最終更新日 2025-10-04

神田上水開削(1590)

1590年、徳川家康は江戸入府後、飲料水確保のため神田上水を開削。これは新時代の国づくりと統治能力を示す戦略的事業。江戸の礎。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

天正十八年、江戸創生の一手:神田上水開削の戦略的意義とリアルタイム・クロノロジー

序章:戦国の終焉と江戸の夜明け

天正十八年(1590年)は、日本の歴史における画期的な転換点として記憶される。この年、豊臣秀吉が主導した小田原征伐は、長きにわたる戦国乱世に事実上の終止符を打ち、天下統一事業を完成させた 1 。そして、この巨大な軍事行動の帰結として下された徳川家康への関東移封命令は、新たな時代の幕開けを告げる象徴的な出来事であった。本報告書は、この歴史的転換点の渦中で断行された「神田上水開削」を、単なる都市インフラの整備事業としてではなく、徳川家康による新時代の「国づくり」の第一歩であり、その統治思想と戦略的ビジョンを具現化した極めて政治的な事業として分析するものである。

神田上水の開削は、後世から見れば江戸の発展に不可欠な生活基盤の整備に過ぎないかもしれない。しかし、1590年というリアルタイムの視点に立つとき、その意味合いは大きく異なる。それは、先祖伝来の地を離れ、荒涼とした湿地を与えられた家康が、その地をいかにして日本の新たな中心へと変貌させるかという壮大な構想を、具体的な行動として示した最初の意志表明であった。小田原城の落城から間髪を入れず、自らの江戸入府に先んじて発せられたとも伝わる上水開削の命令。その異例の迅速さは、家康の統治能力と未来への展望を、関東の民、そして天下の諸大名に示すための、計算され尽くした戦略的行動であった。本報告書は、この歴史的事業を時系列に沿って再構築し、その多面的な意義を徹底的に解明することを目的とする。

第一章:政治情勢の激動 ― 小田原征伐と家康の関東移封

1-1. 小田原攻めにおける家康の立場

天正十八年、豊臣秀吉による小田原征伐において、徳川家康は単なる一参加者ではなかった。彼は約三万の兵を率いる豊臣軍の先鋒として、軍事的に極めて重要な役割を担った 2 。しかし、彼の真価は兵力だけにあるのではない。かつて家康は、次女・督姫を北条氏直に嫁がせるなど、北条氏と婚姻関係を結ぶ同盟者であった 1 。この過去の経緯は、彼を誰よりも北条氏の内情に通じた人物たらしめていた。

約三ヶ月、110日にも及んだとされる小田原での長期にわたる陣中生活は、家康にとって単なる軍事対峙の時間ではなかった 3 。それは、敵対する北条氏の統治システム、その強みと弱みを詳細に観察・分析するための絶好の機会となった。特に注目すべきは、北条氏が築き上げた城下町のインフラ、とりわけ日本最古の本格的な上水道と称される「小田原早川上水」の存在である 4 。早川から清冽な水を引き、城下町を潤すこのシステムは、都市の生命線を維持し、長期の籠城戦を可能にする上で決定的な役割を果たしていた。家康はこの先進的な水道技術を目の当たりにし、新たな都市を建設する上での水の重要性を再認識したに違いない。この小田原での経験が、直後の江戸における神田上水計画の直接的な着想源となった可能性は極めて高い。

1-2. 関東移封 ― 栄転か、左遷か

小田原城が陥落し、戦国最後の雄・北条氏が滅亡した後、秀吉は家康を城下を見下ろす高台に誘い、広大な関東平野を指し示しながら、関八州の統治を命じたと伝わる 6 。この関東移封は、従来の領地である三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国から、北条氏の旧領を中心とする六カ国(後に八州)への国替えであり、石高上は130万石から240万石へと、100万石以上の大幅な加増であった 2 。形式上は、天下統一に最も貢献した家臣への破格の恩賞であり、栄転と見なすことができる。

しかし、その内実は複雑であった。この措置は、強大な軍事力と政治的影響力を持つ家康を、京・大坂という政治の中心から引き離し、箱根の険しい山々の東方に「封じ込める」という秀吉の深謀遠慮に基づくものであった 7 。家康は、父祖伝来の地と、そこで育まれた家臣団との固い結びつきを断ち切られ、未だ北条氏への忠誠心が根強く残る旧領民と旧家臣団を治めなければならないという、極めて困難な課題に直面した。家臣団の間からは、この移封に反対する声が巻き起こった 7

だが、家康はこの命令を、逆境ではなく好機と捉えた節がある。彼は、秀吉の命令を拒否すれば徳川家取り潰しの口実を与えるだけだと家臣を諭した 7 。そして、この外圧を、徳川家臣団の近代化、すなわち中世的な兵農未分離の状態から近世的な兵農分離へと組織を移行させる絶好の機会と捉えた。新天地で新たな知行割を行うことで、旧来のしがらみを断ち切り、より効率的で中央集権的な統治体制を構築しようとしたのである。家康のこの戦略的な受諾は、彼の政治家としての成熟と、未来を見据えた長期的視点を示すものであった。

1-3. 本拠地の選定 ― なぜ江戸だったのか

関東への移封が決定した際、家康には本拠地選定において複数の選択肢があった。最も有力視されたのは、旧北条氏の拠点であり、天下の名城として知られる小田原であった 8 。小田原城は堅牢な要塞であり、早川上水という優れたインフラも既に存在していた。しかし、家康は多くの者の予想を裏切り、秀吉の勧めもあって、当時は葦の生い茂る寒村に過ぎなかった江戸を新たな本拠地として選定した 8

この決断の背後には、家康の卓越した地政学的洞察があった。小田原は、確かに防御には優れているが、箱根の山々に囲まれ、西に偏った袋小路の地形であった。これに対し、江戸は広大な関東平野のほぼ中央に位置し、利根川や荒川などの河川が合流する水運の結節点でもあった 10 。家康は、江戸が単なる城ではなく、関東全域を支配し、物資を集積・流通させるための経済的・政治的ハブとなりうる無限の可能性を秘めていることを見抜いていたのである 7 。荒涼とした湿地帯という目前の困難の先に、将来の巨大な穀倉地帯と一大経済圏の姿を描いていた。この本拠地選定は、徳川の治世が守りではなく、積極的な拡大と発展を目指すものであることを示す、最初の、そして最も重要な戦略的判断であった。

第二章:天正十八年の江戸 ― 荒涼たる湿地と無限の可能性

2-1. 「江戸」の原風景

徳川家康が天正十八年(1590年)に入府した当時の江戸は、後世の華やかな大都市のイメージとは全く異なる、荒涼とした風景が広がっていた。当時の江戸城は、太田道灌によって築かれて以来、百数十年が経過し、老朽化が進んだ粗末な城郭に過ぎなかった 11 。城下は「小さな村落」と表現されるほど小規模で、日比谷のあたりまで深く入り江が切れ込み、城のすぐ近くまで潮の香りが届くような場所であった 7

地理的には、広大な武蔵野台地の東端に位置し、利根川や荒川といった大河川が形成した広大な低湿地帯が広がっていた 12 。これらの河川は頻繁に氾濫を繰り返し、土地は常に水浸しで、生産性の低い沼沢地が点在していた 14 。家康と、彼に従って三河以来の故郷を離れてきた数万の家臣団とその家族が居住し、新たな政治拠点を築くには、あまりにも過酷で不便な土地であった 15

2-2. 生命を脅かす水

この未開の地における最大かつ喫緊の課題は、生命の維持に不可欠な飲料水の確保であった。海に近い低湿地という地理的条件は、致命的な欠陥をもたらしていた。井戸を掘っても、塩分を含んだ汽水が湧出するばかりで、とても飲用には適さなかったのである 16 。当時の土木技術では、塩水層を突き抜けて深層の真水を得ることは困難であった 19

この劣悪な水事情は、単なる不便さを超えて、深刻な脅威であった。不衛生な水は伝染病の温床となり、人々の健康を蝕む。特に、抵抗力の弱い乳幼児の死亡率は高かったであろう。これから江戸を関東支配の拠点とし、多くの人々を集住させようとする家康にとって、この飲料水問題の解決は、他のいかなる政策にも優先されるべき、文字通り死活問題であった 20 。この根本的な欠陥を克服しない限り、江戸の都市としての発展はあり得なかった。

2-3. 家康が見た可能性

しかし、徳川家康は、この荒れ果てた土地に絶望しなかった。むしろ、その困難の向こうに無限の可能性を見出していた。彼は、利根川や荒川といった「暴れ川」の流路を付け替える大規模な治水事業(後の「利根川東遷事業」)によって水害を制御し、広大な湿地帯を豊かな穀倉地帯へと変貌させることができると確信していた 7 。駿府時代に安倍川の治水を手がけた経験が、その自信の裏付けとなっていた 21

さらに家康は、江戸が持つ水運の結節点としての地理的優位性に着目していた 10 。関東各地からの物産は舟によって江戸に集められ、そこから全国へと輸送される。江戸は、関東平野という広大な後背地を持つ、巨大な物流拠点となりうる。この壮大なビジョンを実現するためには、まず人々が安心して住める環境を整えなければならない。その第一歩が、安全な飲料水の確保であった。神田上水の開削は、江戸の最大の弱点を克服し、家康の壮大な都市構想を実現するための、絶対的な前提条件だったのである。

家康は、この困難な課題を迅速に解決する姿を内外に示すこと自体が、新領主としての統治能力と正統性を誇示する絶好の機会になると考えていた。劣悪な水問題という最大の逆境は、彼の「国づくり」の手腕を最も劇的に見せつけるための、格好の舞台となったのである。神田上水開削は、生活基盤の整備であると同時に、徳川の治世の始まりを告げる、極めて象徴的なパフォーマンスであった。

第三章:江戸入府と上水開削命令のリアルタイム・クロノロジー(1590年7月~10月)

天正十八年(1590年)の夏から秋にかけての数ヶ月間は、徳川家康の生涯において最も多忙かつ重要な時期の一つであった。小田原征伐の戦後処理、関東移封の受諾、そして新天地・江戸における都市建設の開始という、軍事・政治・土木の各分野にわたる重要事象が、驚くべき密度で、かつ並行して進行した。特に神田上水開削に関する一連の動きは、家康の迅速な意思決定と、実務を儀礼に先行させるプラグマティズム(実用主義)を如実に物語っている。

以下の時系列表は、諸史料から再構築したこの期間のリアルタイムな動向である。

【表1】天正十八年(1590年) 神田上水開削関連 時系列表

年月日(天正18年)

場所

主要人物

出来事

意義・考察

典拠資料

7月5日

小田原

北条氏政・氏直

小田原城が開城し、北条氏が降伏。

戦国時代の事実上の終焉。家康の関東移封が現実のものとなる。

22

7月11日

小田原

秀吉、家康

秀吉が家康に対し、 関東六カ国への移封を公式に発表。

徳川家の新たな歴史が始まる。江戸を本拠地とすることが決定。

23

7月12日

小田原

家康、大久保忠行

『校註天正日記』に**「藤五郎まいらる、江戸水道のことうけ玉ハる」**との記述。

事実であれば、開城からわずか1週間での上水開削命令。家康の並外れた迅速性と、水問題への強い危機意識を示す。

23

7月15日

小田原→江戸

秀吉、家康

秀吉が江戸視察のため小田原を出発。一部史料では、家康が秀吉に先行して江戸に入ったとされる。

家康の非公式な江戸入りが開始。実務的な都市計画の準備が水面下で進められた可能性。

22

7月19-21日頃

江戸

家康、秀吉

家康が江戸に到着(非公式)。秀吉を法恩寺に出迎え、会談したとされる。

公式入府に先立ち、家康は江戸の現状を把握し、秀吉と最終的な打ち合わせを行ったと考えられる。上水計画の具体化が進んだか。

22

7月29日

小田原

家康

家康、公式な江戸入りのため小田原を出発。

儀礼的な行動の開始。しかし、実務は既に始動している。

22

8月1日(八朔)

江戸

家康

家康、公式に江戸城へ入城(江戸御打入り)。

徳川による関東統治の公式な始まり。この日を記念し、後に「八朔」が幕府の祝賀日となる。

22

8月~9月

江戸

家康、大久保忠行

神田上水の初期工事(小石川上水)が本格化。

膨大な家臣団の居住地確保と並行し、最優先課題としてインフラ整備が進行。

27

10月4日

江戸

大久保忠行

『校註天正日記』に**「小石川水はきよろしくなり申、藤五郎の引水もよほとかゝる」**との記述。

命令から3ヶ月足らずで初期工事が目に見える成果を上げる。湿地の排水が進み、上水が流れ始めたことを示す。

24

この時系列から浮かび上がるのは、家康の行動が「儀礼」と「実務」の二重構造で成り立っているという事実である。公式な行事である「江戸御打入り」は、縁起の良い八朔の日(8月1日)が選ばれ、盛大に行われた 22 。これは、新たな領主の権威を内外に示すための政治的なパフォーマンスであった。

しかし、その水面下では、遥かに早くから実務的な行動が開始されていた。もし『校註天正日記』の記述を信じるならば、上水開削の命令は小田原開城からわずか一週間後の7月12日には下されている 23 。これは、家康が戦後処理の段階で既に次の「国づくり」に着手していたことを意味する。さらに、7月中下旬には非公式に江戸入りし、現地の状況を自らの目で確かめ、具体的な指示を出していた可能性が極めて高い 22

この迅速さは、単なるせっかちな性格によるものではない。家康は、これから江戸に集まる膨大な数の家臣と領民にとって、安全な水の確保が一刻の猶予もならない死活問題であることを深く理解していた。彼の統治が、形式的な儀礼や権威の誇示ではなく、領民の生活に直結する実利的な政策から始まることを、行動をもって示したのである。神田上水開削の命令は、徳川による関東統治の開始を告げる「号砲」であり、その統治者としてのプラグマティズムと、新領地経営への並々ならぬ意欲を物語っている。

第四章:任じられし者 ― 大久保藤五郎忠行という人物

徳川家康が、江戸の未来を左右する国家的な大事業である上水開削の責任者として白羽の矢を立てたのは、当代一流の土木技術者ではなかった。その人物は、大久保藤五郎忠行。三河以来の譜代の家臣でありながら、戦傷によって武人としての道を絶たれ、当時は家康の「御用菓子司」として仕えていた異色の経歴の持ち主であった 20 。この一見不可解な人選にこそ、家康の非凡な人材眼と、来るべき新しい時代を見据えた価値基準の変化が凝縮されている。

4-1. 大久保一族の系譜

大久保氏は、松平氏(徳川氏)がまだ三河の一地方領主であった時代から仕える、譜代中の譜代の家柄である 29 。一族からは、後に「徳川十六神将」に数えられる大久保忠世・忠佐兄弟のような猛将を輩出し、徳川家臣団の中でも特に武勇に優れた「武断派」の中核をなしていた 30 。大久保藤五郎忠行も、この誉れ高き一族の一員として生を受け、徳川家康に仕えた 31 。彼の出自は、家康からの信頼が極めて厚い家系であったことを示している。

4-2. 武人から菓子司へ

忠行自身も、一族の名に恥じぬ武人であった。永禄六年(1563年)に勃発した三河一向一揆では、家康方として出陣している 31 。しかしこの戦で、彼は腰に鉄砲玉を受けるという重傷を負い、一命は取り留めたものの、歩行に不自由が残る身体となった 28 。これは、槍働きこそが武士の最大の誉れとされた戦国時代において、武人としてのキャリアが事実上絶たれたことを意味した。

通常であれば、戦働きのできなくなった家臣は歴史の表舞台から姿を消すことも少なくない。しかし、家康は忠行を切り捨てなかった。戦役を免除され、三河国上和田に隠棲していた忠行であったが、趣味であった菓子作りの腕が家康の耳に届く 20 。家康は彼の菓子をことのほか気に入り、以降、忠行は「御用菓子司」として、菓子作りを通じて家康に仕え続けることになった 20 。これは、家康が功臣を手厚く遇する情の深さを示すと同時に、戦場での働き以外の特殊な技能にも価値を見出す、柔軟な思考の持ち主であったことを物語っている。

4-3. 抜擢の理由

では、なぜ家康は、この元武士で現菓子司の忠行に、前代未聞の土木大事業を託したのか。その理由は、複数考えられる。

第一に、菓子作りと良質な水との密接な関係である。特に、茶の湯で用いられるような上質な和菓子を作るには、水の良し悪しが風味を決定的に左右する 20 。長年、家康の舌を満足させる菓子を作り続けてきた忠行は、水源の清濁や水質の違いを鋭敏に見分ける、卓越した感覚と経験知を培っていた可能性が高い。上水計画の根幹は水源の選定にあり、家康はこの「水を見立てる」能力を最も重視したのである。

第二に、家康からの絶大な個人的信頼である。忠行は、戦傷を負った後も家康の側に仕え続けた、長年の側近であった 31 。国家の礎を築くような機密性の高い重要事業においては、単なる技術力以上に、主君の意図を正確に汲み取り、私心を交えずに忠実に計画を遂行する人物の存在が不可欠である。家康は、忠行の忠誠心と実直な人柄を熟知しており、この大役を安心して任せられると判断した。

この抜擢は、家康の人材登用の基準が、戦国時代の「武功」一辺倒から、泰平の世を治めるために必要な「専門技術」や「実務能力」へと、大きくシフトしつつあったことを示す象徴的な人事であった。忠行の功績に対し、家康は「主水(もんど/もんと)」という名を与えた 20 。これは朝廷における水の管理を司る官職名であり、彼を水の専門家として公に認める最高の栄誉であった。この人事は、来るべき江戸幕府における、多様な専門技能を持つ官僚機構の萌芽であったと言えるだろう。

第五章:先達の知恵と当代の技術 ― 神田上水はいかにして計画されたか

神田上水の計画は、決してゼロから生み出されたものではない。それは、徳川家康がこれまでの経験で培った都市経営の思想、先行する上水道事業からの教訓、そして当代の最新土木技術が結集した、壮大な総合エンジニアリングの産物であった。計画の核心には、地域の地理・地質学的特性を深く理解し、そのポテンシャルを最大限に引き出すという、極めて高度な思想が貫かれていた。

5-1. 先行事例からの学習

家康の頭の中には、少なくとも二つの成功事例があった。一つは、小田原征伐の際に目の当たりにした 小田原早川上水 である。この上水は、箱根を源流とする早川の中流域から水を取り入れ、自然の地形勾配を巧みに利用して城下町へと導水する、優れた自然流下方式のシステムであった 4 。神田上水が、井の頭池を源流とする神田川の中流域(関口)に堰を設けて取水し、自然流下で江戸市中へ水を送る基本設計を採用している点に、その技術的な影響は明らかである 33

もう一つは、家康自身が長年拠点としてきた 駿府城下町の経営経験 である。家康は江戸入府以前、駿府において安倍川の大規模な治水工事を手がけ、水路を張り巡らせた機能的な城下町を建設していた 21 。この駿府で培われた、治水と都市計画を一体として捉える思想と実践的なノウハウが、江戸というさらに大規模な都市を計画する上での確固たる基礎となった 37

5-2. 水源の探求と武蔵野台地のポテンシャル

計画の成否を分ける最大の鍵は、良質で安定した水源の確保であった。大久保忠行らが見立てた結果、白羽の矢が立ったのが、江戸の西に広がる武蔵野台地に点在する湧水池群、とりわけ井の頭池、善福寺池、妙正寺池であった 24

この選定は、武蔵野台地の地質学的特性に対する深い理解に基づいていた。台地は、降雨を速やかに地下へ浸透させる性質を持つ関東ローム層と、その下に広がる透水性の高い砂礫層で構成されている 42 。台地に降った雨は、この天然の濾過装置を通りながら豊富な地下水となり、台地の縁(崖線)に達したところで、清冽な湧水として地表に現れる 44 。これらの湧水は、量が豊富で水質が良いだけでなく、江戸市中よりも標高が高い位置にあるため、自然流下による導水に極めて好都合であった。

さらに、これらの水源地は単なる水の供給源ではなかった。例えば井の頭池には古くから弁財天が祀られ、人々の信仰の対象となっていた 38 。計画者は、こうした既存の信仰や文化を巧みに利用し、水源の神聖性を強調することで、水利権をめぐる地域住民との摩擦を和らげ、事業への理解と協力を得やすくした可能性も考えられる。

5-3. 当代の土木技術

壮大な計画を実行に移すためには、それを支える具体的な技術が必要であった。

  • 測量技術 : 自然流下方式の生命線は、正確な勾配の設計である。当時はまだ西洋的な測量機器は導入されていなかったが、日本の伝統的な数学である和算の知識を応用した「規矩術(きくじゅつ)」や、ごく単純な道具を用いた測量法が確立されていた 47 。例えば、U字型の管に水を入れて水平を測る水準器や、夜間に遠方の提灯や線香の火を目印にして高低差を測る方法などが用いられたと考えられる 49 。後の玉川上水では、43kmの距離でわずか92mの高低差、すなわち10m進んで2cm下がるという驚異的な緩勾配が実現されており 50 、その基礎となる高度な測量技術が、この神田上水開削の時点でも存在していたことを示唆している。
  • 労働力と道具 : 大規模な普請は、徳川家の家臣団の指揮の下、動員された多くの人夫によって行われた。中には、「黒鍬(くろくわ)」と呼ばれる、築城や治水工事を専門とする土木技術者集団も存在し、彼らが現場で中核的な役割を担った可能性がある 51 。使用された道具は、土を掘り起こすための鍬や鋤、そして掘った土砂を二人一組で担いで運ぶ「畚(もっこ)」などが主であり、全てが人力に頼る過酷な労働であった 53 。この事業は、後の江戸城築城などで本格化する「天下普請」の先駆けとも言える、大規模な労働力の動員によって成し遂げられたのである 56

神田上水の計画は、単なる土木技術の誇示ではなかった。それは、先行事例から学び、地域の自然環境を深く洞察し、そのポテンシャルを最大限に引き出し、さらには地域の文化や信仰をも計画に織り込むという、家康の極めて高度で総合的な統治思想の現れであった。

第六章:礎を築く ― 初期工事の様相と技術的詳細

計画が策定されると、工事は驚くべき速さで実行に移された。その過程は、初期の小規模な給水路から、江戸全体を潤す巨大な水道システムへと発展していくダイナミックなものであった。そこには、地形や目的に応じて最適な工法を選択し、異分野の技術を応用して課題を克服する、当時の日本の土木技術の粋が集められていた。

6-1. 「小石川上水」から「神田上水」へ

神田上水の歴史は、その前身とされる「小石川上水」から始まる 12 。天正十八年(1590年)の秋に始まった最初期の工事は、まず徳川家康の居城である江戸城や、その近隣に屋敷を構える家臣団への給水を確保することを最優先の目的としていた 19 。この段階では、水源の一部を利用し、小石川周辺に水を引く比較的小規模なものであったと考えられている 27 。『校註天正日記』の10月4日の記述にある「藤五郎の引水」は、この小石川上水のことを指している可能性が高い 24

その後、江戸の人口が爆発的に増加するにつれて、この初期の水道だけでは供給が追いつかなくなった 17 。そこで、慶長年間(1596年~1615年)以降、より安定的で豊富な水源である井の頭池を主水源とする、本格的な拡張工事が行われた 24 。この拡張によって給水範囲は神田や日本橋といった町人地まで広がり、ここに江戸最初の基幹水道である「神田上水」が完成したのである。

6-2. 水路の構造

神田上水の水路は、場所によって様々な構造を使い分けていた。

  • 白堀(しらほり) : 井の頭池から関口の取水堰を経て、江戸市中に至るまでの郊外区間では、地面を素掘りしただけの開渠(かいきょ)、すなわち「白堀」が主であった 34 。これは最も単純で経済的な工法であったが、ゴミの混入や水質の悪化、水量の蒸発といった欠点も抱えていた。発掘調査では、水路の護岸として石垣が積まれていたことも確認されている 59
  • 石樋(いしどい)と木樋(もくひ) : 江戸市中に入ると、水路は衛生管理と土地の有効利用のために地下に埋設された暗渠(あんきょ)となった 59 。この地下水道管として用いられたのが「石樋」と「木樋」である。石樋は、基幹となる幹線水路など、特に重要な部分で使用された 12 。昭和から平成にかけて文京区本郷などで発掘された神田上水の石樋は、内部の高さが120cmから150cm、上部の幅が150cmにも達する巨大なもので、人間が中を歩けるほどの大きさであった 27 。石を組んで側壁とし、長さ1.8m、重さ400kg以上にもなる巨大な一枚岩の蓋石で覆われており、当時の土木技術の水準の高さを雄弁に物語っている 62 。一方、石樋から分岐して各屋敷や町内に配水するための支線には、より加工が容易な木樋が多用された 10 。木樋は、ヒノキやスギといった木材の角材の中心をノミでくり抜いて作られた 61

6-3. 先進技術の粋

神田上水の建設には、当時の最先端技術が惜しみなく投入されていた。

  • 漏水防止技術「槇肌(まきはだ)」 : 全長数十キロに及ぶ木樋の最大の課題は、継ぎ目からの漏水であった。この問題を解決するために用いられたのが、「槇肌」と呼ばれる画期的な技術である。これは、ヒノキやスギの樹皮を細かく裂いて紐状にしたものを、木樋の継ぎ目の隙間に固く詰め込むというものであった 62 。この槇肌が水を含むと繊維が膨張し、隙間を自然に密閉して漏水を防ぐ仕組みになっていた。この技術は、板と板を組み合わせて水密構造を作る、船大工の伝統的な技術を応用したものであり、異分野の知見を柔軟に取り入れる当時の技術者たちの発想の豊かさを示している 61
  • 立体交差「懸樋(かけひ)」 : 上水路が自然の河川や谷を横断する際には、さらに高度な技術が求められた。神田上水は、江戸城の外堀の役割も果たしていた神田川(当時は平川)を越えて、神田・日本橋方面へ給水する必要があった。そのために建設されたのが、木製の水道橋である「懸樋」である 33 。これは、文字通り空中に水の道を通す立体交差施設であり、当時の江戸の名所の一つとなった。現在、JR中央線の駅名や地名として残る「水道橋」は、まさしくこの懸樋に由来するものである 34
  • 維持管理システム「枡(ます)」 : 神田上水は、建設して終わりではなかった。長期にわたって安定的に機能させるため、維持管理の仕組みも巧みに設計されていた。水路の要所要所には、石や木で作られた「枡」と呼ばれる施設が設けられた 61 。この枡には、流れてきた水に含まれる土砂を沈殿させて上澄みだけを流す浄化機能や、水路の方向転換点としての役割、そして点検や修理の際の拠点となるメンテナンス機能など、複数の重要な役割が与えられていた。

これらの技術的詳細から明らかなように、神田上水は単なる土木工事の寄せ集めではなかった。それは、水源の選定から取水、導水、配水、そして長期的な維持管理に至るまで、一貫した思想に基づいて設計された、極めて高度なシステム・エンジニアリングの結晶だったのである。

第七章:世界的視座 ― 16世紀末における都市と水

神田上水が、日本の土木史において画期的な事業であったことは論を俟たない。しかし、その真の先進性を理解するためには、視点を世界に広げ、同時代における他国の主要都市の水事情と比較する必要がある。16世紀末から17世紀初頭にかけて、ロンドン、パリ、イスタンブールといった世界の主要都市が、いかなる水問題を抱え、それにどう対処していたかを見ることで、徳川家康が江戸で成し遂げた事業の歴史的意義は、より一層明確になる。

【表2】16~17世紀初頭における国内外の主要上水道比較

都市・上水道名

創設時期

政治的背景

水源

導水方式

主要管路材質

規模・特記事項

典拠資料

江戸(神田上水)

1590年~

徳川家康による新首都建設。

井の頭池等の湧水

自然流下

木樋、石樋

全長約23km。世界的に見ても極めて迅速な建設。

34

小田原(早川上水)

1545年以前

北条氏による城下町整備。

早川(河川)

自然流下

木樋、開渠

日本最古の本格的上水道。神田上水の先行モデル。

4

ロンドン(ニューリバー)

1609年~1613年

民間会社(New River Company)による事業。国王ジェームズ1世が出資。

リー川、湧水

自然流下

木管(ニレ材)

神田上水より約20年遅れて完成。全長約60km。

63

パリ

17世紀以降本格化

王権による都市整備。

セーヌ川、湧水

ポンプ揚水、自然流下

鉛管、鉄管

16世紀末は水運び人足が主流。大規模整備は19世紀のオスマン改造を待つ。

65

イスタンブール

古代ローマ時代~

オスマン帝国による既存インフラの修復・拡張。

郊外の泉、森林地帯

自然流下

石造水道橋、土管

ローマ・ビザンツ時代の水道橋や地下貯水池を継承。新規の大規模建設ではない。

67

  • 同時代のロンドン : 16世紀末のロンドンは、人口増加に伴う水質汚染に苦しんでいた。多くの市民は、生活排水で汚れつつあったテムズ川の水や、汚染の危険性が高い浅井戸の水に頼らざるを得なかった 63 。1582年、ロンドン橋のアーチに水車の動力を利用したポンプが設置され、市中への給水が始まったが、これはごく一部の地域に限られたものであった 63 。神田上水と同様に、郊外の清浄な水源から自然流下で水を引く大規模な上水道「ニューリバー」の建設が始まるのは1609年、完成は1613年であり、神田上水の着手から20年近く後のことである 64
  • 同時代のパリ : 16世紀末のパリの水事情はさらに深刻であった。セーヌ川の左岸は地下水位が深く、水の確保が困難であったため、都市の発展が阻害されていた 66 。多くの市民は、セーヌ川から直接水を汲むか、「水運び人足」と呼ばれる職業の者から高値で水を買う生活を強いられていた 65 。17世紀に入り、マリー・ド・メディシスの命でメディシス水道が建設されるが、パリ全体を潤すような大規模なインフラ整備は、19世紀のナポレオン3世とオスマン知事によるパリ大改造まで待たねばならなかった 72
  • オスマン帝国のイスタンブール : 古代ローマ、ビザンツ帝国時代に建設された壮大な水道橋や、バシリカ・シスタンに代表される巨大な地下貯水池という、世界でも類を見ない水道インフラの遺産を受け継いでいた 67 。オスマン帝国はこれらの既存インフラを巧みに修復・拡張して利用しており、都市の水供給システムという点では先進的であった 68 。しかし、これはあくまで歴史的遺産の維持管理と再利用であり、16世紀末の時点で、神田上水のように全くの未開地にゼロから巨大な水道システムを構想し、建設したわけではなかった。

この比較分析から、神田上水が持つ世界史的な特異性と先進性が浮かび上がってくる。すなわち、神田上水は、①国家の最高権力者(徳川家康)の強力なリーダーシップの下、②新首都建設という明確な国家戦略の一環として、③全くの未開の地に、④自然の力を利用したサステナブルな技術(自然流下方式)を用いて、⑤極めて短期間のうちに計画・実行された、という点で際立っている。

戦国時代の終焉という、日本の特殊な歴史的状況が、強力な権力を為政者に集中させ、白紙の状態から理想的な都市を建設するという、世界的にも稀な機会を生み出した。その結果として、同時代の世界のどの都市にも先駆けて、近代的とも言える計画的な都市インフラが江戸に誕生したのである。神田上水は、日本の近世化が、世界のどの地域にも劣らないダイナミズムをもって始まったことを証明する、世界史的にも価値ある遺産であると言えるだろう。

終章:江戸、百万都市への序曲

神田上水の清流が江戸市中に流れ込み始めたとき、それは単に人々の喉の渇きを癒しただけではなかった。この水は、江戸という都市の運命を根底から変え、後の世界有数の百万都市へと発展するための、揺るぎない礎を築いたのである。徳川家康によって放たれたこの一手は、彼の深遠な戦略的意図通り、江戸の未来を切り拓く序曲となった。

8-1. 神田上水がもたらした変革

神田上水の完成は、江戸の社会に多岐にわたる、そして劇的な変革をもたらした。

  • 衛生環境の劇的改善 : 清潔で安全な水が安定的に供給されるようになったことは、江戸市民の健康状態を飛躍的に向上させた。それまで人々を苦しめていた、汚染された井戸水などを原因とする水因性の伝染病のリスクは大幅に低減した。これにより、特に死亡率の高かった乳幼児の生存率が向上し、人口増加の基盤が築かれた 77
  • 防火能力の向上 : 「火事と喧嘩は江戸の華」と揶揄されるほど、木造家屋が密集する江戸は常に大火の危険に晒されていた。神田上水は、貴重な防火用水としても絶大な効果を発揮した。上水から供給される水は、町々の辻に置かれた「天水桶」に常に満たされ、火災発生時の初期消火活動に大きく貢献した 56 。これは、都市の安全保障に直結する重要な機能であった。
  • 人口爆発と都市発展の基盤 : 安全な飲料水の確保なくして、江戸が18世紀初頭に人口百万人を超える世界最大級の都市へと発展することは不可能であった 17 。神田上水、そして後に続く玉川上水という優れたインフラがあったからこそ、参勤交代で全国から集まる武士、そして彼らを支える膨大な数の町人や職人が、この地に住み、活動することができたのである。
  • 新たな経済と文化の創出 : 上水は、単なる生活用水にとどまらなかった。酒や醤油の醸造、染物、豆腐の製造といった、良質な水を大量に必要とする様々な産業が江戸で花開くための基盤を提供した。また、上水井戸から遠い家々に水を運んで売る「水売り」という新たな商売も生まれ、江戸の経済活動に多様性をもたらした 80 。清らかな水は、江戸の食文化や生活文化そのものを豊かにしたのである。

8-2. 戦略的布石としての結論

本報告書で詳述してきたように、天正十八年(1590年)の神田上水開削は、単なるインフラ整備事業の枠を遥かに超える、深遠な意義を持つ歴史的事件であった。それは、豊臣政権下で最大のライバルと目され、関東という未知の土地へ移封された徳川家康が、自らの統治能力と未来の国家構想を天下に示した、高度に戦略的な一手であった。

家康は、江戸の最大の弱点であった「水」の問題を、着任後ただちに、そして見事に解決してみせることで、武力だけでなく、民を治め、国を豊かにする「仁政」を行う能力があることを証明した。この一手は、旧北条領の民の心を掴み、徳川の治世に対する期待と信頼を醸成した。そして、来るべき天下分け目の戦いを経て、徳川家が名実ともに日本の支配者となり、江戸が二百六十余年にわたる泰平の世の中心となるための、最も重要かつ不可欠な礎を築いたのである。

神田上水の清らかな流れは、江戸の民の生命を育み、都市の繁栄を支え、そして徳川幕府による長期安定政権という、壮大な歴史の大河へと注ぎ込む、最初の、そして最も力強い源泉であった。

引用文献

  1. 小田原征伐〜秀吉が天下統一!北条家を下した最後の大戦をわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/244/
  2. 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
  3. 秀吉の小田原攻めで布陣した家康陣地跡 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/8495
  4. 小田原用水【小田原城街歩きガイド】 https://www.scn-net.ne.jp/~yanya/odawarayousui.html
  5. 郷土士の歴史探究記事 その4 http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2019/06/post-e47dd7.html
  6. 格下の豊臣秀吉に「臣従」へ 徳川家康はどう耐えたか - Wedge ONLINE https://wedge.ismedia.jp/articles/-/31114?page=4&layout=b
  7. 「家康、負けて得する」江戸転封で旧来制度を打破 - 郷土の三英傑に学ぶ https://jp.fujitsu.com/family/sibu/toukai/sanei/sanei-16.html
  8. 家康が江戸を選んだのは偶然or必然?――脅威は機会に変えられる | GLOBIS学び放題×知見録 https://globis.jp/article/3987/
  9. 【徳川家康の江戸入り】 - ADEAC https://adeac.jp/funabashi-digital-museum/text-list/d100080/ht000820
  10. 徳川家康が江戸を本拠地に選んだ理由とは? | Through the LENS by TOPCON(スルー・ザ・レンズ) https://www.topcon.co.jp/media/infrastructure/tokugawa_ieyasu/
  11. 江戸 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8
  12. 神田上水遺構(本郷) - 歴史探訪と温泉 - FC2 https://hotyuweb.blog.fc2.com/blog-entry-1539.html
  13. 東京の原景観を探る ~ 現代に蘇る江戸絵図の世界* Exploring Original Landscape of Tokyo - 土木学会 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00039/200911_no40/pdf/i1.pdf
  14. 河川からみた埼玉平野の開発 古代から家康入国まで http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1991/11-0073.pdf
  15. 17世紀の大都市計画―江戸のまちづくり | 東京 日本橋 | 日本文化の今と昔を体験できるまち https://nihombashi-tokyo.com/jp/history/310.html
  16. 【神田上水の歴史】江戸の住人の喉を潤してきた神田上水の今昔 - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/20181206tokyo-chiyodaku-8/
  17. まとめ【現代に残る神田上水】江戸時代に設けられた上水道の歴史に迫る - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/20181206tokyo-chiyodaku-9/
  18. どうする飲料水!?神田上水、玉川上水、本所上水……江戸の暮らしを支えた「江戸の六上水」 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/194910
  19. 江戸の町づくり~神田上水の整備 - 日本の歴史 解説音声つき https://history.kaisetsuvoice.com/Edo_machizukuri1.html
  20. 大久保藤五郎と三河餅 | 歴史上の人物と和菓子 | 菓子資料室 虎屋文庫 ... https://www.toraya-group.co.jp/toraya/bunko/historical-personage/093/
  21. vol.21 家康の都市デザイン - Water Works 水の働き http://www.waterworks.jp/vol21/page1.html
  22. 徳川氏の関東入国に関する一考察 https://hosei.ecats-library.jp/da/repository/00011211/shigaku_47_murakami.pdf
  23. 徳川家康の関東転封をめぐる諸問題 https://hakuoh.repo.nii.ac.jp/record/1174/files/KJ00002448605.pdf
  24. 神田上水 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0%E4%B8%8A%E6%B0%B4
  25. 家康は8月1日以前に江戸へ入っていたのか?: 風なうらみそ ... http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-a5ab9b.html
  26. 江戸時代の歴史 - 大丸有INDEX https://tokyo-omy.jp/edo/
  27. 大久保主水忠行と徳川家康と嘉定菓子 - 暁の空 https://ieyasu1543.blog.fc2.com/blog-entry-32.html
  28. ”神田上水の開墾者/大久保主水”を祀る「本山/瑞輪寺」 https://ameblo.jp/pandausagi37/entry-12596058967.html
  29. 家臣の家康への皮肉が書かれた「三河物語」の中身 「主君を裏切る者が出世している」と憤慨 https://toyokeizai.net/articles/-/648451?display=b
  30. 【どうする家康・家臣列伝3】 金の揚羽蝶を背負った「情」の猛者・大久保七郎右衛門 - note https://note.com/takamushi1966/n/n8c05b2d21c98
  31. 大久保忠行 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%BF%A0%E8%A1%8C
  32. 小田原用水取水口 - おだわらデジタルミュージアム https://odawara-digital-museum.jp/point/detail/584/
  33. 3 江戸上水の移り変わり https://www.suidorekishi.jp/pdf/s_history_3.pdf
  34. 神田上水 https://joe.ash.jp/yousui/kanda/index.htm
  35. 小田原用水(早川上水)について - 十字町商店会 https://jyujimachi.com/archives/101
  36. 大御所の町・駿府城下町の誕生 - 駿府城下町の町割(都市計画) https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/04_07.htm
  37. 徳川家康と駿府 - 【公式】駿府城公園 https://sumpu-castlepark.com/ieyasu/
  38. 『江戸名所図会 4巻』より「井頭池 弁才天社(いのかしらのいけべんざいてんのやしろ)」 https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5694
  39. 神田上水|あか井の - 井の頭恩賜公園ボランティアガイド https://www.akaino.net/blog/article/20220601_019/
  40. 三鷹の歴史「江戸時代 ・ 井の頭池 ・ 鷹場」 https://www.city.mitaka.lg.jp/i/c_service/011/011728.html
  41. 善福寺公園|公園へ行こう! - 東京都公園協会 https://www.tokyo-park.or.jp/park/zenpukuji/index.html
  42. 3.湧水環境の形成メカニズムの把握 - 国立市 https://www.city.kunitachi.tokyo.jp/material/files/group/46/chikasui3.pdf
  43. 崖線湧水群と河川の水環境 - AgriKnowledge https://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010731297.pdf
  44. 武蔵野台地における水環境と社会生活との関連についての事例 https://fukadaken.or.jp/data_pdf/19_105.pdf
  45. 井の頭弁財天(大盛寺) <弁財天 - 武蔵野市観光機構 https://musashino-kanko.com/area/kichijouji/inokashira-benzaiten/
  46. 名所江戸百景 井の頭の池弁天の社(めいしょえどひゃっけい いのがしらのいけべんてんのやしろ) https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5622
  47. 大工規矩術をわかりやすく解説【勾殳玄とは】屋根勾配の角度計算 https://daiku-manual.com/ken/2020/07/04/kikuzyutu/
  48. 指金に裏目が登場した12世紀頃にはあったものと考えられるが、和算の影響を受けながら大工技術として完成させたのは、江戸時代も後半のことである。1788年には、「溝口流規矩術全書」と呼ばれる「方圓順度(ほうえんじゅんど)」が - monotsukuri.net http://monotsukuri.net/digital/digi00/digi00.html
  49. 玉川上水(東京都羽村市〜新宿区) - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000099133.pdf
  50. 日本の土木技術は、江戸時代、世界最高水準だった ~人間工学に基づいた、安心安全な歩道とは? - きたざわ潤子 - 東京・生活者ネットワーク https://kitazawa.seikatsusha.me/blog/2019/03/27/9110/
  51. 黒鍬 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%8D%AC
  52. 農業土木技術者「黒鍬」とは何者か? 66号 地域で受け継ぐ水遺産 - ミツカン 水の文化センター https://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no66/06.html
  53. 畚(もっこ) http://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/chiebukuro/search/mame/No_174.html
  54. 黒鍬・ツルハシ・土方道具 http://www.kamamat.org/dantai/roumusyatosei/tosei-25gou/25-13.pdf
  55. 道具 http://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/Monosiri/souko/noukougu.html
  56. 第1章 明暦期にいたる歴史的背景 https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1657_meireki_edotaika/pdf/1657-meireki-edoTAIKA_03_chap1.pdf
  57. 徳川家康の天下普請/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/tokyo-history/tokugawaieyasu-tenkabushin/
  58. どうする飲み水、 家康から今につながる東京水道 - フジクリーン工業株式会社 https://www.fujiclean.co.jp/water/area/pdf/201/no201_all.pdf
  59. 神田上水の流れをゆく - 【公式】ま・めいぞん小石川 https://ma-maison.sakura.ne.jp/hill/rekishi_sanpo/sanpo_kandajosui.html
  60. 【すごい博物館076】東京都水道歴史館:江戸時代の先進的な水道システムに感激! - note https://note.com/monsieurcub/n/nd548cd25a3a9
  61. 「木で作られた水道管 ~江戸時代のインフラを支えた上水道のかたち~」実施 https://www.mizu.gr.jp/news/221226_report.html
  62. 上水道 - 東京土木施工管理技士会 https://www.to-gisi.com/magazine/64/doc03.pdf
  63. London water supply infrastructure - Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/London_water_supply_infrastructure
  64. Water - The Diary of Samuel Pepys https://www.pepysdiary.com/encyclopedia/358/
  65. Constructing the Water Supply Network in France: The Era of Beginnings - pionniers.veolia.com https://www.pionniers.veolia.com/en/recit-1/
  66. Fountains in Paris - Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Fountains_in_Paris
  67. Istanbul: A City of Water - NIT Blog https://nit-istanbul.net/index.php/2025/03/14/istanbul-a-city-of-water/
  68. Fountains in Ottoman İstanbul https://www.ktb.gov.tr/EN-117786/fountains-in-ottoman-istanbul.html
  69. The Thames - An Historier's Miscellany https://anhistoriersmiscellany.com/2024/05/10/the-thames/
  70. Water-related Infrastructure in Medieval London - WaterHistory.org https://www.waterhistory.org/histories/london/
  71. A brief history of running water - Museum of the Home https://museumofthehome.org.uk/a-brief-history-of-running-water/
  72. Paris sewers - Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Paris_sewers
  73. The history of water in Paris | Paris water - Eau de Paris https://www.eaudeparis.fr/en/the-history-of-paris-water
  74. Basilica Cistern History | Byzantine Origins & Roman Influence https://www.basilicacisterntickets.com/basilica-cistern-history/
  75. Aqueducts and the Water Supply System of Constantinople - The Byzantine Legacy https://www.thebyzantinelegacy.com/aqueducts
  76. Mapping Water Shortage in Early Modern Istanbul | Harvard Mellon Urban Initiative https://mellonurbanism.harvard.edu/mapping-and-contesting-early-modern-hydropolis-water-shortage-istanbul-0
  77. 1 経済成長とインフラ整備の歴史 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h27/hakusho/h28/html/n1121000.html
  78. 天水桶里帰りプロジェクト 江戸の時代(とき)から受け継がれる天水桶、生まれ故郷へ https://www.skywater.jp/archives/2503
  79. 江戸三大大火 - 東京消防庁 https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/learning/elib/times/times02.html
  80. 井戸が一般に広まったのは、江戸中期から - 井戸|水の話|フジクリーン工業株式会社 https://www.fujiclean.co.jp/fujiclean/story/vol09/part102.html
  81. 江戸の水道と井戸|飲用水売り・冷や水売り|日本食文化の醤油を知る http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-8b.html