最終更新日 2025-10-01

琉球附庸化処置(1609)

慶長十四年、薩摩藩は琉球王国へ侵攻。徳川家康の対明外交戦略と島津氏の経済的野心とが合致し、琉球は日本の支配下に。尚寧王は屈辱を受け、琉球は日中両属の特異な道を歩むこととなった。
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慶長十四年 琉球附庸化の真相 ― 戦国終焉の力学と薩摩・島津氏の戦略的侵攻

序論:戦国から江戸へ - 変容する東アジア秩序と琉球王国

慶長十四年(1609年)に薩摩藩島津氏が敢行した琉球王国への軍事侵攻、通称「琉球附庸化処置」は、単に一地方大名による領土的野心の発露としてのみ語られるべき事変ではない。この出来事は、日本の戦国時代が終焉を迎え、徳川幕府による新たな国内秩序が形成される過渡期において、変容する東アジアの国際関係と、そこに生きる国家・勢力の思惑が複雑に絡み合った必然的な帰結であった。

14世紀以来、琉球王国は明王朝を中心とする冊封体制の中で、独立した海洋交易国家として独自の地位を築き、繁栄を享受していた 1 。東アジアと東南アジアを結ぶ中継貿易の拠点として、その存在は国際的にも重要視されていた 2 。しかし、16世紀末、豊臣秀吉による日本国内の統一は、この安定した秩序に大きな揺さぶりをかける。秀吉は、その巨大な権力を背景に朝鮮へ出兵し、さらに琉球に対しても軍役を課した 3 。これは、琉球が初めて日本の統一政権の直接的な影響下に置かれ、その独立性が脅かされた画期的な出来事であった。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て天下の実権を掌握した徳川家康は、戦乱で疲弊した国内の安定化と、新たな国際秩序の構築を最重要課題とした。特に、秀吉の対外政策によって断絶していた明との国交回復と勘合貿易の復活は、家康にとって焦眉の急であった 5 。その外交戦略の中で、明の冊封国である琉球は、極めて重要な「駒」として位置づけられることとなる。

一方で、この侵攻の実行者である薩摩の島津氏は、戦国時代を通じて南九州に強大な勢力を誇り、独自の軍事力と交易ネットワークを保持してきた大名であった。島津氏は、室町幕府の将軍足利義教が琉球を「下賜」したとされる1441年の「嘉吉附庸事件」を根拠に、琉球に対する歴史的な権利意識を潜在的に持ち続けていたとされる 7 。関ヶ原の戦いで西軍に与したことによる政治的立場の不安定さと、藩内に抱える過剰な武士層による深刻な財政難という二重の苦境が、島津氏をより直接的な行動へと駆り立てていた。

本事変を深く理解するためには、これを単なる侵略行為として捉えるだけでなく、二つの異なる時代の論理が交錯する結節点として位置づける視点が不可欠である。すなわち、島津氏が突き進んだ「戦国時代的な実力行使による利権獲得」という論理と、徳川家康が構想した「江戸時代的な新たな国際秩序の構築」という論理である。この二つの異なる動機が奇妙に一致し、家康が島津氏の野心的な行動を「許可」するという形で、自らの対外政策の枠組みへと巧みに誘導した点に、この歴史的事件の深層がある。島津氏は戦国武将としての経済的野心から行動し、家康はそれを自らが描く東アジア秩序の中に組み込もうとした。この両者の戦略的利害の一致こそが、琉球王国の運命を決定づける侵攻を可能にした根本的な要因だったのである。

第一章:侵攻への序曲 - 薩摩・琉球・徳川幕府、それぞれの思惑

第一節:薩摩藩の動機 - 経済的野心と政治的焦燥

慶長琉球之役の主たる実行者である薩摩藩島津氏の動機は、複合的でありながらも、その根底には極めて切実な経済的・政治的要因が存在した。

第一に、藩の財政は破綻寸前の危機的状況にあった。島津氏は、関ヶ原の戦いにおいて西軍に与したものの、巧みな交渉の末に本領を安堵された。しかし、その代償は大きかった。徳川幕府への恭順の意を示すための江戸城普請への動員など、多大な財政負担を強いられた 8 。さらに、島津氏は戦国時代を通じて膨張した広大な領地を統治するため、他藩に比して突出して多くの武士(郷士)を抱えており、その扶持が藩財政を恒常的に圧迫していた 9 。この構造的な財政難を打開するためには、新たな、そして莫大な収益源の確保が不可欠であった。

その解決策として島津氏が着目したのが、琉球王国が独占していた対明貿易の利権であった。当時、琉球は明への朝貢貿易を通じて、中国産の生糸や薬種といった貴重な品々を独占的に入手しており、その利益は莫大なものであった 10 。この貿易ルートを掌握し、その利益を藩の財源とすることができれば、財政危機を乗り越えるだけでなく、藩の経済力を飛躍的に高めることが可能となる。琉球を武力で服属させ、その富を収奪することは、島津氏にとって最も魅力的かつ直接的な解決策だったのである 3

第二に、政治的な地位の回復という側面も無視できない。関ヶ原の敗者側に立った島津氏は、外様大名として常に幕府からの警戒に晒されていた。この状況下で、幕府の対外政策の一翼を担う形で「琉球征伐」を成功させ、その成果を幕府に献上することは、徳川体制下における島津氏の発言力を回復し、西国の雄としての政治的地位を再確認させるための絶好の機会であった 6 。琉球侵攻は、単なる経済的収奪にとどまらず、徳川幕藩体制の中で生き残るための高度な政治的デモンストレーションでもあったのだ。

第二節:徳川幕府の企図 - 対明外交の布石と国内統治の術策

天下人となった徳川家康の視線は、国内の安定化にとどまらず、東アジア全体の秩序再編へと向けられていた。その最大の懸案事項が、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって完全に断絶していた明との国交回復であった。公式な国交と勘合貿易の再開は、徳川政権の権威を高め、莫大な経済的利益をもたらすはずであった 5 。この壮大な外交構想を実現するための鍵として、家康が注目したのが琉球王国であった。明の正式な冊封国である琉球を介することで、明との交渉の糸口を掴もうとしたのである 6

その巧妙な布石が、慶長七年(1602年)の琉球船漂着事件への対応に見て取れる。陸奥国(現在の東北地方)の伊達領に漂着した琉球の進貢船の乗組員を、家康は島津氏に命じて丁重に保護させ、琉球本国へと送還させた 9 。これは単なる人道的措置ではなく、琉球からの謝恩使の派遣を促し、それをきっかけに外交交渉を開始するための計算された一手であった。

しかし、琉球側がこの要求を拒絶したことで、家康の計画は頓挫する。ここで家康は、島津氏が琉球に対して抱いている領土的・経済的野心を利用する策に出る。島津氏の琉球侵攻計画を正式に許可したのである 9 。これは、家康にとって一石二鳥、あるいは三鳥の妙手であった。第一に、島津氏の武力を用いることで、自らは直接手を下すことなく琉球を日本の影響下に置くことができる。第二に、島津氏の戦国時代から続く強大な軍事力を幕府が管理する対外政策の枠組みの中に組み込み、そのエネルギーを外部に向けることで、国内の安定化に繋げる。第三に、西国の雄藩である島津氏に「恩賞」として琉球からの利益を与えることで、その不満を抑え、幕藩体制の中に効果的に封じ込めることができる。

事実、琉球侵攻が成功した後、幕府は西国外様大名が500石積み以上の大型船を所有することを禁じる命令を出している 12 。これは、琉球侵攻で見せつけられた島津氏の強大な海上軍事力に対する幕府の深い警戒感の表れであり、家康の戦略が、島津氏の利用と牽制という二つの側面を併せ持っていたことを如実に物語っている。

第三節:琉球王国の苦境 - 岐路に立つ小国のジレンマ

大国日本の新たな統一政権と、それに連なる薩摩藩の野心の前に、琉球王国は国家の存亡をかけた困難な選択を迫られていた。徳川幕府からの謝恩使派遣と、島津氏からの藩主代替わりに対する祝賀使派遣の要求に対し、琉球王府内では国論が二分する激しい対立が生じた。

一方には、日本の要求を受け入れ、事を穏便に済ませるべきだとする現実主義的な勢力がいた。しかし、最終的に王府の決定を主導したのは、三司官(宰相に相当)の一人であった謝名親方鄭迵(じゃなうぇーかた ていどう)を中心とする強硬な親明派であった 4 。福建からの移民の子孫であり、若き日に明の国子監に留学した経験を持つ鄭迵にとって、琉球王国の独立と正統性は、明皇帝による冊封にこそ根差すものであった 13 。日本の、いわば「格下」の将軍や一地方大名に頭を下げることは、この中華思想に基づく国際秩序(冊封体制)を根底から揺るがし、宗主国である明への不忠と見なされかねない重大な外交問題であった。彼の強硬な態度は、単なる感情的な反日主義ではなく、琉球が生き残るための唯一の道、すなわち冊封体制への絶対的な忠誠という、彼の世界観に基づいた合理的な政治判断だったのである。

尚寧王は最終的に鄭迵の意見を受け入れ、徳川幕府と島津氏の要求を拒絶する 4 。この決定が、薩摩藩に侵攻を実行するための直接的な口実を与えることになった。

この外交方針の対立の背景には、琉球王国が直面していた根本的なジレンマ、すなわち東アジアの国際秩序における二つの異なる世界観の衝突があった。琉球にとって、国家の根幹をなすのは明を中心とする「中華思想(冊封体制)」であった。一方で、戦国乱世を経て統一を達成した日本が構築しつつあったのは、日本の将軍を頂点とする独自の「天下(幕藩体制)」であった。琉球の「拒絶」は、冊封体制の論理においては正当なものであったが、日本の新たな天下の論理においては「非礼」であり「反逆」と映った。この埋めがたい認識の齟齬こそが、外交交渉による解決を不可能にし、小国の悲劇的な運命を決定づけた深層的な原因であったと言える。琉球側は、商人や奄美大島の役人からの断片的な情報により薩摩の不穏な動きを察知してはいたものの 7 、それが国家の存亡を揺るがすほど大規模な軍事侵攻に発展するとは想定しておらず、統一された防衛体制を構築するには至らなかった。

第二章:慶長十四年、薩摩の軍勢動く - 侵攻のリアルタイム・クロノロジー

ユーザーの要望に応じ、慶長十四年(1609年)の薩摩藩による琉球侵攻の過程を、日付と共にリアルタイムで追跡する。この軍事行動は、周到な準備、圧倒的な軍事力、そして琉球側の散発的な抵抗という特徴を持ち、わずか一ヶ月余りで独立王国の運命を決定づけた。

準備と編成(慶長14年2月26日)

薩摩藩主・島津家久(忠恒)は、琉球侵攻軍の総大将に歴戦の将である樺山権左衛門久高を、副将に平田太郎増宗を任命した 15 。動員された兵力は総勢3,000人、軍船は80余艘(一説には100隻以上)、そして当時最新鋭の兵器であった鉄砲を730挺も揃えるという、渡海作戦としては極めて大規模かつ近代的な編成であった 9 。慶長14年2月26日、これらの軍勢は薩摩半島の南端に位置する山川港に集結を完了し、藩主・家久自身による厳粛な閲兵を受け、出陣の時を待った 15

出陣と奄美群島制圧(3月4日~3月24日)

  • 3月4日: 寅の刻(午前4時頃)、春の順風を捉えた薩摩軍は一斉に山川港を出港した 15
  • 3月7日: 申の刻(午後4時頃)、艦隊は琉球王国の版図であった奄美大島に到着。しかし、ここで薩摩軍は予期せぬ歓迎を受ける。大島の現地首脳(按司)たちは、遠い首里の王府を見限り、強大な薩摩軍に協力する道を選んだため、大規模な戦闘は発生しなかった 15 。ただし、一部の島民が山林に逃げ隠れたり、小規模な抵抗があったりしたことを示唆する記録も存在する 7
  • 3月10日: 薩摩軍が奄美大島に到着したという衝撃的な知らせは、ようやく首里の王府にもたらされた。驚愕した王府は、急遽、和睦の使者として天龍寺の以文長老を派遣するが、混乱の中で使者は薩摩軍と接触することすらできず、この最初の和平交渉の試みは失敗に終わる 15
  • 3月16日~20日: 本隊に先んじて派遣された先行部隊が徳之島に上陸。ここで薩摩軍は、侵攻全体を通じて最も激しい抵抗に遭遇する。秋徳湊(現在の亀徳港)や湾屋(わんや)では、琉球王府から派遣された役人や島民たちが果敢に抵抗した 17 。特に、湾屋では約1,000人の島民が薩摩の船を包囲したが、翌日、船から降りた薩摩兵が鉄砲を撃ちかけると、抵抗勢力は崩壊し、50人以上が殺害された 7 。この徳之島での戦闘は、琉球側の抵抗の意志と、それを無慈悲に粉砕する薩摩軍の鉄砲の威力を象徴する出来事であった。
  • 3月21日~24日: 徳之島を完全に制圧した本隊は、沖永良部島を経由。ここからは沖縄本島を目指し、夜を徹して南下を続けた 15

沖縄本島上陸と北部制圧(3月25日~3月29日)

  • 3月25日: 酉の刻過ぎ(午後6時過ぎ)、夕闇が迫る中、薩摩軍の艦隊は沖縄本島北部の要衝である運天港に到達し、上陸を開始した 9
  • 3月26日: 事態の深刻さを悟った琉球王府は、和平交渉の最後の望みを託し、新たな使者を選んだ。白羽の矢が立ったのは、首里円覚寺の元住職で、老齢のため隠居していた禅僧・西来院菊隠宗意であった。彼は若い頃に日本へ十数年遊学した経験があり、日本語に堪能で、島津家の三殿(義久、義弘、家久)とも面識があったため、この難役に最も適した人物と判断されたのである 15
  • 3月27日: 樺山久高率いる薩摩軍は、琉球北部の政治的・軍事的中心であった今帰仁城へと進軍した。しかし、城はすでに琉球兵が放棄した後であり、もぬけの殻であった。薩摩軍は抵抗を受けることなく城を占拠し、見せしめのために城の各所に火を放ち、焼き払った 15
  • 3月29日: 陸路を進んできた菊隠の使節団が、ついに今帰仁の薩摩軍本陣に到着し、樺山久高と会見。菊隠は全面的な降伏と和平を申し入れた。樺山はこれを受け入れ、正式な和睦交渉の場所を那覇港とすることを決定。その信義の証として、琉球側の重臣である名護親方を人質として差し出すよう要求した 15

那覇・首里への進撃と陥落(4月1日~4月5日)

  • 4月1日: この日、沖縄本島南部で戦闘の火蓋が切られ、琉球王国の運命が事実上決した。
  • 薩摩軍は、那覇・首里を攻略するため、陸路を進む樺山久高の主力部隊と、海路から那覇港を目指す平田増宗の水軍部隊の二手に分かれた 19
  • 那覇港の攻防: 平田率いる水軍が那覇港へ侵入を試みると、港の入口を守る二つの要塞、三重グスク(北砲台)と屋良座森グスク(南砲台)から、琉球軍の激しい砲撃が加えられた 7 。琉球側は港口に鉄の鎖を張るなど、万全の防備を固めていた 7 。しかし、薩摩軍は正面からの突入を避け、軍船を港の北東側、すなわち砲台の死角となる防御の薄い場所へ迂回させた。そこから上陸部隊が鉄砲による猛烈な射撃を加えると、近代兵器の威力に怯んだ琉球軍はたちまち混乱に陥り敗走。那覇港は薩摩軍の手に落ちた 7
  • 陸上部隊の進軍: 時を同じくして、樺山率いる陸上部隊は、首里への中間拠点である浦添城や名刹・龍福寺などを次々と焼き払いながら南下 7 。そして、首里へ至る最後の交通の要衝である太平橋で、翁成醇(おきな せいじゅん)ら琉球兵が最後の抵抗を試みた。しかし、これも薩摩軍の鉄砲隊の前に為すすべなく破られ、翁成醇は戦死。太平橋の突破は、首里城の孤立を決定づけた 7
  • 同日夕刻、那覇では菊隠らによる和睦交渉が開始されたが、その最中に首里で戦闘が始まったとの報が入り、交渉は決裂、中断された 15
  • 4月2日~4日: 陸海から進撃した薩摩軍は、王都・首里を完全に包囲。城内は絶望と混乱に包まれた。
  • 4月5日: これ以上の抵抗は無意味な犠牲を増やすだけだと判断した尚寧王は、ついに降伏を決断。摂政の具志頭王子らが薩摩側と交渉し、首里城は無血開城された 9 。山川港を出港してから、わずか33日後のことであった。

この侵攻の経過は、琉球側の局地的な抵抗がいかに勇敢であっても、戦国時代を生き抜いた島津軍の組織的戦闘力、特に鉄砲という近代兵器を集中運用する戦術の前には無力であったことを示している。琉球には軍事組織が存在したものの、長年の平和により実戦経験は乏しかった 3 。一方、薩摩軍は朝鮮出兵などを経験した歴戦の兵であり、陸海軍の連携や鉄砲隊の効果的な運用といった、当時最先端の戦術を熟知していた 9 。那覇港の攻防は、要塞からの砲撃という「点」の防御に頼った琉球に対し、薩摩が迂回上陸と鉄砲による「面」の制圧という、より柔軟で近代的な戦術でこれを無力化した象徴的な事例であった。この軍事技術と戦術における圧倒的な格差が、一方的な結果を生んだのである。

日付(慶長14年)

場所

薩摩軍の行動

琉球側の対応・状況

備考

2月26日

薩摩・山川港

総勢3,000人の全軍が集結。藩主・島津家久が閲兵。

-

総大将:樺山久高、副将:平田増宗 15

3月4日

山川港沖

寅の刻(午前4時頃)、順風を得て全軍出港。

-

琉球侵攻作戦開始 15

3月7日

奄美大島

申の刻(午後4時頃)、大島に到着・上陸。

現地首脳(按司)が薩摩に協力。大規模な戦闘はなし。

琉球王府の支配が末端まで及んでいなかった可能性 15

3月10日

首里

-

薩摩軍の奄美到着の報を受け、和睦使者(以文長老)を派遣。

使者は薩摩軍と接触できず失敗 15

3月16日-20日

徳之島

先行部隊が上陸。秋徳湊、湾屋などで抵抗を制圧。

役人や島民による激しい抵抗。湾屋で50人以上が殺害される。

侵攻全体で最大規模の戦闘が発生 7

3月25日

沖縄本島・運天港

酉の刻過ぎ(午後6時過ぎ)、主力部隊が上陸を開始。

-

本島への軍事侵攻が本格化 9

3月26日

首里

-

王府、新たな和睦使者として西来院菊隠宗意を任命。

菊隠は日本への留学経験があり、島津家とも面識があった 15

3月27日

今帰仁城

城へ進軍するも、もぬけの殻。城に放火し焼き払う。

薩摩軍の接近を知り、事前に兵を撤退させていた。

北部の拠点が抵抗なく陥落 15

3月29日

今帰仁

菊隠と会見。和睦交渉の場所を那覇と定め、名護親方を人質に取る。

菊隠が全面降伏を申し入れる。

和平への道筋がつけられるが、軍事行動は継続 15

4月1日

那覇港・浦添・首里

陸海二手に分かれ進撃。那覇港を制圧。浦添城を焼き払い、太平橋を突破。

那覇港の砲台から応戦するも敗走。太平橋で最後の抵抗も破られる。

戦闘の帰趨が事実上決した一日。那覇での和平交渉は中断 7

4月5日

首里城

首里城を完全に包囲。

尚寧王が降伏を決断。首里城を開城。

組織的抵抗が終結し、琉球王国は薩摩の支配下に入る 9

5月15日

那覇港

-

尚寧王と重臣ら百余名が捕虜として薩摩へ向け出港。

王は2年半に及ぶ虜囚生活を送ることになる 22

第三章:戦後処理と琉球の「附庸化」- 新たな支配体制の構築

首里城の開城は戦闘の終わりを意味したが、それは琉球王国にとって、より長く過酷な支配の始まりに過ぎなかった。薩摩藩は、琉球の主権を事実上剥奪し、その富を徹底的に収奪するための新たな支配体制を、迅速かつ体系的に構築していった。

第一節:尚寧王の江戸上り - 敗戦国王の屈辱と幕府の威光

慶長14年(1609年)5月15日、尚寧王は三司官ら重臣百余名と共に、捕虜として那覇港から薩摩の鹿児島へと連行された 13 。約2年半に及ぶ屈辱的な虜囚生活の始まりであった。翌慶長15年(1610年)、尚寧王は薩摩藩主・島津家久に伴われ、さらなる長旅に出る。その目的地は、駿府と江戸であった。

この「江戸上り」は、単なる敗戦処理ではなかった。それは、新たに確立された徳川の権威を天下に示すための、壮大な政治的パフォーマンスであった。尚寧王はまず駿府城で大御所・徳川家康に、次いで江戸城で二代将軍・徳川秀忠に謁見した 4 。この一連の儀式を通じて、独立国の君主であった琉球国王が、徳川将軍の威光の前にひれ伏し、その支配体制に組み込まれたことが内外に強く印象づけられた。興味深いことに、家康は尚寧王を罪人としてではなく、むしろ国賓に近い形で丁重にもてなしたとされる 22 。これは、武力による征服だけでなく、徳川の「仁徳」によって琉球を従えたという体裁を整え、自らの権威をより一層高めるための計算された演出であった。

江戸から鹿児島に戻された後、慶長16年(1611年)、尚寧王は帰国を許される条件として、琉球王国史上最大の屈辱となる誓約書への署名を強要された。その内容は、「琉球国は、いにしえより島津氏の附庸国であった」「今後は子々孫々に至るまで、決して島津氏に背かない」というものであった 3 。この一札により、琉球の薩摩への永続的な従属関係が法的に決定づけられたのである。

第二節:「掟十五条」の衝撃 - 主権を奪う支配の鉄鎖

尚寧王の帰国とほぼ同時に、薩摩藩は琉球の統治に関する基本法として「掟十五条」を発布した 4 。この掟は、琉球王国の名目的な存続を許しつつも、その主権をあらゆる側面から制限し、薩摩藩の完全な管理下に置くことを目的としていた。その内容は、琉球社会の根幹を揺るがすものであった。

条文(現代語訳)

解説(主権の制限)

1. 薩摩の命令なしに、中国へ品物を注文してはならない。

【外交・貿易権の剥奪】 琉球の生命線であった対中貿易を完全に薩摩の管理下に置き、自由な交易を禁じる。

2. 現在官職についていない者には知行(給与)を与えてはならない。

【人事・財政権への干渉】 王府の人事や俸禄制度に介入し、薩摩の意に沿わない勢力の台頭を防ぐ。

3. 女には知行を与えてはならない。

【内政・慣習への干渉】 琉球独自の社会制度(高級神女などへの知行給付)を否定し、支配を徹底する。

4. 個人で人を奴僕としてはならない。

【社会制度への介入】 琉球社会の身分制度に介入し、薩摩の支配構造にそぐわない要素を排除する。

5. 寺や神社を多く建立してはならない。

【宗教・文化への統制】 宗教施設の建立を制限し、人々の精神的な求心力が王府や寺社に向かうことを抑制する。

6. 薩摩の許可がない商人を許してはならない。

【商業活動の完全管理】 薩摩が認めた商人以外の活動を禁じ、経済のあらゆる側面を掌握する。

7. 琉球人を買い取り日本へ渡航させてはならない。

【人的資源の管理】 琉球の人口流出を防ぎ、収奪の対象となる労働力を確保する。

8. 年貢やその他の公物は、薩摩の奉行が定めた通りに納めること。

【徴税権の剥奪】 徴税の基準と方法を薩摩が決定し、経済的収奪のシステムを確立する。

9. 三司官を差し置いて、他人に仕えてはならない。

【統治機構の掌握】 琉球の最高行政機関である三司官を薩摩の出先機関として位置づけ、王府の権威を無力化する。

10. 押し売りや押し買いをしてはならない。

【治安維持】 薩摩の支配下での社会秩序を維持するための条項。

11. 喧嘩口論をしてはならない。

【治安維持】 同上。

12. 町人百姓等に定められた役以外の無理を強いる者があれば鹿児島に訴え出よ。

【司法権の掌握】 琉球内の訴訟管轄権を薩摩が握ることを示し、琉球王府の司法権を形骸化させる。

13. 琉球から他領へ貿易船を出してはならない。

【貿易権の完全剥奪】 薩摩の許可なく、中国以外の地域との交易も全面的に禁止する。

14. 日本の桝(京枡)以外を用いてはならない。

【経済基準の統一】 度量衡を日本の基準に統一させ、石高の算出と徴税を容易にする。

15. ばくちや人道にはずれたことをしてはならない。

【風俗統制】 風俗を取り締まり、社会の隅々まで薩摩の支配を浸透させる。

出典: 23

この「掟十五条」により、琉球は外交、貿易、財政、人事、司法といった国家主権の根幹をことごとく奪われ、名目上の「王国」という外皮を残したまま、実質的には薩摩藩の監督下にある一地方へと転落したのである。

第三節:領土の割譲と経済的収奪

薩摩藩の支配は、法的な主権剥奪にとどまらなかった。より直接的な領土の割譲と経済的収奪が、それに続いた。

まず、薩摩藩は琉球王国の版図であった奄美群島(喜界島、徳之島、奄美大島、沖永良部島、与論島)を琉球から正式に分離し、薩摩藩の直轄領へと編入した 2 。これにより、琉球は国土の約3分の1を失った。

次に、薩摩藩は琉球の残された領土全域で徹底的な検地(土地調査)を実施した。これにより、王国の総石高を約8万9千石と査定し、琉球の経済的基盤を完全に数値化して把握した 12 。これは、将来にわたる安定的かつ効率的な収奪システムを構築するための基礎作業であった。

そして、直轄領とした奄美群島では、藩財政を潤すための収奪が苛烈を極めた。稲作に不向きな土地柄を利用し、商品作物であるサトウキビの栽培が島民に強制され、生産された黒糖はすべて藩が安値で買い上げるという専売制が敷かれた。島民は自家消費すら厳しく制限され、納税のために過酷な労働を強いられた。この政策は後に「黒糖地獄」と呼ばれ、奄美の人々を長きにわたって苦しめることになる 27

これらの戦後処理は、琉球を「二つの顔」を持つ存在へと意図的に作り変えるプロセスであった。対外的には、中国との朝貢貿易を続けさせるために「独立した琉球王国」という看板を維持させる。その一方で、対内的には「薩摩藩の属国」として、その富を根こそぎ収奪する。この巧妙に設計された二重構造こそが、薩摩藩と、それを黙認した徳川幕府にとって、最大の利益を生み出すための支配戦略の核心だったのである。琉球を完全に併合してしまえば、明との冊封関係は断絶し、貿易の窓口という旨味は失われる 30 。だからこそ、尚寧王を帰国させ、王政を存続させる必要があった 6 。この「隠蔽」を前提とした支配体制が、以後250年以上にわたる近世琉球のあり方を規定していくことになる。

第四章:主要人物の相克 - 尚寧王、謝名親方、樺山久高の視点

慶長十四年の琉球侵攻は、国家間の力学だけでなく、その渦中に生きた個人の信念、立場、そして運命が激しく交錯する人間ドラマでもあった。ここでは、三人の主要人物の視点から、この歴史的事件の多層的な側面を掘り下げる。

尚寧王 - 亡国の悲哀を背負った国王

第二尚氏王統第7代国王・尚寧は、琉球史において最も悲劇的な王として記憶されている。先代の尚永王に男子がおらず、その婿養子として王位を継承したという経緯は、彼の王権の基盤が当初から盤石ではなかった可能性を示唆する 4 。彼の治世は、豊臣秀吉による軍役要求に始まり、薩摩の侵攻という未曾有の国難で終わる。

薩摩軍の圧倒的な武力の前に、尚寧王は多くの民の命を救うため、苦渋の末に降伏を決断した。しかし、その代償は国王としての尊厳を根底から覆すものであった。捕虜として薩摩へ、そして江戸へと連行され、徳川家康・秀忠に謁見するという屈辱は、独立国の君主として耐え難いものであっただろう。

帰国後、彼は薩摩の傀儡として、王の座に留まることを余儀なくされた。薩摩の支配下で、かつての栄華を失った首里城から自らの王国が収奪されていく様を、どのような思いで見つめていたのか。その内心の葛藤は計り知れない。彼の深い悲痛と悔恨の念は、その死後の処遇に象徴されている。尚寧王は、歴代国王が眠る王家の陵墓・玉陵に葬られることを自ら望まず、祖先である浦添按司家の墓所・浦添極楽陵に葬られた 4 。これは、国を滅ぼした王として、玉陵に眠る先代の王たちに顔向けができないという、彼の痛切な思いの表れであると広く解釈されている。

謝名親方(鄭迵) - 独立に殉じた不屈の宰相

尚寧王が「現実」を受け入れた悲劇の王であったとすれば、三司官・謝名親方鄭迵は、琉球の独立という「理想」に殉じた英雄であった。親明派の筆頭として、彼は最後まで薩摩への強硬な抵抗を主張し続けた 13 。彼の態度は、単なる観念論ではなく、琉球の独立は明との冊封関係によってのみ保証されるという、彼の世界観に基づいた確固たる信念に裏打ちされていた。

彼の真価が発揮されたのは、敗戦後、薩摩に連行されてからであった。島津忠恒(家久)が尚寧王や他の重臣たちに薩摩への忠誠を誓う誓約書への署名を迫った際、他の者たちが屈する中、鄭迵ただ一人がこれを敢然と拒絶した。彼は少しも臆することなく、侵略の非道を糾弾し、島津氏を痛烈に罵ったと伝えられている 13

その不屈の態度は、支配者である島津氏にとって許しがたい挑戦であった。結果、鄭迵は斬首の刑に処せられ、その生涯を閉じた。彼は、琉球の主権と尊厳のために自らの命を捧げたのである。

しかし、彼の歴史的評価は一様ではない。琉球王府が後に編纂した正史である『中山世鑑』や『中山世譜』では、彼の強硬路線が国難を招いたとして、「佞臣(ねいしん)」や「邪名(じゃな)」といった否定的な評価が下されている 13 。これは、薩摩の支配下で生き残ることを余儀なくされた王府の、いわば自己正当化の論理であった。しかし、時代が下り、特に近代以降の沖縄の研究者たちによって、彼は再評価されることになる。外圧に屈することなく、国家の独立のために殉じた愛国の英雄として、その不撓不屈の精神は今日、高く称賛されている 13 。この評価の変遷は、歴史的事件の解釈が、後世の人々の政治的・文化的状況によっていかに再構築されるかを示す好例である。

樺山久高 - 侵攻を完遂した戦国の将

琉球侵攻軍の総大将を務めた樺山久高は、島津氏一門に連なる武将であり、戦国乱世を生き抜いた典型的な武人であった 16 。彼の行動は、主君の命令を忠実に、そして冷徹に遂行するプロフェッショナルとしての姿を浮き彫りにする。

彼は、3,000の兵を率いて海を渡り、各地の抵抗を的確に鎮圧し、最終的に首里城を陥落させた。その作戦指揮能力の高さは疑いようがない。一方で、彼は単なる武辺者ではなかった。今帰仁で和睦の使者・菊隠と会見した際には交渉に応じる姿勢を見せつつも、軍事行動の手を緩めることはなかった 15 。この硬軟織り交ぜた対応は、目的達成のためにはいかなる手段も辞さない、冷徹な現実主義者としての一面をうかがわせる。

彼が残したとされる陣中日記『琉球渡海日々記』は、侵攻の経過を薩摩側の視点から記録した一級史料として、この事件を研究する上で欠かせないものとなっている 16 。樺山久高の存在は、この事件が琉球側にとっては悲劇的な侵略であったと同時に、薩摩側にとっては藩の命運をかけた戦略的任務であったという、もう一つの側面を我々に示している。

これら三者の相克は、歴史の大きな転換点において、個人が取りうる選択肢がいかに限られ、そしてその選択がもたらす結果がいかに過酷であるかを物語っている。国家の存続のために屈辱を受け入れた王、国家の尊厳のために死を選んだ宰相、そして主君の命令を完遂した武将。彼らのそれぞれの決断が、その後の琉球の歴史を大きく規定していくことになったのである。

第五章:二重属国体制の確立とその実態 - 幕藩体制下の琉球と東アジア

薩摩による琉球侵攻がもたらした最も特異な帰結は、「両属」と呼ばれる世界史的にも稀な国家体制の確立であった。これは、琉球が実質的には日本の幕藩体制に組み込まれ、薩摩藩の支配を受けながら、対外的・形式的には中国(明、そして後の清)の冊封国であり続けるという、極めて矛盾した二重構造の支配体制を指す 30

「両属」という特異な体制

この体制下で、琉球王国は二つの宗主に対して臣従の礼を尽くすことを強いられた。日本の徳川将軍が代替わりする際には、はるばる江戸まで「慶賀使」を派遣して祝意を表し、同時に、中国皇帝に対しては従来通り定期的に「進貢使」を派遣し、冊封を受けるという二重の外交儀礼を義務付けられたのである 35 。琉球は、日中両大国の間で、二つの顔を使い分けることを強要される存在となった。

この奇妙な体制が成立し、維持された背景には、関係するすべての勢力にとっての「実利」があった。薩摩藩と徳川幕府にとって、琉球を完全に併合してしまうことは得策ではなかった。もし琉球が日本の完全な領土となれば、中国との伝統的な冊封・朝貢関係は断絶してしまう。それは、琉球を介した対中貿易という最大の利益の源泉を失うことを意味した 6 。したがって、琉球に「独立王国」という看板を掲げさせ、中国との関係を維持させる必要があったのである。

一方、中国側も、琉球の背後に日本の影響力が及んでいることを薄々感づいてはいた。事実、侵攻後、琉球からの進貢品に日本製品が急増したことなどから、明の官僚の間で琉球からの朝貢を停止すべきだという議論も起こった 12 。しかし、最終的には、朝貢という中華思想に基づく国際秩序の「形式」が維持される限り、その背後にある「実態」には目をつぶるという現実的な選択をした。明や清にとって、遠方の属国を巡って日本と軍事的に対立するリスクを冒すよりも、朝貢貿易がもたらす実利と、宗主国としての「面子」が保たれることを優先したのである 16

薩摩藩による「隠蔽」工作

この脆弱なバランスの上に成り立つ両属体制を維持するため、薩摩藩は琉球に対し、日本の支配下にある事実を中国側に対して徹底的に隠蔽することを強いた 36 。この「隠蔽」工作は、驚くほど周到かつ徹底していた。

中国からの冊封使が琉球に来航する際には、那覇に駐在していた薩摩の役人たちは皆、姿を隠した。和服や日本刀といった日本的な文物はすべて撤去され、役人同士の会話においても日本語の使用が厳しく禁じられた 23 。すべては、琉球が独立した主権国家であるかのように見せかけるための、国家ぐるみの壮大な偽装工作であった。

さらに、薩摩の直轄領となった奄美群島についても、対外的には依然として「琉球国の領土」であるという建前を貫かせた 12 。これは、領土割譲の事実を中国側に知られ、朝貢関係に支障が出ることを防ぐための措置であった。

両属体制の利益構造と明治維新への連関

この巧妙な両属・隠蔽体制によって、薩摩藩は莫大な利益を上げた。琉球を介した対中貿易は、公式には朝貢貿易であったが、実態は薩摩藩が主導する密貿易であり、そこで得られた富は、破綻寸前であった藩財政を立て直すどころか、幕末には討幕運動の原動力となるほどの強大な経済力の礎となった 3 。また、徳川幕府にとっても、この体制は「鎖国」下において中国の情報を得たり、絹織物や薬品などの貴重な中国産品を入手したりするための、他に代えがたい重要な窓口として機能した 6

琉球にとっては、この体制は主権を奪われた屈辱的な支配体制であったことに疑いはない。しかし、皮肉なことに、この二大国の狭間で綱渡りを続ける中で、王国としての形式と、それによって育まれた独自の文化を、絶滅させることなく維持し続けることができたという側面も指摘できる。

250年以上にわたって続いたこの曖昧で多層的な両属関係は、しかし、西欧的な近代国民国家の論理(万国公法)が東アジアに導入された明治時代に至って、ついに終わりを迎える。一つの土地は、一つの主権国家にのみ帰属するという近代の原則は、琉球のような二重属国状態を許容しなかった。日本と清国の間で琉球の帰属を巡る深刻な領土問題(琉球帰属問題)が浮上し、最終的に明治政府は、武力を背景に「琉球処分」(沖縄県の設置)を断行する 1 。これは、1609年の侵攻によって始まった曖昧な関係を、近代国家の論理によって一方的に清算し、琉球を完全に日本の版図に組み込むための最終的な措置であった。慶長の役は、その長い歴史的プロセスの出発点だったのである。

この両属体制は、近代的な主権国家概念では割り切れない、前近代アジアの柔軟かつ多層的な国際関係のあり方を示す貴重な事例である。それは日中両大国が直接衝突することを回避しつつ、互いの面子と実利を両立させるための、極めて高度で政治的な妥協の産物であった。1609年の侵攻は、琉球の独立を奪う暴力的な行為であったと同時に、このような複雑で巧妙な国際システムの起点となった、歴史の多義性を象徴する出来事であったと言えるだろう。

結論:琉球侵攻の歴史的意義と現代への示唆

慶長十四年(1609年)の薩摩藩による琉球侵攻は、琉球、日本、そして東アジアの歴史において、極めて重大な画期をなす出来事であった。その歴史的意義は、多岐にわたる視点から評価することができる。

第一に、琉球史において、この事件は独立した海洋王国としての歴史に事実上の終止符を打ち、日本の政治体制下に組み込まれていく長い道のりの決定的な第一歩となった 38 。琉球は政治的・経済的主権を奪われ、その後の約270年間、日中両大国の狭間で「両属」という特異な道を歩むことを余儀なくされた。この経験は、琉球の社会、経済、文化のあり方を根本から変容させ、現代に至る沖縄の歴史的アイデンティティ形成に深い影響を与え続けている。

第二に、日本史の文脈において、この侵攻は戦国時代の終焉と徳川幕藩体制の確立を象徴する事件の一つである。徳川政権が、島津氏という西国の雄藩の力を巧みに利用しつつ、その支配領域を確定し、周辺地域との関係を新たに定義していく過程を如実に示している。また、この侵攻によって得た経済的利益が、薩摩藩を幕末における最強の雄藩の一つへと押し上げ、明治維新の原動力となったことを考えれば、日本の近代化への道筋を理解する上でも不可欠な出来事と言える。

第三に、東アジア史の観点から見れば、この事件は明を中心とした伝統的な冊封体制という国際秩序に対し、日本の武家政権が実力で楔を打ち込み、独自の支配圏を構築しようとした象徴的な事例であった。結果として生まれた「両属」体制は、前近代東アジアにおける国際関係の複雑性と多層性を示すものであり、中華思想的な世界観と日本の「天下」観が衝突し、そして奇妙な形で共存した稀有な歴史的産物として評価できる。

最後に、1609年の出来事とその後の歴史は、現代の沖縄が直面する様々な問題の歴史的淵源を理解する上で、重要な視座を提供する。大国間の地政学的な力学に翻弄され続けてきた歴史は、基地問題をはじめとする現代沖縄の構造的な課題の背景に、今なお深く横たわっている。この400年以上前の事件を深く理解することは、単なる過去の探求にとどまらず、沖縄の自己決定権を巡る今日の議論を、より重層的かつ共感的に捉えるための鍵となるであろう。琉球附庸化という事変は、歴史の中に埋没した過去ではなく、現代にまで続く問いを我々に投げかけ続けているのである。

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