最終更新日 2025-09-12

比叡山焼討(1571)

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元亀二年比叡山焼討ちの多角的分析:その背景、実相、および歴史的意義

序章:仏敵か、改革者か ― 比叡山焼討ちが問いかけるもの

元亀二年(1571年)九月十二日、織田信長が断行した比叡山延暦寺の焼き討ちは、日本史上、類を見ない衝撃的な事件として記憶されている。この事変は、信長を「仏敵」「第六天魔王」として象徴する残虐非道な行為として、後世に強烈な印象を刻みつけた 1 。伝承によれば、数千人にも及ぶ僧侶、俗人、そして女子供までもが無差別に殺害され、伝教大師最澄以来の歴史を誇る壮麗な伽藍がことごとく灰燼に帰したとされる 1

しかし、この通説として語り継がれてきたイメージは、果たして歴史的な実像を正確に伝えているのであろうか。近年の考古学的発掘調査は、伝承とは異なる様相を提示しており、事件の再評価が学術的な潮流となっている 2 。この事件は、単なる信長の激情による破壊行為ではなく、中世的な権威の象徴であった「聖域」が、近世的な統一権力によって無力化される、時代の転換点を画する出来事であった。本報告書は、事件に至る複雑な歴史的背景、当日の詳細な時系列、そして事件がもたらした多岐にわたる影響を、最新の研究成果を交えながら徹底的に検証する。通説と実像の間に存在する乖離を解明するプロセスを通じて、織田信長の真意と比叡山焼討ちという事変の本質に迫ることを目的とする。

第一章:聖域の武装化 ― 焼き討ちに至る比叡山延暦寺の変容

焼き討ちの対象となった延暦寺は、決して無力な宗教施設ではなかった。その実態は、信長の天下統一事業にとって無視できない、強大な政治・経済・軍事力を備えた複合的権力体であった。信長の行動を理解するためには、まずこの「聖域」がいかにして武装化し、一大勢力へと変容したかを把握する必要がある。

聖域の権威と経済力

延暦寺は平安京遷都以来、都の鬼門(北東)に位置し、国家を鎮護する「王城鎮護」の根本道場として、朝廷や武家から篤い崇敬と庇護を受けてきた 5 。その宗教的権威を背景に、全国に広大な寺社領(荘園)を保有し、莫大な経済的基盤を築き上げていた。さらに、琵琶湖の湖上交通の支配権を掌握し、物流の要衝として大きな影響力を行使していた 6 。加えて、蓄積した富を元手に高利貸しなどの金融活動にも手を染め、その富はさらに増大していった 1 。当時の有力寺社は、宗教的権威を盾に、返済が滞れば「仏罰が当たる」と脅して取り立てを行うなど、現代の価値観からは想像しがたい手法で経済活動を展開していたのである 7

軍事勢力としての比叡山

その広大な権益を守るため、寺院が自衛の手段として武装化するのは、戦国乱世においては必然的な流れであった。こうして誕生したのが「僧兵」である 1 。延暦寺の僧兵は数千人を数え、その軍事力は並の戦国大名を凌駕するほどの規模にまで発展した 1 。彼らは自らの要求を朝廷や幕府に認めさせるため、神輿を担ぎ出して都に押し寄せる「強訴」を繰り返し、武力をもって政治的要求を貫徹する、独立した軍事・政治勢力と化していた 9

宗教的権威の揺らぎ

仏道を修行する聖域でありながら、延暦寺は俗世の権力闘争に深く関与し、時には他の宗派を武力で弾圧することも辞さなかった。特筆すべきは天文五年(1536年)の「天文法華の乱」であり、京都で勢力を拡大していた日蓮宗(法華宗)の寺院二十一ヶ寺を焼き払い、数千人ともいわれる信徒を虐殺した事件である 7 。これは、宗教的対立に名を借りた、京都における市場(縄張り)争いであったと指摘されている 7 。また、僧侶の中には仏教の戒律を破り、肉食や女色にふける者もいたとされ、その宗教的権威と内実が著しく乖離していた側面も同時代の記録からうかがえる 9 。このように、焼き討ち直前の比叡山延暦寺は、もはや単なる宗教施設ではなく、信長が目指す中央集権的な国家構想とは根本的に相容れない「独立国家」とも言うべき存在だったのである。

第二章:天下布武の障害 ― 織田信長と宗教勢力の対立構造

織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、「天下布武」の印を掲げて目指したものは、旧来の権威や権力が複雑に分立する中世的体制の打破と、自身を頂点とする権力の一元化であった。その過程において、延暦寺のような独立した巨大寺社勢力との衝突は避けられないものであった。

直接的対立の発生

信長と延暦寺の対立は、焼き討ちの数年前からすでに始まっていた。信長は寺社勢力が持つ特権を削ぐため、永禄十二年(1569年)、延暦寺が保有する荘園の一部を没収(横領)するという強硬手段に出た 5 。これに対し、延暦寺は伝統的な権威を行使して朝廷に働きかけ、信長に対して寺領を返還するよう命じさせるなど、両者の関係は当初から緊張をはらんでいた 5 。延暦寺からすれば、信長は自らの既得権益を侵す簒奪者であり、信長からすれば、延暦寺は天下統一の障害となる旧勢力の象徴であった。

「政教分離」という視点

信長の真の狙いは、宗教そのものを否定することにあったわけではない。彼が一貫して問題視したのは、宗教勢力が保有する「軍事力」と「政治的影響力」であった。信長の政策は、いわば戦国版の「政教分離」あるいは「武装解除」と解釈することができる 6 。武器を捨て、純粋な宗教活動に専念するのであれば保護の対象とするが、ひとたび政治や軍事に介入し、天下統一の障害となるならば、いかなる聖域であろうと容赦なく殲滅する。この姿勢は、後に十年にも及ぶ抗争の末に和睦した石山本願寺に対し、武装解除を条件に退去を認めたことからも明らかである 7 。信長にとって、延暦寺は単なる敵対勢力の一つではなく、彼が破壊しようとしていた荘園制や権威の分散といった旧体制の象徴そのものであった。したがって、延暦寺の破壊は、他の寺社勢力や旧来の権力者に対する強烈な「見せしめ」であり、新しい時代の到来を天下に告げる、計算された政治的パフォーマンスとしての意味合いを色濃く帯びていたのである。

第三章:志賀の陣 ― 焼き討ちへの導火線

比叡山焼討ちは、信長の一時的な激情による偶発的な事件ではない。それは、前年の元亀元年(1570年)に勃発した「志賀の陣」の戦後処理という、極めて軍事的・政治的な文脈の中で発生した、計画的かつ必然的な帰結であった。

浅井長政の裏切りと志賀の陣

元亀元年四月、信長が越前の朝倉義景を討伐すべく進軍した際、長年同盟関係にあり、妹・お市の方を嫁がせていた義弟の浅井長政が突如離反し、信長軍の背後を襲った 1 。これにより信長は朝倉・浅井両軍に挟撃される絶体絶命の窮地に陥り、辛うじて京都へ撤退した(金ヶ崎の退き口) 8

態勢を立て直した信長は、同年六月の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に辛勝する 1 。しかし、連合軍の息の根を止めるには至らなかった。そして同年九月、信長が摂津方面で三好三人衆と交戦している隙を突き、浅井・朝倉連合軍は近江国に侵攻。京都に迫る勢いを見せた。この時、敗走した連合軍が逃げ込み、拠点としたのが比叡山延暦寺であった 10 。延暦寺は公然と反信長勢力を匿い、支援したのである。これにより、信長は比叡山麓に約三ヶ月にわたり釘付けにされる「志賀の陣」が始まった 9

信長の警告と延暦寺の選択

比叡山に籠城する敵軍を前に、信長は延暦寺に対し、最後通牒ともいえる交渉を持ちかけた。『信長公記』によれば、その内容は「浅井・朝倉と手を切り、中立を守るのであれば、以前に没収した寺領も返還しよう。もしそれができないのであれば、根本中堂をはじめ山全体を焼き払うであろう」というものであった 8 。しかし、延暦寺はこの警告を黙殺し、浅井・朝倉軍に味方する道を選択した 13

この選択により、延暦寺は自ら武装中立の立場を放棄し、信長の敵として明確に参戦したと見なされることになった。結果として、信長は石山本願寺や六角氏残党の蜂起など四面楚歌の状況に陥り、正親町天皇や将軍・足利義昭の仲介による和睦を受け入れざるを得なくなる 9 。この和睦交渉の際、延暦寺は自領の安堵を条件に加えるなど、最後まで信長に対して強硬な姿勢を崩さなかった 9 。この志賀の陣における屈辱的な経験が、信長に延暦寺の完全破壊を決意させる決定的な要因となったのである。


表1:比叡山焼討ちに至る主要な出来事の時系列表

年月

織田信長の動向

浅井・朝倉・延暦寺の動向

備考(関連する出来事)

元亀元年 (1570) 4月

越前・朝倉義景討伐を開始

浅井長政が離反、信長軍の背後を突く

金ヶ崎の退き口。信長、絶体絶命の窮地に陥る。

元亀元年 (1570) 6月

姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利

連合軍は敗走

決定的勝利とはならず、敵対関係は継続。

元亀元年 (1570) 9月

摂津・野田福島で三好三人衆と交戦

信長の背後を突き、近江・坂本へ進軍、比叡山に籠城

志賀の陣の開始。延暦寺、明確に反信長勢力となる。

元亀元年 (1570) 9-12月

比叡山を包囲。延暦寺に中立化を要求するも黙殺される

延暦寺、浅井・朝倉軍を匿い、籠城を支援

石山本願寺、六角氏残党も蜂起し、信長包囲網が形成される。

元亀元年 (1570) 12月

朝廷・将軍の仲介で、浅井・朝倉軍と和睦

延暦寺も和睦条件に自領安堵を盛り込む

信長にとっては屈辱的な和睦。延暦寺への憎悪が深まる。

元亀二年 (1571) 1-8月

周辺の反信長勢力(佐和山城、長島一向一揆等)を各個撃破

延暦寺を孤立させるための周到な準備。

元亀二年 (1571) 9月

近江に進軍し、比叡山を包囲。焼き討ちを断行


第四章:元亀二年九月十二日 ― 焼き討ちのリアルタイム・クロノロジー

志賀の陣から約九ヶ月後、信長は満を持して延暦寺殲滅作戦を実行に移す。この日の出来事は、単なる建物の破壊ではなく、比叡山という共同体を物理的・人的に根絶やしにすることを目的とした、極めて組織的かつ冷徹な軍事行動であった。

前夜(九月十一日)

信長は焼き討ちに先立ち、近江国内の反抗勢力である志村城や金ヶ森城などを掃討し、延暦寺を完全に孤立させた 17 。九月十一日、織田軍本隊は比叡山東麓の坂本、三井寺周辺に進軍。信長は三井寺山内にある山岡景猶の屋敷に本陣を構えた 17 。夜半、約三万の兵をもって比叡山の山麓から山頂に至るまで、蟻の這い出る隙間もないほどの厳重な包囲網を完成させた 5

この動きを察知した延暦寺側は、黄金三百両(堅田からも二百両が加わった)を信長に献上し、攻撃の中止を嘆願した。しかし、信長の決意は固く、使者を追い返し、贈物を一顧だにしなかった 5 。その夜の軍議において、重臣の池田恒興は「夜陰に乗じて逃亡者が出るのを防ぎ、明朝を期して一人残らず討ち取るべきです」と進言し、信長はこれを容れた 5 。この逸話は、信長の目的が単なる威嚇や制圧ではなく、完全な殲滅にあったことを示唆している。

攻撃開始(九月十二日 早朝)

夜明けと共に、信長は全軍に総攻撃を命令した 5 。まず、山麓の坂本、堅田の町々に一斉に火が放たれた。もうもうと立ち上る黒煙が、攻撃開始の狼煙となった 17

午前~日中:伽藍の焼失と住民の逃避

鬨の声を上げ、四方八方から攻め上る織田軍に対し、山麓の里坊に住んでいた僧侶や住民たちは大混乱に陥った 9 。彼らは着の身着のまま、裸足で山を駆け上り、山頂の根本中堂や、さらに奥にある日吉大社(山王社)の聖域、八王子山へと妻子を連れて逃げ込んだ 9

織田軍はこれを追撃しながら、まず比叡山の象徴である根本中堂、大講堂、そして山麓の山王二十一社(日吉大社)といった主要な堂塔伽藍に次々と火を放った。『信長公記』は、その様を「一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為す。哀れなるかな」と、壮絶な筆致で記録している 9

終日:八王子山での掃討作戦

焼き討ちの主戦場は、建物の破壊から、八王子山に追い詰められた避難民の殲滅戦へと移行した。ここからの描写は凄惨を極める。『信長公記』によれば、織田軍は老若男女、僧俗の区別なく、一人残らず首を刎ねた(撫で斬り)とされている 1 。高僧や学僧と見れば「これは叡山にその名を知られた高僧である」などと報告し、信長の検分に供したという 9 。美女や子供も捕らえられ、助命を乞う者も一切容赦なく殺害されたと記されている 9

この日の犠牲者数については、史料によって記述が異なる。『信長公記』は「数千人」 18 、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡は「約1500人」 18 、京都の公家・山科言継の日記『言継卿記』は「3000人から4000人」と伝えている 5 。数字に幅はあるものの、大規模な殺戮が行われたことは、当時の人々に共通の認識として受け止められていた。

山全体が火の海と化し、その黒煙は四日間にわたって京の空を覆い続けたと伝えられている 5

第五章:焦土と化した聖域 ― 被害の実態と関係者の動向

九月十二日の殲滅作戦は、単なる破壊で終わるものではなかった。それは、信長による新たな支配体制構築の始まりであり、旧来の権力構造を根底から覆すための布石であった。

戦後処理と近江支配の再編

焼き討ちの翌日、九月十三日の朝、信長は主だった馬廻り衆のみを率いて早々に比叡山を離れ、上洛した 18 。焦土と化した比叡山の戦後処理の一切は、明智光秀に一任された 18

焼き討ち後、延暦寺が長年にわたり所有してきた広大な寺領・社領はすべて没収された 5 。これらの土地は、明智光秀、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀といった織田家の有力家臣たちに分配された 9 。これは単なる論功行賞に留まらない。旧来の荘園制を事実上解体し、信長の家臣団による直接的な領域支配へと移行させる、画期的な土地改革としての意味合いを持っていた。特に、戦後処理の責任者であり、坂本の地を与えられた光秀は、琵琶湖の制海権を掌握するための拠点として壮麗な坂本城を築城した 8 。焼き討ちにおける光秀の功績が、その後の彼の出世に大きく寄与したことは間違いない 21

関係者のその後

当時の天台座主であった覚恕(かくじょ)は、正親町天皇の弟にあたる皇族であったが、事件当日は京に滞在していたため難を逃れている 17 。事件後、彼は信長と敵対していた甲斐の武田信玄に書状を送り、比叡山再興のための支援を要請した。この仲介は覚恕自身が行っている 22 。信玄もこれに応じ、延暦寺再興を計画したとされるが、元亀四年に信玄が病死したため、この計画は頓挫した 22

信長の存命中は、延暦寺の公式な再興は一切許されなかった 8 。本格的な復興が始まるのは、天正十年(1582年)の本能寺の変で信長が倒れた後、豊臣秀吉によって再興の許可が下りてからのことである 5

第六章:「第六天魔王」の誕生と事件の歴史的影響

比叡山焼討ちは、物理的な破壊以上に、当時の人々の精神に計り知れない衝撃を与えた。この事件を契機として、織田信長のパブリックイメージは決定的なものとなり、他の宗教勢力との関係性も大きく変化した。

「第六天魔王」の自称

比叡山という聖域を、僧俗問わず根絶やしにした信長の行為は、神仏を恐れぬ暴挙として天下に伝わった。特に、当時「信長包囲網」の主軸として信長と敵対していた甲斐の武田信玄は、この事件に激怒したとされる。仏法の守護者を自任していた信玄は、「天台座主沙門信玄」と署名した書状で信長を痛烈に非難した 26 。これに対し、信長は返書に「第六天魔王信長」と署名して送り返したと伝えられている 15

「第六天魔王」とは、仏道修行を妨げる悪魔の王のことである。これを自称することは、仏法の守護者を名乗る信玄への痛烈な皮肉であり、旧来の宗教的権威や価値観の破壊者であることを自ら宣言する、強烈な自己演出であった。これは単なる悪名ではなく、信長が既存の秩序を超越した存在であることを内外に喧伝するための、高度な政治的プロパガンダと解釈できる。信長は、信玄が利用しようとした宗教的権威を逆手に取り、それを破壊する魔王を名乗ることで、自らの絶対的な権威を確立しようとしたのである。

他の宗教勢力への威嚇効果

この徹底的な殲滅戦は、当時信長と十年にも及ぶ抗争を繰り広げていた石山本願寺をはじめとする他の寺社勢力に、絶大な衝撃と恐怖を与えた 7 。いかなる伝統や権威を持つ聖域も、信長に敵対すれば無力であるという冷徹なメッセージは、その後の寺社勢力との交渉において、信長が圧倒的優位に立つ大きな要因となった。比叡山焼討ちは、武力による抵抗勢力の排除であると同時に、他の潜在的な敵対勢力に対する心理戦でもあった。

歴史的評価の確立

この事件は、信長の合理的で革新的な側面と、目的のためには手段を選ばない冷酷非情な側面を最も象徴する出来事として、後世に語り継がれることになった 1 。これにより、「旧弊を打破した英雄」と「残虐非道な独裁者」という、信長の二面的な歴史的評価が決定づけられたのである 7

第七章:『信長公記』と考古学の対話 ― 焼き討ちの実像をめぐる現代的視点

比叡山焼討ちの具体的な被害規模については、同時代に書かれた文学的史料と、現代の科学的調査である考古学の知見との間に、大きな隔たりが存在する。この矛盾こそが、事件の実像をめぐる現代の研究における最大の論点となっている。

史料が描く「全山焼失・大虐殺」

信長の家臣であった太田牛一が記録した『信長公記』や、京都の公家・山科言継の日記『言継卿記』は、焼き討ちの惨状を詳細に伝えている。これらの史料によれば、根本中堂や日吉大社をはじめとする堂塔伽藍約五百棟が、一宇残らず灰燼に帰し、僧俗男女三千から四千人が一人残らず首を刎ねられたとされている 4 。この壮絶な描写が、長らく事件の定説として受け入れられてきた。

考古学調査が示す限定的な焼失

しかし、1980年代以降、比叡山内で継続的に行われてきた発掘調査では、異なる様相が浮かび上がってきた。調査の結果、信長の焼き討ちによるものと明確に断定できる焼土層が確認されたのは、山上の中心的な建物である根本中堂と大講堂の周辺に限られていたのである 2 。『信長公記』が記すような「全山焼失」の痕跡は、考古学的には確認されていない。また、出土する遺物も平安時代のものが多く、焼き討ちがあった十六世紀の遺物は少ないことから、多くの堂宇は焼き討ち以前の時代にすでに廃絶・荒廃していたか、あるいは生活の拠点が利便性の高い山麓の坂本に移っており、山上は過疎化していた可能性が強く指摘されている 3

矛盾の解釈をめぐる議論

この史料と考古学的知見の大きな乖離をどう解釈するかが、研究者たちの間で活発に議論されている。

  1. 虐殺主戦場=山麓説 : 山上の建物の多くがすでに廃墟であったとすれば、虐殺の主戦場は、人々が密集して暮らしていた山麓の門前町・坂本だったのではないか、という説がある 8 。しかし、坂本の里坊跡で行われた部分的な発掘調査では、大規模な火災の痕跡は見つかっておらず、この説を裏付ける決定的な物証はまだ得られていない 4
  2. 史料の誇張説 : 『信長公記』の記述は、信長の威光を高めるため、あるいは事件の衝撃度を後世に伝えるため、意図的に被害の規模を誇張して記述した可能性があるという説 3 。歴史的事件の記録が、書き手の意図や立場によって脚色されることは珍しくない。

事件の実像は、おそらく『信長公記』が描く地獄絵図と、考古学が示す限定的な物理的痕跡との中間にあると考えられる。物理的な建物の破壊は限定的だったかもしれないが、八王子山などに追い詰められた人々に対する虐殺は実際にあり、比叡山という宗教共同体が受けた精神的・組織的ダメージは壊滅的であった。史料の記述は、物理的な被害の大きさ以上に、この共同体そのものが解体されたという「象徴的な破壊」の衝撃を伝えていると解釈することも可能である。

現代における和解

歴史の潮流の中で、事件から四百五十年という節目にあたる2021年、比叡山延暦寺は織田家と明智家の末裔を招き、当時の犠牲者を追悼し、世界平和を祈るシンポジウムを開催した 29 。これは、過去の敵対関係を超えて和解を目指す現代的な動きとして、大きな注目を集めた。


表2:各史料における被害規模の比較

史料名

著者・性格

犠牲者数に関する記述

焼失建物に関する記述

『信長公記』

太田牛一(信長の元家臣)

「数千人」

「根本中堂、山王二十一社を初め…一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い」

『言継卿記』

山科言継(京都の公家)

「僧俗男女三千、四千人ばかり首をはねられ」

「日吉社、山上東塔西塔残らず火をかけられ」

ルイス・フロイス書簡

イエズス会宣教師

「千五百人以上」

(詳細な記述は少ないが、大規模な破壊があったことを示唆)

(考古学調査)

現代の学術調査

(物証なし)

根本中堂・大講堂周辺で明確な焼土層を確認。他の多くは16世紀以前に廃絶か。


結論:歴史の再評価 ― 比叡山焼討ちが現代に遺したもの

比叡山焼討ちは、長らく織田信長の残虐性を象徴する事件として、一面的なイメージで語られてきた。しかし、その背景を深く掘り下げると、武装した巨大宗教勢力と、天下統一を目指す新たな世俗権力との間に生じた、必然的な衝突であったことがわかる。それは単なる宗教弾圧ではなく、中世的な荘園制と分立した権威を解体し、近世的な中央集権体制を構築しようとした、極めて計画的な軍事・政治行動であった。

事件の実像は、文学的史料が伝える壮絶な物語と、考古学が示す物理的現実との間に横たわっており、単純な善悪二元論での評価を許さない。信長の行為は、旧弊を打破する「改革」の側面と、非戦闘員をも巻き込む「虐殺」の側面を紛れもなく併せ持っている。

この歴史的事件は、権力と宗教、伝統と革新、そして目的達成のために許容される暴力の限界といった、時代を超えた普遍的なテーマを我々に問いかけ続けている。比叡山焼討ちの研究は、一つの出来事を多角的な視点から再検討し、その複雑な実像に迫ることの重要性を、現代に生きる我々に示唆しているのである。

引用文献

  1. 信長史上最凶事件!比叡山延暦寺焼き討ちに大義はあったのか? https://kyotolove.kyoto/I0000184/
  2. 比叡山焼き討ち/謎の遺跡ダンダ坊遺跡 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042297.pdf
  3. 織田信長の残虐性を表す逸話「比叡山焼き討ち」実はそんなに酷い被害を被ったわけではなかった? - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/111538
  4. 光秀はどう関わったのか? 織田信長による比叡山焼き討ちの真相 ... https://serai.jp/hobby/1010874/3
  5. 比叡山焼き討ち古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/hieizan/
  6. 織田信長と比叡山延暦寺 420年の恩讐を越えた和解 - NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/archives/20160916_448629.html?DETAIL
  7. 延暦寺の焼き打ち http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E6%9C%AC15%EF%BC%88%E7%AC%AC33%E5%9B%9E%EF%BC%89%E3%80%8E%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%83%BC%E9%9D%A9%E5%91%BD%EF%BC%94%E3%80%8F.pdf
  8. 比叡山延暦寺はなぜ、織田信長に焼き討ちされたのか? | PHPオンライン https://shuchi.php.co.jp/article/3601
  9. 「比叡山焼き討ち(1571年)」神仏をも恐れぬ信長。焼き討ちの ... https://sengoku-his.com/745
  10. 其の五・信長の報復 聖域・延暦寺焼き討ち - 国内旅行のビーウェーブ https://bewave.jp/history/nobunaga/hs000105.html
  11. 織田信長が比叡山を焼き討ちした本当のわけとは? - カイケンの旅日記 http://kazahana.holy.jp/nobunaga/hieizan_yakiuchi.html
  12. 京を見守る比叡山を知る ~焼き討ち事件を乗りこえた延暦寺の歴史・見どころ~ - 京都観光オフィシャルサイト https://plus.kyoto.travel/entry/hieizanenryakuji
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  14. 織田信長は本当に「無神論者」だったのか?比叡山を焼き討ち本願寺と戦った男の真実 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/115971/
  15. 第六天魔王・織田信長が比叡山焼き討ちにこめた「決意」 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4320
  16. 比叡山焼き討ち、非難されまくった信長の行いは、本当に鬼畜の所業だったのか - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Zi39cf5xXFQ
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  19. 【歴史の闇】比叡山焼き討ちの真実!中世寺社の闇!信長が怒りの鉄槌を下した理由とは? https://www.youtube.com/watch?v=F1w7B4EYJsk
  20. 織田信長は、なぜ 延暦寺を焼き 討ちしたの https://kids.gakken.co.jp/box/syakai/06/pdf/B026109020.pdf
  21. 光秀はどう関わったのか? 織田信長による比叡山焼き討ちの真相【麒麟がくる 満喫リポート】 https://serai.jp/hobby/1010874
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  26. 織田信長為何自稱第六天魔王? - WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/12774071/
  27. 雑記帳・第六天魔王の密約 - BIGLOBE http://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/think/zakki_09.htm
  28. 「歴史秘話ヒストリア」 比叡山焼き討ちは一部だったという発掘調査結果・実際は坂本の町が焼き討ちされたという見解 - 関ヶ原の残党、石田世一(久富利行)の文学館 https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/202006article_13.html
  29. 寺院・戦国武将の末裔がともに犠牲者を追悼 ~延暦寺焼き討ちから450年で初 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/329139/329427.html