最終更新日 2025-10-01

相良氏法度制定(1600)

慶長五年、相良氏は関ヶ原の動乱で存亡の危機に瀕した。家老犬童頼兄の智謀と非情な決断により、西軍に属しながらも東軍に内通し、所領安堵を勝ち取った。これにより相良氏は近世大名として存続した。
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肥後相良氏の存亡と法度:慶長五年(1600年)の動乱と近世への転換

序章:相良氏法度と慶長五年(1600年)—問いの再設定

慶長五年(1600年)、肥後国人吉の相良氏が「相良氏法度」を制定し、藩政の規範を整備したという事象は、日本の戦国時代から近世への移行期を理解する上で、極めて重要な問いを投げかける。しかしながら、この認識は歴史の複雑な実像を捉える上で、ある種の再定義を必要とする。史実を丹念に紐解くと、「相良氏法度」として知られる分国法(戦国大名が領国統治のために定めた法典)の主要部分は、1600年よりも半世紀以上前に、すでに編纂されていたことが明らかとなる 1

具体的には、この法度は第12代当主・相良為続(ためつぐ)が明応二年(1493年)に7ヶ条を、第13代当主・長毎(ながつね)が永正十五年(1518年)以前に13ヶ条を、そして第17代当主・晴広(はるひろ)が弘治元年(1555年)に21ヶ条を制定するという、三代にわたる段階的な追補を経て成立した、計41ヶ条からなる法典である 2 。したがって、1600年は法度の「制定」の年ではない。

では、慶長五年という年は、相良氏にとって何を意味したのか。それは、戦国の世の終焉を告げる「関ヶ原の戦い」という、天下分け目の大戦が勃発した年である 5 。この年、相良氏は存亡の淵に立たされた。彼らが下した一連の決断と行動こそが、戦国大名としての終焉か、あるいは近世大名としての存続かを決定づけた、文字通りの転換点であった 4

本報告書は、この歴史的文脈の交錯を解き明かすことを目的とする。単に「1600年に法度は制定されなかった」という事実を提示するに留まらない。むしろ、①戦国大名・相良氏の統治理念の結晶である「相良氏法度」の実像を明らかにし、②慶長五年の激動の中で、相良氏が如何にしてその存亡を賭けた戦いを乗り越えたのかを時系列で克明に描き、そして③その二つの事象が如何に結びつき、近世における人吉藩の統治の礎となったのかを深く考察する。

利用者様の当初の認識、「相良家の家法で藩政の規範を整備」という点は、結果として全く正しい。しかし、そのプロセスは1600年という単一の時点における「制定」という静的な行為ではなく、存亡の危機を乗り越えたことによる「継承と再定義」という、極めて動的な歴史のドラマであった。法という統治の器が存在するだけでは不十分であり、その器を保持し、次代へと繋ぐ主体そのものが、時代の荒波を乗り越える政治的・軍事的実力と智謀を必要とする。慶長五年の相良氏の物語は、この歴史の力学を鮮やかに体現しているのである。

第一部:「相良氏法度」の実像—戦国大名・相良氏の統治理念

第一章:法度制定の歴史的背景

「相良氏法度」が、単に大名権力が一方的に領民へ課した法令集でなかったことを理解することは、相良氏の特異な統治の歴史を解明する鍵となる。その成立の背景には、肥後国球磨郡という地域が持つ独自の社会的土壌と、そこに深く根を下ろした相良氏の統治スタイルが存在した。

相良氏は、鎌倉時代初頭に源頼朝の命により地頭としてこの地に入部して以来、明治維新に至るまで約700年間にわたり、同一の土地を統治し続けた、日本史上でも極めて稀有な存在である 6 。この驚異的な長期統治を可能にした要因の一つは、険しい九州山地に囲まれた「隠れ里」とも称される地理的条件にあった 7 。しかし、より本質的な要因は、相良氏が採用した統治のあり方そのものに見出される。彼らは、単に武力で支配するのではなく、領主から民衆までが一体となった共同体を形成し、地域の伝統や文化を尊重する姿勢を貫いた 7

この統治理念は、「相良氏法度」の成立過程にも色濃く反映されている。研究によれば、この法度の母体となったのは、在地領主や国人たちの自治的な結合組織であった「郡中惣(ぐんちゅうそう)」が定めた掟や、領主間の協約である「一揆契状(いっきけいじょう)」であった可能性が指摘されている 10 。つまり、法度の条文の多くは、もともと地域社会で自然発生的に形成された慣習法やルールを、相良氏が大名としての権威をもって承認し、成文化したものであったと考えられる。これは、強力な中央集権化を志向した他の多くの戦国大名の分国法とは一線を画す特徴である。

相良氏の統治は、トップダウンの命令系統だけでなく、ボトムアップによる地域の自治的秩序を巧みに取り込むことで、在地社会との間に強固な信頼関係を築き上げた。法度制定のプロセスそのものが、支配と共存のバランスの上に成り立つ、相良氏ならではの柔軟かつ安定した統治システムの証左と言えるだろう。

第二章:法度の内容と特徴

相良為続、長毎、晴広の三代にわたって編纂された全41ヶ条の法度は、戦国時代の球磨郡の社会経済状況と、それに対応しようとする相良氏の統治理念を具体的に示す貴重な史料である。その条文は、多岐の分野にわたり、当時の社会が直面していた課題への「処方箋」として読み解くことができる 3

経済に関する規定:

法度には、土地の売買に関する詳細な規定が見られる。特に、一度売却した土地を売り主の子孫が買い戻す権利(買戻権)を認める条文は、土地所有権の観念が流動的であった当時の慣行を反映している。また、為続法第5条には、質の悪い銭貨(悪銭)と良質の銭貨の交換比率を「黒銭十貫文の時者、五貫と為すべし」などと具体的に定めている 3。これは、貨幣経済が領内に浸透する一方で、様々な種類の通貨が流通し、経済的混乱や紛争が頻発していた実態を物語る。領主が公定レートを定めることで、取引の安定化を図ろうとしたのである。

社会秩序に関する規定:

農村社会の秩序維持を目的とした条文も多い。長毎法には、既存の水田(本田)の水を引いて新たな水田(新田)を開拓する際の水利権の調整や、放し飼いの牛馬が他人の田畑の作物を荒らした場合の損害賠償について定められている 3。これらの規定は、農業生産を基盤とする領国において、水や土地を巡る争いが如何に深刻な問題であったかを示している。

道徳・倫理に関する規定:

相良氏法度の際立った特徴の一つは、単なる法律の枠を超え、道徳的・倫理的な規範にまで踏み込んでいる点である。その最も象徴的な例が、晴広法に見られる「屋もめ女(後家、未亡人)、女房とかづし候而売候者、ぬす人たるべし(未亡人を妻にすると偽って人身売買にかける者は、盗人として処罰する)」という条文である 3。この一条は、戦乱によって夫を失った女性が搾取や人身売買の対象となるほど、社会秩序が弛緩していたという厳しい現実を浮き彫りにする。同時に、領主が領民の人格や尊厳を保護する責務を負うという、為政者としての倫理観を示している。

宗教に関する規定:

第17代当主・晴広の時代になると、法度には明確な宗教政策が登場する。特に、一向宗(浄土真宗)を禁制とする条文が複数盛り込まれた 3。これは、一向一揆に象徴されるように、時に大名権力と対立する強固な組織力を持つ一向宗門徒の拡大を警戒し、領内の宗教を統制下に置こうとする戦国大名としての強い意志の表れであった。

これらの条文は、今川仮名目録や甲州法度之次第といった他の著名な分国法と同様に、鎌倉時代の武家法である御成敗式目の影響を受けつつも 13 、より地域の実情に即した具体的な内容となっている。相良氏法度は、戦国時代の球磨郡という社会を映し出す鏡であり、そこに生きた人々の息遣いと、領国を治めようとした相良氏の苦心と理念を今に伝えている。

第二部:慶長五年、天下分け目の攻防—時系列で見る相良氏の動向

慶長五年(1600年)、相良氏の運命は、法度の条文によってではなく、戦場での決断と行動によって左右された。この年の彼らの動向は、小大名が生き残りを賭けて繰り広げた、緊迫した政治と謀略のドラマであった。

慶長五年(1600年)における相良氏の行動年表

時期

場所

相良氏の動向(当主:頼房、家老:犬童頼兄)

天下情勢(背景)

7月

人吉→大坂

石田三成の檄文に応じ、西軍への参加を決定。頼房と頼兄、約1,570の兵を率いて上洛 14

徳川家康、会津の上杉景勝討伐のため東下。石田三成らが大坂で挙兵。

8月

伏見城

西軍の一員として伏見城攻めに参加。家臣・神瀬九兵衛が先登の功を挙げる 15

伏見城落城。東軍諸将は清洲城へ集結。

8月下旬

-

(水面下)犬童頼兄、徳川家臣・井伊直政との内通工作を開始。「西軍参加は本意ではない」と伝達 14

-

9月上旬

大垣城

関ヶ原へ向かう西軍本隊と別れ、秋月・高橋氏らと共に大垣城の守備に入る 14

東軍、江戸を発し中山道・東海道を西上。

9.15

大垣城

関ヶ原で本戦勃発。夕刻、西軍壊滅の報が城内に届き、動揺が走る 14

関ヶ原の戦い。小早川秀秋の裏切りにより、東軍が圧勝 14

9.16-17

大垣城

頼兄、秋月種長・高橋元種らと東軍への寝返りを画策 14

東軍、関ヶ原周辺の西軍残存勢力の掃討を開始。井伊直政らが大垣城へ迫る。

9.18

大垣城

頼兄の謀略により、城将の垣見一直、熊谷直盛、相良長誠(頼房の弟)らを殺害。福原長高を降伏させ、大垣城を東軍に明け渡す 14

大垣城開城。

10月以降

大津→江戸

頼房、家康に謁見。大垣城での功績が認められ、西軍参加の罪を許され本領安堵される 16

家康による戦後処理(論功行賞)。

年末

人吉

帰国。戦国大名・相良氏から、近世大名・人吉藩主としての新たな統治が始まる。

徳川家康が天下の実権を掌握。

第一章:関ヶ原前夜(1600年1月~6月)

関ヶ原の戦いが勃発する直前、相良氏は極めて困難な状況に置かれていた。豊臣秀吉による九州平定後、相良氏は所領を安堵され、表高2万2千石の豊臣大名として存続していた 4 。しかし、その領地は南に大大名である島津氏、北には同じく豊臣恩顧の猛将・加藤清正という強大な勢力に挟まれており、独自の外交的・軍事的判断を下す余地は極めて限られていた。

この危うい均衡の中で、相良家中の権力構造もまた、重要な要素となっていた。当時の当主は第20代・相良頼房(よりふさ、後の長毎)であった。天正二年(1574年)生まれの頼房は、この時27歳 15 。父・義陽の戦死後、幼くして家督を継いだ経緯もあり、家臣団、特に筆頭家老の補佐に頼るところが大きかった 20

その筆頭家老こそ、犬童頼兄(いんどうよりもり)、後の相良清兵衛(さがらせいべえ)である。永禄十一年(1568年)生まれの頼兄は、頼房より6歳年長で、この時33歳 22 。父・頼安の代からの譜代の重臣であり、朝鮮出兵の際に勃発した家中の対立勢力・深水(ふかみ)氏との抗争に勝利し、藩政の実権を完全に掌握していた 14 。その権勢は「藩主を凌駕した」とまで評されるほどであり、若き当主・頼房と、実力者の家老・頼兄という二頭体制が、関ヶ原という未曾有の国難に臨む相良氏の姿であった。

第二章:西軍への参加と伏見城の戦い(1600年7月~8月)

慶長五年七月、徳川家康の会津征伐の隙を突いて石田三成らが挙兵すると、全国の大名は東軍につくか西軍につくかの選択を迫られた。地理的に西軍の勢力圏に位置し、周囲を西軍方の大名に囲まれた相良氏にとって、三成の檄文に応じることは、ほとんど不可避な選択であった。頼房は頼兄を伴い、約1,570の兵を率いて上洛、西軍の一翼を担うこととなる 14

相良軍の初陣は、家康が関東へ下った後の畿内における拠点、伏見城の攻略戦であった。城将・鳥居元忠が率いる徳川方の兵は寡兵ながらも激しく抵抗したが、宇喜多秀家を総大将とする西軍の大軍の前に、八月一日、城は落城する。この戦いにおいて、相良勢も奮戦し、家臣の神瀬九兵衛が先駆けの功名を挙げたと記録されている 15

しかし、この表向きの忠勤の裏で、老獪な家老・犬童頼兄は、早くも次の一手を打っていた。彼は、西軍の勝利を確信してはいなかった。相良家が生き残るためには、万一の場合に備えた保険が必要である。頼兄は密かに徳川方の重臣・井伊直政と接触し、「西軍への加担は本意にあらず」との書状を送達、水面下での内通工作を開始したのである 14 。この時点で、相良氏は西軍の一員として戦いながら、同時に東軍への寝返りの道を探るという、危険な二面作戦を展開し始めていた。

第三章:大垣城での謀略と東軍への寝返り(1600年9月)

九月に入り、天下の情勢は関ヶ原での決戦へと向かって急速に動き出す。西軍の主力部隊が美濃国赤坂に布陣する中、相良軍は、同じく九州から参陣していた秋月種長、高橋元種らと共に、西軍の重要拠点である大垣城の守備隊として城に入った 14 。これが、相良氏の運命を決定づける舞台となる。

九月十五日、関ヶ原で東西両軍が激突。戦いは当初西軍優勢とも伝えられたが、午後、小早川秀秋の裏切りを皮切りに西軍は総崩れとなり、夕刻までには勝敗は完全に決した。西軍壊滅の報が大垣城にもたらされると、城内は混乱と絶望に包まれた 14 。この瞬間、犬童頼兄が水面下で進めていた内通工作が、唯一の活路として現実味を帯びてくる。

井伊直政率いる東軍の部隊が大垣城に迫る中、頼兄は同じく東軍への内通を模索していた秋月種長、高橋元種と最後の謀議を重ねる。単に降伏するだけでは、西軍に加担した罪を許される保証はない。東軍に対して明確な「功績」を示す必要があった。そのために頼兄が立てた策は、あまりにも非情かつ大胆なものであった。

九月十八日、頼兄は「城外の竹林が敵の攻撃を防ぐのに邪魔になるため、これを伐採して城壁を補強したい」と、城内の西軍主戦派の諸将に進言する 14 。この提案に疑いを持たなかった城将の垣見一直、熊谷直盛、そして頼房の実の弟である相良長誠らが視察のために竹林へ誘い出された。その瞬間、待ち伏せていた頼兄の配下が彼らに襲いかかり、全員を殺害した。主君の肉親すらも、家門存続のための犠牲とする、戦国の論理がそこにはあった。

この「手土産」を以て、頼兄は城内に残った将・福原長高に降伏を迫り、ついに大垣城は開城、東軍の手に渡った 14 。この一連の謀略は、単なる日和見主義的な裏切りではない。それは、小大名が生き残るために、あらゆるものを犠牲にしてでも功績を立てようとする、冷徹な計算に基づいた能動的な政治行動であった。犬童頼兄の智謀と非情な決断が、相良氏を滅亡の淵から救い出したのである。

第四章:戦後処理と所領安堵(1600年10月~12月)

大垣城での功績を携え、相良頼房と犬童頼兄は、戦後処理の拠点であった大津、そして江戸へと赴き、天下人となった徳川家康に謁見した。井伊直政からの報告と取りなしもあり、彼らの大垣城開城の功は高く評価された 16 。家康は、相良氏が当初西軍に与した罪を問いながらも、最終的にはその功を以て罪を相殺することを認め、所領である肥後人吉2万2千石の安堵を決定した 4

これは、関ヶ原の戦いで西軍に属した多くの大名が改易(領地没収)や減封の憂き目に遭う中で、異例の処置であった。犬童頼兄の謀略は、見事にその目的を達成したのである。

この所領安堵をもって、鎌倉時代から続く戦国大名・相良氏は、徳川幕藩体制下における外様大名「人吉藩」として、新たな時代にその命脈を繋ぐことになった。慶長五年という年は、相良氏にとって、中世から近世への扉を開いた、まさに画期となる年だったのである。

第三部:人吉藩の成立と藩政の礎—法度の継承と新たな秩序

第一章:初代藩主・相良頼房の藩政確立

関ヶ原の動乱を乗り越え、初代人吉藩主となった相良頼房(元和元年に長毎と改名)は、新たな時代の統治体制構築に邁進する。彼の最初の課題は、天下人となった徳川家に対し、絶対的な忠誠を示すことであった。頼房はいち早く母親を人質として江戸に送り、徳川家への恭順の意を明確にした 20

次に着手したのは、領国の物理的・行政的な基盤整備である。頼房は、居城である人吉城の大規模な修築を開始した。この工事は、小藩の財政力では困難を極め、完了までに約40年の歳月と次代の藩主・頼寛の治世を待たねばならなかった 20 。同時に、城下町の整備も進められ、近世的な藩都としての体裁が整えられていった 12

こうした新たな藩政運営において、統治の基本法として機能したのが、戦国時代に制定された「相良氏法度」であった。新たな法典を一から作るのではなく、長年にわたり領国の実情に合わせて改訂されてきた既存の法度をそのまま継承し、運用したのである 3 。これは、相良氏の統治の連続性を示すと同時に、法度の内容が太平の世においても十分に通用する普遍性を持っていたことを意味する。

ここで、序章で提示した問いに立ち返ることができる。1600年の相良氏の行動は、法文の「制定」ではなかったが、その法の「担い手」の存続を確定させた決定的な行為であった。もし相良氏が関ヶ原で改易されていれば、「相良氏法度」もまた、歴史の藻屑と消えていたであろう。慶長五年の軍事的・政治的勝利は、戦国の遺産である分国法を、近世の藩法として蘇らせるための、不可欠な橋渡しだったのである。

第二章:慶長の動乱が残した火種

しかし、歴史の因果は皮肉な側面を持つ。相良家を滅亡から救った犬童頼兄の絶大な功績は、皮肉にも、その後の人吉藩に深刻な内紛の火種を残すことになった。

関ヶ原での功により、頼兄(相良清兵衛)の権勢は頂点に達した。彼は藩政の全てを専断し、その影響力は主君である頼房すら凌ぐとまで言われた 22 。頼房の存命中は、両者の間に一定の均衡が保たれていたが、頼房が没し、その子・頼寛が二代藩主となると、両者の関係は急速に悪化する。

若き藩主・頼寛にとって、功臣であるがゆえに増長し、藩主の権威を脅かす頼兄の存在は、看過できるものではなかった。父・頼房の遺言にも、頼兄の専横を戒める意図があったとされる。ついに寛永十七年(1640年)、頼寛は江戸参勤中に、頼兄の数々の横暴を幕府に正式に訴え出たのである 6

この幕府への提訴が、人吉藩を揺るがす大事件の引き金となった。藩主からの呼び出しを受け、頼兄が江戸へ向かい不在となった人吉で、彼の屋敷(お下屋敷)に残された一族郎党が、藩からの使者を殺害し、屋敷に立てこもるという事件が発生した。藩兵が屋敷を包囲し、激しい戦闘の末、頼兄の一族121名が討死または自害して果てた。これが世に言う「お下の乱」である 6 。事件の発端となった頼兄自身は、幕府の裁きによって津軽藩(弘前)へ流罪となり、その地で88歳の生涯を終えた 22

相良家を救った英雄は、その功績の大きさゆえに、次代の藩主にとって最大の脅威となった。関ヶ原での頼兄の「成功」が、40年後の彼の一族の「悲劇」を準備したのである。この事件は、戦国時代的な実力主義の論理(功績ある者が権力を持つ)と、徳川幕藩体制下で確立された厳格な主従秩序(いかなる功臣であろうと主君を凌ぐことは許されない)との間に生じた、深刻な摩擦を象徴している。1600年の勝利は、人吉藩の輝かしい出発点であると同時に、最初の深刻な内紛の種を宿した瞬間でもあったのだ。

結論:相良氏700年統治の転換点として

本報告書は、「相良氏法度制定(1600年)」という事象を起点に、肥後相良氏が戦国末期の動乱を如何に乗り越え、近世大名として存続し得たかを検証してきた。結論として、慶長五年という年は、法度の「制定」年ではなく、その法度を実効あらしめる統治主体そのものの存続が決定づけられた、極めて重大な転換点であったと位置づけられる。

十五世紀末から十六世紀半ばにかけて編纂された「相良氏法度」は、相良氏の700年にわたる統治の「静的な理念」を示すものであった。それは、地域の慣習法を取り込み、領民の生活実態に即した規定を盛り込むことで、安定した領国経営を目指す、相良氏の保守的な統治哲学の結晶であった。

それに対し、慶長五年の関ヶ原の戦いにおける一連の行動、すなわち西軍への参加、水面下での内通、そして大垣城での非情な謀略は、その理念を現実に存続させるための「動的な実践」であった。それは、生き残りのためには主君の弟すら犠牲にすることを厭わない、冷徹な現実主義と進取の精神の発露であった。

この法度に象徴される「保守性」と、関ヶ原での行動に象徴される「進取性(あるいは非情な現実主義)」という、一見矛盾する二つの要素の結合こそが、相良氏の強さの源泉であった。法という安定した統治の器を持ちながら、時代の激変に対しては、その器を守るためになりふり構わぬ大胆な行動を辞さない。この絶妙なバランス感覚が、相良氏が幾多の危機を乗り越え、鎌倉から明治に至る長大な統治を成し遂げることを可能にした。

そして、この存続劇があったからこそ、相良氏が育んだ独自の文化、すなわち領主と領民が一体となって信仰や娯楽を楽しみ、守り育てる風土は近世へと受け継がれ、後年、作家・司馬遼太郎をして「日本でもっとも豊かな隠れ里」と言わしめる、人吉球磨地方の文化的土壌が形成されたのである 7 。慶長五年の出来事は、単なる一地方大名の存亡を超え、日本の歴史と文化の多様性が如何にして保たれてきたかを物語る、示唆に富んだ一幕であったと言えよう。

引用文献

  1. 相良氏の系図について https://genealogy-research.hatenablog.com/entry/sagara
  2. 相良氏法度(さがらしはっと)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F%E6%B3%95%E5%BA%A6-1168613
  3. 相良氏法度 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F%E6%B3%95%E5%BA%A6
  4. 武家家伝_相良氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sagara_k.html
  5. 関ヶ原の戦い|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=804
  6. 人吉藩〜お家騒動が多いをわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/han/948/
  7. 相良700年が生んだ保守と進取の文化|日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story018/
  8. 日本遺産認定 - 人吉市 https://www.city.hitoyoshi.lg.jp/resource.php?e=b2c4f340468ffb5f507eba820ca142a14c6f24e7c8d728b6f5eb080d728ab32548a3af2191fd97e880284a987ddd7029
  9. 人吉球磨の文化の礎を築いた 相良700年 https://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/story0/story1/
  10. 相良氏法度(さがらしはっと) - ヒストリスト[Historist] https://www.historist.jp/word_j_sa/entry/033289/
  11. 第34回 戦国時代総論 - 歴史研究所 https://www.uraken.net/rekishi/reki-jp34.html
  12. 人吉藩(ひとよしはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9-120386
  13. 分国法(ブンコクホウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%88%86%E5%9B%BD%E6%B3%95-128447
  14. 豊臣政権と相良氏 https://kuma.atukan.com/rekisi/kinsei4.html
  15. F042 相良長毎 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/F042.html
  16. 犬童頼兄とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%8A%AC%E7%AB%A5%E9%A0%BC%E5%85%84
  17. 犬童頼兄…デキるからこその専横!?お家を存続させたのにお家騒動を招いた武将 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=LJjT5CIt9WQ
  18. 相良(さがら)700年 - 保険アナリスト植村信保のブログ https://nuemura.com/item_%E7%9B%B8%E8%89%AF%EF%BC%88%E3%81%95%E3%81%8C%E3%82%89%EF%BC%89700%E5%B9%B4.html
  19. 人吉藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9
  20. 相良氏の歴史・近世5 肥後・相良藩の礎 - 人吉・球磨の部屋 https://kuma.atukan.com/rekisi/kinsei5.html
  21. 相良氏の歴史・近世3 秀吉の九州平定 - 人吉・球磨の部屋 http://kuma.atukan.com/rekisi/kinsei3.html
  22. 相良清兵衛(さがらせいべえ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B8%85%E5%85%B5%E8%A1%9B-1077676
  23. 人吉城① ~相良清兵衛屋敷地下室 - 城館探訪記 http://kdshiro.blog.fc2.com/blog-entry-2363.html