最終更新日 2025-09-27

石巻港整備(1604)

慶長九年、伊達政宗は北上川改修と石巻港整備に着手。川村孫兵衛の尽力で三川合流を成し遂げ、仙台藩は実質百万石の経済力を確立。江戸廻米の拠点となり、政宗の天下への野望を経済で実現した。
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天下統一の夢、北上川にあり―伊達政宗の国家構想と石巻港創出の全貌(慶長九年~寛永年間)

序章:戦国時代の終焉と新たな野望の黎明

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、徳川家康による天下統一が成り、日本は長きにわたる戦乱の時代に終止符を打った。これにより、全国の大名は軍事力による領土拡大という、戦国時代を通じての行動原理を事実上封じられることとなった 1 。奥州の覇者、伊達政宗もその例外ではなかった。天下への野望を胸に抱きながらも、時代の潮流には抗えず、彼は新たな生存戦略を模索せざるを得ない状況に追い込まれていた。政宗が直面した最大の課題は、関ヶ原の戦いを経てもなお抱え続けていた膨大な家臣団の維持であった 2 。彼らを養い、藩の体制を磐石にするためには、新たな石高の創出が不可欠であり、これは仙台藩の存亡そのものに関わる死活問題であった。

この窮地において、政宗はその非凡な才覚を、軍事から内政、とりわけ経済へと大きく舵を切ることで発揮する。彼の戦略は、幕府に申告する公式の石高である「表高」に固執するのではなく、領内における実際の米の収穫量、すなわち「実高」を飛躍的に増大させることにあった 2 。この戦略転換の中核に据えられたのが、領内に広がる未開墾地を穀倉地帯へと変貌させる「新田開発」である 1 。そして、この壮大な構想を実現するための鍵こそが、北上川水系の治水と、それによって生み出される莫大な米を巨大消費地・江戸へと送り出すための物流拠点の整備であった。

本報告書で主題とする「石巻港整備(1604)」とは、単に港湾施設を建設するという土木事業ではない。利用者が提示した慶長九年(1604年)という年は、後の第一次改修事業の責任者となる白石(伊達)宗直が登米(とよま)へ移封を命じられた年であり、これは政宗の壮大な国家構想が、具体的な実行段階へと移された画期を意味する 1 。すなわち、北上川の治水、新田開発による食糧増産、そして石巻港を基軸とした水運ネットワークの構築という、三位一体の巨大プロジェクトの始動であった。

政宗のこの計画は、単なる経済政策の枠を超え、彼の天下への野望が時代の変化に適応し、昇華した姿であったと捉えるべきである。武力で天下を望めぬならば、日本最大の経済力を掌握し、幕府や諸大名に対して圧倒的な影響力を持つ。それは、形を変えた新たな「天下獲り」に他ならなかった。北上川を制し、その河口に位置する石巻を掌握することは、仙台藩を日本の経済的中心地へと押し上げるための、壮大かつ緻密な布石だったのである。この思考の連鎖、すなわち「軍事行動の封鎖」→「家臣団維持の必要性」→「解決策としての新田開発」→「新田開発の障壁である洪水の克服(治水)」→「増産米の輸送ルート確保(水運網と港の整備)」という一連の論理的帰結こそが、この国家レベルの経営戦略の根幹を成している。

第一章:仙台藩の黎明期における課題―豊穣と災厄の源、北上川

伊達政宗が新たな領国経営の舞台とした仙台平野、特にその北部は、二つの相反する顔を持っていた。一つは、北上川、江合川、迫川という三大河川が上流から運び込む肥沃な土砂によって形成された、広大な沖積平野という地理的ポテンシャルである 1 。この土地は、本来であれば日本有数の穀倉地帯となりうる豊かな可能性を秘めていた。

しかし、その一方で、これらの河川は「暴れ川」としての素顔も併せ持っていた。藩政時代以前、北上川水系は定まった流路を持たず、網の目のように流れが分岐し、合流を繰り返していた。そのため、一度大雨が降れば、その水は容易に堤防を越え、広大な範囲にわたって氾濫を引き起こした 6 。その結果、平野の大部分は長年にわたり生産性の低い湿地帯のまま放置されていたのである 6 。歴史を遡れば、平安時代にはすでに洪水被害の記録が見られ、特に天正七年(1579年)には登米や佐沼といった下流域で人馬が多く犠牲になったという記録が残るなど、治水は地域にとって長年の、そして解決困難な懸案事項であった 8

この絶え間ない洪水こそが、新田開発を物理的に不可能にし、仙台藩の石高増加を阻む最大の要因であった 1 。いかに肥沃な土地が広がっていようとも、いつ水に浸かるかわからない土地に、農民が安心して鍬を入れることはできない。仙台藩の経済的停滞の根本原因は、土地そのものの貧しさにあるのではなく、「水のコントロールができていない」という、ただ一点に集約されていた。

多くの為政者がこの土地を「治水不能な厄介地」と見ていた中で、伊達政宗の慧眼は、問題の本質が「土地の質」ではなく「水の管理」にあると正確に見抜いた点にある。彼は、この土地が抱える「最大のリスク(洪水)」を、治水に成功しさえすれば「最大のリターン(穀倉地帯化)」へと転換できる、という反転の可能性を見出した。他の領主が諦めていたこの広大な湿地帯を、政宗は「未開発の宝の山」と捉えたのである。この卓抜した着眼点こそが、後に日本史上に残る大事業へと繋がる、全ての始まりであった。

第二章:壮大なる構想の始動―第一次河川改修とキーパーソンの登場(慶長九年~慶長末期)

伊達政宗の壮大な構想は、慶長九年(1604年)を境に、具体的な行動へと移される。この複雑かつ長期にわたるプロジェクトを理解するためには、まずそれを推進した主要人物たちの役割を明確にすることが不可欠である。

人物名

役割・称号

主要な功績

関連資料

伊達政宗

仙台藩初代藩主

プロジェクトの最高意思決定者。領国経営のグランドデザインを構想し、人材を登用。

1

白石(伊達)宗直

登米城主

第一次改修事業の実行責任者。「相模土手」を築き、北上川の流路変更に着手。

1

川村孫兵衛重吉

普請奉行

第二次改修事業の総責任者。三川合流という抜本的な大改修を計画・実行。

3

この表が示すように、プロジェクトは「構想者(政宗)」、「先行実施者(宗直)」、そして「完成者(孫兵衛)」という、明確な役割分担のもとに組織的に推進された。

慶長九年(1604年)~慶長十五年(1610年):第一次改修「相模土手」

プロジェクトの第一歩は、慶長九年(1604年)12月、政宗の一族である白石宗直が登米1万2千石の領主として入封したことから始まる 1 。政宗の特命を受けた宗直は、翌慶長十年(1605年)から、北上川本川の流路を中田町浅水で締め切り、大きく東の東和町米谷へと湾曲させるという、大規模な河道付替工事に着手した 10 。この時に築かれた長大な堤防は、宗直の官途名「相模守」にちなんで「相模土手」と呼ばれ、仙台藩による北上川本格改修の嚆矢となった 11 。この事業は、来るべき孫兵衛による大改修の布石であり、技術的な課題や効果を検証する、現代のプロジェクトマネジメントにおける「パイロット事業」としての性格を帯びていたと考えられる。

天才技術者・川村孫兵衛の登用

この壮大な計画を最終的に完成させる人物、川村孫兵衛重吉は、長州(現在の山口県)出身の浪人であった 3 。彼は水利、測量、天文、数学といった土木事業に不可欠な科学技術に精通しており、その類稀なる才能を政宗に見出され、関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601年)頃に家臣として召し抱えられた 3 。政宗が破格の待遇でこの無名の技術者をスカウトしたという逸話は、彼が出自や身分を問わず、実力のある人材を積極的に登用する、合理的な人材活用術を持っていたことを如実に物語っている 3

慶長十八年(1613年):世界的視野との交錯―慶長遣欧使節の出帆

北上川の第一次改修が進行するさなか、仙台藩の歴史におけるもう一つの画期的な出来事が起こる。慶長十八年(1613年)、政宗の命を受けた支倉常長ら慶長遣欧使節団が、ガレオン船サン・フアン・バウティスタ号に乗り込み、石巻近郊の月ノ浦から太平洋へと出帆したのである 15

この二つの事業が同時期に、同じ地域を起点として進められていたことは、決して偶然ではない。政宗の視野は、国内のインフラ整備に留まっていなかった。彼は、北上川改修によって生み出されるであろう莫大な富、すなわち米やその他の物産を、国内最大の市場である江戸へ送るだけでなく、太平洋を越えて海外(スペイン領メキシコ)と直接交易することも視野に入れていた。つまり、「北上川改修・石巻港整備」計画は、当初から国内の江戸廻米ルート確保という目的と、太平洋交易の拠点化という二つの目的を内包した、重層的かつグローバルな構想だったのである。石巻は、江戸への玄関口であると同時に、世界への玄関口となるべく運命づけられていた。この二つの壮大な構想が並行して進められていたという事実は、伊達政宗という人物の思考のスケールの大きさを雄弁に物語っている。

第三章:大河との格闘―川村孫兵衛による北上川大改造の十年(元和二年~寛永三年)

プロジェクトの核心であり、最も困難を極めたのが、川村孫兵衛の指揮による第二次改修事業である。この事業の全貌を時系列で追うことで、大河との壮絶な格闘の様子を再現する。

西暦 (和暦)

事業の進捗

仙台藩・国内の主要な出来事

1604 (慶長9)

白石宗直、登米へ入封。改修事業の準備開始。

1605-1610 (慶長10-15)

宗直による第一次改修。「相模土手」完成 12

1613 (慶長18)

慶長遣欧使節、月ノ浦より出帆 15

1614-1615 (慶長19-元和元)

大坂の陣。豊臣家滅亡。

1616 (元和2)

川村孫兵衛、第二次改修に着手。まず江合川と迫川の合流工事を開始 9

1620 (元和6)

仙台藩の米、初めて江戸へ出荷される 13

1623 (元和9)

孫兵衛、柳津-飯野川間の流れを止める難工事を完成 18 。北上川本体の開削と三川合流工事が本格化 9

徳川家光、三代将軍に就任。

1626 (寛永3)

和渕山と神取山の間で北上川・迫川・江合川の「三川合流」が完成 9 。石巻へ注ぐ新流路が誕生。

1624- (寛永元-)

孫兵衛、仙台城下の四ツ谷用水計画に着手 12

【時系列解説】元和二年(1616年)~:第二次改修の開始

元和元年(1615年)の大坂夏の陣をもって豊臣家が滅亡し、世の中が完全に泰平の時代を迎えると、政宗は満を持して川村孫兵衛に第二次改修事業を命じた 13 。孫兵衛の計画は、それまでの小手先の改修とは一線を画す、抜本的なものであった。彼はまず、本流である北上川に直接手を付ける前に、支流である江合川と迫川を合流させる工事から着手した 9 。これは、複雑に絡み合う水系を整理し、本流の工事に集中できる環境を整えるための、極めて合理的かつ周到な手順であった。

【時系列解説】元和九年(1623年)~寛永三年(1626年):クライマックス「三川合流」

事業が佳境に入ると、孫兵衛は家族を伴って工事現場に近い石巻近郊へと移り住み、文字通り陣頭に立って指揮を執った 18 。プロジェクトのクライマックスは、それまで追波湾へと注いでいた北上川の流れを、新たに石巻湾へと導くための新流路の開削であった。特に、柳津から神取山までの約5.2kmにわたる区間は最大の難所であり、この新たな水路を掘削し、和渕(わぶち)の地で北上川、迫川、江合川の三つの川を合流させるという、前代未聞の「三川合流」工事が敢行された 9 。この大事業には、当時の最先端であった測量術や、城郭建築で培われた石積み技術などが惜しみなく投入された 12

孫兵衛のリーダーシップと現場のリアル

この巨大プロジェクトの成功は、孫兵衛の持つ高度な科学技術力のみならず、彼の人間中心の卓越したプロジェクトマネジメント能力によって支えられていた。10年にも及ぶ過酷な工事は、幾度となく困難に直面した。資金が底を突くと、孫兵衛は私財を投げ打ち、さらには借金までして工事を続行させたという 13 。また、彼は厳しい肉体労働に従事する人夫たちの労苦を深く理解し、彼らのために野天風呂を設けたり、時には自身の屋敷の風呂を開放したりするなど、その士気を高めるための配慮を怠らなかった 18

孫兵衛のリーダーシップを象徴する逸話として、特に有名なのが、工事の進捗を視察に訪れた政宗とのやり取りである。政宗が「工事の進み具合はどうか」と問うた際、実際には計画より遅れていたにもかかわらず、孫兵衛は臆することなく「はっ、このくらいでございます」と、自らの首のあたりを指し示して答えた。そして、その言葉を証明するかのように、自ら川の中へと進み入り、水が首の高さに達する場所でぴたりと立ち止まってみせたのである。これを見た政宗は、「うむ、相違ない。首のあたりであるな」と一言だけ述べ、満足げに帰っていったという 18

この逸話は、単なる主君への忠誠心や機転を示す美談ではない。これは、現場が抱える困難(遅延)の責任を部下である人夫たちに押し付けることなく、全てを一身に引き受け、トップ(政宗)を納得させ、プロジェクトを前に進めるという、中間管理職としての究極のリーダーシップの発露であった。技術と人間性の融合。それこそが、この不可能とも思われた大事業を成功に導いた真の要因であった。

第四章:東海随一の港へ―石巻の誕生と江戸廻米ルートの確立

寛永三年(1626年)、川村孫兵衛による10年間の格闘の末、北上川はついに新たな流路を得て石巻湾へと注ぎ始めた。この大動脈の完成は、単に治水問題を解決しただけでなく、仙台藩の経済構造そのものを根底から変革し、石巻という新たな港湾都市を誕生させるに至った。

新たな大動脈の完成と港湾都市の建設

新流路の開通により、それまで陸送に頼らざるを得なかった北上川上流域の米や物産が、川船によって直接、河口の石巻まで大量かつ低コストで輸送できるようになった 7 。これに伴い、石巻は急速に港湾都市としてのインフラ整備を進める。藩の米を保管するための巨大な蔵(御蔵)が次々と建てられ、江戸との間を往来する数千石積みの大型廻船が接岸できる船着場が設けられた 21 。かつて伊寺水門(いしみなと)と呼ばれた小さな漁村は、東北随一の物流拠点へと劇的な変貌を遂げたのである 23

江戸廻米システムの確立

この物流革命がもたらした最大の成果は、「江戸廻米」システムの確立であった。驚くべきことに、工事がまだ完了していない元和六年(1620年)の段階で、すでに仙台藩の米が初めて江戸へ向けて出荷されている 13 。これは、プロジェクトの経済的効果が極めて早期に現れ始め、藩の財政に貢献していたことを示している。

システムが本格稼働すると、その規模は絶大なものとなった。最盛期には年間20万石(約3万トン)もの米が石巻から江戸へと送られ、一時は江戸で消費される米の実に3分の1を仙台米が占めたとまで言われる 2 。仙台藩は、農民が生産した余剰米を藩が強制的に買い上げる「買米制」という独自の制度を導入し、米の生産から流通までを完全に掌握した 1 。これにより、藩は江戸の米相場を見ながら最も有利なタイミングで米を売却し、莫大な利益を上げることが可能となった。

港町・石巻の繁栄と文化

米の一大集積地となった石巻には、全国から人、モノ、金、情報が集まり、活気に満ち溢れた。廻船の荷役や船頭の宿などを手配する廻船問屋が勃興し、武山家、小川屋、菊池屋といった豪商たちが町の経済を牽引した 25 。石巻は単なる米の積出港に留まらず、北上川流域全体のあらゆる物産が集まる一大ハブ港として発展し、その繁栄ぶりは「東海第一の大みなと」と称されるほどであった 27 。さらに、幕府の許可を得て銭貨(寛永通宝など)を鋳造する「鋳銭場」が置かれるなど、石巻は仙台藩における経済特区としての側面も持っていた 21

ここに、伊達政宗の領国経営の真骨頂が見て取れる。彼は、生産(新田開発)、集荷(買米制)、物流(北上川舟運)、拠点(石巻港)、そして販売(江戸市場)という、米のサプライチェーンの全工程を藩の管理下に置く、極めて近代的で強力な「藩営の垂直統合型システム」を構築したのである。このシステムにおいて、石巻は単なる港ではない。サプライチェーン全体の流れを制御し、藩の富を最大化するための戦略的チョークポイント(要衝)であった。この他に類を見ない経済システムの完成こそが、仙台藩を天下の台所へと押し上げた原動力だったのである。

第五章:百万石の礎―事業がもたらした永続的影響と歴史的意義

川村孫兵衛による北上川改修と石巻港の整備は、仙台藩、ひいては日本の歴史に長期的かつ決定的な影響を与えた。その歴史的意義は、単なる経済的成功に留まらず、政治、技術、そして文化の各側面に及んでいる。

仙台藩「実質百万石」の達成

治水事業の成功は、長年水害に苦しんできた仙台平野北部に劇的な変化をもたらした。かつての湿地帯は次々と乾田化され、新田開発が爆発的な勢いで進んだ 6 。その結果、仙台藩の公式な石高である表高62万石に対し、実際の米の収穫高である実高は100万石を優に超え、一説には150万石から200万石に達したと推測されている 2 。この公式の数字には現れない「隠れた国力」こそが、その後250年以上にわたり、仙台藩の強固な財政基盤と軍事力を支え、幕末に至るまで奥羽越列藩同盟の盟主として重きをなす原動力となった。

江戸経済への影響力

石巻から江戸へ送られる膨大な仙台米は、首都の食糧事情に絶大な影響力を持った。「江戸の米相場は仙台藩によって左右された」という言葉は、決して誇張ではない 1 。これは、仙台藩がもはや単なる東北の一地方勢力ではなく、日本の政治経済の中心地である江戸の生命線を握るほどの力を持つ存在になったことを意味する。この経済的影響力は、徳川幕府に対する一種の「静かなる抑止力」として機能した。表高以上の実力を備えることで、仙台藩は幕府から容易に干渉されることのない、独自の政治的地位を築き上げることに成功したのである。これは、戦国武将としての政宗が、泰平の世において自藩の独立性と影響力を維持するために編み出した、究極の安全保障戦略であったと言えよう。

後世への技術的・思想的遺産

川村孫兵衛が実践した治水技術と思想は、後世の日本の河川改修に大きな影響を与えた。特に、洪水を力で抑え込むだけでなく、中流域に遊水地を設けて一時的に洪水を受け止め、下流への負担を軽減するという思想は、近代以降の治水計画にも受け継がれている 8 。事実、明治時代に入ると、政府は孫兵衛の事業を基礎として、新たに放水路である新北上川を開削するなど、さらなる改修事業を重ねていった 7 。孫兵衛の仕事は、400年の時を超えて、現代に至るまでこの地域の安全と発展の礎となっているのである。

伊達政宗の再評価

伊達政宗という人物は、その派手な装束や豪放な言動、あるいは軍事的な逸話によって語られることが多い。しかし、この北上川改修と石巻港整備という一大事業は、彼が単なる「伊達者」ではなく、数十年、数百年先を見据えた冷徹な戦略家であり、卓越した経営者であったことを何よりも雄弁に証明している 4 。武力による天下統一の道が閉ざされた時、彼は即座に経済による国家建設へと思考を切り替え、それを実現するための壮大なビジョンを描き、適切な人材を登用し、そして最後までやり遂げた。この事業こそ、政宗の真の偉大さを示す最大の功績と言えるかもしれない。

終章:過去から未来へ―石巻港整備が現代に語りかけるもの

慶長九年(1604年)にその第一歩が記された石巻港整備と、それに連なる北上川大改修事業は、400年以上の時を経た現代社会に対しても、多くの重要な教訓と示唆を与えている。

第一に、それはリーダーシップと専門技術の理想的な融合が、いかにして巨大なプロジェクトを成功に導くかという普遍的なモデルを示している。伊達政宗が描いた長期的かつ国家的なビジョンと、それを実現するために登用された川村孫兵衛という専門家の高度な技術力、そして現場の人々の心を掌握し、困難な事業を完遂させた卓越したリーダーシップ。この三者が完璧に噛み合ったからこそ、この歴史的偉業は成し遂げられた。これは、現代の組織論やプロジェクトマネジメントにおいても、学ぶべき点が多い不朽の事例である。

第二に、この事業は国土開発と自然との共生について、我々に深く問いかける。彼らは「暴れ川」を単に力でねじ伏せるのではなく、その強大な水のエネルギーを巧みに制御し、流路を変え、新たな豊穣の地を生み出した。自然を克服の対象としてのみ見るのではなく、その特性を深く理解し、その力を利用して人間の営みを豊かにするという思想は、環境との調和が強く求められる現代において、改めてその価値が見直されるべきであろう。

そして最後に、この一大事業は、現代に続く「米どころ宮城」の原点そのものである。今日、我々が享受する豊かな食文化と美しい田園風景の礎が、戦国の終焉期に生きた一人の大名とその家臣たちの、未来を見据えた壮大な構想と不屈の挑戦によって築かれたという歴史的事実を、我々は忘れてはならない。伊達政宗と川村孫兵衛が北上川に託した夢は、今もなおこの土地に息づき、その歴史は石巻の港から滔々と流れ続けているのである。

引用文献

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  2. 【WEB連載】再録「政宗が目指したもの~450年目の再検証~」第5回 内なる繁栄を求めて | ARTICLES | Kappo(仙台闊歩) https://kappo.machico.mu/articles/2990
  3. 独眼竜にスカウトされた治水の名手・川村孫兵衛重吉 https://www.newsgawakaru.com/knowledge/15365/
  4. 現代の企業経営に応用できる伊達政宗の8つのエピソード | 三楽る(みらくる)オフィス https://miracle46.com/keiei/1801/
  5. 歴史的偉人に学ぶ経営学:伊達政宗編 https://management-psychology.amebaownd.com/posts/43265242/
  6. 治水の名手 川村孫兵衛 - 農林水産省 https://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/miyagi/index.html
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