最終更新日 2025-09-17

石山本願寺退去(1580)

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天正八年 石山本願寺退去 ― ひとつの「王国」の終焉と新時代の胎動

序章:1580年、摂津石山 ― 戦国史の転換点

天正8年(1580年)、摂津国石山(現在の大阪市)に広大な寺内町を構え、一大勢力を誇った石山本願寺が、11年にわたる織田信長との長き戦いの末に講和を受け入れ、その地を退去した。この「石山本願寺退去」という事変は、単なる一戦闘の終結や、畿内における秩序の再編に留まるものではない。それは、中世的な権威と秩序が解体され、近世的な統一国家が形成されていく戦国時代という激動の時代を象徴する、画期的な出来事であった。

本報告書は、この歴史的転換点について、軍事的、政治的、宗教的、そして都市史的という多角的な視点から深く掘り下げるものである。まず、なぜ本願寺と信長が、互いに存亡をかけた全面戦争に突入せざるを得なかったのか、その根源的な対立構造を明らかにする。次に、11年にも及ぶ攻防の軌跡を、特に戦局を左右した主要な戦闘を中心に時系列で追い、両者の戦略・戦術の変遷を臨場感をもって再現する。そして、事変のクライマックスである講和交渉から本願寺の炎上までを詳細に追跡し、その裏にあった政治的力学と教団内部の葛藤を浮き彫りにする。最後に、この事変が織田信長の天下統一事業、本願寺教団のその後の運命、そして「石山」という土地の未来に、いかに決定的かつ永続的な影響を及ぼしたかを論じる。

「講和による退去」という簡潔な史実の背後に隠された、複雑な力学と巨大な歴史のうねりを解き明かし、「石山本願寺退去」が戦国史における一大転換点であったことを論証することが、本報告書の目的である。

第一章:開戦前夜 ― なぜ両者は衝突せねばならなかったのか

石山合戦の勃発は、しばしば「信長の宗教弾圧」という単純な図式で語られがちである。しかし、その実態は、宗教的対立という側面以上に、政治的、経済的、そして地理的要因が複雑に絡み合った、構造的かつ不可避な衝突であった。

第一節:要塞都市・石山本願寺 ― 宗教国家の実像

織田信長と対峙した当時、石山本願寺は単なる一寺院ではなかった。それは、信仰共同体であると同時に、巨大な経済力と軍事力を背景に、大名に匹敵する政治的影響力を行使する、一種の「宗教国家」とも呼ぶべき独立勢力であった 1

その本拠地である石山は、堀と土塁に幾重にも囲まれ、内部に商工業施設を擁する巨大な環濠城郭都市、すなわち「寺内町」を形成していた 1 。寺内町は有事の際には兵站拠点ともなる要塞であり、その規模と機能は戦国大名の居城を凌駕するものであった 3 。さらに本願寺は、摂津、河内、和泉といった畿内近国のみならず、近江、伊勢、北陸に至るまで、交通の要衝に数多くの寺内町を衛星都市として配置し、「大坂並」と呼ばれる広域ネットワークを構築していた 3 。このネットワークを通じて、本願寺は莫大な富と情報を集積し、全国に数十万ともいわれる門徒を動員する力を有していたのである 6

特に加賀国においては、守護大名であった富樫氏を滅ぼして以来、約100年にわたり門徒が国を支配する「百姓の持ちたる国」を実現しており、本願寺は事実上の「加賀の大名」として幕府体制の一員に組み込まれていた 1 。第11世法主・顕如の時代には、本願寺は寺格の最高位である門跡寺院として朝廷からも認められ、その勢力はまさに最盛期を迎えていた 2 。このように、石山本願寺は信仰の中心地であると同時に、経済、軍事、政治が一体となった、高度な自律性を持つ複合国家だったのである。

第二節:天下布武の前に立ちはだかる壁 ― 信長にとっての石山の戦略的価値

一方、尾張から急速に勢力を拡大し、「天下布武」を掲げて上洛を果たした織田信長にとって、石山本願寺の存在は自らの国家構想を実現する上で、決して看過できない巨大な障害であった。信長の狙いは、本願寺という宗教団体そのものの根絶ではなく、その本拠地である「石山」という土地そのものであった 7

石山が位置する上町台地は、淀川の河口を扼し、京都と国際貿易港・堺を結ぶ水陸交通の結節点であった 7 。当時の物流の主役であった船運を完全に掌握し、西国への進出を図る信長にとって、この地は畿内支配の、ひいては天下統一事業の最重要戦略拠点だったのである 3 。信長は、この地にいずれ壮大な城塞と商業都市を築く構想を抱いていたとされ、その構想は後に豊臣秀吉による大坂城築城によって実現されることになる 3

合理主義者であった信長からすれば、自らの支配を受け付けず、独自の統治機構と武力を持つ本願寺が、この最重要拠点に存在すること自体が許容できなかった 5 。領土も増えず、戦利品も得られない宗教勢力との戦いは、本来であれば不合理なものであったが、石山という土地の絶対的な戦略的価値が、信長に11年にも及ぶ長期戦を戦い抜くことを決意させたのである 7

第三節:信長包囲網の力学 ― 政治的文脈における挙兵

信長と本願寺の対立が不可避であったとしても、その火蓋が切られた直接のきっかけは、信長からの宗教弾圧ではなく、本願寺側からの極めて政治的な判断に基づく軍事行動であった 1

元亀元年(1570年)9月、信長は、将軍・足利義昭を奉じ、畿内の反抗勢力であった三好三人衆を摂津福島城に包囲していた。まさにその時、石山本願寺は突如として蜂起し、背後から織田軍に襲いかかったのである 1 。この攻撃は信長にとって全くの不意打ちであり、『細川両家記』には信長方が「仰天した」と記されているほどであった 1

この挙兵の背景には、信長の急速な台頭に危機感を抱いた将軍・足利義昭が画策した「信長包囲網」の存在があった。義昭は、浅井長政、朝倉義景、六角氏、そして三好三人衆といった反信長勢力に呼びかけ、信長を東西から挟撃しようと試みた 9 。本願寺もまた、これらの勢力と密接な関係を築いており、この包囲網の重要な一角を担う形で挙兵に至ったのである 1 。顕如が全国の門徒に発した檄文には、「信長が本願寺を破却すると通告してきた」と記されているが、信長側の驚きようから察するに、これは挙兵を正当化するための大義名分であった可能性が高い 1

本願寺は、特定の信仰上の理由や信長個人への憎悪からではなく、自らが属する政治ブロックの一員として、その存亡をかけて信長との全面対決を選択した。それは、純粋な宗教戦争ではなく、畿内の覇権を巡る大規模な政治闘争の幕開けであった。

この対立の根源には、より本質的な問題が横たわっていた。自律的な経済・軍事・統治システムを持つ本願寺は、いわば「国家内国家」であり、その存在そのものが、唯一の武力による中央集権的な天下統一を目指す信長の国家構想に対するアンチテーゼであった。中世的・分権的な宗教国家と、近世的・中央集権的な武家国家。この二つの異なる国家モデルは、畿内という同一空間において本質的に両立し得ず、その衝突は歴史の必然であったと言える。11年という長期にわたる徹底抗戦の根源的な理由は、まさにこのイデオロギーの対立にあったのである。


表1:石山合戦 主要年表(1570年~1580年)

年月

織田方の動向

本願寺方(および反信長勢力)の動向

主な出来事

元亀元年 (1570)

9月:三好三人衆を野田・福島城に包囲。

9月:突如蜂起し、織田軍を攻撃。浅井・朝倉軍が湖南に進出。

石山合戦勃発。

元亀2年 (1571)

9月:比叡山延暦寺を焼き討ち。

5月:伊勢長島で一向一揆が蜂起。

信長包囲網が本格化。

元亀4年/天正元年 (1573)

7月:足利義昭を京から追放。8月:朝倉義景、浅井長政を滅ぼす。

3月:武田信玄が病死。

室町幕府滅亡。包囲網の一角が崩れる。

天正2年 (1574)

9月:伊勢長島一向一揆を殲滅。

1月:越前で一向一揆が蜂起。

本願寺の支持基盤が切り崩される。

天正3年 (1575)

8月:越前一向一揆を殲滅。

10月:一時的な和睦を申し入れる。

本願寺が戦術的に追い詰められる。

天正4年 (1576)

5月:天王寺砦で本願寺勢を撃破。7月:木津川口で毛利水軍に大敗。

4月:毛利輝元と結び、再び挙兵。7月:毛利水軍が兵糧搬入に成功。

天王寺の戦い 第一次木津川口の戦い

天正6年 (1578)

11月:鉄甲船を投入し、毛利水軍に大勝。

11月:毛利水軍が兵糧搬入を試みるも大敗。

第二次木津川口の戦い 。制海権を失う。

天正8年 (1580)

閏3月:正親町天皇の勅命を介して講和。

閏3月:顕如が講和を受諾。4月:顕如が石山を退去。8月:教如も退去。

石山本願寺退去。 直後に伽藍は炎上、焼失。


第二章:十一年にわたる攻防 ― 消耗戦のリアルタイム・クロニクル

元亀元年(1570年)の開戦から天正8年(1580年)の講和に至るまで、石山合戦は実に11年の長きにわたって続いた。その戦いは、畿内における断続的な戦闘に留まらず、北陸や東海地方の一揆、さらには西国の雄・毛利氏を巻き込み、全国規模の様相を呈した。信長は、難攻不落の石山本願寺を正面から攻め落とすのではなく、その手足を断ち、兵站を絶つという、長期的かつ合理的な戦略で徐々に包囲網を狭めていった。

第一節:陸戦の膠着と各個撃破 ― 天王寺の戦いと周辺一揆の鎮圧

合戦初期、本願寺勢は織田軍に対して互角以上の戦いを繰り広げた。その力の源泉は、当時最強と謳われた鉄砲傭兵集団「雑賀衆」の存在と、死を恐れぬ門徒たちの高い士気にあった 13 。特に天正4年(1576年)5月に起こった「天王寺の戦い」は、陸戦の熾烈さを物語っている。この戦いで本願寺勢は、塙直政(原田直政)を討ち取り、明智光秀らの部隊を天王寺砦に追い詰めるなど、織田軍を窮地に陥れた 16 。報せを受けた信長は、自ら三千の寡兵を率いて救援に駆けつけ、一万五千と号する本願寺勢の只中に突撃。敵の鉄砲玉を足に受け負傷しながらも、自ら先陣を切って敵陣を切り崩し、辛くも勝利を収めた 16

しかし、信長は本願寺本体とのこのような消耗戦が不毛であることを理解していた。彼の主戦略は、本願寺を直接攻めるのではなく、その力を支える周辺の一向一揆を一つずつ、しかし徹底的に殲滅していく「各個撃破」にあった 6 。天正2年(1574年)には、7万から8万ともいわれる大軍を動員して伊勢長島を包囲し、降伏を許さず、砦に籠もる門徒約2万人を焼き殺した 2 。翌天正3年(1575年)には、越前の一向一揆に対し3万の兵を送り、これもまた1万人以上を殺戮して鎮圧した 4 。こうした苛烈な殲滅戦によって、本願寺は各地からの支援を次々と失い、次第に石山という孤島に追い詰められていったのである 4

第二節:海からの生命線 ― 第一次木津川口の戦い

陸からの支援を断たれ、兵糧攻めによって困窮し始めた石山本願寺にとって、唯一の生命線は海上からの補給路であった。天正4年(1576年)、信長に京を追われた将軍・足利義昭の呼びかけに応じ、中国地方の覇者・毛利輝元が本格的に本願寺支援に乗り出す 17

同年7月13日、毛利氏は当主・輝元の命を受け、村上水軍を中心とする約800艘の大船団を大坂湾へと派遣した 21 。その目的は、兵糧をはじめとする物資を石山本願寺へ運び込むことであった。これを阻止すべく、織田方も九鬼嘉隆率いる約300艘の水軍で迎え撃ったが、戦いの様相は織田方の予想を遥かに超えるものであった 21 。毛利水軍は、陶器の玉に火薬を詰めた「焙烙火矢」と呼ばれる新兵器を駆使した 21 。焙烙火矢は織田方の安宅船に次々と投げ込まれ、船上は大混乱に陥り、大半が炎上。織田水軍は壊滅的な打撃を受け、惨敗を喫した 21

この勝利により、毛利水軍は悠々と石山本願寺への兵糧搬入を成功させ、信長の海上封鎖は完膚なきまでに打ち破られた。これは、敵城を包囲中の信長の主力部隊が、外部からの強行突破を許した稀有な例であり、信長に制海権の重要性を痛感させる痛烈な敗北となった 21

第三節:勝敗を決した「鉄の船」 ― 第二次木津川口の戦い

第一次木津川口の戦いでの惨敗は、信長に新たな発想の転換を促した。彼は、従来の戦法では毛利水軍に勝てないと悟り、技術革新によってその劣勢を覆そうと考えた。信長は配下の水軍の将・九鬼嘉隆に、前代未聞の巨大な軍船の建造を命じたのである 22

2年の歳月を経て、天正6年(1578年)に完成したのが、後に「鉄甲船」と呼ばれる6隻の大型船であった 4 。その実態については謎も多いが、船体は鉄板で装甲され、焙烙火矢による攻撃を防ぎ、大砲や大鉄砲を多数搭載していたと伝えられる 22

同年11月6日、再び本願寺への兵糧搬入を試みる毛利水軍約600艘が、大坂湾の木津川口に姿を現した 4 。迎え撃つ織田水軍は、わずか6隻の鉄甲船が中核であった。毛利水軍は、初めて見る巨大な黒船に圧倒されつつも、得意の焙烙火矢で攻撃を開始した。しかし、鉄の装甲には全く歯が立たず、逆に鉄甲船から放たれる大砲や鉄砲の一斉射撃を浴び、次々と撃沈、あるいは焼き払われた 22 。戦いはわずか4時間ほどで決着し、毛利水軍は大敗北を喫した 22

この第二次木津川口の戦いにおける織田方の劇的な勝利は、石山合戦全体の帰趨を決する決定的なターニングポイントとなった。大坂湾の制海権は完全に織田方の手に落ち、石山本願寺への補給路は断絶 4 。難攻不落を誇った要塞都市は、外部からの支援を一切絶たれ、完全な孤立状態に陥ったのである。

石山合戦の長期にわたる攻防を俯瞰すると、陸戦においては信仰心に支えられた本願寺勢が織田軍と互角以上に渡り合い、戦線は膠着していたことがわかる。しかし、戦争の帰趨を最終的に決定づけたのは、陸の戦いではなく、二度にわたる海の戦いであった。第一次海戦は「焙烙火矢」という新兵器が、第二次海戦は「鉄甲船」という技術革新が勝敗を分けた。この事実は、石山合戦が、兵士個々の武勇や精神論が支配した中世的戦闘から、補給路(兵站)の維持とそれを巡る技術的優位性が雌雄を決する近世的戦闘へと移行していく過渡期の戦いであったことを象徴している。この戦いを通じて、信長は制海権と技術革新の戦略的重要性を深く学び、その後の天下統一事業へと活かしていくことになる。


表2:木津川口の戦い 比較表

項目

第一次木津川口の戦い

第二次木津川口の戦い

年月日

天正4年7月13日(1576年)

天正6年11月6日(1578年)

交戦勢力

毛利水軍(勝利) vs 織田水軍

織田水軍(勝利) vs 毛利水軍

指揮官

村上元吉、浦宗勝など

九鬼嘉隆など

兵力(艦船数)

毛利方:約800艘 vs 織田方:約300艘

織田方:鉄甲船6艘など vs 毛利方:約600艘

主要兵器

焙烙火矢

鉄甲船 、大砲、大鉄砲

結果

織田水軍が壊滅的大敗。本願寺への兵糧搬入成功。

毛利水軍が大敗。本願寺への補給路が完全に断絶。

戦史的意義

信長に制海権の重要性を痛感させ、新兵器開発の契機となった。

技術革新が戦局を覆した画期的な海戦。石山合戦の帰趨を決定づけた。


第三章:終焉の年、1580年 ― 講和から炎上までの二百日間

第二次木津川口の戦いでの敗北により、石山本願寺は兵糧の枯渇という致命的な状況に追い込まれた。11年に及んだ大戦は、天正8年(1580年)、ついに終局へと向かう。しかしその幕引きは、一方的な殲滅戦ではなく、朝廷を巻き込んだ高度な政治交渉と、教団内部の深刻な対立という、複雑な様相を呈した。

第一節:水面下の交渉 ― 正親町天皇の勅命と近衛前久の暗躍

長期にわたる籠城戦で、本願寺内部では物資不足や疫病が深刻化し、厭戦気分が広がりつつあった 29 。一方、信長にとっても、武力で石山を攻め落とすことは多大な犠牲を伴うため、可能な限り穏便な形で決着をつけたいという思惑があった 30 。両者の利害が一致する中、和平交渉の仲介役として歴史の表舞台に登場したのが、正親町天皇と朝廷であった。

天正8年(1580年)3月1日、正親町天皇は勅使として勧修寺晴豊らを石山本願寺へ派遣し、信長との講和を勧告した 31 。この朝廷の介入は、単なる善意による仲裁ではなかった。信長にとっては、天皇の権威を利用することで、自らの軍事行動を「天下静謐のための正義の戦い」と位置づけ、なおも抵抗を続ける本願寺を「朝敵」として孤立させる狙いがあった 32 。一方、戦国の動乱で権威が失墜していた正親町天皇にとっても、信長という最大の軍事的支援者との関係を強化し、朝廷の存在感を世に示す絶好の機会であった 33

この複雑な政治交渉において、中心的な役割を果たしたのが、前関白の近衛前久であった 35 。前久は、公家の最高位にありながら信長と深い親交を持ち、かつては本願寺に身を寄せた経験もあるなど、双方に影響力を持つ稀有な人物であった 8 。彼の巧みな交渉が、両者の利害を調整し、講和への道を切り開いたのである 37

第二節:教団内の亀裂 ― 和睦派・顕如と抗戦派・教如の相克

「勅命講和」という朝廷からの提案は、疲弊した本願寺の内部に深刻な亀裂を生じさせた。教団は、和睦を受け入れるべきとする穏健派と、あくまで信長との徹底抗戦を主張する強硬派に真っ二つに分裂したのである 38

穏健派の中心は、法主である第11世・顕如であった。彼は、これ以上戦いを続ければ、長島や越前のように門徒が根絶やしにされる未来しか待っていないと判断し、教団存続のためには信長の条件を受け入れるしかないという現実的な決断を下した 8

これに対し、強硬に和睦反対を唱えたのが、顕如の長男であり、次期法主と目されていた教如であった 38 。教如は、「信長の和睦案は我々を欺くための罠であり、退去すれば必ずや騙し討ちに遭い、皆殺しにされるだろう」と主張し、石山での徹底抗戦を訴えた 38 。この父子の対立は、単なる戦術上の意見の相違に留まらず、教団の未来を巡る深刻な路線対立であり、後の本願寺東西分裂の直接的な原因となる根深い確執の始まりであった 39

第三節:【時系列詳述】退去の全貌(天正8年閏3月~8月)

教団内の対立が深まる中、講和と退去は以下の時系列に沿って、緊迫した雰囲気の中で進められていった。

  • 閏3月5日: 顕如は、近衛前久らが提示した信長からの講和条件(石山からの退去を主とする)を受諾。双方が誓紙を交わし、勅命による講和が正式に成立した 8
  • 4月9日: 顕如は、予定を早めて石山を退去する。宗祖・親鸞聖人の御真影を奉じ、妻の如春尼や三男の准如、下間頼廉ら和睦派の側近を伴い、紀伊国鷺森御坊(現在の和歌山市)へと向かった 31
  • 4月~7月: 顕如が去った後も、教如は徹底抗戦を主張する門徒と共に石山本願寺に籠城を続けた 38 。彼は新門主として各地に檄文を飛ばし、特に雑賀衆に共闘を呼びかけるなど、抵抗を継続しようと試みた 44 。この事態に顕如は激怒し、教如を「義絶(勘当)」処分とした 45
  • 7月13日: 教如の抵抗も虚しく、石山を守る二つの支城が織田軍によって攻略される 45 。これにより、教如が籠城を続けることは事実上不可能となった。
  • 8月2日: 追い詰められた教如は、近衛前久らの再度の説得を受け入れ、ついに石山本願寺を明け渡した 4 。この日をもって、元亀元年から11年にわたって続いた石山合戦は、完全に終結した。

第四節:謎に包まれた大火 ― 誰が、なぜ本願寺を焼いたのか

教如が最後の抵抗者として石山を退去した、まさにその直後であった。壮麗を極めた石山本願寺の堂舎と、約2,000軒の家々が軒を連ねた寺内町から火の手が上がった。火は二日一夜にわたって燃え続け、難攻不落を誇った要塞都市は、跡形もなく灰燼に帰した 4

この大火の出火原因は、今なお歴史の謎とされている。主な説としては、以下の三つが挙げられる。

  1. 教如放火説: 明け渡しを潔しとしない教如が、信長に無傷で渡すことを拒み、最後の抵抗として自ら火を放った、あるいは配下に命じたとする説 45
  2. 織田軍失火説: 明け渡しを受けた織田軍の兵士による、不慮の失火であったとする説 48
  3. 自然発生説: 長期の籠城で荒廃した建物から、何らかの原因で自然に発火したとする説 45

真相は不明であるが、この炎上が持つ象徴的な意味は大きい。それは、一個の「宗教王国」が物理的に地上から消滅したことを意味していた。そして、この徹底的な破壊によって、奇しくも信長、そして後の豊臣秀吉がこの地に全く新しい秩序の象徴を建設するための「更地」が用意されたのである。

石山本願寺退去の一連のプロセスは、単なる軍事行動の終結ではなかった。それは、戦国末期における「権威の再編」を象徴する出来事であった。軍事的に優位に立ちながらも、信長は最終的に「天皇の権威」を行使して政治的に勝利を収め、自らの覇業に正統性を組み込んだ。一方、顕如は教団分裂の危機に際し、「法主としての権威」を行使して反対派の長子を義絶し、組織の存続を図った。武力だけでなく、いかに伝統的な権威を確保し、自らの目的に利用するかが重要となる「新しい時代」の到来を、この事変は明確に告げていたのである。

第四章:石山退去がもたらしたもの ― その後の戦国史への波紋

石山本願寺の退去と焼失は、単に11年にわたる戦争が終わったことを意味するだけではなかった。それは、織田信長、本願寺教団、そして「石山」という土地、それぞれの運命を決定的に変え、その後の日本の歴史に巨大な波紋を広げる出来事であった。古い秩序が破壊され、そこから全く新しい秩序が創造される、時代の転換点だったのである。

第一節:信長の天下統一事業 ― 最大の障害の除去と家臣団再編

石山本願寺という、11年間もの長きにわたり畿内における最大の抵抗勢力であり続けた存在が消滅したことで、織田信長の天下統一事業は最終段階へと大きく加速した 49 。畿内に後顧の憂いがなくなった信長は、その軍事力を西国の毛利、東国の武田、北陸の上杉といった地方の強敵との戦いに、遺憾なく注力することが可能となったのである。

この戦争の終結は、信長政権の内部構造にも大きな変化をもたらした。合戦終結直後の天正8年8月、信長は、本願寺包囲の総司令官を5年間にわたり務めていた筆頭家老・佐久間信盛とその子・信栄に対し、19ヶ条にもわたる折檻状を突きつけ、突如として高野山へ追放した 51 。その折檻状には、「5年間在城しながら格別の功績もなかった」「欲深く、良い家臣を抱えようともしない」といった辛辣な言葉が並び、明智光秀や羽柴秀吉といった他の家臣のめざましい働きと比較して、その怠慢を徹底的に糾弾していた 51

この宿老の追放劇は、単なる個人的な懲罰ではない。それは、天下統一が目前に迫る中で、旧来の功臣であっても成果を出せない者は容赦なく切り捨てるという信長の徹底した成果主義と、来るべき新時代に向けた家臣団の再編成という強い意志の表れであった。石山合戦の終結は、信長政権が新たなステージへと移行したことを内外に示す象徴的な出来事だったのである。

第二節:本願寺教団の行方 ― 武装解除と東西分裂への道

石山を追われた本願寺教団もまた、その在り方を根本的に変えざるを得なかった。石山退去は、本願寺が武装を解除し、大名に匹敵する軍事・政治力を持った独立勢力から、天下人の権力下に庇護される一宗教団体へと変質する決定的な転換点であった。

法主・顕如は、紀州鷺森、和泉貝塚、摂津天満と拠点を転々とした後、天下人となった豊臣秀吉から京都の七条堀川に広大な寺地を寄進され、本願寺を再興した 45 。これが現在の西本願寺(浄土真宗本願寺派)の礎となる。

一方で、石山での父との対立は、教団に永続的な亀裂を残した。徹底抗戦を主張した長男・教如は、顕如の死後、豊臣秀吉との関係が悪化し、一度は宗主の座を追われる 15 。しかし、関ヶ原の戦いを経て天下人となった徳川家康は、巨大な本願寺の勢力を削ぐための分断策として、この教如を支援した 57 。家康は、教如に対して西本願寺のすぐ東隣、烏丸七条の地を寄進し、新たな本願寺の建立を許可したのである 40 。これが現在の東本願寺(真宗大谷派)の始まりである。

石山での父子の路線対立という内的な要因が、その後の天下人たちの政治的思惑と結びつき、最終的に本願寺は東西に分裂するという運命を辿った。それは、かつて天下人と対等に渡り合った宗教王国が、完全に世俗権力の下に組み込まれたことを示す象徴的な結末であった 39

第三節:「石山」から「大坂」へ ― 豊臣秀吉による大坂城築城と新時代の幕開け

石山本願寺という中世的な宗教都市が炎によって破壊された跡地には、全く新しい時代の象徴が創造された。本能寺の変で信長が倒れた後、その後継者として天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、石山本願寺跡地の持つ比類なき戦略的価値に着目した 60

天正11年(1583年)、秀吉はこの地に、主君・信長の安土城をも凌駕する、壮大にして絢爛豪華な「大坂城」の築城を開始した 62 。秀吉は、この城を自らの天下統一事業の拠点と定め、大規模な城下町を整備した 66 。これにより、「石山」の地は「大坂」として生まれ変わり、日本の政治・経済・文化の中心地として、未曾有の発展を遂げることになる。

石山本願寺の「死」が、近世都市「大坂」の「誕生」に直結したという歴史のダイナミズムは、この事変が持つ最も大きな意義の一つである。それは、信仰の時代から武士の時代へ、そして商業の時代へと移り変わる日本の大きな社会変革を、一つの土地の変貌が見事に体現した事例であった。

このように、「石山本願寺退去」という一連の出来事は、物理的な空間(石山から大坂へ)、権力構造(宗教国家から武家政権へ)、そして組織論(年功序列から成果主義へ)のすべてにおいて、不可逆的な時代の転換を促した。それは、古い秩序の徹底的な破壊と、新しい秩序の意図的な創造が同時に進行した、戦国時代から近世への移行期を象徴するプロセスそのものであったと言えるだろう。

終章:石山本願寺退去が歴史に刻んだもの

天正8年(1580年)の石山本願寺退去は、戦国時代の終焉と近世の幕開けを告げる、極めて重層的な意義を持つ歴史的事件であった。

本報告書で詳述したように、この事変は単なる織田信長と一宗教勢力との軍事衝突ではなかった。それは、中央集権的な統一国家を目指す信長の国家構想と、独自の統治機構を持つ分権的な宗教国家・本願寺との、両立不可能な二つの統治イデオロギーの衝突であった。11年にわたる攻防の帰趨は、最終的に兵站と技術革新という近世的な戦争の要因によって決定づけられ、その終結は天皇の権威という伝統的権威の再編と利用によってもたらされた。

この事変の結果、信長は天下統一への最大の障害を取り除き、自らの政権をより強固なものへと再編した。一方で、本願寺は武装を解除され、天下人の権力構造の中に一宗教法人として組み込まれる道を歩み、やがて東西分裂という永続的な変容を遂げた。そして、最も劇的な変化を遂げたのは「石山」という土地そのものであった。宗教王国の灰燼の中から、豊臣秀吉によって近世日本の中心となる城郭都市・大坂が誕生したのである。

要するに、「石山本願寺退去」は、信仰が政治を動かした中世という時代の終わりと、統一権力が社会のあらゆる側面を規定していく近世という時代の始まりを、明確に告げる分水嶺であった。その跡地に築かれた大坂城と、そこから発展した現代の国際都市・大阪へと繋がる歴史の連続性に思いを馳せる時、我々はこの事変が持つ歴史の重みを改めて認識するのである。

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