最終更新日 2025-09-25

津和野城改修(1601)

慶長六年、関ヶ原の戦後、坂崎直盛は徳川家康の命で津和野城主となる。対毛利の要衝として、中世山城を総石垣の近世城郭へ大改修。城下町も整備し、鯉の泳ぐ風景の礎を築いた。
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津和野城改修(慶長六年)の真相:徳川幕府の西国経営と坂崎・亀井両氏の興亡

序章:天下分け目の戦いと石見国津和野

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いは日本の権力構造を根底から覆し、徳川家康による新たな治世の幕開けを告げた。この天下分け目の戦いは、遠く西国、石見国津和野の地にまで、その巨大な影を落とすことになる。西軍の総大将として祭り上げられた毛利輝元は、安芸広島を始めとする112万石の広大な領地を失い、防長二国(周防・長門)36万石へと大幅に減封された 1 。これにより、徳川政権にとって西日本の外様雄藩、とりわけ潜在的な脅威であり続ける毛利氏の監視と封じ込めは、国家経営における最重要課題となったのである 2

この新たな政治地図において、石見国は毛利領の北東に直接国境を接する地として、その地政学的価値が飛躍的に高まった。対毛利政策の最前線であり、徳川の権威を西国に示すための戦略的要衝と化したのである 5 。家康は、この地に信頼のおける大名を配置し、強力な軍事拠点を築くことで、西国への睨みを効かせようと目論んだ。この国家的な軍事戦略の一環として、津和野城の大規模な改修が計画されたことは、単なる一地方の土木事業ではなく、徳川による天下統一事業の総仕上げの一翼を担うものであったことを示唆している。

慶長6年(1601年)以前の津和野城は、「三本松城」と称され、鎌倉時代の弘安5年(1282年)頃に吉見頼行によって築かれて以来、300年以上にわたり吉見氏の居城としてその威容を誇っていた 5 。その構造は、標高367メートルの霊亀山の険しい尾根筋に多数の曲輪を連ね、土塁と空堀、そして山肌を削って敵の侵攻を阻む竪堀によって防御を固めた、典型的な中世山城であった 7 。石垣は用いられず、あくまで自然地形を最大限に活用した防御思想に基づいていたこの古城が、新たな時代の要請に応えるべく、前代未聞の大改修の対象となるのである。

なお、後世において津和野城の改修は、長くこの地を治めた亀井氏の功績として語られることが多い。しかし、史実を丹念に追うと、慶長6年という時点での改修の主体は、亀井氏ではなく、関ヶ原の戦功により新たに入封した坂崎直盛(さかざき なおもり)であったことが明らかとなる 11 。坂崎氏の統治はわずか16年で悲劇的な終焉を迎えるが、その後約250年にわたり津和野を治めた亀井氏の治世が、先行する坂崎氏の功績を歴史の記憶の中で上書きした結果、今日の一般的な認識が形成されたと考えられる。本報告書では、この歴史認識の変遷にも光を当てつつ、慶長6年に始まった津和野城改修の実像を時系列に沿って徹底的に解明する。

第一章:津和野城の新たな主、坂崎直盛

津和野城改修という一大事業を理解するためには、まずその実行者である坂崎直盛という人物を深く知る必要がある。彼の出自と性格、そして彼が津和野に封じられた政治的背景こそが、改修の性格そのものを決定づけたからである。

坂崎直盛の来歴―宇喜多詮家から坂崎出羽守へ

坂崎直盛は、元は宇喜多詮家(うきた あきいえ)と名乗り、備前の大名・宇喜多秀家の従兄弟にあたる人物であった 11 。宇喜多一族内の対立から早くに徳川家康に仕え、運命の関ヶ原の戦いでは東軍に与して戦った。この功績が家康に高く評価され、戦後、石見国津和野に3万石(後に加増)を与えられ、津和野藩を立藩するに至った 11

その際、家康の命により、西軍の主力であった宇喜多の名を捨て「坂崎」へと改姓したことは、彼の生涯における大きな転機であった 11 。これは単なる改名ではなく、豊臣恩顧の大名家であった過去と完全に決別し、徳川への絶対的な忠誠を誓う象徴的な行為であった。この出自は、彼が徳川家にとって「使いやすい」駒であったことを示している。宇喜多一族でありながら東軍についた彼は、西軍諸将、とりわけ毛利氏に対する強い対抗心を抱いていたと推測され、その心情が対毛利の最前線である津和野の統治に活かせると家康は判断したのである。

直盛の人物像―剛直と執拗の二面性

史料に残る坂崎直盛の人物像は、極めて個性的である。彼は直情的かつ愚直、そして一度思い込んだことは徹底的にやり遂げる執拗な気質の持ち主であったと伝えられている 11

その性格を如実に示す逸話がある。慶長10年(1605年)、直盛の甥が彼の家臣を殺害して出奔し、縁戚であった宇和島藩主・富田信高のもとに匿われるという事件が起きた。これを知った直盛は、信高に対して即座に甥の引き渡しを要求。信高がこれを拒否すると、武力衝突も辞さない強硬な姿勢で対峙し、さらには将軍・徳川秀忠にまで訴え出て、最終的に富田氏を改易に追い込んでしまう 11 。この一件は、彼の法や義に対する剛直さと、目的達成のためには手段を選ばない執拗さを見事に物語っている。

一方で、『浦上宇喜多両家記』には「気性は荒いが、さして勝れたる働きなき故にここに記さず」との辛辣な評価も残されており、戦略家というよりは猪突猛進型の武将であった可能性が高い 11 。この激情的な性格こそが、後に彼を悲劇的な最期へと導くことになるが、徳川家康の視点から見れば、この「執拗さ」はむしろ長所であった。一度与えられた「毛利の監視」という任務を、一切の妥協なく、徹底的に遂行するであろう彼の性格は、津和野という戦略的要衝の初代城主としてまさに適材であった。直盛の登用は、単なる論功行賞ではなく、彼の性格すらも計算に入れた、家康の冷徹な人事戦略の表れだったのである。

慶長6年(1601年)入封―リアルタイムな状況の再現

慶長6年、入封の命を受けた坂崎直盛は、手勢を率いて津和野の地に入った。彼の眼前に広がっていたのは、吉見氏が300年以上にわたって居城としてきた、自然の地形に依存する中世の山城「三本松城」であった。しかし、直盛の頭の中には、家康から託された「対毛利の拠点」を築くという重大な使命と、それを実現するための近世城郭の壮大な青写真が描かれていた。彼は着任するや否や、直ちに出丸(後の織部丸)の築造を皮切りに、城郭全体の抜本的な改造計画に着手したのである 5 。津和野の歴史が、大きく動き出した瞬間であった。

第二章:慶長六年の大改修―中世山城から近世城郭への変貌

坂崎直盛が着手した津和野城改修は、単なる修繕や増築の域をはるかに超える、城の概念そのものを刷新する一大事業であった。それは、戦国の遺物である中世山城を、徳川の威光と軍事思想を体現する近世城郭へと、いわば「転生」させる試みだったのである。

設計思想―「見せる城」と「戦う城」の融合

改修の根本思想は、二つの側面に集約される。第一に、火縄銃による集団戦法が主流となった新たな時代の戦闘様式に対応するため、防御力を飛躍的に向上させること。第二に、新たな支配者である徳川方の権威を、領民そして国境の向こうの毛利氏にまで誇示することであった 5

この思想に基づき、直盛はまず、吉見氏時代に山全体に広がっていた広大な城域を、本丸を中心とする主郭部に限定し、南端の中荒城といった外郭部分を大胆に放棄した 12 。これにより、防衛ラインを凝縮し、限られた兵力でも効率的に防御できる、より堅牢な城郭構造を目指した。これは、戦国時代の拠点防衛から、藩の政治的中心地としての城郭へと役割が変化していく過渡期の思想を色濃く反映している。

リアルタイム解説:普請の開始と進行

慶長6年(1601年)の入封直後から、直盛の陣頭指揮のもと、大規模な普請(土木工事)が開始された。この工事の普請奉行は、家老の浮田織部が務めたとされ、後に増築される出丸が「織部丸」と呼ばれる由来となった 7

工事に必要な膨大な労働力は、領内の民衆が「御手伝普請」として動員されたと考えられる。そして、城の骨格をなす石材は、城の南西約1.5kmに位置する護館神(ごかんがみ)の石切場跡から切り出された石灰岩が用いられた 16 。標高367メートルの険しい山上まで、重い石材を運び上げる作業は困難を極めたに違いない。大和高取城の築城時に、急坂での作業にあたる人夫に米一升を加増したという「一升坂」の逸話 17 のように、津和野でも何らかの特別な手当が支給された可能性が考えられる。この大事業は、徳川政権初期に全国の大名を動員して行われた「天下普請」の気風とも呼応するものであった 18

構造的変革①:総石垣化と先進技術「算木積み」

改修における最大の眼目は、城の防御施設を土塁と空堀から、壮大な総石垣へと転換させることにあった 12 。石垣の構築技術は、自然石を巧みに組み合わせる「野面積み」や、ある程度加工した石を用いる「打込接(うちこみはぎ)」が主体であったと推測される。

特に注目すべきは、天守台や櫓台といった城の要所の隅部に用いられた「算木積み(さんぎづみ)」という先進技術である 12 。これは、長方形に加工した石材の長辺と短辺を一段ずつ交互に積み上げることで、隅角部の強度を飛躍的に高める画期的な技法であった 19 。算木積みは慶長10年(1605年)前後に完成・普及した技術とされており、津和野城がその初期段階からこの最新技術を導入していたことは、この改修が幕府の威信をかけた最先端のプロジェクトであったことを物語っている 22

構造的変革②:天守と櫓群の建造

城の新たな象徴として、山上に三重の天守が聳え立った 7 。その天守台が、城の最高所である本丸ではなく、一段低い二の丸に置かれている点は、津和野城の構造における最大の特徴の一つである 7 。この異例の配置には、二つの意図が考えられる。軍事的には、本丸を最後の拠点として温存しつつ、天守のある二の丸で敵主力を迎え撃つという多段階防御の思想。そして政治的には、東麓に新たに整備される城下町から最も壮麗に見える位置を選び、新たな支配者の権威を視覚的に誇示する狙いがあったと推測される。天守台には、大きいもので2トンを超える巨石が用いられており、工事の壮大さを今に伝えている 7

天守以外にも、城内各所に多数の櫓が戦略的に配置された。本丸南端には、現在も高さ約12メートルの壮大な櫓台が残る「人質櫓」 12 。三の丸の西側には搦手(裏口)方面を監視する「海老櫓」、そして西門を守る「西門櫓」などが築かれ、城全体が死角のない立体的な要塞へと生まれ変わった 7

構造的変革③:防御網の再構築

防御システムも全面的に再設計された。

  • 大手口の変更 :吉見氏時代には搦手であった東側を、城下町と直結する新たな大手口(正門)とした 7 。これにより、城と城下町の連携が強化され、平時における政治拠点としての機能性が向上した。
  • 三段櫓の設置 :この新たな大手口の正面には、山の急斜面に沿って三段の石垣が築かれ、それぞれに二階櫓が建てられた 12 。この「三段櫓」は、見る角度によっては一つの巨大な三重櫓のようにも見え、津和野城の顔とも言うべき威圧的な景観を創り出していた。
  • 出丸「織部丸」の増築 :本丸の北側、尾根が続く防御上の弱点に、独立した曲輪である「織部丸」を新設した 7 。これは、火縄銃の射程距離の増大に対応し、遠距離からの攻撃に備えるための重要な増築であり、近世城郭の設計思想を明確に示している。

これらの改修は、同時代に行われた他の山城の近世化(例えば備中松山城や大和高取城)と比較しても、城域の大胆な縮小による防御の集中、算木積みという最新技術の導入、鉄砲戦を強く意識した出丸の配置など、極めて先進的かつ徹底したものであった。坂崎直盛は、家康の意図を汲み、当時考えうる最高の技術と設計思想をこの津和野の地に投入したのである。


表1:津和野城の変遷比較(吉見氏時代 vs 坂崎氏改修後)

項目

吉見氏時代(三本松城)

坂崎氏改修後(津和野城)

典拠

城の性格

自然地形を活かした中世山城

権威の象徴でもある近世要塞

7

主要防御施設

土塁、空堀、竪堀

総石垣、櫓、門

7

石垣技術

なし

野面積み、打込接、算木積み

7

中心施設

不明(簡素な館か)

三重天守(二の丸)、御殿

7

大手口(正門)

西側(搦手側)

東側(城下町側)

7

城域

霊亀山全体に広がる広大な縄張り

主郭部に限定し防御を集中

12

特筆すべき施設

88箇所の竪堀

出丸(織部丸)、三段櫓

7


第三章:城下町の誕生―「鯉の泳ぐ城下町」の原風景

近世城郭の築城は、城下町の整備と不可分一体のプロジェクトであった。坂崎直盛は、霊亀山上で城の大改修を進めるのと並行して、山麓に新たな時代の町を創造する壮大な都市計画に着手した 5 。これが、今日まで続く「山陰の小京都」津和野の原風景の誕生である。

城と町の同時設計

直盛による町割りは、津和野の南北に細長い盆地状の地形を巧みに活かし、計画的に行われた。城の麓には藩主の居館や上級武士の屋敷を配し、その外側に中下級武士の居住区、そして商業の中心となる町人地、さらに町の外縁部には寺社を配置するという、機能的なゾーニングが実施された。これは、防衛上の機能と、平時における統治の効率性を両立させるための、近世城下町に共通する設計思想であった 14

用水路網の整備と鯉

坂崎直盛の藩政において、最も画期的で、後世に大きな影響を与えたのが、城下を縦横に走る用水路網の整備である 5 。この用水路は、単一の目的で造られたものではなかった。

第一に、住民の生活用水を確保するライフラインとしての機能。第二に、木造家屋が密集する城下町にとって最大の脅威である火災に備えるための防火用水としての機能 5 。そして第三に、公衆衛生を維持するための機能である。側溝を多く掘ることで水が滞留し、蚊が大量発生することを懸念した直盛は、その幼虫であるボウフラを捕食させる目的で、水路に鯉を放流したと伝えられている 5

この施策は、単なる風流な景観づくりではなく、治水、防災、公衆衛生という複数の課題を一つのシステムで解決しようとする、極めて合理的で先進的な「多目的インフラ設計」であった。彼の執拗なまでに徹底した性格が、こうした細部にまで配慮の行き届いた都市計画へと結実したと考えられる。今日、津和野の象徴として知られる「掘割を泳ぐ鯉」の光景は、実にこの慶長年間の都市計画にその起源を発するのである。

産業基盤の構築

直盛は、町のハードウェアを整備するだけでなく、藩の経済的基盤を築くためのソフトウェア、すなわち産業振興にも着手した。特に、後の津和野藩の重要な財源となる和紙(石州半紙)の原料である楮(こうぞ)の植樹を領内に奨励したことは、特筆に値する 11

これは、彼が津和野を単なる軍事拠点としてだけでなく、経済的に自立可能な、持続性のある藩として経営しようとする長期的なビジョンを持っていたことを示している。この直盛が蒔いた産業の種は、後継の亀井氏の時代に大きく花開くことになる。領国経営に長けた亀井氏は、この楮を元に和紙生産を本格化させ、やがて蝋(ろう)とともに藩の専売品とすることで、表高4万3000石をはるかに上回る実質10万石ともいわれる豊かな財政を築き上げた 26 。津和野藩の経済的繁栄は、坂崎氏の先見性と、それを受け継ぎ発展させた亀井氏の経営手腕とのシナジーによってもたらされた側面があると言えよう。

第四章:権力の移行―坂崎氏の改易と亀井氏の入封

坂崎直盛が心血を注いで築き上げた津和野城と城下町。しかし、彼自身がその地で長く統治を続けることは叶わなかった。彼の激情的な性格は、やがて自らを破滅へと導き、津和野は新たな主を迎えることになる。この権力の移行は、戦乱の時代の終焉と、安定統治の時代への移行を象徴する出来事であった。

悲劇の終焉―千姫事件

元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡。この時、燃え盛る大坂城から徳川家康の孫娘・千姫を救出した者には、千姫を与えるという約束があったとされる。坂崎直盛もまた、この救出作戦に功があったと自負していた。しかし、千姫は桑名藩主・本多忠刻(ほんだ ただとき)に嫁ぐことが決定する。

これに激怒した直盛は、その直情的な性格から、千姫の輿入れの行列を襲撃して奪い取ろうと計画したとされる。この計画が幕府に露見したことにより、元和2年(1616年)、直盛は幕府の命により自害、あるいは家臣に討たれ、坂崎家は改易(家と領地の没収)となった 14 。彼が築いた壮大な城は、皮肉にも彼自身の墓標となったのである。この「千姫事件」は、彼の剛直さと執拗さが裏目に出た、悲劇的な結末であった。

主を失った津和野城

藩主を失い、改易となった津和野藩と津和野城は、一時的に幕府の管理下に置かれた。大名が改易された場合、その城の接収と管理は、幕府から派遣された上使や、近隣の大名が「城番(じょうばん)」として務めるのが通例であった 30 。津和野の場合も、新たな藩主が決定するまでの約1年間、周辺大名の管理下で静かに次の主を待っていたと考えられる。

亀井政矩の入封―新たな時代の幕開け

元和3年(1617年)7月20日、因幡鹿野藩(いなばしかのはん)4万3000石の藩主であった亀井政矩(かめい まさのり)に対し、津和野への移封が命じられた 32 。政矩は同年8月13日に津和野城へ入城し、ここに亀井氏による250年の治世が幕を開けた 34

亀井政矩は、戦国武将・亀井茲矩(これのり)の子である。父・茲矩は、尼子氏の再興に生涯を捧げた忠臣として知られる一方、豊臣秀吉、徳川家康の下で朱印船貿易を手がけるなど、卓越した経済感覚と国際的視野を持った智将でもあった 35 。政矩自身も、二代将軍・徳川秀忠の側近として仕えるなど、幕府からの信任が非常に厚い人物であった 32

この坂崎氏から亀井氏への交代劇は、江戸時代初期における徳川幕府の大名統制のあり方を象徴している。関ヶ原の戦功で取り立てられ、軍事拠点構築という「武断的」な役割を担った坂崎直盛。しかし、彼の激情は平時の統治には不向きであった。代わって選ばれたのは、父の代から領国経営に長け、幕府との協調を重視する「文治的」な素養を持つ亀井政矩であった。これは、戦乱の時代の論理で動く武将が淘汰され、安定した藩経営が可能な大名へと置き換えられていく、時代の大きな転換点を示す人事であった。幕府は津和野に、軍事拠点としての機能に加え、安定統治による西国の鎮静化という新たな役割を期待したのである。

継承と発展

亀井政矩は、坂崎直盛が築いた近世城郭と城下町をほぼそのままの形で継承し、自らの藩政の基盤とした 39 。しかし、彼の津和野での治世はあまりにも短かった。入封からわずか2年後の元和5年(1619年)、政矩は30歳の若さで急死してしまう 32 。一時はその手腕を期待され、西国の要衝・姫路藩への栄転の話もあったとされるが、幻に終わった 32

彼の死後、わずか3歳の茲政(これまさ)が家督を相続。以降、家老の多胡真清(たご さねきよ)らが幼い藩主を支え、坂崎直盛が遺した壮大なハードウェアの上に、亀井氏による安定した統治というソフトウェアを実装していくことになる 41

終章:津和野城改修が後世に与えた影響

慶長6年(1601年)に始まった津和野城の大改修は、単なる一城郭の変貌に留まらず、その後の津和野、ひいては西国における徳川支配のあり方を決定づける画期的な出来事であった。坂崎直盛が築き、亀井氏が受け継いだ城と町は、その後250年以上にわたる歴史の礎となったのである。

津和野藩250年の礎

坂崎直盛が着手し、亀井氏が完成・発展させた近世城郭としての津和野城と、計画的に整備された城下町は、明治維新に至るまで津和ano藩の政治・経済・文化の中心として機能し続けた 39 。山上に聳える堅固な城は、幕末の長州征討の際にも重要な戦略拠点として意識された。しかし、時の藩主・亀井茲監(これみ)は、隣国である長州藩との全面衝突を巧みに回避し、新政府側に与するという優れた政治判断を下し、津和野の地を戦火から守った 26 。これは、城の軍事力に頼るのではなく、外交と情報によって藩の存続を図る、成熟した統治の姿であった。

歴史的遺産としての価値

津和野城は、元和元年(1615年)に発布された一国一城令の後も、例外的に存続が許された近世山城として、全国的にも極めて稀有な歴史的価値を持つ 5 。これは、幕府が津和野城を対長州の抑えとして、その軍事的重要性を高く評価し続けていたことの証左である。一国一城令には、こうした戦略的見地からの例外が認められていた 42

今日、霊亀山の山上には、往時の威容を物語る壮大な石垣群がほぼ完全な形で現存し 7 、山麓には坂崎直盛が設計した城下町の地割りが色濃く残されている 5 。山上の城跡と麓の町並みが一体となって、近世初期の歴史的景観を追体験できる貴重な空間を形成しているのである。

「津和野城改修(1601)」の再評価

結論として、「津和野城改修(1601)」という事変は、以下の三つの側面から再評価されるべきである。

第一に、それは一地方の土木事業ではなく、関ヶ原の戦いがもたらした新たな政治秩序を、石見の地に物理的に刻み込む、徳川幕府による国家プロジェクトであった。

第二に、それは坂崎直盛という一人の武将の野心と剛直さ、そして悲劇的な最期というドラマと、亀井氏による長期的で安定した統治の基盤形成という、二つの対照的な物語が交錯する、日本の近世が幕を開ける象徴的な出来事であった。

そして第三に、当初の問いにあった「亀井茲矩」は、直接の実行者ではなかった。しかし、彼が因幡鹿野で培った朱印船貿易に代表される先進的な領国経営の思想とノウハウは、息子・政矩を通じて津和野に持ち込まれた。坂崎直盛が遺した堅牢な「ハードウェア」(城と町)に、亀井氏が250年かけて優れた「ソフトウェア」(経済・産業・文化政策)を実装したことによって、山陰の小京都・津和野の繁栄は実現したのである。歴史は一人の英雄によってではなく、断絶と継承の連鎖の中で築かれていく。津和野城改修の物語は、その真理を我々に雄弁に語りかけている。

引用文献

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  3. 京都所司代 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/kyotosyoshidai/
  4. 【長州藩江戸屋敷没収事件】 - ADEAC https://adeac.jp/minato-city/text-list/d110021/ht001020
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  6. 幕末維新期の石見国における長州藩民政と民心収攬 https://shimane-kodaibunka.jp/wp-content/themes/kodaibunka/pdf/32/kodai32_10.pdf
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  10. 第1章 津和野町の歴史的風致形成の背景 https://www.town.tsuwano.lg.jp/www/contents/1682570698880/simple/dai1syou.pdf
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  12. 津和野城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/tsuwano-castle/
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  18. 城・城郭/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/43755/
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  30. 岡山藩と軍事行動(居城受け取り)について - テレビせとうち https://www.webtsc.com/blog/14091/
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  32. 津和野藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%92%8C%E9%87%8E%E8%97%A9
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  34. 亀井茲矩公の歴史 https://www.shikano-net.com/kamei/rekishi.html
  35. 亀井茲矩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E8%8C%B2%E7%9F%A9
  36. 亀井茲矩 - 戦国武将列伝wiki - FC2 http://seekfortune.wiki.fc2.com/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E8%8C%B2%E7%9F%A9
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  38. 亀井政矩の紹介 - 大坂の陣絵巻 https://tikugo.com/osaka/busho/daimyo/b-kamei.html
  39. 津和野城跡・観光リフトに関するお知らせ ※運休情報追加(8/22更新) - ゆーにしんさい https://tsuwano-kanko.net/info/tsuwanocastle/
  40. 津和野町/主水畑|観光スポット - 山口県観光連盟 https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_16001.html
  41. 石見津和野藩亀井家 - 探検!日本の歴史 https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/tsuwano-kamei
  42. 一国一城令- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E4%B8%80%E5%9C%8B%E4%B8%80%E5%9F%8E%E4%BB%A4
  43. 一國一城令- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E4%B8%80%E5%9C%8B%E4%B8%80%E5%9F%8E%E4%BB%A4
  44. 津和野城跡 | しまね観光ナビ|島根県公式観光情報サイト https://www.kankou-shimane.com/destination/20242