沓掛宿整備(1602)
慶長7年(1602年)沓掛宿は徳川家康の五街道整備で創設。浅間三宿の一つで、戦国終焉と泰平の象徴。交通の要衝として機能し、地域経済を潤し発展した。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長七年 沓掛宿整備の深層 ―戦国終焉のダイナミズムと徳川国家構想―
序章:1602年、天下統一の息吹
慶長七年(1602年)。この年は、日本の歴史が大きな転換点を迎えた時代の渦中にあった。二年前に終結した関ヶ原の戦いは、徳川家康に覇権をもたらしたものの、それはあくまで軍事的な勝利に過ぎなかった 1 。豊臣家は大坂城に依然として勢力を保ち、西国には豊臣恩顧の大名が多数存在していた。天下は未だ完全に静謐とは言えず、ひとたび火種が上がれば再び戦乱の世に逆戻りしかねない、薄氷を踏むような情勢が続いていた。このような時代背景の中で、家康が最優先課題の一つとして着手したのが、全国規模での街道整備事業であった。その壮大な計画の一環として、信濃国佐久郡の地に「沓掛宿」が整備されたのである。
「道を制する者が天下を制す」。これは、戦国乱世を通じて武将たちが骨身に染みて学んだ鉄則であった。武田信玄が軍用道として整備した「棒道」、織田信長が断行した関所の撤廃と街道整備は、いずれも迅速な軍事展開と情報伝達、そして経済の活性化を目的としたものであった 1 。家康もまた、戦国大名として領国経営を行う中で、伝馬制度の重要性を熟知していた 1 。彼が構想したのは、これまで各大名の領国ごとに分断されていた交通網を、徳川の権威の下で全国的なネットワークとして再編することであった。それは、軍事的勝利を恒久的な政治的支配へと昇華させるための、国家的プロジェクトの始動を意味した。
本報告書は、この「沓掛宿整備(1602)」という一点の事象を、単なるインフラ整備として捉えるものではない。むしろ、戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムの中で、徳川の国家構想、統治哲学、そしてそれが地域社会に与えた影響を読み解くための「窓」として位置づける。なぜ、この時期に、この場所に宿場が作られなければならなかったのか。その背景には、戦国乱世の記憶と教訓、そして徳川による新たな秩序「パックス・トクガワーナ(徳川の平和)」を全国に可視化しようとする、高度な政治的意図が隠されている。関ヶ原の戦いは武力による天下分け目の戦いであったが、街道整備は、徳川の圧倒的な権力と動員力、そして恒久的な支配への意志を、槌音と人馬の往来という形で全国に知らしめる、もう一つの天下統一事業であった。沓掛宿の誕生は、その壮大な構想が信濃の山中に具体的に現出した、象徴的な出来事だったのである。
第一部:国家事業としての街道整備
第一章:宿駅伝馬制度の創設 ― 制度による全国支配の始まり
徳川家康による全国支配体制の構築は、軍事力の再配置や大名の統制と並行して、国家の動脈たる交通網の掌握から始まった。その中核をなしたのが「宿駅伝馬制度」の創設である。これは、戦国時代に各領国で独自に運営されていた伝馬制度を、幕府の権威の下で全国規模の統一規格に再編する、画期的な試みであった。
その動きは迅速であった。関ヶ原の戦いが終結した翌年の慶長六年(1601年)、家康はまず日本の大動脈である東海道の整備に着手し、各宿場に伝馬の常備を命じた 1 。そして間髪入れず、翌慶長七年(1602年)には、それに次ぐ幹線道路として中山道の整備を命じたのである 3 。この東海道を「表の道」、中山道を「裏の道」として二元的に整備する構想は、江戸と京・大坂という二大拠点を結ぶ情報・物流網を複線化し、非常時にも国家機能が麻痺しないようにするという、極めて戦略的な意図に基づいていた。
幕府がこの制度に込めた狙いは、多岐にわたる。第一に、 情報伝達の迅速化 である。幕府の公文書や指令を携えた継飛脚が、各宿場で人馬を乗り継ぎながら昼夜を問わず駆け抜けることで、江戸からの指令が驚異的な速さで全国に伝達される体制が目指された 3 。第二に、
公用交通の円滑化 である。幕府役人の往来や、年貢米をはじめとする公用物資の輸送を滞りなく行うためのインフラを確保することは、中央集権的な統治に不可欠であった 2 。そして第三に、
大名統制の基盤構築 である。寛永十二年(1635年)に制度化される参勤交代であるが、その前提となる大名行列の移動と宿泊を円滑に行うための基盤は、この慶長年間の街道整備によって既に準備され始めていたのである 3 。
この制度の骨格は、各宿場に交付された「伝馬朱印状」と、遵守すべき規則を定めた「御伝馬之定」によって規定された 1 。各宿場は、幕府の公用旅行者や荷物に対して、定められた数と料金で人馬を提供する「継立」の義務を負った 6 。これは、隣の宿場まで責任をもって人馬をリレーする方式であり、これにより長距離輸送の速度と確実性は飛躍的に向上した。宿場住民にとって、この伝馬役・人足役は屋敷の間口に応じて課せられるなど、極めて重い負担であった 7 。しかしその一方で、宿場として公的に認められることで経済的な利益が生まれ、場合によっては税の減免措置といった見返りも与えられた 2 。宿場の中心には、大名や公家、幕府役人などが宿泊・休憩するための「本陣」や「脇本陣」、そして人馬の継立業務を統括する「問屋場」が設置された 6 。これらの役職は地域の有力者が任命され、彼らは幕府の末端行政を担う存在として、宿場の運営に責任を負ったのである 8 。
第二章:大久保長安と中山道整備計画 ― 実務官僚の辣腕
この壮大な国家プロジェクトを現場で指揮し、家康の構想を現実に落とし込んだのが、代官頭・大久保長安であった。長安は、元は武田家に仕えた猿楽師の子という異色の経歴を持つ 9 。武田氏滅亡後、徳川家康にその才を見出され、特に鉱山開発や検地において卓越した手腕を発揮した、近世初期を代表するテクノクラート(技術官僚)であった 9 。家康は、この中山道整備という大事業の総責任者として、長安を抜擢したのである 4 。
長安が指揮した中山道のルート選定には、明確な戦略的意図が見て取れる。中山道は、江戸から武蔵、上野を経て、徳川家にとって因縁の深い旧武田領、すなわち信濃・甲斐を通過し、美濃・近江を経て京に至る。これらの地域は、戦国時代を通じて複雑な経緯を辿った場所であり、その安定化と経済的掌握は徳川政権の急務であった 4 。街道を整備し、宿駅を配置することは、これらの地域を徳川の支配下に完全に組み込み、経済的な動脈を江戸に直結させることを意味した。
長安の仕事は、単に道を切り拓くだけではなかった。慶長九年(1604年)からは、彼の指揮の下、江戸日本橋を起点として街道沿いに一里(約4キロメートル)ごとに塚を築き、榎や松などを植える「一里塚」の設置が本格化した 5 。これは旅人の道標となっただけでなく、徳川の支配が及ぶ里程を可視化する役割も果たした。さらに、道路の維持管理についても、「馬が通って生じた窪みには砂や石を敷いて良く固めること」といった具体的な規定が設けられており、インフラを恒久的に維持しようとする強い意志がうかがえる 11 。長安は、甲州街道と中山道へのアクセス点である八王子に陣屋を構え、そこを拠点として関東一円の幕領統治と交通網整備を精力的に指揮した 12 。彼の辣腕なくして、慶長年間の迅速な街道整備は成し得なかったであろう。
この徳川による宿駅伝馬制度の創設は、単なるインフラ整備事業以上の意味を持っていた。戦国時代、各大名はそれぞれが自領内に閉じた伝馬制度を運営していたが、それは国境を越えるたびに非効率と断絶を生むものであった 1 。家康と長安が進めた事業の革新性は、これらの既存システムを否定するのではなく、幕府が発行する朱印状という一段上位の権威によって、それらを全国的なネットワークとして連結・統一した点にある。これにより、人、物資、そして情報の流れは初めて全国規模で円滑化され、幕府はそのすべてを掌握することが可能となった。これは、軍事力という「力」による支配から、法とインフラという「制度」によって全国を統治するという、新しい時代の到来を告げるものであった。慶長七年の中山道整備、そしてその一つの結節点としての沓掛宿の誕生は、この巨大なシステムが構築されていく過程における、重要な一歩だったのである。
第二部:戦国乱世の記憶 ― 信濃国佐久郡の地政学
第三章:国境の地・佐久 ― 徳川支配の浸透
沓掛宿が設置された信濃国佐久郡は、その地理的条件から、戦国時代を通じて絶えず戦略的要衝であり続けた地である。東に碓氷峠を隔てて上野国(群馬県)と接し、甲斐、越後にも近いこの地域は、有力大名の勢力がぶつかり合う国境地帯であった。
当初、この地は武田信玄の支配下に置かれていた。しかし、天正十年(1582年)に織田信長によって武田氏が滅亡し、さらにその直後に本能寺の変が起こると、信濃国は主無き地となり、周辺の有力大名による草刈り場と化した。世に言う「天正壬午の乱」である。この混乱の中、佐久郡の支配を巡って、徳川家康、相模の後北条氏、そして信濃の在地勢力から台頭した真田昌幸らが、複雑な駆け引きと激しい戦闘を繰り広げた 13 。徳川軍は真田昌幸や依田信蕃らと連携し、佐久郡の内山城や岩村田城、そして関東への玄関口である碓氷峠を占拠することで、この地の争奪戦を優位に進めた 13 。
その後、豊臣秀吉による天下統一を経て、佐久郡は徳川の支配下に組み込まれていく。しかし、関ヶ原の戦いにおいて、真田昌幸とその子・信繁(幸村)は西軍に与して徳川と敵対した。戦後、徳川方は昌幸親子を高野山へ追放し、信濃における支配体制をようやく確固たるものにした 14 。とはいえ、この地域には武田、北条、そして真田といった、徳川と覇を競った勢力の記憶が生々しく残っていた。潜在的な不安定要素を抱えるこの地に、幕府の権威を直接的かつ恒久的に示すインフラ、すなわち幕府が管理する街道と宿場を整備することは、徳川にとって単なる交通政策に留まらない、喫緊の政治課題であった。
第四章:碓氷峠の峻険 ― 浅間三宿構想の必然性
佐久郡の東端にそびえる碓氷峠は、中山道における最大の難所として知られていた。上野国側の坂本宿の標高が約450メートルであるのに対し、峠の頂上は約1200メートルに達し、旅人は約750メートルもの標高差を険しい山道で越えなければならなかった 15 。この過酷な道のりは、旅人の体力を奪い、物資輸送の大きな障害となっていた 17 。
同時に、この峠は関東と信濃を分かつ天然の要害であり、古来、軍事的に極めて重要な地点であった。天正壬午の乱においても、徳川と北条がこの峠の支配を巡って争ったことは前述の通りである 13 。徳川政権にとっても、碓氷峠は江戸を中心とする関東防衛の最終ラインと位置づけられ、後に元和九年(1623年)には「碓井関所」が設置されるなど、厳重な管理下に置かれた 3 。
このような物理的・軍事的な重要性を持つ碓氷峠の存在が、その西麓に位置する宿場の整備計画に決定的な影響を与えた。この厳しい峠越えを終えた旅人や荷駄を確実に休ませ、次の行程に備えさせるためには、十分な収容能力を持つ宿場機能が不可欠であった。そこで幕府は、一つの宿場だけでは対応しきれないと考え、峠の西麓、浅間山の南側に広がる高原地帯に、複数の宿場を連続して配置するという壮大な構想を立てた。これが、東から軽井沢宿、沓掛宿、追分宿と続く「浅間三宿(あさまさんしゅく)」、あるいは「浅間根腰の三宿(あさまねごしのさんしゅく)」を一体的に整備する計画の始まりであった 19 。
この浅間三宿の設置は、単に交通の利便性を追求した結果ではない。戦国時代に徳川と敵対、あるいは競合した武田、北条、真田といった勢力との攻防の記憶が色濃く残るこの戦略的要衝地帯に、幕府直轄の管理下にある宿場群を連続して配置する行為は、徳川の支配権という物理的な「楔(くさび)」を打ち込むに等しい意味を持っていた。平時においては経済と交通の動脈として機能する街道と宿場は、ひとたび有事となれば、軍隊の迅速な移動、兵站の確保、そして情報伝達の拠点として、強力な軍事インフラへと転化する。浅間三宿の整備は、過去の敵対勢力の影響力をこの地から払拭し、徳川による恒久的な支配体制を根付かせるための、象徴的かつ実利的な一手だったのである。
第三部:慶長七年、沓掛宿誕生のリアルタイム・クロニクル
第五章:整備前夜 ― 長倉の牧の原風景
慶長七年(1602年)に沓掛宿が設置される以前、その土地はどのような姿をしていたのであろうか。記録を紐解くと、そこには古代から続く交通の歴史と、広大な原野の風景が浮かび上がってくる。
この一帯は、平安時代に編纂された『延喜式』にその名が見える、古代官道・東山道の「長倉駅(ながくらのうまや)」が置かれた故地であったと比定されている 20 。駅とは、公用の旅人のために人馬を常備した施設であり、この地が古くから交通の要衝であったことを物語っている。さらに、この地域には「長倉の牧」と呼ばれる、朝廷に献上する馬を放牧するための広大な官牧が広がっていた 20 。浅間山麓の冷涼な気候と豊かな草原は、良質な馬の育成に適しており、この地の歴史が馬と深く結びついていたことを示唆している。この事実は、後に宿場として伝馬役を担う上で、潜在的な供給基盤となった可能性も考えられる。
しかし、長い戦乱の時代を経て、古代の駅や牧は往時の姿を失っていた。1602年当時、この辺りは浅間山の火山活動による火山灰や軽石に覆われた高冷地であり、米などの五穀は育ちにくく、稗や蕎麦、麦がわずかに作られるのみであった 20 。『木曽路記』には、この地の家々には果樹や植木すらないと記されており、その厳しい自然環境がうかがえる 20 。1535年の文献に「長倉沓懸」という地名が見えることから、集落の存在は確認できるが 24 、それは組織化された町ではなく、農家が点在する寂しい土地であったと推測される。中山道が整備される直前の沓掛の地は、まさに新たな宿場町が建設されるのを待つ、静かな原野だったのである。
第六章:宿駅指定と町の形成(1602年 時系列再現)
慶長七年(1602年)、静かであった長倉の地に、江戸からの大きな変革の波が押し寄せた。幕府による中山道整備計画が実行に移され、沓掛宿が誕生するまでの過程を、当時の状況を推測しつつ時系列で再現する。
慶長七年(1602年)春~夏:計画と調査
江戸城において、徳川家康の下で中山道の宿駅整備計画が最終決定される。総責任者である代官頭・大久保長安の指揮の下、具体的な測量と宿駅設置地点の選定が始まった 4 。長安配下の代官や役人たちが現地に入り、街道ルートの確定作業を進めた。浅間三宿の計画において、碓氷峠越えの拠点となる軽井沢宿と、北国街道との分岐点である追分宿の設置は早期に固まったと考えられる。その中間地点として沓掛の地が選ばれたのは、両宿からほぼ等距離にあり、湯川を渡る交通の要衝であったこと、そして北へ向かえば草津温泉へ至る大笹街道への分岐路があったことなどが、地理的要因として挙げられる 20 。役人たちは竿や縄を手に、原野を測量し、未来の宿場の青写真を描いていったであろう。
慶長七年(1602年)夏~秋:指定と創設
現地調査の結果に基づき、幕府よりこの地に「沓掛宿」を設置する旨が正式に布告された。これに伴い、この新たな宿場には公用の人馬を提供する「伝馬役」が賦課された。宿場単独では負担が重すぎるため、周辺の村々も宿場の業務を補助する「助郷(すけごう)」として、同様の負担を命じられた可能性がある。
続いて、宿場の中心となる通りが定められ、その両側に家を建てるための屋敷地を区画する「町割り」が実施された。後の記録によれば、沓掛宿は全長五町二十八間(約600メートル)のこぢんまりとした宿場町として計画された 23。同時に、宿場の運営責任者である「問屋」、そして大名などの休泊施設である「本陣」「脇本陣」を務める家が、地域の有力者の中から任命された。彼らは、幕府の権威を背景に、宿場建設の中心的役割を担うことになった。
慶長七年(1602年)秋~冬:建設と始動
町割りが完了すると、宿場を形成するための家屋の建設が始まった。この高冷地には元々の住民が少なかったため、近隣の村々からの移住が奨励されたと考えられる。隣の軽井沢宿では、宿場形成のために峠の東側の上州(群馬県)から人々を計画的に移住させたという記録があり 20 、沓掛宿でも同様の政策が取られた可能性は高い。槌音や木を曳く音が響く中、旅籠や茶屋、商店などが次々と建てられ、宿場町としての体裁が急速に整えられていった。
そして年末には、伝馬の継立業務が試験的に開始されたであろう。江戸からの最初の公用飛脚や荷物が、まだ真新しい沓掛宿を通過し、次の追分宿へと引き継がれていった。それは、徳川の新しい支配体制を象徴する全国ネットワークが、信濃の山中の一点において、まさに機能し始めた瞬間であった。
この一連の出来事を、より広い視野で捉えるために、以下の年表にまとめる。
年月 |
全国レベルの動向 |
中山道・信濃レベルの動向 |
沓掛宿レベルの動向 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い。徳川家康が覇権を握る。 |
真田昌幸・信繁が西軍に与し、戦後追放される。信濃における徳川の支配が強化される。 |
(宿場整備前) |
1601年(慶長6年) |
徳川家康、東海道の宿駅伝馬制度の整備を開始 1 。 |
- |
(宿場整備前) |
1602年(慶長7年) |
- |
中山道の宿駅伝馬制度の整備が開始される 3 。総責任者は大久保長安。 |
春~夏 : 現地調査、宿駅設置地点の選定。 夏~秋 : 「沓掛宿」として正式指定、町割りの実施。 秋~冬 : 家屋建設、住民移住、宿場機能の構築、伝馬業務の開始。 |
1603年(慶長8年) |
徳川家康、征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く。 |
- |
宿場機能が本格的に稼働し、公用・私的な往来が増加し始める。 |
1604年(慶長9年) |
- |
大久保長安の指揮により、中山道の一里塚設置が本格化する 5 。 |
- |
第七章:浅間三宿の機能分化 ― 意図された多様性
慶長七年(1602年)に一体的に整備された浅間三宿は、その後、それぞれが異なる個性と役割を持って発展していった。この機能分化は、単なる偶然の産物ではなく、幕府による計画段階から意図された、合理的なシステム設計の結果であった可能性が高い。
追分宿 は、三宿の中で最も規模が大きく、賑わいを見せた宿場であった 20 。その最大の理由は、中山道と、善光寺を経て越後国(新潟県)へ至る北国街道との分岐点という、交通の結節点に位置していたからである 22 。人馬の往来は絶えず、貞享年間(1684-1688)には旅籠71軒、茶屋18軒を数えるほどであった 5 。また、追分宿には、宿場を通過する荷物の重量を検査する「荷物貫目改所」が置かれ、物流の重要拠点としての役割も担っていた 20 。
軽井沢宿 は、中山道最大の難所である碓氷峠越えの拠点として、極めて重要な役割を果たした 20 。峠を越えようとする旅人、あるいは越えてきた旅人が必ず利用する宿場であり、峠の東側(上州)から人々を移住させて形成された計画的な町であった 20 。
これら二つの主要な宿場に挟まれた 沓掛宿 は、対照的に小規模で、やや異なる性格を持っていた。江戸後期の天保十四年(1843年)の記録『中山道宿村大概帳』によれば、沓掛宿の家数は166軒、旅籠は17軒であり、追分宿に比べてかなり小さい規模であったことがわかる 23 。また、『木曽路名所図会』には「餘は散在し農家多し」と記されており、旅人相手の商業施設だけでなく、農業を営む家が多かったという特徴があった 20 。これは、沓掛宿が純粋な宿場町というよりは、宿場機能と地域の農業生産が共存する、半農半宿の性格を持っていたことを示している。しかし、追分宿と軽井沢宿を結ぶ中継ぎとしての基本的な継立機能を担うと同時に、草津温泉へ向かう大笹街道への分岐点として、湯治客に利用されるという独自の役割も持っていた 20 。
この三宿の性格の違いは、幕府の合理的なリソース配分と、地域全体の機能を最適化しようとするシステム設計思想の現れと見ることができる。もし三宿すべてを大規模な商業宿場として開発しようとすれば、限られた人口や資源の中で過当競争を招き、非効率であっただろう。そこで幕府は、追分宿を交通のハブ、軽井沢宿を峠越えの拠点という明確な戦略的役割を与え、その中間に位置する沓掛宿には、基本的な継立機能を維持させつつ、周辺の農業生産を担うという補完的な役割を意図的に与えたのではないか。沓掛宿の「小規模で農村的」という性格は、発展の遅れではなく、浅間三宿という一つのシステムの中で、初めから与えられた役割だったのである。
項目 |
軽井沢宿 |
沓掛宿 |
追分宿 |
江戸からの位置 |
18番目 |
19番目 |
20番目 |
宿内家数 |
不明 |
166軒 23 |
約152軒(元禄期) 5 |
人口 |
不明 |
502人 23 |
892人(元禄期) 5 |
本陣数 |
1軒 16 |
1軒 23 |
1軒 5 |
脇本陣数 |
4軒 16 |
3軒 23 |
2軒 5 |
旅籠数 |
不明 |
17軒 23 |
71軒(貞享期) 5 |
主要機能 |
碓氷峠越えの拠点 |
中継ぎ、農業生産 |
中山道・北国街道の分岐点、交通ハブ |
特記事項 |
上州からの移住者により形成 20 。 |
農家が多い半農半宿の性格 20 。 |
荷物貫目改所が設置された 20 。 |
注:データは主に天保十四年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によるが、追分宿については利用可能な元禄期・貞享期のデータを記載した。
結論:一点の整備から見る徳川三百年の礎
慶長七年(1602年)の沓掛宿整備は、信濃国佐久郡の一角で起きた、一見すると局地的な出来事である。しかし、本報告書で詳述してきたように、この事象は戦国時代の終焉と、それに続く徳川三百年の平和の礎を築く、壮大な国家構想と深く結びついていた。
第一に、沓掛宿の整備は、徳川による 支配の質の転換 を象徴するものであった。戦国時代の支配が、個々の武将の軍事力という「力」に大きく依存していたのに対し、徳川幕府は宿駅伝馬制度という全国規模の「制度」によって支配を確立しようとした。江戸から発せられる指令が、新たに整備された宿駅のネットワークを介して全国の末端まで迅速に伝達される体制は、幕府の権力が物理的に全国を覆っていることを示すものであった。沓掛宿は、その巨大なネットワークを構成する、不可欠な一つの結節点として創設されたのである。
第二に、この事業は日本の 経済・文化の変容 を促す原動力となった。幕府によって安全性が確保され、機能的に整備された街道は、公用目的だけでなく、商人や一般庶民の移動をも活発化させた。これにより、全国的な市場の形成が促進され、各地の文化が交流し、新たな庶民文化が花開く土壌が育まれた。沓掛宿もまた、その大きな歴史の流れの中で、旅人に休息と便宜を提供し、地域経済を潤すという、ささやかながらも重要な役割を果たし続けた。
最後に、沓掛宿の存在は、徳川の国家構想がいかに 長期的視点 に立ち、かつ 緻密な計画 に基づいていたかを物語る証左である。戦国乱世の記憶が生々しい戦略的要衝に、意図的な機能分化を持たせた宿場群を配置するという手法は、単なる場当たり的な対応ではなく、地政学的なリスク管理と合理的なリソース配分に基づいた、高度な統治技術の現れであった。慶長七年の一事業は、単に一つの宿場町を造ったに留まらない。それは、その後約260年にわたって続く江戸時代の安定と繁栄を支える社会基盤の一部を、まさにこの時に築き上げたことを意味するのである。信濃の山中に灯された一つの宿場の灯りは、戦国の闇が終わり、新たな時代の夜明けが訪れたことを告げる、確かな光であった。
引用文献
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- 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-4-01-03-01-01.htm
- 江戸幕府の街道施策の正確な伝承・発信にご尽力されている志田 威(しだ たけし)先生より、令和4年5月29日(日)に開催された『東海道57次講演』についてのお知らせをいただきました。 - 戸谷八商店 https://www.toyahachi.com/20230222/
- 【街道の成立】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht012620
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- 資料紹介6⦆大名行列と本陣・脇本陣・問屋/中津川市 https://www.city.nakatsugawa.lg.jp/museum/n/archives/1575.html
- 【伝馬役の負担と資格】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100020/ht020620
- 佐久歴史の道【中山道 / 佐久甲州道】のご案内 | 小田井宿・岩村田宿・塩名田宿・八幡宿・望月宿・茂田井間の宿 https://www.sakucci.or.jp/nakasendo/
- 大久保長安(オオクボナガヤス)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89-39137
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