淀城築城(1594)
1594年の淀城築城は、実は秀吉による淀古城の「廃城」である。秀頼誕生と伏見城築城を背景に、資材転用と権力集中のため、鶴松の記憶が残る城は解体された。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
淀城築城(1594)の真相:豊臣秀吉の国家構想における「創造のための破壊」
序論:淀城築城(1594)—歴史認識の再構築
文禄三年(1594年)、山城国淀の地で城が築かれ、水運が掌握された――この「淀城築城(1594)」という事変は、豊臣秀吉晩年の動向を理解する上で、一見すると重要な画期のように思われる。しかし、史料を深く読み解くと、この認識は根本的な再検討を迫られることになる。多くの記録が示すのは、1594年が「築城」の年ではなく、むしろ秀吉自身が築いた城の**「廃城(破却)」**の年であったという、逆説的な事実である 1 。
この「築城」と「廃城」という情報の錯綜こそが、本件の謎を解き明かす鍵となる。歴史的混乱の根源には、時代も場所も、そして築城の目的も全く異なる二つの「淀城」の存在がある。一つは、本稿の主題である、豊臣秀吉が天正十七年(1589年)に側室・茶々(後の淀殿)のために修築した**「淀古城」 。もう一つは、豊臣氏滅亡後の元和九年(1623年)、徳川幕府が全く新しい構想のもとに建設した 「(近世)淀城」**である 3 。
本レポートは、利用者から提示された「1594年築城説」という出発点を敢えて問い直し、「なぜ1594年に、豊臣秀吉は自らが築いた淀古城を『廃城』にしなければならなかったのか?」という新たな問いを主題に据える。この視座から、1594年前後の豊臣政権が直面していた国内外の情勢、すなわち膠着する対外戦争、秀頼の誕生によって再燃した後継者問題、そして伏見城を中心とした壮大な新首都圏構想という、三つの巨大な潮流を分析する。
その結果、1594年の淀古城廃城が、単なる一つの城の解体ではなく、秀吉晩年のグランドデザインが凝縮された、極めて戦略的かつ象徴的な政治的決断であったことを明らかにする。それは、過去の体制を清算し、新たな時代を築くための「創造のための破壊」に他ならなかった。
第一章:淀の地理的・戦略的重要性—なぜこの地が選ばれたのか
豊臣秀吉が淀の地に城を構え、そしてそれを破却するという決断に至った背景には、この土地が古代から有していた比類なき地理的・戦略的価値が存在する。その価値は、単一の側面から語れるものではなく、経済、交通、軍事の各要素が複雑に絡み合っていた。
古代からの水運の要衝「淀津」
淀の地理的特異性は、桂川、宇治川、木津川という畿内の三大河川が合流し、大坂湾へと注ぐ淀川の起点となる地点に位置することに起因する 6 。この地理的条件により、淀は古代から都の外港としての役割を担ってきた。平安時代には「与度津(よどつ)」と呼ばれ、平安京と西国を結ぶ水運の結節点として、人々と物資が集散する一大ターミナルであった 6 。
この地の経済的重要性は、「納所(のうそ)」という地名にも色濃く残されている。ここは、諸国から都へ送られる年貢米などを一時的に保管・管理する「納所(なっしょ)」が置かれた場所であり、淀が畿内の物流と経済を支える大動脈であったことを物語っている 6 。秀吉のような経済基盤の掌握を重視する統治者にとって、この地の持つ物流ハブとしての機能は、計り知れない戦略的価値を有していた。軍事的な支配は、まず経済と物流の支配から始まる。秀吉が淀に目をつけた根源的な理由は、この古代から続く経済的価値を直接管理下に置くことにあったと考えられる。
軍事拠点としての変遷
経済と交通の要衝は、必然的に軍事上の要衝となる。室町時代後期、応仁の乱(1467-1477)で京都が荒廃すると、淀の戦略的価値は一層高まった。山城国守護であった畠山氏は、守護所を勝竜寺城から淀に移したとされ、この地は山城国における政治・軍事の中心地としての性格を帯び始める 7 。戦国時代に入ると、細川氏、三好氏といった畿内の覇権を争う諸勢力が、この地を巡って激しい攻防を繰り広げた 2 。織田信長の上洛に際しても、淀城は三好三人衆の抵抗拠点となり、その後は将軍・足利義昭や明智光秀も、この城を自らの軍事拠点として利用している 2 。
このように、秀吉が淀に城を構える以前から、この地は畿内の動乱の中心にあり続けた。歴代の権力者たちがこの地を重要視した歴史的経緯は、秀吉の選択が単なる思いつきではなく、畿内制圧の定石に則ったものであったことを示している。
豊臣政権下の位置づけ
天下一統を成し遂げた秀吉にとって、淀は新たな政治的意味を持つことになった。秀吉の政権は、天皇を擁する京都の「聚楽第」と、自らの本拠地である「大坂城」という二つの中心を持っていた。淀は、この二大拠点を結ぶ淀川水運のちょうど中間点に位置しており、両者をつなぐ上で欠かすことのできない戦略的要衝であった 2 。大坂から京都へ、あるいは京都から大坂へと移動する際には、淀を経由するのが最も効率的であり、このルートを抑えることは、政権の神経網を掌握することに等しかった。秀吉が後に側室・茶々の産所としてこの地を選んだのは、寵愛の情だけでなく、大坂と京都の双方からアクセスしやすく、万一の事態にも迅速に対応できるという、極めて合理的な政治的・地理的判断に基づいていたのである。
第二章:豊臣政権の揺りかご「淀古城」—誕生の政治的背景とその役割
淀の地が持つ戦略的重要性を背景に、天正十七年(1589年)、この地に新たな城が誕生する。それは、豊臣秀吉の個人的な願望と政権の将来が密接に結びついた、極めて政治的な意味合いを持つ城郭であった。この「淀古城」は、豊臣政権にとって「希望」の象徴として生まれ、やがてその存在理由を失うという数奇な運命を辿ることになる。
天正十七年(1589年)の修築と世継ぎの誕生
当時、秀吉は後継者問題という深刻な悩みを抱えていた。多くの側室を抱えながらも実子に恵まれず、甥の秀次を養子としていたが、自らの血を引く世継ぎの誕生を熱望していた。その中で、側室の一人であった茶々(浅井長政の長女)が懐妊する。この報に狂喜した秀吉は、茶々のための「産所」として、淀にあった既存の城を大規模に修築することを命じた 2 。普請は弟の豊臣秀長を後見とし、細川忠興らが補佐するという万全の体制で進められた 8 。
天正十七年(1589年)三月、城は完成し、茶々が入城。そして同年五月、この城で待望の男子・鶴松が誕生した 2 。この瞬間、淀古城は単なる城ではなく、豊臣家の血脈が受け継がれた聖地とも言うべき場所となった。茶々がこれ以降、「淀の方」「淀殿」と称されるようになったのは、彼女がこの城の主であり、そして何よりも豊臣家の世継ぎの母となったことに由来する 3 。淀古城は、秀吉の個人的な喜びの場であると同時に、豊臣政権の安定と永続を内外に示すための、強力な政治的シンボルとなったのである。
城の構造と規模の推定
淀古城が具体的にどのような姿をしていたのか、詳細な史料は乏しく、また城跡も後世の開発によって遺構がほとんど残っていないため、その全貌を正確に知ることは難しい 2 。しかし、断片的な記録から、その輪郭を推測することは可能である。秀吉の側近の動静を記した『駒井日記』には、淀古城に天守が存在したことが示唆されており、単なる仮の産所ではなく、相応の防御機能と格式を備えた本格的な城郭であった可能性が高い 2 。
同時期に秀吉が築いた聚楽第や大坂城が、金箔瓦を用いるなど絢爛豪華なものであったことを考えれば、世継ぎ誕生という祝賀的な意味合いを持つ淀古城もまた、政権の威光を示すにふさわしい壮麗な建築物を含んでいたと想像される。発掘調査が進んでいない現状では断定はできないが 10 、淀古城は豊臣政権の権力と富を象徴する施設の一つとして、淀川を往来する人々の目に映っていたことは間違いないだろう。
鶴松の夭折と城の役割の変化
栄華を極めた淀古城であったが、その存在意義はあまりにも早く揺らぐことになる。天正十九年(1591年)八月、希望の星であった鶴松が、わずか三歳で病死してしまう 8 。秀吉の悲嘆は計り知れず、豊臣政権は再び後継者問題の暗雲に覆われた。
この悲劇は、淀古城の運命を決定的に変えた。城の最も重要な存在理由であった「世継ぎの居城」という役割が、その世継ぎ自身の死によって完全に失われたのである。かつて希望と歓喜の象徴であった城は、一転して秀吉にとって我が子の死を想起させる、辛く悲しい記憶の場所へと変貌した可能性がある。人間心理として、最も輝かしい思い出の場所は、悲劇によって最も忌むべき場所となりうる。秀吉が後に秀頼を授かった際、再び淀古城をその舞台として選ばず、大坂城や伏見城を新たな中心とした背景には、合理的な判断だけでなく、鶴松の死と分かちがたく結びついた淀古城を、心理的に遠ざけたいという感情的な動機が働いていたとしても不思議ではない。この鶴松の夭折こそが、数年後の淀古城廃城へと繋がる、最初の伏線となったのである。
第三章:激動の文禄三年(1594)—淀古城廃城をめぐるリアルタイムな情勢
文禄三年(1594年)という年は、豊臣政権にとって、そして淀古城にとって、まさに運命の転換点であった。この一点に、対外戦争の行き詰まり、国内の後継者問題の劇的な変化、そして新たな国家プロジェクトの本格化という、三つの巨大な歴史の潮流が合流し、淀古城を「廃城」という結末へと押し流していった。これらの事象を時系列で追うことで、1594年当時のリアルタイムな状況が浮かび上がる。
第一節:対外情勢—膠着する朝鮮出兵(文禄の役)
文禄元年(1592年)に開始された朝鮮出兵(文禄の役)は、当初こそ日本軍が破竹の勢いで進撃したものの、1594年を迎える頃には、その様相は一変していた。明からの大規模な援軍の到着と、李舜臣率いる朝鮮水軍や各地で蜂起した義兵による粘り強い抵抗により、戦線は朝鮮半島南部で完全に膠着状態に陥っていた 12 。
この戦況の悪化を受け、日本軍内部、特に小西行長らを中心に、明との和平交渉が水面下で模索され始めていた 13 。秀吉自身も、長期にわたり遠征軍の拠点であった九州・名護屋城から帰京しており、政権の関心が、先の見えない対外戦争から国内の統治へと回帰しつつある時期であった。
この戦争は、参陣した西国大名に甚大な経済的・人的負担を強いていた。兵士の死因は戦闘によるものよりも、飢餓や疾病によるものが大半を占めるという悲惨な状況であり、国内の厭戦気分は日に日に高まっていた 12 。このような状況下で、秀吉は対外的な威信を保ちつつも、国内の疲弊した人心を掌握し、権力基盤を再強化するという喫緊の課題に直面していた。この国内への関心の回帰が、新たな国内プロジェクト、すなわち伏見城築城へとエネルギーを集中させる背景となる。
第二節:国内情勢—秀頼の誕生と後継者問題の再燃
対外情勢が不透明な中、国内では豊臣政権の根幹を揺るがす大きな出来事が起きていた。文禄二年(1593年)八月、大坂城において、淀殿(茶々)が再び男子を出産したのである。この赤子こそ、後の豊臣秀頼であった 8 。
57歳にして再び実子を授かった秀吉の喜びは絶大であったが、それは同時に、豊臣政権内に新たな緊張を生み出すことになった。鶴松の死後、秀吉は甥の豊臣秀次を養子とし、関白の位を譲って自らは太閤となっていた。秀次は聚楽第を拠点に、名実ともに秀吉の後継者として政務を執っていた。しかし、秀頼の誕生により、その立場は極めて微妙かつ不安定なものとなる 9 。
秀吉の愛情と関心は、実子である秀頼に完全に集中し、秀次との間には次第に埋めがたい軋轢が生じ始める 9 。豊臣政権は、秀次を関白とする既存の体制から、幼い秀頼を新たな頂点とする権力構造へと、大きく舵を切り始めた。この権力構造の再編こそが、1594年における秀吉の国内政策の最大のテーマであり、翌年の「秀次事件」という悲劇的な結末へと繋がっていく。この文脈において、かつて「過去の世継ぎ(鶴松)」の象徴であった淀古城は、秀頼を中心とする新体制を構築する上で、もはや不要な存在となっていた。
第三節:巨大プロジェクトの始動—新拠点・伏見城の築城
国内の権力構造が再編されようとする中、秀吉はそれを具現化するための新たな舞台装置の建設に邁進していた。それが、指月伏見城の築城である。この計画は文禄元年(1592年)頃から始まっていたが、1594年には建設が本格化し、政権の最優先課題となっていた 5 。
伏見城の建設は、単なる一つの城作りに留まるものではなかった。それは、京都南郊の広大な土地を改造し、新たな政治・経済の中心地を創造しようとする壮大な都市計画であった。秀吉は、伏見港を開削して淀川水運の新たな拠点とし、宇治川の流れを分離・固定化するために「太閤堤」と呼ばれる巨大な堤防を築いた 16 。これにより、大坂と京都を結ぶ物流ルートを伏見経由で完全に掌握し、伏見を名実ともに天下の中心地とすることを目指したのである。
この巨大プロジェクトには、全国の大名が動員され、膨大な資材、労働力、そして資金が投入された 18 。豊臣政権が持つあらゆるリソースを、伏見という一点に集中させる必要があった。この状況下において、淀古城を維持し続けることは、資源の分散を意味する。伏見に新たな拠点を築く以上、淀古城の戦略的価値は相対的に低下し、むしろ伏見城建設のための資材供給源として見なされるようになった。
興味深いことに、この大規模な築城を可能にした背景には、皮肉にも朝鮮出兵の経験があった。朝鮮半島では、補給路を確保するために日本軍によって多数の「倭城」が築かれた 19 。この過程で、石垣技術をはじめとする日本の築城技術は飛躍的に向上し、また多数の大名を動員して巨大城郭を迅速に建設するノウハウが蓄積された 21 。この対外戦争で培われた最先端の技術と組織動員システムが、伏見城建設という国内プロジェクトに「逆輸入」され、その驚異的な建設スピードを支えたのである。淀古城の廃城と伏見への資源集中は、この戦争で得た能力のベクトルを、対外から国内へと転換させる象徴的な出来事でもあった。
これら三つの潮流、すなわち「対外戦争の膠着」「後継者問題の再燃」「新首都建設の本格化」は、1594年という特異点において合流した。淀古城の廃城は、この巨大な歴史のうねりの中で下された、必然的な決断だったのである。
年月 |
対外(文禄の役) |
国内(政治・後継者) |
国内(築城・土木) |
文禄元年 (1592) |
4月: 朝鮮へ出兵、釜山・漢城を占領 |
秀吉、名護屋城に着陣 |
指月伏見城の築城が開始される 5 |
文禄二年 (1593) |
1月: 明軍の本格参戦、平壌で敗北し後退 |
8月: 秀頼、大坂城で誕生 8 |
伏見城周辺の堤防工事(太閤堤)などが本格化 16 |
文禄三年 (1594) |
和平交渉が本格化し、戦線は膠着状態に 14 |
秀吉、吉野で花見を催すなど国内統治に注力 |
淀古城が廃城となる 1 。伏見城建設へ資材・人員が集中 |
文禄四年 (1595) |
- |
7月: 秀次が高野山で切腹(秀次事件) 9 |
8月: 秀次の居城であった聚楽第が破却される 16 |
第四章:「築城」ではなく「廃城」—伏見への戦略的集約と権力の再編
文禄三年(1594年)、淀古城は豊臣秀吉の命により、正式に廃城(破却)された 1 。この決定は、衝動的なものでも、単なる施設の老朽化によるものでもない。前章で詳述した1594年当時の複合的な国内外情勢を背景とした、秀吉による極めて合理的かつ冷徹な戦略的判断であった。それは、資源の再配分、権力の再編、そして新たな都市構想の実現という、三つの明確な目的を持っていた。
資源の再配分—伏見城への転用
廃城の最も直接的かつ実利的な目的は、建設が急ピッチで進められていた伏見城への資源の転用であった。巨大な城郭都市をゼロから建設するには、膨大な量の石材、木材、瓦などが必要となる。淀古城を解体し、その資材を伏見へ運ぶことは、新たな資材を調達するよりもはるかに効率的であった 3 。淀と伏見は淀川水系で結ばれており、資材の運搬も比較的容易であったと考えられる。
これは、秀吉が晩年に見せた「スクラップアンドビルド」という統治スタイルを象徴する出来事である。既存のものを効率的に破壊し、その構成要素を再利用して、全く新しい、より壮大なものを創造する。淀古城の石垣や建材は、物理的に解体され、伏見城の一部として生まれ変わった。それは、豊臣政権のリソースを伏見という一点に戦略的に集中させるという、明確な意志の表れであった。
権力の象徴の一元化
淀古城の廃城は、単なる物理的な資源の再配分に留まらない、より高度な政治的意味合いを持っていた。それは、翌年の文禄四年(1595年)に行われた聚楽第の破却と対をなす、一連の政治的パフォーマンスであったと解釈できる 16 。
1594年当時、豊臣政権の権力を象徴する拠点は、少なくとも三つに分散していた。秀頼が生まれた「大坂城」、関白秀次の政庁である「聚楽第」、そして今は亡き鶴松の記憶が残る「淀古城」である。秀吉は、秀頼を唯一絶対の後継者とする新体制を構築するにあたり、これらの分散した権力の象徴を一度解体し、すべてを自らが新たに築く「伏見城」に一元化する必要があると考えた。
淀古城は「過去の世継ぎ」の城であり、聚楽第は「失脚する運命にある後継者」の城であった。これらを破却することは、それらが象徴していた旧来の権力構造、すなわち鶴松の記憶や秀次を中心とした統治体制を完全に清算するという、内外に対する強烈なメッセージとなった。そして、その跡地に築かれる伏見城こそが、太閤秀吉と次期天下人秀頼の権威を象徴する唯一無二の拠点となる。この一連の城郭政策は、物理的な都市再編であると同時に、豊臣政権の継承プランを可視化し、全国の大名に有無を言わさず承認させるための、壮大な政治プロジェクトだったのである。
「水運掌握」の真意
当初の問いにあった「水運掌握」というキーワードは、この文脈で再解釈されるべきである。秀吉が目指した水運掌握は、淀古城という単独の拠点で完結するものではなかった。それは、伏見城と伏見港を新たな中核とし、太閤堤の建設によって宇治川・淀川の水流を制御し、京都から大坂に至る物流網全体を再構築するという、はるかに大きな構想であった 16 。
この新しい水運ネットワークにおいて、淀という拠点の役割は相対的に低下し、むしろ新拠点・伏見の機能と重複する存在となった。したがって、淀古城の廃城は、水運の放棄ではなく、より効率的で中央集権的な新しい物流システムを構築するための「選択と集中」の結果であった。それは、古い拠点を破壊することで、新しい拠点の価値を最大化するという、「破壊による創造」の一環だったのである。
第五章:歴史的意義と後世への影響
文禄三年(1594年)の淀古城廃城は、豊臣政権の歴史において、そして淀という土地の歴史において、一つの大きな転換点となった。この出来事は、秀吉の政策の転換を象徴するとともに、後の「淀殿」の運命や、徳川の世における新たな「淀城」の誕生へと繋がっていく。
豊臣政権における政策転換の象徴
淀古城の廃城は、豊臣秀吉の関心が、朝鮮半島への対外征服から、国内における権力基盤の盤石化と次世代への継承へと、完全にシフトしたことを象徴する画期的な出来事であった。かつて世継ぎ誕生の希望の地であった城を自らの手で解体し、その資源を新たな権力拠点である伏見城に注ぎ込むという行為は、秀吉が過去と決別し、秀頼のための未来を構築するという固い決意を示している。この政策転換は、翌年の秀次事件、そして慶長の役(再出兵)へと続く、秀吉晩年の激動の時代の幕開けを告げるものであった。
「淀殿」のその後
淀古城をその名の由来としながらも、その地を去ることになった茶々は、歴史の表舞台から消えることはなかった。むしろ、秀頼の生母として、その政治的地位は飛躍的に向上する。彼女は伏見城や大坂城に移り住み、秀吉の死後は幼い秀頼の後見人として豊臣家の実権を掌握し、絶大な権勢を振るった 8 。皮肉なことに、彼女が「淀殿」という呼称で歴史に名を刻むのは、淀の地を離れてからのことである。その名は、彼女が豊臣家の世継ぎを産んだという、権力の源泉を生涯にわたって象徴し続け、大坂の陣で豊臣家が滅亡するその瞬間まで、彼女と共にあることになる 24 。
徳川の世の「淀城」
豊臣氏が滅亡し、天下が徳川のものとなった後、淀の地は再び歴史の脚光を浴びる。元和九年(1623年)、二代将軍・徳川秀忠は、伏見城の廃城を決定する 26 。伏見城が担っていた京都守護の役割を代替する新たな拠点が必要となり、その場所として、再び水陸交通の要衝である淀が選ばれた。
幕府は松平定綱に命じ、かつての淀古城があった場所とは異なる、三川合流地点の中州に、全く新しい城の築城を開始させた 2 。これが、現在その石垣や堀跡を見ることができる「(近世)淀城」である。この築城にあたっては、廃城となった伏見城の資材や、玉突きで移築された二条城の天守が転用されたと伝えられており 28 、徳川の世においても、城郭建築における「スクラップアンドビルド」が踏襲されていたことがわかる。この徳川の淀城は、幕末の鳥羽・伏見の戦いまで、淀藩の居城として存続した 31 。
歴史の断絶と連続
以下の表に示す通り、豊臣の「淀古城」と徳川の「(近世)淀城」は、築城者、場所、目的、時代が全く異なり、直接的な連続性のない、歴史的に断絶した存在である。この二つの城の混同が、「1594年築城説」という誤解を生む一因となった。
しかし、一方で、両者は「淀」という土地が持つ不変の戦略的価値に着目して築かれたという点において、歴史的な連続性を見出すことができる。時代が移り、天下人が交代しても、京都と西国を結ぶ水運の要衝としての淀の重要性は変わらなかった。豊臣秀吉も徳川幕府も、その価値を的確に見抜き、自らの政権の重要拠点として城を構えたのである。淀の地は、時代の覇権を映す鏡として、その姿を変えながらも、常に歴史の中心にあり続けた。
項目 |
豊臣の城 |
徳川の城 |
通称 |
淀古城 |
(近世)淀城 |
主な築城者/改修者 |
豊臣秀吉 |
徳川秀忠(命)、松平定綱(普請) |
築城/改修年 |
天正17年 (1589年) 2 |
元和9年 (1623年) 着工 5 |
所在地 |
伏見区納所(推定) 1 |
伏見区淀本町(現存城跡) 27 |
主な目的/役割 |
茶々の産所、世継ぎ(鶴松)誕生の地 |
京都守護、伏見城の代替、淀藩の居城 2 |
終焉 |
文禄3年 (1594年) 廃城 1 |
明治4年 (1871年) 廃城 2 |
結論:1594年、淀における「創造のための破壊」
本レポートで検証してきた通り、「淀城築城(1594)」という事象の歴史的真相は、文字通りの「築城」ではなく、豊臣秀吉による戦略的な**「淀古城の廃城」**であった。この一見矛盾した歴史認識の謎を解き明かす過程で、秀吉晩年の壮大な国家構想が浮き彫りになった。
1594年という年は、豊臣政権にとってまさに激動の転換期であった。膠着する対外戦争(文禄の役)は政権の関心を国内に向けさせ、秀頼の誕生は後継者問題の再編を不可避とした。そして、その新たな権力構造を具現化するための壮大な器として、新都・伏見の建設が急ピッチで進められていた。
この三つの巨大な潮流が合流する中で、淀古城の廃城は、秀吉が下した極めて合理的かつ多面的な回答であった。それは、伏見への資源集中という実利的な目的、旧来の権力象徴を解体し権威を一元化するという政治的な目的、そして水運網を再編し新たな物流拠点を構築するという経済的な目的を同時に達成する、計算され尽くした一手であった。
それは決して単なる破壊行為ではない。古い城を解体し、その資材で新しい城を築く。過去の世継ぎの記憶が宿る場所を消し去り、新たな世継ぎのための未来を創造する。淀古城の廃城は、過去の体制を清算し、秀頼へと続く新たな豊臣の天下を盤石にするための、ダイナミックな**「創造のための破壊」**だったのである。この一点を理解することこそが、「淀城築城(1594)」という事変の核心を捉える鍵となる。
引用文献
- HU124 古淀城薬師堂趾 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu124.html
- 【京都府】淀城の歴史 徳川によって築かれた京都守護の城 | 戦国 ... https://sengoku-his.com/2403
- 【編集部ニュース】京都・城下町伏見の『淀城(よどじょう)』を紹介します‼ @京ちゃんの伏見ヒストリー日記 https://fushimi-kyoto.mypl.net/shop/00000356290/news?d=2541103
- 淀城跡 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/heiansannsaku/jurakudai/img/36yodo.pdf
- 淀城の石垣 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza307.pdf
- かつての水郷地-淀周辺のみどりを歩く | 京のみどり情報 | 京都市都市 ... https://www.kyoto-ga.jp/greenery/kyonomidori/walkingmap/walkingmap_000965.html
- 隣の芝生⑦伏見区淀周辺 125号 - 八幡の歴史を探究する会 https://yrekitan.exblog.jp/37566565/
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- 新旧の淀城跡を訪ねる | sansakutecho - Wix.com https://ryokusuinomichi.wixsite.com/sansakutecho/blank-14
- 伏見区の歴史 : 安土桃山時代 秀吉が開いた城下町 - 京都市 https://www.city.kyoto.lg.jp/fushimi/page/0000013318.html
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- 超入門!お城セミナー 第102回【歴史】国外にも日本人が造った城があるって本当? https://shirobito.jp/article/1207
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