最終更新日 2025-09-12

毛利両川体制確立(1555)

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毛利両川体制の確立(1555年):安芸国人領主から中国の覇者へ、権謀術数の全貌

序章:毛利両川体制の定義と歴史的意義

日本の戦国史において、一介の国人領主に過ぎなかった毛利氏が、わずか一代で中国地方の大半を席巻する巨大勢力へと飛躍を遂げた背景には、毛利元就が構築した独創的かつ強固な統治機構の存在がある。それが本報告書の主題である「毛利両川体制」である。

この体制は、毛利宗家を絶対的な中心に据え、元就の次男・吉川元春と三男・小早川隆景がそれぞれ安芸国の有力国人であった吉川家と小早川家を継承し、あたかも両翼のように宗家を補佐・防衛する、血縁を基盤とした強力な統治・軍事連合体を指す 1 。その名は、両家の苗字に共通して含まれる「川」の字に由来するものである 3 。長男の毛利隆元が宗家を継ぎ、その両脇を元春と隆景が固めるこの構造は、後世に有名な「三本の矢」の逸話として知られる強固な結束の象徴となった 3

本報告書では、この毛利両川体制が完成し、その圧倒的な有効性が天下に示された画期を、天文24年(弘治元年、1555年)の「厳島の戦い」と位置づける。しかし、その確立は一朝一夕になされたものではない。それは、元就の十数年にわたる深謀遠慮、安芸国内外の複雑な政治情勢、そして血と謀略に満ちた一連の戦略的行動の集大成であった。本報告書は、両川体制の構想が生まれたであろう天文10年代初頭から、その理念が「三子教訓状」として明文化される弘治3年(1557年)までを対象とし、特に体制が実質的に確立した天文19年(1550年)の諸事件、そしてその完成を証明した1555年の厳島の戦いへと至る過程を、時系列に沿って詳細に解き明かすことを目的とする。

年代(西暦)

主要事変

概要

天文9年 (1540)

吉田郡山城の戦い

尼子晴久の3万の大軍を撃退。元就の名声が中国地方に広まる。

天文10年 (1541)

竹原小早川興景の死

嗣子なく死去。小早川家への介入の契機となる。

天文11年 (1542)

第一次月山富田城の戦い

大内義隆の尼子攻めが大敗。大内氏の権威が失墜し始める。

天文13年 (1544)

小早川隆景、竹原小早川家を継承

元就の三男・隆景(当時12歳)が養子となり、竹原小早川家の当主となる。

天文16年 (1547)

吉川元春、吉川家へ養子入り

元就の次男・元春が、家中に内紛を抱える吉川興経の養子となる。

天文19年 (1550)

毛利両川体制の実質的確立

吉川興経父子の殺害 :元春が吉川家の実権を完全に掌握。 ・ 小早川家の統合 :隆景が本家の沼田小早川家も継承。反対派は粛清。 ・ 井上一族誅伐事件 :毛利家中の専横な重臣を粛清し、元就の絶対的支配権を確立。

天文20年 (1551)

大寧寺の変

陶隆房(晴賢)が主君・大内義隆を討つ。大内氏の支配体制が崩壊。

天文23年 (1554)

防芸引分

元就、陶晴賢と断交し大内氏から独立。折敷畑の戦いで陶軍を破る。

弘治元年 (1555)

厳島の戦い

元就、4千の兵で陶晴賢の2万の大軍を奇襲により壊滅させる。 毛利両川体制の機能が証明される。

弘治元年-3年 (1555-57)

防長経略

厳島の勝利の勢いに乗り、周防・長門を平定。大内氏を完全に滅ぼす。

弘治3年 (1557)

三子教訓状

元就、三人の息子に宛てて両川体制の理念を明文化し、後世に伝える。

第一章:両川体制確立前夜 ― 二大勢力の狭間で

毛利両川体制の構想を理解するためには、まず当時の毛利氏が置かれていた極めて脆弱な立場を認識する必要がある。16世紀半ばの中国地方は、北の出雲国(現在の島根県東部)を本拠とする尼子氏と、西の周防国(現在の山口県南東部)を本拠とする大内氏が覇を競う「二強時代」であった 6 。安芸国(現在の広島県西部)はその勢力圏が直接衝突する最前線であり、毛利氏を含む国人領主たちは、自らの領地と一族の存続をかけて、両勢力への従属と離反を繰り返すことを余儀なくされていた 8

毛利元就は、兄・興元とその子・幸松丸の早世を受け、家督相続時の内紛を粛清して当主となった 7 。当初は尼子氏に従属していたが、尼子氏による過度な家督介入などへの不満から、享禄元年(1528年)に大内氏へと鞍替えする 7 。この巧みな勢力均衡の利用こそが、元就の真骨頂であった。

その名を中国地方に轟かせる転機となったのが、天文9年(1540年)の「吉田郡山城の戦い」である。尼子経久・詮久(後の晴久)父子が率いる3万ともいわれる大軍が、元就の居城・吉田郡山城に襲来した。元就はわずかな兵力で籠城し、大内氏からの援軍(陶隆房率いる1万)を得てこれを撃退することに成功する 7 。この勝利は、毛利氏の武威を高め、元就を安芸国人衆の盟主的な地位へと押し上げた。

しかし、その2年後の天文11年(1542年)、今度は大内義隆が尼子氏の本拠地・月山富田城へ侵攻する(第一次月山富田城の戦い)。元就もこれに従軍するが、大内軍は尼子方の堅い守りの前に惨敗を喫し、多くの将兵を失って撤退した 7 。この大敗は、西国の雄であった大内氏の権威を大きく揺るがし、義隆は政治への意欲を失っていく。

この状況は、元就にとって大きな好機であった。主家である大内氏の統制力が弱まり、宿敵である尼子氏も吉田郡山城での敗戦の痛手から立ち直れていない。二大勢力の力が相対的に低下したこの権力の空白期に、元就は単なる従属者からの脱却と、安芸国における絶対的な覇権確立を構想し始める。通常の同盟関係がいかに脆いものであるかを、自らの経験から痛感していた元就は、より強固で永続的な勢力圏の構築を目指した。その答えが、有力国人を婚姻や養子縁組という「血縁」によって自らの勢力圏に組み込み、裏切る可能性のない「身内」へと変えるという、前代未聞の戦略、すなわち「毛利両川体制」の構想だったのである。これは、外部勢力を内部化することで、自らの権力基盤そのものを拡張しようとする壮大な試みの始まりであった。

第二章:布石:安芸有力国人衆の掌握(天文10年代)

元就の構想は、安芸国において毛利氏と並ぶ有力国人であった小早川氏と吉川氏を、実質的に乗っ取ることによって具体化された。この二つの「乗っ取り」劇は、約10年の歳月をかけて、周到かつ冷徹に実行された。

第一節:小早川家の掌握 ― 智将・隆景、瀬戸内の海を制す

小早川氏は、沼田(ぬた)を本拠とする本家と、竹原を本拠とする分家に分かれていたが、瀬戸内海に強力な水軍を擁する一大勢力であった 1 。元就が最初に目をつけたのは、この小早川水軍の掌握であった。

好機は天文10年(1541年)に訪れる。分家である竹原小早川家の当主・小早川興景が、嗣子のないまま若くして病死したのである 11 。興景の妻は元就の姪(兄・興元の娘)であった縁もあり、竹原家の重臣たちは元就に後継者の派遣を要請した。この時、毛利氏の主家であった大内義隆からも強い勧めがあり、天文13年(1544年)、元就は三男の徳寿丸(後の小早川隆景)を養子として送り込み、12歳で竹原小早川家の家督を継がせた 12 。この時点では、大内氏の安芸国に対する影響力を維持したいという思惑が強く働いており、元就の受動的な対応であったことが書状からうかがえる 13

しかし、元就の真の狙いは本家である沼田小早川家の掌握にあった。沼田家の当主・小早川繁平は若年で病弱なうえ、眼病により盲目となっており、家中は繁平を支持する派閥と、隆景を擁立しようとする派閥とで内紛状態にあった 12 。尼子氏の侵攻に備える大内義隆にとっても、この内紛は看過できない問題であった。

そして天文19年(1550年)、元就はついに動く。大内義隆と共謀し、繁平に尼子氏との内通の嫌疑をかけて強制的に隠居・出家に追い込んだ。そして、隆景を繁平の妹(後の問田大方)と婚姻させ、沼田小早川家の家督をも継承させたのである。この強引な家督統合に最後まで反対した重臣・田坂全慶ら繁平派の有力家臣は、ことごとく粛清された 11

こうして隆景は、沼田・竹原の両小早川家を完全に統合し、その当主となった。これにより元就は、戦国最強と謳われた小早川水軍を事実上、手中に収めることに成功したのである 14

第二節:吉川家の掌握 ― 猛将・元春、山陰への道を拓く

小早川家の掌握と並行して、元就は安芸国北部から石見国(現在の島根県西部)にかけて勢力を持つもう一つの有力国人・吉川家への介入を進めていた。吉川家は山陰地方への玄関口に位置しており、ここを抑えることは尼子氏への対抗上、極めて重要な意味を持っていた。

吉川家では、当主の吉川興経が家臣団との関係を悪化させ、家中は不穏な空気に包まれていた 4 。元就の正室である妙玖は興経の叔母にあたり、毛利家と吉川家は元々血縁関係にあった 4 。この関係を足掛かりに、興経の統治に不満を抱く吉川家の家臣団(興経の叔父・吉川経世ら)が、元就に介入を要請した。

これに応じ、元就は天文16年(1547年)、次男の元春を興経の養子として送り込むことを決定する 16 。興経は抵抗したが、家臣団の圧力に屈し、①自らの生命を保証すること、②嫡男の千法師を元春の養子とし、将来的には千法師に家督を継がせること、という二つの条件を付けて、この養子縁組をしぶしぶ承諾した 4

しかし、元就にこの約束を守る気は毛頭なかった。天文19年(1550年)、元就は興経を強制的に隠居させ、元春に家督を継がせると、直後に家臣の熊谷信直らに命じて興経と幼い千法師の父子を殺害させた 4 。この冷徹な謀略により、元春は吉川家の全権を完全に掌握。毛利氏は、勇猛で知られる吉川家の軍事力を吸収し、山陰方面への強力な足がかりを確保したのである 18

第三章:権力基盤の磐石化 ― 天文19年(1550年)の同時多発的粛清

天文19年(1550年)という年は、毛利氏の歴史において特筆すべき「特異点」である。この年、小早川家と吉川家という二大外部勢力の完全な掌握が完了しただけでなく、毛利家内部における最大の障害であった譜代重臣一派の排除が、あたかも連動するかのように断行された。これは偶然ではない。元就が内外の障害を同時に、かつ計画的に排除し、自らの権力基盤を絶対的なものへと固めた、決定的な年であった。

この年に行われた第三の粛清が、「井上一族誅伐事件」である。井上氏は毛利氏の庶流であり、元就の父・弘元の代から家中で大きな力を持つ譜代重臣であった。しかし、当主の井上元兼とその一族は、その地位を笠に着て専横を極め、領地の横領や元就の命令を無視するなど、目に余る振る舞いを続けていた 7 。彼らは、国人領主の連合体という旧来の体制の象徴であり、元就が目指す中央集権的な大名権力確立の最大の障害であった。

両川の掌握が完了し、もはや外部からの干渉を恐れる必要がなくなったと判断した元就は、ついに内部の膿を出す決断を下す。天文19年7月12日、元就は井上元兼をはじめとする一族の中心人物約30名を吉田郡山城に呼び出し、「長年、上意を軽んじほしいままの振る舞いが目に余る」として、問答無用で誅殺したのである 7

この電撃的な粛清は、毛利家中に凄まじい衝撃を与えた。元就はこの機を逃さず、翌13日、生き残った他の全家臣238名を集め、起請文(誓約書)への署名を強要した。その内容は、今後毛利宗家に絶対的な忠誠を誓うこと、そして宗家が家臣を「存分に成敗」(自由に処罰)する権限を認めるというものであった 7

この一連の出来事により、毛利家は大きくその性質を変えた。それまでは国人領主たちの盟主という立場に過ぎなかった元就は、家臣の生殺与奪の権を完全に掌握する絶対的な君主へと変貌を遂げた。そして、吉川・小早川という強力な分家を両翼に配し、盤石の権力基盤を築き上げたのである。毛利両川体制は、この天文19年(1550年)をもって、実質的に確立したと言える。

第四章:独立への道 ― 防芸引分と陶晴賢との対立

盤石な内部体制を築き上げた元就の次なる目標は、長年従属してきた大内氏からの完全な独立であった。その引き金となったのが、天文20年(1551年)に勃発した「大寧寺の変」である。大内氏の重臣・陶隆房(後の晴賢)が、文治主義に傾倒する主君・大内義隆に対して謀反を起こし、自害に追い込んだのである 20

晴賢は、大内氏の血を引く大友晴英(後の大内義長)を新たな当主として擁立し、大内家の実権を完全に掌握した。元就は当初、この新体制に従う姿勢を見せていたが、両者の関係は次第に悪化していく。晴賢は、吉田郡山城の戦い以来、急速に勢力を拡大する元就を強く警戒しており、尼子氏との戦いの戦後処理を巡って、元就の意見を退け、自らの家臣を城番に据えるなど、その影響力を削ごうと画策した 21

決定的な対立の契機は、天文23年(1554年)に訪れる。石見国の吉見正頼が「義隆公の仇討ち」を掲げて晴賢に反旗を翻すと、晴賢は元就にも出兵を要請した。しかし、元就はこれに応じなかった。さらに晴賢は、安芸国人衆の盟主である元就を飛び越えて、安芸の諸将に直接出陣を促す書状を送った。これは、元就の権威に対する明確な挑戦であり、毛利氏と他の国人衆を分断しようとする意図が明白であった 21

この晴賢の行動に対し、元就の嫡男・隆元は「いずれ陶氏とは決裂する。ならばこちらが有利な時に断交すべきだ」と強く父に進言した 21 。隆元の主張もあり、元就はついに晴賢との全面対決を決意する。同年5月12日、元就は安芸・備後の国人衆に晴賢との断交を宣言。これは「防芸引分(ぼうげいひきわけ)」と呼ばれ、毛利氏が大内氏から完全に独立し、存亡をかけた戦いへと突入した瞬間であった 22

戦備を整えていた毛利軍の動きは迅速だった。安芸国内にあった桜尾城など大内方の拠点を電光石火の速さで次々と攻略 24 。これに対し、晴賢は重臣の宮川房長を大将とする討伐軍を派遣するが、元就は同年9月の「折敷畑の戦い」において、寡兵ながら巧みな伏兵戦術でこれを壊滅させ、宮川房長を討ち取った 20 。緒戦における圧倒的な勝利は、毛利方の士気を大いに高め、晴賢に深刻な衝撃を与えた。中国地方の覇権をかけた、両雄の直接対決はもはや避けられないものとなった。

第五章:天下分け目の決戦 ― 厳島の戦い(弘治元年/1555年)

折敷畑での敗報に激怒した陶晴賢は、自ら大軍を率いて毛利氏を滅ぼすべく、周防国山口を出陣した。その兵力は約2万。対する毛利軍は、動員可能な全兵力を合わせても約4,000に過ぎなかった 20 。この圧倒的な戦力差を覆すため、元就は生涯で最も大胆かつ緻密な謀略を巡らせる。そしてこの戦いこそ、確立されたばかりの毛利両川体制が、その真価を初めて発揮する舞台となった。

第一節:謀神元就の策略 ― 巨大な敵を罠にかける

元就は、正面からの野戦では勝ち目がないと判断し、敵の大軍の利を無力化できる狭隘な地形での決戦を企図した。その舞台として選ばれたのが、瀬戸内海に浮かぶ神の島・厳島であった 20 。元就の策略は、晴賢の全軍をこの島に誘い込み、一挙に殲滅するというもので、そのための罠が幾重にも張り巡らされた。

  1. 囮城の築城 : まず元就は、厳島で最も見晴らしの良い場所に、意図的に小規模で攻略しにくそうな宮尾城を築城した 26 。そして、ここにわずかな兵を置き、晴賢を挑発した。水軍力に絶対の自信を持つ晴賢にとって、眼前の島に敵の拠点が築かれることは看過できず、これを大軍で一気に攻め落とそうと考えるであろうと元就は読んだ。
  2. 偽の内応による敵戦力の削ぎ落とし : 次に元就は、陶軍きっての勇将として知られた江良房栄の存在を危険視した。そこで、房栄の筆跡を完璧に真似た偽の密書を作成。「毛利に内応する」という内容の書状が晴賢の手に渡るように仕向けた。主君を裏切った過去を持つ晴賢は猜疑心が強く、この謀略に嵌り、自らの手で房栄を誅殺してしまった。これにより、陶軍は決戦前に貴重な戦力を自ら失うことになった 14
  3. 偽の裏切りによる油断の誘発 : 仕上げに、元就は重臣の桂元澄に晴賢への内応を装わせた。「自分が晴賢殿の厳島出兵に呼応して、手薄になった毛利の本拠地・吉田郡山城を奪う」という内容の密書を送らせ、晴賢を完全に油断させた 27

これらの謀略にことごとく嵌った晴賢は、弘治元年9月21日、ついに2万の大軍を率いて厳島に上陸。宮尾城を見下ろす塔の岡に本陣を構え、全軍を島内に展開させた。巨大な敵は、完全に元就の仕掛けた罠の中に入ったのである。

第二節:両川の躍動 ― 体制の機能証明

敵を罠にかけた元就であったが、奇襲を成功させ、勝利を確実なものにするためには、二つの絶対的な条件があった。一つは、瀬戸内海の制海権を掌握し、敵の退路と補給路を完全に断つこと。もう一つは、敵本陣に致命的な打撃を与える強力な陸上突撃部隊である。この二つの役割を担ったのが、まさしく小早川隆景と吉川元春であった。

  • 智の小早川(海) : 当時、瀬戸内海の制海権は、能島・来島・因島の三家からなる村上水軍が握っていた。彼らがどちらに味方するかで、戦いの趨勢は決まると言っても過言ではなかった。隆景は、自らの右腕であり、村上水軍にも人脈を持つ乃美宗勝を使者として派遣。「毛利家の存亡はこの一戦にかかっている。せめて一日でよいから船を貸してほしい」と、誠意を尽くして説得にあたった 30 。高圧的な態度で協力を要請した晴賢とは対照的に、隆景の真摯な交渉は村上水軍の心を動かし、ついに来島通康らが率いる精強な水軍を味方に引き入れることに成功した 1 。これは、小早川家を継承し、水軍の将としての信頼を築いていた隆景でなければ成し得なかった、戦いの帰趨を決する最大の功績であった。
  • 武の吉川(陸) : 一方、生涯76戦無敗と伝えられる猛将・元春は、元就が率いる本隊の中核として、敵本陣への陸上からの奇襲攻撃を担うことになった 4 。その役割は、険しい山道を越えて敵の背後に回り込み、夜明けと共に電撃的な突撃を敢行して敵の中枢を混乱に陥れることであった。

9月30日、天候は暴風雨となった。元就はこれを天佑と捉え、全軍に出撃を命令。元就・元春率いる本隊約2,000は、暴風雨に紛れて敵に察知されることなく、厳島東岸の包ヶ浦(つつみがうら)に上陸し、敵本陣の背後にそびえる博奕尾(ばくちお)の山中に潜んだ 23 。一方、隆景率いる別働隊1,500と村上水軍は、海上から陶軍の退路を封鎖すべく、厳島神社の大鳥居沖に集結した 32 。陸と海からの包囲網は、静かに、しかし確実に完成しつつあった。

第三節:奇襲と殲滅(10月1日早朝)

暴風雨が吹き荒れる夜が明け、10月1日早朝、元就は総攻撃の合図を発した。

博奕尾の山頂から、元就・元春率いる毛利本隊が鬨の声を上げ、眼下の塔の岡に布陣する陶軍本陣めがけて一気呵成に駆け下りた。同時に、厳島神社の正面からは、小早川隆景率いる別働隊も攻撃を開始した 4 。暴風雨の音にかき消され、敵襲を全く予期していなかった陶軍は大混乱に陥った。

不意を突かれた兵士たちは、狭い島内で右往左往し、組織的な抵抗もできずに海岸へと殺到した。しかし、彼らが脱出の望みを託した海岸には、隆景率いる小早川水軍と村上水軍の艦隊が待ち構えており、退路は完全に遮断されていた。さらに、沖に停泊させていた陶軍の軍船は、村上水軍の手によって纜(ともづな)を切られ、沖へと流されてしまっていた 32

陸からは元就・元春の猛攻、海からは隆景の封鎖。陸海から完全に包囲され、脱出が不可能であることを悟った総大将・陶晴賢は、わずかな供回りと共に島内を敗走した末、大江浦の海岸で自害して果てた 20 。総大将を失った2万の大軍は、わずか1日の戦闘で壊滅。毛利元就は、戦国史上稀に見る劇的な勝利を収めたのである。

この厳島の戦いは、単に元就個人の謀略の勝利ではない。それは、元就の「頭脳」(全体戦略)、隆景の「智」(外交と水軍指揮)、そして元春の「武」(陸軍突撃力)という、三位一体の「毛利両川体制」が初めて一つの完璧なシステムとして有機的に機能した結果であった。1550年に確立した両川という「パーツ」が、1555年の厳島で初めて完璧な「システム」として稼働し、歴史的な勝利を生み出した。これこそが、「毛利両川体制確立(1555年)」の真の意味なのである。

第六章:体制の完成と理念の明文化

厳島の戦いにおける地滑り的勝利は、中国地方の勢力図を一変させた。元就はこの好機を逃さず、すぐさま旧大内領である周防・長門へ侵攻する(防長経略)。陶晴賢亡き後の大内軍に抵抗する力はなく、毛利軍は各地の抵抗を鎮圧し、弘治3年(1557年)には当主・大内義長を自害に追い込み、名門・大内氏を完全に滅亡させた 26 。これにより、毛利氏は中国地方西部の覇権を完全に手中に収めた。

同年、61歳になった元就は、家督を嫡男の隆元に譲ることを決意する。その際、元就は自らが築き上げた統治体制の理念を後世に伝えるため、隆元・元春・隆景の三人の息子に宛てて、14ヶ条からなる長文の書状を書き送った。これが世に言う「三子教訓状」である 35

この書状は、後世に創作された「三本の矢」の逸話 14 とは異なり、極めて現実的かつ切実な内容に満ちている。その核心は、毛利両川体制の永続化にあった。

  • 毛利宗家の絶対性 : 「何よりもまず、毛利の名字が末代まで廃れないように心がけること。元春、隆景がそれぞれ吉川、小早川の名跡を継いだが、それは当座のものであり、決して毛利の二字を忘れてはならない」 2 。これは、両川はあくまで宗家に従属する分家であり、宗家の安泰こそが最優先事項であるという体制の基本原則を明確にしたものである。
  • 三兄弟の結束の絶対性 : 「三人少しでも仲違いする心があれば、三人ともに滅亡すると思え。毛利家は多くの家を滅ぼしてきたのだから、他家から深く憎まれていることを忘れるな」 36 。これは、内部崩壊こそが最大の脅威であるという元就の強い危機感の表れである。
  • 役割分担の明確化 : 「隆元は当主として、元春・隆景という強力な補佐役がいることを頼みとして政務を執り行え。元春・隆景は、毛利宗家という強固な後ろ盾があるからこそ、それぞれの家を統率できるのだと心得よ」 36 。これは、宗家と両川が相互に依存し合うことで体制が機能するという、三者の役割と関係性を具体的に示したものである 1

この「三子教訓状」は、それまで元就の頭の中にあった両川体制の構想と、厳島の戦いで証明されたその実効性を、初めて明確な「家訓」として言語化・成文化したものであった。これにより、両川体制は単なる軍事・政治システムから、毛利家が永続的に守るべき「理念」へと昇華された。元就個人の戦略は、毛利家全体の永続的な統治原則へと進化したのである。

終章:毛利両川体制の機能と後世への影響

弘治3年(1557年)の「三子教訓状」をもって完成した毛利両川体制は、その後、毛利家が中国地方の覇者として君臨し、さらには織田信長、豊臣秀吉といった天下人と渡り合っていく上で、不可欠な支柱として機能し続けた。

体制は、それぞれの当主の個性を反映し、巧みに機能分化されていった。猛将として知られる吉川元春は、主に山陰方面の軍事を担当し、尼子氏の残党勢力との熾烈な戦いを繰り広げた。一方、知将として評価の高い小早川隆景は、山陽方面の政務・外交、そして瀬戸内海の水軍統括を担当した 12 。この「武の吉川、智の小早川」という役割分担により、毛利氏は広大な領国を効率的かつ安定的に統治することができた。

また、この体制は優れた危機管理機能も発揮した。永禄6年(1563年)、当主である長兄・隆元が急死するという非常事態に見舞われた際も、元春と隆景の両川が、若くして家督を継いだ甥の毛利輝元を後見人として支えることで、家中には一切の動揺が走ることなく、統治は安定して継続された 12

毛利元就が一代で築き上げたこの強固な一族結束体制は、その後の毛利家の運命を大きく左右した。織田信長との10年にわたる全面戦争、豊臣秀吉への巧みな臣従、そして関ヶ原の戦いにおける敗北と、それに伴う防長二国への大減封という激動の時代を、毛利家が滅亡することなく乗り越え、江戸時代を通じて大大名として存続できた最大の要因は、この両川体制の理念が根底にあったからに他ならない。体制の具体的な形は時代と共に変化していったが、宗家を中心に一族が結束するというその精神は、幕末の長州藩にまで受け継がれ、日本の歴史を再び大きく動かす原動力の一つとなったのである 2

引用文献

  1. 【特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち https://www.mihara-kankou.com/fp-sp-sengoku
  2. 毛利両川 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E4%B8%A1%E5%B7%9D
  3. 毛利元就 - 安芸高田市 https://akitakata-kankou.jp/_cms/wp-content/uploads/2022/07/sanbon-no-ya_220701.pdf
  4. 吉川元春・小早川隆景-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44326/
  5. 「戦国時代を生きる~毛利家を支えた吉川元春・元長・広家~」 - ふれあいeタウンいわくに https://www.e-town-iwakuni.net/%E5%8F%82%E5%8A%A0%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%84/9182
  6. 6 戦国大名とひろしま ~毛利元就 ~ - 広島県 https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/92149.pdf
  7. 戦国時代の中国地方で2大勢力に割って入った毛利元就の謀略とは ... https://www.rekishijin.com/22542
  8. 【合戦解説】藤掛城の戦い 高橋 vs 毛利・大内 〜 毛利元就は尼子との決別を機に領土拡大へと舵を切る - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ZbLpz9GsNtw
  9. 毛利元就のここがごい - 安芸高田市 https://www.akitakata.jp/akitakata-media/filer_public/2b/e8/2be893b9-9772-488e-a99e-97a8179d01f6/kouhou-aki-takada-12gatsugou-8-9.pdf
  10. 【合戦解説】神辺合戦 大内派国衆 vs 備後山名 〜 尼子派の備後有力豪族 山名氏を滅ぼすべく毛利ら安芸国衆へ大内義隆の命が下る 〜 <毛利⑯> - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=KE7kw6ocbDo
  11. 「すべては毛利のため」知将・小早川隆景の生涯 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/585
  12. 小早川隆景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%9A%86%E6%99%AF
  13. 「小早川隆景と毛利元就」感想 - 安芸の夜長の暇語り http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-715.html
  14. 日本のマキャベリアン~毛利元就 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/mori-motonari-japanese-mcaberian/
  15. 第37話 「三本の矢」で知られる毛利元就と小倉城との関係 https://kokuracastle-story.com/2021/03/story37/
  16. 吉川元春 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%85%83%E6%98%A5
  17. 第1回 大朝荘時代の吉川氏 http://ww5.enjoy.ne.jp/~jun-take/s_kikkawa.htm
  18. 「吉川元春」10歳で初陣、生涯不敗の豪将、知られざる武の系譜 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/584
  19. 【毛利両川体制の確立】 - ADEAC https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-list/d100010/ht2031601030
  20. 厳島の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11092/
  21. 防芸引分 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%8A%B8%E5%BC%95%E5%88%86
  22. 隆元さん 防芸引分編⑩ 断交 http://rekishisanpo06.blog.fc2.com/blog-entry-226.html
  23. 一瞬の流れをつかみ置かれた状況で勝つ毛利元就の「逆転の発想」 - サンクチュアリ出版 https://sanctuarybooks.jp/webmag/20230310-11850.html
  24. 【合戦解説】防長経略[前編] - 須々万沼城の戦い - 〜厳島で大内軍を打ち破った毛利軍の西侵がはじまる - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=d_c50nv8zYM
  25. 【合戦解説】厳島の戦い 大内 vs 毛利 〜 陶晴賢と毛利元就 智将の両雄が遂に激突 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=O_OVTyrvc5g
  26. 陶氏・大内氏を滅亡させた毛利元就の「謀略」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22955
  27. 戦国武将の失敗学③ 陶晴賢が見抜けなかった「状況の変化」|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-086.html
  28. 「西国の雄」毛利元就17「対陶戦:厳島合戦前夜」 - 備後 歴史 雑学 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page096.html
  29. 【歴史】厳島の戦い~毛利元就 VS 陶晴賢~ - 家庭教師のひのきあすなろ https://hinoki-a.com/hs-resolution/post-0109-2/
  30. あの村上水軍を味方に引き入れた武将!小早川隆景の右腕・乃美宗勝 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=IjHDpCHTyVM
  31. 厳島の戦い~じつは徹底的な頭脳戦!小早川隆景、冴えわたる智謀 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5840
  32. 陶晴賢は何をした人?「謀反を起こして大内家を乗っ取るも疑心暗鬼で自滅した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/harukata-sue
  33. 激闘!海の奇襲戦「厳島の戦い」~ 勝因は村上水軍の戦術 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/11740
  34. 毛利両川体制とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E4%B8%A1%E5%B7%9D%E4%BD%93%E5%88%B6
  35. 小早川隆景 - 戦国屈指の知将 - 広島県 https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/577577.pdf
  36. 毛利元就の三子教訓状(三本の矢の教え) - 合同会社ワライト https://www.walight.jp/2016/07/04/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%AD%90%E6%95%99%E8%A8%93%E7%8A%B6-%E4%B8%89%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%9F%A2%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88/
  37. 三子教訓状 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AD%90%E6%95%99%E8%A8%93%E7%8A%B6
  38. 小早川隆景 - 名刀幻想辞典 https://meitou.info/index.php/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%9A%86%E6%99%AF
  39. 毛利輝元の「決めない力」-日本史を変えた元就のリーダー設計- https://sightsinfo.com/koyasan-yore/okunoin-mouri_terumoto