最終更新日 2025-10-04

永禄期梅毒流行(1560頃)

永禄期(1560年頃)、日本に梅毒が流行。世界的パンデミックの一環で、戦乱による人の流動性や都市化、性風俗の変化が感染拡大を助長。鼻が落ちる症状は社会不安と差別を生み、武将の運命にも影響。
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日本戦国史における永禄期梅毒流行:畿内社会を覆った「南蛮病」の脅威とリアルタイムな実態に関する総合報告書

序章:永禄の空、忍び寄る「南蛮」の影

永禄年間(1558年-1570年)。それは、室町幕府の権威が地に墜ち、天下が未だ誰の手にも帰さぬ混沌の時代であった。応仁・文明の大乱(1467年-1477年)以来、百年以上にわたって続く戦乱は日常と化し、下剋上と実力主義の嵐が日本全土を吹き荒れていた。永禄三年(1560年)には桶狭間で今川義元が織田信長に討たれ、時代の転換点が示されたものの、畿内では三好長慶が覇を唱え、将軍足利義輝との間で熾烈な権力闘争が繰り広げられていた 1 。このような時代にあって、人々の移動と交流はかつてないほど活発化した。軍勢の移動、それに伴う商人や職人、そして戦火を逃れる難民の流れは、列島を縦横に駆け巡り、新たな文化や技術、そして富を生み出す原動力となっていた。しかし、その光が強ければ強いほど、影もまた濃く、深く落ちる。この人の流動性は、同時に未知なる災厄を運ぶ道でもあった。

当時の人々にとって、「病」とは、常に死と隣り合わせの恐怖であった。甲斐国の年代記には、この時代を通じて天然痘(疱瘡、モ)や麻疹(はしか、イナスリ)、あるいは単に「疫病」と記される感染症が、繰り返し流行したことが記録されている 3 。これらの病は、一度発生すれば為す術もなく、高熱や発疹といった目に見える形で急速に進行し、集落の人口を根こそぎ奪い去ることも珍しくなかった 5 。それはまさに、人の力を超えた神仏の怒りや祟り、あるいは天変地異にも等しい「嵐のような」災厄として認識されていた 7 。死ぬか生きるかが短期間で決するこれらの病に対し、人々はただ祈り、あるいは運命として受け入れるほかなかった。

しかし、永禄の頃、畿内の都市部を中心に、人々は全く質の異なる恐怖に直面することになる。それは、従来の疫病とは明らかに異質な、静かで、陰湿で、そして何よりも奇怪な症状を伴う病であった。当初は軽い皮膚の瘡(かさ)として現れ、一度は消えたかのように見せながら、数年、あるいは十年以上の歳月をかけて体を内側から静かに蝕んでいく。やがて、皮膚にはゴムのような腫瘍ができ、骨を歪ませ、ついには顔の中心にあるべき鼻を溶かし落としてしまうという 8 。この「南蛮病」—後に梅毒と呼ばれることになる病—がもたらした恐怖は、従来の疫病観を根底から揺るがすものであった。それは、神の領域から来る超越的な死ではなく、個人の身体が徐々に腐り、崩れ落ちていくという、より内面的でグロテスクな恐怖であった。戦乱という「動」の暴力に支配された社会の裏側で、この病は「静」の暴力として、人々の心と体を確実に侵食し始めていたのである。本報告書は、この永禄期に顕在化した梅毒の大流行という事象を、その世界的文脈から日本への伝来、そして戦国社会に与えた多角的かつ深刻な影響に至るまで、可能な限り当時の「リアルタイムな状態」に寄り添いながら、徹底的に解明することを目的とする。

第一章:黒船以前の「舶来病」— 永正九年、未知なる瘡の襲来

永禄期に畿内を震撼させた梅毒の流行は、突如として始まったわけではない。その根源は、約半世紀前に遡り、さらにその源流は、地球の裏側で始まった「大航海時代」という世界史的な地殻変動の中に求められる。

世界的パンデミックの東漸

1492年、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸からヨーロッパへ帰還したことは、歴史の教科書が語る「新世界」の発見であったが、同時にそれは目に見えぬ病原体の「交換」の始まりでもあった。翌1493年には、早くもスペインやイタリアで未知の性感染症が確認され、瞬く間にヨーロッパ全土へと広がっていく 11 。この病は、1498年のヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の発見を契機に、ポルトガルの交易網に乗ってアジアへと到達した 12 。その伝播速度は驚異的であり、マゼラン一行が世界一周を達成するよりも早く、1506年には中国、そして1512年には日本にまで達していたのである 11 。これは、日本が歴史上初めて経験する、真にグローバルなパンデミックであった。そして特筆すべきは、この病が、戦国時代の様相を一変させることになる鉄砲の伝来(1543年)よりも、実に31年も早く日本に上陸していたという事実である 12 。武器や思想よりも先に、致死的な病原体が日本の土を踏んでいたのだ。

永正九年(1512年)、最初の記録

日本における梅毒の最も古い確かな記録は、永正九年(1512年)、京都の医師であった竹田秀慶が記した『月海録』に見られる。彼は、この年に京の都で流行した奇妙な病について、次のように記している。

「人民多ク瘡有り、浸淫瘡二似ル、是レ膿疱、飜花瘡ノ類ナリ、之ヲ唐瘡、琉球瘡ト謂ゥ」 14

この記述は、当時の医師が未知の病に直面し、既存の知識—「浸淫瘡(じゅくじゅくした皮膚病)」や「膿疱(膿を持った発疹)」—と比較しながら、その正体を突き止めようと苦心していた様子を生々しく伝えている 15 。この病は、単なる皮膚病ではなく、これまで見たことのない特異なものであった。

この京での記録に続き、翌永正十年(1513年)には、甲斐国(現在の山梨県)の年代記である『妙法寺記』および『勝山記』にも、同様の病の流行が記録されている。そこには「此年天下ニタウモト云フ大ナル瘡出デ平愈スルコトヤヤ久シ(この年、国中でタウモという大きな瘡ができ、治るのにかなり時間がかかった)」とあり、その症状は「癩人ノ如シ(ハンセン病患者のようであった)」とまで描写されている 4 。これは、梅毒が畿内に上陸後、わずか1年という短期間で東国にまで伝播していたことを示す動かぬ証拠であり、戦国期における人々の移動の激しさを物語っている。

「唐瘡」「琉球瘡」という呼称の意味

竹田秀慶が記録した「唐瘡(とうがさ、タウモ)」あるいは「琉球瘡(りゅうきゅうがさ)」という呼称は、極めて示唆に富んでいる 12 。これらの名は、当時の人々が、この病が日本固有のものではなく、海の向こう—すなわち中国大陸(唐)や琉球王国を経由してやってきた「舶来の病」であると明確に認識していたことを示している。この命名行為は、単なる医学的な分類に留まらない。それは、自らの共同体の内部から生じたものではなく、「外部から持ち込まれた穢れ」であると規定することで、災厄との心理的な距離を保とうとする社会的な防衛機制の表れでもあった。

実際の伝播経路としては、当時の東アジアで活発に活動していた倭寇や、日明貿易の担い手であった博多や堺の商人、あるいは琉球との交易者が、病原体を日本に持ち込んだと強く推測されている 12 。富を求めて荒波を越える者たちの往来が、意図せずして「病の道」を切り拓いてしまったのである。戦国時代の経済的ダイナミズムが、同時に疫病伝播の温床ともなったこの構造は、グローバル化が常に光と影を伴うという、現代にも通じる普遍的な問題を内包していた。


表1:梅毒の日本伝来と永禄期に至るまでの主要年表

西暦

和暦

世界の動向

日本の動向(梅毒関連)

日本の動向(社会・政治)

1493年

明応2年

コロンブス一行が帰還、欧州で梅毒が確認される

-

-

1498年

明応7年

ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見

-

-

1506年

永正3年

梅毒が中国(広東)に到達

-

-

1512年

永正9年

アジア各地へ伝播

『月海録』に「唐瘡」「琉球瘡」の初見(京都)

-

1513年

永正10年

-

『妙法寺記』に甲斐国での流行を記録

-

1543年

天文12年

-

-

鉄砲伝来(種子島)

1549年

天文18年

-

-

フランシスコ・ザビエル来日

1560年

永禄3年

-

畿内を中心に「南蛮病」の流行が深刻化

桶狭間の戦い

1563年

永禄6年

-

-

ルイス・フロイス来日

1568年

永禄11年

-

都市社会での不安が拡大

織田信長、足利義昭を奉じて上洛


第二章:戦乱の畿内を蝕む「南蛮病」— 永禄期に至る感染拡大の様相

永正九年(1512年)に京の都でその姿を現した「唐瘡」は、その後約半世紀の歳月をかけて、水面下で静かに、しかし着実に日本社会を蝕んでいった。そして永禄期に至り、その脅威は誰の目にも明らかな形で社会不安を引き起こすことになる。この「静かなる侵略」を可能にしたのは、戦国時代特有の社会構造と、梅毒という病が持つ狡猾な性質であった。

感染拡大の社会的背景

梅毒の蔓延は、戦国時代の社会変動が作り出した「培養基」の上で加速した。それは、まさに「都市病」であり「戦争病」としての性格を色濃く帯びていた。

第一に、 人の流動性の激化 が挙げられる。戦国大名たちは領土拡大のため、絶えず大規模な軍事行動を繰り返した。数千、数万の兵士が国境を越えて移動し、長期にわたる陣中生活を送る。この軍勢には、兵士だけでなく、食料や武具を運ぶ人夫、商人が常に付き従っていた。こうした集団移動は、一人の感染者が多数に病を広げ、さらにその人々が故郷に戻ることで、感染を全国に拡散させるための強力なベクトルとなった 18

第二に、 都市の役割 である。政治・文化の中心地であった京都、国際貿易港として栄えた堺、そして経済拠点として成長しつつあった大坂といった都市には、武士、公家、商人、職人、僧侶、そして仕事を求める流民など、多様な身分の人々が密集して暮らしていた 12 。このような人口が集中し、不特定多数の人間が交流する環境は、感染症が爆発的に広まるための理想的な条件を備えていた。特に、南蛮貿易の玄関口であった堺のような都市は、海外から新たな病原体が流入し、国内各地へと再拡散していくハブとしての機能を果たした可能性が高い 21

第三に、 性風俗の変化 である。戦乱の長期化は社会の秩序を揺るがし、多くの人々が家や家族を失った。特に、身寄りをなくした女性たちが生きる術を求めて遊女とならざるを得ないケースが増加した。江戸時代のような大規模な公認遊郭はまだ存在しないものの、都市の周辺部や港町には遊女屋や私娼が集まる一画が形成され始めていた 22 。こうした場所が、梅毒の主要な感染経路である性的接触による伝播の温床となったことは想像に難くない。

永禄期における流行の本格化

1512年の初見から約50年が経過した永禄期(1560年前後)、梅毒の脅威は新たな段階に入る。この半世紀という時間は、梅毒の潜伏期間と病気の進行サイクルを考える上で決定的に重要である。初期に感染した第一世代、そして彼らから感染した第二世代の人々が、数年から十数年の潜伏期間を経て、第三期、第四期といった深刻な症状を呈し始める時期と合致する。

初期症状である皮膚の瘡は、痛みもなく数週間で自然に消えてしまうため、多くの人々は病が治ったと誤解したであろう 24 。しかし、病原体は体内に潜伏し続け、静かに増殖を続ける。そして永禄期に至り、街には鼻が欠け落ち、顔に奇怪な腫瘍ができた人々が目に見える形で現れ始めた。この病の「可視化」こそが、都市社会にパニックを引き起こした直接的な原因であった。利用者から提示された「南蛮病流行で都市社会に不安が拡大」という状況は、まさにこの段階を指している。それは、半世紀にわたる水面下での蔓延が、ついに社会の許容量を超えて噴出した瞬間であった。

この時期に来日したイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、その克明な日本報告の中で、日本の社会を脅かす病として梅毒に言及している 26 。ヨーロッパにおいて既にこの病の惨禍を知っていた彼の目には、日本の流行状況が客観的に、そして深刻な問題として映っていたことであろう。彼の記録は、永禄期の日本が、世界的なパンデミックの渦中にあったことを示す貴重な証言となっている。

第三章:永禄期のリアルタイム— 都市社会を覆う不安と病の諸相

永禄年間の京都や堺の街角。そこは、明日の命も知れぬ戦乱の緊張感と、束の間の繁栄を謳歌する人々の活気が混在する場所であった。しかしその裏側で、人々は新たな病の影に怯えていた。それは、死そのものよりも、生きながらにして人間としての尊厳を奪われることへの恐怖であった。

病の進行と「鼻が落ちる」恐怖

「南蛮病」の恐怖の核心は、その緩慢で奇怪な症状の進行にあった。感染初期(第一期)には、感染部位に小豆ほどの硬いしこり(初期硬結)ができるが、痛みやかゆみはほとんどない 10 。これはやがて潰瘍(硬性下疳)となるが、これも数週間で自然に消えてしまう。多くの者は、この時点で病が去ったと安堵したに違いない。

しかし、その数ヶ月後(第二期)、病は第二の顔を見せる。全身に「バラ疹」と呼ばれる淡い赤色の発疹が、まるで薄墨で描いた花のように浮かび上がる 25 。これもまた痛みやかゆみを伴わず、数週間から数ヶ月で消えていく。だが、これこそが病原体が血流に乗って全身に広がった証であった。

そして、数年から十数年の潜伏期間を経て、最も恐れられた第三期の症状が現れる。皮膚や筋肉、骨に「ゴム腫」と呼ばれる弾力のある腫瘍が形成され、徐々に周囲の組織を破壊していく 8 。特に、鼻の軟骨がこのゴム腫によって破壊されると、顔の中心にあるべき鼻が崩れ落ち、陥没してしまう「鞍鼻(あんび)」と呼ばれる状態になる 9

この「鼻が落ちる」という現象は、当時の人々に筆舌に尽くしがたい恐怖を与えた。それは単なる身体的な欠損ではない。顔は個人の尊厳そのものであり、その中心が崩壊することは、社会的な生命の死を意味した。鼻を失った者は、共同体から排除され、好奇と侮蔑の視線に晒され、生ける屍として余生を送ることを強いられた。徳川家康の次男・結城秀康が梅毒で鼻を失い、父から疎まれたという逸話は、この病がもたらす社会的悲劇を象徴している 30 。病の「可視性」、とりわけ顔貌の崩壊は、感染者と非感染者の間に越えがたい断絶を生み、社会の紐帯を内側から破壊する強力な要因となったのである。

都市に広がるパニックと価値観の変容

永禄期の都市では、目に見える形で病が進行する患者が増加するにつれ、深刻な社会不安が広がった。誰が感染しているのか、隣人は、商談の相手は、あるいは家族でさえも—。疑心暗鬼が人々の心を蝕み、共同体は不信感によって分断されていった。

特に、感染源として強く認識されたのが遊女であった。彼女たちは、戦乱の犠牲者でありながら、今度は病を広める元凶として激しい差別に晒されることになる 23 。遊女たちが病の症状や治療による肌の荒れを隠すため、鉛を含む白粉を厚く塗ったという逸話は、その悲哀を物語っている 33 。同時に、彼女たちと接触する男性への道徳的な非難も高まった。

この状況は、人々の性愛に対する価値観を根底から揺るがした。梅毒がなかった中世までは、性愛は比較的おおらかに謳歌されていた側面があった 9 。しかし、快楽が恐ろしい病と直結する現実を突きつけられたことで、性行為は常に病への恐怖を伴う危険な行為へと変貌した。

さらに重要なのは、この病が「個人の罪」を問う性格を持っていた点である。天然痘が天災のように無差別に人々を襲うのに対し、梅毒の感染経路は主として性的接触にあることは、当時もおぼろげながら認識されていた 13 。そのため、罹患することは本人の「好色」や「不品行」の結果、すなわち道徳的な堕落の証と見なされやすかった。これは、後述する仏教的な因果応報の思想と結びつき、患者を「罰当たり」として非難し、差別することを正当化する論理を与えてしまった。永禄期の梅毒流行は、病が「天罰」から「個人の責任」へと、その社会的意味合いを転換させる大きな契機となったのである。


表2:戦国期における主要な疫病との比較

病名

主な症状

潜伏期間と経過

感染経路

致死率(当時の推定)

社会的影響・認識

梅毒(唐瘡)

皮膚の瘡、ゴム腫、鼻の欠損など

長期(数年〜数十年)、緩慢に進行

主に性的接触、母子感染

直接の致死率は高くないが、末期は死に至る

「好色の病」「罰当たり」、強い差別と社会的孤立

天然痘(疱瘡)

高熱、全身の膿疱

短期(数週間)、急速に進行

飛沫・接触感染

非常に高い

「神の怒り」、集落全体の壊滅、生き残れば免疫獲得

麻疹(はしか)

高熱、発疹、咳

短期(1〜2週間)

飛沫感染

小児の致死率が高い

小児の通過儀礼的な病、大流行時に社会機能停止


第四章:武家社会への浸透— 武将たちの生と死を分けた病

都市の庶民を恐怖に陥れた「南蛮病」の脅威は、決して下々の者だけの問題ではなかった。それは、戦国の世を動かす武家社会の奥深くまで静かに、しかし確実に浸透し、武将たちの運命、ひいては勢力図さえも揺るがす隠れた要因となっていった。

武将たちの感染リスクと『当代記』の告発

戦国武将の生活は、常に感染のリスクと隣り合わせであった。長期にわたる陣中生活では、兵士たちの士気を維持するために遊女が呼び寄せられることもあり、また、権力者としての立場は、多くの側室や寵臣(時には男色相手も含む)を抱えることを可能にした。豊臣秀吉が主導した朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際には、多くの将兵が現地で梅毒に感染し、帰国後に国内で大流行を引き起こした一因になったという説もある 17 。このような大規模な軍事行動は、感染爆発の絶好の機会を提供した。

こうした状況を裏付けるように、徳川家康の側近が記したとされる『当代記』には、豊臣恩顧の有力大名たちの死因について、衝撃的な記述が見られる。慶長十八年(1613年)に死去した浅野幸長について「梅毒で死んだ」と断定し、さらにその二年前に亡くなった「肥後の虎」加藤清正も「同じ病であった」と記しているのである 13 。『当代記』は、その理由を「ひとえに好色の故」と断じ、梅毒が性行為によって感染するという認識が、当時の武家社会上層部にあったことを示している 13

加藤清正の最期は、急な発病と「身が黒くなった」「舌が不自由になった」といった症状が記録されており、梅毒性肝炎などの合併症を疑わせる 13 。もし『当代記』の記述が事実であるとすれば、豊臣家を支えるべき重鎮たちが、徳川との決戦を前に相次いで病に倒れていたことになる。これは単なる個人の病歴に留まらない、極めて重大な政治的意味を持つ出来事であった。

病が分けた天下の行方

梅毒が個人の運命を、そして家の将来をいかに無慈悲に左右したかを示す最も象徴的な事例が、徳川家康の次男・結城秀康の悲劇である 16 。武勇に優れ、将来を嘱望された秀康であったが、梅毒に罹患し、その症状によって鼻が欠落したと伝えられている 30 。伝えられるところによれば、父・家康は変わり果てた息子の姿を嫌い、会うことさえ拒んだという 30 。この一件により、秀康は徳川家の後継者争いから完全に脱落したとされる。病が、血筋や個人の能力といった要素を凌駕し、一人の武将の運命を決定づけてしまったのである。

罹患が噂されたのは彼らだけではない。豊臣秀吉の天才軍師・黒田官兵衛や、加賀百万石の礎を築いた前田利長といった名将たちにも、梅毒に感染していたという説が存在する 30 。彼らがもし病による絶え間ない苦痛の中で政務や軍務を遂行していたとすれば、その判断力や気力に影響がなかったとは言い切れない。

これらの事例を総合すると、一つの仮説が浮かび上がる。梅毒は、戦国時代の権力闘争における「隠れた変数」として機能したのではないか、ということである。敵将の健康状態は、いつの時代も重要な軍事情報である。特に梅毒のように外見に兆候が現れ、長期的に心身を衰弱させる病は、敵対勢力にとって格好の諜報対象であっただろう。『当代記』の記述も、単なる事実の記録というよりは、豊臣恩顧大名の弱体化を強調し、徳川の優位性を示すための政治的意図を含んだ「インテリジェンス文書」としての一面を持っていた可能性がある。

豊臣秀吉の死後、天下分け目の関ヶ原の戦い、そして大坂の陣へと至る過程で、豊臣家を支えるはずだった加藤清正、浅野幸長、池田輝政といった実力派大名が次々と病没した 13 。彼らの死因の少なくとも一部が梅毒であったとすれば、この病は徳川家康にとって「見えざる同盟者」であったと言えるかもしれない。戦ではなく病によって豊臣方の支柱が次々と失われたことが、勢力バランスを決定的に徳川方へ傾かせた。永禄期に始まった梅毒の流行は、半世紀を経て、日本の歴史が大きく転換する局面において、無視できない影響を及ぼしていたのである。

第五章:当時の医療と人々の対応— 祈祷、俗信、そして手探りの治療

未知の病「南蛮病」の蔓延に対し、戦国時代の人々はいかにして立ち向かおうとしたのか。そこには、当代最高の医学的知見を駆使した必死の試みと、科学的根拠のない祈祷や俗信にすがる人々の姿が混在していた。それは、当時の医療が抱える限界と、人々の精神世界を映し出す鏡であった。

医学の挑戦と限界

この時代、日本医学の最高峰にいたのが、将軍・足利義輝や織田信長、毛利元就といった権力者たちから篤い信頼を得ていた医師、曲直瀬道三(まなせ どうさん)である 35 。道三は、患者を多角的に診察し、その結果に基づいて治療方針を決定する『察証弁治』という画期的な診断学を確立した 38 。しかし、彼の体系化された漢方医学の知識をもってしても、梅毒という全く新しい病理を持つ疾患に対しては、有効な治療法を見出すことは極めて困難であっただろう。伝統的な医学の枠組みでは捉えきれないこの病は、当代随一の名医にさえ、深い無力感を抱かせたに違いない。

そのような中で、いくつかの薬物療法が手探りで試みられた。その一つが、ヨーロッパから伝わった 水銀療法 である。水銀を蒸気にして吸引させたり、軟膏として皮膚に塗布したりする方法で、病原体である梅毒トレポネーマに対して一定の殺菌効果があったと考えられている 8 。しかし、これは同時に重篤な水銀中毒を引き起こす危険な治療法でもあり、多くの患者が治療の副作用に苦しんだ。

もう一つ、広く期待を集めたのが、中国から輸入された薬草である 山帰来 (さんきらい、別名:土茯苓)であった 39 。山帰来には解毒や消炎作用があるとされ、梅毒の治療薬として盛んに用いられた。その需要は非常に高く、18世紀半ばには中国からの薬物輸入量の約半分を占めるほどの一大輸入品目となった 39 。この取引には、堺の薬種商などが深く関与しており 20 、未知の病への対策が新たな経済活動を生み出すという、医療と商業の密接な結びつきが見て取れる。しかし、これらの治療法は、いずれも対症療法に過ぎず、病を根治させるには至らなかった。

神仏への祈りと民間信仰

医学的な治療法が限られる中、人々がより強く依存したのは、神仏への祈りであった。当時の社会では、病は個人の行いや社会全体の不浄に対する神仏からの罰、あるいは怨霊や疫病神の仕業と広く信じられていた。

仏教の 因果応報 の思想は、この新しい病を解釈するための強力な枠組みを提供した 42 。梅毒が主に性的な接触によって広がることから、罹患者は「好色」という罪を犯した結果、当然の報いとして病になったのだと見なされた。この考え方は、患者に対する差別や社会的排除を正当化し、彼らを一層孤立させることになった 44

一方で、人々は災厄を鎮めるために、神道的な儀式にも頼った。疫病の流行に際しては、朝廷や幕府の命により、各地の有力な神社仏閣で大規模な祈祷が行われた 45 。特に、荒ぶる神としての性格を持つ牛頭天王(ごずてんのう、スサノオノミコトと習合)を祀ることで、その強大な力によって疫病神を退散させようとする信仰は、京都の祇園社(現在の八坂神社)などを中心に広く行われていた 46

庶民の間では、さらに多様な民間療法や俗信が信じられていた。身近な薬草を煎じて飲んだり 48 、特定の神仏のお札を貼ったり、様々なまじないを試みたりすることで、人々は先の見えない不安を和らげ、僅かな希望を見出そうとしたのである 49

このように、永禄期の人々の梅毒への対応は、社会的階層によっても大きく異なっていた。高価な輸入品である山帰来や、専門知識を要する水銀療法を受けられたのは、財力のある大名や豪商など一部の特権階級に限られた。大多数の庶民は、安価な民間療法や神仏への祈りに頼るほかなかったのである。どのような「治療」を選択するか、あるいは選択せざるを得ないかという現実は、戦国社会の厳然たる階層構造を冷徹に映し出していた。

終章:永禄期以降の爪痕— 近世社会に刻まれた梅毒の遺産

永禄期に日本社会を震撼させた梅毒の大流行は、一過性の災厄では終わらなかった。それは、その後の江戸時代、さらには近代に至るまで、日本の社会、文化、そして人々の精神に深く、消しがたい爪痕を残した。永禄期の流行は、数百年にわたる日本人と梅毒との長い闘争の序章に過ぎなかったのである。

戦国時代の混乱期を経て、梅毒は江戸時代には都市部を中心に完全に風土病として定着し、「国民病」とまで称されるほどに蔓延した 11 。19世紀初頭の記録では、医師が診る患者の7割から8割が梅毒であったと記されており、その深刻さがうかがえる 11 。江戸幕府が吉原をはじめとする公認遊郭を設置し、遊女を一か所に集めて管理した背景には、治安維持や税収確保といった目的と並んで、性病の蔓延をコントロールしようとする公衆衛生的な意図があったと考えられる 50 。遊女に対する定期的な梅毒検査(検黴)制度の導入は、近代的な性病管理政策の萌芽と見ることもできる 11 。永禄期に経験した無秩序な感染拡大の恐怖が、近世の為政者たちに、病の管理を重要な統治課題として認識させたのである。

この流行の凄まじさは、文献記録だけでなく、大地に眠る人骨もまた雄弁に物語っている。古病理学の進展により、江戸時代の遺跡から発掘された人骨を調査すると、頭蓋骨や脛骨に梅毒特有の病変(骨梅毒)が見られる個体が多数発見されている 15 。ある調査では、江戸の下町に埋葬された人骨の約7%に骨梅毒の痕跡が見られ、実際の感染率は70%を超えていた可能性も指摘されている 23 。これらの科学的証拠は、梅毒が近世日本の人々の身体に、文字通り刻み込まれていたことを示している。

梅毒の恐怖は、人々の文化や価値観にも大きな影響を及ぼした。性に対する警戒心や潔癖さが社会的に強まり、一方で、病の苦しみや遊女の悲哀は、井原西鶴の浮世草子や近松門左衛門の浄瑠璃といった近世文学の中で、人間の業や社会の非情さを描くテーマとして繰り返し取り上げられた。

結論として、永禄期の梅毒流行は、日本の歴史における一つの画期であったと言える。それは、大航海時代というグローバル化の波がもたらした最初のパンデミックであり、戦乱による社会構造の変容がその拡大を助長した。この経験を通じて、日本人は従来の疫病観では捉えきれない、「緩慢な崩壊」という新しい病の形、そして死の形に直面した。それは、個人の道徳を問い、社会の分断を生み、為政者に新たな統治課題を突きつけた。1943年にペニシリンによる治療法が確立されるまで 11 、日本人はこの長く、暗いトンネルを歩み続けることになる。その全ての始まりが、戦国の騒乱の只中にあった永禄期の大流行だったのである。それは、現代に生きる我々が直面する、グローバル化と新興感染症という課題の歴史的な原風景であったとも言えよう。

引用文献

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  2. ルイス・フロイス『日本史』を読みなおす⑥ – 日本関係欧文史料の世界 https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/essay/20230215/
  3. 8〜9 世紀日本における天然痘流行とその影響 https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/19648/files/KU-1100-20120131-02.pdf
  4. 戦国時代甲斐国の流行病史 - 日本医史学会 http://jshm.or.jp/journal/66-4/66-4_note_1.pdf
  5. 古代都市平城京の疫病対策 - なぶんけんブログ - 奈良文化財研究所 https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2020/05/20200515.html
  6. 『源氏物語』は疫病を描かない? - 同志社女子大学 https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/17318
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  8. W600×H900 https://www.eisai.co.jp/pdf/museum/curator/yamazaru/disease_03.pdf
  9. 進行すると鼻が落ちて顔が崩れる…家康は南蛮貿易で上陸した「性病」を恐れて遊女には近寄らなかった 東大教授が語る「中世と近世の遊女の違い」 (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/72225?page=2
  10. 梅毒の症状について | 性病専門のあおぞらクリニック新橋院 https://www.aozoracl.com/syphilis_symptom
  11. 梅毒の故きを温ねて新しきを知る KANSEN JOURNAL http://www.theidaten.jp/wp_new/20170110-58/
  12. 第 6 回「梅毒」 https://www.eiken.co.jp/uploads/modern_media/literature/MM1605_05.pdf
  13. あの武将の命も奪った梅毒。コロナの陰で7000人以上感染|アスク ... https://www.askdoctors.jp/articles/201608
  14. 梅毒の歴史 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%AF%92%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
  15. コラムリレー第182回 戦国時代における感染症の拡大 https://dounan.exblog.jp/32533259/
  16. 梅毒 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%AF%92
  17. 【歴史解説】戦国・江戸、恐怖の感染症 日本をパニックに陥れたパンデミック!!【MONONOFU物語】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=3tBccX0t46A
  18. 疫病が戦争に与える影響、ペロポネソス戦争におけるアテナイの例 - 軍事学を学ぶ https://www.learningmilitaryscience.com/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0/%E7%96%AB%E7%97%85%E3%81%8C%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AB%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%82%8B%E5%BD%B1%E9%9F%BF%E3%83%9A%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%8D%E3%82%BD%E3%82%B9%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%81%AE%E4%BE%8B
  19. 赤壁の戦い――曹操軍の敗退原因は「疫病」だった - 歴史人 https://www.rekishijin.com/8689
  20. 堺ゆかりの人々 - 堺観光ガイド https://www.sakai-tcb.or.jp/about-sakai/great-person/other.html
  21. 〜堺の商人、呂宋助左衛門とは〜 - Made In Local https://madeinlocal.jp/area/sakai-senshu/knowledge/097
  22. 【商品紹介】性感染症シリーズ第3弾「梅毒」 - withセイシル https://with.seicil.com/blogs/news/ssbaidoku
  23. 大河ドラマ『べらぼう』の時代…遊郭・市中「梅毒感染者」どのくらい? 杉田玄白も記録した“驚異的な”まん延状況 - 弁護士JP https://www.ben54.jp/news/2166
  24. 【注意!】梅毒の感染者がとても増えています(症状に関する写真も掲載しています) - 福岡県庁 https://www.pref.fukuoka.lg.jp/contents/baidoku2018.html
  25. 梅毒(詳細版) - 国立感染症研究所 https://id-info.jihs.go.jp/diseases/ha/syphilis/010/index.html
  26. 近世・近代日本の花柳病(梅毒)・死流産・出生力 の因果関係 https://hit-u.repo.nii.ac.jp/record/2056797/files/0102206301.pdf
  27. DESCRIPTIO. - 岐阜市 https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/148/chapter_3_s.pdf
  28. FROIS, Luigi - WEB版稀覯書展示会「鎖国期をはさんだポルトガル人の日本研究」 https://www.kufs.ac.jp/toshokan/portugal2010/port12.htm
  29. 梅毒|症状(写真)と感染経路・検査・治療 - 池袋マイケアヒルズタワークリニック https://ikebukuro.mycare.or.jp/venereal-disease/syphilis
  30. 古くは“家康の次男”もかかり死亡…去年全国約1万3千人が感染『梅毒 ... https://www.tokai-tv.com/tokainews/feature/article_20230305_25623
  31. 戦国武将たちの知られざる死因とは?現代医学で解き明かす死亡診断書 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=H9yN9TcpkPg
  32. 進行すると鼻が落ちて顔が崩れる…家康は南蛮貿易で上陸した「性病 ... https://president.jp/articles/-/72225?page=1
  33. Untitled - researchmap https://researchmap.jp/ryuenhrmt/misc/43826532/attachment_file.pdf
  34. 2022年には全国約1万3千人が感染「梅毒」の歴史 江戸時代は遊郭などで急増 https://www.fnn.jp/articles/-/495516?display=full
  35. 第二 1907 年「癩予防ニ関スル件」 は「黴(梅毒の意)癩之遺毒に係る如きなり」(浅田宗伯著 https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/kanren/dl/4a3d.pdf
  36. 毛利元就 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1
  37. 戦国時代の医療事情と、天下人にも認められた名医・曲直瀬道三殿について語ろうぞ!【前田利家戦国がたり】 - さんたつ by 散歩の達人 https://san-tatsu.jp/articles/307190/
  38. 【連載】世界一やさしい「鍼灸の歴史」講座vol.11 伝説の名医「曲直瀬道三」が強調した鍼灸の併用 https://www.shinq-school.com/article/column11/
  39. 長崎大学薬学部 長崎薬学史の研究~第一章 近代薬学の到来期(1.江戸末期の疫病) https://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/cp1/chapter1-1.html
  40. もうひとつの学芸員室-梅毒治療に薬草蒸気風呂 https://www.eisai.co.jp/museum/curator/saijiki/151023s.html
  41. 1870年代~1910年代の道修町薬業者の活動から見た大阪薬業界の発展 - J-Stage https://www.jstage.jst.go.jp/article/riim/18/0/18_125/_html/-char/ja
  42. 迷信とは何か・意味と具体例を簡単に解説・仏教で嘘とされた理由 https://true-buddhism.com/religion/superstition/
  43. 醜い身体―日本中世仏教絵画における病と死 https://geiren.org/news/2014/01.pdf
  44. 大谷吉継の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/37967/
  45. 四方拝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%96%B9%E6%8B%9D
  46. 蘇民将来符 - その信仰と伝承:牛頭天王祭文 https://museum.umic.jp/somin/category_top/g_naiyou.html
  47. 「災害」としての近世日本の「疫病」と 宗教的対処 https://www.iisr.jp/journal/journal2021/P103-P125.pdf
  48. 小平に伝えられていた民間療法や俗信(小平市の昔話) https://www.city.kodaira.tokyo.jp/kurashi/086/086889.html
  49. 戦国武将の健康意識は超絶ハイレベル!島津義弘・伊達政宗など医学に長けた人もいた https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/101196/
  50. 近代京都近郊遊廓における衛生環境と梅毒 https://kpu.repo.nii.ac.jp/record/2000018/files/j_75_007.pdf
  51. 蔦屋重三郎が暮らした吉原は遊女の苦界(くがい) - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c14901/
  52. ノート039海を渡った流行り病-大航海時代と姉崎棗塚遺跡-【考古】 - 市原歴史博物館 https://www.imuseum.jp/siryo_chosa_kenkyu/kenkyu/note/324.html
  53. 骨にまで残る病気 : 東海大学新聞WEB版 https://www.tokainewspress.com/contents.php?i=2611