最終更新日 2025-09-20

真田信之上田入封(1600)

慶長五年、真田信之は犬伏の別れで東軍につき、関ヶ原後、父昌幸の旧領上田へ入封。徳川に徹底的に破却された上田城で藩政を確立し、真田家を近世大名として存続。後に松代へ移封。
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慶長五年、真田信之の上田入封 ― 栄光と苦渋の継承、その軌跡の徹底分析

序章:天下分け目の序曲 ― 慶長五年の政治情勢

慶長三年(1598年)八月、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を終えると、日本は再び大きな動乱の時代へと突入した。秀吉が遺した幼い嫡子・秀頼を補佐するべく設置された五大老・五奉行の体制は、その均衡を早々に失い始める。五大老筆頭の徳川家康は、秀吉の遺命を次々と破り、諸大名との私的な婚姻政策などを通じてその影響力を急速に拡大。これにより、豊臣政権内部では家康への警戒感と反発が強まり、五奉行の一人である石田三成を中心とする反家康派との対立が先鋭化していった 1

慶長五年(1600年)、この緊張はついに臨界点に達する。家康は、会津の領主であり五大老の一角を占める上杉景勝に謀反の嫌疑をかけ、これを討伐するという大義名分を掲げて全国の諸大名を動員した 1 。これは、景勝の討伐そのものよりも、家康が東国へ大軍を率いて向かうことで、三成ら反家康派を上方で蜂起させ、一網打尽にしようという巧妙な政治的・軍事的策略であった。

この未曾有の国難において、信濃国上田を本拠とする真田家もまた、重大な選択を迫られる立場にあった。当主・真田昌幸、その長男・信之(当時は信幸)、次男・信繁(幸村)の三人は、この時点では徳川方として会津征伐軍への従軍を決定していた 2 。昌幸と信繁は本拠地の上田から、そして信之は自身の所領である上野国沼田からそれぞれ出陣し、徳川本隊の一翼を担う徳川秀忠(家康の三男)の軍勢に合流すべく、下野国(現在の栃木県)へと駒を進めていたのである 1 。彼らにとって、この出陣は徳川家への忠誠を示すための当然の行動であった。しかし、この先に一族の運命を根底から揺るがす、あまりにも過酷な岐路が待ち受けていることを、まだ誰も知る由もなかった。

第一章:慶長五年七月二十一日、犬伏の決断 ― 一族存亡の岐路

運命を変える密書

慶長五年七月、真田昌幸、信之、信繁の親子三人は、会津征伐軍に加わるため下野国を進軍中であった。そして七月二十一日、彼らが犬伏(現在の栃木県佐野市)に陣を張っていたその時、一通の密書が届けられる 1 。差出人は石田三成。その内容は、家康が秀吉の遺言に背き天下を簒奪しようとしていると断じ、豊臣家への恩義を忘れていなければ、秀頼公に忠誠を誓い、共に家康を討つべし、というものであった 1 。これは、単なる協力要請ではない。真田家が豊臣恩顧の大名として、その忠節を試される踏み絵であった。

薬師堂の密議

この密書を受け、真田一族の運命を決する密議が、犬伏の地に建つ薬師堂で行われたと伝えられている 1 。この密議は、後世「犬伏の別れ」として語り継がれる、真田家の歴史における最も重要な転換点となる。通説では、父子三人が一堂に会し、夜を徹して激論を交わしたとされる 3 。しかし、近年の研究では、昌幸・信繁父子は天明宿に、信之は犬伏宿にそれぞれ別々に在陣しており、使者を通じて意見交換が行われた可能性も指摘されている 2 。いずれにせよ、この地で真田家が東軍(徳川方)と西軍(豊臣方)のいずれに与するべきか、という究極の選択を迫られたことに変わりはない。

三者三様の論理と情

密議において、三者の立場はそれぞれの背景と思想を反映し、明確に分かれた。

  • 父・昌幸と次男・信繁: 昌幸は、かつて豊臣秀吉によってその所領を安堵され、大名としての地位を確立した経緯から、豊臣家への恩義を強く感じていた。また、過去に上野国沼田領の帰属を巡って家康と対立し、徳川軍を二度にわたり撃退した(第一次上田合戦)自負と、家康への根強い不信感も抱いていた 6 。次男の信繁もまた、秀吉の馬廻衆として仕えた経験から、豊臣家への忠誠心は篤かった。彼らにとって、三成の檄文に応じることは、武将としての「義」を貫く道であった。一部の史観では、昌幸の腹は最初から西軍参加で決まっており、密議は息子たちへの通告の場であったとも考えられている 3
  • 長男・信之: 一方の信之は、全く異なる立場にあった。彼の正室は、徳川四天王と謳われた猛将・本多忠勝の娘、小松姫であった 8 。この婚姻は、真田家と徳川家を結ぶ極めて強固な絆であり、信之にとって家康は舅である忠勝の主君にあたる。信之は「されど父上、内府(家康)はわが舅にございまする」と述べたとされ、姻戚関係からくる「義理」を重んじた 4 。加えて、彼は父・昌幸の謀略家としての一面とは対照的に、冷静な現実主義者でもあった。徳川の圧倒的な国力と、天下の趨勢が家康に傾きつつあることを客観的に分析し、東軍に残ることが真田家にとって最も安全な道であると判断したのである。

苦渋の決断 ― 「犬伏の別れ」

激論の末、真田家が下した結論は、一族が二つに分かれて戦うという、非情かつ究極の選択であった。父・昌幸と次男・信繁は西軍へ、長男・信之は東軍へ。これは、東軍と西軍のどちらが勝利しても、真田の家名と血脈を確実に後世へ残すための、戦国武将ならではの存続戦略であった 3 。昌幸は「家を分けることが、結局は家の存続に繋がる」と述べたと伝えられている 7

この決断は、単なる合理的なリスク分散策に留まるものではない。それは、昌幸・信繁が背負う豊臣家への「恩義」という義務と、信之が背負う徳川家との「姻戚関係」という義務、この相容れない二つの義務の衝突を解決するための唯一の道であった。それぞれの「義」を貫くためには、一族が袂を分かち、敵味方として戦場で相まみえるしかなかったのである。

さらに深く考察すれば、この決断は稀代の戦略家である昌幸が、自らの武将としての矜持(反家康)と、家長としての責務(家名存続)を両立させるための、究極の妥協点であったとも解釈できる。自らは信繁と共に西軍に加わり、その武名を天下に轟かせる一方で、現実主義者である長男・信之を徳川方に置くことで、万が一西軍が敗れた場合でも家の存続という最低保証を確保する。昌幸は、自らの「戦」と信之の「政」に、真田家の未来を分担させたのである。この別れは、今生の別れを覚悟した悲壮な儀式であり、同時に家の未来を託すための壮大な戦略の始まりでもあった 3

第二章:慶長五年九月、上田城の攻防 ― 徳川本隊を阻んだ男たち

上田城への帰還

犬伏で父子兄弟の縁を断ち切った昌幸と信繁は、徳川方の追跡を避けるため、中山道ではなく間道の吾妻街道を通り、本拠地である信濃上田城へと急ぎ帰還した 7 。その道中、信之の居城である沼田城に立ち寄り、孫の顔を見ようとしたが、城を守る信之の妻・小松殿から「敵方となった以上、入城は許されませぬ」と、鎧兜に身を固めた姿で入城を断固として拒否されたという逸話が残っている 10 。これは、真田家が完全に二つに分かれたことを象徴する出来事であった。

徳川秀忠軍の進軍

一方、徳川家康は主力部隊を率いて東海道を西上し、決戦の地・関ヶ原を目指した。それとは別に、嫡男・秀忠が率いる約三万八千という大軍が、中山道を進軍する別働隊として編成された 1 。秀忠に与えられた任務は、中山道沿いの西軍方諸将を制圧し、本戦に合流することであった。その進路上に、父と弟が籠る上田城が立ちはだかっていた。

第二次上田合戦の勃発

上田城に籠城する真田軍の兵力は、わずか二千数百。対する秀忠軍は三万八千。その兵力差は十倍以上であった。しかし、老練な戦術家である昌幸は、この圧倒的な兵力差をものともせず、巧みな謀略と戦術で秀忠の大軍を翻弄することになる。

この戦いは、単なる軍事衝突以上の意味合いを持っていた。秀忠にとって、この上田城は因縁の地であった。かつて天正十三年(1585年)の第一次上田合戦において、父・家康が昌幸の前に大敗を喫している 11 。父が敗れたこの城を自らの手で攻略することは、徳川家の次期当主としての権威と力量を内外に示す絶好の機会であった。しかし、その功名心と焦りが、昌幸の術中にはまる最大の要因となる。上田城は、徳川親子二代にわたって苦杯をなめさせる「呪縛の地」と化すのである。

以下に、第二次上田合戦における数日間の攻防を時系列で示す。

日付(慶長五年)

徳川秀忠軍の動向

真田昌幸・信繁軍の動向

真田信之の動向

典拠資料

九月二日

小諸城に到着

上田城で籠城準備を完了させる

秀忠軍に帯同

13

九月三日

真田からの降伏勧告の使者を受ける

降伏を申し出る(時間稼ぎの謀略)

-

13

九月四日

真田の態度豹変に激怒、総攻撃を決意

態度を豹変させ、徹底抗戦を宣言

-

13

九月五日

信之に砥石城攻略を命じる

砥石城から戦略的に撤退

砥石城をほぼ無傷で確保

13

九月六日以降

上田城への攻撃を開始、真田方の挑発に乗る

巧みな籠城戦と挑発を繰り返し、敵を誘引

秀忠軍本陣に留まる

13

(日付不明)

神川の増水と伏兵により大敗、小諸へ撤退

堤防破壊、伏兵による奇襲で徳川軍を撃退

追撃に参加した記録あり

13

九月十七日

美濃赤坂に到着(関ヶ原は十五日に終結)

上田城の防衛に成功

-

13

昌幸の謀略と信之の苦衷

昌幸の戦術は、敵の心理を巧みに突くものであった。まず降伏を申し出て秀忠を油断させ、交渉に時間をかけさせた後、一転して徹底抗戦を宣言し、秀忠を激怒させて冷静な判断力を奪った 13

この攻防の中で、信之は極めて難しい立場に置かれた。秀忠は信之の忠誠を試すため、上田城の重要な支城である砥石城の攻略を命じた 13 。父や弟と直接刃を交えるという最悪の事態が懸念されたが、信之が軍を進めると、砥石城を守っていた信繁は戦闘を避けて城から撤退した。これにより、信之は味方の犠牲を出すことなく砥石城を確保し、秀忠への忠誠を示すと同時に、父弟との武力衝突を回避するという二つの難題を解決した 13 。これは、兄弟間に暗黙の連携があったことを示唆しており、信之の高度な政治的立ち回りであった。

その後、昌幸は城兵に徳川方の田の稲を刈らせるなど挑発を繰り返し、しびれを切らした徳川軍を城下におびき寄せた 13 。そして、追撃してきた敵部隊に対し、城からの鉄砲や弓矢による攻撃に加えて、あらかじめ堰き止めておいた神川の堤防を切り、濁流で多くの兵を押し流した 13 。さらに、虚空蔵山に潜ませていた伏兵が手薄になった秀忠の本陣を急襲。徳川軍は大混乱に陥り、多数の死者を出しながら小諸城まで敗走を余儀なくされた 13

関ヶ原への遅参

この上田城での数日間の足止めが、秀忠にとって致命的な結果をもたらす。彼が関ヶ原の決戦場に到着したのは、本戦がとっくに終わった九月十七日のことであった 13 。天下分け目の決戦に参加できなかったというこの大失態に、父・家康は激怒したと伝えられている 15 。昌幸と信繁は、わずかな兵力で徳川本隊の進軍を阻止するという、軍事史上稀に見る戦果を挙げたのである。

第三章:関ヶ原終結、そして戦後処理 ― 存亡をかけた嘆願

西軍敗北と真田父子の処遇

慶長五年九月十五日、関ヶ原の本戦はわずか一日で東軍の大勝利に終わった。この結果、西軍に与した真田昌幸・信繁父子の運命は、風前の灯火となった。特に、上田城で手玉に取られ、天下分け目の決戦に遅参するという屈辱を味わわされた徳川秀忠の怒りは凄まじく、家康もまた、再三にわたり苦しめられた昌幸への憎しみから、真田父子に「腹を切らせよ」と、斬首を厳命した 15

信之と本多忠勝の助命嘆願

父と弟が絶体絶命の危機にあることを知った信之は、すぐさま行動を起こした。彼は家康のもとへ駆けつけ、必死に助命を嘆願した。伝承によれば、信之は「父を斬罪に処されるのであれば、まず私に切腹をお命じください」とまで言って、自らの命と引き換えに父弟の助命を懇願したという 9

この信之の鬼気迫る覚悟に、舅である本多忠勝も心を動かされた。徳川家第一の功臣であり、家康が最も信頼を置く重臣の一人である忠勝が、信之と共に家康の説得にあたったのである 8 。忠勝の口添えは、家康の固い決意を揺るがす上で、極めて大きな影響力を持った。

九度山配流

家康は、信之のこれまでの忠勤と、何よりも重臣・本多忠勝の顔を立てるという政治的判断から、ついに斬首の命令を撤回した。そして、死罪一等を減じ、高野山への配流(後に生活の不便から麓の九度山村へ移される)という処分に切り替えたのである 13

家康が最終的に助命を受け入れた背景には、単なる温情や人間関係だけではない、冷徹な政治的計算があった。天下統一後の新秩序を構築する上で、関ヶ原で功績を挙げた信之の願いを無下にすることは、他の徳川譜代の家臣たちに動揺を与えかねない。特に、本多忠勝という政権の重鎮の面子を潰すことは、自らの支配基盤を揺るがすリスクを伴う。家康は、昌幸を処断することによる個人的な満足よりも、政権の安定を優先したのである。

この一連の出来事は、信之が徳川家に対して大きな「貸し」を作ったと同時に、生涯にわたる「絶対的な忠誠」を改めて誓約する儀式でもあった。父と弟の命を救われたことで、信之と真田家は徳川家に対して生涯頭が上がらない立場となり、完全にその支配体制下に組み込まれることになった。助命は、真田家の存続を確定させると同時に、その独立性を完全に奪うものでもあった。「犬伏の別れ」で信之が選択した道は、最も過酷な形でその正しさが証明され、真田家は辛うじて存続の権利を勝ち取ったのである。

第四章:主無き城への入封 ― 慶長六年の上田

旧領安堵の約束と現実

犬伏の別れの直後、慶長五年七月二十七日付の書状で、徳川家康は信之に対し「親の跡(昌幸の所領)は違乱なく遣わす」と、父の旧領の安堵を明確に約束していた 19 。しかし、関ヶ原の戦いが終わったからといって、その約束が即座に履行されたわけではなかった。

戦後、上田城と小県郡の真田領はまず徳川方の管理下に置かれ、諏訪頼水、依田信守といった武将たちが城番として入城した 20 。昌幸の改易が正式に決定されたのは、慶長五年十二月十三日のことである 22 。そして、信之が小県郡の支配者として初めてその権限を行使したことを示す史料は、同年十二月二十六日に海野の白鳥明神の神官に対し、社領を安堵する朱印状を発給した記録である 22 。このことから、信之への実質的な統治権の移譲は、年末になってようやく行われたと推察される。

徹底的な城の破却

信之への引き渡しに先立ち、徳川家は上田城に対して極めて厳しい措置を講じた。慶長六年(1601年)前半にかけて、徳川軍は上田城を徹底的に破却したのである 20 。これは単なる武装解除のレベルを超えていた。徳川幕府が編纂した公式記録『徳川実紀』によれば、「堀を埋め、塀をこぼち(破壊し)」と記されており、櫓や城門といった建造物は言うまでもなく、防御の要である堀は埋め立てられ、石垣や土塁も崩されるなど、城としての機能を完全に抹殺する大規模な破壊が行われた 24

この破却は、徳川が二度にわたって煮え湯を飲まされた「真田の武威の象徴」を、物理的に消し去るという、極めて政治的かつ象徴的な行為であった。徳川にとって上田城は、「反逆」と「屈辱」の記憶そのものであり、それを完膚なきまでに破壊することは、新しい支配者が徳川であることを天下に示すための見せしめであった。

そして、この「廃城同然」と化した無残な姿で、上田領は信之に引き渡されたのである 11 。信之の上田入封は、栄光の凱旋ではなかった。それは、父が築き上げた栄光の象徴が破壊された跡地を受け取るという、屈辱から始まる統治であった。徳川の支配戦略は、「領地(土地と人民)」の継承は許すが、「軍事拠点(城)」の継承は許さないという、巧みかつ冷徹なものであった。これにより信之は、武力に頼る戦国大名ではなく、幕府の厳格な統制下にある近世大名として生きることを、その統治の第一歩から運命づけられたのである。

石高と家臣団

この戦後処理により、信之は父・昌幸と弟・信繁の旧領である信濃小県郡(上田領)と、元々の自身の所領であった上野沼田領二万七千石を合わせて、合計九万五千石の大名となった 22 。真田家の家臣団のほとんどは、新しい当主である信之に従い上田藩士となった。しかし、昌幸・信繁への忠義を貫く者もおり、高梨内記をはじめとする十六名の家臣は、主君に従って九度山の配流生活に同行した 26

第五章:上田藩主・真田信之の治世 ― 破壊からの創造

三の丸での藩政

父祖の城の再建を幕府から許されなかった信之は、破壊された本丸や二の丸を避け、三の丸(現在の上田高等学校が位置する場所)に居館を新設し、そこを藩政の中心とした 11 。これは、幕府への恭順の意を示すと同時に、武勇で名を馳せた父・昌幸の時代との断絶を象徴する決断であった。彼は、武力ではなく、行政能力によって領国を治める新たな時代の領主像を自ら体現しようとしたのである。

領国復興と民政の重視

信之の統治は、戦乱で荒廃した領国の復興と民生の安定に主眼が置かれた。彼の政策は、父・昌幸の「武」を中心とした統治とは対照的に、「文」、すなわち民政と法治を重視するものであった。

  • 農村政策: 彼はまず、疲弊した農村の再建に着手した。農民が土地を捨てて逃亡することを防ぐために年貢の減免措置を講じ、耕作放棄地を減らすことに努めた 29 。さらに、用水堰の開削やため池の築造を積極的に行い、灌漑施設を整備することで農業生産力の向上を図った 29
  • 城下町整備: 上田の城下町の大部分は、信之の時代にその骨格が形成された 29 。彼は計画的な町割りを行い、商業の発展を促すことで、藩の経済的基盤を強化した。
  • 法整備: 信之は、藩内の秩序を維持するために、詳細な法度(定)を制定した。町人に対しては商取引のルールや治安維持の義務を定め、農村に対しては年貢の徴収方法や土地争いの解決手順を明確にした 31 。これにより、恣意的な支配ではなく、法に基づく安定した統治体制を確立しようとした。

これらの政策は、信之が統治の正当性を、軍事的な威光ではなく、領国の安定と繁栄に求めたことを示している。城の破却という外的要因によって武威を示す道を閉ざされた彼は、優れた行政官僚として藩を治めることで、自らの存在価値を幕府と領民に示さなければならなかったのである。

名君としての評価

信之の地道な努力は実を結び、上田藩は次第に復興していった。彼の善政は領民から深く慕われ、後世に「名君」として語り継がれることになる。彼が亡くなった際には、家臣のみならず、多くの百姓までもが大いに嘆き悲しみ、周囲の制止を振り切って出家する者が続出したと伝えられている 32

信之は、父祖の地・上田において、「戦国の真田」から「近世の真田」へと、一族のアイデンティティを意図的に転換させるという、極めて重要な役割を果たした。彼は、徳川の支配体制下で生き残るために、父の武勇伝を封印し、代わりに忠実な藩主としての姿を貫いた。上田での約二十年間は、真田家が江戸時代を通じて大大名として存続するための、最も重要な基礎固めの期間であったと言える。

終章:祖先の地を離れて ― 松代への移封

元和八年(1622年)の移封命令

上田での統治が軌道に乗り、藩の基盤が固まった元和八年(1622年)、信之に対して幕府から新たな命令が下された。それは、信濃松代十万石への移封であった 30 。この時、上野沼田領三万石は長男・信吉に与えられていたが、それも真田家の所領として安堵されたため、真田家の総石高は合計十三万石となり、大幅な加増を伴う栄転であった 35

移封の背景

この移封は、信之個人の功績に対する褒賞という側面もあったが、より大きな視点で見れば、当時の幕府による大名配置転換政策の一環であった。この時期、山形藩の最上氏が改易されたことに伴い、松代藩主であった酒井氏が庄内へ、そして玉突きのような形で真田氏が上田から松代へ、小諸藩主であった仙石氏が上田へ、という大規模な人事異動が行われたのである 32 。これは、特定の土地に大名の力が深く根付くことを防ぎ、幕府の全国支配を強化しようとする、江戸幕府初期の巧みな統治政策を反映していた。

信之の心情と上田の終焉

加増栄転とはいえ、この移封は信之にとって断腸の思いであったと推察される。上田は、父・昌幸が築城し、二度にわたる徳川の大軍を退けた栄光の地である。そして何より、真田氏の祖先伝来の地でもあった 33 。統治に心血を注いできたこの土地を離れることは、信之にとって大きな心の痛みを伴ったであろう。家臣団の多くは信之に従って松代へ移住したが、一部の家臣は故郷である上田に残り、農民となった者もいたと記録されている 33

この移封は、信之の二十年以上にわたる忠勤と優れた統治能力が幕府に認められた証であると同時に、真田家をその「土地の記憶」から切り離すための最終的な仕上げでもあった。「徳川に二度勝った真田」の記憶が染みついた上田の地から引き離し、幕府の広域的な人事政策の中に組み込むことで、真田家は完全に幕藩体制の一部品となったのである。

その後の上田城

信之が去った後、上田には小諸から仙石忠政が入封した。彼は幕府の正式な許可を得て、破却されたままになっていた上田城の再興に着手する 30 。現在、我々が目にする上田城の櫓や石垣の多くは、この仙石氏による再建が基礎となっている。

「犬伏の別れ」で信之が選択した道は、この松代への移封によって一つの完結を見たと言える。彼は、父と弟が戦場で追い求めた「武名」と、固執した「土地」の代わりに、「家名の存続」と「大名としての盤石な地位」を確実なものとした。慶長五年の上田入封が、栄光の影に隠された苦渋の継承の始まりであったとすれば、元和八年の松代移封は、その苦難の末に真田家が江戸時代を生き抜くための基盤を確立した、一つの到達点であった。信之はその後、九十三歳という長寿を全うし 30 、その生涯をかけて「犬伏の決断」の正しさを証明したのである。

引用文献

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  2. 犬伏の別れと真田信之、小松殿の決断 - PHPオンライン https://shuchi.php.co.jp/article/3250
  3. 戦国時代の最後をしめくくった真田幸村。 - 江戸散策 | クリナップ https://cleanup.jp/life/edo/101.shtml
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  28. 【お城の歴史】上田城の歴史を徹底解説!真田家の軌跡と上田城の魅力 - ユキチのお城ナビゲーション https://yukichiloglog.com/explanation-of-ueda-castle/
  29. 真田信之 - 上田を支えた人々〜上田人物伝〜 https://museum.umic.jp/jinbutu/data/053.html
  30. 上田城と歴代上田城主 https://museum.umic.jp/hakubutsukan/ueda-castle-history/03/
  31. 【藩政のしくみ】 - ADEAC https://adeac.jp/nagano-city/text-list/d100030/ht000280
  32. 真田信之 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%B9%8B
  33. 松代移封 https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/130099.html
  34. 真田信之の松代入封 - 長野市誌 第三巻 歴史編 近世1 https://adeac.jp/nagano-city/texthtml/d100030/ct00000003/ht000170
  35. 真田信之ってどんな人?戦国時代を駆け抜けた人生を分かりやすく解説! - Skima信州-長野県の観光ローカルメディア https://skima-shinshu.com/who-is-sanadanobuyuki/
  36. 国史跡 上田城跡 http://www.pcpulab.mydns.jp/main/uedajyo.htm