浦賀湊整備(1606)
1606年、家康は浦賀湊を整備。江戸防衛の海上関所とする国内統制と、三浦按針を登用しスペインとの太平洋貿易拠点とする国際港化、二つの野望を同時に進めた。
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天下人の眼差し:慶長十一年の浦賀湊整備に見る戦国終焉と新時代の黎明
序章:慶長十一年、天下泰平の狭間で
慶長十一年(1606年)。この年は、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利を収めてから六年、征夷大将軍の座を息子秀忠に譲ってから一年が経過した時期にあたる。世はまさに「天下泰平」へと向かう黎明期にあった。しかし、その穏やかな時代の幕開けの裏側では、戦国の熾烈な記憶と、なお燻る緊張感が色濃く漂っていた。この年の浦賀湊整備という事変は、単なる港湾のインフラ整備ではなく、この過渡期の時代の空気を凝縮した、極めて象徴的な国家事業であった。
前年の慶長十年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所として駿府城に退いた 1 。これは、徳川による支配が世襲によって盤石に続くことを天下に示すための、周到に計算された政治的演出であった。これにより家康は、江戸の日常的な政務から解放され、より大局的な国家構想の実現にその全精力を傾けることが可能となった。そして、その構想は決して穏やかなものだけではなかった。
慶長十一年、家康は将軍秀忠の名をもって、一国一城令や武家諸法度といった、大名の力を根底から削ぐための矢継ぎ早の政策を打ち出す 2 。これは、特に豊臣恩顧の西国大名に対し、居城以外の城郭を破却させ、その軍事力を無力化すると同時に、大名間の私的な婚姻や城の無断修築を禁じることで、彼らの政治的自立性を奪う強硬策であった。さらに、京都所司代を新設して朝廷や西国大名の動向を厳しく監視させるなど、国内の潜在的な敵対勢力、とりわけ大坂城に座す豊臣秀頼とその周辺に対する警戒の眼差しは、いささかも緩められていなかった 2 。
このような状況下で進められた浦賀湊の整備は、平和な時代の公共事業という側面以上に、戦国を勝ち抜いた覇者が、その勝利を恒久的なものにするために用いた「戦国的な思考法」の現れであった。戦国大名が自らの領国の安全を確保するために、国境の城を固め、街道に関所を設けて人や物の流れを管理したように、家康は江戸という新たな本拠地の安全を確保するため、その海の玄関口である浦賀を掌握し、管理下に置くことを企図したのである。すなわち、陸上で行われていた支配強化策を、そのまま海上へと拡張する試みであった。浦賀湊整備は、天下泰平という目的を達成するために、「要衝の確保と監視」という戦国時代以来のリアリズムを手段として用いた、まさに時代の狭間を象徴する事業だったのである。
第一章:浦賀、戦国より継承されし要衝
徳川家康が浦賀の地政学的重要性に着目したのは、決して彼独自の発見によるものではない。その価値は、戦国時代の百年にわたる関東の覇権争いの中で、既に見出され、確立されていた歴史的遺産であった。家康の政策は、過去の歴史的蓄積、とりわけ旧敵であった後北条氏の戦略的遺産を巧みに継承し、転用する形で成り立っていたのである。
戦国時代、小田原を本拠地として関東一円に覇を唱えた後北条氏は、房総半島を拠点とする里見氏との間で、江戸湾(現在の東京湾)の制海権を巡る熾烈な抗争を繰り広げていた 3 。この長い戦いの中で、後北条氏は江戸湾の喉元を扼する戦略的要衝として浦賀の価値を認識し、この地に城(浦賀城)を築いて水軍の一大拠点とした 5 。浦賀は、東から江戸湾へ侵入しようとする里見水軍を迎え撃つ最前線の防衛拠点であると同時に、自らの水軍が房総半島へ出撃するための基地でもあった。この地の支配は、江戸湾全体の支配に直結する死活問題だったのである。
しかし、天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐によって後北条氏は滅亡する。秀吉の命により、長年本拠地としてきた三河・駿河などを離れ、この旧北条領、すなわち関東への国替えを命じられたのが徳川家康であった。家康は、敵であった後北条氏が遺した領地と軍事施設を接収する形で、新たな支配を開始した。
家康にとって、後北条氏の軍事施設は、本来であれば旧体制の象徴であり、破壊されるか、あるいは放置されてもおかしくない「負の遺産」であった。しかし、家康は関東入府後、いち早く浦賀の湊に目をつけたことが記録されている 6 。これは、家康が長年にわたり後北条氏と対峙し、時には争い、時には同盟する中で、彼らがなぜ浦賀をこれほどまでに重視したのか、その戦略的価値を敵の視点から学び、熟知していたことを示唆している。
ここに、家康の天下人としての非凡さが見て取れる。彼は単に浦賀の軍事的価値を継承しただけではなかった。後北条氏にとって浦賀が「小田原防衛」のための拠点であったのに対し、家康はこれを「江戸を防衛し、江戸を起点として天下を支配する」ための拠点へと、その目的とスケールを遥かに大きく昇華させて再定義したのである。これは、敵の強みすらも吸収し、自らのより壮大な構想のために戦略的に転用する、家康の徹底した現実主義(リアリズム)の現れであった。浦賀湊整備は、この戦略的再定義を具現化する、最初の具体的な一歩だったのである。
第二章:天下人の布石 ― 家康の二つの野望
慶長十一年の浦賀湊整備は、単一の目的から発せられた事業ではなかった。それは、徳川家康が胸中に抱いていた、一見すると矛盾する二つの壮大な野望を同時に追求するための、周到な布石であった。一つは、戦国の延長線上にある「国内の軍事・警察的統制の強化」。もう一つは、新たな時代の幕開けを告げる「国家主導の国際貿易の創出」である。この二つの野望が、浦賀という一点で交錯したのである。
第一節:国内掌握の仕上げ ― 「江戸の喉元」を固める軍事的必然性
陸上での合戦においては比類なき強さを誇った徳川家康であったが、その軍事力において水軍は、長らく弱点であり続けた 7 。毛利氏、九鬼氏、そして関東の北条氏や甲斐の武田氏など、有力な戦国大名がそれぞれ精強な水軍を擁していたのに対し、家康は後発であった。この弱点を克服するため、家康は敵対勢力の人材とノウハウを積極的に吸収するという、極めて現実的な手段を講じた。
その象徴が、向井正綱の登用である。正綱はもともと武田信玄・勝頼に仕えた武田水軍の将であり、駿河湾を舞台に徳川・北条の水軍と渡り合った歴戦の海の武将であった 8 。天正十年(1582年)に武田氏が滅亡し、主君を失った正綱に対し、家康は手を差し伸べる。正綱にとって家康は、かつて父を討たれた仇敵でもあったが、彼は能力を正当に評価する家康の下に降ることを決断した 10 。この決断は、忠義や恩讐といった情念よりも、個人の能力と実利が優先される戦国時代の価値観を如実に物語っている。
この人材登用により、徳川家は一夜にして経験豊富な水軍の指揮官と、その組織を丸ごと手に入れることに成功した。関東入府後、家康は正綱を船手頭(後の御船手奉行)に任命し、相模国の三崎を拠点として江戸湾全体の警固という重責を任せた 7 。こうして形成された徳川水軍は、生え抜きの家臣団ではなく、旧武田水軍という敵対勢力の残党を中核として再編成された「ハイブリッド組織」であった。
浦賀湊の整備は、この寄せ集めでありながらも精強な新設水軍に、明確な任務と、より戦略的な活動拠点を与えるための事業であった。三崎よりもさらに江戸湾の入り口に近く、湾内全体を睥睨できる浦賀に本格的な基地を設けることで、名実ともに「徳川の水軍」として機能させようとしたのである。これは単なる軍事拠点の建設に留まらない。旧敵の将兵たちに国家的な大事業を任せることで、彼らを完全に徳川の支配体制に組み込み、その忠誠心を確固たるものにするという、高度な政治的意図も含まれていた。浦賀のインフラ整備は、徳川水軍という新たな組織のアイデンティティを形成する上でも、不可欠なプロセスだったのである。
第二節:富国への渇望 ― 江戸主導の国際貿易網構築
家康の浦賀に対する眼差しは、国内の軍事統制だけに向けられていたわけではない。彼の視野は、日本の国境を越え、遥か太平洋の彼方まで広がっていた。家康は、九州の平戸や長崎を拠点とし、伝統的に西国大名が利権を握ってきた対外貿易の構造を根本から覆そうと企図していた。すなわち、自らの本拠地である江戸の膝元に、徳川家が直接管理する新たな国際貿易港を創設することである 6 。その舞台として白羽の矢が立てられたのが、浦賀であった。
家康が特に強い関心を寄せたのが、イスパニア(スペイン)との直接交易であった。当時、イスパニアはフィリピンのマニラを拠点にアジア貿易を展開し、さらに太平洋を越えてヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコ港との間にガレオン船を往来させていた 8 。家康は、この太平洋航路に日本を組み込み、浦賀をその中継拠点とすることで、莫大な富と、当時最先端であった西洋の技術を江戸に直接もたらそうと考えたのである 15 。
この壮大な構想を実現する上で、鍵となる人物がいた。慶長五年(1600年)、豊後国(現在の大分県)に漂着した英国人航海士、ウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)である 17 。アダムスがもたらした航海術、造船術、そして複雑なヨーロッパの国際情勢に関する知識は、家康の知的好奇心と政治的野心を大いに刺激した。家康はアダムスを外交顧問として重用し、浦賀の国際港化計画における中心人物として抜擢した 6 。
家康のこの構想は、単なる富国策という一面に留まるものではなかった。それは、関ヶ原の戦いで敵対し、依然として潜在的な脅威であり続けた西国大名に対する、長期的かつ巧妙な経済戦略でもあった。当時の主要な貿易港であった長崎や平戸は、豊臣恩顧の大名や外様大名の勢力圏に近く、彼らの経済力、ひいては軍事力の源泉となっていた 8 。家康は、江戸近郊に徳川直轄の国際貿易港を設けることで、富を幕府に集中させ、最新の海外情報や技術を江戸で独占し、西国大名の経済的優位性を相対的に削ぐことを狙ったのである。これは、戦国時代の兵糧攻めや経済封鎖といった発想を、国家規模の経済戦略へと応用したものであった。浦賀湊の整備は、軍事的な支配強化と表裏一体をなす、経済による全国支配の重要な布石だったのである。
第三章:1606年、浦賀湊整備のリアルタイム・クロニクル
慶長十一年(1606年)の浦賀湊整備は、突発的に行われた事業ではない。それは、ウィリアム・アダムスの漂着から始まった数年間にわたる外交交渉、技術開発、そして家康による政治的判断が積み重なった結果、ついに実行に移された国家プロジェクトであった。その時間軸を追うことで、当時の内外の情勢が如何に連動し、この歴史的事業へと結実していったかが見えてくる。
年月 (西暦) |
日本側の動向(家康、向井正綱、アダムス等) |
外国側(イスパニア等)の動向 |
備考 |
慶長5年 (1600) |
ウィリアム・アダムスが豊後に漂着。家康は彼を引見し、その知識を高く評価して外交顧問として登用する 17 。 |
オランダ船リーフデ号が日本に到着。 |
アダムスがもたらした情報が、家康の対外政策に大きな影響を与える。 |
慶長9年 (1604) |
家康の命により、アダムスの技術指導の下、伊東で日本初の西洋式帆船(80トン級)が建造される 8 。 |
アダムスの尽力により、最初のイスパニア商船が浦賀に入港したとの記録がある 15 。 |
太平洋航海への具体的な準備と、浦賀港の試験的利用が開始される。 |
慶長10年 (1605) |
家康、将軍職を秀忠に譲り、大御所となる 1 。アダムス指導の下、さらに大型の西洋式帆船(120トン級)が完成する。 |
フィリピン総督ドン・ペドロ・デ・アクーニャが、家康の交易要請に応じる姿勢を見せる。 |
家康がより大局的な外交・貿易政策に専念できる体制が整う。 |
慶長11年 (1606) |
向井正綱の指揮の下、浦賀湊の本格的な整備が開始される。大型船用の船着場拡張、荷揚げ施設、船番所などが建設される。 |
イスパニアの公式商船が浦賀に入港し、貿易が開始される 16 。 |
浦賀が、徳川政権下における東国初の公式な国際貿易港として機能し始める。 |
慶長13年 (1608) |
イスパニア船が再び浦賀に入港する 16 。 |
|
浦賀とマニラ間の交易が定着し始める。 |
慶長14年 (1609) |
前フィリピン総督ドン・ロドリゴが上総国に漂着。家康は彼を歓待し、アダムス建造の船でメキシコへ送還する 20 。 |
|
家康はロドリゴを通じ、メキシコとの直接交易と鉱山技師の派遣を要請。 |
慶長15年 (1610) |
幕府が派遣した答礼使がメキシコに到着。 |
メキシコ副王は、家康の要請に応え、探検家セバスティアン・ビスカイノを答礼使として日本へ派遣。 |
日本と新大陸(メキシコ)間の公式な外交関係が樹立される。 |
慶長16年 (1611) |
ビスカイノが駿府で家康に謁見。日本の沿岸測量を許可される。 |
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イスパニア側との関係が深まる一方で、測量許可が後の摩擦の火種となる。 |
この年表が示すように、1606年の整備本格化は、周到な準備期間を経て迎えられたものであった。特に、アダムスという「西洋の技術」と、向井正綱が率いる「日本の海事の知見」、そしてそれらを結びつけ、国家的なリソースを投入して外交交渉を推進した家康の「政治的意志」という三つの要素が融合して初めて、このプロジェクトは実現可能となった。アダムスが技術的な触媒となり、向井正綱が実務的な執行者となり、そして家康が最高責任者として全体を統括した。この意味で、1606年の浦賀湊整備は、単なる土木工事ではなく、異文化の技術と日本の伝統的ノウハウを、強力な政治的リーダーシップが統合した、近世日本における最初の複合的国家プロジェクトと評価することができる。
この年、整備が進む浦賀の湊には、向井配下の水軍の番船、荷揚げを待つイスパニアのガレオン船、そして商機を求めて集まった日本の商人たちの船が蝟集し、活況を呈したであろう。日本人役人、商人、武士、そして異国の言葉を話す船員たちが入り混じり、そこには新たな時代への期待感と、異文化接触に伴う緊張感が同時に存在していたに違いない。
第四章:湊の二つの顔 ― 「監視の眼」と「貿易の窓」
慶長十一年の整備によって生まれ変わった浦賀湊は、本質的に二律背反的な二つの顔を持っていた。一つは、江戸湾という徳川政権の心臓部へ出入りする全てのものを厳しく監視する「監視の眼」。もう一つは、未知なる富と技術を求めて太平洋の彼方へと開かれた「貿易の窓」である。この湊の二重性は、徳川政権そのものが持つ本質的な二面性――すなわち、国内への徹底した統制と、国外への選択的な関心――を映し出す鏡であった。
第一節:「監視の眼」― 江戸城の海上大手門
徳川幕府は、全国の主要な街道に箱根や新居などの関所を設け、人や物の流れを厳格に管理した。特に「入鉄炮に出女」という言葉に象徴されるように、江戸への武器の流入と、人質として江戸に住まわせた大名の妻子が国元へ逃げ出すことを極度に警戒した。浦賀に設置された船番所(後の浦賀奉行所の前身)の機能は、この陸上の関所の思想を、そのまま海上へと適用したものであった 21 。
江戸湾に入る全ての和船は、原則として浦賀で停船を命じられ、向井正綱配下の船手衆によって、積荷の内容、乗員の構成、そして航海の目的地などが厳しく検査された 23 。これは、江戸の経済と治安、そして何よりも徳川の政治的安定を揺るがしかねない不穏な動きを水際で防ぐための、まさに「海の関所」であった。特に、米や塩、硫黄といった戦略物資の流通は、幕府が江戸の物価や軍需をコントロールする上で極めて重要であり、その動向は厳しく監視された 22 。
この浦賀の監視機能は、単なる港湾管理というレベルを超え、より大きな思想に基づいていた。それは、江戸という巨大な城塞都市の「海上における大手門(正門)」としての役割である。家康が構想した江戸の都市計画の根底には、戦国大名として培った城郭防衛の思想があった。城が堀と門によって内外を厳格に区別し、人や物資の出入りを完全に統制する空間であるように、家康は江戸湾全体を江戸城を守る広大な「外堀」と見立てたのである。そして、その外堀への唯一の公式な入り口が浦賀であった。
この「海上大手門」を通過する許可なくして、いかなる船も湾内深くに進入することは許されない。これにより、江戸は陸上と同様の、厳格な防衛・管理体制下に置かれることになった。1606年の浦賀湊整備は、江戸の防衛ラインを物理的な城郭から、江戸湾という広大な地理的空間へと拡張する、壮大な事業だったのである。
第二節:「貿易の窓」― 幻の太平洋トライアングル構想
一方で、浦賀は堅く閉ざされた門であるだけではなかった。家康の意図の下、それは世界へと選択的に開かれた「窓」でもあった。家康がイスパニアとの貿易に求めたのは、単に珍しい文物や生糸のような商品だけではなかった。彼の真の狙いは、当時世界最大級の銀生産国であった日本の富をさらに増大させるための、先進的な鉱山技術、特に銀の精錬効率を飛躍的に高めるアマルガム法(水銀 amalgamation 法)の導入にあった 8 。
家康の構想は、日本の朱印船が主に向かっていた東南アジア方面に留まらず、前人未到の太平洋を東に横断する、全く新しい交易路の開拓にあった。具体的には、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)のアカプルコ、日本の浦賀、そしてアジアの拠点であるフィリピンのマニラを結ぶ、壮大な三角貿易ルート(太平洋トライアングル)の構築を目指していた可能性が指摘されている 14 。ウィリアム・アダムスに建造させた西洋式の大型帆船は、この前代未聞の太平洋航路を開拓するための、実験的かつ実践的な試みであった 8 。
この構想は、日本の歴史における地政学的な大転換を意味する可能性を秘めていた。日本の歴史を通じて、対外関係のベクトルは常に西、すなわち中国大陸、朝鮮半島、そして南シナ海方面に向けられていた。しかし家康は、イスパニアとの接触を通じて、太平洋の遥か向こうに広がる「新世界」とその莫大な富、そして新たな技術の存在を明確に認識していた。
浦賀を拠点とする太平洋航路の確立は、この新たな世界と日本を直接結びつけることを意味した。それは、西国大名が握る既存の貿易ルートを迂回するという経済的な狙いを超えて、日本の国際社会における立ち位置そのものを根底から変える、革命的な試みであった。もしこの構想が成功していれば、日本の近代化は、後の歴史とは全く異なる形で、二百年以上も早く始まっていたかもしれない。慶長十一年の浦賀湊整備は、この壮大な歴史の「if」を現実のものとするための、極めて重要な第一歩だったのである。
第五章:夢の終焉と遺産 ― 浦賀湊のその後の運命
徳川家康が浦賀に託した壮大な夢は、しかし、彼の死と共に儚く消え去ることになる。元和二年(1616年)の家康の死は、徳川幕府の対外政策における決定的な転換点となった 19 。国際貿易港としての浦賀の短い春は終わりを告げ、その役割は大きく変容していく。
二代将軍秀忠をはじめとする後継者たちは、家康のような個人的な好奇心や冒険心よりも、確立された国内体制の安定と維持を最優先する方針へと舵を切った。特に、キリスト教の禁教政策が強化される中で、スペインやポルトガルといったカトリック国との深い関係は、体制を揺るがしかねない危険な「リスク」と見なされるようになった 8 。その結果、幕府は対外的な窓口を限定する、いわゆる「鎖国」へと向かう。ヨーロッパ船の寄港地は九州の平戸と長崎のみに制限され、浦賀は国際貿易港としての機能を完全に剥奪された 8 。家康が心血を注いだイスパニアとの関係も、やがて断絶へと至り、浦賀からメキシコへ向かう最後の貿易船が出航したのは、家康が没した元和二年のことであった 27 。
この政策転換の背景には、家康の構想が、彼の戦国時代特有の野心と現実主義に深く根差した、極めて「属人的」なものであったという事実がある。リスクを恐れず大きなリターンを狙う企業家的な家康に対し、秀忠以降の幕閣は、前例を踏襲し、リスクを最小化することを旨とする官僚的な組織へと変質していった。彼らにとって、家康の壮大で不確実なビジョンを継承する意志も、またその必要性もなかったのである。
結果として、浦賀が持っていた二つの顔のうち、体制維持に不可欠な「監視の眼」の機能は継承・強化され、リスクの大きい「貿易の窓」の機能は放棄された。浦賀の運命は、徳川幕府が創業者のカリスマ的リーダーシップから、安定志向の官僚組織へとその性格を変えていく過程を象徴していた。
しかし、浦賀の歴史はそれで終わらなかった。「貿易の窓」は閉じられたが、「監視の眼」としての重要性はむしろ増していった。江戸時代の経済発展に伴い、国内の海運(廻船)が活発化すると、江戸湾に出入りする全ての国内船を検問する拠点として、浦賀の役割は不動のものとなる。そして享保五年(1720年)、それまで伊豆下田にあった奉行所が正式に浦賀へ移転され、「浦賀奉行所」が設置された 24 。これにより、浦賀は国内海運の統制・監視拠点として、江戸幕府の経済と治安を支える重要な役割を担い続けることになった。
そして、時代は二百数十年の時を経て、嘉永六年(1853年)に至る。アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる四隻の蒸気船、いわゆる「黒船」が、威容を誇示しつつ姿を現したのが、まさにこの浦賀の沖合であった 30 。家康が国際交渉の舞台として選び、世界への窓口にしようとした場所が、250年の時空を超えて、再び日本の運命を左右する外交の最前線となったのである。それは、家康の壮大な夢が潰えた後の日本の姿を予兆すると同時に、彼がこの地に見出した地政学的な重要性が、時代の変化の中でも決して失われることがなかったことを証明する、歴史の皮肉な巡り合わせであった。
終章:戦国大名のリアリズムと天下人のグローバリズム
慶長十一年(1606年)の浦賀湊整備は、単なる一地方の港湾開発ではない。それは、日本の歴史における一つの重要な転換点を象徴する、多層的な意味を内包した事変であった。この事業の中には、戦国時代という旧時代の論理と、来るべき新時代のビジョンとが、徳川家康という一人の人物の中で交錯し、結晶化していた。
第一に、この整備は、戦国大名としての家康が持つ、領土と交通路を物理的に支配しようとする徹底した現実主義(リアリズム)の集大成であった。旧敵である後北条氏の戦略眼から学び、同じく旧敵であった武田氏の水軍人材を登用し、自らの本拠地・江戸の喉元である江戸湾という要衝を完全に掌握しようとする一連の動きは、乱世を勝ち抜いた武将ならではの、実利に基づいた思考の帰結である。
しかし同時に、この整備は、天下人としての家康が抱いた、日本を世界の中に位置づけ、新たな富と技術を求めて太平洋に乗り出そうとする、当時としては驚くべき国際感覚(グローバリズム)の発露でもあった。ウィリアム・アダムスを介した西洋技術の積極的な導入や、幻に終わったとはいえ、新大陸とアジア、そして日本を結ぶ太平洋三角貿易構想は、彼の視野がもはや日本国内に留まっていなかったことを明確に示している。
この二つの思想――戦国的な支配の論理と、近世的な国際関係の論理――が、一つの事業として分かちがたく結びついていたのが、1606年の浦賀湊整備の本質であった。それは、国内を厳しく統制する「監視の眼」と、世界へ選択的に開く「貿易の窓」という二つの顔に象徴されている。
その後の日本の歴史は、家康の死と共に国際感覚が後退し、支配の論理が国内を覆っていく「鎖国」の過程であった。しかし、幕末の黒船来航によって浦賀が再び歴史の表舞台に登場したことは、家康が250年前に見抜いていたこの地の地政学的な宿命が、決して消え去ることはなかったことを物語っている。慶長十一年の浦賀湊整備は、壮大な夢の始まりであったと同時に、その夢が潰えた後の日本の姿をも予兆する、日本の近世史における画期的な一里塚だったのである。
引用文献
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- 浦賀の按針屋敷跡|横須賀市浦賀地域|神奈川県 - 三浦按針 ゆかり https://willadams.anjintei.jp/wa-14201-52.html
- 浦賀の歩み - 横須賀市 https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/history.html
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- 浦賀を中心に見た江戸幕府の対外貿易と海防 - 多摩大学 https://www.tama.ac.jp/cooperation/img/tamagaku/vol12.pdf
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- 戦国期向井水軍の足跡を辿って(鈴木かほる氏より) - 陽岳寺 http://www.yougakuji.org/archives/560
- 向井将監に学ぶ(元東都読売新聞記者 石川明氏より) - 陽岳寺 http://www.yougakuji.org/archives/556
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- 日本を開国へと導いた立役者!「浦賀奉行所」 - 横須賀市 https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2110/bugyousyo/top.html
- 浦賀番所(うらがばんしょ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B5%A6%E8%B3%80%E7%95%AA%E6%89%80-35279
- 中 川 番 所 - 江戸川区 https://www.city.edogawa.tokyo.jp/documents/9204/3-08.pdf
- 江戸期における浦賀の役割の変遷 The Role Transitions of Uraga Port in Tokugawa Era https://tama.repo.nii.ac.jp/record/147/files/201401800124.pdf
- 徳川家康 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
- 浦賀湊の景観及び機能とその変容過程 https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/19266/files/%E6%AD%B4%E5%9C%B012-63.pdf
- 12.浦賀奉行所跡 - 横須賀市 https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/nisi12.html
- 横浜をはじめ県内各所には当時の歴史を偲ぶ遺産が数多く伝わる。 - 明治の時代になってまもなく150年。 - 急ピッチで街づくりが進む。その後、郊外の生麦で幕末の一大事件が起こる。 - 神奈川県 https://www.pref.kanagawa.jp/documents/2055/15_t12.pdf
- 黒船来航のインパクト: 衝撃的だった西洋との出会い - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02197/
- 黒船来航 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9%E6%9D%A5%E8%88%AA