最終更新日 2025-10-02

白石城受領(1600)

慶長5年、伊達政宗は家康の会津征伐に呼応し白石城を攻略。百万石の御墨付は反故となるも、白石城は片倉景綱に与えられ、仙台藩南の要衝として260年続く片倉氏の礎となった。
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慶長五年、白石城受領の真相 ― 伊達政宗の野心と片倉小十郎、二百六十年の礎 ―

序章:天下分け目の前夜 ― 豊臣秀吉の死と徳川家康の台頭

慶長3年(1598年)8月18日、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を閉じた 1 。この死は、日本全土を覆う権力の均衡を根底から揺るがすものであった。秀吉は、幼い嫡子・秀頼の将来を案じ、徳川家康を筆頭とする五大老と石田三成ら五奉行による集団指導体制を遺言として残したが、絶対的な権力者が不在となった政権は、その発足当初から極めて脆弱な基盤の上に立たされていた。

秀吉の死後、その遺命を遵守する形で政務を遂行しようとする石田三成ら吏僚派と、天下の次なる覇権を虎視眈々と狙う徳川家康との対立は、日を追うごとに先鋭化していく 2 。家康は、秀吉が禁じた大名間の私的な婚姻を伊達政宗らと結ぶなど、巧みな政治手腕で着実にその影響力を拡大 2 。政権内部の重しであった五大老の次席・前田利家が慶長4年(1599年)に病没すると、その動きを抑止できる者はいなくなり、加藤清正ら七将による石田三成襲撃事件が勃発するに至って、家康の独走は決定的となった 1

この中央政権の激動と並行して、東北地方の勢力図にも地殻変動が生じていた。秀吉は生前の慶長3年(1598年)1月、会津の蒲生氏に起きた内紛(蒲生騒動)を収拾するため、越後の大名であった上杉景勝を会津120万石という破格の所領へ移封させていた 1 。この配置は単なる領地替えではなかった。会津は、東北の覇者たらんとする伊達政宗の領地に隣接し、同時に関東に広大な地盤を持つ徳川家康の背後を窺うことができる戦略的要衝である 3 。秀吉の存命を前提とするならば、この配置は「対伊達」「対徳川」という二重の意図が込められた、天下の安定を図るための巧妙な布石であった。

しかし、秀吉の早すぎる死は、この絶妙なパワーバランスを崩壊させた。秀吉という絶対的な「抑え」を失ったことで、上杉景勝の会津移封は、逆に家康と上杉の直接対決を誘発する「時限爆弾」へとその性質を変質させたのである。家康にとって、豊臣恩顧の有力大名であり、五大老の一角を占める上杉家を屈服させることは、自らの覇権を確立する上で避けては通れない道であった。こうして、天下分け目の戦いは、中央の畿内ではなく、遠く離れた東北の地を震源として、その幕を開けようとしていた。

第一章:東北の地政学的緊張 ― 伊達政宗と上杉景勝の対峙

徳川家康が上杉景勝の討伐を決意するに至る過程は、伊達・上杉両家の対立構造と、それを巧みに利用した家康の深謀遠慮が複雑に絡み合って形成された。その根底には、伊達政宗の旧領回復にかける並々ならぬ執念が存在した。

政宗は、天正18年(1590年)の小田原参陣に遅参したこと、さらにその後の葛西・大崎一揆を裏で扇動したとの嫌疑をかけられたことにより、豊臣秀吉による奥州仕置で会津をはじめ、白石城を含む刈田郡などの広大な領地を没収された 5 。本拠地も米沢から岩出山へと移され、大幅な減封を余儀なくされたこの屈辱は、政宗の心に深く刻まれていた。失われた故地を回復することは、彼の生涯をかけた悲願となっていたのである。

一方、会津120万石の新領主となった上杉景勝と、その家宰・直江兼続は、広大な新領地を安定させるべく、領国経営を精力的に進めていた。しかし、その施策の中には、明らかに軍事的な意図を持つものが含まれていた。会津若松城に代わる新たな本城として神指城の築城を開始し、領内の道や橋を整備、さらには大量の武器や兵馬を買い集めるなど、その軍備増強は尋常ではなかった 4 。これらの動きは、北で隣接する最上義光や、上杉の旧領・越後の新領主となった堀秀治らに強い警戒感を抱かせた。彼らから上杉家の不穏な動きを伝える報告が、続々と家康のもとへ届けられたのである 4

さらに、上杉家の内部事情が対立を激化させる。重臣の一人であった藤田信吉は、家康との関係修復を図る穏健派であったが、直江兼続ら強硬派との路線対立から家中で孤立。身の危険を感じた信吉は慶長5年(1600年)3月、上杉家を出奔し、江戸の徳川秀忠のもとへ駆け込むと、「景勝に謀反の意図あり」と讒言した 4 。最上、堀からの報告に加え、上杉家内部からの「証言」を得たことで、家康は上杉討伐の口実を固めていった。

家康は再三にわたり、景勝に対して上洛し、一連の疑惑について弁明するよう要求した。これに対し、兼続が返書として送ったとされるのが、世に名高い「直江状」である 4 。この書状は、家康の詰問に対し理路整然と反論しつつも、その行間には挑発的な文言が散りばめられていた。この返書が偽作であるとする説も根強いが 10 、いずれにせよ、上杉家が上洛を拒否し、家康に恭順の意を示さなかったことは事実である。

上杉の行動が真に謀反を意図したものであったか否かよりも、家康がそれを「謀反と見なしたかった」という政治的意図こそが重要であった。最上・堀からの報告、藤田の讒言、そして上洛拒否という一連の出来事は、家康にとって上杉家を公的に討伐するための絶好の「大義名分」となった。慶長5年(1600年)5月3日、家康は諸大名に対し、上杉景勝の征伐を正式に号令。ここに「会津征伐」が開始され、関ヶ原の戦いへと至る道筋が決定づけられたのである 1


表1:白石城攻防戦に至る主要関連年表

年月

出来事

慶長3年(1598)8月

豊臣秀吉、死去。

慶長3年(1598)

上杉景勝、越後から会津120万石へ移封される。

慶長4年(1599)閏3月

五大老・前田利家、死去。七将による石田三成襲撃事件が起こる。

慶長5年(1600)2月

上杉家、新城として神指城の築城を開始する。

慶長5年(1600)3月

上杉家重臣・藤田信吉が上杉家を出奔し、徳川方へ走る。

慶長5年(1600)4月

直江兼続から家康へ、上洛拒否を伝える返書(いわゆる「直江状」)が届く。

慶長5年(1600)5月

徳川家康、諸大名に上杉討伐(会津征伐)を号令する。

慶長5年(1600)7月19日

徳川秀忠を総大将とする軍勢が会津へ向け先行して出陣。

慶長5年(1600)7月21日

徳川家康、江戸城から会津へ向けて出陣する。

慶長5年(1600)7月24日

伊達政宗、上杉方の白石城への攻撃を開始する。

慶長5年(1600)7月24日

家康、下野小山にて石田三成らの挙兵を知る(小山評定)。


第二章:「百万石の御墨付」と白石城の戦略的価値

伊達政宗が徳川家康の会津征伐に、他のどの東北大名よりも積極的に加担した背景には、極めて具体的な動機があった。それは、家康から与えられた破格の密約、通称「百万石の御墨付」の存在である。

家康は、会津の上杉軍を牽制し、自軍の背後を固めるため、政宗の協力を不可欠と考えていた。そこで家康は、政宗に対し、上杉征伐における戦功の暁には、政宗がかつて秀吉に没収された旧領である刈田、伊達、信夫、二本松など7つの郡、合計で49万5800石にも上る土地を与えることを約束した 6 。これを政宗が当時有していた約58万石の所領と合わせると、その総石高は100万石を優に超える。この約束が記された家康の書状こそが「百万石の御墨付」であり、政宗にとっては失地回復と勢力拡大という二つの宿願を同時に叶える、またとない好機であった 6

この壮大な野望を実現するための最初の攻略目標として、政宗が狙いを定めたのが白石城であった。白石城は、単なる一つの城ではなく、東北の戦局を左右するほどの地政学的・軍事的重要性を秘めていた。

第一に、その地理的位置である。白石城は、伊達領の南端と上杉領の北端が接する国境線上に位置し、奥州街道が南北に貫く交通の要衝であった 5 。ここを抑えることは、上杉領へ侵攻するための絶対的な足掛かりを確保することを意味した。逆に上杉方にとっては、伊達の侵攻を食い止めるための最前線の防衛拠点であった。

第二に、その歴史的経緯である。白石城のある刈田郡は、元来伊達氏の支配地であった 7 。しかし、奥州仕置によって伊達領から切り離され、蒲生氏郷の所領となった。氏郷は、北の政宗を牽制する目的で白石城を近世城郭へと大改修した 5 。その後、蒲生氏に代わって上杉景勝が会津に入ると、白石城も上杉領となり、重臣の甘粕景継が城代として配置された 7 。政宗にとって、白石城の奪還は旧領回復の象徴であり、父祖伝来の地を取り戻すという精神的な意味合いも強かった。

開戦前夜、この重要な拠点である白石城には、伊達軍にとって絶好の機会が訪れていた。城主である甘粕景継は、目前に迫った家康との決戦に備えるための軍議に参加すべく、主君・景勝が待つ会津若松城へ出向いており、城を留守にしていたのである 16 。城の守りを預かっていたのは、景継の甥にあたる登坂勝乃であった 2 。指揮系統の頂点が不在であり、代理の将が守る城は、士気や連携に綻びが生じやすい。

政宗は、家康から与えられた「大義名分」、上杉軍の主力が会津方面へ集結しつつあるという「軍事的状況」、そして城主不在という「内部情報」という三つの要素が完璧に重なったこの「機会の窓」を見逃さなかった。彼の白石城攻撃は、単なる軍事行動ではなく、最小の損害で最大の戦略的価値を持つ拠点を奪取するという、周到に計算され尽くした電撃作戦だったのである。

第三章:慶長五年七月、白石城攻防戦 ― 二日間のリアルタイム詳解

慶長5年(1600年)7月、徳川家康率いる会津征伐軍本隊が江戸を出陣するのとほぼ時を同じくして、伊達政宗は「百万石の御墨付」を現実のものとするべく、その第一歩を踏み出した。目標は、上杉領の最前線拠点、白石城。この城を巡る攻防は、後に「東北の関ヶ原」と呼ばれる一連の戦いの火蓋を切るものであった。


表2:白石城攻防戦における両軍の兵力と主要武将(推定)

伊達軍(攻城側)

上杉軍(守城側)

総大将

伊達政宗

(城主不在:甘粕景継)

指揮官

城代:登坂勝乃

推定兵力

約20,000

約700~1,000

主要武将

石川昭光、片倉景綱、片倉重長(重綱)

鹿子田右衛門(旧二本松畠山氏家臣)

その他

大崎・葛西氏旧臣など


七月二十四日(開戦日)

早朝 、伊達政宗は居城の岩出山城(あるいは前線基地の北目城 6 )から、約2万と推定される大軍を率いて出陣した。軍の中核を成すのは、政宗の叔父であり伊達一門の重鎮・石川昭光、そして政宗の智謀の源泉たる片倉小十郎景綱であった。この軍には、景綱の子・片倉重長(当時は重綱)も加わっていた。当時17歳の重長にとって、この戦が初陣となる 5

昼頃 、白石城下に到達した伊達軍は、迅速に城を包囲。政宗は城の北方に位置する段丘上、陣場山に本陣を構えた 5 。眼下に白石城を一望できるこの場所から、政宗は全軍の指揮を執った。

午後二時頃 、攻撃の火蓋が切られた 19 。伊達軍はまず、城下に火を放ち、黒煙と炎で城兵の動揺を誘うと同時に、視界を遮り自軍の動きを隠す陽動に出た 2 。城を守る登坂勝乃は、圧倒的な兵力差に動じることなく防戦を指揮するが、伊達軍の猛攻は凄まじかった。

午後から夜半 にかけて、戦いは熾烈を極めた。特に、片倉景綱・重長親子が率いる部隊は、城の西側から猛攻を仕掛けた 5 。伊達軍にとって、白石城はかつて自らが治めた城であり、その構造や弱点を熟知していた 2 。この地理的優位性は、攻城戦において絶大な効果を発揮した。巧みな連携攻撃により、外曲輪、三の丸は次々と炎上し、伊達軍の手に落ちていった 2 。城内には、かつて政宗に滅ぼされた二本松畠山氏の旧臣・鹿子田右衛門や、奥州仕置で所領を失った大崎・葛西の旧臣らも籠っており、彼らは伊達への深い遺恨から徹底抗戦を叫んだが、戦況を覆すには至らなかった 2

七月二十五日(落城日)

未明から早朝 、夜を徹して続いた攻防の末、伊達軍はついに本丸を攻め立てる。この最も激しい戦闘の最中、初陣の片倉重長が目覚ましい武功を挙げた。父・景綱の指揮の下、重長は兵を率いて敵の抵抗を打ち破り、本丸への一番乗り(先登)という、初陣の若武者にとって最高の名誉となる功名を立てたのである 5 。この活躍は、後に「鬼小十郎」と天下に名を轟かせる勇将の誕生を告げるものであった。

この一戦は、単なる戦術的勝利以上の意味を持っていた。伊達家を支える軍事的中核である片倉家において、知将として政宗を支え続けた父・景綱から、勇将として次代を担う子・重長へと、その役割が継承される象徴的な儀式となったのである。

午前 、本丸を除く城のほぼ全域を制圧され、守備兵は最後の防衛線へと追い詰められた 2 。士気は尽き、もはや組織的な抵抗は不可能な状態に陥っていた。

正午頃 、これ以上の籠城は無意味な将兵の死を招くだけであると判断した城代・登坂勝乃は、ついに降伏を決断。城門を開き、白石城は伊達軍の手に渡った 7 。攻撃開始からわずか一日あまり、政宗は電光石火の速さで、上杉領への侵攻の橋頭堡を確保することに成功したのである 19

第四章:戦後処理と片倉小十郎景綱への下賜

慶長5年(1600年)7月25日の白石城陥落は、伊達家による軍事的な「奪取」であり、事実上の「受領」であった。しかし、この城が正式に伊達家の重臣・片倉景綱の手に渡るまでには、さらに2年以上の歳月と、関ヶ原の戦いを巡る複雑な政治的駆け引きが必要であった。この2年間の空白期間こそ、政宗の野望の行方と、徳川体制下における新たな秩序形成の過程を如実に物語っている。

白石城を攻略した後、政宗はこの城をすぐには腹心の片倉景綱に与えず、叔父である石川昭光に一時的に預けている 5 。これは、関ヶ原の本戦の帰趨がまだ見えず、東北における戦いも緒に就いたばかりという流動的な状況下での暫定措置であった。戦後の領地配分は、全てが未確定だったのである。

同年9月15日、関ヶ原の本戦は、小早川秀秋の裏切りによって、わずか一日で東軍(徳川方)の圧勝に終わった 6 。しかし、この中央での決着は、政宗の立場を微妙なものにした。家康から約束された「百万石の御墨付」は、あくまで上杉領を自力で切り取ることが前提であったが、政宗は白石城を攻略した後、最上義光への援軍派遣や上杉軍のゲリラ戦への対応に追われ、それ以上の戦果を挙げることができなかったのである 21

さらに悪いことに、戦後、政宗が南部領で発生した和賀一揆を裏で扇動していたという疑惑が露見し、家康の強い不信を招いてしまう 21 。天下人となった家康にとって、政宗の野心はもはや制御すべき対象となっていた。

これらの結果、家康は「百万石の御墨付」を事実上反故にした。政宗に対する論功行賞は、彼が自力で攻め取った刈田郡(白石城を含む)約2万石の領有を追認するという、極めて限定的なものにとどまった 12 。これは、政宗の野心に対する家康からの明確な牽制であり、天下の支配者が誰であるかを改めて知らしめる政治的決断であった。

徳川の天下が定まり、戦後処理と全国的な領地再編がある程度完了した慶長7年(1602年)12月、ようやく政宗は確定した自領内の人事として、白石城と周辺の知行1万3千石を、最も信頼する家臣・片倉小十郎景綱に正式に与えた 18

したがって、「白石城受領」という事象は、二重の構造を持っている。第一に、慶長5年の伊達家による軍事的・事実上の「受領(奪取)」。第二に、慶長7年の片倉家による政治的・公式の「受領(拝領)」。この2年間の隔たりは、関ヶ原という大変動の中で、政宗の野望が一度は頂点に達しながらも挫折し、徳川の新たな天下秩序の中に仙台藩として再編されていく過程そのものを象徴している。1602年の「拝領」は、単なる恩賞ではなく、徳川幕藩体制下における伊達家の領国体制が最終的に確定したことを示す、画期的な出来事だったのである。

第五章:仙台藩南の要衝として ― 白石片倉氏の成立とその後の役割

慶長7年(1602年)、片倉小十郎景綱が伊達政宗から白石城を拝領したことは、単に一人の家臣が一つの城を与えられたという事実にとどまらない。それは、仙台藩62万石の長期的な安全保障体制を構築するための、政宗による深慮遠謀の「戦略的投資」であり、その後260年以上にわたる白石片倉氏の歴史の幕開けであった。

政宗がこの最重要拠点を景綱に託したのには、明確な理由があった。景綱は、政宗が幼少の頃からの傅役(もりやく)であり、数々の戦を勝利に導いた参謀であり、そして豊臣秀吉との対決か恭順かで家中が揺れた小田原参陣の際には、政宗の命を救う進言をした恩人でもあった 18 。秀吉から5万石の独立大名として取り立てるという破格の誘いを受けた際も、主君・政宗への忠義が薄れることを理由に固辞したという逸話は、彼の揺るぎない忠誠心を象徴している 18 。武勇、知略、そして何よりも絶対的な忠誠心。南の国境線を預けるに足る人物は、景綱をおいて他にいなかった。

この決定により、片倉家は伊達家の家臣(陪臣)でありながら城を持つことを許された、極めて特別な存在となった。後に「天下の陪臣」と称されることになる白石片倉氏の誕生である 26 。江戸幕府が元和元年(1615年)に発布した一国一城令によって、原則として大名の居城以外の城はすべて破却されたが、白石城は仙台藩の南の守りの重要性が考慮され、例外的に存続が認められた 13 。これは、幕府もまた、白石城が持つ軍事的価値を高く評価していたことの証左である。

初代城主となった景綱は、早速城の大改修に着手し、石垣や天守の代わりとなる三階櫓(大櫓)を整備、城下町の発展にも尽力した 14 。こうして白石城は、南に接する米沢藩(上杉氏)や相馬藩などへの備えとして、仙台城の支城の中で最も重要な軍事拠点としての地位を確立していく 5 。片倉家にこの要衝を委ねることは、政宗にとって仙台藩の南の国境防衛を完全に「委任」することを意味した。それは、片倉家を単なる家臣ではなく、伊達家と運命を共にする不可分のパートナーとして位置づけたことの表明でもあった。

この政宗の「投資」は、後世において絶大な効果を発揮する。片倉家は代々「小十郎」の名を襲名し 28 、明治維新に至るまで約260年間にわたり白石の地を治め、伊達家の南の盾として、仙台藩の安寧に大きく貢献し続けた 26 。幕末の戊辰戦争において、白石城が奥羽越列藩同盟結成の舞台となったことは 5 、この城が近世を通じて東北の政治・軍事の中心の一つであり続けたことを示している。慶長7年の一つの決断が、仙台藩二百数十年の泰平の礎を築いたのである。

結論:白石城受領が歴史に残した意味

慶長5年(1600年)の「白石城受領」という一連の事象は、単なる一城の攻防戦として語ることはできない。それは、豊臣秀吉の死後に生じた権力の空白期において、天下の覇権を巡る中央の動きが、地方の勢力図をいかに激しく揺さぶったかを示す縮図であった。この出来事は、関ヶ原の戦いという天下分け目の大乱が東北地方に波及した「東北の関ヶ原」の号砲であり、複数の階層からなる深い歴史的意義を有している。

伊達政宗にとって、この事象は彼の野心の頂点と、その後の現実的な挫折を象徴するものであった。徳川家康から与えられた「百万石の御墨付」を手に、父祖伝来の地・白石城を電光石火で奪還した瞬間は、まさしく彼の生涯における絶頂期の一つであっただろう。しかし、関ヶ原の本戦への不参加と和賀一揆煽動の疑惑により、その野望は大きく削がれることとなる。結果として、旧領の一部を回復し、仙台藩62万石の南の国境線を確定させることには成功したものの、天下を窺うという夢は、この一連の出来事の中で事実上潰えたと言える。

片倉家にとって、この事象は栄光の歴史の始まりであった。主君の野望の先駆けとして戦功を挙げ、その結果として仙台藩随一の要衝を賜ったことは、伊達家臣団の中で彼らが別格の地位を確立する決定的な画期となった。以後260年以上にわたる白石統治は、片倉家が単なる陪臣ではなく、伊達家と運命を共にする準大名とも言うべき存在であったことを示している。

そしてより大きな歴史的文脈において、白石城受領は、戦国乱世の終焉と、徳川幕藩体制という新たな秩序への移行期を象徴する出来事であった。大名の野心、家臣の忠義、そして天下人の深謀遠慮が交錯する中で、近世大名領国の防衛体制がどのように形成されていったか。白石城を巡る一連の攻防と戦後処理は、その具体的なプロセスを示す、極めて貴重な歴史的事例として評価することができるのである。

引用文献

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