最終更新日 2025-10-02

直江堤築造(1608)

慶長13年、関ヶ原敗戦で米沢30万石に減封された上杉家。直江兼続は松川に「直江堤」を築造。これは藩の経済再建、軍事防衛、家臣団結束を促す、兼続による国家再建プロジェクトであった。
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直江堤築造(1608年)の多角的分析:戦国終焉期における国家再建プロジェクトとしての治水事業

序章:なぜ「戦国時代」の視点で1608年の土木事業を語るのか

慶長13年(1608年)は、徳川幕府による全国統治が安定軌道に乗り始めた時期であり、歴史区分上は紛れもなく「江戸時代」に属する。しかし、本報告書が主題とする「直江堤築造」という土木事業を深く理解するためには、その時代区分を一時的に脇に置き、「戦国時代」という価値観と力学の延長線上にこの事象を位置づける視座が不可欠である。

事業の当事者である米沢藩主・上杉景勝と、その執政・直江兼続は、その精神的骨格のすべてが戦国の乱世において形成された人物である。彼らの意思決定の根底には、わずか8年前の慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦における西軍としての敗北という、戦国時代の最終局面で喫した強烈な体験が存在した 1 。この敗戦により、上杉家は会津120万石という広大な領土を失い、米沢30万石へと大減封されるという存亡の危機に立たされた。

したがって、直江堤の築造は、単なる平時のインフラ整備事業として捉えることはできない。本報告書は、この事業を「戦国の終焉と近世の黎明の狭間で行われた、敗軍の将による国家再建プロジェクト」と定義し、その背景、過程、そして多層的な意義を時系列に沿って解き明かすことを目的とする。果たして直江堤は、単なる洪水対策だったのか。それとも、敗戦国家が生き残りをかけて打った、経済的、軍事的、そして社会心理的な側面までをも包含する、多目的かつ戦略的な一手だったのか。この問いを、本報告書全体の縦糸として論を進めていく。

第一章:存亡の淵 ― 関ヶ原敗戦と米沢30万石への転封

1-1. 栄光からの転落:会津120万石の夢と現実

関ヶ原の合戦に至る直前の上杉家は、その栄光の頂点にあった。主君・上杉景勝は豊臣政権下で五大老の一角を占め、直江兼続もまた、豊臣秀吉から直接、破格の待遇である出羽米沢30万石を与えられるほどの高い評価を受けていた 1 。この会津120万石という領地は、上杉家にとって単なる経済的基盤ではなく、戦国大名としての権勢と誇りの象徴であった。

しかし、慶長3年(1598年)の秀吉の死は、この安定を根底から揺るがす。次なる天下人として急速に台頭する徳川家康に対し、秀吉恩顧の石田三成と近かった兼続は、明確な対決姿勢を打ち出す。家康が景勝にかけた謀反の嫌疑に対し、兼続が送ったとされる返書、いわゆる「直江状」は、戦国武将としての矜持を示すものであったが、結果として家康による会津征伐という大規模な軍事衝突を招くことになる 1

慶長5年(1600年)、関ヶ原で石田三成率いる西軍が徳川家康の東軍に敗れると、上杉家の運命は暗転する。上杉軍は、関ヶ原の本戦には参加しなかったものの、領国において東軍についた最上義光・伊達政宗連合軍と「長谷堂城の戦い」などで激闘を繰り広げていた 1 。西軍敗北の報は、上杉家にとって単なる軍事的な敗北である以上に、国家としての存立基盤そのものを失いかねない破局的な知らせであった。

1-2. 屈辱の減移封:米沢30万石という「檻」

西軍に与した大名の多くが改易(領地没収)される中、上杉家は取り潰しという最悪の事態を免れた。その背景には、会津征伐から反転西上する家康軍を追撃しなかった景勝の「義」を重んじる決断や、兼続による徳川家との粘り強い交渉があったとされる 1 。上杉謙信以来の名家としてのブランドと、兼続の卓越した外交手腕が、絶体絶命の状況下でかろうじて家の存続を可能にしたのである。

しかし、その代償はあまりにも大きかった。慶長6年(1601年)、上杉家は会津120万石から米沢30万石へと、実に4分の1の規模に領地を削減された上で移封を命じられる 4 。これは、現代の国家に例えれば、歳入が75%も削減されるに等しい未曾有の経済的衝撃であった。米沢30万石という新たな領地は、彼らにとって安住の地ではなく、かつての栄光を封じ込める「檻」にも等しいものだった。

1-3. 「家臣は国の宝なり」:苦渋の決断と構造的危機の始まり

この絶望的な状況下で、直江兼続は常人には考えられない決断を下す。石高が4分の1に激減したにもかかわらず、会津時代の家臣約6000人、そしてその家族や職人、商人など約3万人を一人も解雇することなく、そのまま米沢へ移住させたのである 4 。これは「人は石垣、人は城」という戦国の価値観を体現した美談として語られる一方で、米沢藩の財政を初手から構造的に破綻させる極めて危険な選択でもあった。

慶長6年(1601年)9月、景勝と兼続に率いられた上杉家臣団が米沢に到着した時、新天地は混乱の極みにあった 5 。急激な人口増加による深刻な食糧不足と住居不足、そして何よりも、敗戦の将として先の見えない将来に対する深い絶望感が領内を覆っていた。

この上杉家の米沢移封は、単なる領地替えではなかった。それは、戦国大名としてのプライドと、それに伴う巨大な家臣団という「過去の栄光」を維持したまま、極端に縮小された経済規模という「厳しい現実」の器に無理やり押し込められた状態であった。この「プライドと現実の巨大な乖離」こそが、直江兼続を前例のない規模の内政改革、すなわち直江堤築造を含む国家再建プロジェクトへと駆り立てた根本的な動因となる。軍事力による領土拡大という戦国時代の成功方程式が完全に封じられた今、残された道はただ一つ。領内の生産力を極限まで高める「内政の論理」によって、この絶望的な状況を打開することだけであった。

第二章:新天地のグランドデザイン ― 直江兼続の米沢藩経営構想

2-1. 戦国武将から藩経営者へ:兼続の思考の転換

米沢という新天地で、直江兼続は戦国武将から近世の藩経営者へと、その思考を大きく転換させる必要に迫られた。彼には、この種の事業における成功体験があった。若い頃、本拠地であった越後において、洪水を繰り返す信濃川の治水事業を手掛け、支流である中之口川を開削することで、新潟平野の基礎を築いた経験である 7 。この原体験は、米沢における国づくりの構想の確固たる基礎となった。

兼続が描いた米沢藩再生のグランドデザインは、「治水・利水」「殖産興業」「人材育成」を三本柱とする総合的な計画であった 9 。これらは個別の政策ではなく、相互に連携し、藩全体の国力を底上げすることを目的としていた。特に、治水事業は他のすべての政策の前提となる最重要課題と位置づけられた。軍事力で領地を守るだけでなく、内政によって国力そのものを「育てる」という、近世的な藩経営へのパラダイムシフトを、兼続は絶体絶命の状況下で主導したのである。

2-2. 米沢の地勢を読む:赤崩山からの測量伝説

兼続の計画が卓抜していたのは、その実証的なアプローチにあった。米沢城下の東を流れる松川(最上川の最上流部)は、頻繁に氾濫を繰り返す「暴れ川」であり、城下の発展と農業生産を阻害する最大の自然的脅威であった 9

伝承によれば、兼続は自ら赤崩山に登り、そこから米沢盆地全体の地形、米沢城と松川の位置関係を俯瞰し、堤防を築くべき最適の場所を特定したと伝えられている 6 。この逸話は、彼の計画が単なる机上の空論ではなく、地形と水理を熟知した上での、極めて科学的かつ戦略的な判断に基づいていたことを示唆している。彼は、この暴れ川を単に封じ込めるだけでなく、その力を利用して米沢を発展させる道筋までをも見通していた。

2-3. 治水こそ国づくりの礎:「直江兼続治水利水施設群」の全貌

直江堤は、単一の堤防事業ではなかった。それは、米沢盆地全体の水系をコントロールし、その価値を最大化しようとする壮大なシステムの一部であった。今日、「直江兼続治水利水施設群」として土木学会選奨土木遺産にも認定されているこの計画は、中核となる「谷地河原堤防(直江石堤)」を中心に、複数の施設が有機的に連携する一大ネットワークとして構想されていた 14

この計画の先進性は、洪水を防ぐ「治水」と、その水を農業用水や城下の生活用水として積極的に活用する「利水」を、同時に、そして体系的に実現しようとした点にある 9 。それは、自然の脅威をコントロールし、それを資源へと転換することで、表高30万石という徳川家から与えられた「器」を、実質的に拡大しようとする野心的な試みであった。この国土改造計画こそが、藩の収入の根幹である米の生産量を飛躍的に増大させ、多くの家臣団を養う唯一の活路だったのである。事実、この事業が基礎となり、米沢藩の実質的な石高は51万石に達したとも言われている 8 。これは、兼続が土木技術という非軍事的な手段によって、失われた石高の一部を自力で「取り戻した」に等しい成果であり、武力によらない「領土拡大」とさえ評価できるものであった。

表1:直江兼続治水利水施設群の概要

施設名

竣工年(推定)

主な目的と機能

現代における状況・備考

谷地河原堤防(直江石堤)

慶長6年(1601)頃着手

松川の洪水から米沢城下を防衛する治水の中核施設。

全長約3km。現在、「直江堤公園」として一部が現存し、市の史跡に指定されている 11

蛇堤(蛇土手)

慶長年間

直江石堤の下流域を防御し、万一の決壊時に被害を軽減する二次堤防。

全長約8km。現存するのは約120m 16

御入水堰

慶長年間

城下の生活用水や農業用水を取水するための堰。

9

堀立川

慶長14年(1609)

城下中心部への用水供給と排水を担う人工河川。「兼続川」の別名を持つ。

9

帯刀堰

慶長18年(1613)

藩領北西部の広大な農地を潤す灌漑用水の取水堰。木場川の水源。

現在も改修されながら利用され、米沢の農業を支えている 9

猿尾堰

年不詳

農業用水の取水堰。

9

室沢堰

年不詳

農業用水の取水堰。

14

巴堀

堀立川完成以降

用水路。

14

第三章:暴れ川との対峙 ― 直江堤築造のリアルタイム・クロノロジー

3-1. 慶長6年(1601年)~:普請の開始と「武士の土木工事」

直江堤を含む一連の治水事業は、上杉家が米沢に入封した直後の慶長6年(1601年)頃には着手されたと見られている 14 。この迅速な着工は、兼続がこの事業を藩経営における最優先課題と認識していたことの何よりの証左である。

深刻な財政難の中、この大事業の労働力をどう確保したのか。兼続が採用したのは、「御手伝(おてつだい)」という名目での藩士総出の賦役であった 11 。これは、単に人夫を雇う資金がなかったという経済的な理由だけではない。戦う場を失い、存在意義を見失いかけていた武士たちに、鍬や鋤を手に「国を造る」という新たな役割を与え、藩への帰属意識と一体感を醸成するという、極めて高度な社会政策的意図が込められていた。刀を置いた武士たちが泥にまみれて働く姿は、上杉家が新たな時代を生き抜くための象徴的な光景であった。

3-2. 計画から築堤へ:戦国の知恵が活きる土木技術

直江堤の構造には、戦国時代に培われた土木技術の粋が集められていた。堤防は、総延長が約3kmから10kmにも及ぶ大規模なもので 11 、その断面は上幅約5m、底幅約10m、高さ約2mという堅固なものであった 6

特筆すべきは、その工法である。堤の斜面は、自然石を巧みに組み合わせて積み上げる「野面積み」で覆われていた 6 。これは、戦国時代の城郭の石垣にも用いられた技術であり、水の浸食に強い堅牢な構造を誇る。兼続がこの堤を、単なる土手ではなく、半永久的に機能する石造りの構造物として構想していたことがうかがえる。

さらに、その危機管理思想は「二重堤」という構造に顕著に表れている。主たる石堤の約100m内側には、「蛇堤」と呼ばれるもう一つの堤防が設けられていた 6 。これは、万が一、松川の激流で主堤防が決壊した場合でも、その氾濫流の勢いを削ぎ、城下への被害を最小限に食い止めるためのフェイルセーフ(多重防御)思想である。常に最悪の事態を想定し、幾重にも備えを巡らせる思考は、まさに戦国の世を生き抜いた武将ならではのものであった。

3-3. 慶長13年(1608年)のリアルタイム状況

本報告書の主題である慶長13年(1608年)は、事業開始から約7年が経過し、プロジェクトが佳境に入った時期と位置づけられる。中核施設である谷地河原堤防(直江石堤)がその威容を現し、米沢の治水システムとして本格的に機能し始めた重要な年であった。

現場では、兼続自らが陣頭指揮を執ったと伝えられている 11 。夏の酷暑や、盆地特有の厳しい冬の寒さの中、身分に関わらず藩士たちが一体となって石を運び、土を突き固める。その困難さを物語るかのように、ある伝説が残されている。川の氾濫が収まらない時、兼続が愛刀「水神切兼光」で水神を斬り伏せると、荒れ狂う川が鎮まったというものである 3 。この伝説は、科学的な事実ではないにせよ、この事業がいかに困難を極めたか、そしてそれを克服しようとする人々の祈りと、兼続というリーダーに対する絶大な期待を象徴している。

この築造プロセスそのものが、上杉家という組織を「軍事集団」から「藩という運命共同体」へと変革させる、社会的な装置として機能した。物理的な堤防を築くと同時に、敗戦で打ちひしがれた家臣団の心の中に、「米沢藩士」としての一体感と、自らの手で未来を築くという新たな誇りを築き上げていたのである。それは、失われた自信を回復させるための、壮大なソーシャル・エンジニアリングであったとも解釈できる。

第四章:堤に込められた「戦国の精神」 ― 土木事業の多角的分析

4-1. 守るための治水、生み出すための利水

直江堤が持つ第一の意義は、言うまでもなく、藩の生存基盤の確立である。洪水という抗いがたい自然の脅威から城下と田畑を守ることは、領民の生命と財産を守ることであり、為政者としての最も基本的な責務であった 11 。この安全が確保されて初めて、藩政は安定の軌道に乗ることができる。

しかし、兼続の狙いはそれだけに留まらなかった。堰や用水路を通じて安定的に水を供給することで、新たな田を開墾し(新田開発)、農業生産力を飛躍的に向上させること、すなわち「富の創出」こそが真の目的であった 11 。これは、4分の1に削減された石高という制約の中で、膨大な家臣団を養い、藩の持続可能性を確保するための、極めて積極的な未来への投資だったのである。

4-2. 見えざる「城」としての堤:国土そのものを要塞化する思想

戦国時代が終わり、徳川の治世が始まると、大名が自由に城を築いたり、軍備を拡張したりすることは幕府によって厳しく監視されるようになった。このような状況下で、直江堤は単なる治水施設以上の、多義的な意味合いを帯びてくる。

一つは、米沢城下を守る広大な外郭防衛線としての軍事的含意である。有事の際には、墓石を積み上げてバリケードとして転用できるように設計したとされる「万年塔」の発想と同様に 7 、平時のインフラが有事の備えともなるという、兼続の多角的な安全保障観が垣間見える。

しかし、より本質的なのは、物理的な防御から経済的な防御への転換である。兼続は、豊かな経済力と安定した民政こそが、藩の独立性を保ち、幕府から改易の口実を与えない最大の「防御」であると喝破していた。飢えた領民と財政破綻した藩は、容易に潰される。国を富ませ、民を安んじることこそが、新しい時代における最大の国防であるという思想が、この石堤には込められていた。

4-3. 武士の誇りと結束の再構築

治水事業は、上杉家臣団の精神的な再建にも寄与した。敵は徳川軍ではなく、「暴れ川・松川」という自然の脅威。この共通の敵との戦いは、敗戦で失われた彼らの目標と一体感を再構築する絶好の機会となった。刀を鍬に持ち替えても、国を守り、民を救うという武士の本分は変わらないという強烈なメッセージを、兼続は言葉ではなく行動で示したのである。

兼続の有名な兜の前立てには、大きく「愛」の一文字が掲げられている 8 。この「愛」が、軍神である「愛染明王」を指すと同時に、「仁愛」や「愛民」の精神を意味するのであれば、この治水事業はまさにその哲学を大地に刻みつけたものであった。民の生活を守り、慈しむことこそが、新しい時代の武将が歩むべき道であるという彼の信念が、この壮大な石堤には凝縮されている。

直江堤は、戦国時代の軍事思想を、近世の内政思想へと「翻訳」し、「昇華」させた記念碑的事業であると言える。城を築き、堀を巡らせて敵の侵攻を防ぐという発想が、堤を築き、用水路を巡らせて自然の脅威(洪水)と経済的脅威(貧困)という新たな敵を防ぐという発想へと、見事に転換されている。兼続は、戦国時代に培った土木技術と組織動員のノウハウを、軍事目的ではなく、民生の安定と経済発展という内政目的に全面的に振り向けた。それは、彼の類稀なる思考の柔軟性と、時代の変化への適応能力の高さを物語っている。

第五章:石堤が紡ぐ四百年の遺産

5-1. 米沢藩の礎を築く

直江兼続が心血を注いだ治水事業は、その後の米沢藩の歴史に決定的な影響を与えた。松川の氾濫が抑制され、安定した用水が供給されるようになったことで、米沢藩の農業生産は飛躍的に安定し、藩の存続と発展の揺るぎない物理的な基礎が築かれた 11

兼続が築いたこの国づくりの精神と基盤は、後の時代、江戸中期に登場し、破綻寸前だった藩財政を見事に再建した名君・上杉鷹山による藩政改革へと脈々と受け継がれていく。鷹山もまた、藩主就任後にこの直江堤を視察し、先人の偉業に学んだと伝えられている 11 。兼続が国土というハードウェアを整備し、鷹山が制度や人心というソフトウェアを改革したことで、米沢藩は幕末まで存続し得たと言っても過言ではない。

5-2. 近世から近代、そして現代へ

築造から四百年以上の時を経て、直江堤は米沢の歴史と共にあり続けた。江戸時代を通じて、堤は度重なる洪水による破損と修理を繰り返しながら、米沢の地を守り続けた 12 。その維持管理の記録は、米沢の人々と最上川との、絶え間ない関わりの歴史そのものである。

明治以降、近代的な治水技術が導入される中で、直江堤が果たしてきた役割も徐々に変化していった。しかし、その歴史的価値が失われることはなかった。昭和58年(1983年)に行われた護岸工事の際には、単にコンクリートで固めるのではなく、先人の偉業に敬意を表し、景観に配慮して表面を石積風に見せる特殊な工法が採用された 21

5-3. 史跡「直江堤公園」として生きる兼続の偉業

現在、往時の姿を留める石堤の一部が残る河川敷は「直江堤公園」として美しく整備され、春には桜が咲き、秋には芋煮会やバーベキューを楽しむ人々で賑わう、市民にとってかけがえのない憩いの場となっている 13

公園内には、兼続の生涯と偉業を紹介する石碑が点在し、子供たちが歴史を学ぶ生きた教材としても活用されている 19 。四百年の時を超えて、直江兼続が堤に込めた「愛民」の精神は、形を変えながらも、現代の米沢に生き続けている。直江堤は、単なる過去の土木遺産ではない。それは、絶望の淵から国を再興しようとした一人の武将の叡智と情熱、そして未来への希望を、今に伝える壮大な物語なのである。

引用文献

  1. 直江兼続(なおえかねつぐ) - 米沢観光ナビ https://travelyonezawa.com/spot/naoe-kanetsugu/
  2. 直江兼続の生涯 - 長岡市 https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/ijin/kanetsugu/syougai.html
  3. 直江兼続の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34217/
  4. 直江兼続が指揮した治水事業 - 子どものためのニュース雑誌「ニュースがわかるオンライン」 https://www.newsgawakaru.com/knowledge/20213/
  5. 米沢市: 直江石堤 - 山形県の町並みと歴史建築 https://www.dewatabi.com/okitama/yonezawa/tutumi.html
  6. 直江石堤 ~歴史ある治水事業を今に伝える~ - 米沢平野土地改良区 https://www.yonezawa-heiya.or.jp/pages/37/detail=1/b_id=156/r_id=6/
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  8. 直江兼續- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E5%85%BC%E7%BA%8C
  9. 米沢期|直江兼続・米沢.com http://www.naoe-kanetugu.com/kanetugu/yonezawa_move.html
  10. 直江工事・万治工事 https://www.hrr.mlit.go.jp/shinano/367/chisui/s_01.html
  11. 直江兼続が指揮した治水事業 緒方英樹 連載18 - ソーシャルアクションラボ https://socialaction.mainichi.jp/2021/06/17/1216.html
  12. 直江山城守兼続 https://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/enc/genre/02-reki/reki0206_001.html
  13. 直江堤公園 | 山形 米沢 おすすめの人気観光・お出かけスポット - Yahoo!トラベル https://travel.yahoo.co.jp/kanko/spot-00020913/
  14. 直江兼続治水利水施設群 - 選奨土木遺産 https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/86
  15. 日 本 大 学 工 学 部 紀 要 https://www.ce.nihon-u.ac.jp/researchcenter/wp-content/uploads/2023/10/kiyo65-1.pdf
  16. 直江石堤と米沢市芳泉町の生垣・町並み景観 | ふるさとやまがた発見ナビ https://kyodoai-yamagata.jp/naoesekiteitohosenmachi/
  17. 【米沢の史跡】 蛇堤(へびつつみ):上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - samidare http://samidare.jp/u_jidaikan/note.php?p=log&lid=286681
  18. 直江石提|米沢観光NAVI https://www.yonezawa-kankou-navi.com/historic/naoe_stonelevee.html
  19. 直江石堤(直江堤公園) - 米沢観光ナビ https://travelyonezawa.com/spot/naoe-sekitei/
  20. 河川の現状と課題 )治水事業の沿革 2 最上川の治水は、古くは米沢 ... http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/seibikeikaku/dl/p07.pdf
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  22. 直江堤公園 - やまがた子育て応援サイト - 山形県 https://kosodate.pref.yamagata.jp/odekake/naoe
  23. 山形芋煮マップ 直江堤公園 https://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/enc/genre/08-kan/kan0108_002_003_23.html
  24. 直江堤公園(直江石堤) | 子供とお出かけ情報「いこーよ」 https://iko-yo.net/facilities/58480