最終更新日 2025-09-20

町人請負普請拡大(1595)

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文禄四年 大坂町人請負普請拡大の構造分析:戦国から近世への社会経済的転換点

序章:問題の提起

本報告書は、文禄四年(1595)に大坂において観察された「町人請負普請の拡大」という事象を、単なる建設技術史の一コマとしてではなく、戦国時代から近世へと移行する日本の社会経済構造の変動を象徴する画期として捉え、その多層的な要因と歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。利用者様が提示された「摂津国:大坂:都市普請に請負制度が広がる」という基本認識を基点に、その背景、メカニズム、そして帰結を深く掘り下げるものである。

本報告書が探求する核心的な問いは、「なぜ1595年という特定の年に、大坂という場所で、町人が主体となる普請が『拡大』したのか」という点にある。この事象は、単なる偶発的な出来事であったのか、それとも戦国時代を通じて進行した構造変化が必然的にもたらした帰結であったのか。この問いに答えるため、まず報告の前提となる普請に関わる三つの主要概念を明確に区別し、定義する。

  1. 夫役(ぶやく) : 中世以来の伝統的な労働力徴発制度であり、領民が領主に対して負う、身分に基づいた労働奉仕の義務を指す 1 。これは、非貨幣経済を基盤とする封建社会の根幹をなす制度であった。
  2. (御)手伝普請(てつだいぶしん) : 豊臣政権や江戸幕府が、全国の諸大名に対し、その領地高(石高)に応じて課した大規模な土木建築工事の負担である 3 。これは単なるインフラ整備に留まらず、大名の財力と軍事力を削ぎ、中央集権体制を強化するための高度な政治的統制手段としての側面を強く持っていた 5
  3. 町人請負普請 : 豊臣政権のような権力主体が、町人(特に資本力のある商人)と契約を結び、金銭を対価として普請事業の完成を委託する形態を指す。これは貨幣経済と対等な契約関係を前提とする、近代的公共事業の萌芽と見なすことができる。

これらの概念を比較検討する中で、極めて重要な構造転換が浮かび上がる。「夫役」や「手伝普請」における「役」という言葉は、身分や地位に付随する、上から下への一方的な「義務」を本質としている。これは封建的な主従関係や支配・被支配関係の枠内で行われる行為である。それに対し、「町人請負普請」の「請負」という言葉は、発注者と受注者が特定の業務の完成を約し、その対価の支払いを約束するという、双務的な「契約」を意味する。ここでの評価基準は身分ではなく、資本力、技術力、そしてプロジェクトを完遂させる経営能力である。

したがって、1595年に大坂で起きたとされる事象は、単なる建設手法の変更ではない。それは、武士階級が独占してきた社会資本整備という国家の根幹的権能の一部が、資本を持つ町人階級へと移譲され始めたことを示す、社会のパラダイムシフトの兆候であった。すなわち、戦国乱世を規定した「武」の論理から、近世社会を動かす「富」の論理への移行を象

徴する、決定的な転換点だったのである。

第一章:背景―普請制度の変容と豊臣政権の都市構想

第一節:戦国大名の領国経営と伝統的普請役

戦国時代を通じて、大名による領国経営の根幹を支えたのは、領民に課せられた年貢と夫役であった。特に夫役は、城郭の築造や修繕、河川の治水、道路の整備といった領内のインフラ整備に不可欠な労働力供給源であった 6 。農民は、土地を耕作して年貢を納めるだけでなく、領主の命令一下、労働力を提供する義務を負っていたのである 2 。この制度は、貨幣経済が未発達な社会において、領主が大規模な事業を遂行するための唯一無二の手段であった。

しかし、この伝統的な夫役制度には構造的な限界が存在した。第一に、動員されるのは基本的に領内の農民であり、高度な専門技術を要する複雑な普請には必ずしも適していなかった。第二に、農繁期には労働力の動員が困難であり、事業の計画性や迅速性に大きな制約をもたらした 1 。さらに、動員できる範囲も自領内に限定されるため、国家規模の巨大プロジェクトには対応しきれないという問題も抱えていた。戦国時代の恒常的な戦争状態は、普請役の負担を常態化させたが 6 、その本質はあくまで領主と領民の身分に基づく支配関係の延長線上にあった。

第二節:天下普請の時代―豊臣秀吉の巨大公共事業

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、その絶大な権力を背景に、従来とは比較にならない規模の巨大公共事業を次々と断行した。天正11年(1583)から始まる大坂城の築城 8 、聚楽第の造営、そして京都の防衛と都市改造を目的とした御土居の建設 9 など、その事業は国家の威信を示す壮大なものであった。秀吉はこれらの巨大普請を、全国の諸大名に「御手伝普請」として分担させた 3

この手伝普請には、二重の目的が内包されていた。表向きの目的は、天下統一事業の円滑な遂行であるが、その裏には、諸大名の財力を消耗させ、彼らが軍事力を蓄える余力を削ぐという、極めて高度な政治的意図が隠されていた 5 。大名たちは、普請に必要な資材の調達から人足の動員まで、全ての費用を自己負担で賄わなければならず、その財政的負担は過重を極めた 3 。手伝普請は、まさに普請の政治利用の極致であり、豊臣政権の中央集権体制を盤石にするための巧妙な装置として機能したのである。

さらに秀吉は、普請の運営方法においても革新的な手法を導入した。それが「割普請」である 11 。これは、巨大な工事区域を複数の工区に細分化し、それぞれを各大名に割り当てる方式である。各大名は隣接する工区の進捗状況を目の当たりにしながら作業を進めるため、自然と競争意識が生まれ、工事の迅速化と品質向上が促された。この手法は、単に労働力を徴発するだけでなく、普請事業そのものに効率性と成果主義という概念を持ち込む画期的な試みであった。

この手伝普請と割普請の導入は、意図せずして、後の町人請負が生まれる土壌を耕すことになった。従来の夫役が「定められた期間、労働奉仕する」というプロセス重視の義務であったのに対し、割普請では、各大名は担当工区を期日内に、かつ見栄え良く完成させるという「結果」に対して責任を負うことになった。これにより、各大名の家臣団内部では、いかに効率的にプロジェクトを管理し、成果物を納品するかという、より近代的な経営感覚が求められるようになった。この「義務の遂行」から「成果物の納品」への意識の変化こそが、封建的な「役」の概念を内部から突き崩し、金銭を対価に特定の成果を約束する「請負契約」の論理が受け入れられる素地を形成したのである。秀吉の政治的野心が、結果的に社会経済システムの変革を促したという点は、歴史の逆説的な側面を示している。

第二章:新たな担い手―資本を蓄積する町人層の勃興

第一節:戦国末期の経済発展と商人資本の形成

戦国時代後期、絶え間ない戦乱の裏側で、日本の経済構造は大きな変貌を遂げつつあった。多くの戦国大名は、富国強兵策の一環として、領内の鉱山開発、特産品の奨励、そして商業の振興に力を注いだ 12 。特に織田信長が推進した楽市楽座政策は、座のような同業者組合の特権を打破し、自由な商業活動を促進することで、地域の市場経済を活性化させた 12

この流れを決定づけたのが、豊臣秀吉の経済政策であった。全国的な太閤検地と刀狩は兵農分離を徹底させ、武士と農民、そして商工業者という職能ごとの分化を促した 13 。また、全国の主要な鉱山や都市を直轄地(蔵入地)として掌握し、そこから上がる莫大な収益を政権の財政基盤とした 14 。これにより、年貢米に依存した農業経済から、貨幣を媒介とする商業経済へと、社会の重心が大きくシフトし始めた。

この大変革の中心地となったのが、秀吉が本拠地と定めた大坂であった。秀吉は、石山本願寺の跡地に壮麗な大坂城を築くとともに、計画的な城下町の整備に着手した 8 。そして、堺や京都、伏見などから有力な商人たちを強制的に移住させ、大坂を政治・経済の中心地として育成した。全国の蔵入地から集められた米や物資は、大坂の蔵屋敷に集積され、ここで取引された。こうして大坂は、文字通り「天下の台所」としての原型を形成し、一部の豪商のもとには莫大な富が蓄積されるようになった。彼らの富は、時には「有徳銭」といった形で課税対象となるほど巨大なものであった 15

第二節:請負商人(コントラクター)の登場―淀屋常安の事例を中心に

こうした経済的活況の中から、新たな時代の要請に応える新しいタイプの商人が登場する。それが、普請事業を専門的に請け負う「請負商人」である。その代表格であり、時代の象徴ともいえる人物が、淀屋常安(初代)であった 16

山城国の武家の出身とされる常安は、商人へと転身し、その類稀なる才覚を発揮する 17 。彼の名を一躍高めたのは、文禄三年(1594)に始まった伏見城の築城工事での出来事であった。大手門の工事現場に散在する巨石の撤去作業は、あまりの困難さから誰も請け負い手がなかった。しかし常安は、他の業者の十分の一という破格の値段でこれを請け負うと、巨石を動かすのではなく、その場に大穴を掘って滑り落として埋めるという、意表を突く方法で瞬く間に問題を解決してしまった 17 。この合理的な発想と実行力は秀吉の目に留まり、これ以降、常安は豊臣政権の土木事業に深く関与していくことになる。

重要なのは、常安が単なる土木業者ではなかったという点である。彼は土木請負業を核としながら、材木商、運輸倉庫業、さらには全国の米取引を差配する米市場の開設、そして諸大名に資金を融通する金融業(大名貸し)へと、次々に事業を拡大していった 19 。これは、普請に必要な資材の調達、労働力の確保、施工管理、物流、そして資金繰りという、プロジェクトの全工程を自社グループ内で完結させる、現代の総合建設業(ゼネコン)にも通じる垂直統合型のビジネスモデルであった。

淀屋常安の成功の本質は、個別の土木技術の優位性というよりも、普請という複雑なプロジェクト全体を完遂させるための「問題解決能力(ソリューション)」を提供した点にある。伏見城の巨石問題において、他の業者が「どうやって石を動かすか」という技術論に固執したのに対し、常安は「石を無くす」という目的を達成するために、最も経済合理的な「埋める」という解決策を提示した。これは、武士階級の「家臣団を動員して自前でやり遂げる」という伝統的な発想とは全く異質のものであった。常安は、豊臣政権という巨大なクライアントに対し、専門的なプロジェクトマネジメントサービスを提供する外部パートナーとして振る舞ったのである。彼の登場は、普請という事業が、もはや武家の専有物ではなく、資本と経営能力を持つ町人のビジネス領域へと変貌しつつあったことを明確に示している。

第三章:転換点としての文禄四年(1595)―時系列で見る事象の展開

文禄四年(1595)という年が、なぜ「町人請負普請拡大」の画期となったのか。その答えは、この年に豊臣政権を揺るがした未曾有の政治的危機と、それによって生じた権力構造の空白を抜きにしては語れない。この年の政治動向と普請事業の関連性を時系列で追うことで、事象の背景にある因果関係が鮮明になる。

政治・軍事動向

普請関連動向

1月-6月

文禄の役の講和交渉が進行。諸大名は依然として名護屋城周辺に在陣し、朝鮮半島との緊張状態が続く 22

大坂城および城下町、伏見城などの普請は継続的に進行中 8 。普請の主たる担い手は、従来通り諸大名による手伝普請が中心であったと推測される。

7月

【秀次事件勃発】 7月8日、関白・豊臣秀次に謀反の嫌疑がかけられる。7月15日、秀次は高野山にて切腹 22

政治的混乱により、大名動員を前提とする手伝普請は事実上の機能停止状態に陥る。

8月

秀次の妻子三十数名が三条河原で処刑される。連座して多数の大名・公家が処罰(改易・減封・蟄居)される。諸大名は秀頼への忠誠を誓う起請文の提出を求められ、政権内は疑心暗鬼に包まれる 24

秀吉は、政権の動揺を抑え、幼い秀頼を中心とする新体制の権威を示すため、大坂城のさらなる拡張(三の丸普請など)の継続を急務とする 25

9月-12月

秀吉による権力の再集中と、石田三成ら奉行衆を中心とした実務体制の再構築が進む。

【町人請負の拡大】 機能不全に陥った手伝普請の代替策として、大坂の町人(淀屋常安など)への普請発注が急増。政治的リスクがなく、資本と実行力を持つ町人が、普請事業の主要な担い手として全面的に活用される。

第一節:政変前夜―文禄期の朝鮮出兵と大坂の都市開発

文禄元年(1592)に始まった朝鮮出兵(文禄の役)は、豊臣政権、特に西国大名に多大な軍事的・経済的負担を強いていた。文禄四年に入ると、明との間で講和交渉が進められていたものの、依然として多くの大名はその軍勢とともに九州の名護屋城周辺に在陣しており、兵站の維持に追われる日々が続いていた 22 。彼らの国元は疲弊し、大規模な普請に動員される余力は大きく削がれていた。

その一方で、秀吉の政権基盤である大坂では、城と城下町の建設・拡張が継続的に行われていた。これは、豊臣政権の威光を内外に示し、統治の拠点としての機能を強化するための最重要国家事業であった 8 。この時期、普請の担い手は依然として諸大名に課せられる手伝普請が主軸であったと考えられるが、その遂行には既に多くの困難が伴っていたことは想像に難くない。

第二節:激動の1595年:秀次事件とその衝撃

こうした膠着した状況を根底から覆したのが、文禄四年七月に突如として発生した「秀次事件」であった。秀吉の養子であり、関白の位にあって後継者と目されていた甥の豊臣秀次に対し、謀反の嫌疑がかけられたのである。秀次は弁明の機会も与えられぬまま高野山へ追放され、七月十五日に切腹を命じられた 22

政変はこれに留まらなかった。八月に入ると、秀吉は秀次の妻子や側室、侍女ら三十数名を京都の三条河原で公開処刑するという凄惨な粛清を断行。さらに、秀次と近しい関係にあった大名や公家たちも連座させられ、改易、減封、蟄居といった厳しい処分を受けた。豊臣政権の有力大名たちは、いつ自らに嫌疑が及ぶか分からぬ疑心暗鬼に陥り、こぞって幼い秀頼への忠誠を誓う起請文を提出するなど、自己保身と政治工作に明け暮れた 24 。この大粛清により、豊臣政権の統治機構は一時的に麻痺し、深刻な機能不全に陥った。

第三節:「請負拡大」の実態―政治的空白を埋める経済合理性

この未曾有の政治危機は、普請事業のあり方に決定的な影響を与えた。秀吉は、自らの権力が揺らいでいる時だからこそ、大坂城の拡張(三の丸普請など)や城下町の整備を滞りなく進め、政権の健在ぶりを天下に示す必要があった 25 。しかし、その普請の主たる担い手であったはずの大名たちは、秀次事件の対応に追われ、また下手に動員に応じれば新たな嫌疑をかけられかねないという政治的リスクから、身動きが取れない状態にあった。手伝普請というシステムが、その担い手の政治的麻痺によって完全に機能不全に陥ったのである。

国家事業は待ったなしの状況。しかし、伝統的な担い手は使えない。この政治的・軍事的な担い手の機能不全という「空白」を埋める存在として、豊臣政権が白羽の矢を立てたのが、大坂に拠点を持ち、莫大な資本、専門技術、そして広範な労働力調達ネットワークを持つ町人、すなわち淀屋常安に代表される請負商人たちであった。

秀吉、あるいは石田三成ら実務を担う奉行衆は、この危機的状況を乗り切るための最も合理的かつプラグマティックな選択として、従来、大名に割り振っていた普請事業を、実績のある町人たちに積極的に発注したと考えられる。これが、1595年における「町人請負普請拡大」の真相であろう。それは、計画的に準備された制度改革というよりは、政治的危機が生んだ緊急避難的な措置であった可能性が極めて高い。

この一連の出来事は、「危機がイノベーションを加速させる」という歴史の法則を如実に示している。町人請負という新しいシステムは、淀屋の活躍などによって既に存在していたが、あくまで手伝普請を補完する役割に留まっていた。しかし、1595年の秀次事件という政治的触媒が、旧来のシステムを麻痺させ、新システムへの移行を不可逆的に加速させたのである。一度、町人請負の持つ効率性、スピード、そして政治的リスクの低さ(町人は謀反を起こさない)が、この危機的状況下で実証されると、それはもはや緊急措置ではなく、国家事業を遂行するための有効な選択肢として、政権内に確固たる地位を築くことになった。危機が、新しい社会経済システムの有効性を証明し、その導入を正当化する絶好の機会を提供したのである。

第四章:町人請負普請のメカニズム

町人請負普請の拡大は、単に普請の担い手が武士から町人へ変わったというだけでなく、その事業遂行の論理、資金調達、労働力確保のあり方など、あらゆる面で旧来のシステムとは一線を画す、革新的なメカニズムに基づいていた。

第一節:契約、資金、そして利益

町人請負普請の根幹をなすのは、権力者と商人との間の「契約」である。当時、現代のような体系的な契約法は存在しなかったものの、普請の範囲、仕様、工期、そして対価となる代金といった主要な項目については、奉行衆と請負商人との間で明確な合意が形成されていたと推測される。口約束や簡易な請状が中心であったかもしれないが 26 、そこには業務の完成責任と対価の支払いを約する双務的な関係性が存在した。

これらの普請の支払いに充てられた資金は、豊臣政権が全国に有した直轄領(蔵入地)からの莫大な収入であった 14 。支払いは、当時の基軸通貨であった米や、鉱山から産出される金銀で行われたと考えられる。権力側は、資金を拠出することで、労働力の直接動員という煩雑で政治的リスクを伴うプロセスを回避し、望む成果物を手に入れることができた。

一方、請負町人の側には、利益追求という明確な動機が存在した。彼らの利益は、契約金額と、普請に実際にかかった費用(資材費、人件費など)との差額、すなわち利潤である。利益を最大化するため、彼らは自らの商業ネットワークを駆使して資材を安価に仕入れ、効率的な工程管理によって人件費や工期を圧縮しようと努めた。この経済合理性の追求が、町人請負普請の持つ高い効率性の源泉となった。

第二節:労働力と資材の調達

町人請負普請は、労働力の調達方法においても、土地に縛られた農民を徴発する夫役とは根本的に異なっていた。請負商人は、普請に必要な労働力を、貨幣を対価とする雇用関係によって確保したのである。

特に、大工、石工、鳶といった専門技術を持つ職人たちは、普請の品質を左右する重要な存在であった 27 。これらの専門職人集団は、特定の領主に専属するのではなく、自らの技術を商品として、より良い条件を提示する雇用主のもとで働く、自由な労働市場を形成しつつあった。請負商人は、こうした職人たちを賃金で雇用し、その専門性を最大限に活用した。

一方で、土運びや雑務といった単純労働に従事する一般の人足は、口入屋(くちいれや)のような、現代の人材派遣業の先駆けともいえる業者を通じて、日雇いや短期契約の形で集められた可能性がある 28 。これは、農村から都市へ流入した人々を労働力として吸収する、都市型の雇用システムであった。

資材の調達においても、商人の持つネットワークが威力を発揮した。淀屋常安のように材木商を兼ねる請負人は、紀州の山林から木材を、瀬戸内海の島々から石材を、といった具合に、自らの商業網を通じて全国各地から最適な資材を効率的に調達することができた 19 。サプライチェーンを支配することが、彼らの競争力の源泉であり、大規模な普請を円滑に進めるための生命線であった。

第三節:新旧システムの比較

町人請負普請が、従来の夫役や手伝普請といかに異なっていたか、その特性を比較することで、このシステムの革新性がより明確になる。

項目

夫役

手伝普請

町人請負普請

主体

領主(大名)

天下人(豊臣政権など)

発注者:天下人 受注者:町人(商人)

動員方法

領民への労働力徴発(義務)

大名への命令(政治的義務)

町人との契約(経済活動)

費用負担

領主(食料支給など)

大名(資材・人件費など全般)

発注者(契約金支払い)

対象事業

領内の城郭、治水など

大坂城、伏見城など国家事業

国家事業から民間事業まで

効率性・速度

低い(農繁期などの制約)

中程度(競争原理の導入)

高い(利益追求による効率化)

専門性

低い(主に農民を動員)

中程度(大名家お抱えの職人)

高い(専門職人を市場から雇用)

政治的意図

領国支配の維持

大名の財力削剥、中央集権化

政治的リスクの回避、迅速な事業遂行

この表が示すように、町人請負普請は、効率性、スピード、専門性のいずれにおいても旧来のシステムを凌駕していた。利益追求という明確な動機に裏打ちされた厳格な工程管理は、大名間の面子や政治的思惑に左右されがちな手伝普請とは比較にならないほどの生産性を生み出した。また、事業遂行に伴う天候不順や事故などのリスクは、基本的には請負商人が負うことになり、彼らには高度なリスク管理能力も求められた。これは、普請という行為が、身分に基づく奉仕から、資本と経営能力を問われる高度な経済活動へと完全に移行したことを物語っている。

第五章:歴史的意義と後世への影響

文禄四年(1595)に本格化した町人請負普請は、単に建設業界の変革に留まらず、日本の社会経済史全体において、中世から近世への移行を決定づける重要な画期となった。その影響は、江戸時代を通じて、さらには現代に至るまで、日本の社会構造に深く刻み込まれている。

第一節:社会経済史における位置づけ

町人請負普請の拡大がもたらした最も大きな変化は、社会資本整備という国家の根幹事業が、身分に基づく労働奉仕から、貨幣を介した契約労働へと完全に移行する分水嶺となった点である。これは、日本経済が物々交換や年貢米を中心とした現物経済から、貨幣を媒介とする市場経済へと完全に舵を切ったことを象徴している。インフラが金銭で買えるようになったという事実は、社会のあらゆる価値基準が貨幣によって測られる時代の到来を告げていた。

同時に、この事象は新たな社会階層の台頭を決定づけた。戦国時代までは、社会の頂点に君臨していたのは、土地(石高)を支配する武士階級であった。しかし、町人請負普請は、資本(金銀)を持つ町人階級が、国家事業の一翼を担うほどに社会的影響力を増大させたことを示している。社会を動かす主導権が、「石高」を持つ者から「金銀」を持つ者へと、徐々に、しかし確実に移り始める兆候であった。武士は依然として支配階級であったが、その権力基盤を維持するためには、町人たちの経済力に依存せざるを得ない状況が生まれつつあった。

さらに、このシステムは日本の社会構造を、土地に縛られた農村型社会から、流動性の高い都市型社会へと転換させる原動力となった。賃金を求めて都市に集まる労働者の出現、専門技術によって身を立てる職人たちの分化、そして彼らを組織化して巨大プロジェクトを動かす請負商人の活躍は、近世都市のダイナミズムそのものであった。

第二節:江戸時代への継承と発展

豊臣政権下で確立された町人請負のシステムは、続く江戸幕府のインフラ整備においても不可欠なものとして継承された。徳川家康は、江戸城や名古屋城の建設において、豊臣秀吉と同様に大規模な天下普請(手伝普請)を諸大名に課し、その政治的統制力を誇示した 29 。しかしその一方で、幕府は淀屋のような御用商人を積極的に活用し、彼らの持つ資本と技術力、経営能力を国家のインフラ整備に動員した。手伝普請と町人請負という二つのシステムを、政治的・経済的状況に応じて使い分けるという、より洗練された統治技術が確立されたのである。

文禄期に町人たちの手によって整備された大坂の都市基盤は、江戸時代にこの都市が商業の中心地として飛躍的な発展を遂げるための礎となった。淀屋常安が私財を投じて開拓した中之島には諸藩の蔵屋敷が立ち並び 31 、彼が架けたとされる淀屋橋は、町人による都市開発の象徴としてその名を今に残している 32 。町人請負によって掘削された堀川や埋め立てられた土地が、後の「天下の台所」大坂の物流と商業を支える大動脈となったのである。

そして、淀屋常安に代表される請負商人のビジネスモデルは、後の時代の建設業の原型となった。江戸時代中期に、大坂の淀川改修事業などで名を馳せた河村瑞賢もまた、土木請負と海運業で財を成した商人であり、常安の後継者と位置づけることができる 33 。彼らのような民間事業者が、公共インフラの整備において重要な役割を担うという伝統は、この時代に確立されたといえる。

結論:戦国時代の終焉を告げる社会変革の号砲

文禄四年(1595)の大坂における「町人請負普請拡大」は、単発の行政判断や偶発的な出来事ではなく、戦国時代を通じて進行した社会経済の構造変化が、秀次事件という政治的触媒によって一気に表面化した、歴史的な画期であった。

それは、戦国乱世を勝ち抜いた稀代の経営者でもある豊臣秀吉が、政権を揺るがす政治的危機という非常事態に際して、最も合理的で効率的な手段を選択した結果であった。大名を動員するという旧来の手段が機能不全に陥ったとき、彼は迷わず、大坂の町人が持つ資本と経営能力に賭けたのである。そのプラグマティックな選択は、図らずも日本の社会を、中世的な身分と義務に縛られた「役」の社会から、近世的な貨幣と対等な関係に基づく「契約」の社会へと、大きく前進させることになった。

この事象は、刀や槍で領地を奪い合った「武」の時代が実質的に終わりを告げ、算盤と資本で社会を動かす「富」の時代が到来したことを告げる、静かな、しかし決定的な号砲であった。1595年の大坂の地で槌音を響かせていたのは、もはや徴発された農民ではなく、賃金で雇われた職人たちであり、彼らを指揮していたのは武士ではなく町人であった。彼らこそが、自らの手で新たな時代の扉を叩き開いていたのである。

引用文献

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  16. 第10話 〜淀屋常安 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/010.html
  17. 淀屋 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B1%8B
  18. 八幡に活きた人々 淀屋常安 https://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/hito2_joan.html
  19. 淀屋屋敷跡(町人文化コース) - 大阪中心 The Heart of Osaka Japan https://osaka-chushin.jp/routes/33169
  20. 江戸時代初期の豪商 淀屋の業績 http://murata35.com/rekisiuo-ku/yawata2013/131109yodoyakei.pdf
  21. 淀屋の業績、何だろう 豪商取り潰しから300年 大阪・北区でサミット - 歴史~飛耳長目~ http://saint-just.seesaa.net/article/26493891.html
  22. 1592年 – 96年 文禄の役 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1592/
  23. 文献史料からみた豊臣前期大坂城の武家屋敷・武家地 - 大阪歴史博物館 https://www.osakamushis.jp/education/publication/kenkyukiyo/pdf/no13/BOMH13_03.pdf
  24. 徳川家康 豊臣秀次事件と秀頼体制 - 歴史うぉ~く https://rekisi-walk.com/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%80%80%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%A8%E7%A7%80%E9%A0%BC%E4%BD%93%E5%88%B6/
  25. 大阪の今を紹介! OSAKA 文化力 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/052.html
  26. 雇用システムの生成と変貌 ―政策との関連― Ⅰ https://www.jil.go.jp/institute/siryo/2018/documents/199-1.pdf
  27. 戦国時代の身分構成/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/96785/
  28. 下級武士はアルバイトをするほど貧乏だった! - 殺陣教室サムライブ https://tate-school.com/archives/1058
  29. 5. 江戸開府と天下請負 - itclorg https://itclorg.jp/2023/07/31/5-%E6%B1%9F%E6%88%B8%E9%96%8B%E5%BA%9C%E3%81%A8%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E8%AB%8B%E8%B2%A0/
  30. 大坂城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%9F%8E
  31. 9月定例勉強会 「淀屋の歴史」講師:毛利信二氏 - 星のまち交野 http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/1409/index.html
  32. A0S02 – 大阪の礎を築いた豪商『淀屋』と『淀屋橋』 https://osaka-chushin.jp/nigiwaipanel/semba-jp/a0s02-jp/
  33. 日本の河川技術の基礎をつくった人々・略史 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/kasen/rekishibunka/kasengijutsu11.html