石田三成襲撃(1599)
慶長4年(1599年)、秀吉死後、徳川家康と石田三成の対立が激化。前田利家死後、武断派七将が三成を襲撃し、家康仲裁で三成は佐和山へ蟄居。豊臣政権空洞化を招き、関ヶ原の序曲となった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長四年 石田三成失脚事変 ―「襲撃」と「訴訟」の狭間で揺れる豊臣政権の転換点
序章:太閤の死と残された権力
豊臣秀吉の死がもたらした政治的空白
慶長三年(1598年)八月十八日、天下人・豊臣秀吉の死は、日本全土を覆う絶対的権力者の不在という巨大な政治的空白を生み出した 1 。後継者である豊臣秀頼はわずか六歳の幼児であり、政権の安定は秀吉が生前に構築した集団指導体制に委ねられた。その体制こそ、徳川家康を筆頭とする五大老と、石田三成を筆頭とする五奉行による合議制である 2 。この制度は、全国の有力大名で構成される大老衆と、秀吉子飼いの優秀な吏僚である奉行衆が相互に牽制し合うことで、特定の人物への権力集中を防ぎ、幼い秀頼を補佐することを目的としていた。しかし、その実態は極めて脆弱な基盤の上に成り立っていた 2 。
五大老・五奉行制度の構造的欠陥と徳川家康の台頭
制度発足当初から、その権力バランスは著しく偏っていた。五大老筆頭の徳川家康は、関八州に二百五十五万石余という、他の大老を圧倒する絶大な石高と軍事力を有していた 4 。対照的に、五奉行の筆頭格であった石田三成の所領は近江佐和山の十九万石に過ぎず、両者の間には埋めがたい権力基盤の差が存在した 5 。
秀吉の死後、家康はその力を背景に、秀吉が厳しく禁じた諸大名間の私的な婚姻を推し進めるなど、遺命を公然と破り始めた。これは豊臣政権の秩序を揺るがす行為であり、三成は五大老の前田利家と共に家康にその違背を詰問するなど、豊臣家の忠臣として秩序維持に奔走した。しかし、これが家康との対立を決定的に深刻化させていく 6 。そもそも、五大老と五奉行の関係は対等ではなく、大名家の重臣である「年寄(宿老)」に相当する大老に対し、奉行はその命令を執行する一段下の立場と見なされていたとする見解もある 8 。この制度に内包された構造的な不均衡が、秀吉という絶対的な調停者を失った途端、剥き出しの権力闘争へと変質していくのは必然であった。
この集団指導体制は、法やシステムによる統治というよりも、極めて属人的なバランスの上に成り立っていた。秀吉は家康の野心を警戒しつつも、その強大な力を豊臣政権の「重し」として利用せざるを得なかった 2 。そして、その家康を抑制する役割を期待されたのが、秀吉とは織田信長配下時代からの盟友であり、五大老の次席であった前田利家その人であった 6 。つまり、この体制は「家康」と「利家」という二人の傑出した人物の力関係と相互の信頼、あるいは牽制によって、かろうじて維持されていたのである。したがって、利家の死は単なる一人の大老の死に留まらない。それは、システム全体を支える最も重要な構成部品の喪失を意味し、制度そのものの崩壊を不可避にするものであった。本報告書で詳述する石田三成失脚事変は、このシステム崩壊が顕在化した最初の、そして決定的な出来事として位置づけられる。
第一章:亀裂の深層 ― 対立の構造的要因
武断派と文治派:出自と価値観の相克
豊臣家臣団の内部には、秀吉の立身出世の過程で形成された、出自や価値観を異にする複数の派閥が存在した。その中でも最も深刻な対立軸を形成したのが、「武断派」と「文治派」である。福島正則や加藤清正に代表される武断派は、主に尾張出身者で構成され、賤ヶ岳の戦いなどで槍働きを重ね、その武功によって秀吉から取り立てられた武将たちであった 10 。彼らは戦場での働きこそが武士の誉れであると信じる、いわば旧来の価値観を体現する存在であった。
一方、石田三成や増田長盛らに代表される文治派(吏僚派)は、秀吉が近江長浜城主時代に登用した人材が中心であった。彼らは算術や検地、兵站管理といった行政実務に長けたテクノクラート集団であり、戦場で槍を振るうよりも、後方で政権の屋台骨を支える役割を担った 10 。
戦乱の時代が終息し、天下統一が成ると、国家統治には後者の吏僚派の能力がより重要視されるようになる。しかし、この時代の変化は、自らの槍働きこそが秀吉を天下人にしたと自負する武断派の武将たちにとって、到底受け入れがたいものであった。「戦場でろくに汗もかかず、後方にばかりいた三成のような者たちに、なぜ我らが指図されねばならぬのか」。この根源的な不満とプライドが、両派の対立の根底に深く横たわっていたのである 10 。
朝鮮出兵が刻んだ癒えぬ傷:蔚山城の戦いを巡る確執の再検証
両派の対立が修復不可能なレベルにまで達した決定的契機は、文禄・慶長の役であった 11 。特に慶長二年(1597年)十二月から翌年一月にかけての蔚山城の戦いは、武断派の三成への憎悪を決定づけた。
この戦いで、加藤清正は築城中の蔚山倭城(うるさんわじょう)を明・朝鮮連合軍の大軍に包囲され、兵糧も尽き、絶体絶命の窮地に陥った 12 。この時、軍監(目付)として朝鮮に渡っていた福原長堯らが、救援の遅れや作戦指導の不備を巡り、清正や黒田長政らの行動を厳しく批判する報告を本国の秀吉に送った。軍監全体を統括する立場にあったのが石田三成であったため、武断派の武将たちは、この報告が三成の意向を強く反映した「讒言」であると受け取った。報告を鵜呑みにした秀吉は激怒し、黒田長政、蜂須賀家政、加藤清正らを厳しく叱責、あるいは譴責処分とした 11 。
武断派にとって、これは命を懸けて挙げた戦功を、戦場の現実を知らぬ三成の「文」の力によって不当に貶められた、許しがたい裏切り行為であった 11 。戦国武士にとって、自らの命を賭して得た「武功」は存在価値そのものであり、それに対する主君からの正当な「恩賞(評価)」こそが、主従関係の根幹を成す。三成の行為は、彼らのアイデンティティの根幹を揺るがし、名誉を著しく傷つけるものであった。この一件により、三成への個人的な反発は、決して消えることのない強烈な憎悪へと昇華されたのである。この憎悪は、単なる私怨に留まらなかった。彼らにとっては、歪められた豊臣政権の秩序を「正常化」するための、ある種の「義挙」として、三成排除という行動に大義名分を与えることになった。この点が、彼らの行動の激しさと執拗さを理解する上で極めて重要である。
このほかにも、細川忠興は豊臣秀次事件の際に三成の讒言によって失脚しかけたと恨みを抱き 16 、五奉行の一人であった浅野長政とその子・幸長も、朝鮮出兵における作戦方針などを巡って三成と激しく対立していた 17 。
第二章:均衡の崩壊 ― 慶長四年閏三月三日
最後の「重し」、前田利家の死
前田利家は、五大老の最年長者として、また織田信長配下時代から秀吉と苦楽を共にした無二の盟友として、豊臣政権内で絶大な影響力を持っていた 6 。その存在は、家康の独走を抑えうる唯一の「重し」として機能し、同時に三成を庇護し、武断派との対立を仲裁するバランサーの役割も担っていた 1 。
しかし、その利家も病には勝てず、慶長四年(1599年)閏三月三日、大坂の自邸にてその生涯を閉じた 11 。この瞬間、豊臣政権の脆弱な政治的バランスは、音を立てて完全に崩壊した。
利家邸の夜:動き出す反三成派の武将たち
利家の死は、これまでかろうじて抑え込まれていた武断派の不満と憎悪を一気に噴出させる号砲となった 11 。通説によれば、利家の弔問に訪れていた石田三成が前田邸を辞去しようとしたその夜、福島正則、加藤清正ら武断派の諸将が、三成を討ち取るべく武装して待ち構えていたとされる 1 。この動きは偶発的なものではなく、利家の死という好機を捉え、周到に準備された計画的なものであった可能性が極めて高い 23 。
利家は長らく病に伏しており、その死期が近いことは政権中枢の誰もが予期していた。武断派、そして彼らを背後で操る、あるいはその動きを利用しようとする家康にとって、利家の死はまさに行動開始の合図であった。諸将が公式に一堂に会する「弔問」という場は、反三成派の主要メンバーが集結し、意思統一を図る絶好の機会を提供したのである。
特筆すべきは、その行動のタイミングである。「利家の死の翌日」ではなく、「当日の夜」に即座に行動を起こしたことは、三成側に一切の対応の猶予を与えず、一気呵成に政治的決着をつけようとする強い意志の表れに他ならない。これは単なる私怨による襲撃計画という次元を超え、豊臣政権の権力構造を根底から覆すための、時機を精密に計った政治的クーデターであったと解釈するのが妥当であろう。
第三章:緊迫の十日間 ― 事変の時系列再構築
閏三月四日:三成、大坂を脱し伏見へ
利家邸での危機を察知した三成は、迅速に行動を開始する。通説では、豊臣秀頼に仕える桑島治右衛門からの急報により襲撃計画を知った三成は、かねてより親交の深かった常陸の大名・佐竹義宣の助力を得て、大坂からの脱出を図ったとされる 1 。義宣は女輿を用意するなどして敵の目を欺き、三成はまず宇喜多秀家の屋敷に身を寄せた後、政務の中心地である伏見城へと向かった 24 。
しかし、近年の研究では、この動きの背景に異なる解釈が提示されている。そもそも物理的な「襲撃」は存在せず、三成の伏見への移動は、大坂で日増しに高まる反三成派の政治的圧力を回避し、自らが奉行として管理権限の一端を担っていた伏見城で態勢を立て直すための、戦略的な移動であったとする見方である(訴訟説) 1 。この説を補強するのが、当時の大坂城の状況である。近年の研究では、この時点で大坂城はすでに家康派の小出吉政・片桐且元らによって掌握されており、三成にとって大坂城はもはや安全な避難場所ではなかった可能性が指摘されている 1 。そうであるならば、自らが直接管理に関与し、確実に入城できる伏見城を目指すのは、極めて合理的な選択であったと言える。
伏見に到着した三成は、その日のうちに五大老の一人である毛利輝元に書状を送り、事態の急を告げて協力を要請している。これは、彼が単に逃亡したのではなく、豊臣政権の正規の枠組みの中で反撃の機会を窺っていたことを示唆している 1 。
閏三月五日~八日:伏見での対峙
三成を追って、福島正則ら反三成派の諸将も兵を率いて伏見に集結した。彼らは三成が籠る伏見城内の自邸(治部少輔曲輪)を遠巻きに包囲し、一触即発のにらみ合いの状態となった 1 。この異常事態は京・伏見一帯に深刻な軍事的緊張をもたらし、当時の公家・山科言経の日記『言経卿記』には、閏三月七日付で「今日(こんにち)も騒動の由、風聞す」と記されている 1 。
この対峙の性格こそが、本事件の解釈を分ける最大の論点である。後世に成立した軍記物などは、武装した兵による物理的な「襲撃」をドラマティックに描き出す 11 。しかし、同時代の一次史料である醍醐寺の座主・義演の日記『義演准后日記』には、「大名十人とやらん、申し合わせて訴訟すと云々」と記されており、武力衝突ではなく、三成の朝鮮出兵における失策などを罪状として糾弾し、その政治的責任(切腹など)を追及する「訴訟」であったとする見方が、近年の研究では有力となっている 25 。
ただし、注意すべきは、当時の「訴訟」が必ずしも現代的な意味での平和的な手続きを意味しない点である。かつて将軍・足利義輝が殺害された永禄の変のように、武装した兵で相手を威圧し、政治的要求を突きつける「御所巻」のような行為も「訴訟」と称された事例があり、この対峙が極めて危険な状態であったことに変わりはない 1 。
閏三月九日:家康による裁定
この膠着状態を動かしたのが、伏見城の対岸にある向島に屋敷を構えていた徳川家康であった 1 。家康は、この事態の「仲裁」役として表舞台に登場する。一説には、毛利輝元の家臣である安国寺恵瓊が、主君・輝元を介して家康に仲裁を依頼したとも伝えられる 26 。
家康が下した裁定は、双方の顔を立てつつも、結果的に家康自身の政治的勝利を確定させるものであった。彼は、七将らに対しては三成の身柄の安全を保証することで彼らの矛を収めさせ、一方で三成に対しては、五奉行の職を辞し、居城である近江・佐和山城へ「閉口」(蟄居・謹慎)することを命じたのである 1 。
この裁定の内容は、同日付で家康が福島正則、蜂須賀家政、浅野幸長に宛てて発給した書状が現存しており、そこにはっきりと「石田治部少輔、佐和山へ閉口ニ相定(あいさだめ)候」と記されている 1 。この裁定を受け入れる証として、三成は嫡男・石田重家を人質として家康のもとへ差し出した。人質は前日の八日の夜には、すでに家康の屋敷に到着していた 25 。
閏三月十日:佐和山への道
裁定の翌日、閏三月十日、石田三成は伏見を発ち、居城・佐和山城へと向かった。その護衛という名目で同行したのが、家康の次男・結城秀康であった 1 。これは、道中で七将らの過激派による襲撃や危害が加えられることを防ぐための措置であり、家康の裁定の実効性を示すためのパフォーマンスでもあった。
三成は、道中を違乱なく護衛し、無事に佐和山まで送り届けてくれた秀康の律儀な働きに深く感謝し、別れ際に自身の愛刀であった名刀「石田正宗」を贈ったと伝えられている 1 。
この一連の出来事の中で、三成が敵であるはずの家康に助けを求めた(とされる)行動は、単なる窮余の一策としてではなく、より大きな文脈で捉え直す必要がある。通説では、この逸話は三成の絶望的な状況と家康の度量の大きさを示すものとして語られてきた 11 。しかし、当時の権力構造に鑑みれば、五大老筆頭である家康は、豊臣政権の最高意思決定機関の長であり、政権内の紛争を調停する「公的な」立場にあった 26 。三成の行動は、私的な感情で「敵に助けを乞う」というよりも、五奉行の一人として、政権内における武断派の私闘(と三成は認識していた)を、豊臣政権の最高権力者による「公儀」の調停によって解決しようとした、と解釈することも可能である。この視点に立てば、三成は失脚の瀬戸際に至るまで、豊臣政権の官僚としてその秩序と枠組みの中で事態を収拾しようと試みた律儀な人物像が浮かび上がる。そして、家康はその「公儀」の衣を巧みに利用し、結果的に政敵である三成を排除するという、極めて高度な政治目的を達成したのである。
【表1】慶長四年閏三月三日~十日 詳細時系列表
日付 |
場所 |
石田三成の動向 |
反三成派(七将ら)の動向 |
徳川家康の動向 |
その他の主要人物の動向 |
関連史料・備考 |
閏3月3日 |
大坂 |
前田利家邸にて弔問。夜、襲撃計画を察知し、邸を脱出。 |
利家の死を機に、三成襲撃(または訴訟)計画を実行に移す。前田邸周辺で待ち構える。 |
大坂に滞在。 |
前田利家、病死。 佐竹義宣が三成の脱出を支援。 |
『舜旧記』 1 |
閏3月4日 |
大坂→伏見 |
宇喜多秀家邸などを経由し、伏見城内の自邸(治部少輔曲輪)に入る。毛利輝元に書状を送る。 |
三成を追い、兵を率いて伏見へ移動。 |
向島屋敷に滞在。 |
毛利輝元、三成からの書状を受け取る。 |
『慶長年中卜斎記』 22 , 『言経卿記』 22 |
閏3月5日~8日 |
伏見 |
伏見城内の自邸に籠城(政治的謹慎)。長束正家、増田長盛も同調か。 |
三成の屋敷を遠巻きに包囲し、対峙。三成の罪状を訴え、切腹などを要求(訴訟)。 |
向島屋敷にて事態を静観。水面下で調停の準備か。 |
京・伏見に騒動が広がる。毛利輝元が少数で伏見入り。 |
『言経卿記』 22 , 『義演准后日記』 25 , 『多聞院日記』 22 |
閏3月9日 |
伏見 |
家康の裁定を受け入れ、佐和山への蟄居に同意。嫡男・重家を人質として家康に送る。 |
家康の裁定を受け入れ、矛を収める。 |
仲裁役として裁定を下す。 三成の佐和山蟄居と、七将の名誉回復で事態を収拾。 |
|
『徳川家康書状』 22 , 『多聞院日記』 22 |
閏3月10日 |
伏見→佐和山 |
結城秀康の護衛のもと、居城・佐和山へ出発。 |
|
|
結城秀康が三成を護衛。 |
『義演准后日記』 22 , 『当代記』 29 |
第四章:盤上の駒と指し手 ― 主要人物たちの動向と深層心理
石田三成:友誼に支えられた抵抗と限界
この絶体絶命の危機において、三成を支えたのは数少ない友人との固い絆であった。特に常陸54万石の大名・佐竹義宣との間には深い友誼関係が存在した。義宣は、過去に宇都宮家の改易騒動に連座しそうになった際、三成の取りなしによって救われた恩義があった 24 。この危機に際しても、義宣は「治部(三成)が死んでは生き甲斐がなくなる」とまで述べ、自らの危険を顧みず、命がけで三成の保護と脱出に尽力した 24 。
しかし、三成の剛直で妥協を知らない性格、そして時に傲慢と受け取られかねない態度は、多くの武断派の反感を招いたのも事実であった 35 。彼の親友である大谷吉継でさえ、「お前には人望がない。お前の呼びかけでは誰も従わない」と、その求心力の欠如を率直に指摘したと伝えられている 36 。三成の持つ卓越した行政能力と豊臣家への揺るぎない忠誠心は、戦国の荒々しい気風が色濃く残る武将たちとの間に、埋めがたい溝を生み出してしまったのである 37 。
徳川家康:周到な調停者か、冷徹な権力者か
この事変における家康の役割は、単なる調停者には留まらない。武断派の不満を巧みに利用し、長年の政敵であった三成を合法的に中央政界から排除したという「黒幕説」は、今なお根強く支持されている 38 。
家康の行動を分析すると、その二面性が見て取れる。彼は七将の「暴挙」を放置すれば豊臣政権の秩序が崩壊し、五大老筆頭としての自らの権威も失墜しかねないため、仲裁に動かざるを得なかった 26 。しかし、彼が下した裁定は、結果的に三成を政権中枢から追放し、自らの前にある最後の障害を取り除くという、極めて政治的なものであった。
一方で、家康と三成の関係が単純な「宿敵」の一言で片付けられないことも、近年の研究で指摘されている。事件後の慶長四年九月には、家康が三成の兄・石田正澄の屋敷や、三成自身の屋敷に宿泊したという記録も残っている 26 。もし両者の関係が決定的に破綻していたならば、このような行動は考えにくい。家康の行動原理は、三成個人への憎悪というよりも、豊臣政権内の安定を維持しつつ、自身の覇権を確立するという、より高度で冷徹な政治的計算に基づいていたと見るべきであろう。
「七将」の実像:史料による構成メンバーの異同
「七将による石田三成襲撃事件」という呼称は広く定着しているが、実際に三成排斥に動いた武将の数や顔ぶれは、参照する史料によって異なっている。例えば『義演准后日記』では「大名十人」と記されており、必ずしも七人ではなかったことが示唆されている 1 。この「七将」という言葉は、事件の複雑な様相を単純化し、後世に固定化されたイメージである可能性が高い。彼らは一枚岩の派閥ではなく、それぞれが三成に対して異なる種類の遺恨を抱え、家康との距離感も様々であった、より流動的な連合体であったと理解するのが実像に近いだろう。
【表2】「七将」構成員の史料別比較表
武将 |
『関ヶ原始末記』・『徳川実紀』 |
『慶長年中卜斎記』 |
閏三月五日付 徳川家康書状 |
福島正則 |
◯ |
◯ |
◯ |
加藤清正 |
◯ |
◯ |
◯ |
黒田長政 |
◯ |
◯ |
◯ |
細川忠興 |
◯ |
◯ |
◯ |
浅野幸長 |
◯ |
◯ |
◯ |
蜂須賀家政 |
- |
- |
◯ |
藤堂高虎 |
- |
- |
◯ |
池田輝政 |
◯ |
- |
- |
加藤嘉明 |
◯ |
- |
- |
脇坂安治 |
- |
◯ |
- |
(出典: 1 を基に作成)
この表が示すように、すべての史料で共通して名前が挙がるのは福島正則、加藤清正、黒田長政、細川忠興、浅野幸長の五名であり、他のメンバーには異同が見られる。これは、この事件が固定されたメンバーによる組織的行動というよりは、反三成という一点で緩やかに結びついた諸将の動きであったことを物語っている。
第五章:事変がもたらした政治的帰結と関ヶ原への道
三成失脚による豊臣政権の空洞化
この事変の最も直接的な帰結は、豊臣政権の実務を統括してきた五奉行筆頭・石田三成が中央政界から完全に排除されたことであった。これにより、豊臣政権の行政機能と意思決定能力は著しく低下し、事実上の空洞化を招いた。何よりも、家康の独走を抑えうる最後の「歯止め」が、利家の死に続いて、三成の失脚によって完全に失われたことを意味した 7 。
伏見城に入り「天下殿」となる家康
事件の収拾後、閏三月十三日、家康は向島の屋敷を引き払い、伏見城の西の丸へと入城した 1 。これは単なる居所の移動ではない。豊臣政権の軍事・政治の中枢である伏見城を自らの管理下に置いたことを内外に宣言する、極めて象徴的な行動であった。この時の家康の様子を、興福寺多聞院の僧・英俊はその日記『多聞院日記』の中で、家康が「天下殿になられ候」と評している 1 。この瞬間から、家康は豊臣家の家政にまで公然と介入し、名実ともに政権の最高権力者として振る舞い始めるのである 31 。
関ヶ原の戦いの序曲としての本事件の歴史的意義
佐和山に蟄居を余儀なくされた三成は、豊臣家を守るため、家康打倒の機会を虎視眈々と窺うことになる。一方、最大の政敵を排除した家康は、もはや誰に憚ることなく、会津の上杉景勝討伐を口実に全国の大名を動員するなど、天下統一への最後の布石を打っていく。
本事件によって形成された「家康派(武断派など) 対 反家康派(三成を中心とする勢力)」という明確な対立構造は、そのまま翌慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの東西両軍の構図へと直結していく 37 。この意味で、慶長四年閏三月の十日間にわたる事変は、豊臣政権内部の権力闘争に事実上の終止符を打ち、全国の大名を巻き込む最終決戦への道筋を決定づけた、まさに天下分け目の戦いの序曲であった。
この事件がもたらした最大の帰結は、単なる物理的な権力移動に留まらない。それは、豊臣政権の「公儀(こうぎ)」、すなわち公的な権威と正統性の主宰者が、三成に代表される豊臣官僚機構から、徳川家康という一個人の実力者へと事実上移譲されたことであった。それまで豊臣政権内の問題は、五大老・五奉行の合議という「公儀」の枠組みで処理されるべきものであった。しかし、この事件では、その「公儀」の内部対立を、家康が一個人の裁定者として解決して見せた。これにより、家康は合議体の一員という立場から、合議体を超越した最高調停者へとその地位を変貌させたのである 1 。全国の諸大名は、豊臣家のシステムではなく、家康個人の判断力と実力に秩序の回復を依存せざるを得ない現実を目の当たりにした。これは、豊臣の「公儀」が機能不全に陥り、徳川の「公儀」がそれに取って代わる歴史的プロセスが開始されたことを意味する。一年後に起こる関ヶ原の戦いは、この新しい「公儀」の正統性を、最終的に武力によって確定させるための、いわば国家的な儀式であったと位置づけることができよう。
結論:豊臣から徳川へ ― 時代を画した十日間
慶長四年閏三月に発生した石田三成失脚事変は、単なる一奉行の失脚という個人的な悲劇に留まるものではない。それは、豊臣秀吉が遺した脆弱な集団指導体制の構造的欠陥が露呈し、その崩壊を決定づけた歴史的事件であった。そして、この事件を通じて徳川家康が豊臣政権を事実上掌握し、天下人への道を確固たるものにした、日本の歴史における重大な転換点であった。
「襲撃」であったか「訴訟」であったかという事件の形態を巡る議論は、その背後にある複雑な政治力学を解明する上で極めて重要である。しかし、いずれの解釈に立つにせよ、この事変を通じて家康が、豊臣家臣団内部の深刻な対立を巧みに利用し、そして調停することで自らの政治的権威を飛躍的に高めた事実は動かない。
利家の死から三成の佐和山帰還までのわずか十日間。この短い期間に起こった一連の出来事は、翌年に迫る関ヶ原の戦いの対立構造を決定づけ、日本の歴史が豊臣の世から二百六十余年続く徳川の世へと大きく舵を切る、まさにその瞬間を凝縮して記録しているのである。
引用文献
- 七将襲撃事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B0%86%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
- 五大老と五奉行とは?役割の違いとメンバーの序列、なにが目的? - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/5elders5magistrate
- 『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における五大老・五奉行に 関する記載についての考察 - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=7779
- 五大老 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E8%80%81
- 五奉行 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A5%89%E8%A1%8C
- 天下目前だった?前田利家の最期と遺言とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2127
- 徳川家康と関ヶ原の戦い/ホームメイト https://www.meihaku.jp/tokugawa-15th-shogun/tokugawaieyasu-sekigahara/
- 五大老と五奉行の上下関係に疑問符!? 実は五奉行の方が偉かった!【前編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/2082
- 金沢城|城のストラテジー リターンズ|シリーズ記事 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro_returns/03/
- 関ケ原で東軍に与した男たちは「勝ち馬」に乗ったのか? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2548
- 「石田三成襲撃事件」で襲撃は起きていない? 画策した7人の武将、そして家康はどうした? https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10229
- 加藤清正は何をした人?「虎退治の豪傑は朝鮮出兵で勢い余って隣の国まで攻めた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/kiyomasa-kato
- (わかりやすい)朝鮮出兵 文禄・慶長の役 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/chosensyuppei.html
- 慶長の役(2/2)秀吉の死で終わった朝鮮出兵・後編 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/476/2/
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- 家康はなぜ石田三成を絶体絶命のピンチから救ったのか…家臣から殺せと言われても三成をかばった本当の理由 三成襲撃事件を解決し政局ナンバーワンに (4ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/75034?page=4
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- 福島正則(ふくしま まさのり) 拙者の履歴書 Vol.88~豊臣と徳川、二つの世に仕えて - note https://note.com/digitaljokers/n/nefd8f7489b32
- 石田三成は何をした人?「家康の不忠義を許さず豊臣家のために関ヶ原に挑んだ」ハナシ https://busho.fun/person/mitsunari-ishida
- 石田三成の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/36289/
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