甲相駿三国同盟(1554)
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甲相駿三国同盟(1554年)— 戦国東国の勢力均衡と崩壊の全時系列
序章:戦国東国に鼎立する三つの巨星
16世紀半ば、応仁の乱より続く百年の戦乱は、日本各地に旧来の権威を凌駕する新たな実力者たちを生み出していた。中でも東国においては、甲斐の武田信玄(当時は晴信)、相模の北条氏康、そして駿河の今川義元という三人の戦国大名が、それぞれに強固な領国を形成し、互いに覇を競う巨大な星として君臨していた 1 。彼らは隣接する領土を巡って時に激しく衝突し、また時には和睦を結ぶという、複雑な敵対と協調の関係性を織りなしていた。
天文23年(1554年)、この三雄が手を結び成立させた「甲相駿三国同盟」は、戦国時代の外交史において特筆すべき大規模な同盟である。一般に、この同盟は相互不可侵を目的とした平和協定として理解されがちである。しかし、その本質を深く探ると、それは単なる「安定」を希求した防衛的な盟約ではなく、三者がそれぞれ抱える宿願、すなわち領土拡大という野望を達成するために結ばれた、極めて「攻勢的」な性格を帯びた戦略的手段であったことが浮かび上がる。
彼らは平和そのものを求めたのではない。自らの主戦線に全ての軍事資源を集中させるため、婚姻という最も重い楔を打ち込むことで「背後の安全」を確保したのである。本報告書は、この三国同盟が如何なる必然性のもとに生まれ、東国の勢力図をどのように塗り替え、そして時代の奔流の中でいかにして崩壊に至ったのか、その全貌を時系列に沿って詳細に解き明かすものである。
第一部:同盟前夜 ― 必然としての三国協調
第一章:甲斐の虎、信濃への執念 ― 武田信玄の北進と背後の脅威
天文10年(1541年)、武田晴信(後の信玄)は突如として父・信虎を駿河へ追放し、若くして甲斐武田家の家督を掌握した。彼の眼は、父祖の代からの領国である甲斐一国に留まらず、北方に広がる豊饒の地、信濃国に向けられていた 2 。当時の信濃は、諏訪氏、小笠原氏、村上氏といった有力な国人領主たちが割拠する分裂状態にあり、晴信はこれを各個撃破する形で侵攻を本格化させていった。
しかし、信濃平定の道は決して平坦ではなかった。特に北信濃に勢力を張る村上義清は、晴信にとって最大の障壁であった。天文17年(1548年)の上田原の戦いでは、晴信は宿老の板垣信方、甘利虎泰を失うという生涯未曾有の大敗を喫する。この苦戦を乗り越え、晴信はなおも信濃への圧力を強め続けたが、この執拗な侵攻が一人の恐るべき敵を歴史の表舞台に引きずり出すことになる。越後の「龍」、長尾景虎(後の上杉謙信)である 4 。
天文22年(1553年)、晴信の猛攻の前に本拠・葛尾城を追われた村上義清は、越後へ逃れ、景虎に庇護を求めた 6 。義を重んじる景虎はこれに応じ、信濃に出兵。これが、以後十数年にわたり5度にわたって繰り広げられる「川中島の戦い」の幕開けであった。ここに、晴信の戦略は大きな転換を迫られる。信濃平定という大目標を達成するためには、景虎という生涯の宿敵との全面対決が不可避となった。そして、この強敵との戦いに全力を傾けるためには、南に国境を接する今川氏、東に睨み合う北条氏との関係を安定させ、後背地の安全を確保することが絶対的な戦略的要請となったのである 8 。信濃侵攻の激化が上杉謙信の介入を招き、その謙信との対決こそが、結果的に晴信を南方の二大国との同盟へと駆り立てた。ここに「信濃侵攻→川中島の戦い→三国同盟」という、必然の因果連鎖が形成されたのである。
第二章:相模の獅子、関東制覇の野望 ― 北条氏康をめぐる東西の攻防
父・氏綱の跡を継いだ後北条家三代当主・北条氏康が置かれた状況は、まさに四面楚歌であった。西には駿河の今川義元、北には関東管領を標榜する山内上杉憲政と扇谷上杉朝定、そして東には安房の里見氏が控え、文字通り三方を敵勢力に囲まれるという絶望的な危機に直面していた 9 。
特に西方の今川氏との関係は深刻であった。もともと北条氏と今川氏は姻戚関係にあったが、天文6年(1537年)に今川氏が武田氏と婚姻同盟を結んだことに北条氏綱が反発。駿河東部(河東地域)へ侵攻し、「河東一乱」と呼ばれる紛争が勃発した 8 。氏康の代になってもこの対立は続き、天文14年(1545年)には、今川義元が関東の上杉氏と連携して北条領へ侵攻する第二次河東一乱が発生。この時、今川方には武田晴信も援軍を送っており、氏康は東西から挟撃される窮地に陥った 9 。
この絶体絶命の状況を打開したのが、天文15年(1546年)の「河越夜戦」である。氏康は、自軍の10倍近い兵力で河越城を包囲していた上杉・足利連合軍に対し、奇跡的な夜襲を敢行。扇谷上杉朝定を討ち取り、同家を滅亡に追い込むという歴史的な大勝利を収めた 9 。この一戦により、氏康は関東における軍事的優位を確立したが、関東平定の道はまだ遠かった。上杉憲政は越後へ逃れて長尾景虎を頼り、里見氏や太田資正らも抵抗を続けていた。
氏康にとって、関東の広大な平野を完全に掌握するという野望を達成するためには、全ての戦力を関東方面に集中させる必要があった。そのためには、背後を脅かす西方の脅威、すなわち今川・武田との関係を改善し、多正面作戦という戦略的負担から解放されることが不可欠であった 10 。第二次河東一乱の際、武田晴信の仲介によって河東地域を今川氏に割譲し和睦した経験は、氏康に外交による戦線安定化の重要性を痛感させた。三国同盟は、この相模の獅子が防衛的な多正面作戦から脱却し、関東平定という一つの目標に全ての力を注ぎ込むための、起死回生の一手だったのである。
第三章:海道一の弓取り、西へ ― 今川義元の三河・尾張への野心
駿河・遠江の二国を完全に掌握し、「海道一の弓取り」と称された今川義元は、三国の中でも最も国力が充実した大名であった。彼の視線は、父祖の代からの領国を越え、西の三河、そしてその先の尾張、さらには京の都に向けられていた。
義元の西進戦略は、周到かつ着実に進められた。まず、尾張の織田信秀と三河の支配権を巡って激しく争った。天文17年(1548年)の第二次小豆坂の戦いでは、軍師・太原雪斎の指揮のもと織田軍に大勝 12 。さらに翌年、織田方の人質となっていた三河岡崎城主・松平広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)を、織田信秀の庶長子・信広との人質交換によって奪還し、事実上、松平家を完全に支配下に置いた 12 。これにより、義元は三河を平定し、尾張への侵攻拠点とすることに成功した。
天文20年(1551年)、長年の宿敵であった織田信秀が病死すると、織田家は内紛状態に陥り、義元にとって尾張侵攻は現実的な目標となった 12 。彼の胸中には「東国の安定なくして西上なし」という明確な大戦略があった 14 。すなわち、尾張を制し、京へ上洛するという天下取りの野望を成就させるためには、まず東方の安全を盤石にする必要があった。その最大の懸念材料が、関東に強大な勢力を築きつつある北条氏康の存在である。
義元にとって、三国同盟は防衛的な意味合いよりも、むしろ自らの大戦略を始動させるための最終準備であった。東方の脅威である北条氏との関係を婚姻によって安定させ、後顧の憂いを完全に断ち切ること。それこそが、海道一の弓取りが天下への道を歩み出すための、最後の、そして最も重要な布石だったのである 15 。
第二部:甲相駿三国同盟の成立 ― 東国に訪れた束の間の安定
第四章:太原雪斎の深謀 ― 外交交渉の舞台裏と「善徳寺」会盟の虚実
それぞれが異なる戦略的思惑を抱える武田、北条、今川。この三国間の複雑な利害関係を巧みに調整し、歴史的な大同盟をまとめ上げた影の主役が、今川義元の師であり、軍師でもあった臨済宗の僧、太原雪斎であった 8 。雪斎は、卓越した交渉力と政治的洞察力を駆使し、今川家の外交戦略を主導した稀代の策士である 17 。
後世の軍記物や歴史小説では、天文23年(1554年)、駿河の善徳寺(現在の静岡県富士市)に信玄、氏康、義元の三人が一堂に会し、富士山を眺めながら腹の探り合いを演じ、直接盟約を交わしたという「善徳寺会盟」の逸話が華々しく語られることが多い 8 。しかし、このドラマチックな会談の史実性については、現代の歴史学では否定的な見解が主流である。その理由として、敵対関係にある可能性を払拭しきれない戦国大名が、直接顔を合わせることは警護上、極めてリスクが高いこと、そしてこの会盟を記す同時代の信頼できる史料が乏しいことなどが挙げられる 8 。
実際の交渉は、このような英雄的な会談ではなく、太原雪斎の主導のもと、各家の重臣たちが水面下で繰り広げた、地道で現実的な協議の積み重ねであったと考えられている 8 。雪斎は、武田家の外交僧や北条家の宿老たちと粘り強く交渉を重ね、それぞれの譲歩点を引き出し、三国が共に利益を得られる着地点を探り当てた。この「善徳寺会盟」という物語は、同盟の歴史的重要性を象徴する逸話として後世に形作られたものであり、その裏には、一人の傑出した外交僧による、計算され尽くした静かなる外交戦が存在したのである。これは、戦国時代の外交が、大名のカリスマ性だけでなく、実務を担う専門家たちの高度な能力に支えられていたことを示す好例と言えよう。
第五章:血で結ばれた盟約 ― 武田・北条・今川、三つの婚姻の詳細
三国間の合意は、単なる文書上の約束に留まらなかった。同盟を確固不動のものとするため、三家の間でそれぞれの嫡男と姫君を交換する形での三重の婚姻関係が結ばれた。これは、互いの後継者の伴侶を差し出すことであり、事実上の人質交換にも等しい、極めて重い意味を持つ血の盟約であった 8 。
具体的には、以下の三つの政略結婚が、同盟の根幹を形成した。
- 甲駿同盟の強化: 天文21年(1552年)、今川義元の娘・嶺松院が、武田晴信の嫡男・武田義信に嫁いだ。これにより、信玄の父・信虎の代から続く両家の同盟関係は、次世代においても継続されることが保証された 8 。
- 甲相同盟の成立: 天文22年(1553年)に婚約が成立し、翌23年(1554年)12月、武田晴信の娘・黄梅院が、北条氏康の嫡男・北条氏政に嫁いだ。これにより、長年敵対することもあった武田・北条間に初めて姻戚関係が成立した 8 。
- 駿相同盟の成立: 天文23年(1554年)7月、北条氏康の娘・早川殿が、今川義元の嫡男・今川氏真に嫁いだ。これにより、河東一乱以来、緊張関係にあった今川・北条間の和睦が決定的なものとなった 8 。
これらの複雑な婚姻関係を整理すると、以下のようになる。
嫁ぎ元の家 |
姫君 |
嫁ぎ先の家 |
嫡男 |
婚姻成立年 |
今川家 |
嶺松院 |
武田家 |
武田義信 |
天文21年 (1552) |
武田家 |
黄梅院 |
北条家 |
北条氏政 |
天文23年 (1554) |
北条家 |
早川殿 |
今川家 |
今川氏真 |
天文23年 (1554) |
この表が示すように、三家は互いに娘を嫁がせ、また他家から嫁を迎え入れるという、まさに三すくみの姻戚ネットワークを構築した。この血の絆こそが、甲相駿三国同盟を戦国時代でも類を見ない、強固な同盟たらしめた最大の要因であった。
第六章:戦略的均衡の完成 ― 同盟がもたらした地政学的変化
甲相駿三国同盟の成立は、東国全体の地政学的状況を一変させた。これまで互いに牽制し合い、いつ戦端が開かれてもおかしくない緊張関係にあった甲斐・相模・駿河の三大国が、強固な協調関係に入ったのである。これにより、東国に一時的ながら安定した勢力均衡、すなわち「パクス・イマガワーナ(今川による平和)」とも言うべき状況が生まれた。
この同盟は、歴史学者の藤木久志が提唱した戦国期同盟の四つの要素―①攻守軍事協定、②相互不可侵協定、③領土協定、④婚姻―を全て満たした、極めて完成度の高いものであった 8 。彼らは互いの領土を侵さず、外部から攻撃を受けた際には協力してこれを排除することを約束した。この巨大な三国ブロックの誕生は、周辺の小規模な国人領主や大名たちにも絶大な影響を及ぼした。
例えば、関東の諸将は、これまでのように北条、上杉、武田の間を渡り歩いて自らの勢力を保つという合従連衡の選択肢を大きく狭められた。背後に武田・今川という強力な同盟国を控えた北条氏の圧力は以前にも増して強大となり、多くの関東諸将は北条氏への従属を余儀なくされた 19 。同様に、北信濃の国衆たちも、南からの脅威が消滅した武田信玄の、より一層激しい侵攻に晒されることになった。
このように、甲相駿三国同盟は、単に三国間の関係を安定させただけでなく、その強力な軍事的・政治的圧力によって、東国全体の政治秩序を再編する巨大な地殻変動を引き起こしたのである。三国の安定は、周辺勢力にとっての不安定化を意味した。そして、この新たな均衡の上で、三人の英雄はそれぞれの野望の実現へと邁進していくことになる。
第三部:それぞれの道 ― 同盟下の戦略展開
第七章:信玄、北へ ― 川中島に燃え盛る龍虎の激闘
三国同盟によって南と東の憂いを完全に断ち切った武田信玄は、その全ての軍事力を北の宿敵、上杉謙信との対決に注ぎ込むことが可能となった 15 。信濃の覇権、とりわけ北信濃の善光寺平(川中島)の支配を巡る両雄の戦いは、同盟成立を境に、より一層激しさを増していく。
天文24年(1555年)の第二次川中島の戦いでは、両軍は実に200日以上もの長期間にわたり犀川を挟んで対峙した 5 。この長期戦が可能であったのも、信玄が兵站線を脅かされる心配なく、甲斐からの補給を維持できたからに他ならない。この戦いは今川義元の仲介によって和睦に至るが、両者の対立は収まらなかった。
そして永禄4年(1561年)、戦国史上最も有名な合戦の一つ、第四次川中島の戦いが勃発する。この時、上杉謙信は関東の諸将を率いて北条氏の小田原城を包囲していたが、その背後を突く形で信玄が川中島に進出 3 。これに激怒した謙信は、小田原城の包囲を解いて川中島へと急行した。武田軍2万、上杉軍1万3千が激突したこの戦いは、武田方の軍師・山本勘助が立案したとされる「啄木鳥戦法」と、それを見破った謙信の武田本陣への突撃など、数々の伝説を生んだ 5 。結果は両軍ともに甚大な被害を出し、決着はつかなかったものの、信玄が北信濃のほぼ全域を確保するという戦略的目標を達成した 6 。
甲相駿三国同盟という強力な後ろ盾がなければ、信玄がこれほど長期間にわたり、謙信という当代随一の戦術家と互角以上に渡り合うことは不可能であっただろう。同盟は、信玄の信濃平定事業を完遂させるための、まさに生命線として機能したのである。
第八章:氏康、東へ ― 関東管領をめぐる上杉謙信との死闘
信玄と同様に、西方の安全を完全に確保した北条氏康もまた、その全精力を関東平定事業へと傾注した 10 。彼の前に立ちはだかったのは、越後から関東管領の権威を掲げて侵攻してくる上杉謙信であった。
永禄3年(1560年)、謙信は関東の反北条勢力を結集し、10万ともいわれる大軍を率いて関東に出兵。北条方の城を次々と攻略し、翌永禄4年(1561年)には、氏康の本拠である小田原城を包囲するに至った 5 。難攻不落を誇る小田原城は籠城戦でこれに耐えたが、氏康にとって最大の危機であったことは間違いない。この時、氏康を救ったのが、同盟者である武田信玄の動きであった。信玄が謙信の背後を脅かすべく北信濃へ侵攻したため、謙信は小田原城の包囲を解かざるを得なくなったのである 3 。
その後も、氏康と謙信の関東における覇権争いは一進一退の攻防が続いた 11 。しかし、三国同盟による安定した基盤を持つ氏康は、着実に関東での支配領域を広げていく。永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦では、宿敵・里見義弘に大勝し、房総半島における影響力を拡大 10 。謙信の権威が次第に失墜していく中で、多くの関東国衆は北条氏への従属を選択していった。三国同盟は、氏康が謙信という強大な敵の猛攻に耐え抜き、最終的に関東の覇者としての地位を確立するための、揺るぎない礎となったのである。
第九章:義元、西へ ― 栄華の頂点と、桶狭間に散った天下の夢
三国同盟の最大の受益者であり、その立役者でもあった今川義元は、同盟成立によって後顧の憂いを完全に断ち、生涯最大の野望である西方経略、すなわち尾張侵攻へと乗り出した 14 。当時の今川氏は、駿河・遠江・三河の三国を領し、その石高や経済力は織田氏を遥かに凌駕していた 22 。
永禄3年(1560年)5月、義元は2万5千ともいわれる大軍を自ら率い、尾張へと進軍を開始した。その目的は、単に尾張を制圧するだけでなく、京へ上洛し、足利将軍家を庇護下に置くことで天下に号令することにあったとも言われる 14 。進軍は順調に進み、今川軍の先鋒・松平元康(後の徳川家康)は、織田方の丸根砦、鷲津砦を次々と陥落させた 23 。
勝利の報に接した義元は、大高城へ向かう途上、桶狭間山で本隊の休息を取らせていた。連戦連勝の驕り、そして三国同盟によって背後の安全が絶対に保証されているという安心感からか、今川本陣には油断の空気が漂っていたとされる 23 。まさにその時、折からの豪雨に乗じ、わずか数千の兵を率いた織田信長が今川本陣に奇襲をかけた。
不意を突かれた今川軍は大混乱に陥り、その渦中で今川義元は、織田家の家臣・毛利新介によって討ち取られてしまう 14 。享年42。海道一の弓取りと謳われた英雄の天下への夢は、戦国史上最も劇的な逆転劇によって、まさにその頂点で無残に砕け散った 24 。皮肉なことに、義元に絶対的な安全と自信を与えた甲相駿三国同盟は、その成功のゆえに彼の油断を誘い、破滅を招く遠因となったのかもしれない。歴史の歯車は、この桶狭間の一戦を境に、大きく、そして予想もつかない方向へと回転を始めることになる。
第四部:盟約の崩壊 ― 欲望と裏切りの連鎖
第十章:桶狭間の衝撃 ― 今川家の凋落と揺らぐ三国関係の礎
桶狭間における今川義元の突然の死は、東国の政治情勢に激震を走らせた。強大なカリスマ的指導者を失った今川家は、急速にその勢力を弱めていく 25 。家督を継いだ嫡男・氏真は、和歌や蹴鞠を好む文化人ではあったが、戦国大名としての統率力に欠けていた 25 。
この好機を逃さなかったのが、今川軍の先鋒として戦功を挙げながらも、主君の死によって三河岡崎城へ帰還していた松平元康(徳川家康)であった。彼は長年続いた今川氏からの軛を断ち切り、独立を宣言。さらに、かつての敵であった織田信長と清洲同盟を結び、今川領である遠江への侵攻を開始した 22 。
領内では国人領主たちの離反が相次ぎ、今川家の屋台骨は大きく揺らいだ 27 。三国同盟の要であり、三者の中で最も強大な勢力を誇っていた今川家の急激な弱体化は、同盟のパワーバランスを根本から覆すものであった。これまで保たれてきた均衡は崩れ、その力の空白は、隣国の大名たちの新たな野心を刺激するのに十分すぎるほどの魅力を持っていた。特に、北信濃で上杉謙信との不毛な戦いを続けていた武田信玄にとって、南に広がる駿河の地は、新たな標的として彼の目に映り始めていたのである 20 。
第十一章:信玄の非情なる決断 ― 駿河侵攻と甲斐武田家の内紛
上杉謙信との川中島の戦いが膠着状態に陥る中、武田信玄は戦略の主軸を大きく転換させることを決断する。その新たな目標は、かつての同盟国であり、今や弱体化が著しい今川氏の領国、駿河であった 4 。海を持たない甲斐国にとって、駿河の港は喉から手が出るほど欲しい戦略的価値を持っていた 28 。
しかし、この計画は単なる領土的野心に留まらない、重大な問題を孕んでいた。それは、同盟の証として今川義元の娘・嶺松院を正室に迎えていた嫡男・武田義信の存在である。義信は、妻の実家である今川家を攻めるという信玄の非道な計画に猛然と反対した 18 。これは、婚姻に基づく「信義」を重んじる義信と、変化したパワーバランスに基づく「実利」を優先する信玄との、価値観の根本的な対立であった。
父子の対立は深刻化し、やがて義信が謀反を企てたとして廃嫡され、東光寺に幽閉されるという悲劇的な結末を迎える 30 。嶺松院は駿河へ送り返され、甲駿同盟は事実上破棄された。そして永禄11年(1568年)12月、信玄は徳川家康と大井川を境に今川領を分割するという密約を結び、駿河への侵攻を開始した 4 。嫡男の命と長年の盟約を犠牲にしてまで領土拡大を追求する信玄の非情な決断は、戦国時代の「信義」がいかに脆く、国家の生存と拡大という冷徹な論理の前に無力であったかを象徴する出来事であった。
第十二章:友は敵に、敵は友に ― 甲相同盟の破綻と「越相同盟」の成立
信玄による裏切りの駿河侵攻は、もう一人の同盟者、北条氏康を激怒させた。氏康は、娘の早川殿を今川氏真に嫁がせており、氏真は彼の義理の息子であった。信玄の行為は、同盟違反であると同時に、北条家の面子を完全に踏みにじるものであった 30 。氏康は、窮地に陥った氏真を支援するため軍を派遣し、武田軍と敵対。ここに、14年間にわたり東国の平和を支えた甲相駿三国同盟は、完全に崩壊した 9 。
これにより、東国の外交地図は一瞬にして白紙に戻った。武田信玄という強大な敵と単独で対峙することになった氏康は、常識では考えられない驚くべき外交的転換を敢行する。それは、長年にわたって関東の覇権を争ってきた宿敵中の宿敵、上杉謙信との同盟であった 15 。
信玄の駿河侵攻は、氏康にとって、もはや謙信の存在以上に「許容できない脅威」と認識されたのである。脅威の優先順位が変動したことで、外交の枠組みそのものが再構築された。永禄12年(1569年)、氏康は謙信に関東管領の地位を正式に認めるなど、大幅な譲歩の末に同盟を成立させる 11 。これが「越相同盟」である。
三国同盟の崩壊は、単に一つの同盟が終わっただけでなく、東国全体の外交秩序をリセットする「外交革命」を引き起こした。「武田・北条・今川 vs 上杉」という長年の対立構造は完全に崩れ去り、「上杉・北条 vs 武田」という全く新しい構図が生まれた 8 。昨日の敵は今日の友となり、昨日の友は今日の敵となる。戦国時代の外交がいかに流動的で、非情な現実主義に貫かれていたかを、この一連の出来事は如実に物語っている。
終章:三国同盟が歴史に残した遺産
天文23年(1554年)に成立し、永禄11年(1568年)に崩壊するまでの約14年間、甲相駿三国同盟は東日本の政治・軍事史に絶大な影響を及ぼした。この同盟は、武田信玄、北条氏康、今川義元という三人の英雄が、それぞれの戦略目標を追求するための強力な基盤として機能した 8 。信玄は北へ、氏康は東へ、そして義元は西へ。同盟によって背後の安全を確保した彼らは、それぞれの主戦線で勢力を大きく拡大し、戦国大名としての最盛期を築き上げた。
しかし、その強固に見えた同盟も、桶狭間における義元の死という一つの綻びから、ドミノ倒しのように崩壊していった。同盟の均衡を支えていた今川家の弱体化は、信玄の野心を呼び覚まし、その裏切りが北条の離反を招いた。結局のところ、血の絆で結ばれたはずの盟約も、変化するパワーバランスと、各大名の尽きることのない領土的野心の前には、永続性を保つことができなかったのである 34 。
三国同盟の崩壊がもたらしたものは、新たな戦乱の時代の幕開けであった。武田、北条、上杉、そして徳川が入り乱れて争う、より複雑で流動的な抗争の時代が到来する。そして、この東国の混乱を尻目に、畿内では織田信長が着実に天下統一への歩みを進めていた。三国同盟の崩壊過程が、畿内における信長や将軍・足利義昭の動向と連動していたことも近年の研究で指摘されており、この同盟が日本全体の歴史の大きなうねりの中に位置づけられるべきものであることを示している 8 。
最終的に、甲相駿三国同盟は、戦国時代の同盟が持つ有効性と、その本質的な限界を同時に示す最良の事例として歴史に刻まれている。それは、一時的な安定と繁栄をもたらす一方で、その崩壊がより大きな動乱を生み出し、結果として織田信長や徳川家康といった新たな時代の覇者が台頭する土壌を準備した。一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げる、壮大なる序曲だったのである。
引用文献
- 日本史上稀な「甲相駿三国同盟」はなぜ結ばれた?三人の名将たちのそれぞれの思惑とは https://mag.japaaan.com/archives/194917
- 武田信玄と愛刀/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/sengoku-sword/favoriteswords-takedashingen/
- 【これを読めばだいたい分かる】 武田信玄の歴史 - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/n9ff28c2155cc
- 武田・北条・今川の甲相駿三国同盟…各国それぞれの事情や思惑は? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/783
- 川中島の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7085/
- 上杉謙信と武田信玄の5回に渡る川中島の戦い https://museum.umic.jp/ikushima/history/takeda-kawanakajima.html
- 川中島の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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- 北条氏康 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E5%BA%B7
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- 「北条氏康」関東支配を巡り、上杉氏と対立し続けた後北条氏3代目の生涯とは https://sengoku-his.com/368
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- 今川義元(いまがわ よしもと) 拙者の履歴書 Vol.14〜桶狭間の悲劇、三国の盟主 - note https://note.com/digitaljokers/n/na5c8b2d30004
- 越相同盟と北条氏邦 https://www.town.yorii.saitama.jp/uploaded/attachment/4108.pdf
- 太原雪斎 - BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/no2/16.html
- 太原雪斎は何をした人?「義元を育てた宰相があと少し生きていたら歴史は違った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/sessai-taigen
- 甲相駿三国同盟で嫁入りした女性たちの後半生を追う - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2295
- 甲相同盟 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E7%9B%B8%E5%90%8C%E7%9B%9F
- 「戦国でもっとも不毛な戦い」のきっかけを作った 武田×今川×北条の「三国軍事同盟」【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1011722
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- 10分で読める歴史と観光の繋がり 統治の今川義元と商業の織田信長、二人の偉才による経済戦争 桶狭間、南蛮貿易の始まり、合戦川中島と厳島/ ゆかりの熱田神宮・善光寺・世界遺産厳島と平戸の南蛮史跡 | いろいろオモシロク https://www.chubu-kanko.jp/ck.blog/2022/08/27/10%E5%88%86%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%81%AE%E7%B9%8B%E3%81%8C%E3%82%8A%E3%80%80%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E3%81%AE%E5%88%86%E3%81%8B%E3%82%8C%E7%9B%AE/
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- 越相同盟 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E7%9B%B8%E5%90%8C%E7%9B%9F
- 本郷和人 武田信玄が同盟を破り後継者を切腹させてまで駿河へ侵攻した理由とは?水軍まで創設した、信玄の「海にかける思いの強さ」について『どうする家康』 - 婦人公論 https://fujinkoron.jp/articles/-/8087?page=2