最終更新日 2025-10-08

水戸城改修(1604)

慶長7年、佐竹氏に代わり家康は実子を水戸城主とした。慶長9年頃は現状維持が主だったが、後の頼房による寛永の大改修で近世城郭へ変貌した。
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慶長の要衝:徳川の天下と水戸城の変容 ― 佐竹氏の遺産から寛永の大改修へ至る道程

序章:戦国時代の終焉と常陸国の戦略的価値

慶長9年(1604年)という年は、日本の歴史において特異な時間軸に位置する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いによって徳川家康の覇権は確立されたものの、豊臣家は大坂城に依然として健在であり、全国には未だ徳川に心服せぬ外様大名が割拠していた。戦国時代の緊張感は色濃く残り、天下統一事業はまさに道半ばであった。この時代背景において、常陸国水戸城は、単なる一地方の城郭ではなく、徳川の天下経営における極めて重要な戦略拠点としての意味を帯びていた。

水戸は、徳川の本拠地である江戸の北東に位置し、奥州へと至る交通の要衝を押さえる地政学的な要であった 1 。特に、関ヶ原後も強大な勢力を保持し、徳川にとって最大の潜在的脅威の一つであった仙台の伊達政宗や、北方の諸大名への睨みを効かせる上で、水戸城の価値は計り知れないものがあった。徳川家康がこの地に、五男・武田信吉、十男・徳川頼宣、そして十一男・徳川頼房と、相次いで実子を配した事実は、この地が単なる恩賞地ではなく、徳川政権の東国支配、ひいては江戸防衛の生命線と認識されていたことの何よりの証左である 2 。親藩、中でも実子を配置するということは、そこが絶対に他者の手に渡してはならない、徳川の支配網の基軸であったことを雄弁に物語っている。

利用者様が提示された「水戸城改修(1604年)」という事象は、この緊迫した政治情勢の中で理解されねばならない。しばしば、後の徳川頼房による寛永年間(1625年~)の大規模な改修と混同されがちであるが、本報告書ではこれらを明確に区別する。慶長9年時点での動きは、佐竹氏から接収したばかりの巨大城郭を、徳川の軍事拠点として確実に機能させるための「占領後の実務的措置」であり、来るべき本格改修への「準備段階」であったと定義する。それは、戦国の遺風が残る時代における、支配の現実を反映したリアルタイムの対応であり、徳川による水戸城支配の第一段階をなすものであった。本報告書は、この慶長年間の過渡期の実像を時系列で解き明かし、それが如何にして寛永の大改修へと繋がっていったのか、その連続した歴史の道程を徹底的に詳述するものである。

第一章:佐竹氏が築いた礎石 ― 徳川氏入城前夜の水戸城

徳川氏が慶長7年(1602年)に手に入れた水戸城は、決して未整備な中世城郭ではなかった。むしろ、その直前まで常陸54万石を領した戦国大名・佐竹義宣によって、当時の最新技術と思想を駆使して築き上げられた、壮大な土造りの要塞であった。徳川氏による後の改修は、すべてこの佐竹氏が残した偉大な「遺産」の上に成り立っていたのである。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐後、常陸一国の支配を公認された佐竹義宣は、本拠をそれまでの太田城(現・常陸太田市)から水戸へと移すという戦略的決断を下した 2 。これは、より中央集権的な領国経営を目指す戦国大名として、領国の中心に拠点を構えるという当然の帰結であった。水戸入城後、義宣はただちに城の大規模な改修に着手する。家臣の日誌には、文禄2年(1593年)9月から城の建設工事が始まり、義宣自らが陣頭指揮を執る様子も記録されている 4 。この改修によって、本丸、二の丸、三の丸、そして下の丸(東二の丸)という主要な四つの曲輪が整備され、城下町までを一体的に防御する「惣構」の基礎が築かれた 3 。徳川時代に見られる水戸城の基本的な縄張り、すなわち城郭構造の骨格は、この佐竹氏の時代に形成されたのである 4

水戸城の最大の特徴は、石垣をほとんど用いず、土塁と空堀によって防御を固めた日本最大級の「土の城」である点にある 6 。これは、佐竹氏の伝統的な築城術を反映したものであった 9 。城は、北を那珂川、南を千波湖に挟まれた舌状台地の先端という、天然の要害に築かれている 3 。佐竹義宣は、この自然地形を最大限に活用し、台地を分断するように巨大な堀切(空堀)を幾重にも穿った。各曲輪を隔てる堀は、高低差が約50メートルにも達したとされ、その壮大さは見る者を圧倒したであろう 6

この築城思想は、単に石材が近隣で産出されなかったという消極的な理由によるものではない。関東ローム層という粘性の高い土壌は、版築と呼ばれる工法で突き固めることで、石垣に劣らぬ堅固な土塁を築くことを可能にした。佐竹氏の築城術は、地域の地理的特性を深く理解し、それを最大限に活かした合理的かつ高度な土木技術の結晶であった。

慶長7年(1602年)に徳川氏が接収した時点での水戸城は、すでに近世城郭の原型をなしていた。佐竹氏は、江戸氏時代の内城を「古実城」と称して本丸とし、宿城を二の丸として整備。城の正面口を西側に変更し、二の丸に大手門を構え、本丸には橋詰門を設けるなど、城の動線を大きく改変していた 5 。現在、水戸城唯一の現存建造物である薬医門は、その様式や風格から、この佐竹時代に本丸の表門、すなわち橋詰門として建てられたものと推定されている 5 。徳川方が、この佐竹氏の縄張りを20年以上にわたってほぼそのまま踏襲したという事実は、その設計が軍事要塞として極めて高い完成度を誇り、徳川方もその価値を十分に認めていたことを示している。

第二章:激動の慶長七年~十四年 ― 城主不在と徳川の布石(1602年~1609年)

利用者様の関心の中心である慶長9年(1604年)を含むこの期間は、水戸城の歴史において最も流動的かつ不安定な時期であった。城主が次々と交代し、しかもそのいずれもが短命、あるいは幼少で国元に不在という異常事態が続いた。このため、城の実質的な管理と運営は、徳川家康の直轄的な管理下で行われた。これは、来るべき本格的な徳川化への布石を打つための、重要な「空白の期間」であった。以下に、そのリアルタイムな状況を時系列で詳述する。


表1:水戸城主要事象年表(1590年~1638年)

西暦

和暦

出来事

主要人物

備考

1590年

天正18年

佐竹義宣、江戸氏を破り水戸城を奪取。本拠を太田城から移す。

佐竹義宣

2

1593年

文禄2年

佐竹義宣、水戸城の大規模改修に着手。

佐竹義宣

4

1600年

慶長5年

関ヶ原の戦い。

徳川家康、佐竹義宣

佐竹義宣は態度を曖昧にし、家康の不興を買う。

1602年

慶長7年

佐竹義宣、出羽国秋田へ転封。徳川家康の五男・武田信吉が入城。

佐竹義宣、武田信吉

水戸城の徳川氏による支配が始まる。 2

1603年

慶長8年

武田信吉、病により急逝。家康の十男・長福丸(徳川頼宣)が城主となる。

武田信吉、徳川頼宣

頼宣は当時2歳。 2

1604年

慶長9年

幼君・頼宣の下、城代や幕府役人による城の維持管理が行われる。

徳川頼宣

本格的な改修ではなく、徳川支配の定着と現状把握が主。

1609年

慶長14年

頼宣、駿府へ転封。家康の十一男・鶴千代(徳川頼房)が城主となる。

徳川頼宣、徳川頼房

水戸徳川家が成立。頼房は当時7歳。 2

1619年

元和5年

徳川頼房、17歳で初めて水戸へ入国。

徳川頼房

附家老・中山信吉らが藩政を主導。 2

1625年

寛永2年

頼房による「寛永の大改修」が本格的に開始される。

徳川頼房

二の丸の本城化、御殿や御三階櫓の建設に着手。 3

1629年

寛永6年

城門の建設が進められる。

徳川頼房

4

1638年

寛永15年

惣構が完成し、近世城郭としての水戸城が完成の域に達する。

徳川頼房

3


【慶長7年(1602年)5月】 佐竹氏の退去と徳川の接収

関ヶ原での去就を咎められた佐竹義宣に対し、徳川家康は突如として出羽秋田20万石への転封を命じた 1 。54万石の大大名からすれば、これは懲罰的な減転封であった。これにより、13年間に及んだ佐竹氏の水戸支配は終わりを告げ、義宣が心血を注いで築き上げた巨大城郭は、徳川の手に渡ることとなった。城の明け渡しは、戦国の終焉を象徴する静かな、しかし極めて政治的な出来事であった。

【慶長7年(1602年)~8年(1603年)】 短命の城主・武田信吉

佐竹氏退去後、新たな水戸城主として入ったのは、家康の五男で甲斐武田家の名跡を継いだ武田信吉であった 2 。しかし、彼は生来病弱であり、入城からわずか1年後の慶長8年(1603年)9月、21歳の若さでこの世を去る 2 。彼の治世はあまりに短く、徳川による本格的な藩政の施行や、城郭への大規模な改変が行われることはなかった。徳川による水戸支配は、波乱の幕開けとなった。

【慶長8年(1603年)~14年(1609年)】 幼君・頼宣の時代と幕府による後見体制

信吉の死後、家康は間髪入れずに十男の長福丸、後の紀州大納言・徳川頼宣を水戸20万石の城主とした 2 。しかし、この時、頼宣はわずか2歳。当然、彼自身が政務を執ることは不可能であり、水戸城と領国の統治は、事実上、家康が任命した城代や幕府の役人たちに委ねられた。この時期の水戸城は、独立した藩の居城というよりは、徳川中央政権の出先機関、すなわち幕府の直轄地に近い様相を呈していた。城主は徳川の権威を示すための象徴であり、実際の統治と城の管理は、家康の意を受けたテクノクラート集団によって遂行されたのである。

【慶長9年(1604年)のリアルタイム描写】

この年、水戸城はどのような状態にあったのか。城主は江戸か駿府にいる2歳の赤子である。城内では、幕府から派遣された城代が最高責任者として采配を振るい、その下で徳川譜代の家臣たちが城の警備や管理にあたっている。佐竹氏の家臣団が去った後の空白を埋めるべく、新たな防衛体制の構築が急務であった。武器や兵糧の再点検、城内の各施設の機能確認、そして徳川方の兵の配置転換などが、日々行われていたであろう。

この時期に行われたであろう「改修」とは、現代人が想像するような大規模な建設工事ではない。それは、佐竹氏が残した壮大な土塁や堀を維持するための地道な作業であった。長雨で崩れた土塁の補修、腐食した木造の塀や櫓の修繕、そして城内の井戸の浚渫など、城の軍事機能を維持するためのメンテナンスがその中心であった。大規模な縄張りの変更や、天守のような新たなシンボルの建設といった「近世城郭化」は、まだ構想の段階に過ぎなかった。この時点での最優先課題は、接収した敵の城を、確実に自軍の拠点として掌握し、その機能を維持することにあった。

一方で、城郭の外では、より積極的な動きが見られた可能性がある。特に関東郡代であった伊奈忠次のような民政の専門家が、城下町の再編や、領内の検地、そして治水事業(後の頼房時代に完成する備前堀の原型など)に着手していたと考えられる 2 。これは、城という「点」の支配から、領国全体という「面」の支配へと、徳川の統治を浸透させていくための不可欠なプロセスであった。慶長9年の水戸城は、城内では静かな維持管理が、城外では新たな支配体制の構築が同時並行で進む、まさに「過渡期」の様相を呈していたのである。

【慶長14年(1609年)】 頼宣の転封と頼房の入封

頼宣は、一度も水戸の土を踏むことなく、慶長14年(1609年)に駿府50万石へと転封される 2 。そして、その後任として、家康の十一男・鶴千代、後の徳川頼房が7歳で水戸25万石の城主となった 2 。ここに、徳川御三家の一つ、水戸徳川家が誕生し、水戸城の歴史は新たな章へと進むことになる。しかし、頼房の時代もまた、彼の成長を待つ長い助走期間から始まったのであった。

第三章:初代藩主・徳川頼房による「寛永の大改修」 ― 近世城郭への飛躍

慶長年間の流動的な「管理の時代」を経て、水戸城が真の意味で徳川御三家の居城として生まれ変わるのは、初代藩主・徳川頼房が成人し、藩政を直接掌握し始めてからのことであった。寛永2年(1625年)から同15年(1638年)にかけて行われた「寛永の大改修」は、慶長年間の維持・管理とは次元の異なる、新たな時代の到来を告げる積極的な城郭改造事業であった 3

藩政の始動と附家老・中山信吉の役割

慶長14年(1609年)に頼房が水戸城主となった後も、彼が幼少であったため、藩政の実権は家康が頼房に付けた附家老・中山信吉が握っていた 16 。信吉は家康の絶大な信頼を得た人物であり、旧北条氏の遺臣などからなる家臣団を組織し、初期水戸藩の統治基盤を固めた 18 。頼房が初めて水戸に入国を果たしたのは、元和5年(1619年)、17歳の時であった 2 。この初入国を契機に、頼房は名実ともに水戸藩主として領国経営に乗り出し、その一環として水戸城の大規模な修築計画が具体化していった。

「寛永の大改修」の時系列と内容

頼房による大改修は、佐竹氏が築いた縄張りを基礎としつつも、城の性格そのものを変貌させるものであった。

縄張りの再編:二の丸の本城化

最大の変更点は、城の中核機能が本丸から二の丸へと移されたことであった 3 。これは、水戸城の性格が、純粋な軍事拠点から、藩の政治・経済の中心地へと移行したことを象徴する画期的な変化であった。戦国時代の城郭では、最も防御力が高く象徴的な空間である本丸に城主の居館や政庁を置くのが常識であった。しかし、大坂の陣も終わり、世が泰平へと向かう中で、もはや大規模な籠城戦を想定する必要性は薄れていた。頼房は、台地の先端にあって手狭な本丸を倉庫や蔵屋敷とし、より広大で利便性の高い二の丸に、藩の政庁である壮大な御殿を建設することを選んだ 3 。これは、城に求められる機能が「戦闘」から「統治」へとシフトしたことを明確に示す、新しい時代の都市計画であった。

主要建造物の建設

二の丸の本城化に伴い、新たな時代の象徴となる建造物が次々と建設された。

  • 二の丸御殿: 藩の政務の中心施設として、およそ50数間(約91メートル)四方にも及ぶ平屋建ての御殿が建設された 2 。これは水戸城で最大の建造物であり、水戸藩35万石の威容を示すものであった。
  • 御三階櫓: 徳川御三家といえども、将軍の居城である江戸城天守を凌駕することは許されなかった。そのため、公式な天守は建てられなかったが、その代用として、二の丸の南側の崖近くに事実上の天守である「御三階櫓」が建造された 16 。創建当初は「三階物見」と呼ばれる比較的簡素な建物であったが、後の火災による再建(1766年)で屋根に鯱をいただく壮麗な姿となり、城のシンボルとなった 16
  • 城門・櫓の整備: 寛永6年(1629年)頃には、二の丸と三の丸の間に大手門が建設され、城の正面玄関としての威容を整えた 3 。また、二の丸南西の崖上には二つの角櫓が建てられるなど、城の防御力と景観が一体となって強化されていった 3

惣構の完成

改修の総仕上げとして、寛永15年(1638年)には、城下町全体を堀と土塁で囲む惣構が完成した 3 。これにより、水戸城は城郭と城下町が一体となった、東西3.5キロメートル、南北1.2キロメートルにも及ぶ巨大な防衛都市として完成の域に達した 21 。水戸は、関東では江戸に次ぐ規模の城下町へと発展し、北関東の要衝としての地位を不動のものとしたのである 26

第四章:完成せし近世城郭・水戸城の威容

寛永の大改修を経て完成した水戸城は、徳川御三家の居城にふさわしい威容を誇りながらも、他に類を見ないユニークな特徴を持つ城郭であった。その最大の謎は、なぜ最後まで本格的な石垣が築かれず、「土の城」であり続けたのかという点にある。その答えは、水戸城の構造的特徴と、中央政権の動向が複雑に絡み合った歴史的背景の中に隠されている。


表2:佐竹氏時代と徳川氏改修後の水戸城構造比較表

項目

佐竹氏時代(~1602年)

徳川頼房改修後(1638年~)

城の性格

戦国期の軍事要塞

江戸前期の藩政庁・政治拠点

本丸の機能

城主居館・城の中枢

倉庫・蔵屋敷 3

二の丸の機能

宿城・家臣屋敷地

本城・藩庁(御殿)・事実上の天守(御三階櫓) 3

三の丸の機能

外郭・家臣屋敷地

上級家臣屋敷地・藩校(弘道館、後期) 3

主要な門

大手門(創建)

大手門(徳川様式で整備) 3

象徴的建造物

(特になし)

御三階櫓 16


改修後の城郭構造

寛永期に完成した水戸城の縄張りは、佐竹氏のものを踏襲し、東から下の丸、本丸、二の丸、三の丸と主要な曲輪が一直線に連なる「連郭式」の配置であった 2 。これらの曲輪は、佐竹時代に掘削された巨大な空堀によって厳重に分断されていた。この堀の壮大さは、時代が下っても水戸城の最大の防御施設であり続け、近代に至ってその一部がJR水郡線の線路敷や道路に転用されたことからも窺い知ることができる 6

石垣なき巨大城郭の謎

水戸徳川家ほどの高い格式を持つ大名家の居城でありながら、なぜ水戸城は最後まで総石垣の城郭とならなかったのか。この長年の謎を解く鍵は、水戸藩側の事情だけでなく、徳川幕府中央の動向にあった。

記録によれば、水戸城の石垣化計画は二度にわたって具体化している。一度目は慶長14年(1609年)、大御所であった徳川家康が石垣の築造を命じた。二度目は寛永13年(1636年)、三代将軍・徳川家光が同様に築造を命じている 4 。これらの命令は、幕府が水戸城を対東北の要衝としてさらに強化し、御三家の城としての威容を天下に示す意図があったことを示している。おそらく、将軍の命令による「天下普請」、すなわち全国の大名を動員する国家プロジェクトとして計画されていたのであろう。

しかし、この計画はいずれも実現しなかった。理由は驚くべきことに、命令者である家康と家光が、それぞれ命令を下した後に死去してしまったためである 4 。最高権力者の死によって、国家的な大事業が頓挫する。これは、当時の巨大プロジェクトがいかにトップダウンで、将軍個人の意思に強く依存していたかを示す好例である。もし彼らが長命であったならば、水戸城は西国諸大名の城に匹敵する総石垣の巨大城郭に変貌していた可能性が高い。水戸城が「土の城」であり続けたのは、常陸国に石組み技術が未熟であったという技術的要因 4 もさることながら、歴史の「偶然」が大きく作用した結果であった。その姿は、徳川幕府の権力構造と、歴史の不確定性そのものを体現していると言える。

御三階櫓の象徴性

天守を持たず、その代わりに建てられた御三階櫓は、外観三層、内部五階建ての「層塔型」と呼ばれる、破風などの装飾が少ない実用的なデザインの櫓であった 22 。この建築は、二つの政治的メッセージを発していた。一つは、天守を名乗らないことで、将軍の居城である江戸城に形式上は遠慮を示すという、幕府への恭順の意である。もう一つは、実質的には天守として機能する壮大な櫓を城の中心に据えることで、35万石を領する徳川御三家としての格式を内外に示すという、権威の表明である。御三階櫓は、幕府のヒエラルキーの中にありながらも特別な地位を占める水戸徳川家の、絶妙な政治的バランス感覚を象徴する建造物であった。

総括:慶長九年から寛永へ ― 水戸城改修の歴史的意義

本報告書で詳述してきた通り、「水戸城改修(1604年)」という事象は、単一の建設事業としてではなく、戦国時代の終焉から徳川の泰平へと至る、より大きな歴史的文脈の中で捉え直されねばならない。

慶長9年(1604年)時点での水戸城における「改修」とは、徳川家康が佐竹氏から接収した北関東の最重要戦略拠点を、自らの支配下に完全に組み込むための第一段階の作業であった。それは、大規模な縄張りの変更や天守の建設といった華々しいものではなく、占領、査定、維持、そして防衛体制の再構築という、戦国時代の論理に根差した極めて実務的な措置の連続であった。幼い城主が名目的に存在する中、城代や幕府の役人たちが遂行したこれらの地道な作業こそが、この時期の「改修」のリアルタイムな実態であった。

しかし、この慶長年間の地道な管理と維持の期間があったからこそ、後の徳川頼房による「寛永の大改修」が可能となったのである。佐竹義宣が築き上げた堅固な「土の城」という礎石を、慶長年間に徳川が政治的・軍事的に確実に掌握し、その上に、頼房が寛永年間に新たな時代の要請に応える壮麗な殿堂を築き上げた。佐竹氏の遺産、慶長年間の掌握、そして寛永年間の飛躍という一連の流れこそが、「水戸城改修」という歴史事象の全体像である。

近世城郭として完成した水戸城は、徳川御三家の筆頭格の居城として、また「北の抑え」という軍事的要衝として、260年以上にわたる徳川の泰平を支える重要な一翼を担った。その石垣を持たないユニークな姿は、佐竹氏の卓越した築城技術という戦国時代の遺産と、徳川幕府の厳格な政治体制、そして将軍の死という歴史の偶然が刻み込まれた、他に類を見ない歴史の証人なのである。慶長9年という一点の出来事は、この壮大な歴史の序章を告げる、静かな、しかし決定的に重要な画期であったと結論付けることができる。

引用文献

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  3. 水戸城跡 (第5地点・第6地点)現地説明会資料 - 水戸市 https://www.city.mito.lg.jp/uploaded/attachment/3914.pdf
  4. 水 戸 城 跡 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/49/49062/10483_1_%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf
  5. 水戸城~御三家の城を巡る - パソ兄さんが https://www.pasonisan.com/rvw_trip/14-14-mitojo.html
  6. 水戸城/特選 日本の城100選(全国の100名城)|ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/famous-castles100/ibaraki/mito-jo/
  7. 水戸城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kantou/mito/mito.html
  8. 梅に彩られた城下町!江戸の鬼門を守る馬の背台地に立つ水戸城 - 信州おじさんの旅ガラス日記 https://wakuwakutrip.com/archives/14590
  9. 久保田城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/kubotajo/
  10. 常陸水戸城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/mito.htm
  11. 【日本100名城・水戸城編】渋沢栄一の主君・徳川慶喜が幼少期を過ごした地 https://shirobito.jp/article/1281
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  13. 水戸城 ~大手門復元で復活を遂げた御三家の居城~ - 転がる五円玉 ~旅と城と山~ https://harimayatokubei.hatenablog.com/entry/2021/03/24/234839
  14. 徳川御三家のお城【水戸城の歴史】を一記事にまとめました - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/history/mitocastle/
  15. 水戸城の歴史と現在・特徴/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16952_tour_033/
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  20. お城の現場より〜発掘・復元最前線 第30回【水戸城】よみがえる水戸城大手門と二の丸角櫓 https://shirobito.jp/article/1114
  21. 【茨城県】水戸城の歴史 まったく石垣が存在しない徳川御三家の城 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2065
  22. お城大好き雑記 第117回 茨城県 水戸城 https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/mitojo-ibaragikenn
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  26. 01第1章 歴史的風致形成の背景 - 水戸市ホームページ https://www.city.mito.lg.jp/uploaded/attachment/23914.pdf
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