洲本城改修(1585)
1585年、秀吉は四国平定後、大坂防衛の要として洲本城を脇坂安治に与えた。安治は登り石垣などを導入し城を近世城郭へ改修、水軍の拠点として城と町を一体で整備した。
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天正十三年の戦略的転換点:豊臣政権下における洲本城の近世化と脇坂安治の役割
序章:天正十三年、天下統一への道程
1585年初頭の天下情勢
天正13年(1585年)、日本の政治地図は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)という新たな中心を軸に、劇的に再編されつつあった。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼし、織田信長の後継者としての地位を確固たるものとした秀吉は、翌天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康・織田信雄連合軍と軍事的には決着がつかなかったものの、巧みな政治工作によって信雄を単独講和に持ち込み、家康を政治的に孤立させることに成功した。これにより、秀吉の天下統一事業における最大の障害であった東国の家康を事実上封じ込め、その視線は西へと向けられることとなった。
この時点で秀吉の支配に服していない主要な勢力は、四国の長宗我部元親、九州の島津義久、そして関東の北条氏政であった。秀吉は、これらの勢力を順次平定すべく、壮大な戦略を展開し始める。その最初の標的となったのが、四国をほぼ手中に収めつつあった長宗我部の勢力であった 1 。
四国の雄・長宗我部元親と秀吉の対立構造
土佐の国人から身を起こした長宗我部元親は、天正3年(1575年)に土佐を統一すると、破竹の勢いで四国全土へと進出。天正13年(1585年)春には伊予の河野通直を降伏させ、四国統一をほぼ完了させるに至っていた 1 。この元親の急激な勢力拡大は、天下統一を目指す秀吉にとって看過できない脅威であった。秀吉は元親に対し、伊予の割譲などを条件とする和睦案を提示したが、元親はこれを拒否。外交交渉が決裂したことで、両者の軍事的衝突は不可避となった 2 。
秀吉にとって四国平定は、単に一地方を制圧するという意味に留まらなかった。瀬戸内海の制海権を完全に掌握し、次の目標である九州征伐への盤石な兵站線を確保するために、絶対に成し遂げなければならない戦略的必須事項だったのである 6 。
本報告書が解き明かす「洲本城改修」の多角的意義
本報告書は、天正13年(1585年)という天下統一の画期において行われた「洲本城改修」を、単なる一地方における城郭普請としてではなく、秀吉の国家建設プロセスを凝縮した象徴的な事変として多角的に分析するものである。この改修は、軍事征服から兵站・防衛体制の確立へと迅速に移行する秀吉の統治能力、そしてその実行を担う専門技能を持つ武将の抜擢という、中世から近世へと移行する時代の軍事・統治思想の転換点を鮮やかに示している。
特筆すべきは、四国平定が完了した直後から、間髪を入れずに洲本城の大規模改修が開始されている点である。四国攻めが終結したのは天正13年7月から8月にかけてであり 3 、脇坂安治が淡路洲本3万石の領主として入城したのは同年10月のことである 7 。そして、安治は着任後ただちに城の大改修に着手した 9 。この一連の流れは、秀吉が単に敵対勢力を征服するだけでなく、征服と同時にその地をいかに自らの戦略ネットワークに組み込むかを計画していたことを示唆している。洲本城の改修は、四国平定という軍事行動の「後処理」ではなく、その計画に当初から含まれていた「次なる段階」であった。これは、軍事・政治・土木技術をシームレスに統合した、極めて高度な戦略的思考の現れと言えるだろう。
第一章:四国平定と淡路国―戦略拠点としての覚醒
秀吉の四国侵攻計画と淡路国の役割
天正13年(1585年)6月、秀吉は長宗我部元親を討伐すべく、総勢10万を超える空前の大軍を四国へ向けて発動した 4 。この侵攻作戦において、淡路国は極めて重要な戦略的役割を担った。秀吉は、弟の羽柴秀長を総大将とする主力を淡路島経由で阿波へ、宇喜多秀家軍を讃岐へ、そして毛利輝元の麾下にある小早川隆景・吉川元長軍を伊予へと、三方向から同時に侵攻させる作戦をとった 2 。
中でも、秀長が率いる軍団は、淡路島を四国侵攻の橋頭堡、すなわち前線基地として活用した。淡路島は、秀吉の本拠地である大坂と、四国の東玄関である阿波・讃岐とを結ぶ結節点に位置する。この地を完全に掌握し、兵員・兵糧の集積地とすることで、大規模な軍団を効率的かつ安全に四国へと送り込むことが可能となったのである。
リアルタイム・クロノロジー:四国平定の展開
天正13年の四国平定戦は、秀吉の周到な計画と圧倒的な物量により、驚くべき速さで進展した。そのリアルタイムな展開は、当時の豊臣政権の軍事力を如実に物語っている。
年月日(天正13年) |
天下情勢 |
四国・淡路の動向 |
脇坂安治の動向 |
正月頃 |
秀吉、長宗我部元親との和睦交渉が決裂し、四国征伐を決意 1 。 |
元親、伊予の河野氏を降し、四国統一をほぼ完成させる 4 。 |
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5月 |
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秀吉より摂津能勢郡に1万石を与えられ、従五位下中務少輔に任官 7 。 |
6月 |
秀吉、弟の秀長を総大将に10万余の大軍を派遣。 |
秀長軍が淡路島に渡り、洲本城を拠点として阿波への侵攻を開始。宇喜多軍は讃岐へ、毛利軍は伊予へ進撃 2 。 |
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7月 |
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長宗我部軍は各地で敗退。元親は阿波白地城に籠城するも、兵力差は歴然 5 。7月25日、元親は降伏を決意 3 。 |
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8月 |
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8月6日、元親は秀長の陣営に出頭し、正式に降伏。四国平定が完了 6 。秀吉による戦後処理「四国国分」が開始される。 |
大和国高取にて2万石を与えられる 7 。 |
10月 |
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四国国分の結果、淡路国は脇坂安治(洲本3万石)と加藤嘉明(志知1万5千石)に与えられる 4 。 |
淡路国洲本3万石の領主として入封。直後に洲本城の大改修に着手 7 。 |
戦後処理「四国国分」と淡路国の新体制
長宗我部元親の降伏を受け、秀吉は「四国国分」と呼ばれる戦後処理を行った。元親には土佐一国の領有が安堵されたものの、阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景といった、秀吉配下の信頼篤い武将たちに与えられた 2 。これにより、四国は完全に豊臣政権の支配下に組み込まれた。
この国分において、淡路国の扱いは特に注目に値する。淡路は阿波の一部として蜂須賀氏に与えられるのではなく、独立した領地として、秀吉子飼いの武将である脇坂安治と加藤嘉明に分割して与えられたのである 4 。脇坂は洲本城を拠点に3万石、加藤は志知城を拠点に1万5千石を領した。
この配置は、単なる恩賞としての領地配分ではなかった。それは、秀吉の本拠地・大坂城の防衛体制を盤石にするための、極めて計算された戦略的布石であった。大坂湾の入り口を扼する淡路島に、賤ヶ岳の七本槍に数えられ、後に水軍の中核を担うことになる二人の猛将を配置することには、明確な意図があった。脇坂が守る洲本城は、紀淡海峡を通じて太平洋から大坂湾へ侵入するルートを監視し、加藤が守る志知城は播磨灘からのルートを睨む。この二重の防衛ラインによって、大坂湾は難攻不落の「内海」と化したのである。淡路島は、四国侵攻のための一時的な「足掛かり」から、豊臣政権の心臓部を守る恒久的な「盾」へと、その戦略的価値を大きく転換させた。この配置は、来るべき九州征伐や、さらには海外出兵までも見据えた、秀吉の広大な構想の一部であったと言える 4 。
第二章:白羽の矢が立った男―水軍の将・脇坂安治の抜擢
賤ヶ岳の七本槍から秀吉子飼いの将へ
洲本城改修という大事業を託された脇坂安治は、近江国浅井郡の出身で、早くから秀吉に仕えた生え抜きの武将である 12 。播磨の三木城攻めなどで武功を重ね、秀吉からの信頼を得ていった 7 。その名が天下に轟いたのは、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いである。この戦いで安治は、福島正則や加藤清正らと共に目覚ましい活躍を見せ、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられる栄誉を得た 7 。七本槍の中では最年長であり、その武勇と経験は秀吉から高く評価されていた 7 。
なぜ脇坂安治だったのか
四国平定後、淡路国の要である洲本城の城主に脇坂安治が選ばれたのは、賤ヶ岳での武功に対する恩賞という側面だけでは説明がつかない。彼の抜擢には、より深い戦略的理由が存在した。秀吉は安治を、陸戦の猛将としてだけでなく、将来の豊臣水軍を率いる中核的な指揮官として育成しようとしていたのである 7 。
当時の日本において、大規模な水軍を組織・運用できる大名は限られていた。秀吉は天下統一事業を推し進めるにあたり、瀬戸内海や九州、さらには海外へと展開可能な強力な水軍の創設を急務と考えていた。その構想の中で、九鬼嘉隆や加藤嘉明らと共に、脇坂安治にも水軍指揮官としての役割が期待された 7 。紀淡海峡に面し、古くから淡路水軍の拠点であった洲本は、安治に水軍編成の経験を積ませ、来るべき大規模な海上作戦に備えさせるための最適な任地であった。安治の洲本入封は、適材を適所に配置するという、秀吉の卓越した人事戦略の現れだったのである 11 。
天正13年、飛躍の年
天正13年(1585年)は、脇坂安治のキャリアにとってまさに飛躍の年となった。この一年間における彼の加増・転封の経緯は、豊臣政権下で有能な人材が如何に速やかに抜擢されていったかを示す好例である 7 。
- 5月:摂津国能勢郡にて1万石。 従五位下中務少輔に叙任される。
- 8月:大和国高取にて2万石。 四国平定が完了した直後の加増。
- 10月:淡路国洲本にて3万石。 最終的な戦略拠点への配置。
この一連の人事異動は、秀吉が自らの駒を戦略盤上に巧みに配置していく過程そのものである。摂津や大和といった畿内の所領は、四国情勢が固まるまでの一次的な恩賞、あるいは待機ポストとしての意味合いが強かったと考えられる。そして、四国国分によって淡路国の戦略的重要性が確定した段階で、満を持して安治をその要衝である洲本へと送り込んだ。安治にとって洲本への入封は、単なる栄転ではなく、豊臣政権の国防と将来の軍事作戦の成否を左右する、極めて重い責務を担うことを意味していた。
第三章:海の要塞への変貌―洲本城大改修の実態
改修以前の洲本城:安宅・仙石氏の時代
脇坂安治が入城する以前の洲本城は、大永6年(1526年)頃に淡路水軍を率いた三好氏の重臣・安宅治興によって築かれたと伝わる 8 。この時代の城は、三熊山の自然地形を巧みに利用した典型的な中世の山城であり、石垣よりも土塁や堀切、木造の櫓や柵を中心とした防御施設で構成されていたと考えられている 17 。その後、天正9年(1581年)に秀吉の淡路討伐で安宅氏は降伏し、城は仙石秀久に与えられた 8 。しかし、秀久の在城期間は天正13年(1585年)に讃岐へ転封となるまでのわずか3年ほどであり、この間に大規模な改修が行われた可能性は低い 17 。安治が目にした洲本城は、依然として中世の面影を色濃く残す城郭であったと推測される。
脇坂安治のグランドデザイン:大坂防衛と制海権の確立
安治に与えられた使命は、この中世山城を、豊臣政権の西の守りとして機能する近世城郭へと、全く新しく生まれ変わらせることであった。その基本構想(グランドデザイン)は、第一に秀吉の本拠地である大坂城を海上からの脅威から守ること、第二に紀淡海峡と大阪湾の制海権を完全に掌握することにあった 9 。
この壮大な目的を達成するため、改修は驚異的な規模で計画された。完成後の城郭は、東西約800メートル、山麓の「下の城」まで含めると南北約600メートルにも及ぶ広大な領域を誇った 9 。三熊山の山頂部全体を石垣で固めた要塞へと変貌させ、淡路水軍を再編・強化し、豊臣水軍の中核拠点とする。これが、安治の描いた洲本城の新たな姿であった 13 。
石垣普請の技術と変遷
洲本城を近世城郭へと昇華させた最大の要因は、城全域にわたって構築された壮大な石垣である。その普請には、当時の最先端技術が惜しみなく投入された。
資材と採石場
石垣の主たる材料には、城が位置する三熊山自体で採掘された和泉砂岩が用いられた 19 。城内で石材を調達できることは、輸送コストと時間を大幅に削減する上で極めて有利であった。現在も西の丸に残る大きく抉られた窪地は、当時の石切場の跡であると考えられている 19 。一方で、後に整備された山麓の「下の城」や、東登り石垣の下部には、洲本川の対岸から運ばれた花崗岩も使用されており、これは建設時期や用途の違いによるものと推測される 14 。
石工集団と穴太衆
これほど大規模な石垣普請を指揮したのは、高度な技術を持つ石工集団であった。安治の出身地である近江は、安土城の石垣を築いたことで名高い「穴太衆(あのうしゅう)」の本拠地である。洲本城の築城に穴太衆が直接関与したという明確な記録はないものの、自然石を巧みに組み合わせる「野面積み」や、天正年間に特徴的な隅角部を鈍角に仕上げる「シノギ角」といった技法が見られることから、穴太衆の技術的影響を強く受けた石工たちが動員された可能性は高い 20 。現代において、穴太衆の伝統技術を唯一継承する職人たちの手によって洲本城の石垣修復が行われている事実は、当時の工法との技術的な親和性の高さを物語っている 19 。
技術の進化の痕跡
脇坂安治の在城期間は24年間に及ぶため 9 、洲本城の石垣は一度に築かれたわけではなく、複数回にわたる改修を経て完成したと考えられる。城内に残る石垣には、石垣技術の発達段階を見て取ることができる。
- 天正期(初期): 東の丸の二段石垣などには、隅角部の「算木積み」がまだ未発達で、石垣の勾配も直線的な古い形式が見られる 20 。これらは安治による改修の初期段階、天正13年(1585年)頃のものと推定される。
- 文禄・慶長期(中期~後期): 南の丸や天守台の石垣では、算木積みがより洗練され、石垣の高さも増していく 19 。特に、慶長元年(1596年)の慶長伏見地震による被害からの復旧工事を契機に、技術が更新された可能性が指摘されている 12 。隅石の表面に見られる「スダレ状ノミ痕」と呼ばれる工具痕は、石材をより精密に加工するようになった後期段階の改修を示すものと考えられている 17 。
革新的防衛システム「登り石垣」の導入
洲本城の最大の特徴であり、その軍事的価値を飛躍的に高めたのが、山頂の「上の城」と山麓を結ぶ二条の「登り石垣」である 8 。
構造と戦術的意図
登り石垣とは、山の尾根や斜面に沿って、麓から山頂の城郭本体まで続く長大な石垣のことである。洲本城では、北側の斜面に東西二本の登り石垣が築かれた。この施設の戦術的な目的は、敵兵が山腹を横移動して城の側面や背後を突くことを防ぐことにあった。斜面を登り石垣で区画することで、敵の攻撃ルートを限定し、防御側が有利な地点で迎撃することを容易にする。これにより、山全体が一体化した巨大な防御システムとなるのである 23 。
技術の起源と導入時期の考察
この登り石垣は、脇坂安治が文禄・慶長の役(1592年~1598年)において朝鮮半島で築いた日本式の城(倭城)での経験を活かして築いた、というのが通説である 8 。しかし、安治による洲本城改修の開始は天正13年(1585年)であり、朝鮮出兵の7年も前のことである。この年代的な矛盾から、登り石垣の導入経緯については、より慎重な考察が必要となる。
考えられるのは、改修が多段階で行われたという仮説である。すなわち、1585年の初期改修段階で、朝鮮の倭城とは異なる発想から、山腹の防御を固めるための原型的な登り石垣が築かれた。そして、朝鮮出兵から帰国した後、倭城での実戦経験に基づき、既存の登り石垣をより強固なものへと改修・強化したのではないだろうか。特に、前述の慶長伏見地震後の修復は、その絶好の機会であったかもしれない。つまり、「朝鮮での経験」は、登り石垣の「発明」ではなく、「改良・完成」に寄与したと考えるのが合理的である。
山上(上の城)の縄張り
三熊山山頂の「上の城」は、本丸を中心に、東の丸、南の丸、西の丸といった主要な曲輪が巧みに配置された、堅固な縄張りであった 16 。本丸の入り口には、敵の侵入を阻むための内枡形虎口が設けられ、鉄壁の防御を誇った 26 。
天守の存在
現在、天守台には昭和3年(1928年)に建てられた模擬天守が立つが 8 、脇坂安治の時代にも壮麗な天守が存在したことは確実視されている。残された天守台の規模や、発掘された瓦の存在から、複数の建物を渡櫓で連結した「連結式」の天守であったと推測されている 8 。その規模は、3万石という安治の石高に対しては不釣り合いなほど壮大であったと言われ、これは洲本城が単なる一個人の居城ではなく、豊臣政権そのものの威信と軍事力を示すための、国家的な戦略拠点であったことを物語っている 16 。
第四章:城と町の同時創造―城下町・洲本の誕生
城下町の計画的整備
脇坂安治の事業は、城郭の改修だけに留まらなかった。彼は城の建設と並行して、その麓に計画的な城下町(じょうかまち)を整備した 9 。これは、城を単なる軍事拠点としてだけでなく、領国経営の中心地とする近世的な統治思想の表れであった。
「内町」地区の成立
安治の時代に整備されたのは、現在の洲本市街地の「内町」と呼ばれる地区である 17 。絵図などから、碁盤の目状に区画された整然とした町割りが施されていたことがわかる 31 。この計画的な町づくりによって、武士や商人、職人たちが集住し、洲本は淡路国の政治・経済の中心地として発展していくことになる。現在の洲本市街地の基礎は、この脇坂安治の時代に築かれたと言っても過言ではない 9 。
城と港、そして町の一体化
洲本における城下町の建設は、単に家臣団や領民を住まわせるためだけのものではなかった。それは、洲本城を一大海軍基地として機能させるための、不可欠な構成要素であった。水軍を維持・運用するためには、軍船を建造・修理する船大工、武具を生産・整備する職人、兵糧や物資を調達する商人、そしてそれらを支える経済活動が必須である。
城下町は、まさにそのための経済的・人的なインフラを供給する役割を担った。安治は、城という軍事拠点、港という海への出口、そして町という経済・生産拠点を一つの有機的なシステムとして一体的に設計・開発したのである。このように、軍事と経済を統合した拠点都市を創出する手法は、豊臣政権がその強大な権力を全国に及ぼしていく上で用いた、特徴的な統治モデルであった。洲本城と城下町の同時創造は、その先進的な実例の一つであった。
終章:豊臣政権の西の守り―改修後の洲本城が果たした役割
豊臣水軍の拠点として
天正13年(1585年)に始まった大改修により、近世城郭として生まれ変わった洲本城は、直ちにその戦略的価値を発揮し始める。城主の脇坂安治は、この新たな拠点を基地として豊臣水軍を率い、天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐といった、秀吉の天下統一事業を締めくくる重要な戦役に、水軍の将として参陣した 7 。特に小田原征伐では、海上から伊豆下田城を攻略するなどの功を挙げている 7 。洲本城は、名実ともに豊臣水軍の中核を担う一大拠点となったのである 13 。
文禄・慶長の役での役割
秀吉の目が朝鮮半島に向けられると、安治と洲本城の役割はさらに重要性を増す。文禄・慶長の役(1592年~1598年)において、安治は豊臣水軍の主力指揮官の一人として、朝鮮半島へ渡海した 7 。閑山島海戦での手痛い敗北を喫する一方で、漆川梁海戦では朝鮮水軍を壊滅させる大勝利を収めるなど、その戦歴は功罪相半ばするものであった 7 。重要なのは、この実戦経験が、洲本城のさらなる防衛機能の強化へとフィードバックされたであろうという点である。朝鮮での一連の功績により、安治は3,000石の加増を受け、その石高は3万3,000石となった 7 。
「洲本城改修」が戦国時代城郭史に遺した意義
天正13年の洲本城改修は、日本の城郭史において画期的な出来事であった。それは、総石垣、高石垣、そして革新的な登り石垣といった、当時の最先端土木技術を駆使して、一国の軍事・政治拠点をゼロから構築する壮大なプロジェクトであった。特に、海からの脅威を想定し、山全体を防衛システムとして一体化させたその設計思想は、「海城」あるいは「水軍城」の一つの完成形を示している。洲本城は、豊臣政権が有した強大な権力と、資源動員能力、そして高度な築城技術の結晶であり、後に続く近世城郭のモデルケースの一つとなった。
結論:1585年の事変が持つ歴史的重要性
結論として、天正13年(1585年)の「洲本城改修」は、単なる一地方城郭の改築に留まる事象ではない。それは、秀吉による四国平定という軍事行動と直結した、必然的な戦略的帰結であった。この改修は、豊臣政権の心臓部である大坂を防衛し、西国支配と将来の対外進出の礎となる制海権を確立するための、極めて重要な国家事業であった。脇坂安治という専門技能を持つ武将を抜擢し、当時の最先端技術を結集して一大海上要塞を築き上げたこの一連の事変は、秀吉の天下統一が、単なる軍事力による制圧だけでなく、緻密な戦略、巧みな人事、そして高度な技術力に裏打ちされたものであったことを雄弁に物語っている。1585年の洲本は、戦国の世が終わり、新たな統一政権が日本を再編していく時代のダイナミズムを、最も鮮やかに体現した場所の一つであったと言えるだろう。
引用文献
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- 国史跡 洲本城跡 - 淡路文化史料館 https://awajishimamuseum.com/sumoto_castle/
- 史跡洲本城跡 調査成果速報展2024 - 淡路文化史料館 https://awajishimamuseum.com/2024/04/17/%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E6%B4%B2%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E8%B7%A1-%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E6%88%90%E6%9E%9C%E9%80%9F%E5%A0%B1%E5%B1%952024/
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- 歴史巡り - 洲本市 https://www.city.sumoto.lg.jp/uploaded/attachment/14023.pdf
- 洲本城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/sumoto/sumoto.html
- 国史跡洲本城跡 歴史さんぽ – 淡路文化史料館 https://awajishimamuseum.com/sumotocastle2021/
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- [第15回 洲本城 水軍の将が築いた、「登り石垣」が残る絶景の城 ... https://shirobito.jp/article/671
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- 「賤ヶ岳七本槍」から豊臣水軍の中心人物へ|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【脇坂安治編】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1028227/2
- 洲本城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.sumoto.htm
- 城下町洲本 レトロなまち歩き|私の淡路島 - 神戸っ子 https://kobecco.hpg.co.jp/4201/
- 洲本市の町並み http://matinami.o.oo7.jp/kinki2/sumoto.htm