深川干拓着手(1603)
徳川家康が江戸幕府を開いた1603年、深川干拓が着手された。戦国期の技術と民間活力を結集し、江戸の食糧供給と都市拡大を支え、後の東京発展の礎を築いた。
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戦国の終焉、泰平の黎明:慶長八年 深川干拓のリアルタイム・ドキュメント
序章:慶長八年(1603年)、江戸の夜明け
慶長八年(1603年)二月十二日、徳川家康は伏見城において征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた 1 。この歴史的な出来事は、応仁の乱以来、約700年近く続いた政局の不安と戦乱の世に終止符を打ち 4 、後に「元和偃武」と称される長期安定政権の時代の幕開けを告げるものであった 4 。この1603年という年は、日本の歴史における大きな転換点として認識されている。しかし、隅田川の東岸、武蔵国深川の地で始まった干拓事業を理解するためには、この年を単なる時代の区切りとしてではなく、戦国という旧時代の遺産が泰平という新時代の礎へと転換される、ダイナミックな連続性のなかに位置づける必要がある。
本報告書が主題とする「深川干拓」は、江戸時代の事業でありながら、その原動力となった思想、技術、そして人材のすべてが、戦国という激動の時代が生み出した産物であった。戦国大名たちが領国経営と軍事目的のために城を築き、川を治め、道を拓く過程で培われた膨大なエネルギーが、平和の到来とともに新たな方向性を求められていた 4 。家康が目指した「平穏」と「安寧」の世の実現 5 は、武力による支配だけでなく、このような社会のエネルギーを民生の安定と経済の発展へと振り向ける、壮大な社会システムの設計を必要とした。深川干拓は、その設計思想を具現化する象徴的なプロジェクトだったのである。
家康が本拠地として江戸を選んだこと自体、戦国武将ならではの戦略的判断であった。当時の江戸は、日比谷まで入り江が広がる低湿地帯に過ぎなかったが、家康はその背後に広がる広大な関東平野の開拓可能性と、水運の要衝としての地勢的価値を見抜いていた 6 。この「器の大きさ」こそが、京都や大坂に代わる新たな天下の中心地としてのポテンシャルを秘めていた。家康が描いた500年先を見越したとされる都市計画 8 において、江戸中心部の整備と並行し、その活動を支える周辺地域の開発は不可欠であった。深川の干拓は、この壮大な都市計画の初期段階において、江戸の食糧供給と人口増加を支えるという、極めて重要な役割を担うものとして位置づけられていたのである。それは、戦国時代の軍事技術と組織力が、泰平の世の礎を築くための創造的な力へと昇華された瞬間であった。
表1:深川開発に関連する時系列表(天正18年~万治2年)
西暦 |
和暦 |
国内外の主要な出来事 |
江戸全体の動向 |
深川地域の動向 |
1590年 |
天正18年 |
豊臣秀吉、天下統一 |
徳川家康、江戸入府 |
小名木川開削着手。摂津佃村の漁師が移住。 |
1596年 |
慶長元年 |
- |
- |
深川八郎右衛門、深川村の開発に着手。深川神明宮創建。 |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦い |
- |
開発、継続的に進行。 |
1603年 |
慶長8年 |
徳川家康、征夷大将軍に就任(江戸幕府成立) |
天下普請による江戸城・市街地造成が本格化。 |
干拓事業、本格化。新田造成が進む。 |
1614-15年 |
慶長19-20年 |
大坂の陣、豊臣氏滅亡 |
- |
江戸への食糧供給地としての役割が増す。 |
1657年 |
明暦3年 |
明暦の大火 |
江戸市中の大半が焼失。 |
大火の焼土を利用した埋め立てが進む可能性。 |
1659年 |
万治2年 |
- |
両国橋架橋。市街地の東方拡大計画が本格化。 |
竪川など運河開削。武家屋敷、寺社、町人地の造成開始。 |
第一章:干拓以前の深川 ― 葦の海と江戸湊
慶長八年(1603年)の干拓事業が着手される以前、深川と呼ばれた地域は、現代の東京の姿からは想像もつかない原風景を呈していた。そこは隅田川が江戸湾へと注ぐ河口部に形成された広大なデルタ地帯であり、人の手が入らない自然のままの土地であった 9 。地球の温暖化によって海水面が内陸深くまで進入した「縄文海進」の後、利根川や荒川(当時は東京湾に注いでいた)が運ぶ土砂が堆積し、長い年月をかけて沖積低地が形成された 11 。その結果、この一帯は満潮時には海水をかぶり、干潮時にわずかに顔を出す干潟と、葦や荻がうっそうと生い茂る湿地帯がどこまでも広がる、いわば「葦の海」であった 12 。わずかに、河川の氾濫によって土砂が堆積してできた自然堤防と呼ばれる微高地が、水面の上に島のように点在するのみで、大規模な集落が形成されるにはあまりにも不安定で不向きな土地だったのである。
このような厳しい自然環境下にあっても、人間の営みが全く存在しなかったわけではない。この地は古くから「江戸湊」と呼ばれる港湾地域の一部をなし、漁撈活動の場として利用されていた。特に注目すべきは、徳川家康の江戸入府(天正十八年、1590年)とほぼ時を同じくして、摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区)の漁師たちが集団で江戸に移住してきた事実である。記録によれば、彼らが最初に居を構えた場所の一つが「深川元町」(現在の江東区常盤・森下付近)であった 14 。彼らは、本能寺の変の際に家康の逃避行を助けた功により、江戸での漁業特権を与えられた専門家集団であった 15 。彼らがこの地を選んだのは、江戸城下に新鮮な魚介を供給する上で、漁場に近く、水運の便が良いという地理的利点があったからに他ならない。この漁師たちの存在は、未開の湿地帯であった深川が、江戸の食を支える豊かな漁業資源の宝庫であったことを物語っている。
そして、この地の潜在的な価値をいち早く見抜き、戦略的な一手を打ったのが家康自身であった。江戸入府後、最初期に着手された大規模な土木事業の一つが、江戸と東国の塩の産地・行徳を結ぶ運河「小名木川」の開削である 16 。この運河は、深川地域の北部を東西に貫き、兵糧確保に不可欠な塩を江戸城へ安定的に輸送するための、極めて重要な兵站路として機能した。この小名木川の存在は、一見すると不毛の湿地帯であった深川が、家康の江戸経営の初期段階から、水運を基軸とした物流の結節点として戦略的に重視されていたことを明確に示している。未開の地は、漁業という既存の経済活動と、兵站という新たな軍事・経済活動が交差する地点となり、その価値を大きく変えようとしていた。干拓事業は、この土地そのものを生産拠点へと転換させる、次なる必然のステップだったのである。
第二章:時代の要請 ― なぜ深川だったのか
慶長八年(1603年)の深川干拓本格化は、単独で発生した偶発的な出来事ではない。それは、徳川家康が描く壮大な国家構想と、首都江戸が直面していた喫緊の課題が交差する点で必然的に生まれた、時代の要請であった。
最大の要因は、爆発的に増加する江戸の人口問題である。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで天下の実権を掌握した家康のもと、江戸は事実上の政治・軍事の中心地となった。幕府の成立はそれを決定的なものとし、全国から大名や旗本、そして彼らに仕える膨大な数の家臣団が江戸への移住を余儀なくされた。さらに、彼らの生活を支える商人、職人、労働者なども一攫千金を夢見て集まり、江戸の人口は急激に膨張した 17 。この人口集中は、深刻な食糧不足、特に保存の利かない生鮮野菜の供給不足という問題を引き起こした 17 。江戸市中からほど近く、広大な土地を確保できる可能性のある深川は、この都市の「胃袋」を満たすための食糧生産基地として、白羽の矢が立てられたのである。
この課題解決を強力に後押ししたのが、家康が推進した「天下普請」という国家プロジェクトであった 18 。これは、全国の諸大名に江戸城の拡張や市街地の造成工事を分担させる政策であり、その目的は多岐にわたった。第一に、首都建設を迅速に進めること。第二に、大名たちに巨額の普請費用を負担させることでその財力を削ぎ、謀反の目を摘むこと。そして第三に、戦乱の終結で余剰となった武士や労働者のエネルギーを、軍事から建設へと平和裏に転換させることであった。日比谷入江の埋め立てや神田山を切り崩して江戸城の外堀を造成する土砂を確保するなど、江戸中心部では国家の威信をかけた巨大プロジェクトが進行していた 6 。深川の新田開発は、この天下普請という巨大な都市創造システムと表裏一体をなすものであった。中心部で政治・軍事機能が強化される一方で、周辺部ではそれを支える経済基盤、すなわち食糧生産地の確保が同時に、そして計画的に進められていたのである。
そして、この壮大な計画を技術的に可能にしたのが、戦国時代を通じて飛躍的に発展した土木技術の存在であった。戦国大名にとって、領国の石高、すなわち米の生産量を増やすことは、兵糧を確保し、国力を増強するための最重要課題であった。そのため、洪水から田畑を守り、安定的に水を供給するための治水・利水技術は、各大名家で独自に研究され、高度な水準に達していた 8 。武田信玄の「信玄堤」に代表される甲州流の治水工法や、水の勢いを巧みに弱める「霞堤」といった伝統技術は、まさに自然との闘いのなかで磨き上げられた知恵の結晶であった 19 。また、難攻不落の城を築くために培われた石垣普請や堀削の技術も、大規模な干拓堤防の建設に応用可能であった。天下普請は、これらの各地で発展した技術と、それを担う技術者集団を江戸に集積させる効果をもたらした。深川の湿地開発という困難な事業は、こうした戦国時代の技術的遺産があったからこそ、「可能」なプロジェクトとして現実味を帯びたのである。
第三章:開拓の旗手 ― 摂津の技術者、深川八郎右衛門
深川干拓という壮大な事業の最前線に立ち、その名をこの地に刻んだ人物が、深川八郎右衛門である。彼は、徳川幕府の役人ではなく、自らの才覚と資金で未開の地に挑んだ、いわば民間の起業家であった。彼の出自は摂津国(現在の大阪府・兵庫県の一部)と伝えられている 16 。一説には、彼の江戸入植は天正年間(1573-1592)にまで遡るとも言われ、家康の関東入府以前から江戸の将来性に着目していた、先見の明のある人物であった可能性も指摘されている 17 。
八郎右衛門が摂津の出身であったことは、極めて重要な意味を持つ。古代より淀川河口の沖積平野で暮らしてきた摂津の人々は、湿地帯の干拓や新田開発に関して、他地域とは比較にならないほどの高度な知識と経験を蓄積していた 22 。彼らは、潮の満ち引きを読み、水脈を制御し、ぬかるんだ土地を生産性の高い農地に変えるノウハウを持った専門家集団であった。八郎右衛門は、同郷の仲間たちと共に、この先進的な地域技術を江戸へと移植したのである。これは、家康に仕えた佃村の漁師たちが同じく摂津の出身であったことと軌を一にしており、当時の日本において最も経済的に先進していた大坂周辺から、新たな政治の中心地である江戸へと、技術と人材がダイナミックに移動していた大きな潮流の一端を示すものであった。
彼の名を冠した「深川村」の開発が始まったのは、慶長元年(1596年)のこととされる 12 。この事業は、幕府の直接的な命令によるものではなく、八郎右衛門が自己の資金とリスクで開発を請け負う「町人請負新田」の形式をとっていた 23 。これは、江戸時代を通じて行われる大規模新田開発の先駆的な事例であり、彼は開発した土地の地主となり、名主として地域の指導的役割を担った 25 。
この民間主導のプロジェクトが、いかにして時代の要請と結びついていったかを示す象徴的な逸話が残されている。ある時、鷹狩りのためにこの地を訪れた徳川家康が、八郎右衛門に土地の名を尋ねた。まだ名もない開拓地であると答えると、家康は八郎右衛門の功を称え、その姓を採って「深川村」と名付けるよう命じたという 25 。この逸話は単なる美談ではない。それは、一個人の事業に対して、当代随一の実力者である家康が公的な認知と正当性を与えたことを意味する。この「お墨付き」によって、八郎右衛門の事業は単なる私的な土地開発から、江戸の発展に寄与する公的な意義を持つプロジェクトへと昇格した。これにより、資金調達や他の利害関係者との調整が円滑に進んだことは想像に難くない。深川八郎右衛門は、家康の壮大な江戸構想という「公」の計画と、自らの事業を成功させたいという「私」の動機が見事に合致した、まさに時代の転換点を象徴する人物であった。彼の挑戦は、徳川政権が民間活力を巧みに利用して社会インフラを整備していく、官民連携による開発モデルの原型となったのである。
第四章:慶長八年、干拓着手の実況
慶長八年(1603年)、家康が征夷大将軍に就任し、江戸が名実ともに行政の首都となったこの年、深川の地では、未来の都市の礎を築くための自然との壮絶な闘いが繰り広げられていた。それは、重機もコンクリートも存在しない時代、人間の知恵と労働力だけを頼りに行われた、まさに「無から有を生み出す」現場であった。
【時系列分析:1603年の深川】
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初頭~春(2月~4月頃)
江戸市中が将軍宣下の報に沸き、新たな時代の幕開けに期待を膨らませていた頃 3、深川の干拓現場では、来るべき大規模工事に向けた準備が着々と進められていた。深川八郎右衛門率いる開発者集団は、幕府の成立が江戸の永続的な発展を保証し、自らの投資が巨大なリターンを生むことを確信したであろう。彼らは慶長元年(1596年)からの数年間の経験を基に、事業規模の拡大を計画。春の農繁期が始まる前に、新たな堤防を築くラインの測量が行われ、目印となる杭がぬかるんだ土地に打ち込まれていった。堤防の芯となる松の丸太、堤を補強するための石材、そして土を詰めるための藁で編んだ俵(土嚢)といった資材の調達が本格化する。労働力として、近隣の農村から農閑期の農民が、あるいは戦乱が終結し仕事にあぶれた者たちが集められた。 -
春~夏(5月~8月頃)
潮位が最も低くなる大潮の干潮時を狙い、築堤工事が本格的に開始される。当時の工法として考えられるのは、まず堤防の基礎となる部分に松の丸太などで強固な枠を組み、その中に近くの微高地から切り崩したり、舟で運搬したりした土砂を投入し、突き固めていくという地道な作業であった。特に波の影響を受けやすい箇所には、竹で編んだ巨大な籠に石を詰めた「蛇籠(じゃかご)」を幾重にも沈め、堤防の基礎を固めたと推測される 28。作業は過酷を極めた。ぬかるみに足を取られながら重い土砂や石を運ぶ重労働、夏の容赦ない日差し、そして湿地特有の無数の蚊や衛生問題が、労働者たちを苦しめた 29。 -
夏~秋(9月~11月頃)
台風シーズンが到来し、現場は最大の緊張に包まれる。高潮や洪水は、数ヶ月かけて築き上げたばかりの脆弱な堤防を一瞬にして飲み込み、それまでの努力を水泡に帰させる危険性をはらんでいた。労働者たちは昼夜を問わず堤防を見回り、損傷箇所があれば即座に補修にあたった。堤防の法面(のりめん)が波で浸食されるのを防ぐため、木の枝を束ねた「粗朶(そだ)」を敷き詰めて保護するような護岸工事も行われたであろう 30。この時期、堤防で囲まれた区画内の水を海へ排出する、干拓の心臓部ともいえる作業が始まる。堤防の一部に設けられた木製の樋門(ひもん)を、潮の干満に合わせて開閉するのである。干潮時に門を開けて内部の水を排出し、満潮時には海水の逆流を防ぐために固く門を閉ざす。この潮汐の力を利用した排水は、人間の力だけでは到底不可能な量の水を動かす、先人の知恵の結晶であった 31。 -
年末(12月~1月頃)
厳しい冬が訪れる頃、一年間の苦闘の成果がようやく目に見える形となって現れる。堤防に囲まれた内部の水位は徐々に下がり、ヘドロ状の黒い土地が広大な面積にわたって姿を現し始める 33。しかし、この土地は海水を含んでいるため塩分濃度が非常に高く、このままでは作物を育てることはできない。八郎右衛門は、来春以降に向けて、塩分を抜くための細い排水路(溝切り)の設置や、川から運んだ真土をまく「客土(きゃくど)」といった土地改良の計画を練っていた。慶長八年という記念すべき年は、未来への確かな手応えと、まだ続くであろう自然との長い闘いを予感させながら暮れていったのである。
【技術・資金・労働の詳細分析】
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工法・技術
深川干拓を支えたのは、戦国時代から受け継がれた素朴だが実用的な土木技術であった。堤防の建設には、土を層状に重ねて杵で突き固める「版築(はんちく)」工法が用いられ、強固な壁が築かれた。排水の要である樋門は、水中でも腐りにくい松や檜といった良質な木材が選ばれ、専門の船大工などによって精密に作られた 8。これらの作業は、特定の技術を持つ職人集団が指揮を執り、多くの未熟練労働者を動員するという、効率的な分業体制のもとで進められた。 -
資金
この巨大事業の資金は、幕府の財政ではなく、深川八郎右衛門という一個人の資本によって賄われた。彼のような「町人請負人」は、まず幕府に「地代金」や「敷金」といった権利金を上納し、開発の許可を得る 23。その後、資材の購入費から数千人に及ぶであろう労働者の人件費まで、すべての費用を自己資金で賄わなければならなかった。これは、成功すれば開発した土地の所有者(地主)となり、入植した小作人から地代(小作料)を徴収して莫大な利益を得られる一方、事業が失敗すれば全財産を失いかねない、まさにハイリスク・ハイリターンな投資であった 24。 -
労働
干拓の現場は、当時の社会階層の縮図であった。計画を立て資金を投下する八郎右衛門のような町人開発者を頂点に、石工や大工といった専門技術を持つ職人たち、そして労働力の大部分を占めたのは、近隣の村々から日雇いで集められた農民や、主家を失いその日の糧を求める浪人たちであった。現場には彼らが寝泊まりするための簡易な小屋(飯場)が立ち並び、一つの共同体を形成しながら過酷な労働に従事したであろう 29。この現場は、異なる出自の人々が「土地を創る」という一つの目的のために協働する場であり、新たな時代の社会秩序が形成される最前線でもあった。
第五章:干拓が拓いた未来 ― 新田から江戸の東の玄関口へ
慶長八年(1603年)に本格化した深川の干拓事業は、単に新たな田畑を生み出しただけでは終わらなかった。それは、江戸という都市の運命と深く結びつき、時代の変化に対応しながらその役割を変貌させ、徳川260年の泰平を支える巨大都市の発展に不可欠な空間を創出したのである。
干拓によって誕生した「深川村」や、その後に続く新田群が最初に果たした役割は、江戸の食糧供給基地となることであった 25 。ここで生産された米や、砂村地域などで栽培されたスイカ、ナス、ネギといった野菜類は、水運を利用して速やかに市中へと供給され、急増する江戸の人口を支える文字通りの生命線となった 9 。深川八郎右衛門の当初の目的は、この近郊農業地帯の経営にあったと考えられる。
しかし、その運命を劇的に変える出来事が起こる。明暦三年(1657年)の「明暦の大火」である 35 。江戸城天守閣をはじめ、市中の大半を焼き尽くしたこの大災害からの復興にあたり、幕府は単なる原状回復ではなく、防火を主眼に置いた大規模な都市改造計画に着手した。その核心は、過密化した市街地を隅田川の東岸、すなわち本所・深川地域へと拡大させることであった 35 。この計画に基づき、火災の延焼原因となりやすかった日本橋周辺の材木置き場は、広大な土地と水運の便に恵まれた深川へと強制的に移転させられ、日本最大の材木集積地「木場」が誕生した 16 。さらに、大名たちの下屋敷や数多くの寺社もこの地に移転を命じられ、深川は急速に市街地化していった 9 。
この都市機能の移転と並行して、インフラ整備も急ピッチで進められた。小名木川に加え、隅田川と中川を結ぶ竪川などの運河が新たに開削され、縦横に水路網が張り巡らされた 35 。これにより、深川は江戸湾・隅田川・内陸水路網が結節する物流の一大ハブへと変貌を遂げる。全国の諸藩は年貢米などを換金・保管するための「蔵屋敷」を深川に設け、全国からの物資がこの地に集積されるようになった 34 。特に、当時の農業に不可欠な肥料であった干鰯(ほしか)の専門市場「干鰯場」が設置されたことは、関東一円の農業生産性を飛躍的に向上させる上で極めて重要な役割を果たした 17 。
土地が生まれ、人が集まり、モノが動くようになると、そこには新たな文化と賑わいが創出される。富岡八幡宮や深川不動尊といった寺社が多くの信仰を集め、その門前町は祭礼や開帳のたびに江戸中から人々が訪れる遊興の地として栄えた 9 。俳聖・松尾芭蕉が居を構え、『奥の細道』へと旅立ったのもこの深川の地からであった 38 。当初、隅田川の向こう岸を意味する「川向う」と呼ばれた江戸の外れは 38 、万治二年(1659年)の両国橋の架橋 40 を経て、物理的にも心理的にも「江戸の内」へと完全に組み込まれた。八郎右衛門が始めた一つの事業は、予期せぬ大災害を契機として、当初の計画を遥かに超える多機能な都市空間へと成長し、江戸という都市の境界線を押し広げ、その構造を再定義する原動力となったのである。
終章:戦国の遺産から泰平の礎へ ― 深川干拓の歴史的意義
慶長八年(1603年)の深川干拓着手は、日本の歴史における画期的な転換点を象徴する事業であった。それは、戦国乱世を通じて城を築き、堀を掘り、敵国を攻めることに向けられていた日本の社会の巨大なエネルギーが、平和な社会の基盤となる「土地」そのものを創造する力へと振り向けられた、歴史的なパラダイムシフトの現れであった。戦国時代に培われた土木技術、組織力、そして未開の地に挑む起業家精神が、ここでは破壊のためではなく、生産と生活の礎を築くために用いられたのである。
深川八郎右衛門という一介の町人の挑戦から始まったこの事業は、単なる新田開発に留まらなかった。それは、爆発的に増加する首都・江戸の食糧を支える揺りかごとなり、明暦の大火という未曾有の国難からの復興を可能にする受け皿となり、そして日本の経済を牽引する物流と、江戸の文化を彩る新たな中心地を生み出した。17世紀後半には人口100万人を超え、世界最大の人口を誇る都市へと成長した江戸 1 の繁栄は、深川という東の玄関口の発展なくしてはあり得なかった。
その歴史の痕跡は、400年以上の時を経た現代の東京にも色濃く残されている。「深川」という地名そのものが八郎右衛門の名に由来するだけでなく、碁盤の目状に区画された街路や、今も人々の生活を支える水路の多くは、この江戸時代初期の大開発の骨格を留めている 6 。我々が今日目にする東京という都市は、決して何もない場所に突如として現れたのではない。それは、戦国の終焉期に始まった、泥と水と人間の汗にまみれた壮大な挑戦の遺産の上に、層を重ねるようにして成り立っているのである。深川干拓の歴史は、一つの時代の終わりが、いかにして次の時代の始まりの礎となり得るかを、雄弁に物語っている。
引用文献
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- どうする家康と佃煮 大阪・田蓑神社と東京・佃住吉神社の歴史を探る Part 1|吉野啓史 - note https://note.com/yoyoyonozoo/n/nb4b18fd244ac
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- 本明川の歴史 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0920_honmyo/0920_honmyo_01.html
- 干拓地の歴史と景観 - 寄藤昂のホームページ https://yorifuji.thyme.jp/wasedaopc/tikei/waseda20170506.pdf
- 八郎潟干拓工事 | 大潟村百科事典 https://www.vill.ogata.akita.jp/encyclopedia/history/2-3.html
- 資料館ノート 第27号 - 隅田川と深川の開発 https://www.kcf.or.jp/cms/files/pdf/original/7971_%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%8827.pdf
- 江東、深川都市化の跡-竪川 - edo→tokyo https://edokara.tokyo/conts/2017/04/07/196
- 深川 の掘割 https://www.kcf.or.jp/cms/files/pdf/original/7988_%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%8810.pdf
- 江戸の土木 | 太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art https://www.ukiyoe-ota-muse.jp/doboku/
- 12. 幕末の江戸深川に集結した壁谷 https://kabeya.amebaownd.com/posts/4075534/
- 深川・城東の歴史と街のなりたち:このまちアーカイブス「深川・城東」編 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=BfhwSwr-HTI
- 江戸の町はどのように造られたのか?徳川家による江戸城の天下普請と城下町づくり - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=06nAGQeGtmE