最終更新日 2025-10-06

石薬師宿整備(1601)

石薬師宿は、1616年に徳川幕府が東海道の四日市・亀山間の空白を埋めるため新設。国家交通網の効率化と安定化を図る「計画都市」として、伝馬制度を支え、幕府の統治思想と現場の実情を融合した政策の象徴。
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慶長の道、元和の宿:石薬師宿設置の真相と徳川初期交通政策のダイナミズム

序章:関ヶ原の戦塵、未だ収まらぬ伊勢路

慶長五年(1600年)九月十五日、美濃国関ヶ原における天下分け目の戦いは、徳川家康率いる東軍の圧倒的勝利に終わった。しかし、この勝利は徳川による盤石な支配体制の完成を意味するものではなかった。豊臣秀頼は大坂城に健在であり、西国には依然として豊臣恩顧の大名が多数存在していた 1 。戦塵が収まり始めた日本列島は、新たな秩序の形成を前に、静かな緊張感に包まれていた。この状況下で、事実上の天下人となった家康が最優先課題の一つとして着手したのが、全国的な交通網、とりわけ江戸と京・大坂を結ぶ大動脈・東海道の整備であった 1

戦国乱世の経験は、為政者にとって情報の迅速な伝達、軍勢の円滑な移動、そして物流の掌握が国家統治の生命線であることを痛切に教えていた。家康が構想した五街道の整備は、単なる土木事業ではなく、江戸を中心とした中央集権体制を確立し、徳川の権威を全国の隅々にまで浸透させるための高度な政治的・軍事的プロジェクトであった 2 。物理的な「道」を整備することは、戦国時代を通じて分断されていた各地域を一つの統治システム下に組み込み、日本という国家に統一された「時間」と「空間」の概念を再構築する試みでもあった。江戸からの指令が何日で目的地に到達するか、という時間の標準化は、権力の中央集権化と不可分だったのである。

その中でも伊勢国は、東海道が通過する交通の要衝であると同時に、伊勢神宮を擁する国家祭祀の中心地という極めて重要な戦略的価値を持っていた。この地域を安定的に支配し、交通を円滑にすることは、西国大名への睨みを効かせ、経済を活性化させる上で不可欠であった。本報告書で詳述する「石薬師宿」の整備は、この徳川による天下統一事業という壮大な文脈の中に位置づけられるべき、一つの象徴的な事象なのである。

第一章:慶長の道、元和の宿:石薬師宿設置の真相と徳川初期交通政策のダイナミズム

ユーザーが提示された「石薬師宿整備(1601)」という事象を理解する上で、まず「1601年」に何が起こったのかを正確に定義する必要がある。この年、すなわち慶長六年に実施されたのは、石薬師宿という個別の宿場の整備ではなく、東海道全体にわたる画期的な国家政策「宿駅伝馬制度」の制定であった。

制度の電撃的導入と「規格化」という統治思想

関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)正月という異例の速さで、徳川家康は東海道の宿駅を指定し、伝馬制度を定めた 1 。これは、戦後処理と並行して、新時代の統治システムの構築がいかに喫緊の課題であったかを示している。幕府は各宿場に対し、「伝馬掟朱印状」をもって宿駅としての公的地位を認め、「伝馬定書」によって具体的な義務と権利を規定した 1

  • 義務 : 幕府や大名の公用通行のために、常に一定数の人馬(例えば36疋)を用意し、無料で提供すること。また、公用の書状や荷物を次の宿場までリレー形式で継ぎ送ること(継飛脚) 6
  • 権利 : 上記の重い義務の代償として、地子(土地にかかる税)の免除といった経済的優遇措置が与えられた 1

この制度の主目的は、幕府の公文書を運ぶ継飛脚や、将軍、公家、幕府役人、そして後の参勤交代における大名行列の円滑な通行を保証することにあった 5 。これにより、江戸幕府は情報という最も重要な戦略資源を中央で掌握し、迅速な意思決定と権力行使を可能にしようとしたのである。

この慶長六年の制度制定は、徳川家康による「規格化」という近世的な統治手法の現れと言える。各宿場にほぼ同一の義務と権利を課すことで、多様な地域の個別事情を乗り越え、東海道という長大な街道全体を一つのシステムとして機能させようとした。しかし、この江戸の司令部で描かれた画一的な「規格」は、やがて伊勢国の地形や交通事情といった「現実」と衝突することになる。その衝突の帰結こそが、後に石薬師宿が誕生する直接的な原因となるのである。

第二章:伊勢国における「空白地帯」の出現 - 四日市・亀山間の課題

慶長六年(1601年)に定められた東海道の宿駅配置において、伊勢国の四日市宿と亀山宿の間には、宿場が一つも設けられなかった。この二宿間の距離は約五里半(約21.5km)にも及び、当時の一般的な宿間距離である二里から三里(約8kmから12km)を大幅に超える長大な区間となっていた 8 。この制度設計上の「空白地帯」は、施行後すぐに深刻な問題を引き起こすことになる。

「空白」がもたらした三重苦

この長大な宿間距離は、東海道を利用する全ての人々にとって大きな負担となった。

  1. 人馬の極度の疲弊 : 公用の重い荷物を運ぶ伝馬や人足にとって、20kmを超える道のりは過酷であった。特に雨天や酷暑の際には、この区間を踏破するだけで人馬は疲弊しきってしまい、次の行程に支障をきたすことも少なくなかった。一般の旅人にとっても、この区間は東海道の難所の一つとして認識されるようになった 9
  2. 継立業務の非効率化 : 宿場から宿場へと荷物をリレーする伝馬制度において、一区間が長すぎることは、システム全体の速度を著しく低下させるボトルネックとなる。江戸と京・大坂間の迅速な情報伝達という、制度の根幹目的を揺るがしかねない構造的欠陥であった。
  3. 安全性の低下 : 宿場町という人の目や灯りのある場所から離れた長い道中は、夜間や悪天候時において追剥などの犯罪が発生する温床となり、旅の安全を脅かした。

なぜ当初、この区間に宿場が設けられなかったのか、その明確な理由は史料に残されていない。しかし、宿場機能を担えるだけの規模を持つ既存の集落がなかったことや、まずは街道の主要な結節点を優先的に指定し、細かな調整は後回しにしたという、計画の優先順位の問題などが推察される。

いずれにせよ、この「空白地帯」は、徳川幕府の初期統治における「理想と現実のギャップ」を象徴するものであった。江戸の地図上で引かれた計画の線と、伊勢の地を実際に歩く人々の足が感じる疲労との間には、15年もの間、埋めがたい溝が存在し続けたのである。

表1:東海道宿駅制度の段階的整備(伊勢国北部)

四日市・亀山間の「空白」が、石薬師宿、そして庄野宿の設置によってどのように解消されていったかを以下に示す。これは、幕府の交通政策が一度の決定で完結するものではなく、現場の状況に応じて段階的かつ計画的に修正されていったことを明確に物語っている。

時期

宿場配置(桑名宿から亀山宿)

宿間距離(凡そ)

備考

慶長六年(1601年)

桑名 → 四日市 → (空白) → 亀山

四日市-亀山:約21.5km

宿駅伝馬制度制定時。長大な宿間距離が問題となる 8

元和二年(1616年)

桑名 → 四日市 → 石薬師 → 亀山

四日市-石薬師:約12.1km 石薬師-亀山:約9.4km

石薬師宿が新設され、空白地帯が解消される 9

寛永元年(1624年)

桑名 → 四日市 → 石薬師 → 庄野 → 亀山

石薬師-庄野:約2.7km 庄野-亀山:約6.7km

庄野宿が新設され、宿場網がさらに細分化・最適化される 7

第三章:元和二年(1616年)の「宿駅誕生」- 石薬師宿整備のリアルタイム再現

慶長六年の制度制定から15年の歳月が流れた。この間、徳川の治世は安定期に入り、交通量は増大の一途をたどっていた 8 。四日市・亀山間の問題は、もはや看過できないレベルに達していた。そして、ついに歴史が動く。本章では、石薬師宿が誕生するまでのプロセスを、時系列に沿って再構成する。

表2:石薬師宿整備に関する時系列年表

西暦(和暦)

出来事

関連史料

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い。徳川家康が覇権を握る。

1

1601年(慶長6年)

徳川家康、東海道宿駅伝馬制度を制定。四日市・亀山間は宿無しとなる。

4

1601年-1615年

交通量が増加し、四日市・亀山間の長距離が深刻な問題として認識される。

8

1615年(元和元年)

大坂夏の陣。豊臣家が滅亡し、徳川の天下が盤石となる。

1616年(元和2年)

幕府の命令により、石薬師宿が東海道四十四番目の宿場として新設される。

8

1624年(寛永元年)

石薬師・亀山間に庄野宿が新設され、この地域の宿駅ネットワークが完成する。

7

【背景:1601-1615年】機運の醸成

宿駅制度が施行されて以降、世の中の安定と共に人々の往来は活発化し、参勤交代の制度化も進んで大名行列の通行も増加した。これに伴い、四日市・亀山間の困難は、旅人や商人だけでなく、公務を帯びた幕府役人や諸大名にとっても深刻な問題となった。現場からの困難を訴える声は、年々高まっていったと考えられる。参勤交代でこの地を通る大名たちが、道中の安全を石薬師寺に祈願したという記録は 7 、この区間の道中がいかに過酷であったかを物語っている。

【転機:1615年】大坂の陣終結

元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川幕府に対する国内の軍事的脅威は完全に払拭された。これにより、幕府は戦後処理から本格的な国内インフラの整備と民政へと、その政策の重心を移すことが可能となった。石薬師宿設置の「幕命」がその翌年である元和二年(1616年)に下されたことは、この政治的安定が直接的な背景にあると見て間違いない。天下泰平の世の到来が、街道整備を新たな段階へと進める号砲となったのである。

【決断と造成:1616年】人工都市の建設

蓄積された問題意識と政治的安定を背景に、ついに幕府は宿場の新設を決定する。これは地域住民からの請願に応える形であった可能性もあるが、最終的には国家事業としての「幕命」によって強力に推進された 13

宿場の建設地として選ばれたのは、古くから信仰を集めていた高富山瑠璃院石薬師寺の門前町であった高富村であった 7 。この寺は、神亀三年(726年)の開山と伝えられ、弘法大師が霊石に一夜で薬師如来を刻んだという伝説を持つ古刹であり、近郷近在の人々の信仰の中心であった 19 。幕府は、この既存の宗教的権威を核とすることで、新設宿場の円滑な立ち上げを図ったのである。

造成は、「付近の人を集めて」行われた 8 。これは、近隣の村々から人々を移住させ、宿場機能(人馬の常備や宿泊施設の経営)を担わせたことを意味する。石薬師宿は、自然発生的に生まれた町ではなく、国家の明確な意図によって創られた「計画都市」であった。そして、この新たな宿場の名は、地域の象徴である石薬師寺にちなんで「石薬師宿」と正式に命名された 17 。これは、幕府が地域の伝統や信仰を否定するのではなく、巧みに自らの統治システムに再編・利用していくという、巧妙な支配手法の現れでもあった。

【開宿:1616年】業務の開始

こうして、東海道四十四番目の宿場として石薬師宿は誕生した。大名や公儀の役人が宿泊・休憩する「本陣」には小澤家が指定され 17 、問屋場が設けられ、規定の伝馬人馬が確保された。15年間にわたって東海道の円滑な交通を阻害してきた「空白地帯」は、ついにその役目を終えたのである。

第四章:石薬師宿の構造と実態 - 新設宿場の光と影

元和二年に誕生した石薬師宿は、どのような町であり、いかなる役割を果たし、そしてどのような課題を抱えていたのであろうか。

宿場の景観と構造

石薬師宿は、鈴鹿川の北岸に広がる小高い台地上に、南北に長く形成された宿場町であった 7 。歌川広重が描いた浮世絵『東海道五十三次之内 石薬師』は、その副題に「石薬師寺」とあるように、宿場の名の由来となった寺を遠景に配し、稲刈りが終わった田園風景が広がる、のどかで静かな宿場の様子を伝えている 22 。この作品は、他の宿場のような派手な画題はないものの、当時の街道沿いのひなびた詩情と実相を写し取った貴重な視覚資料である 23

宿場の規模は、本陣が3軒、旅籠が15軒と、東海道の宿場の中では比較的小規模なものであった 7 。中心的な役割を担ったのは小澤家の本陣で、その周囲には高い松の木があったことから、別名「松本陣」とも呼ばれた 10 。この小澤本陣には、当時の貴重な記録である宿帳が残されており、そこには赤穂藩主・浅野内匠頭、伊勢山田奉行時代の大岡越前守、さらには徳川家康の孫である千姫といった、歴史上の著名な人物が宿泊した記録が残されている 7 。これらの記録は、石薬師宿が幕府の公用交通において、計画通り重要な役割を果たしていたことを証明している。

新設宿場が抱えた「影」

しかし、その一方で、石薬師宿は構造的な課題を抱えていた。それは、経済基盤の脆弱さである。当時、この地域を通過する旅人の最大の目的の一つは、伊勢神宮への参拝であった。しかし、伊勢神宮へ向かう伊勢参宮道は、手前の四日市宿の日永追分で東海道から分岐してしまうため、石薬師宿はそのルートから外れていた 12

その結果、伊勢参りという当時最大の観光需要の恩恵を受けることができず、石薬師宿に滞在する旅人は少なく、多くは休憩で利用するだけであった 7 。これは、宿場内の旅籠や商店にとって、安定した収入源を欠くことを意味し、宿場の経営は決して楽なものではなかったと推察される。石薬師宿は、あくまで「公」の目的、すなわち東海道の宿駅機能を補完するために創られた「官製の町」であり、その成り立ち故に、民間の経済活動から疎外されるという矛盾を内包していたのである。この問題は、後に新設される庄野宿も同様に抱えることとなる 11

終章:未完の整備計画 - 庄野宿の誕生と石薬師宿の歴史的意義

石薬師宿の設置は、四日市・亀山間の問題を大きく改善したが、それは最終的な解決策ではなかった。幕府による交通網整備は、なおも続いていく。

石薬師宿を設置したことで、四日市宿との間は約12kmとなったものの、亀山宿との間はまだ約9.4kmと比較的長い区間が残っていた。幕府はこれをさらなる改善の対象と捉え、石薬師宿設置からわずか8年後の寛永元年(1624年)、その中間に庄野宿を新設するという決断を下す 7 。庄野宿の誕生により、この地域の宿間距離は、四日市―石薬師(約12.1km)、石薬師―庄野(約2.7km)、庄野―亀山(約6.7km)と、極めて効率的に細分化された。ここに、徳川幕府が目指した伊勢国北部の宿駅ネットワークは、ついに完成の時を迎えたのである。

慶長六年(1601年)の壮大な計画立案から、元和二年(1616年)の石薬師宿設置による第一次修正、そして寛永元年(1624年)の庄野宿設置による最終調整へと至る一連のプロセスは、徳川初期の交通政策の特質を雄弁に物語っている。それは、一度決めた計画を墨守するのではなく、現場の実情や運用結果を冷静に評価し、より効率的で安定したシステムを目指して、柔軟かつ継続的に計画を修正・改善していくという、極めて実利的(プラグマティック)な政策決定の姿である 1 。幕府によるトップダウンの命令と、現場の困難というボトムアップの情報を巧みに融合させ、より実効性の高いシステムを構築していく、いわば「学習する組織」としての一面がそこには見られる。

この文脈において、石薬師宿の歴史的意義は明らかである。それは単なる一つの宿場町ではない。戦国の混沌を乗り越えた徳川幕府が、いかにして国家という巨大なシステムを構築し、維持しようとしたかを示す、生きた証拠なのである。壮大な国家計画の中に必然的に生じる「歪み」を、現場の実情に合わせて修正していく、そのリアルな政策決定プロセスを体現した記念碑的存在、それが石薬師宿である。この宿場の誕生は、徳川幕府の統治思想における「最適化」への絶え間ない追求を象徴しており、その姿勢こそが、260年以上にわたる長期政権を支えた基盤の一つであったと結論づけることができる。

引用文献

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  2. 戦国三英傑の政策一覧まとめ/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/105024/
  3. 江戸時代の政治と三大改革/ホームメイト - 中学校検索 https://www.homemate-research-junior-high-school.com/useful/20100_junio_study/2_history/edo/
  4. 2024年は東海道五十七次400周年 https://tokaido.net/tokaido57-establishment/
  5. 東海道宿駅設置400年記念「歴史の道~東海道」展 - 豊橋市美術博物館 https://toyohashi-bihaku.jp/bihaku01/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E5%B1%95%E8%A6%A7%E4%BC%9A%E6%83%85%E5%A0%B1/%E5%B9%B3%E6%88%9013%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E3%81%AE%E5%B1%95%E8%A6%A7%E4%BC%9A%E6%83%85%E5%A0%B1/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E5%AE%BF%E9%A7%85%E8%A8%AD%E7%BD%AE400%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E3%80%8C%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E9%81%93%EF%BD%9E%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%80%8D%E5%B1%95/
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  14. 祝 東海道五十七次400周年 https://tokaido.org/tokaido57-400years/
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  16. 石薬師寺 | 観光スポット | 観光三重(かんこうみえ) https://www.kankomie.or.jp/spot/2989
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  18. この家の前には小澤本陣址碑があり http://www.ks0001.com/toukaidou11/toulink26.html
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  23. 三重県総合博物館 広重「東海道五十三次之内 石薬師」 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82838046525.htm
  24. 歌川広重の代表作『東海道五十三次』全55作と詳細を一覧で紹介! | ノミチ https://nomichi.me/hiroshige-tokaido/
  25. 小澤(本陣)資料館 | 観光スポット | 観光三重(かんこうみえ) https://www.kankomie.or.jp/spot/22092