最終更新日 2025-10-05

浜松宿整備(1601)

慶長六年、徳川家康は自らの拠点浜松に宿場を整備。対武田の軍事都市から、東海道の交通・経済拠点へと再編した。城下に鍵の手構造を残し、有事にも備える設計だった。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

慶長六年の地平:戦国から泰平へ、浜松宿整備の時系列的再構築

序章: 1601年、時代の転換点に立つ浜松

本報告書は、慶長6年(1601年)に実施された「浜松宿整備」を、単一の土木事業としてではなく、関ヶ原の戦いを経て新たな国家体制を構築しようとする徳川家康の壮大な構想の一環として位置づけるものである。特に、戦国時代の軍事思想が色濃く残る過渡期において、いかにして泰平の世の社会基盤が構想され、実行に移されたのか、そのダイナミズムを「戦国時代という視点」から時系列に沿って再構築することを目的とする。

遠江国浜松は、江戸と京を結ぶ大動脈・東海道のほぼ中間に位置する地理的要衝である 1 。それ以上に、若き日の徳川家康が岡崎城から拠点を移し、17年間にわたって居城とした地であり、数多の苦難を乗り越え、後の天下統一への礎を築いた「出世城」としての歴史的意義を持つ 3 。この地が、新時代の幕開けを象徴する国家プロジェクトのモデルケースの一つとして選ばれたことには、単なる地理的利便性を超えた必然性が存在した。本報告書は、この必然性を解き明かし、1601年という一点に凝縮された時代の転換を詳らかにするものである。

第一章: 前史 ― 戦火の記憶と未整備の街道(~1600年)

慶長6年(1601年)の浜松宿整備が持つ画期的な意味を理解するためには、まず、それ以前の浜松がどのような論理で形成され、機能していた都市であったかを把握する必要がある。1601年以前の浜松の都市構造は、徹頭徹尾「対武田」という軍事戦略によって規定されていた。城の立地、縄張り、そして城下町の性格、その全てが「いかにして敵の攻撃を防ぎ、反撃するか」という一点に集約されていたのである。

1.1. 対武田の最前線基地「浜松城」

浜松城の歴史は、徳川家康が元亀元年(1570年)、今川氏の拠点であった旧来の曳馬城を取り込む形で、新たな城の普請を開始したことに始まる 3 。この移転と築城は、単なる本拠地の移動ではなく、甲斐の武田信玄という当代最強の敵に対峙するための、極めて戦略的な決断であった。

その立地選定は、当時の軍事思想を如実に物語っている。家康は当初、遠江国府が置かれた政治の中心地であり、天竜川の東に位置する「見付」を候補としたが、武田氏との関係悪化を受け、これを放棄する 7 。その理由は、見付が天竜川を背にする「背水の陣」となり、武田軍に攻められた際に逃げ場を失うだけでなく、織田信長の援軍も川の増水によって阻まれる危険性があったためである 7 。この判断から明らかなように、経済性や交通の利便性よりも、純粋な軍事的生存性が最優先されていた。代わって選ばれたのが、天竜川の西に位置する台地上の曳馬城であり、ここを核として大規模な拡張工事が行われ、「浜松城」が誕生したのである。

城の構造、すなわち縄張りもまた、防衛を主眼とした戦国時代の典型であった。三方ヶ原台地の斜面を利用し、西の最高所に天守曲輪を置き、そこから東に向かって本丸、二の丸、三の丸を段状に配置する「梯郭式」と呼ばれる構造を採用した 7 。これは、敵の侵攻に対して多層的な防御線を構築することを意図した設計であり、浜松が平時の居城であると同時に、有事の際には即座に要塞として機能することが求められていたことを示している。

この城の軍事拠点としての真価は、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで証明された。徳川家康生涯最大の敗戦とされるこの戦いにおいて、武田軍に大敗を喫した家康は浜松城へと退却する 3 。城の堅固な守りは武田軍の追撃を断念させ、家康は九死に一生を得た。浜松城は、単に居住空間であるだけでなく、徳川家の存亡を左右する死活的に重要な戦略拠点であったのである。

1.2. 戦国期の東海道と引馬宿の実態

徳川家康が浜松に拠点を置いていた時代の東海道は、後の泰平の世にみられるような、人馬が頻繁に行き交う整備された商業路ではなかった。その実態は、軍勢の移動や兵糧輸送に用いられる、断続的で未整備な「軍用道」としての性格が極めて強かった。古代の東海道は、現在の国道1号線よりもはるかに内陸の山がちな経路を辿っていたことからもわかるように、街道のルートは固定的ではなく、時代の要請に応じて変遷するものであった 12

特に、天竜川や大井川といった大河川は、旅の行程における最大の障害であった。これらの川には橋が架けられておらず、渡河は渡船に頼るほかなかった 13 。この状況は、平時においては物流の大きな妨げとなる一方、有事の際には敵の進軍を阻む天然の防御線として機能した。橋を架けないという選択は、軍事的な観点からはむしろ利点とさえ考えられていたのである。

浜松城下に存在したとされる旧来の「引馬宿」も、後の計画的な宿場町とは全く性格を異にするものであった。それは、城に付随して自然発生的に形成された小規模な町場であり、その機能は城に仕える武士や職人、そして彼らを相手にする商人の居住が主であったと推察される 15 。全国的な交通網の一端を担うという意識は希薄であり、あくまで城という軍事拠点に従属する存在に過ぎなかった。

このように、1601年以前の浜松は、その都市構造の全てが軍事的な論理によって規定されていた。それは、来るべき泰平の世の交通・経済の中心地となるべく準備された都市ではなく、戦国の緊張の中で生き残るために最適化された要塞都市であった。したがって、慶長6年の整備事業は、単なる既存インフラの「改良」ではなく、都市の存在意義そのものを「軍事」から「経済・交通」へと転換させる、まさにパラダイムシフトと呼ぶべき大事業だったのである。

第二章: 天下人の号令 ― 全国交通網整備計画の発動(1600年~1601年初頭)

慶長5年(1600年)10月、関ヶ原の戦いにおける勝利は、徳川家康を事実上の天下人へと押し上げた 16 。この勝利を以て、日本の歴史は大きな転換点を迎える。すなわち、武力による制圧と領土拡大を至上命題とした戦国の世から、法と制度による恒久的かつ安定的な全国統治を目指す泰平の世への移行である。この新たな国家構想を実現する上で、家康が最重要課題の一つと認識していたのが、全国を網羅する交通・通信網の整備であった 17

なぜ関ヶ原の戦いの直後、他の多くの課題に先んじて交通網の整備に着手したのか。それは、新政権の安定が、地方の情報を迅速に収集し、中央たる江戸からの命令を全国の隅々まで遅滞なく伝達する能力に懸かっていることを、家康が深く理解していたからに他ならない。この国家の「血流」ともいうべき交通・通信網を幕府が独占的に掌握することは、徳川による支配体制を盤石にするための絶対条件であった。

2.1. 慶長6年正月「宿駅伝馬制度」の公布

その具体的な第一歩として、家康は関ヶ原の戦いが終結してわずか数ヶ月後の慶長6年(1601年)正月、まず日本の大動脈である東海道を対象に、「宿駅伝馬制度」を公布した 14 。この制度は、それまで戦国大名が各自の領国内で部分的に実施していた伝馬制度を、全国規模で統一し、標準化した画期的な国家政策であった 18

幕府は、東海道沿いの主要な集落に対し、二種類の重要な文書を下付した。一つは「伝馬朱印状」であり、これはその集落が幕府公認の「宿場(宿駅)」であることを示す認可証の役割を果たした 16 。朱印状という形式は、通行の許可権限が幕府に帰属することを全国に示す威令であり、街道そのものの支配権を宣言するに等しい行為であった。

もう一つは「御伝馬之定」と呼ばれる文書で、これは宿場が遵守すべき具体的な規則書であった 16 。そこには、各宿場が常備すべき伝馬(公用の馬)の数(当初は36疋と定められた)、伝馬に積載できる荷物の重量、そして次の宿場まで荷物を継ぎ送るリレー方式の運用ルールなどが詳細に規定されていた 14

2.2. 宿場の義務と権利

この制度の下で、宿場に指定された町や村は、幕府の朱印状を持つ公用通行者(大名、幕府役人など)に対し、定められた人馬を無賃または規定の低料金で提供するという「伝馬役」という重い義務を負うことになった 14 。これは宿場にとって大きな経済的負担であったが、その代償として二つの重要な権利が与えられた。

第一に、伝馬役を負担する屋敷地の税(地子)が免除されたことである 16 。これにより、宿場運営の経済的基盤が支えられた。第二に、旅籠(旅館)や商店の経営、一般旅行者向けの運送業などを独占的に営む権利が認められたことである 16

この「義務」と「権利」を一体として与える仕組みは、宿場を単なる民間集落ではなく、幕府の直接的な行政サービスの一部を担う、いわば官民一体の出先機関として国家システムに組み込むことを意図したものであった。宿場は、幕府の権威を背景に経済活動を行い、その利益を以て公役を果たすという、新たな社会的役割を担うことになったのである。この制度が、諸大名の領国を貫いて設定されたこと自体、国境(藩境)を越えて行使される幕府の超越的な権威を示すものであり、地方分権的な戦国の世から中央集権的な江戸の世への移行を象'徴する、極めて高度な政治的・戦略的行為であったと言える。

第三章: 新たな領主の着任と使命 ― 松平忠頼と浜松藩の始動(1601年)

全国規模で発動された宿駅伝馬制度という壮大な国家プロジェクトを、浜松という特定の場所で具体化するためには、中央の意図を正確に理解し、忠実に実行する現地の責任者が必要であった。慶長6年(1601年)、浜松城主の交代劇は、まさにこの要請に応えるための戦略的人事であった。

3.1. 浜松城主の交代と人選の意図

関ヶ原の戦い以前、浜松城主であった堀尾吉晴・忠氏親子は、豊臣秀吉に仕えた大名であった。彼らは関ヶ原の戦いで東軍(徳川方)に与して戦功を挙げたものの、戦後、家康はその功に報いる形で彼らを出雲国(現在の島根県)松江へと加増転封させた 27 。そして、空いた浜松城には、徳川家康の異父妹を母に持つ、桜井松平家の松平忠頼が5万石で入封した 8

この人選の背後には、家康の深謀遠慮があった。浜松は東海道のほぼ中央に位置し、江戸と上方を結ぶ交通・軍事上の最重要拠点の一つである。この地に、旧豊臣系の外様大名ではなく、徳川一門の中でも特に血縁の近い譜代大名を配置することは、東海道の支配権を盤石にし、新時代の国家体制の動脈を確実に掌握するための不可欠な布石であった 30 。松平忠頼の浜松入封は、浜松藩の誕生であると同時に、浜松が徳川幕府の直轄管理下にある重要拠点として再定義された瞬間でもあった。

3.2. 松平忠頼の治績と課せられた使命

藩主として浜松に入った松平忠頼であるが、彼の治績に関する具体的な記録は、後世にほとんど伝わっていない 31 。しかし、この「治績の不明」こそが、彼の歴史的役割を逆説的に物語っている。彼は、独創的な政策で領国経営を行う創造的な領主として期待されていたのではなかった。彼の最大の、そしてほぼ唯一の使命は、幕府の最重要国策である東海道整備計画、すなわち「浜松宿」の建設を、中央の設計図通りに、遅滞なく、かつ完璧に実行することにあったのである。

事実、忠頼は藩主在任中、慶長12年(1607年)に火災で焼失した駿府城の復旧普請役を命じられるなど、幕府直轄の事業に動員されている記録が残っている 31 。浜松宿の整備もこれと同様に、忠頼個人の藩政としてではなく、幕府という中央政府が推進する国家プロジェクトを、現地で指揮・監督する「代理人」としての役割を担っていたと考えるのが妥当である。彼の評価尺度は「藩を豊かにしたか」ではなく、「幕府の命令を確実に実行したか」という点にあった。

着任直後の慶長6年(1601年)、忠頼はただちに宿場整備の準備に着手したと推察される。幕府から派遣された専門の役人(後の道中奉行の原型となる役職)らと共に、既存の城下町の測量、住民の構成や土地所有の状況調査、そして新たな都市計画に基づく移転計画の策定などを精力的に進めていったであろう。この周到な準備期間を経て、戦国の要塞都市・浜松を、泰平の世の交通拠点へと生まれ変わらせるための、壮大なグランドデザインが具体化されていったのである。

第四章: 城下町のグランドデザイン ― 浜松宿の再編、そのリアルタイムな様相(1601年)

慶長6年(1601年)、松平忠頼の指揮下で開始された浜松の都市改造は、単なる道路整備の域を遥かに超える、壮大なグランドデザインに基づいていた。その核心は、既存の引馬宿を事実上解体し、東海道を城下町の新たな中心軸として引き込むという、極めて大胆な都市再編計画であった 15 。この計画には、泰平の世の到来を見据えつつも、未だ戦国の緊張感を色濃く残す、時代の二重性が巧みに織り込まれていた。

4.1. 都市計画の策定 ― 「軍事」と「交通」の融合

新たな東海道のルートは、浜松城の南側、大手門の正面を通過するように設定された 1 。これは、東海道を往来する全ての人々、特に参勤交代で通行する諸大名に対し、浜松城の威容と、それを支配する徳川の権威を常に見せつけるための、視覚的な権力装置としての意図があった。街道は、単なる交通路ではなく、幕府の権威を誇示する舞台装置としての役割をも担わされたのである。

一方で、この新街道には、戦国時代を生き抜いた家康ならではの、リアリズムに満ちた軍事的配慮も盛り込まれていた。城下町に入った街道は、直線的に西進した後、浜松城の大手門前で直角に南へ折れ、さらに西へと屈曲する「鍵の手(かぎのて)」、あるいは「枡形(ますがた)」と呼ばれる構造が採用された 1 。平時において、この屈曲部は町の景観に変化を与え、賑わいの結節点を生み出す効果があった。しかし、その真の目的は有事にあった。万が一、敵軍が街道から城下へ侵攻してきた場合、この鍵の手構造は敵の突進速度を強制的に落とし、正面からの直進を妨げる。そして、屈曲部の周囲に潜んだ守備兵が、側面から集中攻撃を加えることを可能にする、極めて巧妙な防御装置であった。

この設計は、浜松宿が「平時には効率的な物流拠点として機能し、幕府の権威を誇示しつつ、有事の際には城と一体化した難攻不落の防衛拠点となる」という、高度なハイブリッド都市として構想されたことを示している。これは、泰平の世のインフラを整備しながらも、戦乱の再発を常に念頭に置いていた、過渡期ならではの設計思想の表れである。

4.2. リアルタイム・シミュレーション ― 宿場建設のプロセス

この壮大な都市改造は、慶長6年(1601年)の一年間を通じて、計画的かつ段階的に実行されたと考えられる。そのプロセスは、以下のように再構築できる。

  1. 測量と設計(1601年初頭~春): 松平忠頼の監督のもと、幕府から派遣された専門役人と現地の職人たちが、浜松城郭と周辺地域の実地測量を行った。そのデータに基づき、新たな街道のルート、町人地の区画割り(町割り)、そして後述する主要施設の配置などを盛り込んだ詳細な設計図が作成された。
  2. 住民への通達と移転命令(1601年春~夏): 設計図が完成すると、旧引馬宿の住民や、新街道の経路上に家屋や土地を持つ武士、町人、寺社に対し、公式に移転命令が通達された。特に、城の拡張や城下町の再編に伴い、元々城内にあった寺院などが計画的に城下の指定地へ移転させられた記録が残っている 35 。この際、一方的な立ち退きではなく、代替地の提供や移転費用の一部補償なども行われたと推察される。
  3. インフラ工事の着手(1601年夏~秋): 住民の移転と並行して、大規模な土木工事が開始された。新たな東海道となる道路の路盤を固め、道幅を規定通りに拡幅し、排水のための側溝を設置する作業が進められた。同時に、移転対象となった建物の解体と、新たな区画での再建も急ピッチで行われた。
  4. 宿場中核施設の建設(1601年秋~冬): 街道という「線」の整備に加え、宿場としての機能を司る「点」の建設が進められた。交通・通信の中枢である「問屋場」、大名や公儀の役人が宿泊する「本陣」、幕府の法令を掲示する「高札場」など、宿場の運営に不可欠な施設が、設計図通りに建設されていった 1

4.3. 新設された浜松宿の主要施設とその機能

1601年の整備によって計画的に配置された主要施設は、それぞれが明確な役割を担い、有機的に連携することで、浜松宿という新たな都市システムを機能させていた。

施設名

主な機能

想定される設置場所と意図

根拠資料

問屋場

・伝馬人足の差配、継立業務 ・公用貨物の管理 ・飛脚の受付 ・宿場の運営全般

伝馬町の中番所付近。宿場の中心であり、交通業者が集まる最も賑やかな場所。業務の効率化と監視の容易さを意図。

1

本陣・脇本陣

・大名、旗本、公家、幕府役人など、身分の高い者の公式な宿泊・休憩施設

街道沿いの主要な場所。格式と警備のしやすさを考慮して配置。後の時代には6軒の本陣が置かれる大宿場となる素地が作られた。

1

高札場

・幕府の法度(法律)や禁令、触書などを掲示する板札 ・幕府の権威を民衆に示す象徴

連尺町。人々の往来が最も多い、目立つ場所に設置。民衆への情報伝達と権威の誇示を目的とする。

1

番所

・通行人の監視、不審者の取り調べ ・「入り鉄砲に出女」の監視

宿場の東西の入口(馬込橋の東番所、成子坂の西番所)と中心部(伝馬町の中番所)。宿場全体を治安・軍事的に管理する意図。

1

これらの施設の計画的な配置により、浜松宿は単なる通過点ではなく、交通、通信、宿泊、行政、そして治安維持の機能を備えた、多機能な都市モジュールとして誕生した。それは、徳川幕府による全国統治システムの、重要な結節点だったのである。

第五章: 新宿場「浜松」の誕生と初期運営

慶長6年(1601年)末から翌年にかけて、一連の整備事業が完了し、新たな「浜松宿」は東海道の29番目の宿場として本格的な稼働を開始した 2 。この稼働は、浜松という都市の性格を根底から変え、地域社会に新たな秩序と力学をもたらす社会変革の始まりでもあった。

5.1. 伝馬役の開始と宿場の負担

宿場として公認された浜松の住民は、幕府の定めた伝馬役を担うことになった。当初は36疋の人馬を常に用意し、朱印状を持つ公用通行者の要請に応じる義務を負った 14 。この負担は、屋敷の間口(表通りに面した建物の幅)に応じて割り当てられるなど、一定の公平性を保つ工夫がなされていたが、公用通行が集中する時期には宿場の負担能力を超えることも少なくなかった 41

伝馬役の負担は、宿場の経済活動の根幹を成す一方で、その運営を脅かすほどの重圧ともなり得た。この問題は、後の寛永14年(1637年)に、宿場だけでは負担を賄いきれない分を周辺の村々が人馬を提供して補う「助郷(すけごう)」制度の導入へと繋がっていく 1 。1601年の時点では、まだ助郷制度は確立されていなかったが、宿場運営の負担という構造的な問題の萌芽は、制度の開始当初から内在していたのである。

5.2. 交通の要衝としての経済効果

伝馬役という重い負担の一方で、宿場としての機能は浜松に前例のない経済的活況をもたらした。整備された東海道を通じて、参勤交代の大名行列、幕府の役人、全国を股にかける商人、そして伊勢参りなどに赴く一般の旅人まで、多種多様な人々が昼夜を問わず往来するようになった 42

この人の流れは、新たな需要を生み出した。街道沿いには、旅人のための宿泊施設である旅籠、休憩場所である茶屋、そして様々な商品を扱う商店が次々と建ち並び、活気ある町並みが形成されていった 17 。また、伝馬役を専門に請け負う馬方や人足といった新たな職業も生まれ、地域に雇用を創出した 44

この変化は、浜松の都市としての役割を根本的に変えた。かつては武田氏の侵攻に備える純粋な軍事拠点であった浜松は、江戸と上方を結ぶ日本の大動脈における、人・モノ・情報が交差する経済的・社会的な結節点へと劇的な変貌を遂げたのである。

この変貌は、地域社会の価値基準にも静かな、しかし確実な変化をもたらした。戦国時代において、社会的な名声や地位を決定づけたのは、武士の「武勇」や「知行高」であった。しかし、新たに誕生した宿場町においては、商業的な才覚や、複雑な伝馬継立業務を差配する「実務能力」が、町の有力者となるための重要な資質となった。宿場の運営を司る問屋場の役人には、町の有力な商人などが任命されることが多かった 40 。これは、町の運営の主導権が、城郭内にいる武士階級から、街道沿いに住む町人階級へと部分的に移譲され始めたことを意味する。浜松宿の整備は、物理的な都市改造であると同時に、武士の価値観が絶対であった社会から、町人の経済合理性が大きな影響力を持つ社会への移行を促す、社会変革の触媒として機能したのである。

結論: 浜松宿整備が象徴するもの

慶長6年(1601年)の浜松宿整備は、単なる一宿場の建設、あるいは一都市の再開発という出来事に留まるものではない。それは、日本の歴史における一つの大きな時代の終わりと、新たな時代の始まりを凝縮した、象徴的な事象であった。

第一に、この整備は「戦国」から「江戸」への歴史的転換の具現化であった。戦乱と軍事の論理によって構築された要塞都市・浜松が、徳川幕府による全国統治と経済の論理に基づき、国家のインフラとして再定義された。これは、武力による支配から法と制度による支配へと、国家のあり方そのものが変質していくプロセスを、都市という物理的な空間の上に描き出したものであった。

第二に、浜松宿の設計に埋め込まれた二重性は、徳川家康という人物、そして彼が生きた過渡期の時代の精神そのものを体現している。「街道としての利便性」と「要塞としての防御性」という、一見矛盾する二つの要素を巧みに両立させた都市計画は、泰平の世を希求しつつも、戦国の記憶を決して忘れなかったリアリスト・家康の思想の結晶である。

第三に、この整備事業は、その後の日本の社会と経済の礎を築いた。浜松宿の整備によって確立された基本骨格は、江戸時代を通じて東海道随一の規模を誇る宿場町として繁栄する基盤となった 1 。そして、戦国時代の軍事拠点が、泰平の世の交通・経済の要衝へと生まれ変わるというこの変革の物語は、日本が近世社会へと移行していくプロセスを理解する上で、極めて重要な事例であり続ける。

本報告書は、1601年という一点に焦点を当て、浜松という都市の変革を通じて、戦国時代の終焉と江戸時代の黎明という、日本の歴史における壮大な地平の転換を時系列的に再構築したものである。

引用文献

  1. 浜松宿 | 浜松情報BOOK http://www.hamamatsu-books.jp/category/detail/4cff0c6a8467f.html
  2. 浜松宿 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%AE%BF
  3. 浜松城の見どころと歴史 - Hamamatsu Navi https://www.hamamatsu-navi.jp/2025/02/04/highlightsandhistoryofhamamatsucastle.html
  4. 浜松城の歴史/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-castle/hamamatsujo/
  5. 浜松城の出世人|徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松 - 浜松・浜名湖だいすきネット https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/about/person/
  6. 徳川家康が築いた浜松城は出世城として戦国時代の歴史に名を刻んだ。静岡県浜松市の浜松城で天下人徳川家康の歴史を紐解く! - 芸術・建築物|クールジャパンビデオ|日本の観光・旅行・グルメ・面白情報をまとめた動画キュ https://cooljapan-videos.com/jp/articles/7jmq2mw9
  7. 【静岡県】浜松城の歴史 大河ドラマで注目を浴びる家康の出世城。江戸時代の歴代城主は要職に出世した人も多かった? https://sengoku-his.com/1919
  8. 浜松城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/123/memo/4328.html
  9. 遠江浜松城 http://www.oshiro-tabi-nikki.com/hamamatu.htm
  10. 浜松城の特徴|高札場 特集記事 https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/column/column1/
  11. 若き日の家康の拠点<浜松城> https://sirohoumon.secret.jp/hamamatsucastle.html
  12. 東海道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93
  13. 旧東海道歩き旅(30)見附宿~浜松宿(2024.5.5) - インテンポでいこう! https://masa-chan.com/2024/10/31/post-4569/
  14. 江戸時代の陸上・河川交通 ~スライド本文~ - 静岡県立中央図書館 https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/1649/1/2-2.pdf
  15. 新発見の遠州浜松城図を読む - 浜松市 https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/documents/123587/hamahakukouza1.pdf
  16. 東海道の成立 - 平塚市博物館 https://www.hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/sonota/tokuten_sonota/tokubetuten/0111tokaido1.htm
  17. 交通 - ルーラル電子図書館 https://lib.ruralnet.or.jp/edu/sirabe2/thema06.html
  18. 江戸幕府の宿駅制度 - 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-4-01-03-01-01.htm
  19. 伝馬制度 日本史辞典/ホームメイト https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/tenmaseido/
  20. 道路:道の歴史:近世の道 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/road/michi-re/3-1.htm
  21. 旧東海道と宿場制度 横浜市保土ケ谷区 https://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/shokai/rekishi/tokaido/shuku-seido.html
  22. 【伝馬制の起原】 - ADEAC https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000010/ht002300
  23. 【一 近世の街道と宿駅】 - ADEAC https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-list/d100010/ht2044101010
  24. 江戸幕府の街道施策の正確な伝承・発信にご尽力されている志田 威(しだ たけし)先生より、令和4年5月29日(日)に開催された『東海道57次講演』についてのお知らせをいただきました。 - 戸谷八商店 https://www.toyahachi.com/20230222/
  25. 静岡県立中央図書館 歴史文化情報センター https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/1649/1/2-1.pdf
  26. 愛知県の宿場町と東海道整備の歴史と重要度合い (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/5209/?pg=2
  27. 浜松藩〜十二の名家によって治められたをわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/han/759/
  28. 出世城 浜松城の歴代城主|徳川家康公ゆかりの地 出世の街 浜松 - 浜松・浜名湖だいすきネット https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/about/history/
  29. 松平忠頼(まつだいら ただより)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E9%A0%BC-1110562
  30. 桜井松平家~摂津尼崎藩とその分家~ - 探検!日本の歴史 https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/sakurai-matsudaira
  31. 【松平忠頼】 - ADEAC https://adeac.jp/hamamatsu-city/text-list/d100020/ht002130
  32. 松平忠頼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E9%A0%BC
  33. 松平忠頼 | 浜松情報BOOK http://www.hamamatsu-books.jp/category/detail/4e7fdbbb841e2.html
  34. 浜松城跡 11 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/33/33265/35956_1_%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%9F%8E%E8%B7%A111.pdf
  35. 【日蓮宗】 - ADEAC https://adeac.jp/hamamatsu-city/text-list/d100020/ht007400
  36. adeac.jp https://adeac.jp/hamamatsu-city/text-list/d100020/ht003260#:~:text=%E3%80%90%E5%95%8F%E5%B1%8B%E5%A0%B4%E3%81%AE%E4%BB%BB%E5%8B%99%E3%80%91%E5%95%8F%E5%B1%8B,%E3%81%82%E3%82%8B%E9%A6%AC%E6%95%B0%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%BB%E3%81%A9
  37. 「問屋場」(といやば)とはどういう施設ですか? https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0212.htm
  38. 東海道と宿場の施設【問屋場】 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/03_sisetu/06index.htm
  39. 浜松宿 - あいち歴史観光 https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/hamamatsu.html
  40. 大名行列が宿泊する宿場町は問屋場と本陣がてんてこ舞 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c08605/
  41. 性をもつものである。しかしながら https://komazawa-u.repo.nii.ac.jp/record/2006093/files/00016019.pdf
  42. 五街道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93
  43. 東海道シンポジウム新居宿大会! | 編集部ピックアップ - 浜松・浜名湖だいすきネット https://hamamatsu-daisuki.net/pickup/4866/
  44. 地方自治と伝馬制度 - 全国町村会 https://www.zck.or.jp/site/essay/5383.html