生野銀山直轄化(1600頃)
1600年頃、徳川家康は生野銀山を直轄化。関ヶ原の戦後処理として、幕府の財政・貨幣戦略、対外貿易の要とし、長期政権の経済的礎石を築いた。
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天下分け目の銀脈:慶長五年、徳川家康による生野銀山直轄化の全貌
序章:天下分け目の銀脈 ― 戦国期における生野銀山の戦略的価値
慶長五年(1600年)の徳川家康による生野銀山直轄化は、単なる領地の接収に留まらない、新時代の幕開けを告げる経済戦略上の画期であった。この事変の歴史的意義を深く理解するためには、まず、戦国時代を通じてこの銀山がいかに重要な戦略拠点であったかを把握する必要がある。生野銀山は単なる富の源泉ではなく、政権の安定と軍事行動を支える生命線そのものであった。
1.1. 生野銀山の黎明と山名氏による開発
生野銀山の発見は、大同二年(807年)と伝えられるが、その歴史が本格的に動き出すのは戦国時代中期のことである 1 。但馬国守護であった山名祐豊が、天文十一年(1542年)に銀鉱脈の本格的な採掘を開始し、この地を支配の拠点とすべく生野城を築いた 3 。これは、鉱山が単なる産業施設ではなく、地域の政治・軍事の中心として機能していたことを明確に示している。山名氏による開発は目覚ましく、特に永禄十年(1567年)には「慶寿ひ」と呼ばれる巨大な鉱脈が発見され、『銀山旧記』には「銀の出ること土砂のごとし」と記されるほどの隆盛を誇った 1 。この莫大な産銀量は、戦国大名たちの垂涎の的となり、やがて中央の天下統一事業の渦中に巻き込まれていく。
1.2. 織田・豊臣政権による掌握:「天下の台所」としての銀山
生野銀山が中央政権の直接的な管理下に置かれる端緒は、織田信長による但馬侵攻であった。永禄十二年(1569年)、信長の命を受けた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が但馬に侵攻し、山名氏を駆逐して生野銀山をその支配下に収めた 4 。天正十年(1582年)の本能寺の変の後、秀吉はこの銀山を継承し、直轄事業として代官所を設置、自身の政権を支える最重要の財源と位置づけた 4 。秀吉は銀山の経営を極めて重視し、天正十二年(1584年)には物資の集積地として播磨国の飾磨津を指定するなど、銀山を核とした兵站・経済ネットワークの構築にも着手している 8 。豊臣政権下での生野銀山の価値は計り知れず、慶長二年(1597年)には、生野から産出される運上銀(税銀)が全国総額の実に78%を占めたという記録も存在する 5 。この事実は、天下統一事業の財源として、また政権の経済的権威の象徴として、生野銀山が果たした役割の大きさを物語っている。そしてそれは、次なる天下人を目指す徳川家康が、この銀山を渇望する十分すぎる理由となった。
1.3. 戦国末期の銀が持つ国際的価値
当時の日本は世界有数の銀産出国であり、生野をはじめとする鉱山から産出された銀は、国内経済を潤すだけでなく、国際貿易における主要な決済手段として極めて重要な役割を担っていた。ポルトガルやオランダといったヨーロッパ諸国との南蛮貿易において、生糸や絹織物といった輸入品の対価として、日本の銀が大量に海外へ輸出されていたのである 9 。銀山の支配は、国内の富を掌握することに留まらず、日本の対外貿易をコントロールし、国富の流出を防ぎ、さらには望む物資を海外から獲得するための鍵であった。したがって、生野銀山の支配権の変遷は、単なる領主の交代劇ではない。それは、戦国時代の権力構造が、在地領主による地域単位の支配から、中央集権的な政権による国家経済基盤の直接掌握へと移行していく過程そのものを象徴している。山名氏にとっての「領国経営の拠点」、信長・秀吉にとっての「天下統一事業の財源」、そして家康にとっての「幕藩体制の経済的礎石」へと、銀山に課せられる役割は時代と共に進化していった。1600年の直轄化は、この歴史的潮流の必然的な帰結であり、徳川家康が先行する二人の天下人の手法を学び、さらに恒久的な国家体制の基盤として銀山を位置づけようとした、より洗練された経済戦略の現れであった。
第一章:動乱前夜 ― 関ヶ原の戦いに至る但馬国の政治情勢
慶長五年(1600年)の天下分け目の戦いは、美濃国関ヶ原という中央の舞台だけでなく、遠く離れた但馬国の銀山にも決定的な影響を及ぼした。生野銀山直轄化の直接的な引き金は、中央の政局と連動した現地の領主の動向にあった。本章では、その政治的・軍事的背景を解明する。
2.1. 豊臣政権下の但馬国と生野銀山周辺の支配構造
豊臣政権は、但馬国に複数の大名を配置して統治を行っていたが、経済的価値が突出していた生野銀山そのものは、政権の直轄地として代官による直接管理下に置かれていた 7 。銀山の周辺には、在地国人を出自とする中小大名が配置され、彼らの動向が地域の安定に直結する構造となっていた。その中でも、但馬と因幡にまたがる領地を持ち、銀山に近接していた垣屋氏の存在は、地域の政治情勢において重要な鍵を握っていた 12 。
2.2. 鍵を握る在地勢力:垣屋恒総の立場と決断
この時期の垣屋氏の当主は、垣屋恒総(かきや つねふさ)であった 13 。恒総の父・光成は、羽柴秀吉の但馬侵攻の際にいち早く臣従し、鳥取城攻めなどで戦功を挙げて因幡国に1万石を与えられた武将である 14 。恒総自身も父と共に豊臣氏に仕え、九州征伐、小田原征伐、文禄の役といった主要な合戦に参陣しており、豊臣家への忠誠心が極めて厚い、いわゆる豊臣恩顧の大名であった 14 。秀吉の死後、五大老筆頭として徳川家康が急速に台頭し、豊臣政権内で対立が先鋭化する中で、恒総が石田三成を中心とする西軍に与することは、彼の出自と経歴を考えれば、むしろ当然の選択であったと言える。
2.3. 慶長五年夏:天下分け目の序章と但馬国への波及
慶長五年(1600年)夏、徳川家康が会津の上杉景勝討伐のために関東へ出陣すると、その隙を突いて石田三成らが挙兵し、天下は二分された。この中央での激動の報は、直ちに但馬国にもたらされた。垣屋恒総をはじめとする地域の諸将は、西軍につくか東軍につくかという、一族の存亡を賭けた重大な決断を迫られた。そして、恒総は迷わず西軍への参加を決断する。この決断が、結果として生野銀山の運命を決定づけることになった。銀山の運命は、徳川家康による直接的な軍事侵攻によってではなく、周辺の在地領主である垣屋恒総の政治的決断によって、その帰趨が定められたのである。これは、家康の戦後処理戦略の巧みさを示唆している。彼は自ら但馬に兵を進めることなく、敵対した大名の「罪」を根拠として、合法的に日本で最も価値のある経済拠点の一つを接収する大義名分を得た。恒総の西軍参加は、家康の視点から見れば、生野銀山という最大の戦略目標を、自らの軍事コストを払うことなく手に入れるための、まさに「望ましい敵対行動」であった。恒総の行動は、知らず知らずのうちに家康が描いた天下統一のシナリオの一部に組み込まれていったのである。
第二章:運命の刻 ― 関ヶ原の戦いと生野銀山の帰趨(リアルタイム時系列解説)
本章では、慶長五年(1600年)の秋、中央の戦況と但馬国の動向を同期させ、生野銀山が徳川の手に渡るまでの緊迫した数週間を時系列で描き出す。
【表1】慶長五年(1600年)九月~十月における関連動向の時系列対照表
日付(慶長五年) |
中央(関ヶ原周辺)の動向 |
垣屋恒総の動向 |
生野銀山現地の状況 |
八月~九月上旬 |
東軍・西軍が美濃国で対峙。各地で前哨戦が激化。 |
西軍の主力部隊の一員として、近江国の大津城(城主:京極高次)攻略戦に参加 14 。 |
豊臣政権下の代官による管理が継続。しかし、中央の動乱の報が伝わり、鉱山経営者(山師)や坑夫たちの間に動揺が広がる。生産活動にも影響が出始めた可能性が高い。 |
九月十五日 |
関ヶ原の戦い。 西軍がわずか一日で壊滅的な敗北を喫する。石田三成らは戦場から離脱。 |
大津城は開城していたが、本戦での西軍敗北の報に接し、敗走を開始する 16 。 |
本戦の結果はまだ伝わっていない。依然として西軍優勢の情報も錯綜し、現地の混乱は続く。どちらが勝者となっても、銀山の支配者が変わる可能性を誰もが意識していた。 |
九月下旬 |
徳川家康、大坂城に入り戦後処理を開始。西軍参加大名のリストアップと処遇の検討に着手。 |
敗走の末、高野山に逃れるが、最終的に自害して果てる 14 。垣屋氏は大名として断絶。 |
西軍敗北の確報がもたらされ、衝撃が走る。垣屋氏の敗死により、地域の権力構造が崩壊。豊臣方の代官は権威を失い、銀山は事実上の権力空白状態に陥る。 |
十月一日 |
石田三成、小西行長らが京都六条河原で処刑される 18 。西軍の完全な敗北が確定。 |
- |
徳川方の使者が現地に到着し始めた可能性。接収に向けた事前調査や、山師・有力者への懐柔工作が水面下で開始される。 |
十月十五日頃 |
家康が諸大名の論功行賞(加増・改易)を本格的に開始 18 。 |
垣屋恒総の改易が正式に決定。所領は没収される 19 。 |
権力の空白は、徳川家康による公式な支配宣言を待つばかりとなる。新たな支配者(徳川)への移行が不可避であることを、現地の誰もが悟る。 |
関ヶ原の戦いが終結した九月十五日から、徳川家康が本格的な戦後処理を開始する十月十五日頃までの約一ヶ月間、生野銀山は「権力の空白期間」に置かれた。形式的には豊臣家の直轄地であり続けたが、西軍の壊滅によりその統治機能は事実上停止した。また、地域に影響力を持っていた垣屋氏も当主の自害によって消滅し、銀山は無政府状態に近かったと推測される。
しかし、この期間に銀山の生産活動が完全に停止したとは考えにくい。むしろ、現場を熟知する山師や有力商人たちは、ただ混乱に身を任せていたわけではなかったであろう。彼らは、次の支配者が誰であれ、自分たちの既得権益を守り、新体制下で有利な立場を確保するために、水面下で激しい情報戦と交渉を行っていたはずである。来るべき新支配者に対し、鉱山の価値をアピールし、自らの経営手腕を示すことで、新たな体制下での地位を安堵させようと動いていた可能性は極めて高い。後に徳川家康による銀山の接収が驚くほど円滑に進んだ背景には、こうした現地勢力の現実的な判断と、新体制への協力姿勢があったことがうかがえる。彼らの存在こそが、迅速な直轄化を可能にした隠れた要因であったと言えよう。
第三章:掌握の実行 ― 徳川による生野銀山接収と新体制の構築
関ヶ原の戦いにおける軍事的勝利を、恒久的な行政支配へと転換させるため、徳川家康は迅速かつ周到に行動した。本章では、生野銀山接収のプロセスと、その後の新体制構築について具体的に分析する。
3.1. 接収の正当性:戦後処理という大義名分
家康は、武力によって生野銀山を直接奪取する手法を選ばなかった。彼は、あくまで戦後処理という大義名分を掲げ、合法的な手続きを踏むことで支配権を確立した。西軍に参加した垣屋恒総の所領を没収(改易)するという形で、まず但馬国における徳川方の影響力を絶対的なものとした 19 。生野銀山自体は豊臣家の直轄地であったが、その豊臣家も関ヶ原の戦いの結果、大幅に減封され、全国を統治する権威を失墜していた 20 。家康は、この豊臣政権の機能不全に乗じ、事実上の最高権力者として銀山の接収を断行した。これは、単なる武力による簒奪ではなく、あくまで「天下の再安定のための措置」という体裁を整えた、計算高い政治行動であった。
3.2. 初代奉行の派遣:間宮直元(権左衛門)の着任
権力の空白を埋めるべく、家康は腹心の部下を現地に派遣した。慶長五年(1600年)、家康は「但馬金銀山奉行」という新たな役職を設置し、その初代奉行として間宮直元(通称:権左衛門)を任命した 21 。間宮は家康の信頼が厚い能吏であり、単なる武将ではなかった。彼は鉱山経営に関する知識と技術者集団を統率する能力を兼ね備えていた。その能力は、後の大坂冬の陣(慶長十九年、1614年)において、生野銀山の坑夫たちを率いて大坂城の外堀を埋め立てるという、高度な土木技術を要する作戦を立案・実行したことからも証明されている 23 。
なお、間宮の奉行就任時期については、関ヶ原の戦い以前の慶長三年(1598年)とする史料も存在する 25 。これは、家康が五大老として豊臣政権の中枢にいた段階で、既に生野銀山の経営に深く関与していた可能性を示唆するものである。しかし、その政治的意味合いは1600年以降とは全く異なる。1598年の関与が豊臣政権の枠内でのものであったのに対し、1600年の任命は、徳川が天下の実権を掌握したことを前提とするものであり、名実ともに「徳川の奉行」として全権を掌握した決定的な瞬間であったと解釈すべきである。
3.3. 新体制の構築:奉行所設置と鉱山経営の安定化
生野に着任した間宮直元は、かつての山名氏の拠点であった旧生野城跡に奉行所(後の代官所)を設置し、銀山だけでなく周辺の天領(幕府直轄地)を含めた行政支配を開始した 3 。彼の最優先課題は、戦乱で混乱した鉱山の生産体制を再建し、銀の産出量を回復・向上させることであった。間宮は、現地の山師や坑夫(当時「下財」と呼ばれた)たちを巧みに掌握し、治安を回復させるとともに、新たな支配体制の下での経営の安定を約束することで、鉱山を再び軌道に乗せた 3 。彼の統治下で生野銀山は急速に活気を取り戻し、『銀山旧記』によれば、一ヶ月に灰吹銀を数千枚産出する鉱山が数十ヶ所も現れ、鉱山町には880軒もの家が建ち並ぶほどの繁栄を見せたという 22 。
家康による初代奉行の人選は、彼の極めてプラグマティックな統治哲学を色濃く反映している。間宮直元という鉱山技術にも通じたテクノクラート(技術官僚)を登用したことは、家康が銀山を単に支配するだけでなく、「効率的に経営」し、その経済的価値を最大化することを目的としていたことを示している。これは、戦国時代の武断的な領地支配から、江戸時代の官僚機構による経済合理性を重視した支配への明確な移行を象徴する人事であり、徳川幕府が当初から「経営国家」としての性格を帯びていたことの証左と言えるだろう。
第四章:新たな国家構想 ― 徳川幕府の財政・貨幣戦略と生野銀山
生野銀山の掌握は、単なる一地方の支配権確立に留まるものではなかった。それは、徳川家康が描く、新たな国家経済システム構築のための、壮大な構想の第一歩であった。直轄化が、徳川幕府の財政、貨幣、そして貿易政策にいかに深く結びついていたかを本章で論じる。
4.1. 慶長金銀鋳造との連動:統一通貨発行の銀供給源
生野銀山を完全に掌握した翌年の慶長六年(1601年)、家康は矢継ぎ早に次の一手を打つ。全国に通用する統一通貨、「慶長金銀」の鋳造開始である 27 。この国家的な大事業を遂行するためには、安定した、そして大量の金銀供給が絶対条件であった。生野銀山は、佐渡金山や石見銀山と並び、この新たな貨幣制度を支える三大原料供給基地として、徳川幕府の財政基盤そのものとなった 7 。良質で豊富な銀を背景に鋳造された慶長金銀は、戦国時代を通じて混乱を極めた貨幣経済に終止符を打ち、徳川の権威を経済的な側面から全国に示す象徴的な事業となった 28 。生野銀山の直轄化なくして、この近世的貨幣制度の確立はあり得なかったのである。
4.2. 銀座制度の確立と生野銀の流通
幕府は貨幣鋳造を国家の独占事業とするため、金貨を鋳造する「金座」とともに、銀貨の鋳造を専門に行う「銀座」を江戸や京都に設立した 31 。生野銀山で産出された銀鉱石は、現地の「吹屋」と呼ばれる精錬所で、当時最新の精錬技術であった「灰吹法」によって高純度の銀塊(灰吹銀)に加工された 33 。こうして作られた上納銀は、厳重な警備の下で江戸や京都の銀座へと輸送され、そこで初めて「慶長丁銀」や「豆板銀」といった公式な貨幣へと姿を変えた。この一連のプロセス、すなわち生産(生野)から加工・発行(銀座)までの全工程を幕府が完全に管理下に置くことで、財政基盤は盤石なものとなり、経済を通じた全国支配が完成した。
4.3. 対外貿易の生命線:糸割符制度とオランダ貿易
生野銀山から産出される銀は、国内経済のみならず、対外貿易においても決定的な役割を果たした。慶長九年(1604年)、幕府はポルトガル商人が中国産生糸の輸入販売で得ていた莫大な利益を抑制するため、「糸割符制度」を導入した 35 。これは、京都、堺、長崎などの特定の有力商人で構成される「糸割符仲間」に、輸入生糸を一括して買い取らせる制度であった。この生糸購入の対価として支払われたのが、まさしく生野銀山などで産出された銀であった。銀は、当時の日本にとって最大の国際競争力を持つ輸出品だったのである 9 。その後、貿易の主要な相手国がポルトガルからオランダへと移行しても、日本の銀は貿易を支える最も重要な輸出品であり続けた 9 。生野銀山の直轄化は、幕府が対外貿易の主導権を握り、国家の経済的利益を最大化するための強力な経済的裏付けとなったのである。
これらの事実を時系列で俯瞰すると、家康の戦略の全体像が浮かび上がる。慶長五年(1600年)の生野銀山掌握は、「軍事→経済→国家体制」という三段階の権力確立プロセスにおいて、要となる第二段階であった。第一段階は関ヶ原の戦いでの軍事的勝利。第二段階が、その勝利を背景にした生野銀山などの経済基盤の掌握。そして第三段階が、掌握した潤沢な銀を用いて統一通貨(慶長金銀)を発行し、貿易を管理することで、全国に及ぶ恒久的な経済支配体制(幕藩体制)を確立することであった。これら三つの要素は不可分であり、1600年の直轄化は、この壮大な連鎖の起点となる、極めて重要な一着だったのである。それは、軍事的勝利という一過性のイベントを、貨幣発行権と貿易管理権という恒久的な国家権力へと変換するための、決定的な一歩であった。
第五章:新時代の幕開け ― 直轄化がもたらした影響と社会変容
徳川幕府による生野銀山の直轄化は、単に鉱山の所有権を移転させただけではなかった。それは、現地の技術、社会、そして文化に至るまで、広範かつ長期的な変化をもたらした。幕府の統治は、この地を単なる「収奪の対象」から、持続可能な「経営の拠点」へと変貌させたのである。
5.1. 鉱山技術の継承と発展
江戸幕府の支配下において、戦国時代に朝鮮半島から伝来し、日本の銀生産を飛躍的に増大させた画期的な精錬技術「灰吹法」は、引き続き生産の中核を担い続けた 33 。幕府は、この基幹技術を継承・発展させるだけでなく、鉱山の長期的な安定経営を目指し、新たな技術開発も奨励した。特に、坑内に湧き出す地下水との戦いは鉱山経営の生命線であり、奉行所は疎水坑(排水トンネル)の掘削といった大規模な土木事業を主導し、生産性の維持・向上に努めた 21 。
5.2. 鉱山町の繁栄と新たな文化
奉行所(享保元年、1716年以降は代官所に改組)が置かれた生野の町は、幕府の庇護の下で著しい発展を遂げた 26 。全国から一攫千金を夢見る山師、熟練の技術を持つ坑夫、そして彼らを相手にする商人や職人が集まり、人口は急増。最盛期には活気あふれる一大鉱山町が形成された 22 。江戸時代には、生野銀山は幕府直轄鉱山の中でも最高位を示す「御所務山」の名称を与えられ、これを祝う山神祭が盛大に行われるなど、鉱山町ならではの独自の文化が育まれた 3 。また、直轄化は地域の食文化にも意外な影響を与えている。過酷な労働に従事する鉱夫たちの栄養源として、当時の代官所の役人が京都への出張の際に九条ねぎの種子を持ち帰り、現在の朝来市岩津で栽培したのが、日本三大ねぎの一つに数えられる「岩津ねぎ」の始まりと伝えられている 42 。これは、幕府側が地域の生活基盤の安定にまで配慮し、労働力の確保と定着を目的とした、計画的な地域経営を行っていたことを示す興味深い事例である。
5.3. 上納銀の輸送と経済波及効果
生野から江戸の幕府勘定所へは、膨大な量の上納銀が定期的に輸送された。例えば、慶安年間(1648-1652年)には、一度に馬66頭を用いて約5トンもの銀が運ばれたという記録が残っている 22 。この上納銀の輸送ルートは、幕府によって厳重に管理され、後の時代に「銀の馬車道」として整備される街道の原型となった 43 。この輸送路は、単なる物資の移動路に留まらず、沿道の宿場町に経済的な恩恵をもたらし、中央(江戸)と地方(但馬)を経済的に結びつけ、全国的な物流ネットワークを強化する重要な役割も果たした。
これらの事実は、徳川幕府が短期的な利益の追求だけでなく、技術開発の奨励、町のインフラ整備、さらには地域文化の育成を通じて、持続可能な生産拠点として生野を管理していたことを示している。生野の繁栄は、直轄化の単なる副産物ではなく、幕府の合理的かつ長期的な経済政策がもたらした意図された結果であった。生野銀山は、単なる「天領」である以上に、幕府の経済政策を具現化するモデル地区としての役割を担っていたのである。
結論:単なる領地交代ではない、経済国家・徳川日本の礎石
慶長五年(1600年)の生野銀山直轄化は、日本の歴史における転換点の一つとして位置づけられるべき重要な事変である。それは、関ヶ原の戦いという軍事的勝利を、揺るぎない経済的支配へと直結させた、徳川家康の卓越した国家構想の現れであった。西軍に与した在地領主・垣屋氏の失脚という政治的好機を逃さず、最小の軍事的コストで最大の経済的リターンを得たこの一手は、家康の戦略家としての非凡さを見事に示している。
この直轄化の歴史的意義は、単に一つの鉱山の所有権が移ったという次元に留まらない。生野銀山を始めとする全国の主要鉱山を掌握したことにより、徳川幕府は潤沢かつ安定した財源を確保した。この財源は、直後に行われた全国統一通貨「慶長金銀」の発行を可能にし、幕府の経済的権威を不動のものとした。さらに、この銀は対外貿易における強力な決済手段として、国家の富を増大させ、その後の「鎖国」体制下での管理貿易を支える基盤ともなった。
生野銀山の掌握によって確立された強固な財政基盤は、その後260年以上にわたる徳川幕府の長期政権を支え、日本の政治的安定に大きく貢献した。したがって、1600年のこの事変は、戦国の世を名実ともに終わらせ、近世という新たな時代を経済的な側面から切り開いた、まさに画期的な出来事であったと結論付けられる。それは、武力のみに頼るのではなく、経済と官僚機構によって国を治める「経済国家」としての徳川日本の誕生を告げる、力強い号砲だったのである。
引用文献
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- about | 生野銀山 https://www.ikuno-ginzan.co.jp/sp/about.html
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- 生野銀山 その1 - sogensyookuのブログ https://sogensyooku.hatenablog.com/entry/2020/10/23/214824
- 生野銀山 - 朝来市観光協会 https://asago-kanko.com/wp-content/themes/wadayama/images/pamphlet/ikuno-ginzan-ja-panf-2024.pdf
- 生野銀山(イクノギンザン)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E9%87%8E%E9%8A%80%E5%B1%B1-30238
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- 第6−16章 幕藩体制の確立「幕藩体制の成立ー江戸時代初期の外交ー」単語カード | Quizlet https://quizlet.com/jp/559674758/%E7%AC%AC616%E7%AB%A0-%E5%B9%95%E8%97%A9%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E7%A2%BA%E7%AB%8B%E5%B9%95%E8%97%A9%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%83%BC%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%81%AE%E5%A4%96%E4%BA%A4%E3%83%BC-flash-cards/
- 日本史|鎖国にいたる道 https://chitonitose.com/jh/jh_lessons75.html
- 江戸時代にタイムスリップ!出島の歴史と現代の楽しみ方 - 長崎市公式観光サイト https://www.at-nagasaki.jp/feature/dejima
- 生野書院 - 生野銀山の歴史を訪ねて - 兵庫の山々 山頂の岩石 - BIGLOBE http://www2u.biglobe.ne.jp/~HASSHI/ikunosyoin.html
- 灰吹法 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0%E5%90%B9%E6%B3%95
- 生野鉱山DVD | 朝来市観光協会生野支部 https://ikuno-kankou.jp/souvenir/ikuno/
- 「生野銀山」「竹田城跡」「岩津ねぎ」ー銀が導く永遠の絆 兵庫県朝来市 - 経済産業省 https://www.chusho.meti.go.jp/shogyo/chiiki/2016/160301hurusato05.pdf
- 「銀の馬車道」×「鉱石の道」 播但貫く - 朝来市 https://www.city.asago.hyogo.jp/uploaded/attachment/4789.pdf
- 特集 | 【公式】兵庫県観光サイト HYOGO!ナビ | 知っておきたい観光情報が盛りだくさん! https://www.hyogo-tourism.jp/feature/jheritage/01/
- 播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道|日本遺産ポータルサイト - 文化庁 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story045/