江戸金座設置(1601)
徳川家康は関ヶ原の勝利後、大久保長安らを登用し江戸金座を設置。慶長小判を鋳造し、金・銀・銭の三貨制度を確立、経済統一を成し遂げた。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
天下統一の総仕上げ:江戸金座設立(1601年)に至る貨幣革命の軌跡
序章:混沌の坩堝(るつぼ)- 戦国末期の日本経済
江戸金座の設立という画期的な事変は、決して平穏な時代の中から生まれたものではない。それは、百年にわたる戦乱がもたらした深刻な経済的混沌に対する、必然的な応答であった。徳川家康が解決すべき課題の根源を理解するためには、まず、彼が直面した戦国末期の貨幣経済がいかに絶望的な状況にあったかを詳らかにする必要がある。
渡来銭への依存と供給途絶
室町時代以来、日本の経済は中国大陸から輸入される銅銭、すなわち宋銭や明銭に深く依存していた 1 。商取引はもとより、年貢の徴収さえも米に代わって銭で納める「代銭納」が広く普及し、渡来銭はまさに国家経済の血液ともいえる役割を担っていた 1 。
しかし、この「外部」に依存する経済構造は、極めて脆弱なものであった。15世紀後半から、明王朝の海禁政策や国内情勢の変化により銅銭の公式な輸出は減少し、16世紀後半にはその流入がほぼ完全に途絶するに至る 1 。一方で、国内では商業が発展し、貨幣に対する需要は増大し続けていた。この供給と需要の致命的な不均衡は、市場に流通する貨幣の絶対量を著しく減少させ、経済活動の拡大とは裏腹に、深刻なデフレーション(貨幣価値の上昇と物価の下落)を引き起こしたのである 1 。
「撰銭(えりぜに)」という経済的疫病
貨幣の絶対的不足を補うため、市場には粗悪な私鋳銭や、長年の流通で摩耗・破損した古銭(鐚銭)が大量に溢れかえった 1 。これらは「京銭」や「打平」などと呼ばれ、経済の潤滑油となるどころか、新たな混乱の火種となった 1 。
人々は自己防衛のために、取引の現場で良質な銭貨を選び、質の悪い銭貨の受け取りを拒否するようになった。この「撰銭」と呼ばれる行為は、瞬く間に全国へ蔓延した 2 。その結果、中世以来の「銭貨1枚=1文」という貨幣価値の基本原則は完全に崩壊し、銭の種類によって価値が異なるという異常事態が常態化した 2 。決済機能は麻痺し、商取引は著しく停滞。経済全体が深刻な機能不全に陥ったのである 5 。
この撰銭問題の本質は、単なる貨幣の物理的な品質問題に留まらない。それは、貨幣の価値を公的に保証すべき為政者の権威が失墜した、「信認」の崩壊であった。人々は幕府や大名が発布する法令よりも、自らの財産を守るための撰銭という私的行為を優先した。これは、当時のいかなる権力者も、経済秩序を維持する能力を喪失していたことの動かぬ証拠であった。したがって、後に徳川家康が着手する貨幣統一事業は、単に利便性の高い通貨を供給するという経済政策の次元を超え、失われた「公」の権威を経済の根幹から再構築し、国家の信認そのものを回復させようとする、極めて高度な政治的行為であったと位置づけることができる。
為政者の無力と経済の後退
室町幕府や各地の戦国大名も、この混乱を座視していたわけではない。彼らは撰銭を禁じ、悪銭と良銭の交換比率を定める「撰銭令」を繰り返し発布した 4 。しかし、根本的な貨幣不足が解決されない限り、これらの法令はほとんど実効性を伴わず、かえって現場の混乱を助長することさえあった 5 。
貨幣経済への深刻な不信感は、一部で経済を再び後退させた。人々は不確かな銭貨を避け、価値の安定した米や布などを取引の媒体として用いる物品貨幣への回帰現象さえ見られた 1 。この貨幣価値の低下と流通の混乱という経済情勢は、後の豊臣政権や江戸幕府が、貨幣単位の「貫高制」ではなく、米の収穫量を基準とする「石高制」を統治の根幹に据える一因ともなったのである 8 。
皮肉なことに、この銅銭経済の行き詰まりが、次代の貨幣システムへの扉を開くことになった。銅銭の供給不足が引き起こしたデフレーションは、経済を停滞させる深刻な病であった 1 。この苦境の中、為政者たちは新たな価値媒体を切望した。折しも、戦国時代を通じて鉱山開発技術は飛躍的に進歩し、国内における金銀の産出量が増加していた 9 。不安定な「外部」からの供給に依存する銅銭システムから脱却し、自給可能な「内部」の資源である金銀を新たな貨幣として活用しようという発想は、まさに時代の要請であり、経済的必然であった。
第一章:黎明の光芒 - 戦国大名たちの貨幣を巡る苦闘
序章で示した経済的混沌という課題に対し、天下統一を目指す戦国の覇者たちは、それぞれ独自のアプローチで解決を試みた。彼らの挑戦と、その限界を明らかにすることは、徳川家康の政策が先人たちの試行錯誤の集大成として結実したものであることを理解する上で不可欠である。
武田信玄の先進的試み「甲州金」
戦国大名の中でも、武田信玄は貨幣政策において抜きん出た先進性を示した。彼は領国である甲斐国に点在する豊富な金山に着目し、これを背景として日本史上初ともいえる体系的な金貨「甲州金」を鋳造したのである 9 。
甲州金の最も画期的な点は、それが単なる金の塊ではなく、明確な価値体系を持つ「計数貨幣」であったことだ 10 。それまでの金は、取引の都度、重さを天秤で測って価値を決める「秤量貨幣」として扱われるのが一般的であった。しかし甲州金には額面が打刻され、数えるだけで価値がわかるという、近代貨幣に近い性格を持っていた。
さらに信玄は、「両・分・朱」を基本単位とし、両$=4$分、$1$分$=4$朱とする四進法の単位系を確立した 10 。この合理的で優れた単位系は、後の江戸幕府が金貨制度を確立する際に、ほぼそのまま継承されることとなる 14 。甲州金は金の純度も高く、その信頼性の高さから「太鼓判を押す」という言葉の語源になったという説もあるほどであった 11 。しかし、その先進性にもかかわらず、甲州金の流通はあくまで武田氏の領国内、およびその周辺地域に限定された「領国貨幣」の域を出ることはなかった。
織田信長の構想「天下布武」と通貨秩序
天下布武を掲げた織田信長は、楽市楽座や関所の撤廃といった物流革命を推し進める一方で、通貨秩序の再建にも着手した 10 。彼の政策は、個別の領国を超えた、より広域的な視野に立っていた。
信長は、高額な取引においては金銀の使用を奨励し、逆に米を通貨として用いることを禁じるなど、貨幣の役割分担を明確化しようと試みた 1 。そして、彼の政策の中で特に重要なのは、金・銀・銭という異なる種類の貨幣間に、初めて公的な交換レートを設定した点である 1 。例えば、金10両を銅銭15貫文と定めるなど、価値基準が崩壊していた通貨間に新たな秩序を打ち立てようとした。これは、特定の貨幣を鋳造すること以上に、通貨システム全体を統制しようとする中央政権的な発想の萌芽であり、そのビジョンは時代を大きく先取りするものであった。
豊臣秀吉の権威の象徴「天正大判」
日本を統一した豊臣秀吉は、佐渡金山や石見銀山をはじめとする全国の主要鉱山をことごとく直轄領とし、前代未聞の量の金銀をその手中に収めた 17 。この莫大な富を背景に、秀吉は京都の金工師の名門・後藤家に命じ、世界最大級の金貨「天正大判」を鋳造させた 17 。
しかし、この天正大判は、一般市場で流通する通貨として意図されたものではなかった。その主たる用途は、功績のあった家臣への恩賞や、大名間の贈答といった儀礼的な場面に限られていた 18 。天正大判は、経済を円滑にするための道具ではなく、秀吉個人の絶大な富と権威を天下に誇示するための象徴だったのである。彼の関心は、安定した通貨制度を構築することよりも、富そのものを蓄積し、政治的に利用することに集中していた。そのため、秀吉の時代に体系的な全国統一貨幣制度が確立されることはなかった。
これらの先人たちの遺産を分析すると、徳川家康の貨幣統一事業が、いかに巧みに過去の成功と失敗の上に成り立っていたかが明らかになる。家康は、武田信玄が領国レベルで完成させた「計数貨幣」と「四進法の単位系」という具体的なシステムを採用した 12 。そして、織田信長が示した「全国規模での公定交換レート」というビジョンを国家レベルで実現しようとした 1 。その事業の原資となったのは、豊臣秀吉が中央に集権させた全国の鉱山であった。家康の偉業は、孤立した天才の閃きによるものではなく、先人たちの遺産を批判的に継承し、統合・昇華させた、歴史の連続性の上に立つものであったと言える。
第二章:天下人の経済戦略 - 徳川家康のグランドデザイン
1600年の関ヶ原の戦いにおける勝利は、徳川家康に天下の実権をもたらした。しかし、軍事的な勝利は、新たな国家建設の始まりに過ぎない。家康は、武力によって得た覇権を恒久的なものとするためには、経済という国家の土台を盤石に固める必要があることを深く理解していた。その壮大な構想を実現するため、彼は矢継ぎ早に貨幣統一という大事業に着手する。
関ヶ原の勝利を経済で固める
家康の行動は迅速であった。関ヶ原の戦いからわずか半年後の慶長6年(1601年)、彼は政治機構の本格的な整備に先んじて、貨幣制度の統一に乗り出した 21 。これは、貨幣の発行権という経済の根幹を幕府が完全に掌握し、全国支配を経済面から徹底することで、来るべき幕藩体制の財政的基盤を確立しようとする、極めて戦略的な一手であった 21 。古代の皇朝十二銭以来、約650年ぶりに日本の中央政権が全国通用の統一貨幣を発行するという、まさに歴史的な事業の幕開けであった 21 。
家康の思想の根底には、高品質な貨幣がもたらす権威と信認の重要性に対する深い認識があった。彼は、金貨を「世人から尊敬をうけるように最も価値あるものにすべし」と考えており、貨幣の価値が、それに含まれる貴金属の価値だけでなく、発行者の権威によって保証されることを見抜いていた 24 。
キーパーソン①:大久保長安 ― 黄金を生み出す鉱山経営の天才
家康の壮大な構想も、それを支える物質的基盤、すなわち潤沢な金銀がなければ画餅に終わる。ここで歴史の表舞台に登場するのが、大久保長安という異能のテクノクラートである。
長安は元々、武田信玄に仕えた猿楽師の子という異色の経歴の持ち主であった 25 。しかし、彼は武田家の下で鉱山経営に関わり、その非凡な才能を開花させていた。武田家滅亡後、家康は彼の鉱山に関する豊富な知識と経営手腕を見抜き、金山奉行、後には代官頭という要職に抜擢した 25 。
長安は、西洋から伝わったとされる最新の精錬技術や採掘技術を積極的に導入し、旧来の鉱山技術を一新した 26 。彼の指揮の下、佐渡金山や石見銀山といった幕府直轄の鉱山は、その産出量を飛躍的に増大させた 25 。この長安による金銀の大増産こそが、全国規模での金銀貨鋳造を可能にし、設立間もない徳川幕府の財政基盤を文字通り「地中」から支えたのである 26 。
キーパーソン②:後藤庄三郎光次 ― 黄金を貨幣に変える鋳造技術の巨匠
潤沢な金銀を、国家の信認を担う高品質な貨幣へと変えるためには、当代随一の技術者が必要であった。その重責を担ったのが、後藤庄三郎光次である。
光次は、豊臣秀吉の下で天正大判の製造を担った京都の名門、後藤徳乗の門下で腕を磨いた、卓越した彫金・鋳貨技術を持つ職人であった 29 。彼は豊臣秀吉の命を受け、徳乗の名代として家康のいる関東へ下向し、関ヶ原の戦いよりも前の1595年(文禄4年)には、すでに江戸で小判の試作を始めていた 29 。
家康は光次の技術力のみならず、その聡明さをも高く評価し、単なる職人としてではなく、側近として重用した。光次は、金貨鋳造の最高責任者である「御金改役」として金座を統括するだけでなく、銀貨を鋳造する銀座の設立にも深く関与し、家康の財政・貿易顧問としてもその手腕を発揮した 29 。
家康の貨幣統一事業の成功は、彼の構想力もさることながら、それを実現する専門家を適材適所に配置した戦略的人事の賜物であった。特筆すべきは、大久保長安が旧武田家臣、後藤庄三郎が豊臣家御用達の職人であったという事実である 26 。新政権が旧体制の人間を排除するのではなく、出自や過去の所属を問わず、その分野で最高の能力を持つ専門家を抜擢し、国家事業の中枢に据えた。この極めてプラグマティックな実力主義こそ、家康が信玄や秀吉も成し得なかった全国規模での貨幣統一を成功させた、最大の要因の一つであった。
【表1】主要戦国大名の貨幣・経済政策比較表
政策主体 |
主要政策 |
発行貨幣とその性格 |
制度的革新性 |
歴史的意義・限界 |
武田信玄 |
甲州金の鋳造と領国経済の安定化 |
甲州金(金貨) 【領国貨幣・流通貨幣】 |
・日本初の体系的な「計数貨幣」 ・「両・分・朱」の四進法単位系を確立 |
後の江戸幕府金貨制度の雛形となるが、あくまで領国レベルに留まる。 |
織田信長 |
楽市楽座、金銀使用の奨励 |
(特定の統一貨幣はなし) |
・金、銀、銭の「公定交換レート」を設定 ・通貨の役割分担を志向 |
全国的な通貨システム構築のビジョンを示したが、志半ばで頓挫。 |
豊臣秀吉 |
全国鉱山の直轄化、富の集積 |
天正大判(金貨) 【全国規模・儀礼用貨幣】 |
・貨幣発行権の中央集権化 |
経済安定よりも権威の誇示が目的。体系的な通貨制度は未構築。 |
徳川家康 |
慶長金銀の制定、金座・銀座の設置 |
慶長小判・丁銀など 【全国統一貨幣・流通貨幣】 |
・武田のシステムと信長のビジョンを融合 ・三貨制度の確立 |
戦国時代の経済的混沌を終結させ、近世日本の経済基盤を確立した。 |
第三章:江戸金座、始動 - 慶長六年に至る道程(ドキュメント 1595-1601)
慶長6年(1601年)の江戸金座設置は、ある日突然行われたわけではない。それは、関ヶ原の戦いを挟む激動の数年間に、徳川家康の周到な計画の下で進められた一連の動的なプロセスであった。ここでは、その道程を時系列で再構築し、歴史的瞬間のリアルタイムな展開を追う。
1595年(文禄4年):江戸における黎明
この年、徳川家康は、まだ豊臣政権下の一大名であったにもかかわらず、将来を見据えた布石を打っていた。彼は京都から当代随一の金工師・後藤庄三郎光次を江戸に招聘し、江戸城に近い本石町に屋敷と仕事場を与え、小判の鋳造を開始させた 31 。この時点で鋳造された小判は、あくまで徳川領内で通用する貨幣という位置づけであったが、これは家康が天下獲りの構想の中に、経済的自立と独自の通貨発行を当初から組み込んでいたことを示唆している。関ヶ原の合戦の実に5年も前から、来るべき新時代のための準備は水面下で着々と進められていたのである。この長期的な準備こそが、勝利後の迅速な政策展開を可能にした。金座設置は、決して勝利後の思いつきではなく、家康のグランドデザインに不可欠な戦略的要素であった。
1600年(慶長5年):天下分け目の戦いと経済基盤の掌握
9月15日、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍が勝利し、天下の実権は事実上、家康の手に帰した。軍事的な勝利を確定させた家康は、間髪入れずに経済基盤の掌握へと動く。彼は、これまで豊臣家が直轄していた佐渡金山や石見銀山といった全国の主要鉱山を、次々と幕府の直轄領として接収した 15 。そして、その経営の切り札として、旧武田家臣の大久保長安を佐渡代官などに任命し、金銀の増産体制を本格化させた 27 。これにより、全国統一貨幣を鋳造するための物質的基盤が、急速に整えられていった。
1601年(慶長6年):新時代の幕開け
関ヶ原の勝利からわずか半年後の5月、徳川家康は満を持して、全国に通用する統一貨幣として「慶長金銀」を制定する法令を発布した 23 。これは、各大名が勝手に貨幣を製造することを禁じ、貨幣発行権を徳川家に一元化する、という断固たる宣言であった 23 。
この法令に伴い、具体的な鋳造体制が整備された。
- 金座の正式設置 : 1595年以来、後藤庄三郎の私的な仕事場であった江戸本石町の役宅が、この時をもって正式に幕府の金貨鋳造所「金座」となった 32 。この場所は、奇しくも後の日本の金融中枢、日本銀行本店の所在地となる 23 。
- 銀座の設置 : 同時に、銀貨の鋳造所である「銀座」が、当時の経済の中心地の一つであった京都の伏見に設立された 23 。これは、西国で広く流通していた銀貨の重要性を認識し、上方の経済実態を尊重した現実的な措置であった。
この金座の組織は、後藤庄三郎家が代々世襲する「御金改役」を頂点としていた 29 。御金改役は、金貨の品位や量目を最終的に鑑定し、その品質を保証する極印を打つという、極めて権威ある役割を担った。そして、その下で実際の鋳造作業を行う職人集団「小判師(小判座)」が、金座の周辺に集住し、御金改役の厳格な管理下に置かれた 32 。当初は江戸の他に駿府、京都、佐渡などでも金貨は鋳造されたが、管理体制の強化とともに、その機能は徐々に江戸の金座へと一本化されていくことになる 31 。
第四章:新時代の金貨「慶長小判」- その誕生と仕様の秘密
江戸金座の始動とともに、新たな時代の基軸通貨として誕生したのが「慶長小判」および「慶長一分金」である。これらの金貨は、単なる決済手段ではなく、徳川幕府の技術力、経済思想、そして絶対的な権威の象徴として、細部に至るまで計算し尽くされた仕様を備えていた。
慶長小判の仕様
- 額面 : 一両。これが江戸時代の金貨の基本単位となった。
- 量目(重さ) : 規定では四匁七分六厘、現代の単位で約17.76グラムと定められていた 40 。この厳格な重量管理が、貨幣の信認を支える基礎となった。
- 品位(純度) : 金の含有率は約84%から86%で、残りは主に銀であった 40 。これは、家康の「最も価値あるものにすべし」という思想を反映した高品位なものであり、同時に、銀を合金とすることで鋳造しやすく、かつ流通における摩耗にも耐えうる実用性を確保する狙いがあった 24 。
- 意匠 : 表面には、偽造防止と装飾を兼ねた茣蓙目(ござめ)と呼ばれる槌目(つちめ)が規則正しく打たれている。そして、上下には桐紋、中央には「壱両」という額面表示、さらにその下には鋳造責任者である後藤庄三郎光次の花押(サイン)が、極印として明確に刻印されていた 44 。豊臣秀吉の天正大判が額面を墨で手書きしていたのに対し、慶長小判ではすべての表示を極印に切り替えた。これにより、品質の均一化と大量生産が可能となり、全国流通への道が開かれた 15 。
慶長一分金の仕様
- 額面 : 一両の四分の一にあたる「一分」。小判よりも少額の取引に対応するための補助貨幣であった。
- 量目(重さ) : 小判の四分の一にあたる約4.44グラムと規定されていた 44 。
- 品位(純度) : 小判とほぼ同等の金銀比率で製造され、額面に応じた価値が保証されていた 44 。
- 意匠 : 形状は扱いやすい短冊形で、表面には上下に桐紋、中央には「一分」の文字が刻印されていた 44 。
この慶長小判のデザインは、単なる美観の問題ではなく、高度な政治的意図を秘めた意匠であった。表面に刻まれた「桐紋」は、皇室や、かつては豊臣家も使用した権威の象徴である 44 。これを採用することで、徳川家が豊臣政権を継承する正統な天下人であることを視覚的にアピールする狙いがあったと考えられる。一方で、中央には鋳造責任者である後藤光次の「花押」が明確に刻まれている 44 。これは、この金貨の品質が、後藤家という当代随一の技術者集団によって保証されていることを示す、いわば「品質保証マーク」としての役割を果たした。すなわち慶長小判は、「徳川の政治的権威」と「後藤の技術的権威」という二重の権威によってその価値が担保された、極めて巧妙な設計の貨幣だったのである。
当時の価値
慶長小判一両が、現代の日本円でいくらに相当するのかを正確に算出することは極めて難しい。その価値は、米価を基準にするか、大工の賃金を基準にするか、あるいは蕎麦一杯の値段を基準にするかによって、大きく変動するためである 46 。しかし、一つの目安として、江戸時代初期においては、米価を基準とした場合、
1両=約10万円 程度であったとする見方が有力である 48 。この換算に基づけば、「千両箱」は約1億円の価値を持つことになり、その重みが実感できる 41 。
【表2】慶長小判・慶長一分金 仕様一覧
項目 |
慶長小判 |
慶長一分金 |
額面 |
壱両 |
壱分(両) |
規定量目 |
四匁七分六厘(約17.76g) |
一匁一分九厘(約4.44g) |
規定品位 |
金:約84-86% 銀:約14-16% |
金:約85-86% 銀:約14-15% |
形状 |
楕円形 |
長方形(短冊形) |
表面意匠 |
茣蓙目、桐紋(上下)、 「壱両」極印、後藤光次花押 |
桐紋(上下)、 「一分」極印 |
裏面意匠 |
後藤光次花押、 小判師・吹所験極印 |
後藤光次花押 |
鋳造期間 |
慶長6年(1601年)~元禄8年(1695年) |
慶長6年(1601年)~元禄8年(1695年) |
第五章:三貨制度という新たな秩序 - 日本経済の再構築
江戸金座・銀座の設置と慶長金銀の発行は、単一の貨幣による全国統一を目指したものではなかった。徳川幕府が構築したのは、金貨・銀貨・銭貨という三種類の性格の異なる貨幣が、それぞれ独自の役割を担いながら並行して流通するという、世界でも類を見ない複雑な「三貨制度」であった。この制度は、戦国時代以来の多様な経済的実態を巧みに包摂し、新たな秩序を創り出すための、壮大な社会実験でもあった。
三貨制度の構造
この制度は、貨幣の種類と使用される地域、そして決済の規模によって、明確な棲み分けがなされていた。
- 金貨(計数貨幣) : 慶長小判や一分金を筆頭とする金貨は、額面が定められた計数貨幣であった 49 。単位は「両・分・朱」の四進法で統一され、主として武士への俸禄の支払いや高額な決済に用いられた。地理的には、幕府の拠点である江戸を中心とした東日本で広く流通し、「東国の金遣い」という言葉が生まれた 50 。
- 銀貨(秤量貨幣) : 丁銀や豆板銀といった銀貨は、金貨とは異なり、重さそのものが価値となる秤量貨幣であった 49 。単位は重さを示す「貫・匁・分」であり、取引の都度、天秤で計量する必要があった。銀貨は商取引の主要な決済手段として、経済先進地域であった大坂を中心とする西日本で絶大な影響力を持ち、「西国の銀遣い」と称された 50 。西日本で銀が主流であった背景には、西日本に銀の産地が多かったことに加え、古くから中国との貿易において銀が国際決済通貨として用いられてきた歴史的経緯がある 51 。
- 銭貨(計数貨幣) : 庶民の日常的な少額決済には、銅や真鍮で鋳造された銭貨が用いられた 49 。単位は「貫文・文」であった。慶長金銀制定当初は、依然として渡来銭や私鋳銭が流通していたが、1636年(寛永13年)に幕府が「寛永通宝」の鋳造を開始すると、これが全国標準の銭貨として急速に普及していった 15 。
変動相場制という特徴
三貨制度のもう一つの大きな特徴は、金・銀・銭という三つの貨幣間の交換レートが固定されていなかった点である。幕府は慶長14年(1609年)に「金1両=銀50匁=銭4貫文」といった公定相場を示しはしたものの、これはあくまで目安であった 15 。実際の取引は、大坂や江戸の両替商市場で日々変動する時価相場に基づいて行われた 50 。これは、金と銀をそれぞれ独立した価値を持つ貴金属商品として捉え、その需給バランスによって価値が決まるという、極めて市場原理に基づいた現実的なシステムであった。
旧貨幣から新貨幣への移行
新制度の確立は、旧来の多様な貨幣をいかにして新貨幣へと統合していくかという、困難な課題を伴った。幕府は、まず各大名が独自に貨幣を鋳造することを厳しく禁じ、貨幣発行権を完全に一元化した 23 。これにより、新たな領国貨幣が生まれることはなくなった。
既存の領国貨幣については、幕府が鉱山を直轄化したことで原料の供給が断たれ、新規の製造が困難となった。そして、時間をかけて徐々に市場から回収され、慶長金銀へと改鋳されていった 15 。ただし、武田氏の甲州金のように、品質が高く信頼性のある貨幣については、例外的にその後も長期間にわたって流通が認められるなど、柔軟な運用もなされた 14 。
撰銭問題の元凶であった悪質な渡来銭や私鋳銭に対しては、まず公定レートを定めて慶長金銀との交換を促し、その価値を相対的に引き下げる政策がとられた。そして最終的には、寛永通宝の大量発行と、1670年(寛文10年)の通用停止令によって、これらの古銭は市場からほぼ一掃され、銭貨の統一も達成された 15 。
一見すると非効率にも思えるこの複雑な三貨制度と変動相場制は、実は徳川家康の高度な政治的判断の産物であった。なぜ、彼は強力な権力を背景に、全国を金貨で統一しなかったのか。その答えは、西日本の経済が、中国貿易に根差した強固な「銀経済圏」として自立的に発展していた現実にある 51 。もしこれを無理やり金貨本位制に転換させれば、大坂商人を中心とする西国経済に大打撃を与え、新政権に対する深刻な反発を招くことは必至であった。そこで家康は、東国は「金」、西国は「銀」という既存の経済秩序をあえて追認し、両者を市場原理(変動相場)という柔軟なメカニズムで結びつけるという、柔らかな統合策を選んだ。これは、多様性を認めつつ全体を緩やかに統合するという、江戸幕府の統治哲学そのものを体現している。三貨制度の複雑さは、非効率性の現れではなく、日本の経済的・地理的多様性に適応した、現実主義的で持続可能なシステムを構築しようとした知恵の結晶だったのである。
【表3】江戸初期の三貨制度と公定交換レート
貨幣種別 |
貨幣の性格 |
主要貨幣 |
単位系 |
主な使用地域 |
慶長14年(1609年)公定レート |
金貨 |
計数貨幣 |
慶長小判、一分金 |
両・分・朱(四進法) |
江戸を中心とする東日本 |
金 1両 |
銀貨 |
秤量貨幣 |
丁銀、豆板銀 |
貫・匁・分(十進法) |
大坂を中心とする西日本 |
銀 50匁 |
銭貨 |
計数貨幣 |
永楽通宝、鐚銭 (後に寛永通宝) |
貫文・文(十進法) |
全国の日常決済 |
銭 4貫文 |
終章:貨幣が創り出した二百六十年の平和
慶長6年(1601年)の江戸金座設置は、単なる通貨制度の改革という枠組みを遥かに超え、その後二百六十有余年にわたる江戸時代の長期安定、すなわち「パクス・トクガワーナ」の礎を築いた、画期的な国家事業であった。
経済的基盤の確立
第一に、金座が鋳造した良質で統一された貨幣は、全国的な市場経済の形成を劇的に促進した。戦国時代には撰銭によって寸断されていた決済システムが円滑化し、遠隔地間の取引が安全かつ確実に行えるようになった。家康が金座設置とほぼ同時期に推し進めた五街道の整備(1601年~)という物理的なインフラと、慶長金銀という金融的なインフラが両輪となることで、日本列島における人・モノ・カネの流通は、かつてない規模で活発化したのである 15 。
第二に、安定した通貨制度は、徳川幕府の財政基盤を盤石なものとした。貨幣発行権の独占は、幕府に強大な経済的権力をもたらした 22 。後の時代、幕府が財政難に陥った際に、小判に含まれる金の含有量を減らして差益を得る「貨幣改鋳」という手段を繰り返し用いることができたのも、この発行権の独占があったからに他ならない 22 。これは、幕府の統治を維持するための重要な安全弁として機能した。
東アジア通貨圏からの自立
歴史的に見れば、日本の貨幣経済は長らく中国大陸の動向に左右されてきた。渡来銭への全面的な依存は、その象徴であった。しかし、江戸金座の設置と国内の金銀を基盤とする独自の貨幣体系の確立は、この長年の従属関係に終止符を打ち、日本が中国を中心とする東アジアの通貨圏から経済的に自立したことを意味した 15 。この経済的自立は、後に幕府が「鎖国」という対外政策を選択し、維持することを可能ならしめる、重要な前提条件の一つとなったのである。
歴史的意義の総括
結論として、江戸金座の設置は、戦国時代を通じて日本経済を蝕んできた貨幣の混乱という名の病に、最終的な治療を施した事業であった。それは、日本に初めて持続可能で安定した全国規模の貨幣経済をもたらし、軍事力による天下統一を、経済というインフラによって完成させる「総仕上げ」であったと言える。この経済的安定なくして、二百六十年以上にも及ぶ平和な時代の現出はあり得なかったであろう。
今日、かつて江戸本石町に金座が置かれたその場所に、現代日本の金融中枢である日本銀行本店が建っていることは、単なる偶然ではない 23 。それは、徳川家康が1601年に築いた経済的秩序が、形を変えながらも現代にまで続く、歴史の確かな連続性を象徴しているのである。
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