最終更新日 2025-09-28

犬山城改修(1599)

慶長四年、豊臣秀吉の死後、石川貞清は犬山城を改修。家康からの金山城古材下賜は忠誠の試金石。木曽川水運を駆使し、城は近世化されたが、関ヶ原で貞清は西軍につき敗北。城は成瀬氏に引き継がれた。
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慶長四年 犬山城改修の真相 ― 天下分け目を前にした城主・石川貞清の決断と城郭の変貌

序章:嵐の前の静けさ ― 慶長四年(1599年)元旦の政治情勢

慶長三年(1598年)八月、天下人・豊臣秀吉の死は、一つの時代の終わりであると同時に、新たな動乱の時代の幕開けを告げるものであった。秀吉が遺した幼い主君・秀頼を頂点とする豊臣政権は、五大老・五奉行による合議制という、極めて脆弱な基盤の上に成り立っていた。その均衡は、秀吉という絶対的な重石が失われた瞬間から、静かに、しかし確実に崩れ始めていた。

明けて慶長四年(1599年)の元旦。大坂城では新年の賀詞が交わされ、表向きの平穏が保たれていたが、その水面下では次なる覇権を巡る権力闘争の潮流が渦巻いていた。その中心にいたのが、五大老の筆頭であり、関東に二百五十万石の広大な領地を持つ徳川家康である。秀吉の死後、家康は「諸大名間の私婚を禁ず」という秀吉の遺言を公然と破り、伊達政宗や福島正則、蜂須賀家政らと次々に縁戚関係を結び、その影響力を急速に拡大させていた 1 。これは豊臣政権の根幹を揺るがす行為であり、政権の実務を担う五奉行、特に石田三成との間に深刻な対立の火種を生んだ。政権の最高意思決定機関であるはずの合議制は、家康の独走と、それを制止すべき立場にありながら病床にあった次席大老・前田利家の苦悩により、早くも形骸化しつつあったのである 1

この緊迫した政治情勢の只中で、一人の武将が豊臣政権の中枢に新たな一歩を記していた。石川備前守貞清、後の犬山城改修の主導者である。彼はこの慶長四年正月、五大老・五奉行の連署により、石田三成の兄・正澄や片桐且元らと共に、幼君・豊臣秀頼に直接仕える「奏者番」に任命された 4 。これは、彼が単なる尾張の一城主ではなく、大坂城の中枢で秀頼に近侍し、諸大名との取次役を務める、豊臣家にとって極めて重要な人物として認められたことを意味する。

しかし、この栄誉は、彼を危うい立場へと追い込むものでもあった。奏者番という職務は、豊臣家への絶対的な忠誠を求められる。来るべき政変において、家康派か反家康派かの踏み絵を迫られた際、貞清に選択の余地はほとんどない。彼の運命は、豊臣家の運命と共にあることを宿命づけられたのである。

そして、彼が城主を務める犬山城は、尾張と美濃の国境に位置し、木曽川の水運と中山道を押さえる戦略的要衝であった 7 。東国に本拠を置く家康と、西国に支持基盤を持つ反家康派との軍事衝突が起きた場合、犬山城は間違いなく最前線となる。慶長四年の年明けは、石川貞清にとってキャリアの頂点であると同時に、政治的にも軍事的にも、自身の存亡を賭けた決断を迫られる危機の始まりでもあった。この絶頂と危機の交差点で下された決断こそが、「犬山城改修」だったのである。それは単なる城の普請ではなく、貞清自身の政治的生き残りと、豊臣家への忠誠を形にするための、必然的な布石であった。

第一章:城主・石川貞清の実像 ― 豊臣政権下のエリート官僚武将

慶長四年の犬山城改修という一大事業を理解するためには、まずその主体である城主・石川貞清(初名は光吉、あるいは三吉)という人物の経歴と能力、そして豊臣政権内における彼の立ち位置を深く掘り下げる必要がある。彼は決して歴史の表舞台で華々しく活躍するタイプの武将ではなかったが、その実像は、豊臣政権を支えた有能なテクノクラート(技術官僚)そのものであった。

貞清は美濃国鏡島城主の流れを汲むとされ、早くから豊臣秀吉に仕えた譜代の家臣である 6 。彼が秀吉からいかに信頼されていたかは、その初期の役職が物語っている。彼は戦場で伝令や監察、敵軍への使者といった重要な任務を担う「使番」に任じられ、さらにはその中でも特に選び抜かれた精鋭で構成される「金切裂指物使番」の一員に列せられていた 10 。これは、単なる武勇だけでなく、冷静な判断力と機転、そして何より主君の意を正確に体現する能力が高く評価されていた証左である。天正十八年(1590年)の小田原征伐では、降伏した北条氏政・氏照兄弟が切腹する際の検使役という、極めて重い役目を榊原康政と共に務め上げている 6

この小田原での功績により、貞清は尾張犬山に一万二千石を与えられ、大名として犬山城主となった 9 。しかし、彼の真価はむしろ同時に与えられたもう一つの役職にこそ見出すことができる。それは、信濃木曽の太閤蔵入地(豊臣家直轄領)十万石の代官職であった 6 。木曽は、伊勢神宮の式年遷宮の御用材を供給してきた日本有数の良質な木材の産地である。その広大な直轄領の経営を任されたということは、貞清が単なる武人ではなく、経済や民政にも通じた優れた行政官僚としての能力を持っていたことを示している。この木曽代官としての経験は、木材の調達から木曽川を利用した水運に至るまでの知識と人脈を彼にもたらし、後の犬山城改修における大規模な資材輸送を可能にする上で、決定的な役割を果たすことになった。

彼の活躍は国内に留まらない。天正十九年(1591年)には、文禄の役の拠点となる肥前名護屋城の普請工事を分担し、秀吉が在陣中は留守居役として城の守備にもあたっている 6 。こうした大規模な築城プロジェクトへの参加経験もまた、犬山城を近世城郭へと変貌させるための技術的素養を彼に与えたであろう。

さらに、彼の妻は石田三成の娘であったとも伝えられており 9 、豊臣政権の中枢、特に三成ら奉行衆と極めて近い関係にあったことが窺える。武勇に優れた武断派の武将としてキャリアをスタートさせながら、領地経営、経済政策、そして中央での政務までこなす。石川貞清は、まさに「武人」「行政官」「経済官僚」という三つの顔を持つ、豊臣政権が生んだハイブリッド型のエリートであった。慶長四年の犬山城改修は、彼がそれまでのキャリアで培ってきたこれら三つの能力が、天下分け目の危機を前にして最大限に発揮された、集大成ともいえるプロジェクトだったのである。

第二章:改修計画の始動 ― 徳川家康の深謀

慶長四年(1599年)、年明けの緊張状態は、春の訪れとともに一気に崩壊へと向かう。閏三月三日、豊臣政権の最後の重しであった大老・前田利家が病死すると、これまで押さえつけられていた徳川家康と石田三成の対立は、ついに武力衝突という最悪の形で表面化する 1

利家の死の夜、加藤清正、福島正則、黒田長政ら、朝鮮出兵などを通じて三成に深い遺恨を抱いていた七人の武断派武将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件が勃発した 13 。三成は辛くも脱出し、伏見の自邸に逃げ込むが、そこへ意外な人物が「仲裁役」として現れる。徳川家康である。家康は三成を自身の屋敷で保護するという形をとり、七将との間を調停。その結果、三成は五奉行の職を辞し、居城である佐和山への蟄居を余儀なくされた 3 。これにより、豊臣政権内における反家康派の筆頭が一時的に政治の表舞台から姿を消し、家康は事実上の最高権力者として、その権勢を天下に示すことになった。

この政治的激動から約半年後、季節が秋に移ろい始めた頃、家康から石川貞清に対し、一つの異例な申し出がなされる。それは、「美濃金山城の天守櫓や家臣長屋などの古材を譲り渡すので、それを用いて犬山城を改修せよ」というものであった 6

一見すると、これは政敵を排除した家康が、豊臣恩顧の大名である貞清を懐柔し、自陣営に取り込もうとするための、寛大な措置のようにも見える。金山城は、織田信長の寵臣であった森蘭丸の一族が居城とした名城であり、その由緒ある部材を下賜するという行為は、貞清に対する破格の厚意とも受け取れた。しかし、天下の覇権を虎視眈々と狙う家康の行動を、その表面通りに受け取ることはできない。この申し出は、巧妙に計算された、複数の狙いを秘めた高度な政治的駆け引きであった。

第一に、これは貞清に対する「忠誠心のテスト」であった。この申し出を受け入れれば、貞清は家康に大きな恩義を負うことになり、将来的に家康に敵対しにくくなるという精神的な枷がはめられる。逆に、もしこの申し出を断れば、それは家康に対する明確な敵対意思の表明と見なされ、家康に貞清を討伐する口実を与えてしまう。貞清にとって、これは事実上「否」とは言えない申し出であった。

第二に、「情報収集と内部攪乱」の狙いがあった。資材の譲渡や普請の監督という名目であれば、家康配下の技術者や役人を犬山城とその周辺に合法的に送り込むことができる。これにより、改修後の犬山城の構造、兵力、そして何より城主・貞清の動向といった軍事機密を、手に取るように探ることが可能になる。さらに、「石川貞清が家康から特別な援助を受けている」という事実が広まれば、西軍内部、特に蟄居中の三成やその与党の間に、「貞清は家康に通じているのではないか」という疑心暗鬼を生じさせ、その結束を内側から切り崩す効果も期待できた。

家康からの「古材下賜」は、貞清を味方に引き込むための甘い飴であると同時に、その喉元に突きつけられた鋭い刃でもあった。それは、最小限のコストで貞清の動向をコントロールし、来るべき決戦に向けた情報戦と心理戦で優位に立とうとする、家康の深謀遠慮が生んだ「毒入りの贈り物」だったのである。貞清は、この申し出の裏にある家康の真意を察していたかもしれない。しかし、彼にはそれを受け入れ、その上で自らの城を強化するという選択肢しか残されていなかった。


【表1】慶長四年(1599年)主要関連年表

時期

豊臣政権の動向(中央)

石川貞清・犬山城の動向

正月

徳川家康、大坂城西の丸へ入る。豊臣政権の主導権を掌握し始める。

豊臣秀頼の「奏者番」に就任。大坂で政権中枢の緊張を肌で感じる。

閏3月

大老・前田利家が病死。七将が石田三成を襲撃。

大坂で政変を目の当たりにする。豊臣政権の分裂が現実味を帯びる。

4月

家康の「調停」により、石田三成が奉行職を解かれ佐和山へ蟄居。

自領・犬山城の戦略的重要性を再認識し、来るべき有事に備える必要性を痛感か。

9月

家康、大坂城に入り、天下の政務を執行。事実上の最高権力者となる。

(この頃、犬山城下において八幡宮の移転と跡地の宅地化が行われる 15 。)

秋頃

家康、会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけ、上洛を要求。対立が深まる。

家康より美濃金山城の古材下賜の申し出を受け、犬山城の大規模改修計画が本格的に始動する。


第三章:一大プロジェクト「金山越」と犬山城の近世化

家康からの申し出を受け、石川貞清はただちに犬山城の大規模改修に着手する。このプロジェクトは、単なる建物の修理に留まらず、資材の調達から輸送、そして最新の築城技術の導入に至るまで、貞清が持つ全ての能力と経験が注ぎ込まれた一大事業であった。特に、美濃金山城から部材を運んだとされる「金山越(かねやまごし)」は、伝説として語り継がれるほどの難事業であった。

【時系列解説1】資材の輸送 ― 木曽川を駆使したロジスティクス

改修の第一段階は、資材の確保と輸送である。美濃金山城(現在の岐阜県可児市)は、犬山城から木曽川を挟んで北東に約10kmの距離に位置する。現地に残る城跡には、石垣が意図的に崩された痕跡や、建物の礎石が残されており、天守などの主要な建造物が丁寧に解体され、どこかへ運び去られたことを物語っている 16

問題は、その膨大な量の木材をいかにして犬山まで運んだかである。ここで決定的な役割を果たしたのが、木曽川の水運と、貞清の木曽代官としての経験であった。木曽川は当時、信濃・木曽谷の豊富な木材を濃尾平野へと運び出すための大動脈であり、伐採された木材を川に流し、下流で「綱場(つなば)」と呼ばれる施設で堰き止め、筏に組んで輸送する技術が確立されていた 17

金山城で解体された柱や梁、板材といった部材は、まず陸路で最寄りの木曽川の河岸まで運ばれる。そこで部材は堅牢な筏に組まれ、川の流れに乗って犬山城の麓まで一気に流送されたと考えられる 18 。貞清は木曽代官として、この水運システムを熟知し、それを差配する人脈も有していたはずである。彼にとって、木曽川は領地の境界線ではなく、自らの支配地を結ぶ高速輸送路であった。伝説的な「金山越」は、決して超人的な力業ではなく、当時の最先端の物流システムを駆使した、極めて合理的なロジスティクス戦略の成果だったのである。

【時系列解説2】普請の実行 ― 科学的知見と歴史的記録の統合

運び込まれた資材を用いて、犬山城の普請が開始される。ここで重要なのは、1599年の改修が「ゼロからの新築」ではなかったという点である。

近年の年輪年代測定法による科学的調査は、犬山城の歴史に新たな光を当てた。調査の結果、現存する天守の主要な柱や梁などの構造材は、天正十三年から十六年(1585年~1588年)にかけて伐採された木材で造られており、しかも1階から3階(現在の4階建てでいう3層目まで)が一つのプロジェクトとして一体的に建設されたことが判明した 21 。これは、これまで定説とされてきた「下の階層が古く、上の望楼部分が後から増築された」という説を覆す画期的な発見であった。

この科学的知見と、「慶長四年に金山城から移築された」という歴史的記録を統合すると、1599年の改修の実像が浮かび上がってくる。すなわち、貞清は1580年代に既に完成していた先進的な望楼型天守の骨格を基礎としながら、家康から譲り受けた金山城の良質な古材を新たな部材としてふんだんに利用し、城全体の機能強化と意匠の更新を図る「大規模リノベーション」を行ったのである 16

この改修における最大のテーマは、城の「近世化」であった。戦国末期から江戸初期にかけて、城郭のあり方は大きく変化した。鉄砲の普及に対応するため、防御機能はより複雑かつ高度なものが求められるようになり、同時に、天守は単なる軍事施設から、領主の権威を内外に誇示するための政治的シンボルとしての意味合いを強めていった 4

1599年の改修では、まさにこの二つの側面からの強化が図られた。

軍事面では、天守台の石垣が「野面積み」などの最新技術で再構築・補強されたと考えられる 16。さらに、天守への入口を側面から攻撃するための「付櫓(つけやぐら)」や、石垣を登ってくる敵兵に石や熱湯を浴びせ、鉄砲を撃ちかけるための「石落とし」といった、より実戦的な防御施設がこの時期に増設・強化された可能性が極めて高い 7。

一方、政治的シンボルとしては、金山城という織田家由来の名城の部材を組み込むこと自体が、犬山城の格を飛躍的に高める行為であった。それは、貞清自身の権威、ひいては彼が仕える豊臣政権の権威を、尾張・美濃の国人や諸大名に対して視覚的に示す、強力なメッセージとなった。

1599年の改修は、既存の躯体を再利用(リサイクル)し、そこに新たな部材と最新技術を付加して機能と価値を向上させる(アップグレード)、極めて効率的かつ戦略的な「ハイブリッド築城」であった。それは、軍事機能と権威的象徴性の両方を同時に高める、戦国末期から近世初頭への過渡期を象徴する画期的なプロジェクトだったのである。


【表2】犬山城天守の構造・意匠比較

項目

改修前(1588年時点の推定)

1599年改修後

基本構造

3層4階 望楼型(骨格は完成)

3層4階 望楼型(変化なし)

防御施設(天守周り)

比較的単純な入口と防御設備

付櫓 石落とし の増設・強化により、多角的で立体的な防御網を構築。

天守台石垣

創建当初の比較的小規模な石垣

野面積み など、当時の最新技術による大規模な再構築・補強。

使用部材

1585~88年に新規伐採された木材のみ

既存の構造材に加え、 美濃金山城から移送された由緒ある古材 を各所に使用。

象徴性

尾張北部の有力な軍事拠点

豊臣政権の権威と城主・石川氏の威光を体現する、地域のランドマークとしての性格を強化。


第四章:城と城下の一体化 ― 「総構え」による支配の強化

石川貞清が描いた犬山城の新たな姿は、天守や本丸といった城郭の中枢部だけに留まるものではなかった。彼の構想は、城下町全体を一つの巨大な防御ユニットとして再編し、軍事機能と経済支配を一体化させる、より壮大な都市計画へと及んでいた。これが、近世城郭都市の思想である「総構え(惣構え)」の導入である。

「総構え」とは、城の中核部分だけでなく、その周囲に広がる武家屋敷や町人地といった城下町全体を、外周の堀(総堀)や土塁、石垣などで囲い込み、町全体を要塞化する城郭構造を指す 29 。これにより、敵が城に到達する前に、市街戦へと引きずり込み、町の各所で迎撃することが可能となる。犬山城下町は、まさにこの「総構え」の構造を持っており、その原型が石川貞清の時代に構想され、着手されたと考えられている。

その具体的な証拠の一つが、慶長四年(1599年)の城下における町割りの変更である。この年、城下の中心にあった八幡宮が移転させられ、その跡地が新たに人家(町人地)として開発されたという記録が残っている 15 。これは単なる区画整理ではない。城の改修と連動し、城下町の機能をより効率的かつ防御的に再配置するための、計画的な都市改造の一環であった。この時代の都市計画では、寺社を町の外縁部や街道の入口に集中配置し、有事の際の防御拠点(出城)として利用することが常套手段であり 32 、八幡宮の移転もそうした戦略的意図に基づいていた可能性が高い。

「総構え」がもたらす効果は、軍事的なものに留まらない。むしろ、平時における支配体制の強化にこそ、その真の狙いがあった。城下町への出入り口を限定し、門を設けて厳重に管理することで、町に出入りする人や物資の流れを完全に把握し、統制することが可能になる 30 。これは、商業や手工業を城主の管理下に置き、そこから上がる利益(税)を確実に徴収するための、極めて有効な経済政策であった。

さらに、城に近い一等地には上級家臣を、その外側に中・下級家臣を、そして街道沿いには町人や職人を計画的に居住させることで、身分秩序を空間的に可視化し、城主による一元的な支配体制を城下の隅々にまで浸透させる政治的効果も持っていた 31

1599年のプロジェクトは、単なる「城の改修」ではなく、城と城下町を一体の軍事・経済・政治ユニットとして再設計する「都市改造計画」であったと言える。それは、戦国時代の「点」としての城の防衛から、近世的な「面」としての領国経営へと、支配のあり方が大きく移行していく時代の転換点を象徴するものであった。石川貞清は、目前に迫る徳川家康という軍事的脅威に対処すると同時に、新しい時代の支配者として、自らの理想とする都市の姿を犬山の地で実現しようとしていたのである。彼の計画は、翌年の関ヶ原の戦いによって道半ばで中断されることになったが、その先進的な構想は後の城主である成瀬氏に引き継がれ、近世犬山城と城下町の骨格を形成していくことになった 15

第五章:落成から戦雲へ ― 改修された城の初陣

莫大な労力と費用、そして城主・石川貞清の全ての知見が注ぎ込まれた犬山城改修。しかし、その近世城郭としての真価が問われる時は、あまりにも早く、そして皮肉な形で訪れた。改修が完了したか否かの翌慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発。犬山城は、東西両軍の戦略が激突する最前線へと変貌した。

【時系列解説3】関ヶ原前夜の攻防

  • 慶長五年(1600年)6月~7月:西軍挙兵と貞清の決断
    六月、徳川家康が、上洛命令に従わない会津の上杉景勝を討伐するため、大軍を率いて大坂を発った。この家康の不在を好機と捉えた石田三成は、大谷吉継らと共に、毛利輝元を総大将に担ぎ上げて挙兵する 1。天下は、家康率いる東軍と、三成を中心とする西軍に二分された。

    この報が犬山にもたらされた時、石川貞清は重大な決断を迫られた。家康からは東軍への参加を促す誘いがあったとされるが、彼はこれを明確に拒否する 6。豊臣秀頼の奏者番という立場、石田三成との縁戚関係、そして何より秀吉子飼いの武将としての豊臣家への忠誠心。彼が西軍に与することは、必然の選択であった。この決断により、改修されたばかりの犬山城は、東軍の進撃を食い止めるための、西軍にとっての最重要拠点の一つとなった。
  • 8月:犬山籠城と美濃・尾張の前哨戦
    貞清は、稲葉貞通・典通親子、加藤貞泰、関一政、竹中重門といった西軍方の諸将を犬山城に迎え入れ、籠城の態勢を固めた 6。犬山城は、木曽川を天然の堀とし、西軍の岐阜城主・織田秀信と連携して、東海道と中山道から西上してくる東軍主力を迎え撃つ防衛ラインの要であった 4。東軍の先鋒部隊は木曽川の対岸に布陣し、犬山城と睨み合う 9。貞清が施した付櫓や石落としといった新たな防御施設は、川越しにその威容を示し、東軍に大きな心理的圧迫を与えたに違いない。美濃・尾張の地は、関ヶ原の本戦を前に、一触即発の空気に包まれていた 35。
  • 8月下旬:内部からの崩壊と無血開城
    しかし、堅城を誇った犬山城は、敵の攻撃によってではなく、味方の裏切りによってあまりにもあっけなく陥落する。東軍の先鋒である中村一忠隊が犬山城に迫る中、城内に籠もっていた稲葉貞通・典通親子らが、密かに東軍の軍監・井伊直政に内応の密書を送っていたのである 6。彼らは戦闘が始まる前に城を脱出し、東軍に寝返る算段を整えていた。

    信頼していた味方からの突然の裏切りにより、貞清は城内で孤立無援となる。この状況下で、同じく籠城していた関一政から「これ以上籠城を続けても犬死にするだけだ。城を明け渡して西軍本隊に合流し、決戦に加わるべきだ」と説得される 6。貞清は苦渋の末、この説得を受け入れ、一戦も交えることなく犬山城を開城することを決断した。

    だが、貞清の戦いはここで終わったわけではなかった。彼は稲葉氏らのように東軍に寝返ったのではない。城を明け渡した後、手勢を率いて西軍本隊が集結する大垣城へと向かい、関ヶ原での決戦に最後の望みを託したのである 6。
  • 9月15日:関ヶ原本戦での奮戦
    九月十五日、関ヶ原の地で、東西両軍合わせて十数万が激突した。石川貞清は、西軍の主力である宇喜多秀家隊の右翼に陣を張り、奮戦したと伝えられている 6。しかし、彼や西軍主力の奮戦も虚しく、松尾山に布陣していた小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍は総崩れとなり、わずか半日で壊滅的な敗北を喫した 40。

石川貞清が心血を注いだ1599年の犬山城改修は、軍事的には「完璧な準備」であった。しかし、その成果は「戦わずして失われた」。この皮肉な結末は、関ヶ原の戦いの本質を象徴している。この戦いの勝敗を決したのは、城の堅固さや兵の勇猛さといった物理的な要因以上に、諸大名の利害が複雑に絡み合う中での内応や裏切りといった「情報戦」と「心理戦」であった。貞清は優れた城を築き上げることはできたが、共に戦うはずの味方の結束を築くことには失敗した。彼の築いた石垣は、東軍の攻撃ではなく、西軍という組織の構造的欠陥の前に崩れ去ったのである。

終章:歴史の奔流の中に消えた城主と、残された国宝

関ヶ原での敗戦は、石川貞清の運命を、そして犬山城の運命を大きく変えた。歴史の勝者と敗者が明確に分かたれた中で、彼らが辿った道は対照的であった。

敗戦後、貞清は戦場を離脱し、京の龍安寺に潜伏した。その後、妙心寺を介して東軍の池田輝政に投降する 6 。本来であれば、西軍の主力として奮戦した彼は死罪を免れないはずであった。しかし、二つの幸運が彼を救う。一つは、犬山城に籠城していた際、東軍に味方した木曽の郷士たちの人質を危害を加えることなく解放していたこと。もう一つは、縁戚関係にあった池田輝政が家康に熱心に助命嘆願を行ったことである 6 。これにより、貞清は黄金千枚を幕府に献上することを条件に、奇跡的に一命を取り留めた。

しかし、大名としての地位は完全に失われた。犬山一万二千石と木曽の代官領は没収され、彼は改易の身となる 10 。その後は京で剃髪して「宗林」と号し、茶人や商人(金融業)として静かな余生を送ったとされる。その一方で、大坂の陣で戦死した真田信繁(幸村)の妻・竹林院を引き取って援助するなど、豊臣家への旧恩を忘れなかった彼の義理堅い一面も伝えられている 6 。波乱の生涯の晩年には、幕府から扶持米を与えられて御家人として召し抱えられたともいう 6

一方、主を失った犬山城は、新たな歴史を歩み始める。関ヶ原合戦後、城は徳川方の将、小笠原吉次、次いで平岩親吉が城主を務めた 7 。そして元和三年(1617年)、歴史的な転換点が訪れる。徳川家康の側近であり、尾張徳川家の御付家老であった成瀬正成が、二代将軍・秀忠から犬山城を拝領したのである 7 。これ以降、犬山城は明治維新に至るまで、成瀬家九代の居城としてその歴史を刻んでいくことになった。

成瀬氏の時代、犬山城はさらなる改修を受け、その姿を変えていく。特に、天守の南北面に優美な曲線を描く「唐破風」が付け加えられたのはこの時期であり、これにより天守は武骨な戦闘拠点から、泰平の世の権威を象徴する優雅な姿へと変貌を遂げた 21 。また、石川貞清が着手した城下町の「総構え」も成瀬氏の治世下で完成し、近世城郭都市としての犬山が完成した 33

こうして歴史を俯瞰する時、「慶長四年 犬山城改修」の真の意義が浮かび上がってくる。それは、歴史の敗者である石川貞清が、天下分け目の動乱の中で未来を信じて行った、生涯最大の「投資」であった。彼は政治闘争に敗れ、城も領地も失った。しかし、彼が犬山城に吹き込んだ「近世」という新しい時代の息吹は、城そのものの中に生き続けたのである。貞清による改修は、犬山城が中世的な山城から、天守を核とする近世城郭へと決定的に変貌を遂げた画期であった。彼が導入した先進的な防御思想や城下町との一体的整備計画は、その後の成瀬氏による泰平の世の城郭経営の確固たる基礎となった。

今日、国宝として、また現存最古の様式の天守として私たちが目にすることができる犬山城の姿は、決して一つの時代の産物ではない。それは、1580年代の創建に始まる戦国を生き抜いた無名の職人たちの技術、1599年の動乱期に城の未来を託した石川貞清の忠誠心と先見性、そして泰平の世を治めた成瀬家の治世といった、数多の人間たちの意志と願いが、幾重にも積み重なって生まれた、歴史の結晶なのである。

引用文献

  1. 関ヶ原の戦い前後の勢力図 - ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/sekigahara-seiryoku-zu/
  2. 関ヶ原の戦い|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents3_01/
  3. すべては秀吉の死から始まった:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(上) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06915/
  4. 犬山城天守はいつ建設されたか。 | ポンタックのブログ at DESIGN OFFICE TAK https://www.pontak.jp/traditional-architecture-japan-inuyama-castle/
  5. 犬山 城下町 3万5千石 with 歴史地理学 | ポンタックのブログ at DESIGN OFFICE TAK https://www.pontak.jp/inuyama-castle-town-with-historical-geography/
  6. 石川貞清 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E8%B2%9E%E6%B8%85
  7. 犬山城について | 国宝犬山城 https://inuyama-castle.jp/about/
  8. 【美しき天守へ】戦国武将が天下取りを夢見た360度の天守の眺望 犬山城×岐阜城(1) - たびよみ https://tabiyomi.yomiuri-ryokou.co.jp/article/002296.html
  9. 濃州関ケ原合戦と犬山城 - 岐阜県博物館 https://www.gifu-kenpaku.jp/wp-content/uploads/2022/10/%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8_%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E5%A0%B1%E5%91%8A_%E7%AC%AC41%E5%8F%B7%EF%BC%882021%EF%BC%89_%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%98%AD%E5%BD%A6_%E6%BF%83%E6%B4%B2%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6%E3%81%A8%E7%8A%AC%E5%B1%B1%E5%9F%8E.pdf
  10. 【第十三代・犬山城主】石川貞清(いしかわさだきよ=石川光吉(みつよし)は豊臣に忠義を尽くし https://www.takamaruoffice.com/inuyama-jyo/ishikawa-sadakiyo-13th-owner/
  11. 石川貞清 Ishikawa Sadakiyo | 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/ishikawa-sadakiyo
  12. 石川貞清 https://www.nagareki.com/kisoji/kisojijinbutu/isikawasadakiyo.html
  13. 七将襲撃事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B0%86%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
  14. 家康と三成は宿敵ではない…関ヶ原で負けボロボロの姿で捕まった三成を「医者に診せよ」と言った家康の真意 | PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン) | “女性リーダーをつくる” https://president.jp/articles/-/73976
  15. 犬山城下町の空間構造とその形成過程 - 京都大学 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/bitstream/2433/224933/1/rae_14_1.pdf
  16. 移築された蘭丸の城 https://kaneyamagoshi.jp/
  17. 木曽谷の森林・林業の歴史 - 林野庁 - 農林水産省 https://www.rinya.maff.go.jp/chubu/kiso/morigatari/rekishi.html
  18. 木曽川・飛騨川の筏流しと人びと - 「お話・岐阜の歴史」 - FC2 https://gifurekisi.web.fc2.com/rekisi/no24.htm
  19. 山深い土地で発展! 江戸時代の林業・運輸に大きな貢献をした「木曽式運材法」をご存じか【連載】江戸モビリティーズのまなざし(4) - Merkmal https://merkmal-biz.jp/post/12730
  20. 【中・下流編】鉄道やトラックを使わずして、山から海まで木材をどう運んだ? https://moriwaku.jp/history/6052/
  21. 犬山城天守は最古級!? 1585~1588年伐採の木材で建てられたと科学的に証明 https://www.takamaruoffice.com/inuyama-jyo/inuyama-castle-tower-was-built-between-1585-and-1588/
  22. 国宝犬山城天守の創建に関する新発見 https://inuyama-castle.jp/news/detail/56/
  23. 国宝犬山城天守の創建に関する新発見 https://inuyama.gr.jp/upload/site/castlenewss/3150dd1719b228d781e63defad6c246c.pdf
  24. 金山越し講演会レポート(「日本最古の天守」の部分のみ) - 団員ブログ by 攻城団 https://journal.kojodan.jp/archives/1023
  25. 国宝五城「犬山城」の歴史と特徴/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16939_tour_020/
  26. 特集 発掘調査が明かす築城技術の発展 - 兵庫県まちづくり技術センター https://www.hyogo-ctc.or.jp/wp/wp-content/uploads/2021/03/hyogoremains86.pdf
  27. 現存 12天守のひとつ・犬山城、近世城郭としては規模も縄張も「並以下」の城の天守がかっこいい理由 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/82303
  28. 国宝5城 犬山城/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/japanese-castle/inuyama-castle/
  29. 江戸時代の町並みへタイムトリップ!犬山城下町特集 https://inuyama.gr.jp/feature/detail/4/
  30. 犬山城下町は惣構え(そうがまえ)で、出入り口(虎口)は4タイプ、8か所あったのだ。 https://www.takamaruoffice.com/inuyama-jyo/soukamae-inuyama/
  31. 【お城の基礎知識】惣構え(そうがまえ) | 犬山城を楽しむためのウェブサイト https://www.takamaruoffice.com/shiro-shiro/sougamae/
  32. 第 2 章 文化財の概要 - 犬山市 https://www.city.inuyama.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/007/541/02.pdf
  33. 犬山城主成瀬家 - 犬山城白帝文庫 https://www.inuyamajohb.org/naruse
  34. 「家康、命運の地 関ケ原」~岐阜県の家康ゆかりの地を巡ろう!~|特集 - 岐阜の旅ガイド https://www.kankou-gifu.jp/article/detail_130.html
  35. ― 戦国のメインステージ 岐阜 ― 岐阜関ケ原古戦場記念館 夏季企画展「関ケ原合戦の前哨戦―美濃・尾張の攻防―」2024年7月13日(土)~9月1日(日) | 岐阜県観光資源活用課のプレスリリース - PR TIMES https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000003.000143336.html
  36. だから関ケ原の戦いってああいう結末だったのか!」が分かるイベント開催 - ASCII.jp https://ascii.jp/elem/000/004/208/4208465/
  37. 関ヶ原の戦い前哨戦シンポジウム「慶長五年八月の美濃」 - 各務原市 https://www.city.kakamigahara.lg.jp/kankobunka/1010039/rekishi/1004943/1022074.html
  38. 天下分け目・関ケ原合戦の前哨戦とは 岐阜関ケ原古戦場記念館で7月13日から夏季企画展 https://tourism.travelnews.co.jp/tokai-hokushinetsu/202407110931325681.html
  39. 7/13(土)〜9/1(日)夏季企画展「関ケ原合戦の前哨戦ー美濃・尾張の攻防ー」を開催します https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/event/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%83%BB%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88/p6241/
  40. 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  41. 【関ヶ原の舞台をゆく②】関ヶ原の戦い・決戦~徳川と豊臣の運命を賭けた戦い - 城びと https://shirobito.jp/article/486
  42. 犬山城 李白の詩「早發白帝城」にちなみ白帝城と。 - いぶき発 その2 https://taki1377.jimdofree.com/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E5%B1%B1%E5%9F%8E/%E7%8A%AC%E5%B1%B1%E5%9F%8E/
  43. 【成瀬氏-特殊な大名-】 - ADEAC https://adeac.jp/funabashi-digital-museum/text-list/d100080/ht000840
  44. 出版物のご案内 - 犬山城白帝文庫 https://www.inuyamajohb.org/publication
  45. 400年間守り継いだ城を次世代に残す“最後の姫”。犬山城第12代城主・成瀬正俊の長女、成瀬淳子さん | めぐりジャパン https://meguri-japan.com/conversations/20250703_6402/