江戸城日比谷入江埋立(1606)
慶長11年、徳川家康は江戸城日比谷入江を「天下普請」で埋立。全国大名を動員し、江戸を政治・経済の中心地へと変貌させ、徳川幕府の権威確立と長期安定の礎を築いた。
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天下普請:徳川家康による江戸創造の原点 — 日比谷入江埋立の時系列的再構築
序章:葦の原から天下の府へ
慶長11年(1606年)、江戸の地で展開された日比谷入江の埋立事業は、単なる大規模な土木工事として歴史に刻まれているわけではない。それは、一世紀以上にわたる戦乱の時代、すなわち戦国時代の終焉を告げ、徳川による二百六十余年の泰平の世の礎を物理的に築き上げた、画期的な国家プロジェクトであった。この事業は、新たな天下人となった徳川家康が描いた壮大な国家構想の第一歩であり、旧来の価値観を払拭し、新たな支配体制を象徴的かつ実質的に構築する一大事業であった。
本報告書は、この「江戸城日比谷入江埋立」という事象を、戦国時代という大きな歴史的文脈の中に位置づけ、その動態を時系列に沿って再構築することを目的とする。単一の出来事としてではなく、背景にある政治的意図、動員された人々の動き、そして技術的な挑戦を、あたかもリアルタイムで事態が進行していくかのように描き出すことで、この歴史的事業の重層的な意義を明らかにする。葦の生い茂る湿地が、いかにして天下の府へと変貌を遂げたのか。その壮大なドラマの幕開けを、ここに詳述する。
第一章:家康以前の江戸 — 入り江と湿地が広がる土地
1-1. 1590年、家康が見た江戸の原風景
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命により旧領の東海地方から関東へ移封された徳川家康が初めて江戸の地を踏んだ時、眼前に広がっていたのは、後の壮麗な大都市とは似ても似つかぬ風景であった。当時の江戸は、武蔵野台地の東端に位置する、自然の地形が色濃く残る土地であった 1 。
その最大の特徴は、江戸城のすぐ東南にまで深く切れ込んだ「日比谷入江」と呼ばれる遠浅の海であった 2 。この入り江は、現在の皇居外苑や日比谷公園、さらには大手町付近にまで達しており、城は文字通り海に面していた 1 。この入り江と、東を流れる隅田川の河口部(江戸湊)との間には、砂州が堆積してできた「江戸前島」と呼ばれる半島状の微高地が存在した 1 。この江戸前島こそが、後の日本橋、京橋、銀座といった江戸の中心市街地の原型となる土地である。
さらに、井の頭池などを水源とする平川(後の日本橋川・神田川の原型)や、局沢川(後の千鳥ヶ淵)といった中小河川が、台地の谷間を縫って日比谷入江へと注ぎ込んでいた 1 。これらの河川が運ぶ土砂と、満ち引きする潮の影響で、低地一帯は広大な湿地帯を形成し、至る所に葦がうっそうと生い茂っていた 1 。
1-2. 「不便の地」が持つ戦略的ポテンシャル
家臣団の多くが、北条氏の本拠地であった小田原のような、すでに完成された城下町を望んだにもかかわらず、家康はこの一見すると粗末で不便な江戸を新たな本拠地として選定した 1 。その決断の背景には、戦国大名として長年培ってきた家康ならではの先見性があった。
家康は、日比谷入江や広大な湿地帯といった、都市開発における一見した弱点を、むしろ戦略的な資産へと転換できる可能性を見抜いていた。既存の都市構造に縛られることなく、ゼロから理想的な城下町を設計できるという利点は、何物にも代えがたい魅力であった。入り江や河川は天然の堀として防御に利用できる一方、敵の侵入路となりうる。しかし、これを埋め立て、水路を制御することができれば、防御を完璧なものにし、同時に広大な平地を創出できる。つまり、家康は眼前の地形を静的な制約として受け入れるのではなく、自らの手で作り変え、支配する動的な対象として捉えたのである。この「大地を設計し直す」という壮大な構想こそが、彼が見抜いた江戸のポテンシャルの中核であり、戦国時代の局地的な城作りとは根本的にスケールを異にするものであった。
第二章:天下人のグランドデザイン — なぜ江戸を改造したのか
2-1. 関ヶ原の戦い後の政治情勢と江戸の位置づけ
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利を収め、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就任したことで、徳川家康は名実ともに天下人となった。しかし、その権力基盤はまだ盤石ではなかった。大坂城には依然として豊臣秀頼が存在し、豊臣家に恩義を感じる西国の大名も多数健在であった 6 。
この状況下で、家康にとって江戸を、大坂に対抗し、いずれは凌駕する新たな政治・軍事・経済の中心地として確立することは、喫緊の課題であった。したがって、江戸の大規模な改造事業は、単なる都市開発に留まらず、豊臣家とその恩顧大名に対する明確な示威行為であり、徳川の権威を天下に示すための政治的パフォーマンスでもあった 6 。
2-2. 「天下普請」という名の継承と発展
この壮大な江戸改造を実現するための手法として家康が用いたのが、「天下普請」であった。全国の諸大名に命令し、その財力と労働力を用いて城郭やインフラを整備させるこの手法は、織田信長の安土城築城や、豊臣秀吉の大坂城・伏見城普請にその原型を見ることができる 8 。
家康はこの手法を継承し、より洗練された国家統治のシステムへと昇華させた。その目的は多岐にわたる。第一に、巨大な建造物を作り上げることで、徳川幕府の絶対的な権威を天下に誇示すること。第二に、街道や治水施設といったインフラを整備し、国家の基盤を固めること。そして第三に、最も重要な政治的狙いとして、普請にかかる莫大な費用を諸大名、特に潜在的な脅威となりうる外様大名に負担させることであった 6 。これにより、大名の財力を削ぎ、その軍事力を土木工事へと転用させることで、幕府への反乱の意欲と能力を根本から削ぐことが意図されていたのである。
2-3. 新首都の設計思想 — 四神相応と防衛
江戸の都市計画には、物理的な機能性だけでなく、思想的な権威づけも意図されていた。その一つが、天海大僧正らの進言があったともされる「四神相応」の思想の導入である 11 。これは、古来より都を建設する際に用いられた地相の考え方であり、京都の平安京もこれに基づいて設計された。江戸において、東に平川(青龍)、南に日比谷入江から江戸湊へと広がる海(朱雀)、西に東海道(白虎)、そして北に麹町台地から遠く富士山を望む地形(玄武)を当てはめることで、江戸を王城の地にふさわしい場所として思想的に正統化しようとした 11 。
この試みは、単なる都市計画の域を超えた、高度な象徴操作であった。当時の日本の文化的・思想的な中心は、依然として天皇の座す京都であった。家康は、武力による支配だけでなく、新たな首都・江戸に、京都が長年独占してきた「都」としての正統性を付与する必要性を認識していた。日比谷入江の埋立を含む一連の江戸改造は、物理的な空間を創造すると同時に、江戸を「天下の府」たらしめるための「物語」を構築する作業でもあったのである。
第三章:江戸大改造の序曲(1590年〜1605年)
3-1. 入府直後の初期工事(1590年〜)
江戸に入府した家康は、壮大な都市改造計画の実現に向け、まず足元を固めることから着手した。それは、来るべき大工事に不可欠なライフラインと兵站の確保であった 5 。
最初期に取り掛かった事業の一つが、江戸城への物資搬入路となる運河「道三堀」の開削である 5 。江戸湾に陸揚げされた建材や食料、生活物資を城の直下まで効率的に運び込むこの水路は、後の大規模普請を支える大動脈となった。また、飲料水の確保も急務であった。家康は、城の西側にあった千鳥ヶ淵川の谷を堰き止めてダム(溜池)を造成するなど、自然地形を巧みに利用した水源確保を進めた 5 。これらは、本格的な天下普請に先立つ、極めて重要な先行投資であった。
3-2. 第一次天下普請の発令(1603年〜)
慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開くと、江戸城の大規模な拡張工事は「天下普請」として正式に発令され、国家プロジェクトとして本格的に始動した 6 。
全国の諸大名に対し、江戸への参府と普請への参加が厳命された。幕府は、慶長6年(1601年)の膳所城築城や、それに続く二条城の普請などを通じて、すでに天下普請による大名動員のノウハウを蓄積しており、そのシステムは江戸城普請で最大限に活用されることとなる 12 。
この第一次天下普請の初期段階では、江戸城本丸や二の丸の拡張と並行して、日比谷入江埋立の準備が着々と進められた。一部の記録では、埋立自体は天正20年(1592年)の西の丸築城の際に発生した残土の処理から部分的に始まっていたともされており、長期的かつ段階的な計画の下で事業が進められていたことがうかがえる 14 。
第四章:激動の中心点 — 日比谷入江埋立のリアルタイム(1606年)
4-1. (慶長11年 正月〜春)全国からの動員と普請の本格化
慶長11年(1606年)、江戸城の天下普請は最盛期を迎える。この年の正月、全国の諸大名に江戸への下向が命じられ、2月上旬には普請役を命じられた大名たちが続々と江戸に到着した 16 。江戸の町は、全国から集まった武士や人足で未曾有の活況を呈した。
当時の記録である『当代記』は、この普請の巨大なスケールを伝えている。石垣用の石材を伊豆半島から輸送するために、実に三千艘以上の船が動員され、江戸湾は資材を運ぶ船で埋め尽くされたという 16 。この頃、江戸城本体では、すでに将軍職を譲られていた二代将軍・徳川秀忠の指揮の下、新たな天守閣の建設も進行中であり、日比谷入江の埋立は、この城郭本体の拡張と密接に連携しながら進められた一大事業であった 17 。
4-2. (夏〜秋)神田山切り崩しと日比谷入江埋立の連動
普請が本格化すると、江戸の風景は日に日にその姿を変えていった。特に、二つの巨大な工事が連動して進められた。一つは埋立用土砂の確保、もう一つは入江そのものの埋立である。
土砂の供給源として選ばれたのは、江戸城の北に位置する神田山(現在の駿河台一帯)であった 2 。『慶長見聞集』が「日本六十余州の人歩をよせ、神田山をひきくづし」と記すように、全国から動員された膨大な数の人足によって、文字通り一つの山が切り崩されていった 16 。
切り崩された土砂は、道三堀をはじめとする水路網を使い、小舟によって日比谷入江まで効率的に運搬された 16 。そして入江では、まず海底に杭を打ち込み、それらを竹で編んだ柵で連結して土砂の流出を防ぐという、当時の先進的な工法が用いられた 20 。遠浅の海が、人々の労働によって着実に陸地へと姿を変えていく光景が、日々繰り広げられていたのである。
4-3. 役割分担と技術の奔流 — 戦国時代の遺産
この巨大事業は、各大名に担当区域を細かく割り当てる「割普請」と呼ばれる方式で、効率的に進められた 9 。その割り当てにおいて、幕府は極めて合理的な采配を振るっている。それは、各大名が戦国時代を通じて培ってきた技術的特性を見極め、適材適所で役割を分担させるというものであった。
具体的には、高度な技術を要する石垣の普請は、主として西国の大名に命じられた。一方、堀の掘削や土塁の構築といった土木工事(堀普請)は、東国の大名がその多くを担当した 22 。この背景には、織田・豊臣政権下で安土城や大坂城といった巨大石垣を持つ城郭の建築に携わり、最新の築城技術を習得していた西国大名と、伝統的に大規模な空堀や土塁を主体とする城作りを得意としてきた関東の旧北条領出身などの東国大名との間に、明確な技術的差異が存在したことがある。加藤清正、藤堂高虎、黒田長政といった石垣構築の専門家たちの技術を最大限に活用し、同時に東国大名の得意分野を活かすことで、プロジェクト全体の質と速度を向上させたのである。これは、戦国時代の経験という無形の遺産を、新たな時代の国家建設に動員した、高度なプロジェクトマネジメントであった。
表1:慶長期江戸城天下普請における主要大名の役割分担(慶長11年頃) |
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大名家 |
石高(参考) |
出身地域 |
主な担当普請 |
典拠資料 |
黒田長政 |
52万石 |
西国(筑前) |
天守台の築造 |
12 |
加藤清正 |
52万石 |
西国(肥後) |
外郭石壁普請 |
25 |
藤堂高虎 |
22万石 |
西国(伊勢) |
石垣普請 |
12 |
山内一豊 |
20万石 |
西国(土佐) |
石垣普請 |
12 |
細川忠興 |
39万石 |
西国(豊前) |
外郭石壁普請 |
25 |
前田利常 |
119万石 |
北国 |
外郭石壁普請 |
25 |
関東・奥羽の諸大名 |
― |
東国 |
堀普請、栗石運搬 |
16 |
4-4. (冬)変わりゆく江戸の姿
慶長11年の年末を迎える頃には、日比谷入江の大部分は埋め立てられ、江戸城の南東に広大な陸地が出現していた。かつて波が打ち寄せていた場所は、新たな都市空間へと生まれ変わったのである。そして、埋め残された入江の一部は、巧みに整形されて江戸城の新たな防御ラインとなる内濠(現在の馬場先濠、日比谷濠など)として生まれ変わった 16 。江戸の地図は、文字通り一年足らずで劇的に書き換えられた。
第五章:メガプロジェクトの舞台裏
5-1. 指揮系統 — 公儀普請奉行という存在
この空前のメガプロジェクトは、幕府が任命した「公儀普請奉行」によって統括されていた。しかし、その構成は驚くべきものであった。慶長11年の普請奉行には、徳川家康直属の家臣や二代将軍秀忠の側近だけでなく、大坂城にいる豊臣秀頼の家臣(水原吉勝、伏屋貞元)までもが名を連ねていたのである 27 。
これは、徳川の牙城である江戸城の普請という事業に、対立勢力であるはずの豊臣家を公的に参加させていたことを示す、極めて重要な事実である。当時の政治状況は、徳川が実権を握りつつも、形式上は豊臣家も公儀(公式の政権)の一つとして存続する「二重公儀体制」と呼ばれる、複雑で緊張をはらんだものであった。家康は、この江戸城普請を「徳川家の私的な事業」ではなく、あくまで「天下の公的な事業(公儀普請)」と位置づけることで、全国の大名を動員する大義名分を確保した。その「公儀」性を担保するために、豊臣家の奉行をメンバーに加え、その権威を利用しつつ、実質的には徳川主導で事業を完遂するという、老獪な政治戦略が展開されていた。日比谷入江埋立は、土木工事の仮面を被った、高度な政治工作でもあったのだ。
5-2. 大名の経済的負担と社会への影響
天下普請において、工事に要する資材の調達費、輸送費、そして動員される人足の人件費は、そのすべてが担当を命じられた大名の自己負担であった 7 。各大名は、領国から多くの労働力を江戸へ送り込み、莫大な資材を買い付け、輸送しなければならなかった。
この経済的負担は、多くの大名家の財政を著しく圧迫した。これが、家康の狙いの一つであったことは言うまでもない 6 。財政が疲弊すれば、軍備を整え、幕府に反旗を翻す余力はなくなる。天下普請は、武力を用いることなく大名の力を削ぐ、極めて効果的な手段であった。
一方で、この事業には大名側にとっての利点も存在した。普請に参加することで、藤堂高虎のような築城名人が用いる最新の土木・築城技術を間近で学ぶことができたのである 8 。ここで得られた知識や技術は、各大名が自らの領国に持ち帰り、それぞれの城下町建設に活かされていくことになった。
第六章:新たな江戸の誕生 — 埋立地が拓いた未来
6-1. 「大名小路」の形成と江戸城の防衛強化
日比谷入江の埋立によって創出された広大な土地は、新たな都市計画のキャンバスとなった。現在の丸の内、大手町、有楽町にまたがるこの一帯は「大名小路」と呼ばれ、徳川幕府の屋台骨を支える大名たちの屋敷が、計画的に配置されていった 6 。
その配置は、決して無作為なものではなかった。江戸城に最も近い一等地には、徳川家と血縁関係にある親藩大名や、関ヶ原以前からの譜代大名といった、最も信頼のおける大名たちの屋敷が置かれた 6 。これにより、将軍の居城である江戸城は、幾重にもわたる忠臣たちの屋敷によって守られる、難攻不落の要塞都市としての性格を強めた。この屋敷配置は、単なる宅地造成ではなく、徳川家への忠誠度や家格といった幕藩体制のヒエラルキーを、都市空間の上に可視化する作業でもあった。城からの距離がそのまま政治的地位を示すことになり、大名たちは江戸の町を歩くだけで、自らの序列を常に意識させられた。埋立地は、新たな政治秩序を体現する巨大な盤面となったのである。
6-2. 商業都市江戸の基盤形成
埋立地の造成は、武家地の創出に留まらなかった。それは同時に、江戸前島の東側に位置する日本橋、京橋、そして銀座へと連なる町人地の拡大にも大きく貢献した 6 。
さらに重要なのは、埋立と並行して、物資輸送のための水路(堀)が江戸市中に縦横に張り巡らされ、数多くの橋が架けられたことである 30 。これにより、全国から江戸湊に集められた物資が、市内の隅々まで効率的に届けられる物流ネットワークの基盤が築かれた。この物流網こそが、江戸を人口百万人を抱える世界有数の一大消費都市、そして商業都市へと発展させる原動力となった。この事業は、二代将軍秀忠が構想したとされる「経済都市・江戸」の実現に向けた、決定的な第一歩であった 10 。
終章:戦国の終焉、江戸の始原
日比谷入江埋立は、江戸の物理的な土地を拡張したという事実以上に、はるかに大きな歴史的意義を持つ事業であった。それは、戦国という時代の価値観に終止符を打ち、新たな時代の到来を告げる象徴的なプロジェクトであった。
この事業を通じて、徳川家康は、その絶対的な権威を天下に示威し、天下普請というシステムを用いて大名統制を完成させた。そして、新たに創出した「大名小路」という空間に、幕藩体制という新たな政治秩序を具現化してみせた。さらに、物流網を整備することで、首都江戸の百年にわたる繁栄の礎を築いた。
力と力がぶつかり合い、個々の武将が領地を奪い合った戦国の時代は終わった。代わって、巨大な中央権力の下で国土が計画的に改造され、国家全体が設計されていく新たな時代が始まったのである。慶長11年の日比谷入江埋立は、まさにその始原を告げる、壮大な序曲であった。
引用文献
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- 江戸幕府以前の江戸 - BIGLOBE http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/tanbou/edo/edo_Pre_8.html
- 徳川家康が発展させる前の「江戸」はどんな場所だったのだろうか⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/28941
- 東京「日比谷」は400年前までなんと「漁場」だった 地形図から見る痕跡とは https://urbanlife.tokyo/post/45432/
- 未開の地だった江戸に入った徳川家康は、まず何から始めたのか | 企業実務サポートクラブ https://www.kigyoujitsumu.com/topics_detail69/id=46707
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- 【歴史解説】外様大名を苦しめた!天下普請の真相!?【MONONOFU物語】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=xMnV10jNaiU
- 江戸城の濠 -天下普請の威容を維持した江戸期の大城郭 - 水の行方を追って http://wanjin.blog.fc2.com/blog-entry-389.html
- 江戸城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E
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- 「(慶長十一年)二月廿五日付江戸城公儀普請奉行連署状」について http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=9060
- 大名小路 (丸の内) - 歴史探訪と温泉 - FC2 https://hotyuweb.blog.fc2.com/blog-entry-1639.html
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- 古地図から読み解く江戸湊の発展 (その2) - 日本海事史学会 https://kaijishi.jp/wp-content/uploads/2021/09/resume201809_tani.pdf