最終更新日 2025-09-26

町木戸常設化(1587)

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天正十五年 町木戸常設化:権力による京都支配の完成と近世都市の黎明

序章:天正十五年、京都の夜が変わる

天正十五年(1587年)、豊臣秀吉の治世下で京都に断行された「町木戸の常設化」。この出来事は、一般に夜間の治安維持や防火対策の一環として理解されている 1 。しかし、その歴史的意義は、単なる都市インフラの整備に留まるものではない。それは、戦国乱世を通じて育まれた都市の自治が終焉を迎え、天下人の絶対的な権力の下に都市と住民が再編成される、時代の大きな転換点を象徴する画期的な事業であった。

本報告書は、この「町木戸常設化」を、秀吉による壮大な京都支配構想の核心的要素と位置づける。応仁の乱以降の荒廃の中から立ち上がった町衆の自治の時代から説き起こし、秀吉が如何にしてその自治システムを巧みに利用・変質させ、自らの支配の道具へと作り変えていったのかを解き明かす。この政策は、物理的なインフラ整備であると同時に、住民の精神に「監視されている」という意識を植え付け、自発的な服従を促すための高度な統治技術でもあった。戦国という「自力救済」の時代 2 が終わりを告げ、権力が都市の隅々にまで浸透する近世という新たな時代の扉が、夜ごと閉ざされる木戸の軋む音と共に開かれたのである。本報告書は、この歴史的転換のダイナミズムを、天正十五年という激動の時代の文脈の中に描き出すことを目的とする。

第一章:荒廃と自治の都 ― 秀吉以前の京都の実像

豊臣秀吉による町木戸常設化の意味を理解するためには、まずその政策が実施される以前の京都が、いかなる都市であったかを知らねばならない。応仁・文明の乱(1467年-1477年)によって市街地の大部分が焦土と化した京都は、その後一世紀以上にわたり、公権力が著しく後退した「無政府状態」に近しい状況にあった 3 。この権力の空白地帯で、都市の復興と秩序維持の主役となったのが、「町衆(ちょうしゅう)」と呼ばれる裕福な商工業者たちであった。

第一節:自力救済の世界

戦国期の京都は、絶え間ない戦乱と権力者の交代劇に晒され、治安は極度に悪化していた 4 。大名同士の抗争に加え、天文法華の乱(1536年)に代表される宗教勢力間の武力衝突が市中で頻発し、その被害は応仁の乱以上とも言われた 3 。このような状況下では、幕府や朝廷といった既存の権威はほとんど機能せず、民衆は自らの生命と財産を自らの力で守る「自力救済」を原則とするほかなかった 2

当時の公家・山科言継の日記『言継卿記』には、天文十七年(1548年)に言継の邸宅近くの室町に盗賊が押し入り、駆けつけた町衆が応戦して負傷者が出たという生々しい記録が残されている 5 。これは、盗賊の侵入が日常的な脅威であり、それに対抗するのが公権力ではなく、住民自身の組織的な力であったことを如実に物語っている。まさに「力こそ正義」がまかり通る社会であり、住民は自衛のために武装し、団結する必要に迫られていたのである 3

第二節:「構(かまえ)」と「釘貫(くぎぬき)」― 町衆の自衛

こうした自力救済の必要性から、京都の町衆は独自の自治・自衛組織である「町組」を発展させた 6 。そして、彼らは自らの居住区画である「町」を物理的に防衛するため、その周囲を土塁や堀で囲い込んだ。この防御施設は「構(かまえ)」と呼ばれた 7 。当時の京都は、上京と下京という二つの大きな市街地に分裂していたが、それぞれが独自の惣構(そうがまえ)を持ち、さらにその内部が町組ごとの小さな「構」によって細分化されていたのである 9

これらの「構」の出入り口には、「木戸」や「釘貫(くぎぬき)」と呼ばれる堅固な門が設けられた 8 。これらの門は、夜間や非常時には閉鎖され、外部からの侵入者を防ぐ役割を果たした。門の警備は町衆が交代で務める輪番制であり、まさに住民による住民のための防衛システムであった 9 。『洛中洛外図屏風』などの絵画史料には、町々の境界に設けられた木戸の様子が詳細に描かれており、それが当時の京都の都市景観を特徴づける重要な要素であったことがわかる 8

この町衆による木戸は、彼らの自治と団結の象徴であった。それは、外部の脅威に対して共同体内部を守るための「ボトムアップ型」の安全保障であり、その管理運営は完全に町衆の手に委ねられていた。秀吉が後に「常設化」する町木戸は、彼が全くの無から創造したものではない。むしろ、彼が行ったのは、町衆が百年の歳月をかけて育んできたこの自治・自衛のシステムを巧みに乗っ取り、その目的と機能を支配者の都合に合わせて百八十度転換させるという、いわば「統治技術のハッキング」であった。かつて自分たちを守るために築いた防壁が、やがて自分たちを監視し、縛るための枷へと変貌を遂げることになるのである。

第二章:天下人の首都改造 ― 聚楽第と新たな都市秩序

天正十五年の町木戸常設化は、単独で実施された政策ではない。それは、天下人となった豊臣秀吉が推し進めた、壮大な京都改造計画という大きな構想の中に位置づけられるべきものである。関白に就任した秀吉にとって、荒廃した京都を復興させ、自らの権威にふさわしい帝都として再編することは、天下統一事業の総仕上げともいえる重要な課題であった 7

第一節:聚楽第 ― 新たな権力の中心

秀吉の京都改造の象徴であり、その拠点となったのが、天正十四年(1586年)から建設が始まった聚楽第である 14 。内裏の跡地という伝統的な権威の地に築かれたこの壮麗な城郭風邸宅は、単なる秀吉個人の住まいではなかった。それは、大坂城と並ぶ豊臣政権の政治的中心地であり、天皇を臣下として迎え入れ、諸大名を統べる新たな権力の中心を京都に打ち立てるという、秀吉の明確な意志表示であった 13 。この聚楽第の建設と並行して、京都の都市構造そのものを根本から作り変える事業が開始される。

第二節:「天正の地割」と身分による棲み分け

秀吉は、中世以来の複雑で不規則な街路を整理し、南北の通りを新たに開通させて街区を長方形の区画に整える、いわゆる「天正の地割」を断行した 17 。これにより、土地利用の効率化が図られると同時に、都市空間の抜本的な再編成が可能となった。

この都市計画の核心は、身分による居住地の分離、すなわちゾーニングの徹底にあった。それまで様々な身分の人々が混住していた市中の雑居状態を解消し、公家は内裏の周囲に集められて「公家町」を形成し、全国の大名をはじめとする武士は聚楽第の周辺に屋敷を構える「武家町」に集住させられた 17 。さらに、洛中に散在していた多数の寺院は、市街地の東縁に新設された寺町通や、聚楽第の北方に設けられた寺之内へと強制的に移転させられた 20 。これは、寺院が持つ軍事的・政治的影響力を削ぎ、権力の管理下に置く狙いもあったと考えられる 21

この秀吉による一連の都市改造は、単なる物理的な空間整理に留まらない。それは、彼が刀狩令や人掃令(身分統制令)といった政策で進めていた、武士・町人・百姓といった身分の固定化を、都市空間において可視化するプロジェクトであった 22 。住む場所を見ればその者の身分が一目瞭然となる社会。それは、中世的な流動性の高い社会を解体し、人々を固定化された階級の中に位置づける、近世的な支配秩序を空間的に実現しようとする試みであった。そして、このゾーニングされた各区画を物理的に区切り、管理・統制するための重要な装置こそが、常設化された「町木戸」だったのである。都市改造というハードウェアと、身分統制というソフトウェアを繋ぎ、秀吉の理想とする階級社会を盤石にするための不可欠なパーツとして、町木戸は構想されていたのである。

第三章:激動の天正十五年 ― あるべき都の姿を求めて(時系列解説)

天正十五年(1587年)は、豊臣秀吉の権力が頂点に達し、その支配体制が国内外に確立された画期的な年であった。「町木戸常設化」は、この激動の年に断行された一連の政策群と密接に連動している。軍事、外交、宗教、社会、文化の各方面で矢継ぎ早に打ち出された施策の流れの中にこの出来事を位置づけることで、その真の意図がより鮮明に浮かび上がる。

天正十五年(1587年)主要関連事象 時系列表

月(和暦/西暦)

国内外の動向

秀吉の主要政策

「町木戸常設化」との関連性・意義

3月~5月

九州平定

島津義久を降伏させ、西国を完全に平定。物理的な天下統一をほぼ完成させる。

秀吉の軍事的権威が絶対的なものとなり、国内の抵抗勢力が一掃される。これにより、京都での強力な都市支配策を断行する政治的基盤が固まる。

6月19日 (7月24日)

九州におけるキリシタン勢力の拡大と、日本人奴隷貿易の実態に直面。

バテレン追放令 を発布。キリスト教の布教を禁じ、宣教師の国外退去を命じる 24

国家の思想・宗教に対する統制を初めて明確に示す。国内の秩序を乱すあらゆる要素を排除するという秀吉の強い意志の現れであり、都市住民の統制強化へと向かう姿勢を予兆させる。

8月頃

-

人掃令(身分統制令)の原型 となる法令を発布。百姓が田畑を捨てて商いや武家奉公人になることを厳禁する 25

兵農分離を徹底し、社会の流動性を封じ込める政策。町木戸は、この身分統制を物理的に補完し、農村から都市への無許可の人口流入を防ぐ役割を担うことになる。

8月29日 (10月1日)

-

翌年4月の 後陽成天皇の聚楽第行幸 を計画・発表。

天皇の権威を自らの権威に取り込み、諸大名や民衆に絶対的な支配者としての地位を見せつけるための国家的大イベント。首都・京都の万全な警備と秩序維持が至上命題となり、町木戸による厳格な管理体制の必要性が高まる。

10月1日 (11月1日)

-

北野大茶会 を開催。貴賤を問わず参加を呼びかけるが、実質的には秀吉の文化的権威と財力を誇示する場となる 22

全国の人民を自らの文化圏に取り込もうとする試み。政治・軍事・社会に続き、文化の領域においても自らが中心であることを宣言する。

時期不定(年内)

-

町木戸の常設化 を断行。

上記の一連の政策の総仕上げとして、足元である首都・京都の末端細胞=「町」の支配を確立する。軍事、思想、社会、権威、文化の全てを掌握した天下人が、都市のミクロなレベルにまでその秩序を貫徹させる、必然的な帰結であった。

この時系列が示すように、天正十五年における秀吉の行動は、あらゆる領域における「秩序の構築」という一点に集約される。九州の島津氏は「辺境の無秩序」、キリスト教は「思想の無秩序」、身分の流動性は「社会の無秩序」、そして町衆の自治は「都市の無秩序」であった。秀吉は、これらの無秩序(カオス)を極度に嫌い、軍事力、法令、権威、文化、そして都市インフラというあらゆる手段を用いて、それらを自らのコントロール下に置く「秩序(コスモス)」へと再編成しようとした。

九州から凱旋した秀吉は、その絶大な権威を背景に、まず思想(バテレン追放令)と社会構造(人掃令)にメスを入れた。次いで、伝統的権威(天皇行幸)と文化的権威(北野大茶会)を自らのものとして演出し、支配の正統性を固めた。そして、これらのマクロなレベルでの支配体制が整った段階で、最後に都市のミクロな単位である「町」の統制、すなわち町木戸の常設化に着手したのである。これは、秀吉の包括的な「秩序化プロジェクト」の総仕上げであり、彼の世界観を帝都の隅々にまで浸透させるための、論理的な帰結であったと言える。

第四章:木戸の内と外 ― 常設化がもたらした統制のメカニズム

常設化された町木戸は、具体的にどのような仕組みで住民を統制し、豊臣政権の支配を末端まで浸透させたのか。そのメカニズムは、「治安・防火」という公的な目的の陰で、より多層的かつ巧妙な統制機能を有していた。

第一節:木戸の構造と運用

常設化された木戸は、町の通りを遮る形で設置され、その脇には番人が詰める「番屋」が併設された 27 。木戸は夜間(通常は「四つ時」、現在の午後10時頃)から夜明けまで固く閉ざされ、住民の夜間通行は原則として禁止された 27 。火事や犯罪者の追捕といった非常時には、昼間であっても即座に閉鎖され、町全体を封鎖する機能も持っていた 1

重要なのは、この木戸を管理する「木戸番」の役割を、多くの場合その町の住民自身が輪番で担ったことである 9 。これは、住民に自らを監視させるという巧みなシステムであった。また、木戸番は給金が安かったため、草履や駄菓子などの小物を売る副業が認められており、番屋は一種の売店や情報交換の場としても機能した 1 。これにより、木戸と番屋は住民の日常生活に深く溶け込み、その存在を当たり前のものとして受け入れさせていった。

第二節:治安・防火という「公的目的」の裏側

表向きの治安・防火という目的は、戦乱の記憶が生々しい住民にとって、一定の利益をもたらすものであったことは確かである。しかし、その裏には豊臣政権による住民統制の真の狙いが隠されていた。

  • 住民の移動監視と行動制限: 木戸と番屋は、誰が町に出入りしているかを常に把握するための監視拠点となった。不審者の侵入を防ぐという名目で、住民の自由な移動は著しく制限された。
  • 身分統制の物理的補完: 先に発布された人掃令と連動し、町木戸は身分制度を物理的に固定化する役割を果たした。百姓が耕作地を捨てて都市に流入することや、武家奉公人が主家から逃亡することを物理的に困難にしたのである 23
  • 徴税・情報伝達の末端装置: 町組は、もはや自治組織ではなく、豊臣政権の行政機構の末端として位置づけられた。番屋は、政権からの法令(町触)を住民に伝達し、あるいは人別改のような住民情報を収集・管理するための拠点として機能したと考えられる 7

このように、町木戸は都市の安全を守る装置であると同時に、住民をその居住区画に縛り付け、行動を監視し、情報を吸い上げるための効率的な支配のインフラであった。

第三節:比較分析 ―「自衛の木戸」から「支配の木戸」へ

秀吉による常設化が、町木戸の性格をいかに根本的に変質させたかは、戦国期のそれとの比較によって一層明らかになる。

戦国期と豊臣期の町木戸 比較表

比較項目

戦国期(町衆による木戸)

豊臣期(常設化された木戸)

設置主体

町衆(住民自身)

豊臣政権(天下人)

主目的

外部からの防衛 (敵対勢力、盗賊からの自衛)

内部の統制 (住民監視、身分・移動の制限)

管理体制

町組による自主管理(輪番制など)

政権の命令に基づく義務的管理

機能

都市内部の共同体を守るための 防御壁

住民を区画し、管理するための 仕切り弁

住民にとっての意味

自治と団結の象徴

権力による監視と束縛の象徴

この比較が示すように、両者は物理的には同じ「木戸」であっても、その政治的・社会的な意味は全く異なっていた。戦国期の木戸が共同体の内側を向いた求心的な装置であったのに対し、豊臣期の木戸は権力の中枢から末端へと向かう遠心的な支配の装置であった。

このシステムが特に巧妙であったのは、住民に「共同責任」を負わせることで、支配コストを最小化しつつ統制効果を最大化した点にある。木戸番を住民に務めさせることで、政権は番人を直接雇用するコストを削減できた。さらに、町内で犯罪者の逃亡や無許可の宿泊といった問題が発生すれば、その責任は町全体の連帯責任として問われることになる。これにより、住民は権力者から一方的に監視されるだけでなく、互いに監視し合う「水平的な監視」の網の目の中に組み込まれていった。結果として、住民は自発的に体制内の秩序を維持するようになり、秀吉は最小限の直接的な介入で、帝都の隅々にまでその支配を及ぼすことが可能になったのである。

第五章:失われた自治と新たな秩序 ― 町木戸が築いた近世都市の礎

天正十五年の町木戸常設化は、京都の都市構造と社会に長期的かつ決定的な影響を及ぼした。それは、中世以来の町衆の自治に終止符を打ち、京都を近世的な城下町へと変貌させる上で、決定的な一歩となったのである。

第一節:町衆自治の終焉

秀吉は、町木戸による管理強化という厳しい「ムチ」を用いる一方で、巧みな「アメ」も用意していた。その代表が、天正十九年(1591年)に実施された洛中の地子銭(土地税)の永代免除である 28 。これは、これまで公家や寺社に納めていた地代負担から町衆を解放する画期的な政策であり、彼らの経済的利益に大きく貢献した 29

しかし、この経済的恩恵と引き換えに、町衆は政治的な自立性を失っていった。町組という組織そのものは存続を認められたものの、その役割はもはや住民の意思を代表する自治組織ではなく、権力の命令を末端で実行する行政下部組織へと変質した 7 。かつて祇園祭を自らの手で復興させるほどのエネルギーを誇った町衆の政治力は、秀吉の巧みな飴と鞭の政策によって徐々に削がれ、近世的な支配体制の中に吸収されていったのである。

第二節:御土居へ ― 都市支配の完成形

町木戸の常設化によって確立された、都市内部を細かく区画し管理する「点」と「線」の支配は、天正十九年(1591年)、より巨大な構想へと発展する。それが、京都の市街地全体を巨大な土塁と堀で囲い込む「御土居」の築造である 31

全長約22.5キロメートルに及ぶこの壮大な土塁は、鴨川の氾濫を防ぐ堤防としての機能や、外敵の侵入を防ぐ防塁としての目的も持っていたが 10 、その本質は、洛中(都市)と洛外(農村)を明確に区分し、都市全体を一つの巨大な管理ユニットとして掌握することにあった 17 。御土居の出入り口には「七口」と呼ばれる関門が設けられ、人や物の出入りは厳しく管理された。これは、町木戸による内部統制を前提として、それをさらに大きなスケールで完結させる、都市封鎖システムであった。町木戸によるミクロな管理と、御土居によるマクロな管理。この二重の構造によって、秀吉の京都支配は完成の域に達したのである。

第三節:後世への遺産

秀吉が京都で確立したこの都市支配システムは、その後の日本の都市史に大きな影響を与えた。町ごとに木戸と番屋を設けて住民を管理し、都市全体を惣構で囲い込むという手法は、江戸をはじめとする全国の城下町における町方支配の基本的なモデルとなった 27 。江戸の町々にも木戸が設けられ、夜間の通行が制限されることで、治安維持と住民管理が徹底された 1

この意味で、秀吉の京都改造と町木戸常設化は、日本の都市から「壁」の意味を根本的に変えたと言える。中世まで都市の「構」や「木戸」が、外部の敵から共同体を守るための「防御壁」であったのに対し、近世以降のそれは、住民を内部に留め置き、権力が管理するための「管理壁」へとその性格を大きく転換させた。それは、権力と民衆の関係性が、ある種の双務性を持った中世的なあり方から、上意下達の一方的な支配関係へと移行したことを、都市の物理的な構造が象徴するものであった。

終章:京都の夜が語るもの

天正十五年(1587年)の「町木戸常設化」は、単なる一都市政策に留まらず、戦国乱世の終焉と、統一された中央集権国家の到来を告げる、極めて象徴的な出来事であった。

応仁の乱の灰燼の中から生まれ、自らの力で秩序を築き上げた京都の町衆。彼らが自衛のために設けた木戸は、自治と自由の気風の象徴であった。しかし、天下人・豊臣秀吉は、その既存のシステムを巧みに利用し、その意味を反転させた。防衛のための門は、監視のための門へ。住民の連帯の証は、相互監視の枷へ。そして、開かれた都市は、管理された都市へと姿を変えた。

この変革は、軍事、思想、社会、文化のあらゆる領域を自らの秩序の下に置こうとした秀吉の、壮大な国家構想の一環であった。九州を平定し、キリスト教を退け、身分を固定し、天皇さえも自らの権威の内に取り込んだ天下人が、最後にその支配の網の目を、帝都の路地の一本一本にまで張り巡らせたのである。

夜ごと、重い音を立てて閉ざされる京都の町木戸。その向こうに広がる闇は、もはや無法と混沌の闇ではなく、権力によって管理された静寂の闇であった。一つ一つの木戸が、新たな時代の秩序と統制の始まりを静かに物語っていた。それは、近世という新しい時代の幕開けを告げる、歴史の転換点を示す音だったのである。

引用文献

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  2. 戦国時代の京都について~その③ 「自力救済」から生まれた「環濠集落」 - 根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2023/04/21/091650
  3. 戦国時代の京都は、住みたくない街No.1? https://kyotolove.kyoto/I0000173/
  4. 京都をぶっ壊した男・織田信長 〜続・戦国京都は住みたくない街No.1? - Kyoto Love.Kyoto https://kyotolove.kyoto/I0000174/
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  6. 都市史16 町組 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi16.html
  7. 京都の景観・まちづくり史 - 京都市 https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000281/281300/03(dai2syou).pdf
  8. 洛中洛外図屏風(歴博甲本) https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakutyuu/theme/street09.html
  9. 戦国時代の京都について~その⑥ 町組はどのような組織で、どう機能していたのか? https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2023/05/02/083719
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