最終更新日 2025-09-14

直江状送付(1600)

慶長5年(1600年)、徳川家康の詰問に上杉家老直江兼続は挑発的な「直江状」を送付。これが家康の会津征伐を招き、石田三成挙兵を誘発、関ヶ原の戦いの直接的な引き金となった。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

『慶長五年、天下動乱の号砲:「直江状」の真相と関ヶ原への道』

序章:巨星墜つ—豊臣政権の黄昏と徳川家康の野心

慶長3年(1598年)8月18日、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を閉じた 1 。日本の歴史における一つの時代が終わりを告げた瞬間であった。秀吉が遺したのは、まだ幼い嫡子・秀頼と、その将来を案じて構築された、極めて脆弱な権力均衡システムであった。このシステムは、徳川家康を筆頭とする五大老(家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)と、石田三成ら五奉行による合議制を中核としていた 2 。秀吉は遺言の中で、有力大名間の無許可の婚姻を固く禁じ、また家康には当面の在京を命じるなど、特定の人物への権力集中を阻止するための幾重もの枷を設けていた 4 。この精緻な設計は、五大老の筆頭である家康と、それに次ぐ実力者であった前田利家という二つの重石が存在して初めて、その均衡を保つことができたのである 6

しかし、秀吉の死という巨大な権力の空白は、徳川家康の隠された野心を解き放つに十分であった。家康は秀吉の死後、間髪を入れずにその遺言を公然と破り始める。伊達政宗、福島正則、加藤清正といった、豊臣恩顧でありながら武断派として知られる有力大名たちと次々に無許可で婚姻関係を結んでいったのである 4 。これは単なる規則違反ではなかった。豊臣政権の最高規範であった太閤の遺言を無視するという行為は、他の全ての大名に対し、「誰が次代の秩序を形成する実力者であるか」を問いかける、極めて計算された政治的挑発であった。この行動により、諸大名は否応なく自らの立ち位置を決めざるを得なくなる。旧来の秩序に固執し秀吉の遺言を遵守しようとする勢力と、新たな実力者である家康に追従する勢力とを、家康は自らの手で峻別し始めたのである。

この権力の天秤が決定的に家康へと傾いたのが、慶長4年(1599年)の政権の重鎮・前田利家の死であった。家康を抑制しうる唯一の存在が消え去ると、彼は即座に次の手を打つ。利家の跡を継いだ前田利長に謀反の嫌疑をかけ、その母である芳春院を人質として江戸に送らせることで、百万石を誇る加賀前田家を事実上屈服させたのである 7

家康による露骨な天下獲りの動きに対し、豊臣政権の屋台骨を支えてきた五奉行の一人、石田三成は強烈な危機感を募らせていた。三成は、家康に対抗しうる勢力を結集すべく奔走し、その最大の期待を寄せたのが、同じく五大老の一角を占める上杉景勝であった 1 。景勝は義侠心に厚い人物として知られ、秀吉からも秀頼の後事を託された律儀者と目されていた 4 。三成は、景勝と連携し、家康の拠点である江戸を東西から挟撃するという壮大な戦略構想を描き始める。家康にとって、豊臣恩顧の武断派を巧みに取り込み、最大のライバルであった前田家を屈服させた今、次なる標的が、巨大な軍事力を保持し、かつ政敵・石田三成との連携が公然と噂される上杉景勝となるのは、政治力学上、もはや必然の流れであった 4 。こうして、日本の運命を左右する対立の構図は、会津の地を新たな焦点として、急速に形成されていくことになる。

第一章:北方の雄、会津に拠る—上杉景勝の領国経営と軍備増強の実態

徳川家康が次なる標的としてその視線を向けた上杉家は、当時、新たな領地である会津で精力的な国づくりを進めていた。しかし、その一連の行動が、結果として家康に「謀反」という絶好の口実を与えることになる。

会津120万石への移封とその戦略的意味

慶長3年(1598年)、上杉景勝は豊臣秀吉の命により、本拠地であった越後91万石から会津120万石へと加増移封された 2 。120万石という石高は五大老にふさわしい破格の待遇であり、表向きは栄転であった。しかし、その配置には秀吉の深謀遠慮が見て取れる。会津の北には奥州の独眼竜・伊達政宗が、そして南には関東に広大な領地を持つ徳川家康が控えていた。上杉家は、これら強力な大名に挟まれ、彼らを牽制・監視するという、豊臣政権にとっての「奥羽の押さえ」としての役割を課せられたのである 10 。それは栄誉であると同時に、常に緊張を強いられる極めて困難な立場であった。

帰国後の領国経営と「軍備増強」

慶長4年(1599年)8月、上洛していた景勝は会津へと帰国し、家老の直江兼続と共に直ちに領国経営に着手した 2 。その施策は多岐にわたったが、秀吉死後の緊迫した政治情勢下において、その全てが軍事的な意図を持つものとして解釈されることになる。

  • 神指城の築城: 慶長5年(1600年)2月10日、景勝は兼続に命じ、神指原(こうざしはら)の地に新たな城の建設を開始した 10 。この神指城は、従来の居城であった鶴ヶ城が盆地の東に偏り、手狭であったことから計画されたもので、その規模は鶴ヶ城の約2倍にあたる55ヘクタールにも及ぶ壮大なものであった 9 。完成すれば奥州を代表する巨大城郭となるはずだったこの築城計画は、家康に謀反の意図を疑わせる最大の要因となった 11
  • インフラ整備と経済政策: 兼続は領内の街道を整備し、各所に橋を架けるなど、インフラ整備を大規模に推し進めた 2 。これは軍勢の迅速な移動を可能にする軍事道路の整備と見なされたが、同時に上杉家にとっては別の狙いもあった。神指城が阿賀野川の近くに計画されたことからもわかるように、水運を利用した新たな経済拠点を構築し、120万石の領地を実質的に豊かにするという、領主として当然の統治行為でもあったのである 9
  • 武備の充実: 同時に、上杉家は全国から名のある浪人を積極的に召し抱え、軍事力の増強を図った 2 。さらに、おびただしい量の鉄砲、弓矢、槍といった武具を収集・製造したことも、周辺大名を通じて家康に報告されている 10 。特に兼続は鉄砲の重要性に着目しており、その研究と配備に熱心であったことが知られている 7

これら上杉家の行動は、新領地を安定的に支配し、経済を発展させるための「領国経営」という側面と、来るべき動乱に備えるための「軍事準備」という二重性を持っていた。平時であれば、これらは有能な領主の務めとして賞賛されたかもしれない。しかし、家康との対立が先鋭化する中では、その行動の解釈権は、より大きな政治力を持つ家康の側にあった。家康は、これらの行動の軍事的側面のみを意図的に強調し、喧伝することで、上杉家を「豊臣家に牙を剥く謀反人」として断罪するための論理と大義名分を、着実に構築していったのである。上杉家にとっては正当な統治行為が、家康の政治的フィルターを通すことで、討伐されるべき罪状へと姿を変えていったのだ。

第二章:疑惑の連鎖—家康に届いた讒言と問罪使の派遣

会津における上杉家の精力的な領国経営は、周辺大名や家中の不満分子を通じて、歪められた形で中央の徳川家康へと報告されていった。一つ一つの情報は、家康の政治的意図の中で「謀反の証拠」として積み上げられ、やがて上杉家を追い詰める巨大な疑惑の連鎖を形成していく。

周辺大名からの報告(讒言)

上杉家の動向に最も神経を尖らせていたのは、南に隣接する越後の領主・堀秀治であった。越後は上杉家の旧領であり、秀治は景勝が国境地帯で道路建設や橋の修理を行っていることを、自領への侵攻準備であると解釈した 10 。彼はその危機感を再三にわたり家康に注進し、上杉家の不穏な動きを訴え続けた 15 。また、北で上杉領と接する最上義光らも、同様に上杉家の軍備増強に関する情報を家康に送り、その警戒心を煽っていた 12 。これらの報告は、客観的な事実であったとしても、報告者の警戒心というフィルターを通して、敵対的意図の証拠として家康の元に届けられたのである。

重臣・藤田信吉の出奔と讒言

外部からの報告に加え、家康の疑惑を決定的なものにしたのが、上杉家内部からの告発であった。慶長5年(1600年)1月、上杉家の重臣であった藤田信吉は、年賀の挨拶の使者として上洛した際、家康に接近し、何らかの密約を交わしたとされる 10 。会津に帰国後、家康から下賜された刀や銀が家中で問題視され、信吉は裏切り者との烙印を押され、命の危険に晒される。もともと直江兼続との間に確執があったとも言われ、家中での立場を失った信吉は、同年3月15日、ついに上杉家を出奔する 10

江戸に逃れた信吉は、家康の嫡子・徳川秀忠と面会し、「主君・景勝に謀反の計画あり」と讒言したのである 10 。譜代の重臣による内部告発は、それまでの周辺大名からの報告とは比較にならないほどの信憑性を持ち、家康に上杉家を断罪するための強力な根拠を与えた。

問罪使の派遣と西笑承兌の詰問状

外部と内部、双方から「謀反の証拠」を固めた家康は、ついに具体的な行動を開始する。慶長5年(1600年)4月1日、家康は自らの外交顧問であった臨済宗の僧侶・西笑承兌(さいしょうじょうたい)に命じ、上杉家の罪状を問う詰問状(弾劾状)を起草させた 12 。そして、この書状を問罪使に任じた伊奈昭綱と河村長門に託し、会津へと派遣したのである 12

西笑承兌によって書かれた詰問状は、表向きは穏やかながら、極めて厳しい内容を含んでいた。その要点は以下の通りである。

  1. 上洛遅延への不審: まず、景勝が新年の挨拶のために上洛しないことについて、内府様(家康)が不審に思っていると指摘する 15
  2. 軍備増強の追及: 神指城の築城や、道・橋の整備、武具の収集といった一連の行動は、穏当ではなく、謀反の噂の元となっていると咎める 15
  3. 讒言の存在: 堀秀治らからの報告が再三にわたって届いており、もはや単なる噂では済まされない状況にあると圧力をかける 15
  4. 上洛と弁明の要求: もし謀反の意志がないのであれば、その旨を記した誓書を提出した上で、速やかに上洛し、直接弁明すべきであると要求する 12
  5. 前田利長の事例: 参考事例として、同じく謀反を疑われた前田利長が、家康の道理に適った処置に従ったことで疑いを晴らしたことを挙げ、上杉家にも同様の賢明な対応を暗に促す 15

この詰問状は、単なる事実確認の書状ではなかった。それは、上杉家に二者択一を迫る、巧みに仕掛けられた政治的な罠であった。もし要求に応じて上洛すれば、前田家がそうであったように、事実上の人質を差し出し、家康の権威の前に屈服することを意味する。もし上洛を拒否すれば、それ自体が「謀反の確定的な証拠」と見なされ、家康は天下に討伐の大義名分を掲げることができる。どちらに転んでも家康に有利な状況が生まれるよう、周到に計算された一手であった。上杉家は、弁明の機会を与えられたように見えて、実質的にはその逃げ道を完全に塞がれていたのである。

第三章:世紀の返書「直江状」—理と挑発の応酬

徳川家康が仕掛けた巧妙な政治的罠に対し、上杉家が返した一通の書状。それが、日本の歴史の流れを大きく変えることになる「直江状」である。慶長5年(1600年)4月14日、家康からの問罪使が会津に到着したとされる翌日、上杉家家老・直江兼続は、西笑承兌への返書という形で、この世紀の返書を世に送り出した 15 。形式上は僧侶である承兌個人への手紙だが、その内容は実質的に、天下の実力者・徳川家康に対する上杉家の公式回答であった。

条項別徹底解説—論理による反駁と痛烈な皮肉

「直江状」は、家康側の詰問の一つ一つに対し、理路整然と、しかし極めて辛辣な皮肉と挑発を込めて反論する構成をとっている。その内容は、上杉家の誇りと、権力に屈しないという断固たる意志の表明であった。

  • 上洛遅延について: 兼続はまず、上洛が遅れているとの非難に対し、「景勝は一昨年に国替えとなり、昨年九月にようやく会津に帰国したばかり。加えて当国は十月から三月まで雪に閉ざされる雪国である。この間に上洛せよというのは、一体いつ国の政務を執れというのでしょうか」と、地理的・時間的制約を挙げて、その要求が非現実的であることを論理的に説明した 15
  • 武具収集について: 武具を集めていることが謀反の証拠だという点については、「我々のような田舎武士が、鉄砲や弓矢を収集するのは当然の嗜みです。上方の方々のように、茶器や道具ばかり集めているのとは訳が違います」と、文化や価値観の違いを挙げて一蹴する 15 。これは、家康をはじめとする中央の武将たちへの痛烈な皮肉であった。
  • 道・橋の整備について: 堀秀治が讒言したインフラ整備については、さらに語気を強める。「そもそも、謀反を企む者が、敵を招き入れやすくするためにわざわざ道や橋を整備するでしょうか。むしろ道を塞ぎ、防御を固めるのが軍事の常識です。堀殿は戦を知らぬ無分別者としか思えません」と、軍事常識に照らして相手の主張の矛盾を突き、讒言者である堀秀治を「うつけ者」とまで断じた 15
  • 家康の姿勢への批判: 兼続の筆鋒は、やがて家康自身へと向けられる。「讒言をする者を吟味もせず、一方的に我々を疑うというのは、内府様(家康)に裏表があるのではないかと勘繰られても仕方ありますまい」と、家康の裁定が不公正であることを鋭く指摘し、その権威に真正面から異を唱えた 15
  • 前田家の件への言及: 詰問状が手本として挙げた前田利長の件については、最も挑発的な一節で応じている。「北国の肥前殿(前田利長)の一件が、内府様のお考え通りに決着したのは、まことに御威光が強いためでしょうな」と記した 15 。これは、前田家の屈服が道理によるものではなく、家康の強大な力によってねじ伏せられた結果に過ぎないと断じる、強烈な皮肉であった。そして、我々上杉家はそのような圧力には屈しないという意志を暗に示したのである。
  • 結論としての態度表明: 最後に兼続は、「景勝に逆心など毛頭ございません。しかし、讒言だけを信じ、このように追い詰められては、上洛しようにもできません。もし我々の言い分を聞き入れず、不義の扱いをされるのであれば、是非に及ばず(やむを得ない)」と、不当な要求には武力をもって応じる覚悟があることを、断固たる口調で表明したのであった 15

【表1】「家康の詰問」対「直江状の反論」対照表

家康側の詰問と、それに対する直江状の反論の応酬は、以下の表のようにまとめることができる。この対比は、兼続がいかに家康の論理の矛盾を突き、挑発を交えながら反論したかを明確に示している。

家康側(西笑承兌書状)の詰問要旨 15

直江状の反論要旨 15

1. 上洛が遅れているのは不審である。

雪国であり、国替え直後で多忙である。今上洛するのは非現実的だ。

2. 神指城築城や武具収集は謀反の準備か。

領国経営の一環であり、田舎武士の当然の嗜みに過ぎない。

3. 堀秀治が謀反と報告している。

堀秀治は戦を知らぬうつけ者だ。謀反を企むなら道を塞ぐはずだ。

4. 異心がないなら上洛し弁明せよ。

讒言を一方的に信じる貴殿が不公正だ。まず讒言者を糾明するのが筋だ。

5. 前田利長も従った。手本とせよ。

それは貴殿の威光が強いからだ(力ずくで屈服させただけではないか)。

この「直江状」は、単なる感情的な挑発状ではなかった。それは、家康が掲げる「討伐の大義名分」そのものを、論理的に、そして根底から覆そうとする、極めて高度な政治的プロパガンダ文書であった。兼続は、この書状が家康だけでなく、全国の諸大名の間で回覧されることを見越していた。そして、「豊臣家の秩序を乱しているのは、讒言を信じて忠臣を討とうとする家康か、それとも理と義を貫こうとする上杉か」という問いを天下に突きつけ、世論を味方につけようと試みたのである。それは、関ヶ原の合戦に先駆けて繰り広げられた、熾烈な「情報戦」の幕開けであった。

第四章:史料批判—この書状は真筆か、偽書か

「直江状」が徳川家康を激怒させ、会津征伐、ひいては関ヶ原の戦いの引き金になったという物語は、あまりにも劇的である。しかし、歴史学の世界では、この書状そのものの信憑性をめぐり、長年にわたって激しい論争が繰り広げられてきた。その真贋は、事件の核心に触れる重要な問題である。

偽書説・改竄説の論拠

「直江状」は後世の創作、あるいは大幅に手が加えられたものではないか、と主張する研究者は少なくない。その論拠は多岐にわたる。

  • 書札礼(手紙の様式)の問題: 歴史学者の宮本義己氏らが指摘する最大の疑問点の一つが、手紙の作法である。書状の中で、豊臣政権の奉行である増田長盛や大谷吉継といった要人に対して、「増右」「大形少」といった極端な省略形が用いられている 18 。これは公式な外交文書において、相手方への敬意を著しく欠く表現であり、常識からかけ離れていると指摘される。
  • 使者の移動日数の矛盾: 「直江状」の前書には、家康の使者である伊奈昭綱らが会津に到着したのは4月13日と記されている 18 。しかし、別の史料によれば、彼らが伏見を出発したのは4月10日であり、わずか3日で会津に到着した計算になる 18 。当時の交通事情を考えれば、京都から会津までの移動には通常2週間前後はかかり、物理的に不可能である 18 。この時間的な矛盾は、偽書説の強力な根拠となっている。
  • 文体の問題: 渡邊大門氏などの研究者は、文体そのものにも不自然さを指摘する。同時代の他の古文書が抽象的で難解な表現を多用するのに対し、「直江状」は驚くほど明快で分かりやすい 18 。内容があまりに整理され、丁寧すぎる点が、かえって同時代史料としての信憑性を損なっているという見方である。

これらの点から、偽書・改竄説を唱える論者は、「直江状」は完全な偽書であるか、あるいは江戸時代に入ってから、徳川家による会津征伐を正当化する目的や、逆に関ヶ原で敗れた上杉家の敗戦の責任を直江兼続一人に負わせる目的で、大幅に創作・改竄された可能性が高いと結論付けている 15

真筆説・留保付き肯定説の論拠

一方で、「直江状」は基本的に当時の史料であると主張する肯定派の反論も根強い。

  • 書札礼について: 歴史学者の笠谷和比古氏らは、無礼とされる表現について、兼続と書状の宛先である西笑承兌が旧知の間柄であったため、ある程度砕けた表現が用いられた可能性を指摘する 18 。また、家康への怒りから、激情に任せて一気に書き上げたため、細かな推敲を欠いた部分があったとも考えられる 18
  • 移動日数について: 日付の矛盾に関しては、公式の使者である伊奈昭綱らが詰問状を持って出発するのに先立ち、同内容の書状が飛脚便によって先に会津にもたらされていたと仮定すれば、説明が可能であると反論している 18 。つまり、4月1日に書かれた詰問状がまず非公式に送られ、それに対する返書が4月14日付の「直江状」であったという説である。
  • 史料の存在: 「直江状」の写しは複数現存し、特に上杉家の公式記録である『上杉家御年譜』などにも収録されている 18 。これは、少なくとも江戸時代を通じて、上杉家自身がこの書状を本物として認識し、後世に伝えてきたことを示している。

専門家としての見解

「直江状」の原本が発見されていない以上、その真贋論争に最終的な決着をつけることは極めて困難である 19 。しかし、この問題を考える上で重要なのは、書状が100%の真筆であるか、100%の偽書であるかという二元論に留まらない視点である。

たとえ後世の創作や改竄が一部に含まれていたとしても、「直江状」が描き出す、巨大な権力に理と義をもって対抗しようとする上杉家の矜持や、家康側の詰問に対する具体的な反論の論理は、当時実際に存在したであろう「歴史的記憶」や政治的空気を色濃く反映していると考えられる。

結論として、この書状は、その真贋問題そのものを含めて、歴史的に極めて重要な価値を持つ。なぜなら、真筆であれ偽書であれ、この一通の文書が江戸時代を通じて「徳川家康に一歩も引かなかった直江兼続の気骨の象徴」として語り継がれ、関ヶ原の戦いの勃発を説明する物語の中核を担ってきたという、その「受容の歴史」自体が、我々に戦国末期の価値観の衝突を雄弁に物語っているからである。

第五章:激震、東へ—家康の決断と会津征伐の始動

直江状という名の挑戦状は、家康の元へと届けられた。これが、天下の形勢を決定づける軍事行動の直接的な引き金となる。しかし、その後の家康の行動は、単なる感情的な反応ではなく、全てが計算され尽くした政治的戦略の一環であった。

家康の反応—計算された「激怒」

江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』などによれば、「直江状」を読んだ家康は、その傲慢無礼な内容に激怒し、即座に上杉討伐を決意したとされている 15 。この「家康の激怒」という逸話は、会津征伐を正当化する物語として、後世に広く受け入れられてきた。

しかし、秀吉の死後からの一連の家康の行動を俯瞰すれば、この「激怒」が、諸大名に対して討伐の正当性をアピールするための、巧みな政治的パフォーマンスであった可能性は極めて高い。家康は、上杉家を屈服させるか、あるいは討伐するための口実を求めていた。上杉家が上洛を拒否することは、家康にとって織り込み済みのシナリオであっただろう。そこに届けられた「直江状」の挑発的な文面は、家康が待ち望んでいた「討伐の大義名分」を完成させる、最後の一押しとなったのである 20 。彼はこの書状を諸大名に回覧し、「上杉の無礼」を天下に示すことで、自らの軍事行動を豊臣家に対する逆賊を討つ「公儀の戦い」として位置づけることに成功した。

会津征伐の軍令発布と諸大名の動員

慶長5年(1600年)6月、家康はついに諸大名に対し、上杉景勝討伐の軍令を発した。豊臣秀頼の名を前面に押し出すことで、この戦いが私戦ではなく、豊臣家のための戦いであることを巧みに演出し、豊臣恩顧の大名たちをも動員する体制を整えた。

  • 6月18日: 家康は大坂城西の丸を出て、伏見城に入る。ここから東征の具体的な準備が始まる。
  • 7月21日: 準備を整えた家康は、江戸城を出発。自ら大軍を率いて、会津へ向けて進軍を開始した 21

この一連の動きは、石田三成ら反家康派の動向と密接に連動しながら、天下分け目の決戦へと向かっていく。

【表2】「直江状」送付から関ヶ原の戦いまでの詳細年表

慶長5年の春から秋にかけての数ヶ月間は、日本の歴史が最も激しく動いた時期の一つである。家康、三成、そして上杉家、それぞれの思惑が交錯し、事態は刻一刻と変化していった。そのリアルタイムな状況は、以下の年表によって浮き彫りになる。

年月日

家康・東軍の動向

石田三成・西軍の動向

上杉景勝の動向

慶長5年4月1日

西笑承兌に上杉家への詰問状を起草させる 12

4月14日

直江兼続が返書として「直江状」を執筆したとされる 16

5月頃

「直江状」を受け取り、会津征伐の意思を最終的に固める 20

家康の東征を好機と捉え、毛利輝元らと連携し挙兵計画を具体化。

領内の防備を固め、家康軍の侵攻に備える。

6月16日

諸大名に会津征伐への出陣を命令。

7月12日

家康不在の伏見城を攻撃する計画を立て、諸大名に檄を飛ばす。

7月17日

家康の豊臣家に対する違背行為を13か条にまとめた弾劾状(内府ちかひの条々)を公表し、大坂で挙兵 22

7月19日

西軍、伏見城への攻撃を開始。

7月21日

家康、江戸城を出陣し、会津へ向かう 21

7月24日

家康、下野国小山(現在の栃木県小山市)に本陣を置く 23

7月25日

小山評定 。三成挙兵の報を受け、会津攻めの中止と全軍の西上を決定 25

8月1日

伏見城が落城。

9月15日

関ヶ原の戦い で西軍と激突し、勝利を収める。

関ヶ原で東軍に敗北。

家康軍主力が西上した隙に、北の最上義光領へ侵攻(長谷堂城の戦い)。

この年表は、各勢力が互いの動きを探りながら、いかに迅速に、しかし決定的な決断を下していったかを示している。家康が江戸を出陣した時点で、三成は既に行動を開始しており、東西での同時多発的な動乱が避けられない状況であったことがわかる。そして、その全ての始まりは、会津から発せられた一通の書状だったのである。

第六章:西からの狼煙—小山評定と天下分け目の戦いへ

家康率いる大軍が会津へ向けて進む中、事態は誰もが予期しえなかった、あるいは家康だけが予期していたかもしれない劇的な転換を迎える。西からの狼煙は、戦いの主舞台を東北から畿内へと一変させ、上杉家の運命をも大きく左右することになった。

石田三成の挙兵と家康の戦略

家康が主力軍を率いて畿内を離れることは、石田三成にとって千載一遇の好機であった。家康が会津の上杉景勝に釘付けにされている間に、西国の大名を糾合し、反家康包囲網を完成させる。これが三成の描いた戦略であった 1 。慶長5年7月17日、三成は毛利輝元を総大将に担ぎ上げ、家康の罪状を糾弾する弾劾状を天下に公表し、大坂で挙兵した 22 。そして、家康が残した伏見城に猛攻を加え、その勢いを天下に示したのである。

この三成の挙兵は、一見すると家康の戦略を頓挫させるかに見えた。しかし、これは家康にとって、ある意味で計算通りの展開であった可能性も否定できない。家康は、三成と景勝の連携を察知しており、自らが東へ向かえば、必ずや三成が背後で動くことを読んでいた節がある。会津征伐は、上杉家を討つという表向きの名目と同時に、三成ら反家康派を炙り出し、一網打尽にするための壮大な「おびき出し作戦」であったという見方もできるのである。

慶長5年7月25日、小山評定

7月24日、下野国小山に本陣を置いていた家康のもとに、三成挙兵の急報がもたらされた 23 。翌25日、家康は従軍していた諸将を本陣に集め、歴史上名高い軍議「小山評定」を開いた 26 。家康は諸将に対し、「このまま会津の上杉を討つべきか、軍を返して西の石田を討つべきか」と問いかけた。さらに、「諸将の妻子は多くが大坂におり、人質同然であろう。それを案じて石田方に味方したとしても、決して恨みには思わぬ」と述べ、彼らの心を揺さぶった 27

この時、最初に家康への忠誠を表明したのが、豊臣恩顧の武断派の筆頭格である福島正則であった。彼は三成への積年の憎しみから、「内府様(家康)のために命を懸ける」と断言 27 。これに山内一豊らが同調し、他の豊臣系大名も次々と家康支持を表明した。これにより、雑多な大名の寄せ集めに過ぎなかった東軍は、「打倒三成」という共通の目的の下に固く結束し、全軍で西上することが決定したのである 26 。この劇的な展開は、後世の創作であるという説も有力だが 21 、家康が豊臣恩顧大名たちの三成への反感を巧みに利用して主導権を握ったことに変わりはない。

上杉家の戦略的孤立と戦後処理

上杉家の戦略は、家康の主力軍を会津の地に引きつけ、その間に西で三成が勢力を固めるという、東西連携が絶対的な前提であった 1 。しかし、家康が小山評定で驚くほど迅速に反転・西上を決めたことで、この戦略は根底から崩れ去った。上杉軍は、東軍主力を会津に足止めするという最大の戦略的役割を果たせぬまま、北の最上・伊達軍との局地戦に終始せざるを得なくなったのである。

関ヶ原の本戦には全く関与できないまま、9月15日の西軍壊滅の報が会津にもたらされる。万策尽きた上杉家は家康に降伏。慶長6年(1601年)、景勝と兼続は上洛し、伏見城で家康に謝罪した 7 。戦後処理において、上杉家は改易(領地完全没収)こそ免れたものの、会津120万石は没収され、出羽米沢30万石へと四分の一に及ぶ大減封処分を受けた 2 。かつて豊臣政権の五大老として天下に号令した上杉家は、この瞬間、一地方大名へと転落したのである。

結果的に見れば、会津征伐は家康にとって、まさに「二兎を追う」ための壮大な計略であった。もし三成が動かなければ、そのまま上杉家を屈服させ、東北地方を完全に平定する。そして、もし三成が動けば(そして家康はおそらく動くと確信していた)、それを口実に豊臣恩顧の大名をまとめ上げ、名実ともに反豊臣勢力(三成派)を討つ総大将として、天下分け目の決戦に臨む。直江状は、この家康の壮大なシナリオを開始するための、完璧な「号砲」として利用されたのであった。上杉家は、家康の天下取りという大局の中では、重要な役割を担わされた「駒」であり、三成をおびき出すための「餌」であったとも言えるだろう。

終章:「直江状」が歴史に刻んだもの

慶長5年(1600年)春、会津から発せられた一通の書状は、日本史の転換点において、計り知れないほどの大きな役割を果たした。その影響は、単に一つの合戦のきっかけとなったに留まらず、その後の日本の形を決定づけ、また後世の人々の心に深く刻み込まれることになった。

天下の形勢を決定づけた一通の書状

「直江状」は、徳川家康に会津征伐という大規模な軍事行動を起こすための、天下に示すことのできる最後の大義名分を与えた。そして、その家康の東征が、石田三成の挙兵を誘発し、関ヶ原の戦いへと直結した。この一連のドミノ倒しのような歴史の連鎖の起点には、常にこの書状が存在する。結果として、豊臣政権を事実上終焉させ、260年以上にわたる徳川幕府の礎を築く直接的な引き金となったという意味で、「直江状」は日本史上、最も影響力のあった文書の一つと言っても過言ではない。

直江兼続への再評価

この歴史的文書の筆者である直江兼続に対する評価は、時代や立場によって大きく分かれる。結果として、主家である上杉家を120万石から30万石への大減封という窮地に陥れたことから、そのあまりに挑発的な外交姿勢を「無謀」「思慮に欠ける」と批判する見方は根強く存在する。

しかし、一方で、彼の行動は別の光を当てることで全く異なる姿を見せる。それは、主君・上杉景勝の、そして越後の龍・上杉謙信以来の誇りを守るため、天下の覇権を握ろうとする巨大な権力に対し、一歩も引かずに理と義をもって対抗しようとした、類稀なる忠臣としての姿である 32 。彼の主張は単なる感情論ではなく、前述の通り、家康の論理の矛盾を突き、世論に訴えかけようとする「情報戦」という側面を持っていた。その知略と胆力は、敵であった家康自身からも高く評価されていたと伝えられている 32

「義」と「利」の激突の象徴として

「直江状」をめぐる一連の事変は、戦国時代の終焉期における二つの異なる価値観の激突を象徴している。一つは、亡き主君・豊臣秀吉への忠誠と、武士としての筋目や誇りといった「義」を重んじる上杉・石田方の価値観。もう一つは、天下の混乱を収め、泰平の世を築くという大義名分(あるいは実利)のもと、圧倒的な実力で新たな秩序を構築しようとする徳川家康の「利」の価値観である。

「直江状」は、この二つの価値観が、外交という名の戦場で最も先鋭的な形で火花を散らした瞬間を切り取った、歴史的なドキュメントである。その真贋論争を超えて、この書状が持つ劇的な物語性、すなわち巨大な権力に屈しない反骨の精神は、今なお多くの人々の心を惹きつけてやまない 34 。それは、時代の転換期において、人々が何を信じ、何のために戦ったのかを我々に問いかけ続ける、永遠の問いなのである。

引用文献

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  2. 上杉景勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
  3. 運命を分けた関ヶ原!戦国時代の天下人・豊臣秀吉を支えた5人の大名「五大老」たちの明暗 https://mag.japaaan.com/archives/226828
  4. 五大老と五奉行とは?役割の違いとメンバーの序列、なにが目的? - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/5elders5magistrate
  5. 豊臣秀吉が死んだあと、徳川家康がはじめにやったこととは⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/32485
  6. すべては秀吉の死から始まった:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(上) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06915/
  7. 直江兼続の名言・逸話31選 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/310
  8. 直江兼続の生涯 - 長岡市 https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/ijin/kanetsugu/syougai.html
  9. 会津若松市: 神指城 - 福島県 https://www.fukutabi.net/fuku/wakamatu/kouzasijyou.html
  10. 裏切りと讒言 上杉景勝の運命を変えた関ヶ原合戦前夜 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2322
  11. 神指城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/532
  12. 会津征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E5%BE%81%E4%BC%90
  13. 神指城跡 - 会津若松観光ナビ https://www.aizukanko.com/spot/147
  14. 神指城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%8C%87%E5%9F%8E
  15. 直江状 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6
  16. 徳川家康 関ヶ原に向けて・・・上杉討伐と三成の挙兵 - 歴史うぉ~く https://rekisi-walk.com/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%80%80%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%A8%8E%E4%BC%90%E3%81%A8%E4%B8%89%E6%88%90%E3%81%AE%E6%8C%99%E5%85%B5%E3%80%81%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AB%E8%87%B3%E3%82%8B/
  17. 「直江状」を超訳してみました。|北条高時 - note https://note.com/takatoki_hojo/n/ne377f24672aa
  18. 上杉景勝が家康に送った「直江状」は偽文書か? “否定派vs.肯定派 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10228?p=1
  19. 直江状写 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/164342
  20. 上杉景勝が家康に送った「直江状」は偽文書か? “否定派vs.肯定派”専門家の見解 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10228
  21. 徳川家康 小山評定から関ヶ原へ - 歴史うぉ~く https://rekisi-walk.com/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%80%80%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E5%88%86%E3%81%91%E7%9B%AE%E3%81%AE%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%B8%E9%80%B2%E3%82%80%E9%81%8E%E7%A8%8B/
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  23. 小山評定跡~徳川家康に開運をもたらした軍議 - パソ兄さん https://www.pasonisan.com/rvw_trip/15-10-oyama-hyoujou.html
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  31. 関ヶ原の戦いで改易・減封となった大名/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41120/
  32. 名補佐役、直江兼続が何より大切にした"人の和"|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-025.html
  33. 直江兼続の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34217/
  34. 直江兼続と刀/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7441/