石田三成処刑(1600)
1600年10月1日、石田三成は六条河原で処刑された。関ヶ原の敗将として豊臣家への忠義を貫き、家康の政治戦略と時代の転換点を示す出来事であり、後世の評価も変遷した。
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慶長五年十月一日、石田三成、六条河原に散る - 敗将の最期、そのリアルタイム全記録
序章:関ヶ原、落日の賦
慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原。日本の歴史を二分した天下分け目の戦いは、わずか一日で徳川家康率いる東軍の圧倒的勝利に終わった。小早川秀秋の裏切りを皮切りに西軍は総崩れとなり、豊臣秀吉が築き上げた政権の事実上の崩壊を告げる鬨の声が、血と硝煙の匂いが立ち込める戦場に響き渡った。
この混乱の渦中、西軍の実質的な総大将であった石田三成は、戦場からの離脱を余儀なくされる。しかし、これは単なる一武将の敗走ではなかった。彼の胸中には、大坂城に座す主君・豊臣秀頼の許へ辿り着き、再起を図るという、絶望的ながらも唯一の望みが灯っていた 1 。この瞬間から、同年10月1日に京都・六条河原の露と消えるまでの16日間は、石田三成という人物の本質、徳川家康の冷徹極まりない政治戦略、そして時代の巨大な転換点に翻弄された人々の姿を、鮮烈に映し出す凝縮された時間となる。
本報告書は、この敗走から処刑に至るまでの三成の足跡を、現存する史料や伝承を基に可能な限り詳細な時系列で再構築し、その一挙手一投足に込められた意味と、歴史的文脈を多角的に分析するものである。敗将の最期をリアルタイムで追体験することにより、豊臣政権の終焉という歴史的事件の深層に迫ることを目的とする。
【表1】石田三成、関ヶ原敗走から処刑までの時系列表
日付(慶長5年) |
場所 |
出来事 |
関連人物 |
9月15日 |
美濃国 関ヶ原 |
関ヶ原の戦いで西軍敗北。三成、戦場を離脱し伊吹山方面へ逃走。 |
徳川家康、小早川秀秋 |
9月18日 |
近江国 佐和山城 |
三成の居城・佐和山城が東軍に攻められ落城。父・正継、兄・正澄らが自刃 1 。 |
石田正継、石田正澄 |
9月21日 |
近江国 伊香郡古橋村 |
潜伏中の三成が田中吉政の探索隊に捕縛される 1 。 |
田中吉政 |
9月22日 |
近江国 大津城 |
大津城へ護送され、城門前にて「生き晒し」にされる 1 。 |
徳川家康 |
(日付不詳) |
大津 |
徳川家康と対面。 |
徳川家康 |
9月27日 |
摂津国 大坂 |
大坂へ護送される 1 。 |
- |
9月28日 |
大坂・堺 |
小西行長、安国寺恵瓊と共に大坂・堺で市中引き回しにされる 1 。 |
小西行長、安国寺恵瓊 |
9月29日 |
山城国 京都 |
京都へ護送される 1 。 |
- |
10月1日 |
山城国 六条河原 |
小西行長、安国寺恵瓊と共に斬首される。享年41 1 。 |
小西行長、安国寺恵瓊 |
10月1日以降 |
山城国 三条河原 |
首は三条大橋の袂に晒される 3 。 |
- |
(日付不詳) |
山城国 京都 |
春屋宗園、沢庵宗彭らの尽力により、首は胴体と共に大徳寺三玄院に葬られる 5 。 |
春屋宗園、沢庵宗彭 |
第一章:敗走と潜行 - 伊吹山中、死への彷徨(9月15日~9月21日)
敗走ルートの謎
慶長5年9月15日の午後、西軍の敗北が確定的となると、石田三成は数名の供回りと共に戦場を離脱した。彼の目指す先は、豊臣家の本拠地である大坂城であった。しかし、その足取りは不可解な点が多い。大坂へ向かう最短経路を南下するのではなく、三成はなぜか北へ、伊吹山中の険しい山道へと分け入ったのである 6 。
このルート選択については諸説あるが、単なる混乱によるものではなく、戦略的な意図があった可能性が指摘されている。南下する街道筋は、敗走兵を追撃する東軍の部隊で溢れており、捕縛される危険性が極めて高かった。地理に明るい自らの本拠地・近江国を経由し、一旦身を隠して再起の機会を窺うという、敗北の中での冷静な判断があったのかもしれない。彼の逃亡ルートは確定されていないが、近江国谷口村の庄屋宅で一夜を明かし、礼として短刀と「石田」の姓を与えたという伝承も残っており、地域の協力者を頼りながらの潜行であったことが窺える 7 。
近江国古橋村での潜伏と地域の記憶
三成が最終的に潜伏場所として選んだのは、近江国伊香郡古橋村(現在の滋賀県長浜市)の「オトチ岩窟」であったと伝えられる 7 。大人が10人ほど入れる程度の暗い洞窟の中で、かつて豊臣政権の中枢で辣腕を振るった男は、心身ともに極限まで追い詰められていった。栄華を極めた日々から、コウモリの巣くう岩窟での潜伏生活への転落は、彼の胸に去来する無念さを一層深いものにしたであろう 7 。
この潜伏と捕縛の記憶は、古橋村の地域社会に数百年を経ても消えることのない深い痕跡を残した。三成を密告したとされる婿養子の家は末代まで疎まれ、村では「種まきは三成が捕縛された午前中を避けて行う」「朝霧が決して上がらないのは三成の悲しみのため」といった、数々の禁忌や伝承が生まれ、語り継がれた 7 。これらは、天下分け目の戦という歴史上の大事件が、遠い中央の出来事ではなく、一つの村の共同体の人間関係や価値観を根底から揺るがし、その記憶を永続的に規定するほどの強烈なインパクトを持っていたことを物語っている。中央の政治権力の論理とは別に、地域社会に根付く独自の倫理観や記憶の継承メカニズムの存在が、これらの伝承から浮かび上がってくる。
並行する破局:佐和山城の落城(9月18日)
三成が岩窟に身を潜めている間、彼の運命を決定づけるもう一つの悲劇が進行していた。9月17日、東軍の主力部隊が三成の居城・佐和山城を包囲。翌18日には総攻撃が開始され、城は一日で陥落した 1 。城内では、三成の父・石田正継、兄・正澄をはじめとする一族郎党の多くが自刃し、石田家は事実上滅亡した 1 。
家康が三成個人の捕縛と並行して、佐和山城の攻略を急がせたことには、明確な戦略的意図があった。第一に、西軍の残存勢力が結集しうる拠点を物理的に破壊すること。第二に、三成が蓄えた莫大な財産や豊臣政権の機密文書を確保すること。そして何よりも重要だったのは、三成の心理的な支柱を完全に打ち砕くことであった。この佐和山城の迅速な陥落により、三成は再起の物理的基盤と、精神的な拠り所である家族の両方を同時に失った。彼はもはや豊臣家の大名ではなく、「一族を失ったただの敗将」となり、家康との交渉力を完全に喪失させられたのである。これは物理的な戦闘と心理戦を同時に遂行する、家康の周到な戦略であった。
捕縛の瞬間(9月21日)
佐和山城落城から3日後の9月21日、ついにその時が訪れる。家康の命を受け、近江の地理に精通する田中吉政が率いる徹底的な山狩りの末、三成は古橋村で捕縛された 1 。ある伝承では、木こりに変装していたともいう 9 。関ヶ原の敗戦から6日目のことであった。栄華と権勢を誇った治部少輔の、あまりにも短い逃避行の終わりであった。
第二章:囚われの治部少輔 - 晒し者としての道程(9月22日~9月29日)
捕縛者・田中吉政の対応
捕縛された三成は、田中吉政の陣に引き渡された。吉政と三成は、共に秀吉に仕えた旧知の間柄であった。吉政の対応については、二つの相反する逸話が伝えられている。
一つは、吉政が敗将となった三成を丁重に扱い、疲労困憊の彼のためにニラ雑炊を供するなど、温情あるもてなしをしたというものである 10 。この時、三成は自らの運命を悟り、「豊臣家のためにしてきたことであり、後悔はない」と述べ、秀吉から拝領した愛用の脇差を形見として吉政に与えたという 10 。この逸話は、敗れてなお豊臣家臣としての誇りを失わない三成の姿と、旧交を重んじる吉政の武士としての情けを描き出している。
もう一つは、より冷徹な説である。『明良洪範』によれば、吉政は「家康様に助命を嘆願する」と偽り、三成を油断させて武具や財産の隠し場所を聞き出した後、手のひらを返したように彼を家康の前に突き出した、というものである 13 。どちらが真実かは定かではないが、戦国の世の非情さと、人間関係の複雑さを象徴するエピソードと言えよう。
大津城での「生き晒し」と家康との対面
9月22日、三成の身柄は大津城の家康本陣へ送られた。ここで家康は、西軍総大将の捕縛という戦果を最大限に政治利用する。三成は城門の前に縄で縛られ、「生き晒し」にされたのである 1 。これは、西軍の敗北を天下に知らしめ、その象徴である三成の無様な姿を万人の目に焼き付けることで、東軍の勝利を決定的なものとして印象付けるための、高度な政治的パフォーマンスであった。
この大津、あるいはその後の護送中に、三成は家康と対面したと伝えられる。この時のやり取りは、二人の人物像と関係性を如実に示している。家康は三成に対し、「こうしたこと(戦に敗れること)は昔からあるのだから、決して恥じる必要はない」と、勝者の余裕を示すかのように労いの言葉をかけた 14 。これに対し三成は、少し機嫌を直した様子で、「天運がそうさせたまでのこと。早く首を落とせ」と堂々と応じたという 14 。
この一連の応酬は、単なる感傷的な会話ではない。家康の言葉は、三成個人に向けられたものであると同時に、いまだ去就を決めかねている他の西軍大名に対する強力なメッセージであった。つまり、「首謀者である三成は処断するが、その器量は認めている。故に、彼に与した者たちも、速やかに私に恭順の意を示せば、この家康が度量をもって迎え入れよう」という、硬軟織り交ぜた政治的布告なのである。家康が三成の態度を「大将としての器量である」と評した 14 のも、互いの能力を認め合っていたという個人的な感情に加え、自らの寛大さを演出する意図が含まれていた。三成もまた、敗者として最後の尊厳を保つため、家康と対等な武将として振る舞い、自らの役割を演じきったのである。
京への護送と市中引き回し
9月27日、家康は大坂城に入り、豊臣秀頼に戦勝を報告した 15 。時を同じくして、三成は大津から大坂、堺、そして処刑の地となる京都へと、罪人として護送されることになった 1 。9月28日には、同じく西軍の首脳であった小西行長、安国寺恵瓊と共に、大坂・堺の市中を引き回された 1 。これもまた、彼らが「天下を騒がせた罪人」であることを民衆に広く告知するための、見せしめの一環であった。
この屈辱的な道中、三成の不屈の精神を示す逸話が残されている。見物人の中に、関ヶ原で東軍に寝返り、西軍敗北の最大の原因を作った小早川秀秋の姿を見つけた三成は、彼に向かって痛烈な言葉を放ったと伝えられる。「義を捨て人を欺き裏切ったことは、武将の恥辱として末の世まで語り伝えられ、笑われるがよい」 16 。自らの敗因を直視し、裏切り者を公衆の面前で断罪するこの言葉は、三成が物理的には囚人となりながらも、精神的には最後まで自らの信じる「義」の主体であろうとした闘争の証であった。彼の行動は一貫して、「豊臣家臣・石田三成」という自己のアイデンティティを守り抜くためのものであったと解釈できる。
第三章:六条河原の露 - 慶長五年十月一日
処刑当日の朝
慶長5年10月1日、運命の日が訪れた。その朝、家康から三成、小西行長、安国寺恵瓊の三人に、最後の情けとして小袖(衣服)が与えられた。行長と恵瓊はこれを受け取ったが、三成だけは毅然としてこれを拒んだと伝えられる。彼は使いの者に「この小袖は誰から送られてきた物か」と問い、家康からの物だと聞くと、「我が主君は(豊臣)秀頼公をおいて他にはおられない。いつから徳川殿が上様(主君)になったのか」と言い放ち、決して受け取ろうとはしなかった 12 。死の淵に臨んでもなお、豊臣家への絶対的な忠誠を貫き通す、三成の人物像を象徴する逸話である。
刑場への道すがら:「干し柿」の逸話
三人は肩輿に乗せられ、市中を引き回された上、刑場である六条河原へと移送された 3 。この道中、三成の最期を語る上で最も有名な「干し柿」の逸話が生まれる。
喉の渇きを覚えた三成が警護の者に白湯を所望したところ、白湯はないが干し柿ならある、と勧められた 2 。しかし三成は、「柿は痰の毒になるゆえ、食さぬ」とこれをきっぱりと断った 3 。これを聞いた警護の者は、「もうすぐ首を刎ねられる身でありながら、痰の毒を心配してどうするのか」と嘲笑した 3 。その嘲りに対し、三成は昂然と胸を張り、こう応えたという。
「大志を抱く者は、最期の瞬間まで命を惜しみ、本意を達せんとするものなり」 2 。
この言葉は、単なる生への見苦しい執着を示すものではない。万に一つ、億に一つでも、処刑が中止される、あるいは何らかの事態の変化が起こる可能性を捨てず、その瞬間に備えて自らの心身を最善の状態に保っておくという、彼の徹底した合理主義と不屈の精神の表れであった。この逸話が示す「徹底した合理主義と不屈の意志」は、後述する辞世の句が示す静かな諦観とは対照的に見えるが、これらは矛盾するものではない。他者との対話において「石田治部少輔」としての公的な自己を最後まで主張し続けた姿と、自己の内面と向き合い運命を受け入れた私的な姿、その両方が最期の日に凝縮されて現れたと解釈すべきであろう。
六条河原の光景と三将の最期
刑場となった六条河原には、この歴史的な処刑を一目見ようと、数万ともいわれるおびただしい数の群衆が詰めかけていた。公家である山科言経の日記『言経卿記』にも、この日の出来事が「言語道断之事也」と簡潔ながらも衝撃をもって記されており 21 、『時慶卿記』には数万の群衆が集まったと記録されている 22 。この出来事が、当時の京の民衆にとってどれほど大きな関心事であったかが窺える。
処刑台に上がった三将は、それぞれが信じるものに従い、その最期を迎えた。
- 小西行長 :堺の薬問屋の出身で、熱心なキリシタン大名であった彼は、教義で固く禁じられている自刃(切腹)を拒み、斬首による死を選んだ 23 。刑場には信徒が駆けつけ、神父との面会が叶わなかったことを伝えると、行長は神への感謝を述べ、静かに祈りを捧げながら首を差し出したと伝えられる 24 。信仰に殉じた、毅然とした最期であった。
- 安国寺恵瓊 :毛利家の外交僧として、また禅僧として乱世を生きた彼は、「清風払明月 明月払清風(清らかな風が明月を払い、明月が清らかな風を払う)」という禅語を辞世として残したとされる 25 。全てが一体となり、原因と結果が循環する禅の境地を詠んだ句に、自らの死生観を託した静謐な最期であった。
- 石田三成 :そして、西軍の総大将。彼は武士として、最後まで己の義を貫き、その生涯を閉じた。
この三将の最期は、キリスト教、禅、そして武士の義という、戦国末期の日本に交錯していた多様な価値観を象徴している。彼らの処刑は、単に西軍の首謀者を処断したという軍事的な意味合いに留まらない。豊臣政権下で許容されていた多様な生き方や思想が、徳川による新たな秩序の下で淘汰されていく、時代の転換点を象徴する出来事であった。
三成、辞世の句
首を打たれる直前、石田三成は辞世の句を詠んだと伝えられている。
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり 27
「筑摩江」とは、彼の故郷である近江国、琵琶湖の東北端の入江を指す歌枕である 16 。故郷の、芦の間に点滅するか弱いかがり火が夜明けと共に消えていく情景に、儚く消えゆく自らの命を重ね合わせた、深い情趣と望郷の念が込められた一句である。
さらに、「かがり火」は、彼が生涯を捧げた豊臣家の栄華の象徴であったという解釈も存在する 29 。そうであれば、この句は、豊臣家の威光が消え去ると共に、自らの命もまた尽き果てるのだという、忠臣としての無念と諦観が入り混じった、万感の思いを詠んだものと解釈できる。最後まで戦い抜いた武将の顔と、死を前にして故郷を思う一人の人間としての顔。その両面が、この辞世の句には凝縮されている。
第四章:首級の行方と一族のその後
三条大橋での晒し首と最後の情け
慶長5年10月1日、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の三名は、六条河原にて斬首された。享年41であった 3 。処刑後、彼らの首は三条大橋の袂へと運ばれ、天下への見せしめとして晒された 3 。これは、かつて豊臣秀吉が甥の秀次を粛清した際にも用いた手法であり 31 、勝者が敗者を徹底的に辱め、その権威を失墜させるという、当時の厳しい慣習であった。
しかし、この屈辱の中に、一条の光が差す。三成と生前親交のあった大徳寺の僧・春屋宗園が、家康に直々に嘆願し、三成の首の引き取りを願い出たのである 5 。家康はこれを許可。実際に首を貰い受けに赴いたのは、宗園の弟子であり、後に江戸時代を代表する高僧となる沢庵宗彭であった 5 。こうして三成の首は胴体と共に、京都・大徳寺の塔頭である三玄院に手厚く葬られた 3 。政治的な敵対関係を超えた個人の情誼が、三成の最後の尊厳を守ったのである。
石田一族の運命と家康の深謀
三成の父・正継と兄・正澄は佐和山城で自刃したが、家康は三成の遺児たちに対しては、処刑という極刑を科さず、助命するという異例の措置を取った 8 。
この家康の判断は、単なる温情によるものではない。計算され尽くした高度な政治的判断であった。第一に、これ以上の過酷な粛清を望まない他の西軍大名たちを安堵させ、徳川への恭順を促す効果があった。第二に、「罪があるのは石田三成個人であり、豊臣家そのものが敵ではない」という大義名分を立てることで、大坂の豊臣家との全面対決を先延ばしにする時間稼ぎとなった。そして第三に、子供たちを出家させたり、遠方の地に置いたりすることで、将来的な反乱の芽を摘みつつ、自らの寛大さを天下にアピールするという、複数の目的を同時に達成する見事な一手であった。家康の目的は天下の安定統治であり、無用な怨恨を残すことがその最大の障害になることを、彼は深く理解していたのである。
【表2】石田三成の子供たちのその後
子女 |
名前 |
その後の経歴 |
庇護者・関連人物 |
特記事項 |
長男 |
石田重家 |
関ヶ原の戦い後、京都の妙心寺にて出家し「済院宗享」と名乗る。101歳の長寿を全うしたと伝わる 8 。 |
- |
子孫は残さなかった。 |
次男 |
石田重成 |
津軽信建に匿われ、津軽藩へ落ち延びる。「杉山源吾」と改名し、子孫は津軽藩の家老職を世襲した 8 。 |
津軽為信、津軽信建 |
津軽藩主家に石田三成の血脈が伝わるきっかけとなった。 |
三男 |
石田佐吉 |
佐和山城落城後、津田清幽の尽力で助命。高野山にて出家し「深長坊清幽」と名乗る 8 。 |
木食応其、津田清幽 |
子孫は残さなかった。 |
長女 |
(名不詳) |
夫・山田勝重と共に佐和山城を脱出。勝重は松平忠輝の家臣となり、江戸で暮らした 8 。 |
松平忠輝、茶阿局 |
夫の勝重は、家康の側室・茶阿局の縁者であった。 |
次女 |
小石殿 |
蒲生家家臣・岡重政の妻。夫の死後、若狭で余生を過ごした 8 。 |
- |
彼女の娘は、三代将軍・徳川家光の側室・お振の方とされる説がある。 |
三女 |
辰姫 |
兄・重成と共に津軽藩へ落ち延びる。二代藩主・津軽信枚の正室となり、三代藩主・信義を生んだ 8 。 |
津軽信枚 |
石田三成の血が、津軽藩主家へと直接受け継がれた。 |
恩義に報いた津軽家
三成の遺児、特に次男・重成と三女・辰姫の運命を大きく左右したのが、弘前藩祖・津軽為信であった。東軍に属しながら西軍の将の遺児を匿うという、一見矛盾した行動の背景には、三成に対する消しがたい恩義があった。
為信は元々、南部氏の配下であったが、独立を目指して秀吉に接近した。その際、豊臣政権の実力者であった三成の強力な斡旋により、為信は独立した大名としての地位を公認されたのである 35 。この恩義に加え、為信の嫡男・信建が元服する際には、三成が烏帽子親を務めるという、極めて親密な関係を築いていた 36 。信建は、この烏帽子親としての恩義に報いるため、父・為信の意向も受け、三成の遺児たちを津軽へと逃したのである。
この津軽家の行動は、関ヶ原の戦いが「忠義か裏切りか」という単純な二元論では到底語れないことを示している。東軍に味方するという「公的な政治判断」と、石田三成個人への「私的な恩義に基づく義理」を両立させようとした為信の選択は、当時の武士たちが複数の規範の間で生きていたというリアリティを体現している。この複雑さこそが、戦国という時代の人間ドラマの深層をなしているのである。結果として、三成の血脈は津軽の地で藩主家と重臣家によって脈々と受け継がれていくことになった 33 。
終章:歴史的意義と人物像の変遷
豊臣政権の終焉
石田三成の処刑は、単に一人の武将の死を意味するものではなかった。それは、豊臣政権の終焉を告げる象徴的な出来事であった。三成は、太閤検地や刀狩りの実施、諸大名との外交、司法・行政の統括など、豊臣政権の屋台骨を支える実務能力の中核を担っていた 12 。彼の死は、豊臣政権からその卓越した行政機能を奪い去り、その求心力を決定的に低下させた 38 。これにより、徳川家康は豊臣家を大坂に拠点を置く一大名へと事実上矮小化させ、自らが天下の支配者となる道を盤石なものとしたのである。
江戸時代における「奸臣・三成」像の形成
徳川の世が確立されると、三成の評価は意図的に貶められていく。江戸幕府の正当性を揺るぎないものにするためには、その創業者である家康に最後まで敵対した三成を、「豊臣家を壟断し、天下を乱した奸臣」として歴史に刻む必要があったからである 40 。
千利休や関白秀次を讒言によって死に追いやった黒幕である、といった説が流布され 41 、彼の尊大で人望のない性格が強調された 41 。これらの悪評の多くは、後世の創作や、徳川政権の意向を汲んだ編纂物によって形作られていったものである。こうして、江戸時代を通じて「奸臣・石田三成」というイメージが定着していった。
近現代における再評価
しかし、近代以降、特に近年の歴史研究の進展により、三成の人物像は大きく見直されることになった。江戸時代に形成された悪人像の根拠とされた逸話の多くが、一次史料の検討によって否定されるようになったのである 41 。
それに代わって注目されるようになったのは、彼の類稀なる行政手腕と、不器用なまでに豊臣家への忠義を貫いた一途な生き様であった 12 。彼が加藤清正や福島正則といった武断派の大名から嫌われた理由も、単なる性格の問題としてではなく、豊臣政権内部における、実務を重んじる文治派と、戦功を第一とする武断派との構造的な対立に根差すものであったと、より客観的に分析されるようになった 43 。司馬遼太郎の小説『関ヶ原』をはじめとする創作物の影響もあり 40 、三成は「義に生きた悲劇の忠臣」として、その人気を高めている 44 。
石田三成の処刑は、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを告げる分水嶺であった。彼の生涯と最期は、歴史がいかに勝者によって描かれるか、そして時代の価値観の変遷と共に人物評価がいかに移ろいゆくかを、我々に雄弁に物語っている。「義」を貫いたが故に敗れ、滅んだ彼の生き様は、現代に生きる我々に対しても、組織における正義とは何か、忠誠とは何かという、普遍的な問いを投げかけ続けているのである。
引用文献
- 関ヶ原の事後処理 ~大坂の陣を回避せよ~|コトバイザーいなお ... https://note.com/hisutojio/n/nb7c355f92c09
- 慶長5年(1600)9月21日は関ヶ原合戦で敗走していた石田三成が捕縛された日。斬首される前の三成に有名な逸話がある。警固兵に白湯を所望したがないため干柿を勧められると痰の毒と断り嘲笑される。 - note https://note.com/ryobeokada/n/nabc31701c2c4
- 石田三成斬首~大志を抱く者は最期の瞬間まで諦めない | WEB歴史 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4391
- 石田三成が無念の最期を迎えたと言われる六条河原 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/9844
- 三成抄 第三章 - Visit Omi ようこそ近江へ https://visit-omi.com/jp/people/article/ishidamitsunari-episode-03
- 歴史探偵 関ヶ原の敗者、逃げる!(報道・スペシャル / 2019) - 動画配信 - U-NEXT https://video-origin.unext.jp/episode/SID0045435/ED00600636?edepi=3
- 三成が関ヶ原合戦敗戦後に潜伏したオトチ岩窟を訪ねて敗走ルート ... https://jibusakon.jp/mitsunari/otochi-rockycavern
- 【漫画】石田三成の子孫の結末~それぞれの最期~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=pB-D3ogE5Ns
- 家康と三成は宿敵ではない…関ヶ原で負けボロボロの姿で捕まった三成を「医者に診せよ」と言った家康の真意【2023編集部セレクション】 処刑される直前に三成が平常心で望んだこと - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/81124?page=1
- 田中吉政公とその時代 http://snk.or.jp/cda/yosimasa/jidai.html
- 戦国の出世頭・田中吉政とは?名バイプレーヤーのちょっといい話を紹介! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/165946/
- 石田三成の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/36289/
- 田中吉政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%90%89%E6%94%BF
- 親子兄弟が東西に分かれた大名家、そして三成の最期:天下分け目 ... https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06917/
- 石田三成の領地は井伊直政へ…関ヶ原合戦に勝ち680万石以上の所領配分権を手にした家康がしたこと 敵将の領地を味方に与え将軍になる地盤を固めた - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/75296?page=1
- 石田三成の辞世 戦国百人一首㉕|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/n9a45a7d380a5
- 知将・石田三成の生涯と壮絶な最期とは|秀吉の死から狂った歯車 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/228059/
- 柿が大好物だった石田三成が最期に柿を拒んだ理由 - note https://note.com/kanomatamasao/n/ne585f76c8a92
- 石田三成の実像とは?「三献の茶」から関ヶ原、知られざる豊臣政権のキーマンを徹底解説 https://sengokubanashi.net/person/ishidamitsunari/
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