町人請負の大工事拡大(1590年代)
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天下普請と町人の黎明:1590年代、伏見巨大都市開発の時系列分析
序章:権力の頂点が描いた新都の夢
1590年(天正18年)、小田原の北条氏を滅ぼし、名実ともについに天下統一を成し遂げた豊臣秀吉 1 。戦乱の時代は終わりを告げ、彼の権力は軍事力を行使する段階から、国家の構造を再編し、新たな統治体制を構築する段階へと移行した。この巨大な権力を背景に、秀吉は太閤検地 2 や刀狩令 4 、人掃令といった社会制度の根本的改革を断行し、兵農分離を基軸とする近世社会の礎を築き上げていった。
このような国家改造計画の総仕上げとして、そして自身の絶対的な権力を天下に示す記念碑として構想されたのが、山城国伏見における壮大な新都の建設であった。伏見は、天皇の座す京、秀吉自身の本拠である大坂城、そして国際貿易港である堺を結ぶ水陸交通の結節点に位置する 5 。この地を掌握することは、畿内の政治・経済・軍事の動脈を完全に支配下に置くことを意味した。伏見の都市開発は、単なる城と城下町の建設に留まらず、秀吉が築き上げようとした新秩序を物理的な空間として体現する、一大国家プロジェクトだったのである。
本報告書が主題とする「町人請負の大工事拡大」とは、この伏見開発における特異な現象を指す。しかし、ここで言う「町人請負」は、後世の江戸時代に見られる、町人が自己資本で事業全体を主導する「町人請負新田」のような形態とは本質的に異なる 6 。1590年代の伏見における町人の役割は、あくまで豊臣政権という絶対的な権力が主導する「天下普請」の巨大な枠組みの中で、彼らが持つ資本力、物流網、そして専門技術をいかにして提供し、事業の各部分を分担・遂行したのか、という複合的な関与の形態であった。
本報告では、文禄元年(1592)の着工から慶長二年(1597)の新城完成に至るまでを詳細な時系列に沿って追跡し、この国家プロジェクトがリアルタイムでどのように進行したのかを解明する。そして、その過程で「町人」という存在が、単なる労働力や支配の対象から、国家事業に不可欠なパートナーへと変貌していく黎明期の姿を、克明に描き出すことを目的とする。
表1:伏見城・城下町建設 主要年表(1592-1598)
年月日 |
政治・軍事上の動向 |
伏見での出来事(築城・都市開発) |
関連する記録・資料 |
文禄元年 (1592) |
文禄の役 開始 |
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8月17日 |
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秀吉、隠居屋敷の地を指月の丘に決定 |
5 |
8月20日 |
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伏見屋敷の普請(工事)着工を決定 |
5 |
9月3日 |
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屋敷の建設開始 |
5 |
12月 |
秀吉、名護屋城に在陣 |
「利休好み」の意匠とするよう指示 |
10 |
文禄二年 (1593) |
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8月3日 |
豊臣秀頼、誕生 |
計画が隠居屋敷から本格的城郭へ変更される契機となる |
5 |
9月 |
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隠居屋敷が概ね完成、政治利用が開始される |
5 |
文禄三年 (1594) |
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1月3日 |
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本格的な城郭としての築城(指月伏見城)が開始される |
11 |
(時期不明) |
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全国の諸大名に「天下普請」が発令される |
12 |
4月 |
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淀古城から天守・櫓を移築 |
5 |
8月1日 |
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指月伏見城が完成し、秀吉が入城 |
10 |
10月頃 |
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宇治川の流路変更、伏見港建設などの大規模土木工事が開始 |
5 |
年末 |
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城下町の計画的な町割(区画整理)が開始 |
5 |
文禄四年 (1595) |
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7月 |
秀次事件発生、豊臣秀次自刃 |
破却された聚楽第の部材が伏見城へ移築される |
5 |
慶長元年 (1596) |
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閏7月13日 |
慶長伏見地震発生 |
指月伏見城が倒壊、甚大な被害を受ける |
14 |
閏7月15日頃 |
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直ちに木幡山での新城再建を決定、着工 |
10 |
慶長二年 (1597) |
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5月4日 |
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木幡山伏見城(慶長伏見城)の天守が完成し、秀吉が入城 |
5 |
慶長三年 (1598) |
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8月18日 |
豊臣秀吉、死去 |
伏見城にて生涯を終える |
5 |
第一章:胎動――隠居屋敷から王城へ(文禄元年~文禄二年 / 1592-1593)
伏見における巨大都市開発の物語は、当初、遥かに個人的で穏やかな計画から始まった。それは、天下人の権勢を誇示する城塞ではなく、俗世から一歩引いた「隠居屋敷」の建設であった。
【文禄元年(1592)8月】計画の始動
文禄元年(1592)8月、秀吉の動きは迅速を極めた。同月11日に自ら宇治川に臨む指月の丘周辺を視察すると、わずか6日後の17日にはこの地を建設地として最終決定。さらにその3日後の20日には普請の着工を命じている 5 。当時の公家、吉田兼見の日記『兼見卿記』にも、20日に「伏見御屋敷普請縄打仰付らる」とあり、即座に測量と設計が開始されたことが記録されている 9 。この驚異的なスピードは、秀吉の強固な意志と、彼の命令を即座に実行に移せる統治機構が確立されていたことを示している。
この時点での計画は、前年に関白の位を甥の秀次に譲った秀吉が、自らの隠居後の生活を送るための邸宅を構えるというものであった 5 。
【同年9月~12月】初期工事と設計思想
9月3日に建設が始まると 5 、工事は急ピッチで進められた。そして同年12月、朝鮮出兵(文禄の役)の拠点である肥前名護屋城に在陣していた秀吉は、普請を担当する前田玄以に宛てて一通の書状を送る。そこには、建物を「利休好み」の風情で造るように、との指示が記されていた 10 。
この指示は単なる建築様式の指定に留まらない、深い政治的含意を持っていた。前年に自刃に追い込んだ茶人・千利休の名をあえて持ち出すことで、秀吉は自らが利休亡き後も茶の湯文化の最高の理解者であり、その権威の継承者であることを示そうとした。同時に、利休に代表される堺の豪商たちが持つ経済力と文化的影響力を、自らが創造する新しい都市・伏見に取り込もうとする明確な意思表示でもあった。利休という当代随一のブランドを利用し、伏見の文化的価値を建設当初から最大限に高めようとしたのである。
【同年】最初の都市機能の移転
屋敷の建設と並行して、秀吉は早くも都市機能の移植に着手していた。自身の政庁であった聚楽第の城下町から、多くの商人や職人を伏見へと移住させたのである 5 。現在の伏見の地に「聚楽町」や「朱雀町」といった地名が残っているのは、この歴史の紛れもない証拠である 5 。これは単なる人口の移動ではなかった。移住したのは、聚楽第の経済を支えていた商人や職人たちであり、彼らは資本、技術、そして全国に広がる商業ネットワークをそのまま伏見に持ち込んだ。秀吉は、ゼロから都市の経済を育てるという時間のかかるプロセスを省略し、いわば成功した都市の機能一式をパッケージとして移植するかのような、極めて合理的かつ効率的な手法で、新都の早期立ち上げを図ったのである。
【文禄二年(1593)8月3日】画期となる秀頼の誕生
文禄二年(1593)8月3日、側室の淀殿が拾丸、すなわち後の豊臣秀頼を出産した 5 。この一人の赤子の誕生が、伏見の運命を、そして豊臣政権の未来をも根底から変えることになる。待望の嫡男を得たことで、秀吉の関心は自身の隠居生活から、後継者・秀頼を頂点とする豊臣家の安泰へと完全に移行した。
これにより、伏見の役割も劇的に変化する。秀頼が本拠とする大坂城を補佐し、太閤である自身が実権を振るい続けるための、新たな政治中枢としての機能が求められるようになったのである。伏見は、もはや個人的な隠居屋敷ではあり得なくなった。それは、日本の国威を見せつけ、豊臣政権の永続性を担保するための「王城」でなければならなかった。
この年の9月には、隠居屋敷は概ね完成し、伊達政宗との対面や徳川家康、前田利家を招いての茶会が催されるなど、早速政治の舞台として活用され始めている 5 。しかし、秀吉の頭の中では、すでにこの邸宅を遥かに凌駕する壮大な城郭都市への拡張計画が動き出していたのであった。
第二章:国家プロジェクトの始動――指月城と城下町の一体的建設(文禄三年 / 1594)
秀頼の誕生と、本格化する明との和平交渉を背景に、伏見の建設プロジェクトは「隠居屋敷」から「王城」へと完全にその姿を変え、国家の総力を挙げた巨大事業として本格的に始動した。文禄三年(1594)は、城郭本体の建設、大規模なインフラ整備、そして計画的な城下町建設が一体となって、猛烈なスピードで推し進められた年であった。
【文禄三年(1594)1月~】天下普請の発令と本格的な築城開始
年が明けた文禄三年(1594)1月3日、伏見は本格的な城郭としての建設段階に入った 11 。普請奉行には佐久間政実らが任命され、工事全体を統括した 5 。そして、この巨大事業を遂行するため、秀吉は全国の諸大名に対し「手伝普請」、すなわち「天下普請」を命じた 12 。
これは、豊臣政権下で確立された大規模な公儀普請の動員システムであり、各大名は保有する領地の石高に応じて、人足(労働力)や資材を提供する義務を負うものであった 12 。当時の記録である『伏見普請役之帳』には、筆頭の徳川家康(240万石)から、上杉景勝(55万石)、佐竹義宣(53万石)に至るまで、140家以上の大名が名を連ねている 13 。例えば家康に対しては、1万石あたり24人の人足を供出するよう具体的な指示がなされており、単純計算で5700人以上が動員されたことになる 13 。この天下普請は、単に労働力を確保する手段であるだけでなく、戦時における軍役負担の論理を平時に応用した、極めて高度な大名統制策でもあった。諸大名に普請という形で継続的な経済的・人的負担を強いることでその力を削ぎ、豊臣政権への忠誠を具体的に示させる、一種の踏み絵として機能したのである。
【同年4月~】資材の調達と建設の進行
普請の命令一下、全国から膨大な資材が伏見へと集められた。石垣に用いる巨石は風光明媚な讃岐国小豆島から、建築用材は土佐国や出羽国といった遠隔地、さらには秀吉の直轄領であった木曽からも切り出され、輸送された 5 。また、工期を短縮し、壮麗な建築物を迅速に揃えるため、秀吉は既存の城郭からの部材転用を積極的に行った。特に、側室である淀殿の居城であった淀古城からは、天守や櫓そのものが解体・移築された 5 。これは、天下人の権力の前には既存の城すらも単なる資材に過ぎないことを示す、強烈な政治的パフォーマンスでもあった。
【同年8月1日~10月】指月城の完成と巨大インフラ整備の着手
驚異的な速度で建設は進み、同年8月1日、秀吉は収穫の始まる吉日である八朔を選び、完成した指月伏見城へと入城した 10 。しかし、秀吉の構想は城郭の完成だけに留まらなかった。同年10月頃からは、伏見を日本の新たな中枢たらしめるための、空前の規模のインフラ整備が開始される。
その核心は、宇治川水系の抜本的な改造であった。当時、宇治川は広大な巨椋池に流れ込んでいたが、秀吉はこの流路を人為的に分離・変更し、伏見城の東側を流れるように付け替えた 5 。これにより、宇治川は城の天然の外濠となると同時に、大坂と京を結ぶ大動脈としての水運機能を飛躍的に向上させた。さらに、宇治川との合流地点には大規模な港(伏見港)が建設され、伏見は京都の外港としての地位を確立した 20 。陸路においても、巨椋池の中を貫く長大な堤(小倉堤、通称「太閤堤」)を築き、その上に新たな奈良街道を通して、大和・伊勢方面からのアクセスを改善した 5 。
この一連の土木事業は、単なる利便性の向上を目的としたものではない。それは、西国から京へと向かう全ての物資と人の流れを、伏見という自らの拠点に強制的に経由させることで、経済と情報を完全に掌握しようとする、秀吉の壮大な戦略思想の現れであった。
【同年末~】城下町の計画的建設(町割)
城とインフラの建設と並行し、同年末からは計画的な城下町の建設、すなわち「町割」が開始された。『駒井日記』には、浅野長政、前田玄以、増田長盛といった奉行衆が、大名屋敷や家臣団の屋敷地の区画整理を指揮したと記録されている 5 。
この新しい都市を建設するにあたり、古くからこの地にあった「伏見九郷」と呼ばれる農村の住民たちは、強制的に移住させられた 5 。計画都市の建設にとって、既存のコミュニティは障害と見なされたのである。そして、更地となった広大な土地に、城郭を中心に武家地が、その外周に町人地が、計画的に配置されていった。発掘調査の結果からも、武家地と町人地が一体的に、同時に設計されたことが示唆されている 16 。この、城・武家地・町人地が一体となった計画的な都市構造は、兵農分離後の新しい身分秩序を空間的に固定化する装置であり、まさに全国に先駆けて誕生した近世城下町の原型であった 5 。
第三章:「町人」の役割と実像――請負、調達、そして都市の担い手として
豊臣秀吉が主導した伏見の巨大開発は、諸大名から徴発した労働力、すなわち「天下普請」の力のみで成し遂げられたわけではない。その背後には、勃興しつつあった「町人」階級の資本力、物流ネットワーク、そして専門技術が不可欠な要素として組み込まれていた。本章では、このプロジェクトにおける「町人請負」の実態を、①豪商による機能の請負、②専門技術者集団による技術の請負、③一般町人による経済活動の請負、という三つの側面から多角的に解き明かす。
3.1 「請負」概念の再定義
まず明確にすべきは、1590年代における「請負」が、後世のそれとは意味合いを異にするという点である。江戸時代中期以降に本格化する「町人請負新田」に代表されるように、後の時代の「請負」は、町人が自己資金を投じて事業全体を企画・実行し、その成果から利益を得る、現代のデベロッパーに近い形態を指す 6 。
しかし、伏見普請は、あくまで豊臣政権という絶対的な公権力が企画・主導する国家事業であった。ここでの「請負」とは、事業全体の委託ではなく、政権が定めた巨大プロジェクトの個別の機能や工程(例えば、特定地域からの木材の調達と輸送、特定の区画の石垣の構築など)を、その分野で専門的な能力を持つ町人たちが分担・実行することを意味する。それは、政権を頂点とする巨大なサプライチェーン・マネジメントの構造の中で、町人が重要なサプライヤーや専門業者として機能した、と理解するのがより実態に近い。
3.2 豪商の活躍――物流と金融の請負人
このサプライチェーンの中核を担ったのが、茶屋四郎次郎に代表される「御用商人」たちであった。彼らは単なる商人ではなく、政権と深く結びつき、その経済活動を通じて国家事業に奉仕する、いわば経済官僚のような役割を果たした。
彼らの最も重要な機能は、全国に張り巡らせた自身の商業ネットワークを駆使した、資材の調達と輸送であった 23 。政権の命令一下、彼らは木材、石材、鉄、そして数十万人にのぼる人夫たちの食料といった膨大な物資を、遠隔地から伏見の工事現場まで滞りなく供給した。これは、巨大普請の兵站線を維持する生命線であり、彼らが「請け負った」最も重要な機能であった。
また、普請には莫大な資金が必要となる。豪商たちは、豊臣政権の直轄地である蔵入地の管理を任されたり 26 、大名への資金貸付を行ったりすることを通じて、プロジェクト全体の資金繰りにも深く関与していたと考えられる 28 。彼らの強大な資本力なくして、これほどの大工事を長期間にわたって維持することは不可能であった。
秀吉は、こうした御用商人たちの貢献に対し、朱印状を与えて海外貿易を独占させる 23 、特定の関所の通行税を免除する 30 といった特権を付与することで報いた。これは、政権と商人の間に築かれた、奉仕と見返りを基礎とする強固な相互依存関係を示している。彼らの活動は、単なる利益追求を超え、公共事業への貢献を通じて自らの社会的地位と商業的利益を確保するという、より大きな視野に基づいていた。これは、後に近江商人が理念として掲げる「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」の精神の原型とも見なすことができる 31 。
3.3 専門家集団の力――技術の請負人
伏見城の威容を象徴する壮大な石垣。これを築き上げたのは、近江坂本を拠点とする穴太衆(あのうしゅう)に代表される、高度な専門技術を持つ石工集団であった 33 。彼らは、代々受け継いできた特殊な技術を武器に、独立したプロフェッショナル集団として活動していた。
天下普請において、彼らは諸大名に一時的に召し抱えられたり、あるいは奉行衆から直接、特定の工区の施工を「請け負う」形でプロジェクトに参加した。これは、労働力ではなく、その高度な専門技術そのものを商品として提供する、まさに「技術の請負」であった。伏見のような巨大プロジェクトは、大工、石工、鍛冶、輸送業者など、多種多様な職能を持つ人々を一つの目的のために集結させ、協業させる場となった。これは、中世的な同業者組合である「座」とは異なる、より流動的で大規模なプロジェクトベースの組織体制の始まりであり、近世的な建設業界の組織構造へと繋がる重要な一歩であった。
3.4 都市経済の基盤――生活と商業の担い手
聚楽第や堺、大坂といった先進都市から計画的に移住させられた商人や職人たちもまた、広義の「請負人」であった 5 。彼らが請け負ったのは、この新しい都市の経済活動そのものであった。彼らは伏見の町人地に店を構え、商品を売買し、サービスを提供することで、建設事業に従事する数万人の武士や人夫たちの旺盛な需要に応えた。彼らの活動によって、伏見は単なる巨大な工事現場ではなく、自律的な経済機能を備えた生きた都市として機能し始めた。この強固な経済基盤の形成こそが、天災による壊滅的な被害すら乗り越えて、長期にわたる大工事を支え続けた原動力となったのである。
表2:伏見普請における各主体の役割分担モデル
主体 |
計画・指揮 |
労働力(人足) |
資金 |
資材(石・木材等) |
専門技術 |
物流・輸送 |
経済基盤の形成 |
豊臣政権(奉行衆) |
◎ |
△ (直轄領から) |
◎ |
◎ (直轄領から) |
△ (配下職人) |
◯ |
◎ |
諸大名 |
|
◎ |
◎ |
◎ |
△ (配下職人) |
◯ |
|
豪商(御用商人) |
|
|
◯ |
◯ |
|
◎ |
◯ |
専門職人集団(穴太衆など) |
|
△ (配下職人) |
|
|
◎ |
|
|
一般町人(移住民) |
|
|
△ (商業資本) |
△ (商品として) |
△ (各種職人) |
△ (小規模輸送) |
◎ |
(凡例) ◎:主たる役割、◯:重要な役割、△:部分的な役割
第四章:天災と不屈――慶長伏見地震と木幡山への遷都(慶長元年~慶長二年 / 1596-1597)
文禄四年(1595)の秀次事件を経て、破却された聚楽第の壮麗な部材が伏見へと移築され、指月伏見城はその完成度を一層高めていた 5 。天下人の新たな居城は、まさに完成の時を迎えようとしていた。しかし、その栄華の頂点で、未曾有の天災が伏見を襲う。
【慶長元年(1596)閏7月13日】大地震、指月城の崩壊
慶長元年(1596)閏7月13日の深夜、京都一帯をマグニチュード7.5と推定される巨大地震、いわゆる慶長伏見地震が襲った 14 。完成したばかりの指月伏見城は、この激震に耐えられなかった。壮麗を誇った天守閣は轟音とともに倒壊し、櫓や城門もことごとく大破。城内では女中を含む多数の人間が圧死したと記録されている 14 。秀吉自身は幸いにも難を逃れたが、心血を注いで築き上げた城が一夜にして瓦礫の山と化した光景は、天下人に大きな衝撃を与えた。秀吉は築城の際、書状で「なまづ(地震)大事にて」と、地震対策に万全を期すよう指示していたが、その懸念は最悪の形で現実のものとなったのである 10 。
【直後】木幡山での再建決定と超突貫工事
通常であれば、これほどの天災は政権の権威を揺るがし、人心の動揺を招く。しかし、秀吉の対応は常人のそれを遥かに超えていた。彼はこの絶望的な状況に屈するどころか、地震発生からわずか数日後には、指月の丘の北東に位置する、より地盤の固い木幡山(こはたやま)での新城再建を即座に決定し、工事に着手させたのである 10 。
この再建工事の様相は、凄まじいものであった。当時の僧侶の日記『義演准后日記』には、「夜ヲ日ニ転シ、松明灯シ連レ(夜を昼に変え、松明を灯し連ねて)」と記されており、昼夜を問わず工事が続けられた超突貫作業であったことが窺える 10 。この危機的状況は、豊臣政権にとってのいわば「ストレステスト」となった。そして秀吉は、この試練を乗り越えることで、自らの権力が自然の猛威すら凌駕することを見せつけるための絶好の機会へと転化させたのである。
驚異的な建設速度を可能にした要因
着工からわずか1年足らずで新城を完成させるという、にわかには信じがたい偉業を可能にした要因は、三つあった。
第一に、 倒壊した指月城の建材の徹底的な再利用 である 10 。利用可能な木材や石材は全て瓦礫の中から回収され、新城の資材として活用された。
第二に、 破却された聚楽第の部材の全面的な投入 である。前年の秀次事件により、壮麗な聚楽第は解体される運命にあった。この、いわば「日本で最も豪華な資材のストック」が、このタイミングで全面的に伏見の再建に投入された 5 。これにより、資材調達の時間が劇的に短縮されるとともに、以前にも増して豪華絢爛な殿舎の建設が可能となった。秀次の政治的悲劇と地震という自然災害。この二つの全く異なる事象が、結果として伏見城をより壮麗で強固なものへと昇華させるという、歴史の皮肉な偶然がそこにはあった。
そして第三の要因が、この時までに完全に確立されていた 天下普請という国家動員システム の存在である。秀吉の命令一下、再び全国の諸大名から膨大な労働力と資材が迅速に動員され、この超高速建設を支えた。
【慶長二年(1597)5月】新城の完成と移徙
かくして、着工から1年も経たない慶長二年(1597)5月には、木幡山に本丸、天守、殿舎が完成した 10 。『義演准后日記』は、5月4日に秀吉が新城の天守丸へと移ったことを記録している 5 。この新たに築かれた木幡山伏見城は、指月城を遥かに凌ぐ規模を持ち、山全体を要塞化した巨大城郭であった 10 。秀吉は、天災による壊滅的な被害を乗り越え、以前にも増して強固で壮麗な拠点を手に入れたのである。そして、その翌年、慶長三年(1598)8月18日、天下人・豊臣秀吉はこの城でその波乱の生涯を閉じた 5 。
結論:伏見モデルの遺産――近世都市と公民連携の萌芽
1590年代に展開された伏見の巨大都市開発は、単に一つの城と町を造り上げたに留まらない、日本の歴史に深く刻まれる画期的な事業であった。それは、豊臣政権が完成させた新たな国家統治のモデルケースであり、その遺産は後の近世社会の隅々にまで及んでいる。
第一に、伏見普請は**「天下普請」という国家事業遂行システムを完成させた**点に大きな意義がある。大坂城や聚楽第の建設で試行されたこのシステムは、伏見において全国規模で恒常的に運用可能な制度として確立された。石高に応じて諸大名に軍役ならぬ「普請役」を課すというこの手法は、徳川幕府にも継承され、江戸城や名古屋城の建設、さらには大規模な治水事業など、近世日本の国土形成の基本モデルとなった 12 。
第二に、伏見は 近世城下町の原型を創出した 。城郭を中心に、武家地と町人地を計画的に配置し、広域の陸路・水路交通網と有機的に結びつけるという都市設計思想は、伏見において初めて壮大なスケールで実現された 5 。戦国時代の城が持っていた純粋な軍事拠点としての性格と、都市が持つ経済・政治拠点としての性格とを高度に融合させた伏見の姿は、以後、全国各地で築かれる城下町の規範となったのである。
第三に、そして本報告の核心であるが、伏見開発は 近世的な公民連携の萌芽 であった。このプロジェクトにおける豊臣政権と町人たちの関係は、権力による一方的な支配や収奪の関係ではなかった。それは、政権(公)が港湾、街道、そして治安といったインフラを提供し、その基盤の上で町人(民)が自由な経済活動を行い、その活動を通じて得た資本と技術をもって国家事業に貢献するという、一種の共存・協業関係であった。
この文脈において、1590年代の「町人請負」の歴史的意義は明らかとなる。それは江戸時代のような民間主導の事業ではなかったが、国家が設定した壮大な目標に対し、民間である町人がその専門的能力をもって事業の各部分を分担・遂行するという、近世的な社会分業の始まりを告げるものであった。豪商は物流と金融を、専門職人集団は高度な技術を、そして一般町人は都市の経済的活力を「請け負った」。この経験を通じて、町人階級は経済力を蓄積し、社会における存在感を飛躍的に高めていった。伏見の石垣や堀の一つひとつに、そしてその町筋の区画の一つひとつに、戦国乱世を乗り越えた新たな時代の担い手として、歴史の表舞台に登場し始めた町人たちの確かな息吹が刻まれているのである。
引用文献
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- 1590年 秀吉が天下統一をする。 「秀吉統一後旧例となった荘園制」 https://www.hamajima.co.jp/rekishi/nengo/files/pdf/35.pdf
- 全国統一を成し遂げた豊臣秀吉:社会安定化のために構造改革 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06906/
- 豊臣秀吉の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34168/
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- 「べらぼう」後に徹底排除される田沼意次(渡辺謙)!なぜ彼は”悪の汚職政治家”のレッテルを貼られたのか?【後編】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/248493/2
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- 翔べ 薩摩土手31 全国の大名を動員した公共事業としての側面 ①天下普請 - note https://note.com/saimonasuka/n/n0e4a0eb80efe