最終更新日 2025-10-06

石部宿整備(1601)

石部宿は、1601年に徳川家康が整備した東海道の宿場。関ヶ原後の国家統治の一環として、軍事から行政への転換を象徴し、伝馬制度により交通・経済・情報網を確立。地域社会に大きな影響を与え発展した。
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慶長六年の地平:戦国終焉の象徴として読み解く「石部宿整備」

序章:単なる「整備」ではない、国家創造の布石

本報告書は、慶長6年(1601年)に近江国で実施された「石部宿整備」を主題とする。しかし、その分析は単に一宿場の設置という事実に留まらない。この事象を、約1世紀半に及んだ戦国動乱の終結と、徳川家康による新たな国家秩序の創出という、巨大な歴史的転換点における象徴的事業として捉え直すことを目的とする。

慶長6年(1601年)という「時」は、特別な意味を持つ。前年の慶長5年(1600年)秋、関ヶ原の戦いにおける徳川方の勝利は、天下の趨勢を決定づけた。しかしそれはあくまで軍事的な勝利であり、政治的・経済的な全国支配は緒に就いたばかりであった。この勝利からわずか数ヶ月後という時期に断行された宿駅制度の導入は、家康が軍事の時代から行政の時代へ、すなわち「戦」から「治」へと、国家の重心を急速に移行させようとした明確な意思表示であった 1

本報告書で提示する「戦国時代という視点」とは、この歴史的転換を読み解くための分析軸である。具体的には、以下の三つの側面から石部宿整備を考察する。第一に、戦国時代を通じて培われた軍事・兵站思想が、いかにして平時の統治インフラへと応用・昇華されたか。第二に、旧勢力、特に豊臣政権の基盤を解体し、徳川中心の新秩序へと強制的に再編していく過程。そして第三に、武力による直接的な支配から、法と制度による間接的かつ恒久的な支配へと移行していく統治技術の革新である。

石部宿は、この壮大な歴史的事業の具体的な実践現場であった。本報告書は、徳川家康が描いた国家構想というマクロな視点と、近江国の一宿場というミクロな現場で起きた具体的な変化とを往還することで、歴史のダイナミズムを立体的に描き出すことを目指すものである。


【表1】「石部宿整備」関連年表(1600年~1615年)

西暦(和暦)

全国・幕府の主要動向

東海道・石部宿の動向

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い。徳川家康が勝利。

-

1601年(慶長6年)

東海道宿駅伝馬制度の発令 1

石部宿が宿駅として正式に指定される 3

1602年(慶長7年)

井伊直政死去。井伊直継が彦根藩を継ぐ 5

石部村で検地が実施される 4

1603年(慶長8年)

徳川家康、征夷大将軍に任官。江戸幕府開府。

-

1604年(慶長9年)

全国的規模での道路改修事業開始。一里塚の設置命令 7

石部宿周辺にも一里塚が設置される 4

1605年(慶長10年)

徳川秀忠、第二代将軍に就任 8

-

1612年(慶長17年)

幕府が「道路堤等之儀下知」を布告し、道路管理法を定める 7

-

1614年(慶長19年)

大坂冬の陣。

-

1615年(慶長20年/元和元年)

大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。

-


第一章:関ヶ原の残響 ― 1600年、近江国の戦略的地図

石部宿の整備を理解するためには、まずその舞台となった近江国が、関ヶ原の戦い直後の徳川家康にとって、いかに重要かつ火急の課題であったかを詳述する必要がある。宿駅整備は、真空地帯で行われたのではなく、極めて緊迫した地政学的文脈の中にあった。

1.1. 天下分け目の直後、家康の目前に広がる「未完の天下」

慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原における勝利は、徳川の覇権を決定づけた。しかし、それは長期にわたる国家支配の始まりに過ぎなかった。西国には島津氏や毛利氏をはじめとする豊臣恩顧の大名が依然として強大な勢力を保っており、彼らが再び反徳川の旗を掲げる可能性は決してゼロではなかった。家康にとって、これらの西国大名を軍事的・政治的に監視し、物理的に圧力をかけ続けることが、政権安定化のための最優先課題であった。

1.2. 近江国 ― 喉元に突きつけられた刃

この東西対峙の構図の中で、近江国はまさに日本の「喉元」、戦略的な最重要拠点であった。京都・大坂という政治・経済の中心地と、徳川の本拠地である東国を結ぶ交通の結節点であり、琵琶湖という巨大な内海の水運も掌握できる。古来「近江を制する者は天下を制す」と謳われた地政学的重要性は、天下統一が目前に迫ったこの時期、むしろ増大していた 9

さらに、この地が持つ象徴的な意味合いは、家康にとって決して無視できるものではなかった。近江国佐和山城は、関ヶ原で西軍を率いた最大の敵、石田三成の本拠地であった 5 。この地を迅速かつ完全に掌握することは、旧豊臣政権の残滓を払拭し、新たな支配者が徳川であることを天下に示すための、極めて重要な政治的パフォーマンスでもあったのである 11

1.3. 徳川支配の楔 ― 井伊直政の彦根入封と幕府直轄領

家康の戦後処理は、迅速かつ的確であった。その第一手として、徳川四天王の一人に数えられる猛将・井伊直政を、石田三成の旧領である佐和山に18万石で入封させた 5 。これは、西国大名に対する強力な軍事的牽制であり、徳川の支配体制の楔を近江国に深く打ち込む行為であった。直政は三成の居城を嫌い、彦根に新たな城の建設を計画し、その死後、跡を継いだ直継によって彦根城として完成する 5

軍事的な拠点構築と並行して、家康は行政的・経済的な支配も直接的に及ぼそうとした。大津などの重要都市や交通の要衝を幕府の直轄領(天領)とし、代官を配置して直接統治下に置いたのである 11 。これにより、徳川家は軍事拠点(彦根藩)と経済・交通の要衝(大津代官所)を両輪として、近江国を面的に支配する体制を驚異的な速度で構築していった。

この一連の動きを俯瞰すると、家康の近江支配戦略の全体像が浮かび上がる。それは、軍事と行政という二本の柱を立てることであった。しかし、それだけでは支配は完成しない。江戸の中枢と現地の拠点とを結び、指令を伝え、物資を運び、情報を吸い上げるための「線」がなければ、これらの「点」と「面」は有効に機能しない。慶長6年の東海道宿駅整備、とりわけその経路上に位置する石部宿の指定は、この支配体制を実効あらしめるための「神経網・血管網」の敷設、すなわち 第三の柱「兵站・情報網」の確立 に他ならなかった。それは、戦国時代の兵站思想が、平時の統治システムへと昇華した瞬間でもあった。

第二章:天下人のグランドデザイン ― 宿駅伝馬制度という名の「血脈」

石部宿の整備は、徳川家康が描いた壮大な国家構想の一部であった。その根幹をなすのが、慶長6年(1601年)に東海道から導入された「宿駅伝馬制度」である。この制度は単なる交通インフラ整備ではなく、新たな国家の隅々にまで権力と情報を浸透させるための、いわば国家の「血脈」として設計されていた。

2.1. なぜ家康は「道」を急いだのか ― 統治のための速度

家康は、長きにわたる戦国時代の経験から、情報の伝達速度が戦の勝敗、ひいては国家の存亡を分けることを骨身に沁みて理解していた。全国規模での迅速な情報・指令伝達網の構築は、新政権にとって最優先課題であった 16 。この制度が第一に目指したのは、幕府の公用文書を運ぶ「継飛脚」や、幕府役人の移動を円滑化することであった 18 。さらに、有事の際には大軍を迅速に移動させるための兵員輸送路としての機能も当然、想定されていた 19 。速度こそが、広大な国土を実効支配するための鍵だったのである。

2.2. 宿駅伝馬制度のメカニズム ― 義務と権利の精緻な設計

この制度は、極めて巧妙に設計された、義務と権利の交換システムであった。

2.2.1. 朱印状による権威

制度の根幹には、徳川将軍家が発行する「伝馬朱印状」があった。この朱印状を持つ幕府の役人や大名などの公用旅行者のみが、各宿場に常備された人馬(伝馬)を無賃、あるいは極めて低い公定価格で利用することができた 1 。これにより、街道の利用に幕府の権威による明確な序列が持ち込まれ、徳川の支配が道の上にまで及ぶことを可視化したのである 21

2.2.2. 宿場の義務(伝馬役)

朱印状の権威を支えるため、指定された各宿場は、幕府が定めた数の人足と馬(伝馬)を常に用意し、公用旅行者の求めに応じて次の宿場まで荷物や人を継ぎ立てる重い義務を負った。これを「伝馬役」という 16 。東海道の各宿では、慶長6年の制度発足当初は36疋(ひき)の伝馬を常備することが定められた 4 。交通量の増大に伴い、後には人足100人・伝馬100疋にまで拡充されており、その負担がいかに過酷であったかが窺える 16

2.2.3. 宿場の権利(代償)

幕府は、この重い義務を課す代償として、宿場に対して二つの大きな特権を与えた。第一に、宿場内の屋敷地に対する年貢(地子)を免除したこと 4 。第二に、一般の旅人に対する宿泊業(旅籠)や、商業貨物の運送業を独占的に営み、利益(駄賃)を上げる権利を認めたことである 16

この制度設計は、単なるインフラ整備計画を超えた、高度な統治技術であった。幕府は、人馬の維持管理にかかる人件費や飼料代といった直接的な財政負担をほとんど負うことなく、全国的な公用交通網を構築した。そのコストは、宿場が負う義務とされた。そして宿場は、そのコストを、幕府から与えられた商業的独占権によって得られる利益で賄う。つまり、国家の基幹業務を、地方の自己負担と商業的インセンティブによって維持させる、極めて巧妙なアウトソーシング・システムであった。これにより、宿場町という新たな経済圏を創出しつつ、地方経済を幕府中心の全国流通網に組み込むことに成功したのである。これは、戦国大名が自領内で行っていた部分的な伝馬制 23 を、全国規模で体系化・制度化した、統治における画期的な革新であった。

2.3. 制度の影 ― 助郷という名の収奪構造

しかし、この制度には影の側面も存在した。参勤交代などで大名行列のような大規模な通行があると、宿場が常備する人馬だけでは到底対応しきれなかった。その不足分を補うため、宿場周辺の農村が「助郷(すけごう)」に指定され、人馬の提供を強制された 22 。これは宿場の特権の裏側で、広域の農民に一方的な負担を転嫁する構造であり、江戸時代を通じて多くの村々を疲弊させ、一揆の原因ともなった 22 。石部宿の繁栄もまた、こうした周辺農村の犠牲の上に成り立っていた側面があったことは、見過ごすことができない。

第三章:ドキュメント・慶長六年 ― 石部宿、変革のリアルタイム・クロニクル

慶長6年(1601年)、徳川家康による国家改造のグランドデザインは、石部という一つの村落に、具体的かつ不可逆的な変化をもたらした。この章では、史料に基づき、変革がどのような順序で起こったのかを時系列で再構成し、そのリアルタイムな様相を描き出す。

3.1. (前史)宿駅指定以前の石部

慶長6年の指定は、全くの無から宿場を創造したわけではなかった。石部は古代の東海道の経路上に位置し、中世には伊勢神宮への参詣道(伊勢参宮街道)との分岐点としても機能するなど、古くから交通の要衝であった 25 。宿場としての機能も段階的に形成されてきた歴史がある。織田信長治下の元亀2年(1571年)に周辺の5ヶ村が合併して「石部町」が形成されたとする説や、豊臣秀吉治下の慶長2年(1597年)に信濃善光寺への輸送のために伝馬役を課せられた時点を宿の成立とする説も存在する 3 。これらの事実が示すのは、慶長6年の幕府による指定が、既存の集落が持つ交通機能を公的な国家システムの中に正式に位置づけ、再編・格上げするものであったということである。

3.2. (発令)慶長6年(1601年)正月 ― 江戸・伏見からの指令

関ヶ原の戦いの興奮も冷めやらぬ慶長6年の正月、徳川家康政権の中枢から、東海道の宿駅整備の第一弾として、伝馬制度の導入が正式に布告された 1 。この時、東海道の各宿に対し、幕府の指令書が下された。

石部宿に下されたはずの指令書そのものは現存していない。しかし幸いにも、隣宿である水口宿(現在の甲賀市)に下された「御伝馬之定」の写しが残されており、その内容は東海道筋の各宿でほぼ同様であったとされるため、石部宿が受け取った指令を極めて具体的に復元することが可能である 4

その指令書には、幕府の奉行である伊奈備前守、彦坂小刑部、大久保十兵衛の名が記されていた。彼らはいずれも家康の側近であり、特に関東の支配や検地で実績を上げた、統治の実務に長けた能吏たちであった。この人選からも、宿駅整備が徳川政権の最重要プロジェクトの一つであったことが窺える。

指令の内容は、戦国時代の属人的で曖昧な命令とは一線を画す、近世的な行政文書としての性格を色濃く持っていた。

  • 一、三拾六疋ニ相定め候事
    (伝馬として、常に36疋の馬を用意すること)
  • 一、上口ハ石部迄、下ハ土山迄の事
    (水口宿の継ぎ立て範囲は、京方面は石部宿まで、江戸方面は土山宿までと定める)
  • 一、右の馬数壱疋分ニ居屋敷六拾坪宛下され候事
    (上記の伝馬役の代償として、馬一疋につき60坪の屋敷地の地子(年貢)を免除する)
  • 一、坪合弐千百六拾坪居屋敷を以って引きとらるべく事
    (合計で2160坪分の屋敷地が地子免除の対象となる)
  • 一、荷積ハ壱駄ニ三十貫目の外、付け申され間敷候、其積ハ秤次第たるべき事
    (馬一頭に積む荷物の重量は30貫目(約112.5kg)を上限とし、これを超える荷を積んではならない。重量は秤で正確に計量すること)

この文書は、単なる命令ではない。義務(伝馬36疋の常備)と権利(地子2160坪分の免除)を具体的な数値で示した、一種の行政契約であった。これにより、石部の住民は、徳川という新たな中央権力と、直接的かつ恒久的な法的関係を結ぶことになった。それは、戦国的な領主との人格的な支配関係から、法と制度に基づく近世的な支配関係への質的な転換を意味していた。

3.3. (伝達と受容)慶長6年 春~夏(推定) ― 石部に届いた「御朱印」

この「御伝馬之定」と、「この御朱印なくして、伝馬すべからざる者也(この朱印状がなければ、公用の伝馬を徴発してはならない)」と簡潔に記された朱印状が、現地の代官、あるいは村の有力者である年寄衆のもとにもたらされた。その瞬間、石部の村は大きな転換点を迎えた。

住民にとって、それは新たな「義務」と「権利」の到来であった。伝馬36疋をどうやって確保し、誰が飼育し、いかに維持管理するのか。公役の負担を誰が、どのように分担するのか。一方で、免除される地子(合計2160坪)を、村内でどのように配分するのか。この指令は、村の内部で激しい利害調整と新たな秩序形成のプロセスを始動させたに違いない。徳川の天下統一は、江戸城や大坂城といった壮大な舞台だけでなく、石部のような村落の集会所においても、静かに、しかし着実に進行していたのである。

第四章:新たな秩序の刻印 ― 宿場町・石部の誕生と住民の暮らし

慶長6年の指令は、石部宿の未来を決定づけた設計図であった。この章では、その設計図がどのようにして物理的な町並みと社会構造へと具現化していったのか、その後のプロセスを追い、宿場町としての石部の実像に迫る。

4.1. (確定)慶長7年(1602年)の検地 ― 土地への秩序の刻印

指令が下された翌年の慶長7年(1602年)、幕府から派遣された林伝右衛門・坂井主水といった検地役人が石部に入り、検地(土地調査)が実施された 4 。この検地は、単に村全体の石高を算定し、年貢徴収の基準を定めるためだけのものではなかった。それ以上に重要な目的は、前年の「御伝馬之定」で約束された「地子免除」の対象となる屋敷地を具体的に確定し、その所在、面積、所有者を公式の土地台帳である検地帳に記載することであった 6

この作業により、宿駅としての石部の特権は、幕府の権威によって法的に裏付けられた。徳川の新たな秩序が、土地という最も根源的な生産基盤にまで、一筆一筆、刻印されていったのである。検地帳の作成は、石部が徳川の統治システムに完全に組み込まれたことを示す、決定的な行政手続きであった。

4.2. (形成)宿場施設の段階的整備 ― 1601年にはなかった景観

今日、我々が「宿場町」と聞いて思い浮かべる本陣、問屋場、旅籠が軒を連ねる景観は、慶長6年の時点で一朝一夕に出現したわけではない。「石部宿整備」は1601年に完了したのではなく、この年を起点として、数十年をかけて宿場町としての機能と景観が整えられていった、長期的なプロセスであった。

  • 問屋場と高札場: 宿場の行政的中心施設である問屋場(公用人馬の継立業務を行う役所)や、幕府の法令を掲示する高札場は、制度の定着とともに徐々に整備されたと考えられる 4 。特に問屋場の機能が本格化し、宿役人が幕府の支配機構の末端として常駐するようになるのは、大名の参勤交代が制度化される寛永年間(1630年代)前後と推定されている 4
  • 本陣: 大名や公家、幕府役人といった高位の旅行者が宿泊・休憩するための専用施設である本陣も、最初から存在したわけではない。記録によれば、石部宿の主要な本陣であった小島本陣が創建されたのは、慶長6年から約半世紀後の慶安3年(1650年)のことである 29 。制度発足当初は、宿内の有力者の邸宅が、必要に応じて臨時に本陣としての役割を果たしていた可能性が高い 31

4.3. (住民)伝馬役を担うということ ― 宿場住民の光と影

宿場住民にとって、伝馬役という公役を担うことは、重い負担であると同時に、新たな経済的機会をもたらすものであった。

伝馬役の負担は、宿内の富裕層が中心となって担った。屋敷の間口(街道に面した長さ)に応じて割り当てられるなど、経済力に応じた負担の原則があったとされる 34 。彼らは常に定められた数の人馬を維持管理し、公用旅行の際には無償または低賃金で提供しなければならなかった 24

その一方で、宿場には独占的な商業権が与えられていた。公用旅行が少ない時期には、常備している人馬を一般旅行者や商人のための商業運送に活用し、「駄賃」と呼ばれる運送料を得ることができた 21 。また、街道沿いに旅籠屋を経営し、多くの旅人を宿泊させることで、宿場全体が経済的に潤った 35

石部宿は、京都から出発した旅人がちょうど一泊するのに適した距離にあったため、「京立ち石部泊り」という言葉が生まれるほど、多くの旅行者で賑わった 28 。天保14年(1843年)の記録によれば、石部宿には本陣2軒、旅籠32軒を含む458軒の家が1.6キロメートルにわたって建ち並んでいたという 30 。この繁栄は、慶長6年に課せられた公役という「義務」の対価として得られた「権利」を、住民たちが最大限に活用した結果であった。

この宿場町の形成過程は、徳川政権による「上からの秩序(制度)」と、地域社会の「下からの活力(経済合理性)」が相互に作用し合いながら、新たな社会空間を創り上げていくダイナミックなプロセスそのものであった。制度は社会の枠組みを与え、その枠組みの中で住民は新たな生業を見出し、町を発展させた。しかし、その繁栄は常に公役という重い負担と隣り合わせであり、近世社会の構造的矛盾を内包していたのである。


【表2】近江国における東海道宿駅の規模比較(天保14年/1843年)

宿名

宿高(石高)

人口

家数

本陣

脇本陣

旅籠屋

石部宿

1,719石

1,606人

458軒

2軒

0軒

32軒

水口宿

2,464石

2,692人

692軒

1軒

1軒

41軒

土山宿

1,348石

1,505人

351軒

2軒

0軒

44軒

草津宿

1,571石

2,351人

586軒

2軒

2軒

72軒

東海道平均

651石

4,051人

1,000軒

2軒

1軒

55軒

出典: 『東海道宿村大概帳』のデータ 37 に基づき作成。

この表は、石部宿の特異な性格を明確に示している。人口や家数、旅籠屋数においては、城下町を兼ねる水口宿や交通の要衝である草津宿に及ばず、東海道の平均的な規模に留まる。しかし、宿の農業生産力を示す「宿高(石高)」に注目すると、1,719石という数値は東海道平均の2.5倍以上に達し、草津宿をも上回っている。これは、石部宿が純粋な交通都市ではなく、豊かな後背農地を持つ「半農半宿」の性格が極めて強い共同体であったことを物語っている。この高い農業生産力こそが、伝馬役という重い公役を安定して支え、かつ宿場町として発展していくための経済的基盤となったと考えられる。

終章:石部から見た天下統一 ― 慶長六年の遺産

慶長6年(1601年)の「石部宿整備」は、近江国の一宿場の設置という局地的な事象に留まらない。それは、徳川家康が構想した新たな国家体制の縮図であり、戦国から近世へと時代が大きく転換する様を映し出す、歴史的な一断面であった。

この事業が象徴するのは、統治の論理の根本的な転換である。それは、軍事力による直接的な制圧という「戦国の論理」から、法と制度、そして経済的インセンティブを駆使して全国を間接的に統治するという「近世の論理」への移行であった。石部宿の住民は、もはや領主のために槍働きをすることで自らの地位を確保するのではない。彼らは、伝馬役という公役を日々果たすことによって、新たな天下泰平の秩序に参加し、その構成員としての地位を認められることになったのである。

石部宿をはじめとする東海道五十三次、そして全国に張り巡らされた宿駅網は、人・モノ・情報の流通を前時代とは比較にならないほど安定させ、活性化させた。この物理的なネットワークこそが、二百数十年続く「パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」を支え、江戸時代の経済発展と文化の爛熟を可能にした、文字通りの「道」を拓いた。

慶長6年、石部の地に打たれた一本の杭は、宿場町という小さな共同体の始まりであったと同時に、徳川による天下統一という巨大な建築物の、不可欠な礎石の一つとなったのである。

引用文献

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  21. 五十七次の歴史と意義:宿駅伝馬制完成400年を迎えて| 榊原 平 / Taira Sakakibara - note https://note.com/taira_sakaki/n/n4884ddc09858
  22. 歴史を訪ねて 街道筋の助郷制度 - 目黒区 https://www.city.meguro.tokyo.jp/shougaigakushuu/bunkasports/rekishibunkazai/sukego.html
  23. 歴史探訪[街道の歴史]江戸宿駅制度の成立 - お茶街道 http://www.ochakaido.com/rekisi/kaido/kaisetu2.htm
  24. (第377号)箱根八里の難所と三島宿の伝馬役(令和元年10月1日号) https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn042368.html
  25. 第四節 中世の交通と石部 http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/302040100.html
  26. 石部宿 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/904/
  27. 第25回企画展近世社会を創出した文書検地帳 - 徳島県立図書館 https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/densi/desiryou/ken/mon_kikakuten/k25.pdf
  28. 東海道五十三次の解説 52 石部 - 一般社団法人日本製品遺産協会 https://www.n-heritage.org/2024/05/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%AC%A1%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%80%8052%E3%80%80%E7%9F%B3%E9%83%A8/
  29. 小島本陣跡 - 石部宿 - 旧街道ウォーキング https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/minakuchi_ishibe/ishibeshuku/kojimahonjinato.html
  30. 石部宿小島本陣跡 - 滋賀・びわ湖観光情報 https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/26445/
  31. 草津宿と本陣について https://www.city.kusatsu.shiga.jp/kusatsujuku/gakumonjo/shukuba_kaisetsu.html
  32. 川崎宿は『川崎年代記録』によると、元和 9(1623)年 に成立したとあります。 同書によると、 https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/yokohama/uploads/2020/12/web_exhib201303_chapter2.pdf
  33. 企画展「中山道と本陣-『休泊控帳』をひもとく-」 - 本庄市 https://www.city.honjo.lg.jp/material/files/group/28/hwmm_brickwarehouse_exh202410_pamph.pdf
  34. 性をもつものである。しかしながら https://komazawa-u.repo.nii.ac.jp/record/2006093/files/00016019.pdf
  35. 石部宿について~「ちょっと一息」にちょうどいいまち~ - 湖南市 https://www.city.shiga-konan.lg.jp/material/files/group/24/mame1.pdf
  36. 東海道石部宿歴史民俗資料館 https://www.burari-konan.jp/pamphlet_dl/assets/pdf/pamphlet/KonanGuideBook_p07-08.pdf
  37. 宿の規模と性格 - 湖南市-湖南市デジタルアーカイブ:新修石部町史 通史篇 https://adeac.jp/konan-lib/texthtml/d100010/mp000010-100010/ht040590