津軽藩成立(1603)
津軽為信は南部氏から独立し、秀吉・家康との交渉で津軽藩を成立。関ヶ原では両面作戦で家を存続させ、弘前城築城を開始。死後も南部氏との確執は続いた。
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津軽藩成立史:『不制于天地人』を掲げた男、津軽為信の独立闘争と国家創成の軌跡
序章:奥州の動乱と一人の野心家
慶長八年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた年。この歴史的な転換点において、本州最北の地、陸奥国津軽地方に一つの「藩」が正式に誕生した。津軽藩、後の弘前藩である。その初代藩主、津軽為信。彼の名は、戦国乱世の終焉期において、辺境の地から身を起こし、一代で大名の地位を築き上げた稀代の人物として記憶されている。しかし、その成立の物語は、単に一地方の勢力が公認されたという事実だけに留まらない。それは、巨大勢力からの独立という壮大な野望、中央政権の動向を的確に読み解く戦略眼、そして時代の大きなうねりの中で「家」を存続させんとする執念が織りなす、濃密な人間ドラマであった。本報告書は、「津軽藩成立(1603年)」という事象を、その前史である津軽為信の台頭から、藩体制の確立、そして彼が遺した光と影に至るまで、可能な限り詳細かつ時系列に沿って解き明かすものである。
南部氏の支配と津軽の地理的位置づけ
津軽為信が歴史の表舞台に登場する以前、津軽地方は甲斐源氏の流れを汲む名門、南部氏の広大な支配圏の一部であった 1 。南部氏は糠部(ぬかのぶ)郡(現在の青森県東部から岩手県北部)を本拠とし、その勢力は陸奥国北部に広く及んでいた。津軽地方は、その西端に位置する辺境であり、南部一族が津軽郡代として派遣され、現地の国人衆や豪族を統括する間接的な支配体制が敷かれていた 3 。しかし、本拠地から遠く離れたこの地では、中央の統制は必ずしも盤石ではなく、在地領主たちの間では常に緊張が走り、南部氏の支配も絶対的なものではなかった 2 。この権力の浸透しきらない「辺境性」こそが、後に為信が独立への野心を育む土壌となったのである。
津軽為信、その出自の謎
津軽為信という人物を語る上で、その出自の謎は避けて通れない。彼の出自については、津軽藩が公式に編纂した『津軽一統志』などの津軽側の記録と、敵対した南部氏側の記録とで、その記述が大きく食い違う 5 。津軽側は、為信の祖先は奥州藤原氏の血を引き、彼は南部氏の一族である大浦為則の養子になったと主張する 5 。一方、南部側の記録では、彼は南部氏の一族である久慈氏の出身であるとされ、主家に対する裏切り者として描かれる 7 。
この謎をさらに深めるのが、豊臣秀吉が為信に宛てた朱印状の存在である。天正十七年(1589年)の書状の宛名は「南部右京亮」となっており、これは天下人である秀吉が、当初は為信を南部一族の一員として認識していたことを示す動かぬ証拠である 5 。しかし、為信本人が自らの出生に関する文書を処分してしまったと伝えられており、真相は今なお藪の中である 7 。
だが、この出自の曖昧さは、為信にとって克服すべき弱点ではなく、むしろ旧来の秩序から自らを解き放つための戦略的な資産であった。南部氏との縁故を匂わせることで当初の足場を固めつつも、最終的には全く新しい権威の源泉に自らを接続することで、彼は過去のしがらみを断ち切り、自由に自己を再定義する「白紙の経歴書」を手にしたのである。南部氏が彼の「怪しい身元」を攻撃材料とした時、彼は既にその弱点を、何者にでもなれる可能性を秘めた強みへと転換させていた 7 。
為信の人物像:「不制于天地人」の哲学
為信は、その外見もまた人々の記憶に強く残るものであった。身長は182cm程と当時としては傑出した巨躯であり、立派な髭を蓄えていたことから「鬚殿(ひげどの)」と呼ばれたと伝わる 6 。その強靭な肉体には、同様に強靭な精神が宿っていた。彼は革秀寺の禅僧・格翁舜逸に師事し、「普化鈴鈬(ふけれいたく)」の禅を学んだ。これは、常に死を意識し、生に執着せず、死を恐れない心境に達することを意味する教えであった 6 。
この精神を象徴するのが、彼の軍配に刻まれた「不制于天地人(てんちじんにせいせられず)」という言葉である 6 。天にも地にも人にも束縛されない、誰の支配にも屈しないというこの信念は、彼の生涯を貫く行動哲学となった。それは、巨大な権威であった南部氏に反旗を翻し、天下人である豊臣秀吉や徳川家康と渡り合い、自らの力で運命を切り拓いていこうとする、強烈な独立精神の宣言に他ならなかった。
第一章:反旗の狼煙 ― 津軽統一戦争の幕開け(1571年~1580年代)
津軽為信が歴史の舞台に躍り出るための好機は、彼が仕える主家、南部氏の内部から訪れた。彼の独立への道は、この千載一遇の機会を逃さず、津軽の地を武力で席巻していく壮絶な戦いの連続であった。
好機の到来:南部本家の内紛
当時、南部家は深刻な内紛の渦中にあった。当主であった第二十四代・南部晴政には長らく男子がおらず、一族の石川高信の子・信直を養嗣子として迎えていた。しかし、後に晴政に実子・晴継が誕生すると、晴政は信直を疎んじるようになり、両者の対立は抜き差しならないものとなっていた 9 。晴政派と信直派に家中は二分され、その統制は大きく乱れた。この権力の空白と内部抗争こそ、為信が独立という大望を抱き、行動を起こすための絶好の機会を提供したのである 12 。
元亀二年の挙兵と石川城攻略
元亀二年(1571年)五月、為信はついに反旗を翻す。彼の最初の標的は、津軽における南部氏支配の牙城であり、信直の実父・石川高信が守る石川城であった 12 。為信は夜襲をかけ、油断していた城を急襲。この戦いで高信は自害に追い込まれ、石川城は陥落した 4 。この一戦は、単なる一つの城の攻略に留まらない。南部宗家後継者の実父を討ち取ったという事実は、為信の南部氏に対する完全な決別と、津軽の武力平定への揺るぎない決意を内外に示す、象徴的な出来事であった。津軽統一戦争の火蓋は、ここに切って落とされたのである。
主要拠点の制圧:大光寺城と浪岡城の陥落
石川城攻略を皮切りに、為信は破竹の勢いで津軽各地の南部方勢力を駆逐していく。天正三年(1575年)には大光寺城を攻撃し、翌年にかけてこれを攻略 12 。そして、天正六年(1578年)には、津軽におけるもう一つの伝統的権威であった浪岡城へと兵を進めた 13 。
浪岡城は、公家大名・北畠氏の末裔が「浪岡御所」として君臨する、津軽における格式高い拠点であった 13 。城は湿地帯に築かれ、二重の堀や中土塁といった複雑な防御機構を備えた難攻不落の要塞であった 15 。しかし、為信は巧みな戦略でこれを攻め落とし、城主・北畠顕村を自害に追い込んだ。これにより、津軽における旧来の権威はことごとく為信の前に屈し、彼の津軽統一は決定的なものとなった。
為信の戦いは、単なる領土拡大ではなかった。彼が標的とした石川城(南部郡代の拠点)、大光寺城(南部氏の出城)、浪岡城(津軽の伝統的権威)は、いずれも津軽における既存の権力構造の「結節点」であった。彼はそれらの拠点を物理的に破壊し、南部氏との繋がりを断ち切ることで、津軽という地域を南部氏の勢力圏から切り離し、独立した政治単位として再定義するための、周到な「解体工作」を遂行していたのである。
冷徹な策略家としての一面
為信の統一事業は、武勇や戦略のみによって成し遂げられたわけではない。その過程では、彼の冷徹な策略家としての一面が垣間見える。家督を継いだ後、跡目争いの火種を消すためか、養父・大浦為則の実子である義弟二人を川遊び中に溺死に見せかけて暗殺したという疑惑が囁かれている 9 。
さらに、かつて同盟関係にあった田舎館城主・千徳政氏が南部氏に攻められた際、為信は援軍を送らず見殺しにした 9 。そして慶長二年(1597年)には、その千徳氏の残党が籠る浅瀬石城を攻め滅ぼしている 4 。これらの行動は、彼の野望達成のためには手段を選ばない、非情なまでの現実主義者としての側面を浮き彫りにしている。彼は、個人的な情や旧来の同盟関係よりも、津軽統一という大義を優先する、徹底した合理主義者であった。
表1:津軽為信の台頭と津軽藩成立に至る詳細年表(1550年~1607年)
西暦 |
和暦 |
津軽為信・津軽家の動向 |
中央政権・国内の主要動向 |
備考 |
1550年 |
天文19年 |
津軽為信、誕生(諸説あり) 6 。 |
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1567年 |
永禄10年 |
大浦為則の養子となり、大浦城主となる 5 。 |
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1571年 |
元亀2年 |
5月、南部氏に反旗を翻し、石川城を攻略。城主・石川高信を討つ 4 。 |
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津軽統一戦争の開始。 |
1575年 |
天正3年 |
8月、大光寺城を攻撃 12 。 |
長篠の戦い。 |
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1578年 |
天正6年 |
7月、浪岡城を攻略し、城主・北畠顕村を滅ぼす 13 。 |
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津軽地方の平定をほぼ完了。 |
1582年 |
天正10年 |
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本能寺の変、織田信長死去。 |
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1585年 |
天正13年 |
秋田の安東(秋田)氏との同盟を強化 2 。 |
豊臣秀吉、関白に就任。 |
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1590年 |
天正18年 |
3月、豊臣秀吉の小田原征伐に迅速に参陣。沼津にて秀吉に謁見 17 。 |
小田原征伐、北条氏滅亡。秀吉による天下統一が成る。 |
秀吉より津軽領有を公認される。石高4万5千石 19 。 |
1591年 |
天正19年 |
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九戸政実の乱。 |
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1594年 |
文禄3年 |
居城を大浦城から堀越城へ移す 3 。 |
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1598年 |
慶長3年 |
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豊臣秀吉、死去。 |
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1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)に参加。大垣城攻めに加わる 20 。 |
関ヶ原の戦い。 |
戦後、2千石を加増され、合計4万7千石となる 22 。 |
1603年 |
慶長8年 |
高岡(後の弘前)への新城建設と城下町の町割りを計画 19 。 |
徳川家康、征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開府。 |
津軽藩、正式に成立。 |
1607年 |
慶長12年 |
12月、上洛先の京都にて病没。享年58 10 。 |
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弘前城の完成を見ることなく死去。 |
第二章:中央への道 ― 権威を求めた政治闘争(1580年代後半~1590年)
津軽一円の武力平定に成功した為信であったが、彼が真に目指したのは、単なる一地方の覇者ではなかった。自らの支配に恒久的な「正統性」を与えること、すなわち、中央の最高権力者から独立した大名として公認されることこそが、彼の次なる目標であった。この目標達成のため、為信は武力ではなく、情報と政治力を駆使した新たな戦いを開始する。
情報収集と中央への布石
為信は、津軽という辺境の地にありながら、中央の情勢に極めて敏感であった。彼は早くから出羽国の実力者・最上義光と緊密な関係を結び、彼を介して京や大坂の情報を収集していた 9 。この情報網を通じて、彼は織田信長亡き後の天下が豊臣秀吉へと向かっていることを正確に把握していた。
そして、為信は周到な布石を打つ。天下人となった秀吉に直接誼を通じるため、その側近であった石田三成に接近し、津軽産の名馬や鷹などを献上して歓心を買った 14 。この三成を通じたパイプが、後の彼の運命を大きく左右することになる。
権威の創造:近衛家猶子と「津軽」姓の獲得
為信の政治戦略の中でも、特に大胆かつ独創的であったのが、自らの「権威」を創造する試みであった。彼は京に上り、五摂家の筆頭であり、前関白であった近衛前久に接近。金品を贈って関係を深め、ついにその猶子(ゆうし、養子格)となることに成功する 9 。これにより、為信は本姓を「藤原」とし、近衛家の家紋である杏葉牡丹の使用を許された 25 。
これは、単なる名誉の問題ではなかった。南部氏が「源姓」を称していたのに対し、自らをより格式高い「藤原姓」と位置づけることで、彼は南部氏の権威を飛び越え、全く新しい家系の創始者として自らを演出したのである。そしてこの機に、姓をそれまでの「大浦」から、領地そのものを表す「津軽」へと改めた 2 。これは、もはや自身が南部氏の一分家「大浦氏」ではなく、津軽一円を支配する独立領主「津軽氏」であることを、天下に宣言する象徴的な行為であった。
決定的瞬間:小田原征伐への迅速な参陣(1590年)
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東の雄・北条氏を討つべく小田原征伐の軍を発した。秀吉は東北地方の諸大名にも参陣を命じたが、多くは日和見の態度を取るか、対応が遅れた 26 。その中で、為信の行動は驚くべき迅速さを極めた。
彼は、秀吉がまだ小田原城を包囲する前の三月二十七日、その本陣が置かれた沼津にいち早く駆けつけ、謁見を果たしたのである 17 。これは、参陣が大幅に遅れて秀吉の激怒を買い、領地没収の危機に瀕した伊達政宗や 26 、為信に遅れて五月にようやく参陣した宿敵・南部信直とは 14 、実に対照的な行動であった。この迅速な恭順の意の表明は、秀吉に為信の忠誠心を強く印象づけ、後の領土裁定において決定的に有利に働くことになった。
この行動の背景には、為信の鋭い時代認識があった。秀吉が発令した「惣無事令」(私戦を禁じ、領土紛争は秀吉が裁定するという命令)により、もはや地方の武力で領地を切り取っても、中央の承認がなければ何の意味もなさない新時代が到来したことを、彼は誰よりも早く見抜いていた 17 。南部信直が旧来の「主家と家臣」という論理で為信を断罪しようとしたのに対し、為信は「誰が先に天下人に忠誠を示すか」という新しいゲームのルールを即座に理解し、完璧な一手を打ったのである。小田原における彼の勝利は、軍事的な勝利ではなく、時代の変化を読み解く情報分析能力と、好機を逃さない政治的決断の速さがもたらした、知的な勝利であった。
独立の公認:秀吉の裁定
小田原の陣中、南部信直は秀吉に対し、「為信は主家に背いた謀反人であり、その所領は没収されるべきである」と強く訴え出た 14 。しかし、秀吉の裁定は非情なまでに現実的であった。「先に参陣し、忠誠を示した為信の津軽領有を認める」 14 。この一言で、為信の長年にわたる独立闘争は、天下人の権威をもって公式に認められた。彼は晴れて4万5千石の大名として公認され、宿敵・南部氏の軛(くびき)から完全に解き放たれたのである 19 。
第三章:天下分け目の綱渡り ― 関ヶ原における津軽家の生存戦略(1600年)
天下を統一した豊臣秀吉の死は、再び日本を動乱の渦へと巻き込んだ。徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突した関ヶ原の戦い。この天下分け目の大戦において、独立を果たしたばかりの新興大名・津軽家は、生き残りを賭けた絶妙かつ大胆な綱渡りを演じることになる。
東軍への参加と大垣城攻め
慶長五年(1600年)、戦いの火蓋が切られると、津軽為信は天下の趨勢が家康にあると判断し、明確に東軍への参加を表明した 14 。彼は自ら2000余の兵を率いて本国を出立し、遠く美濃国まで赴き、関ヶ原本戦の前哨戦である大垣城攻めに参加した 19 。これは、新たな時代の覇者となるであろう家康に対し、忠誠を示すための公式な行動であった。
西軍への保険:嫡男・信建と石田三成の遺児
しかし、為信の戦略はそれだけでは終わらなかった。彼は、東軍に参加する一方で、嫡男の信建を大坂城に残していた。信建は豊臣秀頼の小姓を務めており、石田三成ら西軍首脳部とも密接な関係を持つ立場にあった 9 。
関ヶ原で西軍が壊滅的な敗北を喫すると、信建は驚くべき行動に出る。彼は、西軍の首謀者として処刑された石田三成の次男・重成らを伴い、追っ手から逃れて津軽へと帰国したのである 9 。為信はこの三成の遺児を領内で匿い、杉山源吾と名乗らせて手厚く保護した 9 。これは、東軍に与しながらその最大の敵将の子を保護するという、露見すれば即座に改易(領地没収)されてもおかしくない、極めて危険な賭けであった。
リスク管理の妙:両面作戦の真意
この一見すると矛盾した行動こそ、為信の真骨頂であった。それは、東西どちらが勝利しても津軽家が存続できるように周到に仕組まれた、高度なリスク分散戦略だったのである 9 。東軍が勝利すれば、為信自身の大垣城攻めでの戦功が評価される。万が一、西軍が勝利した場合には、信建が三成の遺児を保護したという功績を盾に、家の存続を嘆願することができる。
この為信の行動は、単なる日和見主義や裏切りといった言葉では評価できない。それは、絶対的な権力闘争の渦中に置かれた新興大名が、自らの「家」を永続させるという至上命題の前で、あらゆる可能性を考慮してリスクを管理する、究極のプラグマティズム(実用主義)の実践であった。かつて自らの独立を助けてくれた石田三成への私的な恩義と 14 、新たな天下人である徳川家康への公的な忠誠を両立させようとする、為信の義理堅さと冷徹さが同居した複雑な人間性を、この一件は如実に物語っている。
第四章:津軽藩、ここに成立す ― 1603年の意味と藩体制の黎明
関ヶ原の動乱を巧みに乗り切った津軽家は、新たな時代、すなわち徳川の治世において、その地位を確固たるものにしていく。そして慶長八年(1603年)、日本の歴史が新たな一歩を踏み出したその年に、津軽の地にも決定的な画期が訪れる。
戦後の論功行賞と所領安堵
関ヶ原における東軍参加の功績は、徳川家康によって正当に評価された。為信は、上野国大館(群馬県太田市)に2千石を加増され、津軽家の所領は合計4万7千石となった 19 。石高の増加以上に重要だったのは、家康から改めて所領を安堵されたという事実である。これにより、為信の津軽支配は、豊臣政権に続き、新たな天下人である徳川からも公式に追認され、その正統性は盤石なものとなった。
1603年:江戸幕府の成立と「藩」の誕生
慶長八年(1603年)、徳川家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開府した 28 。これは、戦国乱世の終焉と、その後260年以上にわたって続く「幕藩体制」という新たな国家システムの始まりを告げる出来事であった。全国の大名は、幕府の統制下に置かれる「藩」の領主として再編成され、その地位は幕府によって法的に保証されることになった。
この幕府の成立に伴い、津軽為信は外様大名の一人として、その地位を法的に確定された。これこそが、「津軽藩の成立」が1603年とされる最大の理由である。為信が一代で築き上げた実力支配は、この年をもって、幕府という中央政権によって制度的に保証された公的な「藩」としての統治へと、その質を転換させたのである。
新時代の拠点:高岡(弘前)の建設開始
この歴史的な年に、為信は未来を見据えた壮大な計画に着手する。藩の恒久的な拠点となるべき新たな城と城下町の建設である 24 。それまでの居城であった堀越城は、関ヶ原出陣中に家臣の謀反であっさりと陥落するなど、防御機能に重大な欠陥を抱えていた 30 。為信は、新たな平和の時代にふさわしい、政治・経済・文化の中心地を創り出すことを決意した。
築城の地として選ばれたのは、高岡(たかおか)、後の弘前であった。為信は家臣の沼田面松斎に命じ、兵法や陰陽五行の思想に基づき、四方を神が守護するとされる「四神相応」の吉地を選定させた 19 。この都市計画は、単なる軍事拠点の建設ではなく、これから始まる藩経営の時代を見据えた、永続的な「藩都」を創るという為信の強い意志の表れであった。
1603年という年は、津軽の支配権が為信の「個人的な武功」に基づくものから、徳川幕府という恒久的な「国家的制度」に組み込まれたものへと質的に転換した画期であった。為信は、自らの権力がもはや豊臣秀吉という一個人のカリスマに依存するものではなくなったことを深く理解し、それにふさわしい永続的な藩都の建設に着手したのである。それは、実力で勝ち取った領地を、法的に保証された永続的な「国家(藩)」へと昇華させるための、荘厳な儀式でもあった。
第五章:礎を築いて ― 為信の晩年と未来への遺産
津軽藩の成立を見届け、その礎を築いた津軽為信。しかし、彼が夢見た新時代の藩都の完成を、その目で見ることは叶わなかった。彼の死後、その遺産は光と影の両面となって、後世の津軽に大きな影響を与え続けることになる。
為信の最期
慶長十二年(1607年)、為信は病に倒れた嫡男・信建を見舞うため、自らの病身を押して京へと上った 31 。しかし、その甲斐なく信建は十月に死去 10 。最愛の息子を失った為信は、その失意からか病状が悪化し、同年十二月五日、後を追うように京都でその波乱の生涯を閉じた。享年五十八であった 10 。
為信の死後、家督は三男の信枚(のぶひら)が継承した。信枚は父の遺志を受け継ぎ、慶長十五年(1610年)から高岡城(後の弘前城)の築城を本格的に開始し、翌年には五層の天守閣を誇る壮麗な城を完成させた 19 。こうして、為信が計画し、信枚が完成させた弘前城と城下町は、その後260年以上にわたる津軽藩の繁栄の揺るぎない基礎となったのである 24 。
遺産①:弘前藩の基礎と豊臣への恩義
為信が遺した最大の物理的遺産は、弘前の城と町、そして4万7千石の領地であった。しかし、彼が遺したものはそれだけではない。彼の人間性を物語る一つの逸話が残されている。江戸時代を通じて、弘前城内には「開かずの宮」と呼ばれる一角があった。明治時代になってその扉が開けられた時、中から現れたのは豊臣秀吉の木像であったという 10 。徳川の治世下で、幕府による改易の危険を顧みず、自らを一介の国人から大名へと引き上げてくれた秀吉への恩義を、為信は終生忘れず、密かに祀り続けていたのである。この逸話は、冷徹な策略家であると同時に、義理堅い一面も併せ持っていた為信の複雑な人物像を今に伝えている。
遺産②:南部氏との永きにわたる確執
一方で、為信の成功は、後世にまで続く根深い対立という負の遺産も生み出した。為信による津軽の切り取りは、南部氏にとっては到底許容できない「主家への裏切り」であり、奪われた故地への怨念は、江戸時代を通じて両藩の間に拭い難い確執として残り続けた 35 。
この対立は、時に激しい事件へと発展した。江戸城内での席次を巡る争いや、文化八年(1821年)には、南部藩士・下斗米秀之進(相馬大作)が津軽藩主・津軽寧親の暗殺を企てる「相馬大作事件」まで発生している 36 。この両者の対立感情は、明治維新後の廃藩置県によって両藩が「青森県」として一つにまとめられた後も、地域間の感情的なしこりとして長く影響を残したとさえ言われている 35 。
津軽為信の生涯は、一個人の野望の達成が、いかにして地域の歴史的アイデンティティと永続的な地政学的対立構造を創り出すかを示す、一つの典型例である。彼の成功そのものが、必然的に「津軽対南部」という、後世にまで続く歴史的な「物語」を生み出した。彼が遺した最大の遺産は、弘前の城下町や石高といった物理的なもの以上に、この強烈な地域的アイデンティティと、その裏面にある対立の物語そのものであったのかもしれない。
結論
慶長八年(1603年)の「津軽藩成立」は、津軽為信という一人の男が、元亀二年(1571年)の挙兵から三十二年の歳月をかけて成し遂げた、独立国家創成の物語の到達点であった。それは、南部氏という巨大勢力の内部矛盾を突き、津軽の地を武力で統一した軍事の時代。次に、中央政権の動向を的確に読み、豊臣秀吉という新たな権威に自らを接続させた政治の時代。そして、関ヶ原の動乱を乗り越え、徳川幕府という新たな国家システムの中に自らの「藩」を法的に位置づけた統治の時代の、三つの段階を経て達成された。
為信の成功は、彼の「不制于天地人」という不屈の精神、時代の変化を読み解く鋭い知性、そして目的のためには手段を選ばない冷徹な現実主義の賜物であった。彼が創設した津軽藩は、彼が遺した弘前の町と共に、江戸時代を通じて北の要として独自の文化を育んでいく。しかし、その栄光の陰には、南部氏との永続的な確執という、彼の野望が生み出した深い影が常に付きまとっていた。
かくして、津軽為信の物語は、戦国乱世から近世へと移行する時代のダイナミズムを体現している。それは、一個人の強烈な意志が、いかにして歴史を動かし、一つの地域共同体とそのアイデンティティを創造し、そして後世にまで続く複雑な人間関係の構造を遺していくかという、普遍的な問いを我々に投げかけているのである。
引用文献
- 津軽氏は津軽為信の時代に北東北最大勢力の南部氏から独立し弘前藩を築いた - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/20728/
- 津軽為信(つがる ためのぶ) 拙者の履歴書 Vol.263~南部から自立、津軽の礎を築く - note https://note.com/digitaljokers/n/n19002500b580
- 津軽藩発祥の地 国史跡 種里城跡 - 鰺ヶ沢町 https://www.town.ajigasawa.lg.jp/tanesato/01.html
- 歴史講座「南部と津軽の秘史」 https://sc3014c5aee4b5a71.jimcontent.com/download/version/1560753233/module/14333162829/name/2018_0620_%E5%8D%97%E9%83%A8%E3%81%A8%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E4%B8%A1%E8%97%A9%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%8F%B2.pdf
- 大浦為信 https://rootsdiscovery.sakura.ne.jp/tsugaru2.html
- 第8話 為信の出自 - 青森歴史街道探訪|津軽と南部の歴史 http://aomori-kaido.com/rekishi-kaido/contents_tu/08.html
- お戌の方~元祖?!犬の保護活動家|春夏秋冬ブログ https://www.aoimori-syunkasyutou.com/post/_%E3%81%8A%E6%88%8C%E3%81%AE%E6%96%B9
- 津軽氏と南部氏の関係史(戦国時代について)|伊達胆振守(旧:呉王夫差)の活動報告 https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/377473/blogkey/1616870/
- 「津軽為信」出自不明の武将は摂関家の末裔!?弘前藩の藩祖 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/708
- 津軽為信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E7%82%BA%E4%BF%A1
- 第8話 為信の出自 ~為信出生の謎~ - 青森の歴史街道を探訪する https://aomori-rekisi.hatenablog.com/entry/2013/08/19/110722
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- 浪岡御所 - 【弘前市立弘前図書館】詳細検索 https://adeac.jp/hirosaki-lib/detailed-search?mode=text&word=%E6%B5%AA%E5%B2%A1%E5%BE%A1%E6%89%80
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