池田輝政播磨入封(1600)
慶長五年、池田輝政は関ヶ原の功により播磨52万石に封じられ、姫路城に入城。徳川家康の娘婿として西国将軍と称され、姫路城大改築で徳川の威光を示し、西国支配の要を担った。
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慶長五年 池田輝政播磨入封 ―「西国将軍」誕生の軌跡―
序章:天下の分水嶺 ― 豊臣から徳川へ
慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉が伏見城でその生涯を閉じると、日本は巨大な権力の真空状態に陥った。秀吉が遺した幼い嫡子・秀頼を頂点とする豊臣政権は、五大老と五奉行による集団指導体制へと移行するが、その均衡はあまりにも脆いものであった。五大老筆頭として関東に250万石の広大な領地を擁する徳川家康は、秀吉の死を待っていたかのようにその影響力を急速に拡大させ、諸大名との私的な婚姻政策などを通じて、徐々に天下の実権を掌握し始める 1 。これに対し、五奉行の筆頭格である石田三成は、秀吉の遺志を遵守することを大義名分とし、家康の専横を鋭く批判。両者の対立は、豊臣政権を内部から二分する深刻な亀裂となっていった 2 。
この天下の分水嶺にあって、池田輝政は極めて特異かつ重要な立場に置かれていた。輝政は、父・恒興が織田信長の乳兄弟であったことから、織田、豊臣の両政権において譜代の重臣として重用された、紛れもない豊臣恩顧の大名であった 3 。しかしその一方で、彼の運命を大きく左右する転機が、秀吉の采配によってもたらされていた。慶長3年(1594年)、輝政は秀吉自身の斡旋により、徳川家康の次女・督姫を継室として迎えていたのである 5 。
この婚姻は、秀吉が強大化する家康を懐柔し、同時にその動向を監視するための楔として、腹心である輝政を送り込んだ政略であった 6 。しかし、秀吉の死後、この政略は全く逆の意味を持つことになる。輝政と督姫の夫婦仲は円満であり、多くの子女に恵まれた 8 。この強固な血縁関係は、輝政と家康の間に、単なる主従や同盟者という関係を超えた、個人的な信頼を醸成する素地となったのである 6 。
結果として、輝政は豊臣家と徳川家の双方に極めて深い縁故を持つ、類稀な存在となった。他の豊臣恩顧大名が、秀吉への恩義と家康の実力との間で去就に迷う中、輝政は「家康の娘婿」という、他の誰も持ち得ない明確な立場を有していた。秀吉存命中は家康への牽制として機能したこの関係は、秀吉の死によって、家康が豊臣恩顧の大名を切り崩すための最重要の「橋頭堡」へとその役割を変質させた。輝政の決断は、もはや一個人の選択に留まらず、東海道筋に配置された他の豊臣系大名の動向を左右する「指標」となる運命にあったのである 6 。
第一章:決断の刻 ― 輝政、東軍に馳せ参ず
慶長5年(1600年)6月、徳川家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑ありとして、諸大名を率いてその討伐へと向かう。これは、豊臣政権下の大老として、秀頼の名の下に行われる公式な軍事行動であった。しかし、この家康の行動の裏には、自らに従わぬ勢力を一掃し、天下の覇権を確立しようとする明確な意図が隠されていた 1 。家康が江戸を発ち、大坂から遠く離れた隙を突いて、7月、石田三成は毛利輝元を総大将に擁立し、反家康の兵を挙げる。天下分け目の戦いの火蓋は、ここに切られた。
この時、池田輝政は三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)に15万2千石を領する城主であった 6 。吉田城は、家康の本拠地である江戸と、豊臣政権の中心地である大坂・京都を結ぶ東海道のほぼ中間に位置する、軍事上・交通上の最重要拠点であった。輝政の動向は、東海道の制圧権、ひいては東西両軍の戦略そのものを左右するほどの重みを持っていた。
輝政の決断は早かった。天下の趨勢が家康にありと見定めた彼は、迷うことなく東軍への参加を表明する。かつて、父・恒興と兄・元助は、家康と敵対した小牧・長久手の戦いで討ち死にを遂げている 4 。この過去の宿縁を乗り越えての決断は、輝政が私情に流されることなく、冷静に天下の情勢を分析する大局観を持っていたことを示している。三成が諸大名の妻子を人質に取るという強硬策に出たことも、福島正則ら武断派の豊臣恩顧大名を家康支持へと追いやる結果となり、輝政にとっても東軍に与する格好の口実となった。
その忠誠を決定的なものとして天下に示す機会は、すぐに訪れた。会津へ向かう途上で三成挙兵の報に接した家康は、軍を西に返し、7月21日、輝政の居城である吉田城に立ち寄った 10 。輝政は家康を手厚く饗応し、その指揮下に入ることを公然と表明した。この出来事は、単なる歓待ではなかった。それは、西軍に対する明確な示威行動であり、「東海道は完全に東軍が掌握した」という強烈なメッセージを全国に発信する効果を持った。輝政のこの行動に追随するように、山内一豊や堀尾忠氏といった東海道筋の豊臣系大名が雪崩を打って東軍に加わったことは、関ヶ原の本戦が始まる前に、すでに家康に大きな戦略的優位をもたらしていたのである 6 。
第二章:戦功への序曲 ― 岐阜城、一日での陥落
関ヶ原の本戦に先立ち、東軍の進路を阻む最大の障壁は、美濃国にそびえる岐阜城であった。城主は織田信長の嫡孫・織田秀信。13万石を領し、西軍の東海道方面における防衛の要として、東軍を迎え撃つ態勢を整えていた。石田三成の戦略では、この難攻不落とされた岐阜城が最低でも数日間は東軍の足止めをすることを前提としていた 11 。しかし、この想定は、池田輝政という一人の武将の存在によって、根底から覆されることになる。
慶長5年8月22日、池田輝政と福島正則を主力とする東軍先鋒隊約1万8千は、尾張国から木曽川の渡河を開始した 12 。これに対し、織田秀信は兵力を分散させて各所に陣を敷いていたが、輝政は兵力を集中させて一点を突破する戦術を選択 11 。木曽川を渡った東軍は、まず前哨戦である「米野の戦い」で秀信の迎撃部隊を撃破した 14 。
翌8月23日早朝、東軍は岐阜城下へと進軍する。ここで輝政と福島正則が、城攻めの先陣を巡って激しく功を争う一幕があったが、両者は和解し、共同で城攻めを開始することが決まった 5 。そして、この攻城戦において、輝政が持つ「決定的な有利」が遺憾なく発揮される。輝政は、かつて天正13年(1585年)から天正18年(1590年)にかけて岐阜城主を務めており、城の構造、縄張り、そして弱点を隅々まで熟知していたのである 13 。
輝政の的確な指示のもと、東軍は城の弱点を突き、瞬く間に二の丸まで侵攻する 13 。兵力を消耗し、籠城を余儀なくされた秀信は、本丸まで攻め込まれると自害を図ろうとした。しかし、輝政らの説得により降伏を決意 12 。かくして、西軍の防衛計画の要であった岐阜城は、わずか一日で東軍の手に落ちた 11 。
この「一日での陥落」という衝撃的なニュースは、西軍に計り知れない動揺を与えた。三成の戦略は初手から大きく狂い、対応は後手に回らざるを得なくなった 11 。一方、東軍の士気は大いに高まり、関ヶ原へ向けてほぼ無傷で進軍する態勢を整えることができた。輝政は陥落の翌8月24日には、福島正則と連名で周辺地域への乱暴狼藉を禁じる制札を発布しており、単なる戦闘指揮官としてだけでなく、家康の代理として戦後の秩序回復を担う統治者としての能力も示している 17 。この岐阜城攻めにおける圧倒的な軍功こそが、戦後の論功行賞において、輝政が他の武将を大きく引き離す評価を得て、播磨一国という破格の恩賞を拝領する最大の要因となったのである 5 。
第三章:関ヶ原、静かなる対峙
慶長5年9月15日、美濃国関ヶ原において、東西両軍合わせて十数万の兵力が激突する天下分け目の決戦が始まった 19 。この日、池田輝政は、主戦場からやや南に離れた南宮山の麓、御所野に陣を構えていた 9 。彼の部隊が、派手な斬り合いを演じることはなかった。しかし、その役割は東軍の勝利にとって不可欠な、極めて重要な戦略的任務であった。
輝政の正面にそびえる南宮山には、西軍の毛利秀元を総大将とし、吉川広家、安国寺恵瓊らが率いる1万5千以上の大軍が布陣していた 18 。この毛利勢は、主戦場で戦う東軍の側面と背後を脅かす最大の脅威であり、関ヶ原における最大の「不確定要素」であった。もし彼らが一斉に山を下り、東軍の側背を突けば、いかに家康といえども壊滅的な打撃を被る可能性があった。
輝政に与えられた任務は、この毛利の大軍を南宮山に釘付けにし、決して平野の主戦場に参加させないことであった 5 。東軍に内応していた吉川広家が「宰相殿の弁当」と称して毛利秀元の出陣を阻んだという逸話は有名であるが、それは輝政の強力な部隊が眼前に睨みを利かせていたからこそ有効に機能したのである。万一、毛利勢が動く気配を見せれば、即座にこれを迎撃し、食い止める。この重責を、家康は最も信頼する娘婿の輝政に委ねた。
この配置は、岐阜城攻めの功績と、輝政の忠誠心・能力に対する家康の絶対的な評価の証左であった。家康は、輝政が南宮山の抑えとして完璧に機能することを信じていたからこそ、主戦場での采配に集中し、松尾山の小早川秀秋への調略を成功させる時間的猶予を得ることができた。輝政の「静かなる対峙」は、一見地味ではあるが、東軍勝利の盤石な礎を築いた、隠れたる大功績だったのである。
第四章:天下統一の総仕上げ ― 論功行賞と播磨の戦略的価値
慶長5年9月15日の夕刻までに、関ヶ原の戦いは東軍の圧倒的勝利に終わった 19 。戦いの後、徳川家康は事実上の天下人として、戦後処理と論功行賞を主導する 22 。西軍に与した大名は容赦なく処分され、改易(領地没収)90家、減封(領地削減)4家、その没収・削減された所領は合計で約632万石にも及んだ 23 。これにより生まれた広大な無主の土地を、家康は自らの直轄領と、東軍に味方した大名への恩賞として再配分し、徳川の世の礎となる新たな全国統治体制を構築していった。
この大規模な領地再編の中で、特に大きな変化を遂げたのが播磨国であった。戦前、播磨には木下一族をはじめとする豊臣恩顧の大名が多数配置されていたが、彼らは西軍に与したか、あるいは中立を守ったため、戦後に軒並み追放・転封された。その結果、播磨一国は、一時的に「権力の空白地帯」となったのである 24 。
家康は、この空白地帯となった播磨国を、新たな徳川体制における最重要戦略拠点と位置づけた。播磨は、京都・大坂といった畿内と、未だ毛利・島津といった豊臣恩顧の有力大名が割拠する西国とを結ぶ、陸路(山陽道)と海路(瀬戸内海)の結節点である。この国の支配は、西国全体の物流と軍事行動を掌握することを意味した。家康は、この西国への「喉元」に、最も信頼できる人物を配置することで、徳川の支配を盤石なものにしようと図った。
その任に選ばれたのが、池田輝政であった。岐阜城攻めという比類なき軍功を挙げ、関ヶ原では南宮山の抑えという重責を果たし、そして何よりも家康の娘婿として絶対的な信頼を得ている輝政こそ、この役目に最も相応しい人物であった。家康は、輝政に対し、三河吉田15万2千石から、播磨一国52万石を与えるという破格の恩賞を決定した 5 。これは、関ヶ原の論功行賞において最大級の加増であり、単なる功績への報酬という枠を超え、徳川政権による新たな国家安全保障体制の構築の一環として、輝政個人に寄せられた絶大な期待の表れであった。輝政は、もはや単なる一大名ではなく、徳川幕府の「西国方面軍司令官」とも言うべき役割を担うことになったのである。
【表1】池田輝政の領地変遷(関ヶ原以前と以後)
項目 |
関ヶ原以前 |
関ヶ原以後 |
備考 |
領地 |
三河国 吉田 |
播磨国 姫路 |
国替え(転封) |
石高 |
15万2千石 |
52万石 |
36万8千石の大幅加増 |
地理的位置 |
東海道の要衝 |
山陽道の要衝 |
戦略的重要性が格段に向上 |
政治的役割 |
豊臣政権下での対家康牽制拠点 |
徳川政権下での対西国抑えの拠点 |
役割が180度転換 |
この表が示すように、輝政の地位の変化は、石高が3倍以上に増加したという経済的な側面以上に、その政治的・軍事的役割が「監視される側」から「監視する側」へと劇的に転換した点に本質がある。これは、輝政が徳川政権の中枢に完全に組み込まれたことを象徴する出来事であった。
第五章:播磨入封 ― 新たな支配者の誕生
池田輝政の播磨52万石への加増移封が決定されたが、その本拠地となる姫路城には、まだ前城主が存在した。木下家定、2万5千石の領主である。彼は豊臣秀吉の正室・高台院(ねね)の実兄であり、豊臣家にとっては最重要の親族の一人であった 26 。関ヶ原の戦いにおいて、家定は京都で高台院を警護するという名目で中立を保ち、東西いずれの軍にも与しなかった 28 。
家康は、この木下家定の処遇に細心の注意を払った。武力で姫路城を奪うことは、旧豊臣勢力、特に政界に隠然たる影響力を持ち続ける高台院の感情を著しく損なう危険性があった。そこで家康は、老練な政治手腕を発揮する。彼は家定の中立の立場を評価し、高台院への配慮から罰することなく、慶長6年(1601年)、備中国足守へ、石高も同じ2万5千石で移封するという、極めて穏便な処置をとったのである 26 。これは、豊臣家の権威を形式上尊重しつつ、実質的に徳川の支配を浸透させるという、高度な政治的駆け引きであった。
これにより姫路城は平和裏に明け渡され、池田輝政の入封への道が開かれた。慶長5年(1600年)12月、輝政は37歳で正式に姫路城に入り、播磨国主としての第一歩を記した 30 。この一連の交代劇は、徳川の天下が、単なる軍事力だけでなく、旧勢力への配慮や政治的取引といった「ソフトパワー」によっても確立されていったことを象AINしている。家康は、輝政という「武」の力を西国の要に配置する一方で、木下家定への処遇という「文」の力も巧みに使い、天下の安定を図ったのである。
第六章:西国の鎮守、その礎を築く
播磨国主となった池田輝政は、その莫大な財力と家康の全面的な支援を背景に、ただちに新たな統治体制の構築に着手した。その目的は、播磨一国を、西国大名を監視・威圧する徳川幕府の巨大な軍事拠点として要塞化することであった。
その中核をなしたのが、姫路城の大改築である。輝政は入封翌年の慶長6年(1601年)から、秀吉時代に築かれた城郭を全面的に作り変える、壮大なプロジェクトを開始した 30 。慶長14年(1609年)までの8年以上の歳月と、一説には延べ2,500万人ともいわれる人員を動員し、白漆喰で塗り固められた壮麗な五層七階の大天守を中心とする、現在我々が目にする姫路城を完成させた 30 。この白亜の城郭は、単なる居城や軍事施設ではない。その比類なき美しさと威容をもって、西国大名に徳川の圧倒的な権威と財力を見せつけ、心理的に威圧するための「見せる城」でもあった 37 。
築城と並行して、輝政は城下の町割(都市計画)にも着手し、広大な城下町を建設 34 。さらに、播磨一国を面で支配するため、国内の要衝に支城網を構築した。三木、明石、赤穂、龍野といった戦略拠点に支城を置き、自らの息子や一族、重臣を城主として配置することで、国全体の守りを固めたのである 30 。
【表2】池田輝政による播磨国内の主要支城と城主配置(慶長年間)
支城名 |
配置された城主(輝政との関係) |
所在地(現在の市) |
戦略的重要性 |
龍野城 |
(重臣) |
たつの市 |
播磨西部の抑え、対毛利の最前線 |
赤穂城 |
池田政綱(八男) |
赤穂市 |
瀬戸内海航路の監視、塩田地帯の支配 |
三木城 |
(重臣) |
三木市 |
播磨東部の内陸交通の要衝 |
明石城 |
(重臣) |
明石市 |
大坂湾への玄関口、淡路島への連絡拠点 |
山崎城 |
池田輝澄(七男) |
宍粟市 |
因幡・但馬への街道監視、対山陰の抑え |
この緻密な支城ネットワークにより、播磨一国は巨大な要塞と化した。さらに輝政は、弟の池田長吉を因幡国鳥取城(6万石)に配置するなど 32 、一族を挙げて周辺国を固めた。輝政の嫡男・利隆が継承する姫路藩を中心に、次男(公式には)の忠継が備前岡山藩、三男(公式には)の忠雄が淡路洲本藩を領するなど、池田一族が支配する領地は播磨、備前、淡路、因幡にまたがり、その総石高は100万石近くに達した。この絶大な権勢から、輝政は「西国将軍」「姫路宰相」と称されるに至ったのである 21 。輝政が築いたこの盤石な軍事的・経済的体制は、彼を徳川幕府の西国における代理人としての地位を不動のものとした。
結論:池田輝政播磨入封の歴史的意義
慶長5年(1600年)の「池田輝政播磨入封」という事象は、単なる一武将の立身出世物語に留まるものではない。それは、徳川家康による天下統一事業の総仕上げであり、その後260年余にわたる徳川幕府の泰平の世を築く上で、極めて重要な一歩であった。
輝政個人の側面から見れば、彼は豊臣と徳川という二つの巨大権力の間で、冷静な情勢判断力と政治的嗅覚を駆使し、自らの家を最大限に飛躍させることに成功した稀代の武将であった。督姫との婚姻という好機を活かし、関ヶ原という天下の分水嶺で躊躇なく勝ち馬に乗り、岐阜城攻めという決定的な軍功を挙げる。その一連の行動は、激動の時代を生き抜くための見事な処世術と実行力を示している。
徳川幕府の側面から見れば、輝政の播磨配置は、西国支配体制の確立を象徴する、家康の深謀遠慮の表れであった。輝政と彼が築いた壮麗な姫路城は、物理的な軍事力として西国の反乱を防ぐと同時に、徳川の権威を可視化する強力なプロパガンダとして機能した。姫路城は、事実上、江戸城に次ぐ「西の副首都」として、西国大名に睨みを利かせる鎮守の役割を担ったのである。
歴史的な大局から見れば、「池田輝政播磨入封」は、関ヶ原の戦いという軍事的勝利を、恒久的かつ安定的な政治的支配へと転換させるための、決定的な「楔」であった。これにより、徳川の支配は畿内から西国へと確実な形で延伸され、日本の近世社会の枠組みが決定づけられた。池田輝政と彼が築いた白鷺城は、まさに「徳川の平和」を西から守護する、不抜の存在となったのである。
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- 「池田輝政」は大望がありながら、天下人の信頼厚い武将だった! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/114
- 徳川家康の婿殿と孫~池田輝政と光政 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/ikeda-terumasa-mitsumasa/
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