった、類稀なるポテンシャルが秘められていました。
中世・戦国期における桑名の特質
桑名の地理的特質は、木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が伊勢湾に注ぐ広大な河口デルタ地帯に位置することにあります 1 。この立地は、古くから桑名を水運の要衝たらしめていました。記録を遡れば、平安時代末期には既に「星川市庭」と呼ばれる物資交換の市場と港が存在したことが確認されています 3 。
時代が下り、中世末期になると、桑名の重要性はさらに増します。伊勢湾内の海上交通ネットワークの中心地であると同時に、鈴鹿山脈を越えて近江へと至る陸上交通路との結節点となり、名実ともに関西と東海を結ぶ一大拠点として機能していました 4 。
戦国乱世の只中にあっても、桑名はその経済的重要性を背景に、特異な発展を遂げます。強力な支配者に服属しない、町衆による自治が行われる「自由都市」としての性格を帯び、日本有数の港湾都市として繁栄を謳歌していました 5 。室町時代後期の連歌師・宗長が「港の広さ5・6町、寺々家々数千軒立ちならび、数千艇の船が橋の下に広く停泊していた」と記したように、その賑わいは全国に知られていました 6 。
織田・豊臣政権下の桑名
しかし、天下統一の奔流は、この自由な港町を無関係のままには置きませんでした。永禄十年(1567年)以降、織田信長が伊勢への侵攻を開始し、特に天正二年(1574年)の長島一向一揆の鎮圧に至る過程で、桑名は信長の強力な武力支配下に組み込まれていきます 5 。これにより、桑名は自治都市から、武家政権が管理する軍事・政治の拠点へと、その性格を大きく変容させ始めたのです。
信長の後を継いだ豊臣秀吉もまた、桑名の戦略的重要性を深く認識していました。秀吉の時代には、一柳氏や氏家行広といった大名が城主として配置され、伊勢神戸城から天守を移築するなど、限定的ながらも城郭の整備が進められました 1 。これらの動きは、来るべき本多忠勝による未曾有の大改造の、いわば素地を形成する前史として極めて重要です。
このように、慶長六年の変革は、全くの無から有を生み出したものではありませんでした。それは、桑名が古代から連綿と育んできた「交通結節点」および「港湾都市」としての卓越したポテンシャルを、関ヶ原の戦いを経て確立されつつあった徳川の新たな天下秩序の中に最適化し、その価値を最大化するための、歴史の必然ともいえるプロセスだったのです。信長、秀吉が軍事的に支配下に置いたとはいえ、その都市構造は依然として「雑然とした町人自治の港町」の様相を色濃く残していました 5 。全国規模での恒久的な支配体制の構築を目指す徳川家康にとって、この戦略的要衝を旧来の構造のまま放置することは、断じて許容できるものではありませんでした。したがって、本多忠勝に託された事業は、単なるインフラ整備ではなく、既存の潜在能力を徳川の軍事・経済システムに完全に統合するための、支配体制の物理的な具現化という、より高次の目的を帯びていたのです。
第一章:天下分け目の戦いと本多忠勝の桑名入封
関ヶ原直後の政治情勢と家康の深謀
慶長五年(1600年)九月、関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の圧倒的な勝利に終わりました。しかし、この勝利は徳川の天下を確定させたわけではなく、むしろ、盤石な支配体制を築き上げるための長い道のりの始まりに過ぎませんでした。家康は戦後、豊臣恩顧の西国大名への警戒を片時も怠りませんでした。特に、依然として大坂城に君臨する豊臣秀頼の存在は、新政権にとって最大の脅威であり続けました。
この天下の趨勢が未だ定まらない緊迫した状況下で、家康が断行したのが、全国規模での戦略的な大名の再配置でした 13 。その中でも、桑名の地は極めて重要な意味を持っていました。桑名は、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈である東海道の要衝に位置します。それだけでなく、伊勢湾の制海権を掌握し、水運を支配する上での鍵となる場所でした。そして何よりも、大坂城の豊臣家や西国大名に対する、徳川方の最前線基地となるべき地だったのです 14 。この地を誰に任せるか。それは、家康の西国経営、ひいては徳川の天下の成否を占う、重大な一手でした。
徳川四天王・本多忠勝の着任
家康がこの最重要拠点に送り込んだ人物こそ、徳川四天王の筆頭にして、生涯五十七度の合戦で一度も傷を負わなかったと伝えられる猛将、本多平八郎忠勝でした 13 。数多いる譜代大名の中から忠勝が選ばれたという事実は、家康が桑名を単なる経済拠点ではなく、有事の際には徳川の命運を左右する極めて重要な軍事拠点と見なしていたことの何よりの証左です。
本能寺の変の際、家康自身が伊勢湾を渡って三河へ逃れた「神君伊賀越え」の経験は、この海域の戦略的重要性を骨身に染みて理解させていたことでしょう 17 。伊勢湾は、大坂方面からの海上交通路を監視し、必要とあらば遮断できる、まさに戦略的な海域でした。忠勝の桑名配置は、徳川家康が西国、特に豊臣家に向けて突きつけた「槍の先」そのものでした。そして、これから始まる桑名の都市改造は、その槍の穂先を鋭く研ぎ澄まし、兵站を確保するための、壮大な兵站基地構築計画と不可分一体のものだったのです。
関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)正月には忠勝の桑名への入部が正式に通達され、同年四月二十四日、忠勝は嫡男・忠政を伴い、桑名城に堂々の入城を果たします 18 。この迅速な動きは、家康の決意の固さと、事態の緊急性を物語っています。
桑名藩十万石の成立
この移封は、忠勝がそれまで領していた上総国大多喜(千葉県)から、石高を大幅に加増された十万石という破格の待遇で行われました 15 。これにより、桑名藩が正式に成立し、本多忠勝はその初代藩主として、この地の未来を一身に担うことになったのです。彼に与えられた使命は、単に一藩を治めることではありませんでした。それは、徳川の天下を盤石にするため、桑名を防衛拠点であると同時に、有事の際には大坂への攻撃拠点ともなりうる、攻防一体の先進基地へと造り変えることでした。
第二章:「慶長の町割り」-近世都市桑名のグランドデザイン
本多忠勝が桑名で着手した事業の中核をなすのが、後に「慶長の町割り」と呼ばれる、大規模かつ計画的な都市再開発です。これは、既存の町並みに手を入れるといった生易しいものではなく、旧来の都市構造を一度完全に解体し、徳川の新たな統治思想に基づいて再設計するという、まさに革命的なプロジェクトでした。
計画の迅速な始動
この事業がいかに周到に準備され、また緊急性の高いものであったかは、その驚異的な実行速度に表れています。忠勝が桑名城に入城したのが慶長六年四月二十四日。そのわずか一ヶ月後の五月には、城下の町割りを断行する命令が発せられ、翌六月には早くも普請(工事)が開始されています 18 。このスピード感は、計画が忠勝の頭の中に、あるいは家康との間で、既に入封以前から練り上げられていたことを強く示唆します。
旧来の都市構造の解体と再構築
「慶長の町割り」の最大の特徴は、その抜本性にありました。「すべての人を立ち退かせて、新しい道路を作った」 4 、「従来からの町の大改造」 20 といった記録が示すように、これは一度町を更地に近い状態にしてから、全く新しい都市を建設するに等しいものでした。
もちろん、この強権的な手法は、古くからこの地に住まう町衆の抵抗に遭ったであろうことは想像に難くありません。事実、「従来から住んでいる町衆は高い土地を譲らず、城は町よりも低い位置で、風下の土地に作られた」という興味深い記録も残っています 20 。これは、忠勝の計画が必ずしも順風満帆ではなかったこと、そして町衆の自治の気風がなお根強く残っていたことを物語る貴重な証言です。しかし、最終的には忠勝の強力なリーダーシップのもと、事業は断行されていきました。
この事業は、単なる都市計画に留まるものではありませんでした。それは、徳川が目指す統治イデオロギーを、物理的な空間に投影する「社会工学」的プロジェクトとでも言うべきものでした。中世以来の混沌とし、自由闊達であった空間は解体され、領主の意図によって隅々まで管理・統制された、近世的な秩序ある空間へと再編されたのです。これはまさに、中世から近世へと時代が大きく転換する、その瞬間を象徴する出来事でした。
治水と防衛を一体化したインフラ整備
「慶長の町割り」の構想の中で、最も天才的と言えるのが、治水と防衛を一体化した大規模なインフラ整備です。忠勝は、当時桑名の町中を流れていた員弁川(町屋川)と大山田川の流れを、人為的に大きく変更するという大胆な策に打って出ました 14 。
この大規模な河川改修は、複数の目的を同時に達成する、極めて合理的なものでした。
第一に、付け替えられた川は、桑名城と城下町全体を囲む壮大な外堀として機能し、都市の防御力を飛躍的に高めました 14。
第二に、木曽三川の河口デルタ地帯である桑名にとって宿命的であった水害の脅威を制御する、大規模な治水事業でもありました。
そして第三に、城下町に清浄な水を供給するための新たな水源を確保する目的も含まれていました。この流れは、後に寛永三年(1626年)に整備される上水道「町屋御用水」の源流となり、桑名の人々の生活を支えることになります 23。
機能性と防御性を両立した都市設計
新たに設計された城下町は、機能性と防御性が見事に両立された、近世城下町の理想形ともいえる構造を持っていました。
- 身分によるゾーニング: 城下町は明確に区画分けされ、城に近い東側には武家屋敷が、西側には町人の居住・商業区域である町屋が配置されました 14 。これは、士農工商という身分秩序を空間的に表現するものでした。
- 産業の集積と統制: 町屋区域では、油町、鍛冶町、魚町といったように、同じ職業の者たちを特定の区画に集住させました 14 。これは、生産効率の向上といった経済合理性だけでなく、領主が商工業を容易に把握し、統制するための仕組みでもありました。
- 軍事思想の徹底: 都市の防御機能は、外堀だけに留まりませんでした。城下町の主要な入口二箇所には寺院が集められ、有事の際には敵の侵入を阻む防衛拠点(駐屯地)として活用できるよう、巧みに配置されました 14 。宗教施設すらも軍事システムの一部として組み込むという、戦国時代を経て確立された実利的な思想がここに見て取れます。さらに街路は、碁盤の目状を基本としながらも、敵の進軍速度を削ぎ、見通しを悪くするために、意図的に丁字路や鍵の手(直角に曲がるクランク状の道)が多用されました 16 。
このように、「慶長の町割り」は、抽象的な社会秩序(身分制度、職業分類、軍事思想)を、堀、道路、区画という具体的かつ物理的な形で、桑名の地に刻み込む壮大な試みだったのです。
第三章:桑名城の大改築-対大坂・西国への戦略拠点
「慶長の町割り」と並行して、あるいはそれに引き続いて、本多忠勝が心血を注いだのが、桑名藩の政庁であり、対西国の軍事拠点の中核となる桑名城の大改築でした。忠勝の手によって、桑名城は単なる地方の城から、徳川の威光を天下に示す東海道随一の名城へと生まれ変わります。
「水城」としての設計思想
忠勝は、桑名城が揖斐川の河口右岸に位置するという地の利を最大限に活用しました 5 。城は川を天然の巨大な堀として利用するだけでなく、城内に直接船が乗り入れられる船着場を整備することで、水運と直結した「水城(みずじろ)」として設計されました 14 。これにより、有事の際には伊勢湾から直接、兵員や物資を城内へ補給することが可能となり、兵站線確保の観点から極めて高い戦略的価値を持つことになりました。
天下に示す威容と規模
慶長七年(1602年)頃から本格化した城の改修工事は、凄まじい規模で進められました。完成した桑名城は、四重六階の壮麗な天守閣を中核に、五十一基もの櫓(やぐら)、そして四十六基の多聞(石垣の上に築かれる長屋状の防御施設)が林立する、一大要塞でした 11 。その威容は、東海道を往来するすべての人々の度肝を抜いたことでしょう。
この築城工事があまりにも大規模であったため、同じく徳川四天王の一人である井伊直政が、自身の家臣団を動員して普請を支援したという逸話が残っています 24 。この事実は、桑名城の築城が本多家の私的な事業ではなく、徳川政権全体がその総力を挙げて取り組んだ国家的な重要プロジェクトであったことを雄弁に物語っています。
城郭の構造と機能
桑名城は、本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪が堀で段階的に囲まれた「梯郭式」と呼ばれる縄張りの平城でした 24 。さらに、城下町の主要部までをも堀と土塁で囲い込む「総曲輪(そうぐる輪)」の構造を持ち、都市全体が一個の巨大な要塞として機能するよう設計されていました 14 。
特に、揖斐川に面して建てられた「蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)」は、桑名城の象徴的な建造物の一つでした。この櫓は、眼下を行き交う船を監視し、湊を防衛するという重要な役割を担っていました 26 。歌川広重が描いた東海道五十三次の浮世絵にも、この蟠龍櫓は印象的に描かれており、当時の人々にとって桑名城がいかに強く記憶に残る存在であったかが窺えます。
この桑名城の壮大さは、単なる軍事的合理性だけでは説明がつきません。それは、計算され尽くした「見せるための要塞」でした。東海道の海上ルート「七里の渡し」を利用して桑名に到着した西国大名や公家、商人たちは、船上から、あるいは上陸してすぐに、目の前にそびえ立つ白亜の巨大な城郭群を目の当たりにすることになります 29 。これは、徳川の圧倒的な権威、財力、そして軍事力を視覚的に誇示するための、意図された景観設計でした。関ヶ原の戦いが終わって間もない、未だ天下が不安定な時期において、物理的な威容によって人々の心に畏敬の念を抱かせることは、謀反を抑止し、新たな秩序への服従を促す上で、極めて効果的な手段でした。桑名城は、いわば石垣と白壁で書かれた、徳川による「天下布武」の宣言書だったのです。
第四章:東海道の要衝「七里の渡し」と桑名湊の機能強化
本多忠勝による桑名改造計画は、城と城下町の整備に留まりませんでした。桑名が持つ最大のポテンシャルである「湊」の機能を強化し、徳川幕府が新たに構築する全国交通網の中核に据えることこそ、この計画の最終的な仕上げでした。
官道「東海道」の一部としての正式な位置づけ
慶長六年(1601年)、桑名の都市改造と時を同じくして、徳川幕府は全国の主要街道を管理下に置くための「伝馬制」を施行し、東海道五十三次の宿駅(宿場町)の設置を開始しました 31 。この国家的な交通インフラ整備計画の中で、桑名は正式に東海道四十二番目の宿場町として指定されたのです 1 。これは、桑名湊が単なる地域の港から、幕府が管轄する公式な交通路「官道」の重要な一部へと、その性格を根本的に変えたことを意味します。
東海道唯一の海上路「七里の渡し」
桑名宿の最大の特徴は、尾張国の宮宿(現在の名古屋市熱田区)との間を結ぶ、東海道で唯一の海上ルート「七里の渡し」の起点であったことです 5 。その距離が約七里(約27キロメートル)であったことからこの名で呼ばれました 31 。
この海上路は、風や波の影響を受けやすく、時には海難事故も発生する東海道最大の難所でした 31 。しかし、陸路で木曽三川の下流域を大きく迂回するのに比べて、所要時間を約4時間へと大幅に短縮できるため、多くの旅人がこのルートを利用しました 31 。この「七里の渡し」の存在が、桑名を他の宿場町とは一線を画す、特別な拠点たらしめていたのです。
湊のインフラと管理体制の整備
本多忠勝は、「慶長の町割り」の一環として、この七里の渡し場周辺のインフラを重点的に整備しました 20 。単に船着場を改修するだけでなく、近世的な管理体制を確立するための施設が次々と設けられました。
- 川口御番所・船番所: 渡船を乗り降りする旅人や貨物を監視・管理し、治安維持を図るための役所が設置されました 20 。
- 高札場: 幕府の法令や禁制を掲示する施設が設けられ、幕府の権威がこの地の隅々まで及んでいることを示しました 31 。
- 船会所(船役所): 渡船業務全体を統括し、船の手配や旅人の受付、公定船賃の徴収などを行う組織が置かれました 20 。
これらの施設の設置は、中世以来の比較的自由であった湊を、幕府が厳格に管理する公式な交通インフラへと完全に組み込む「公式化」と「システム化」の作業でした。これにより、交通の安定供給と安全性が確保され、官道としての東海道の信頼性を高めることに大きく貢献したのです。
経済・文化の集積地へ
宿場町と湊町の機能が一体化した桑名は、人、物資、そして情報が絶えず行き交う、東海地方随一のハブ拠点として、空前の繁栄を迎えます 4 。その賑わいは、宿場内に軒を連ねる旅籠屋(旅館)の数が、広大な宮宿に次いで東海道で第二位の規模を誇ったことからも窺い知ることができます 29 。
また、多くの人々が集まることで、桑名独自の文化も花開きました。伊勢湾で獲れる蛤を焼いて旅人に提供した「桑名の焼蛤」は全国的な名物となり、その名は広く知れ渡りました 4 。桑名は、伊勢神宮への参拝客を迎える伊勢国の玄関口としても重要な役割を担い、渡し場には「伊勢国一の鳥居」が建てられ、旅人たちの信仰心を集めました 31 。こうして桑名は、江戸時代を通じて、経済と文化が交差する活気あふれる都市として発展を続けたのです。
第五章:桑名湊整備の時系列詳解-慶長六年、桑名で何が起きていたか
慶長六年(1601年)という一年は、桑名の歴史において、まさに激動と創造の年でした。本多忠勝という一人の武将の強力なリーダーシップのもと、古い町が解体され、新しい都市の骨格が驚異的な速度で築かれていきました。ここでは、そのリアルタイムな状況を時系列で再構成し、桑名で何が起きていたのかを詳述します。
慶長六年(1601年)桑名大変革 関連年表
時期(西暦/和暦) |
桑名および関連する出来事 |
主要人物 |
意義・背景 |
典拠資料 |
1600年(慶長5年)9月 |
関ヶ原の戦い。徳川家康率いる東軍が勝利。 |
徳川家康、本多忠勝 |
桑名大変革の直接的な契機。戦後処理の一環として、対西国の要である桑名への戦略的大名配置が計画される。 |
13 |
1601年(慶長6年)正月 |
本多忠勝の伊勢桑名十万石への入部が正式に通達される。 |
本多忠勝、徳川家康 |
徳川の西国経営戦略が具体的に始動。忠勝に、桑名を軍事・交通の要衝として再構築する使命が与えられる。 |
18 |
1601年(慶長6年) |
幕府により東海道の伝馬制が実施され、宿駅の設置が始まる。桑名が宿場町に公式指定される。 |
徳川家康 |
桑名の都市改造が、徳川政権による国家的な交通インフラ整備計画と完全に連動していたことを示す重要な出来事。 |
4 |
1601年(慶長6年)4月24日 |
本多忠勝、嫡男・忠政と共に桑名城に正式に入城。 |
本多忠勝、本多忠政 |
忠勝による桑名統治が物理的に開始される。入城した忠勝は、雑然とした港町の現状を目の当たりにし、かねてからの壮大な計画の実行を決意したと推測される。 |
18 |
1601年(慶長6年)5月 |
忠勝、城下の町割り(都市再開発)を命令。 |
本多忠勝 |
「慶長の町割り」プロジェクトの公式な号令。住民に対し、立ち退きを含む抜本的な都市改造計画が布告され、城下は緊張と期待に包まれた。 |
18 |
1601年(慶長6年)6月 |
町割りの普請(工事)が開始される。 |
本多忠勝、桑名町衆 |
命令からわずか1ヶ月で工事着手。旧来の家屋が取り壊され、新たな道路網の建設、そして都市の運命を変える河川の付け替え工事が始まる。 |
18 |
1601年(慶長6年) |
桑名城の本格的な築城(大改築)が開始される。 |
本多忠勝、井伊直政 |
町割り普請と並行し、徳川の威光を示す巨大城郭の建設も開始。徳川政権の国家プロジェクトとしての側面が強い。 |
5 |
1602年(慶長7年)6月 |
城下町の基本的な区画整理が一段落し、桑名城本体の改修作業が本格化する。 |
本多忠勝 |
都市の基本インフラ整備を先行させ、その後、中核施設である城郭の建設に注力するという、合理的で計画的な工程管理が見て取れる。 |
18 |
1603年(慶長8年)6月15日 |
忠勝、将軍・家康の命を受け、桑名の総鎮守である桑名宗社(春日神社)へ百石の寺領を寄進。 |
本多忠勝、徳川家康 |
物理的な支配だけでなく、地域の信仰の中心を保護することで、人心の掌握を図る。領主としての民政的側面を示す。 |
18 |
1605年(慶長10年) |
忠勝、織田信長の兵火で焼失していた多度大社を莫大な寄進により再建。 |
本多忠勝 |
地域の重要な宗教施設を復興させることで、領主としての権威と仁政を領内に広く示す。 |
18 |
1609年(慶長14年) |
本多忠勝、隠居。家督を嫡男・忠政に譲る。 |
本多忠勝、本多忠政 |
桑名の近世都市としての礎をわずか8年で築き上げた後、その統治と発展を次代へと継承。 |
38 |
慶長六年の桑名は、まさに槌音と人々の喧騒が絶えない、巨大な建設現場そのものでした。春、桑名に入った忠勝は、まずこの地の地勢と旧来の町並みを徹底的に調査したことでしょう。そして夏、彼の号令一下、壮大な都市改造が始まります。住民たちは、先祖代々の土地からの立ち退きを命じられ、困惑と反発、そして新しい町への期待が入り混じった複雑な感情を抱いたに違いありません。
工事の中心は、町屋川の流れを変えるという、自然に挑むかのような大土木事業でした。無数の人夫が動員され、新たな流路を掘り、古い川を埋め立てていきました。それと同時に、城下では碁盤の目状の新たな道路が次々と引かれ、武家屋敷、町人地、寺町といった区画が姿を現していきます。その傍らでは、来るべき巨大城郭のための石垣が組まれ始め、桑名の風景は日ごとにその姿を変えていきました。この一連の事業は、単なる建設工事ではなく、徳川の新しい時代が到来したことを、桑名の土地そのものに刻み込む儀式でもあったのです。
結論:本多忠勝が遺したもの-桑名発展の礎
統合的都市開発の完成
慶長六年(1601年)に始まった本多忠勝による一連の事業は、桑名という都市を根底から造り変えました。それは、単なる港湾の整備や城の建設といった個別の事業の集合体ではありませんでした。軍事、政治、交通、経済、そして治水といった、都市が持つべきあらゆる機能を統合的に設計し、一つの壮大なシステムとして完成させる、極めて先進的な都市開発でした。
この結果、桑名は三つの重要な顔を持つ複合機能都市として完成します。
第一に、大坂の豊臣家と西国大名を睨む、徳川の天下を支える強固な「軍事拠点」。
第二に、東海道唯一の海上路を擁し、人・モノ・情報を結節させる「交通・物流の要衝」。
第三に、伊勢湾の水運を活用し、地域の経済活動を牽引する「商業都市」。
これら三つの機能が有機的に連携することで、桑名は江戸時代を通じて他に類を見ない発展を遂げることになったのです。
後世への遺産
本多忠勝が桑名を統治した期間は、慶長十四年(1609年)に隠居するまでのわずか八年余りでした。しかし、この短期間に彼が築き上げた都市の骨格「慶長の町割り」は、その後二百数十年にわたる桑名の繁栄の揺るぎない基盤となりました 4 。
驚くべきことに、忠勝が設計した基本的な街路や区画は、昭和二十年(1945年)の空襲で市街地が大きな被害を受けるまで、ほぼ原型を保ち続けていました 20 。そして、戦後の復興を経た約四百年後の現代桑名市においても、その痕跡は町の随所に色濃く残っています 4 。これは、忠勝の都市計画がいかに合理的で、長期的視点に立脚したものであったかを何よりも雄弁に物語っています。
歴史的意義の再評価
本報告書で詳述してきたように、「桑名湊整備(1601)」という事象は、決して一地方における港湾開発という矮小な枠組みで語られるべきではありません。それは、関ヶ原の戦いという天下分け目の戦いの直後、徳川政権がその支配体制を全国に確立していくまさにその過程で実施された、軍事・政治・経済を統合した国家レベルの都市政策・領国経営の、画期的な成功事例です。
徳川家康の深謀と、本多忠勝という稀代の武将の実行力が結実したこの桑名大変革は、戦国の世が終わり、新たな秩序が形成されていく時代の転換点を象徴する出来事として、日本史において高く評価されるべきであると結論付けます。
引用文献
- 桑 名 木曽三川の河口に位置し 七里の渡しの船着場がある城下町 桑名のまちあるき http://www2.koutaro.name/machi/kuwana.htm
- 熱田ブランド推進プロジェクト “あつた人(びと)”になろう! 桑名の「七里の渡し」 ~本物 https://www.city.nagoya.jp/atsuta/cmsfiles/contents/0000151/151914/040809Report.pdf
- 七和村 - 桑名市 https://www.city.kuwana.lg.jp/brand/bunka/rekishibunkazai/24-11205-234-408.html
- 郷土史研究の歴史(2) - 桑名市 https://www.city.kuwana.lg.jp/brand/bunka/rekishibunkazai/24-11212-234-409.html
- 三重県の城下町・桑名(桑名市)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/castle-town/kuwana/
- 安永餅と旧東海道 - 桑名市 https://www.city.kuwana.lg.jp/hisyokoho/kosodatekyouiku/kidspage/yasunagamoti.html
- 桑名城~三重県桑名市~ - 裏辺研究所 https://www.uraken.net/museum/castle/shiro150.html
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- 【解説:信長の戦い】長島一向一揆(1571・73・74、三重県桑名市) 殲滅までに再三の出陣を要した信長の天敵! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/337
- 沿革 - 桑名市 https://www.city.kuwana.lg.jp/brand/bunka/rekishibunkazai/24-11217-234-410.html
- 桑名城 - asahi-net.or.jp http://www.asahi-net.or.jp/~tq2y-jyuk/kuwana.html
- 桑名城_もっとお城が好きになる http://ashigarutai.com/shiro004_kuwana.html
- 桑名藩〜複数の松平家が治めるをわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/han/197/
- 三重県桑名市の城下町/ホームメイト - 刀剣ワールド桑名・多度 別館 https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-jokamachi/kuwanashi-jokamachi/
- 古城の歴史 桑名城 http://takayama.tonosama.jp/html/kuwana.html
- 桑名の歴史:第3回 桑名宿を築いた名将、本多忠勝とその偉業 - ゴールドライフ https://life.goldage.co.jp/machi-blog/%E6%A1%91%E5%90%8D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%EF%BC%9A%E7%AC%AC%EF%BC%93%E5%9B%9E%E3%80%80%E6%A1%91%E5%90%8D%E5%AE%BF%E3%82%92%E7%AF%89%E3%81%84%E3%81%9F%E5%90%8D%E5%B0%86%E3%80%81%E6%9C%AC%E5%A4%9A/
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